南総里見八犬伝
《南総里見八犬伝第三輯巻之一》第二十一回

されば又蟇六亀篠は。信乃が為に朝夕の。薪水の事を資けよとて。小厮額蔵を遣しつ。人目ばかりは三四日毎に。 飯のあはせ物などを。小坏に盛て饋り遣し。又みづからも音づれて。門より安否を問ふものから。その初こそ屡したれ。 素より愛する心なければ。植つけ時のいそがはしさに。その事ははやうち忘れて。久しく訪せもせざりしに。 この日糠助が来て。云云と告しかば。亀篠聞て眉を顰め。この比は人一個を。二人にしても使ひ足らぬに。 心なしの丁児奴が。風ひきたりとていかばかりの事やはある。と辷らせし。口を鉗めてうち微笑み。よくこそ告て給はりし。 ともかくもすべけれ。と応て糠助をかへしつゝ。軈て夫に相譚へば。蟇六聞て。舌うち鳴らし。是首と彼首は間近くとも。 竈ふたつにしたればこそ。人手かゝりて不便なれ。けふより信乃を呼びとりて。養ふべくは思へども。童でこそあれ親に似て。 偏屈児とおぼゆるに。中陰いまだ果ざれば。承引べくもあらずかし。今霎時の程なれば。孰なりとも遣して。 額蔵奴と引かえ給へ。真実々々しげに款待ば。こなたに得の着ことなるに。厭ふことかは。よくし給へ。 と耳語ば点頭つ。一個の老僕を遣して。額蔵と替すに。額蔵ははや帰り来にけり。気色を見るに異なることなし。 やうこそあらめ。と亀篠は。あるじのほとりに呼び近づけ。やをれ額蔵。汝はきのふより病臥したり。 と糠助男が告たれば。人暇なき折なれ共。そがまゝ措んはさすがにて。代の僕を遣せしに。見れば異なる気色もあらず。 総角どちの狎易く。相撲狂ふて負腹たち。很て作病せしならん。嗚呼の白物かな。と疾視て。夫婦斉一敦圉ば。 額蔵に手を推当。些頭痛はしつれども。うち臥までには候はず。とばかりまうさば横着なりとて。 ますます叱らせ給はなん。某彼処へまゐりし日より。とにかく彼子はうち解給はず。水はわが汲む。汲ずもあれ。 炊も吾する。そがまゝ措ね。とよろづ禁て使れず。四月の天に垂籠て。目比をして日を消せば。困じ果て候ひし。さればとて。 逃てかへらば叱られん。おもへば年来打懲して。使せ給ふ主の恩。今やうやくに目が覚ても。起甲斐なさに引被ぐ。 衣のうら見の夏虱。猟竭したる虚の病の床は日ごろより。母屋恋しき気鬱の症。寔に九死一生涯の。 智恵を出して呼かへされ。甦生りて候なり。田畑の稼。内外の使。なほ身に入れて仕らん。霎時なりとも犬塚どのに。 隷らるゝことばかり。免させ給へ。と掌をて。真しやかに賠話にけり。あるじ夫婦はつくづくと。 聞つゝ笑て。迭に見かへり。亀篠いかに思ひ給ふ。此奴も等しき童なるに。信乃がとにかく心をおきて。出てゆけがしにもてなせしは。 そのよしなしといふべからず。云云の事あらば。窃にこなたへ告はせで。仮病して臥ことやはある。 そが一生の智恵ならば。鉄銭三文の直うちもなし。こな戯家奴。と罵れば。亀篠ほゝとうち笑ひ。さはこれをのみ叱せ給ふな。 信乃はなほ総角なれども。心ざまは老つけて。殊に執念。腹きたなく。さる筋のあるものと見き。やよ額蔵。 よしや気に入れられず共。日来彼処にをりしかひに。聞つる事はなかりしか。信乃はこならをいといたう。 怨みてあらん。さもなきか。様子を告よ。いかにぞや。と顔して問落す。梓の弦にはあらねども。 水向られて。虚とは憑らず。否。目今もまうせし如く。適物をいひかけても。生応のみせられしかば。 聞たることは候はず。然れども今は伯母御の外に。よるべなき人なれば。いかでかこなたをうらみ給はん。 初には似ず慕しく。思はるゝ事疑ひなし。只某に強面きは。過世の讐か。さもなくは。気質のあはざるにもあらん。 身にとりて憎るゝ事とて候はず。といへば蟇六うち頷き。仮染の主従にも。五性の相剋ありちかいへば。さる事なしといひ難けれども。 仮病せしは不覚なり。佶と懲すべく思へども。此度は枉て許すなり。よにいそがはしき折なるに。両三人が事をもして。 その愆を貲ずば。その度に辛きめ見せん。立ね立ね。といそがせば。額蔵頻りにつきて。 庖のかたへ退きにけり。亀篠霎時目送りて。わがは何と聞給ひし。 人の気質はさまざまなり。総角は総角どち。よき友なりと歓びて。使れもせん。使ひもせん。と思ふには似ず額蔵が。 信乃に鬱悒せられしは。一日二日の事ならず。かゝればいたく怨るゝ。悪口を利たるか。然らずは気質の合ざるならん。 さにはおぼさずや。と耳語ば。蟇六頭を傾けて。否それのみに限るべからず。信乃はこなたをなほ疑ふて。 額蔵を隷たるは。隠監ならんかとて。心放さぬ事もありなん。必しも侮るべからず。額蔵が代りには。誰を遣したまひたる。 誰とて早の事なれば。背介にいけとて遣し侍り。渠は齢も六十にあまりて。人なみには得働かず。此ごろは。 三里の灸をして。起居も不自由なり。額蔵と引替て。損なき物に侍らずや。といへばしばしばうち点頭。 微妙計り給ひにき。しからんには一両日。遠くは四五日。程を歴て。窃に背助を招きよせ。渠にも信乃が心をおくや。 事のやうを問給へ。渠にも心をおくならば。吾儕夫婦を疑ふなり。又額蔵をのみ嫌ひて。背助を厭ふことなくば。 丁児一人がうへにして。こなたを疑ふ故にはあらず。事の虚実を撈りて後に。計策はなほあるべし。こゝろ得給へ。 と額を合して。相譚果て起にけり。

