海を調べる
蒲生俊敬(北海道大学大学院理学研究科)
海洋の調査は、陸上での調査に比べるとたいへん制約が多い.陸上なら、余程の辺境の地でもないかぎり、思い立ったその日にリュックひとつ担いで調査に行くこともできる.しかし海はそうはいかない.いくら泳ぎが得意でも,魚のように1日中泳ぎながら自由に行きたい場所へ行けるものではない。スキューバダイビングをマスターして海に飛び込んだとしても,生身の体で潜れるのはせいぜい深さ30mくらい.潜るにつれて水圧がじわじわと我々を潰しにかかる.比高1000mの山に登るのはいとも簡単だが,深さ1000mの海の底では,100気圧というたいへんな水圧がかかる.
そこでとりあえず観測船に乗って海を調べることになる。船酔いの怖い人は、ここで二の足を踏むかもしれない.船酔いするかどうかは人それぞれの体質による。大揺れする船の上でもまったく船酔いしない幸せな人もいる。観測船はなるべく揺れないように作られている。たとえ少し船酔いしても,2〜3日たてば体が順応してくるので,大げさに心配することはない。
さて船は目的地に到着した。水深は200m。船の上から海底の様子をのぞいてみよう。海面に向かって目を凝らしてみる。だが、海水の透明度にもよるが、肉眼で見えるのはせいぜい20m先までだ.太陽光は海のほんの上っ面までしか入射できない。水は光をはじめとする電磁波をたやすく吸収するためだ.一方、海の平均深度は200mどころか3800mもある.富士山でさえ,すっぽりと隠れてしまう深さである.
電磁波を阻む海だが,音波は大変通しやすい性質を持っている.空気中の音速は毎秒340m程度、しかし海中では毎秒1500m位のスピードで音が伝わる。船底から海底に向かって音波を発射し,海底で反射した音が何秒後に戻ってくるか測定すれば海底までの距離(水深)がわかる.航走する観測船から音波を束にして多方向に発射し、自動的に海底の地形図を描くことも,今や日常的に行われている.
海の深さや地形の起伏が詳しくわかると、次には、この暗黒の海の中にいったい何があるのか、何が起こっているのかを知りたくなる。しかし慌てて海に飛び込んではいけない。潜水病にかかる危険は避け,船の上から遠隔操作で海の中を調査しよう.船の上から海の中に丈夫なワイヤーロープを垂らし,ロープの先にいろいろな観測機器(もちろん水圧でつぶれるようなものは駄目)を吊り下げるのだ。ロープの先に採水器をつければ海水が採取できる.網を付ければ生物試料が採れる.丈夫な金属パイプを海底面に突き刺せば海底の堆積物が回収できる.
海洋を観測する技術は、海洋の研究の基盤を支えるもので,研究分野ごとに創意工夫が凝らされている.海洋を詳しく調べたいという欲求が新しい技術の進歩を促し,新しい技術が開発されるとさらに新しいことが知りたくなる。私の専門である化学分野においても,海水の化学的な調査は,観測船や潜水船を利用して様々な深さの海水試料を採取し,それらを化学分析することによって進められている。化学成分によっては濃度が非常に低いものがある。しかし化学分析技術の進歩によって、コップ一杯程度のわずかな海水試料からでも、ナノモルあるいはそれ以下のごく微量の化学成分濃度が精度よく測定できるようになった。採水器の内面からごくわずかでも同じ化学成分が溶けだせば正しいデータは得られない。そこで採水器内面からの「汚染」を極力小さくするよう、新しい採水器が次々と開発され活用されている。今や地球上に存在するほとんどの元素について、海洋中の濃度分布が明らかになってきた。濃度分布が明らかになれば、その元素が海洋内や地球上をどのように動き、循環しているのかがわかってくる。
ところで、採水器による海水採取法を確立し、海水の化学分析技術を限りなく向上させていけばそれで十分かというと,決してそうではない。海のなかには採水観測だけでは検知できない化学現象がたくさんあり,いろいろな観測手法が実用化されている。ここでは,それらの中から現場化学分析という新しい観測技術をとりあげてみたい。
海の表面や海底付近では、化学成分の濃度分布が時間とともに変化する場合がある。わかりやすい例として、海底に火山活動があり、マグマによって加熱された高温の海水(熱水)が海底からわきだしている場合を考えよう。熱水には、通常の海水にはほとんど含まれていないメタンガスや、鉄・マンガンといった重金属元素が豊富に溶解している。そこで海底付近では、熱水の混ざり込みに応じてこれらの化学成分濃度を通常よりも多く含む海水が漂っている。これを熱水プルームと呼ぶ。ちょうど工場の煙突から噴きだした煙が、まわりの大気によって希釈されながら漂っているのと似ている。
工場の煙突の煙が時間とともにその形を変えるように、熱水プルームも時間とともに変化する。熱水の温度やわきだしの強さ、海底付近の海水の流れの強さや向きなど、さまざまな要因が熱水プルームの形状を複雑に変化させる。このように熱水プルームに含まれる化学成分の濃度分布は刻々変化していくが,これは先に述べたような採水器による悠長な観測ではとても追従することができない。
