この後すぐ隣接する登別市鷲別町に引っ越した(らしい). 当時鷲別は日本有数のSL機関区であり,鷲別-東室蘭間には広大な貨物ヤードがあった. 幼少時,家にいないので心配して親が捜すと近所の踏み切りか, 鷲別機関区の脇でSLを眺めていたそうだ. 本人には当時の記憶がないが, もの心がついた後もヤードでSL(ゼブラマーク付き9600形式であったと思う) が貨物車交換をする様子を見るのが大好きだった. 鉄道好きなのはDNAの所産なのであろう.祖父は旧国鉄で働いており, それゆえ父は夜中も貨物列車が揺さぶる線路脇の官舎で幼少期過ごしたということだ.
登別と聞くと温泉をイメージするかもしれない.しかし登別市は東西に大きく, 温泉街はどちらかというと東端に位置し,鷲別は西端,室蘭市との境界にあたる. 鷲別は文化的には産業都市室蘭の一部であった.
ちなみに当時から温泉好きだったのかというとそうではない. 時代が時代でマイカーなんかなかったし,温泉に行ける機会はほとんどなかった. もし行けたとしたら,味をしめるのにそう時間はかからなかったに違いない.
当時親戚の大多数は室蘭市におり, またいわゆる「街に行くためによそ行きの格好をする」のは, 室蘭中心街までバスか汽車(国鉄)で行くことを意味していた. この後鉄鋼業が斜陽化し,室蘭旧市街もかつての賑わいが無くなってしまったのは寂しい.
ちなみに室蘭の青少年科学館はプラネタリウム,ジオラマ,各種の凝った実験展示を 用意しており,当時同種の施設としては北海道唯一,札幌にもなかった. 当時の室蘭はある意味で札幌よりもずっとリッチだったのだ. 私がせがんだこともあり,いまは亡き祖父(母方)に連れられて何度も訪れたことが思い出される. 祖父は日鋼の技術者だった. 博識で,小学校低学年の私に「光年」の概念を教えてくれたりした.
父の転勤に伴い転校. いまから振りかえると,浦河での体験が地球科学者を志す最初の大きなきっかけになった. わずか1年半程度しか過ごさなかったが,小学校時代を通じて最良の時だった. 3年時の担任の西川先生がなかなか良い先生で, 教科書以外のことでもノートに記して報告すればなんでも褒めてくれた. 浦河は田舎,海・山・川の自然に恵まれた環境にある.良い友人にも恵まれた.
あるとき遊び場の山の一つで貝化石を見つけ,すっかりその虜になった. さっそく先生に報告したがそんな場所は知らないと言う. そこは土地造成のための切崩しの露頭だった気がする. その後札幌に転校して,夏休みに遊び行ったときまでは そのままの状態が保たれていた.時代がのんびりしていたのであろう. この路頭ではほんとに面白いように化石が取れ,雪の降らない時期には金槌とバケツを持って毎週のように通った. からす貝に似た姿形のものが多かったが,なかには巻貝や管形のものもあった.
浦河のある日高地方は,競走馬だけでなく実はアンモナイト化石の産地として知られている. 父の勤務先の事務所に遊びに行くと, 土木工事にともなって採取されたたくさんのアンモナイトが磨かれて置物として飾られていた. 母が買い与えてくれた「化石のひみつ」(学研)でも アンモナイトはヒーロー扱いであった(ちなみに現在はアノマロカリスが子供のヒーローらしい). 当時私も自分の発見した化石のでる崖で是非アンモナイトを見つけようと密かに張り切っていたが, それが下位の地層にあるものとは気がついておらず, ひたすら崖の上の方を探してしまっていた. なんとかは高いところに上りたがるとは良く言ったものである. 転校後に再訪の機会があって友人と化石探しに行った. 友人は崖の最下部を探せばアンモナイトが取れることを教えてくれ,嬉しさの反面, 化石の出る路頭の第一発見者(少なくとも堺町小学校では)の自分が 見つけられなかったほのかな悔しさを感じた思い出がある.
実は,あの化石露頭,今も残っているのか気になっている. アンモナイトも産し,新生代化石(たぶん)も産しているところから見て, もしかすると新生代中生代(KT)境界の地層がそこにあったのではないか. 雪の無い季節に時間がとれたら是非訪れて調査してみたい場所である.
小学校時代の最後は札幌. この位の年代にありがちな仲良しグループ間の対立があったりなど, 子供ながら葛藤の多い時期だった. 浦河に比べ自然の希薄な札幌では,室内遊びが多かった. TVゲームが登場した時期でもあったが値がはるし, ブロック崩しとか単純なゲームが多かったので隆盛を誇るまでは至っていなかった. 売ってるゲームなどで遊ぶよりも,自分で展開図を引いてペーパー模型を作ったり, 紙相撲の星取り表を作ったり,甲子園の高校野球の記録集を作ったりして遊んでいた.