《南総里見八犬伝第三輯巻之五》第二十九回

道節瞼をしばたゝき。儔稀なる女弟が節操。今般に遺せし一条を。肯ざるも武士の意地。 せめてはこゝに亡骸を。斂めて冥府の苦悩を救ん。さはとてやをら抱き揚て。火定の坑へ推おろし。残れる柴を投入るれば。 夜風のまにまに埋火の。再び燃て煽々たる。荼毘の煙は鳥部野の。夕もかくやと想像る。歎きははじめにいやまして。霎時護りて合掌し。 泡影無常。弥陀方便。一念唱名。頓生菩提。弥陀仏々々々。と廻向しつ。悵然として身を起し。彷徨として立も得去らず。 又数回嘆息し。大約法師の終を執るに。柴薪を積てみづから焚を。火定となん唱たる。わが朝には信濃なる。 戸隠山の長明法師が。鳥部野に火定せし事。又紀伊国那智山の応照も。終を火定に執りし事。元亨釈書第十二巻。忍行篇に載たるなめり。 われは大義を舒ん為に。漫に愚民を欺きし。火定の因果眼前。妹が身を焚く荼毘とはなれり。われ亦いづれの郷に死し。 いづれの野にか骨を埋ん。定めなき世のたゝずまひ。後るゝも先だつも。北山頭一片の。 煙とおもへばいと果敢なし。とひとりごちつゝ天うち仰ぎ。詮なき歎きに夜は深たり。とくにこの山を踰んとて。 彼名刀を腰に跨。立去らんとする程に。後方に窺ふ額蔵は。浜路道節が問答を。おちもなく窃聞つ。貞操義烈に感佩して。 嘆息の外なかりしが。われ憖に彼処に到らば。節婦の臨終を慰る。よすがとはなるべけれど。そが兄われを訝りて。 物がたりの腰を折らん。躱れて聞くにます事なし。と思ひにければ。端なく出ず。復つくつくと聞く程に。村雨の一刀は。 左母二郎が横略せしを。道節が手に落たれば。廼件の大刀をもて。讐に近づく便着にせんとて。浜路が遺言をうけ引ざる。 事の趣に胆潰れて。肚裏におもふやう。定正ぬしは大敵なり。道節死力を竭すとも。怨を報んこと輙からず。 渠撃れなば大刀も喪ん。縦彼人讐を撃て。前諾に負くことなく。犬塚生に彼宝刀を。返す日のありといふとも。 火急の難義を救ふに足らず。轍の鮒に水をば飼はで。日を歴て枯魚を市に訪ふとも。亦何の益やはある。 さるにても。犬塚生の。安否いといと心もとなし。名告て由を告るとも。明々地に大刀を乞とも。渠その妹にすら許さねば。 いかにぞわれに逓与んや。組伏てとり復ん。と思ひ決めつ。腕を扼りて。瞬もせず闕窺をれば。彼はや浜路を火葬して。 村雨の大刀を腰に挿副。立去んとしたりしかば。癖者等。と呼とめつゝ。樹蔭を閃りと走り出て。刀のを丁と捉り。 両三歩引戻せば。驚きながら振かへりて。かへしに払ひ除。大刀を抜んとする処を。横ざまに引組んだる。 技も力も劣らず優ず。勇者と勇者の相撲には。寸分の隙あらずして。迭に捉たる手を放さず。曳々声をふり立て。 ちから足を踏鳴し。沙石を飛し。小草を蹴ひらき。両虎の山に戦ふ如く。鷙鳥の肉を争ふに似て。いつ果べくもあらざりしが。 いかにかしけん額蔵は。年来膚を放さゞる。護身嚢の長紐紊れて。道節が大刀の緒に。いく重ともなく縁つゝ。 挑むまにまに引断離られて。嚢は彼が腰に着たり。そを取らんとする程に。思はずも手や緩みけん。道節忽地振ほどきて。 大刀を引抜き。撃んとすれば。こゝろ得たり。と抜合せて。丁々発矢。と戦ふ大刀音。電光石火と晃かす。 一上一下。手煉の刀尖。沈で払へば。跳踰。引ば着入り。進めばひらく。樊膾が鴻門を破るとき。関羽が五関を越るの日。 孰が劣り。劣が勝ん。天には隈なき月の照り。地に亦荼毘の光あり。真夜中ながら明ければ。なほ相挑て迷はず去らず。 道節悍て撃大刀を。額蔵左に受流せば。刀尖あまりて腕より。流るゝ鮮血を物ともせず。丁と返せし大刀風尖く。 道節が身鎖の綿齧。刀尖ふかく裏徹て。肩なる瘤を傷れば。黒血さつと濆り。瘤の中に物ありけん。 螽の如く飛散て。額蔵が胸前へ。と当るを。落しも遣らず。左手に楚と握留て。右手に刃を閃し。 又透間もなく切結ぶ。大刀すぢ侮りがたければ。道節は受とゞめ。又受ながして声をふり立。やよ等一等。いふ事あり。 汝が武芸甚佳。われ復讐の大望あり。豈小敵と死を決せんや。且く退け。といはせもあへず。額蔵眼をして。 さはわが本事をしりたるな。命惜くは村雨の宝刀を逓与して疾々去れ。かくいふわれを誰とかする。犬塚信乃が無二の死友。 犬川荘助義任なり。汝が名は聞つ犬山道松。烏髪入道。道節忠与。宝刀を返せ。と敦圉ば。道節呵々と冷笑ひ。 わが大望を遂るまでは。女弟にすら。うけ引ざる。大刀を汝に与んや。否とらでやは。とくとく逓与せ。 と再び詰よせ。附廻して。跳蒐て丁と撃を。左辺に払ひ。右手にる。道節は透を揣りて。火坑の中へ飛入りつ。 発と立たる煙とともに。往方はしらずなりにけり。