また採水器の空間分解能にも限界がある。採水器は一般に長さ50〜100cm程度の細長い円筒容器である。採水器で採取した試料は、これだけの長さの範囲の海水の平均であり、空間スケールがそれ以下,例えば10cmスケールの微細構造は決して検出できない。しかし熱水プルームのような局所的な現象では、このくらいの空間スケールの変動がしばしば問題となる。
このように時間的にも空間的にも非定常的な現象を相手にするにはどうしたらいいだろうか? 海水を採取して分析するという固定観念を捨て、いっそ化学分析計を海水中に直接持ち込んだらどうか、という発想からブレークスルーがもたらされた.海水中で作動する分析計が自動的に海水を吸い込んではその場で化学分析を完了するのである.時間のかかる採水を繰り返すより,はるかに短時間のうちに詳細なデータが取得できる.しかも採水器からの汚染という問題に悩むこともない。
深海における現場化学分析装置の開発は、1980年代にアメリカが先鞭をつけ,我が国で研究がスタートしたのは1988年頃である.東京大学海洋研究所を中心に京都大学理学部、神戸商船大学の協力を得て仕様を検討し,紀本電子工業がその製作にあたった。最初はまさに手探り状態だったが、約2年後に試作機が完成した。ペリスタルティックポンプ(チューブをしごいて送液するポンプ)で絶えず海水試料を吸い込み,ケイ素と硫化水素を同時に自動分析する装置で,水深2000mまで沈めることができた.海水中のケイ素は重要な栄養塩のひとつであり,ケイ素も硫化水素も熱水中に高濃度で含まれていること,比色分析で容易に検出できるなどの理由で,これら2成分に注目したのである。
さっそく海中で使用することにした。海洋研究所の観測船・淡青丸で相模湾の水深1000mの海域に行き、船の上からワイヤーに吊るした機器を海のなかに下ろすのである。冬のさなか2月のことで、冷たく強い季節風に海面は波立っていた。現場海域に向かう淡青丸の動揺は大きく、研究者は次々と船酔いに倒れた。乗船グループの中には、装置の直接の製作にあたった紀本電子工業の紀本英志氏の顔もあった。観測船が初めての紀本氏は船酔いに苦しみながら、装置の調整をしてはベッドに倒れこみ、少し回復するとまた実験室で調整を続けた。東大海洋研から参加した堤眞氏の頑張りも大きかった。日本で初めての現場化学分析装置は、船と相模湾の海底直上層との間を3回往復し、ケイ素の詳細な濃度分布を描きだすのに成功した。
こうして深海の現場化学分析が実現したものの,我々はまだ不満だった.我々の装置はほとんどがアメリカの2番煎じに過ぎなかったからである.何とかして他にはない装置を開発したかった.ちょうどその頃,京都大学大学院で修士課程を終えた岡村慶君が,私の研究室に博士課程大学院生としてやって来た.岡村君は,京都大学の中山英一郎博士のもとで化学発光法という新しい高感度化学分析法に習熟していた.そしてその技術を現場化学分析に応用したいという野心を抱いていた.
再び紀本電子工業の協力を得て,新たな装置の開発が始まった.前回の経験が大いに役立った.検出法に化学発光法を取り入れたことによって,もともと海水中に極く微量しか含まれていないマンガンと鉄が現場分析できるコンパクトな機器が完成した.アメリカでも熱水の調査のためにマンガンと鉄の現場分析計を製作していたが,検出には比色分析法を用いていたため,我々の装置の方が分析感度の点ではるかに優れていた.
この装置にはGAMOSという名前がついた.10年来の共同研究者たちが,Geochemical Anomalies MOnitoring System(地球化学的異常をモニターする装置)の頭文字をとり,私の名前に似せた愛称をつけたのである.岡村君はGAMOSを担ぎ,1995年マヌス海盆,1996年沖縄トラフ,1997年東太平洋海膨,1998年マリアナトラフ,2000年アデン湾,2001年伊豆小笠原水曜海山,2002年インド洋中央海嶺というように,世界中の海底熱水活動域の調査を精力的に続けている.また2000年には,東京大学生産技術研究所の浦教授の開発した自律型水中ロボット(AUV)・アールワンにもGAMOSを初めて搭載し,相模湾の海底火山(手石海丘)の調査が行われた.
さらに多くの化学成分の現場測定をめざして,GAMOSの改良が続けられている.また長時間の連続観測にも対応できるよう,計測時間の延長が計られている.海底地震計と同じように,多数のGAMOSを深海底に設置する日は来るだろうか.海底地震計が地球に押し当てた聴診器だとすれば,現場化学分析は地球の血液検査である.地球環境のモニタリングや地震活動の解明のために,今後大いに役立つことと期待している.(アエラムック「工学がわかる」,朝日新聞社,14-17(2001)より)
(写真の説明)現場自動分析装置GAMOS(矢印)を搭載した採水装置(観測船・白鳳丸KH-00-5航海にてアデン湾の海底熱水活動を調査)