中学校では地学部での活動が印象深い.顧問の奥田先生は3年上の兄の担任でもあった. 体育会系性格の兄とはいまいちしっくり行っていなかったのだが, なぜか私とは意気投合し,いろいろな世界を教えてくれた. 人間の心理は理屈ではないということなのかもしれない. ラジオの気象通報を聞いて天気図を毎日書き,流星群を観察し, 岩石薄片を研磨作成して偏光顕微鏡で観察し,野外地質調査をし, 札幌市主催の中学生理科研究発表会をやった. いまから思えばこれが「学会デビュー」である. なんでもかんでも興味を示してしまうのは,この時の経験が大きいような気がする.
当時のテレビ番組「パノラマ太陽系(NHK)」と「コスモス(テレ朝系?)」は いまなお新鮮な印象が残っている. 一から無量大数まで日本の数詞を今でもそらんじることができるのは, コスモスのCMスポンサーIBMの宣伝が繰り返されたせいである. われわれの世代はこれらの番組と大学の学部時代に放映された「地球大紀行(NHK)」に 感化された連中が多い. その後「パノラマ太陽系」の松井先生の弟子になろうとは当時思ってもみなかった.
高校時代は無所属,いわゆる帰宅部員であった. 最初地学部に入ろうと思ったが,今で言う「おたく風情」の長髪+黒ぶち眼鏡の 先輩を見て気が引けてしまい, かといって他の部に入る気もしなかった. 球技大会とか学校祭とかのクラス活動は結構楽しかった.
南高は自由な校風なこともあり, 着こなしや趣味に加え,考え方までやたらと大人びて見える同級生がいて, 内心一種のあせりを感じさせられたものである. 大学4年の時に教育実習に行ったが,今度はどいつもこいつも子供に見え, なぜかほっとさせられた記憶がある. 今は高校野球でも鳴らしているが,当時は本当に弱かった. 隔世の感があるが,いまでは円山球場(うっかりすると甲子園)に 応援に行けるのが嬉しい.
東大受験を決心したのは3年の夏ごろだった. それまでは母の希望もあり,道内の医科大受験でもよいかと考えていた. ちょっと無理して東大に決めたのは,物理,地球物理, 天文のどれもできそうというのが最大の理由だった. 学力的にははっきり言って落ちる可能性の方が高かった.
インターネットなどのない当時では高校生が入手できる情報は乏しく, 上記分野は東大が良いらしいという噂が頼り. その前に気象大学校に運良く合格していたので, 落ちたらそちらでもよいかと気楽になれていたのが合格できた理由かも知れない. 結果的に良い選択だったと思う.
東大駒場では駒場にしかない化学部で科学三昧の日々を過ごした. なぜか地学系物理系サークルには入る気が起こらなかった. どうせ本郷に進学したら地学はたっぷりできるのだと無意識に思っていたのかも知れない. なぜ化学部だったのかというと, 量子化学の輪講と実験ができるというのが大きかった. 実験を売りにしている自然科学系サークルは他になく, また「量子」は勉強してみたい憧れの学問だったのだ.
化学部では夏休みに北海道の地方の中学校へ実験指導に行ったり, 駒場祭に向けて研究プロジェクトをやったりした. 講義も真面目にでたけれど (というのは必死に勉強しなくては田舎出身の自分にはついていけないだろうという 脅迫観念があったのと, 学問漬になってみたいという,一種の憧れがあった) 化学部での輪講や実験の方が背伸び感覚を実感できてよかった. 対象は量子化学,有機合成,不可逆熱力学,非線型共同現象,分子遺伝学などい ろいろ. 正直当時の理解はあやしい物だったが…. 仲間は議論好きで,下宿で酒を飲みながら高尚なテーマから男女関係の話まで, ああでもないこうでもないと語り合ったのが懐かしい.
根津の東大理学部3号館はたいへん居心地の良い場所だった. 当時はまだ一学年の定員が20名で,仲間意識が強かったし, 先輩後輩とのつながりも密だった. 数人でつるんでことある度に学生控え室で安上がりの酒宴を していたせいで四天王ならぬ酒天王と呼ばれたりもした. ここで出会った人々の多くと,いまも付き合いが続いている.
カリキュラムは学部3年生までは物理学科とほぼ同じで, 地球科学関係の講義がほとんどないのが不思議に思えたほどだったが, それでも結構おもしろかった.物理自体が好きだったせいらしい. しかも一部の地物生は物理トップクラスよりもできた. ちなみにこれは東大ならではの伝統だったようだ (京大理学部出身で東大地物出身の嫁さんをもらった友人の言). あとから振りかえると, 結構ハイレベルな物理を一通り学習できたのは良い財産になっている.
4年では卒論の代わりに半年間づつ「演習」というのを行った. 前期には20mくらいの水路水槽を使ってソリトン波の伝播衝突実験をやったが, このネタで長崎の海洋学会に行かせてもらえた.
ちなみにいま同じ職場の林教授に出会ったのはこのころである. しかも学生レベルから見た学科運営にまつわる話 (学科構成員名簿を作るという,学部学生伝統プロジェクト) で遭遇したのであった. 当時は「なんとなくこわーい先生」というイメージしかなかったが….
恩師,松井先生との出会いは大学院進学が決まった学部4年の秋だった. 進学先は地球惑星内部物理学研究室と決めていたが, そこでどの先生について具体的に何をするかは正直はっきり決めていなかった. ある日,それまでぜんぜん面識のなかった松井先生につかまって, タイタンの熱史研究の重要性を諄諄と説明され, それは面白そうということで修論のテーマまで決まった.
当時,研究室間,世代間の垣根があまりなく, 自主ゼミあるいは研究室ゼミでいろいろな知識を獲得できたのは良かった. 学部から修士にかけては基礎物理関連の輪読セミナーをずいぶんやった. 「ランダウ流体力学」「ディラック量子力学」「プリゴジン化学熱力学」 「ライヒェル統計物理学」などが記憶に残っている. これらは大抵夕食後にやっており,眠いこともあったが, 教科書の行間をどう読むかで激論になったこともたびたびだった.
「Galactic Dynamics」やチャンドラセカールの 「Hydrodynamic and Magneto-hydrodynamic Instability」 とかは「惑星理論グループ」主催のセミナーであった. 内容が高度だったが, 「これくらい分からないようじゃねえ」という雰囲気に対抗心をくすぐられ, 「教科書にあるこの設問ではいかに考えても答えが出ないではないか」という, 今から思うといささか幼稚な理屈を必死に考えてぶつけたりした. 先輩からしてみれば生意気な下級生にみえたことであろう. しかしこうしたことをやっていたおかげで, いつのまにか研究室の枠を越えて人脈を得ることができ, いまでも太陽系形成理論の最先端を追跡できているのは幸せなことと 言える.
博士論文のテーマは「揮発性物質セミナー」が原点となって生まれた. このセミナーの火付け役は名大から戻ってきた阿部豊助教授で, セミナー参加者に調べさせて研究テーマを練るというスタイルはこのころに覚えた.
修士博士時代は,スキーと野球を良くやったのが懐かしい. D1の終わりには松井先生のコネで東京ドームでも試合をした. スコアボードがホワイトボードだったのがご愛嬌.
学振PDに落ちてしまい,研究生生活に. この間経済的にも支えてくれた松井先生にはほんとうに感謝しなくては.
ポスドク遍歴の最初. それまで噂でしか知らなかった中澤清教授の許へ修行に行った. 東工大はスタッフだけでなく学生もやたらエネルギッシュな人が多く, いろいろと楽しい思いをさせてもらった.
ひょんなきっかけで気候センターCOEに. 仲間内でのスキーやカラオケの中心人物だったせいか松井研後輩の 伊藤孝士(現国立天文台助手)には「Center Of Entertainment」の略ではないかと冷やかされた.
そろそろ論文もたまってきたので学振の再応募をしようと思ったが, 当時気になっていたどのネタを研究テーマにするか踏ん切りがつかないままに日が過ぎてしまい, 気がつくと東大と東工大はもう締め切られていた. じたばたしていたら北大の山本哲生教授の助言があり,Uターンを決めた. ちなみに山本教授とは,修士時代に毎週木曜夜, はるばる根津から神奈川の宇宙研まで片道2時間かけて水谷研セミナーに 参加しに行っていた(当時山本教授は宇宙研所属)関係で知り合っていたのだった.
低温研の香内教授は放し飼いにしてくれたが,分子雲の化学に関する知識や, 実験の現場に触れることができ, それまで知らなかった人々とも知り合うことができてなかなか有意義だった.
山本教授らとのエウロパの内部海の研究は会心作だったので, 張り切ってこれを報告しに宇宙研に出かけて渡部重十教授と知り合った.
果たして何度助手応募にトライしたか覚え切れなくなったころに, やっと現在の落ちつき先へ. あと5ヶ月のうちに永久就職できなければ, 院生時代の育英会奨学金約500万円を返還しなければならなくなるところだった.
林教授とは実にひさしぶりに再会し, その構想に学生時代の第一印象とは違った意外な共感を覚え, 1年ほど過ごして個人的にもほぼIT革命してしまった (それまではSCSIの読み方すら知らなかった). これに驚く知り合いが今でも多い.
2001年はもの心ついてから初めての入院生活からスタート. 入院中は一日が長かったが,退院して日常生活に戻るとあっけないものである. この経験は命の哲学(人間の寿命の持つ意味)をいやおうなく考えさせられ る機会だった. いずれ近いうちに公開したいと考えている.