《南総里見八犬伝第四輯巻之一》第三十一回

不題。下総国葛飾郡。行徳なる。入江橋の梁麓に。古那屋文五兵衛といふものありけり。渠はこの土地にふりたる。 居停主人なり。妻は一昨年身まかりつ。子ども只二人あり。冢子の名を小文吾といふ。今茲は既に廿歳なり。 そが身長は五尺九寸。宍堅く。骨逞しく。膂力は百人にも敵すべく。器量は絶て市人に似ず。性として武芸を好み。 総角の比よりして。親に隠し。友に離れ。師に就て技を磨く程に。剣術拳法相撲の手まで。習得ずといふことなし。 その次は女子にて。十九歳になりぬ。その名を沼藺と呼れたり。こは年二八の春の比。隣郷なる。市川の舟長。 山林房八郎といふ壮佼に帰ぎつ。その年の尾にや。はやく男児を産りけり。そは大八と名づけたる。今茲ははや四歳なるべし。 さても這文五兵衛は。貨殖の事に疎ければ。その家素より富るにあらねど。足ることを知ればにや。衣食の慾寡して。 暇あるをりをりは。入江に立て釣するを。こよなき楽なりとおもへり。

《南総里見八犬伝第四輯巻之一》第三十二回

文五兵衛は初より。黙然と手を叉きて。此彼の物語を。つくづくと聞てをり。今傍より。二顆の玉を。見つゝますます驚嘆して。 両人にうち対ひ。かくいへば滸に似たれども。わが子小文吾は。いぬる比。見八殿と兄弟の約をなしたる趣は。 既にはや。上にいへり。さはれ犬塚殿の儔にあらず。只その々見兵衛ぬしの。懇に任せしのみなりき。 今更おもへば。小文吾は犬塚殿にも過世あるか。然らばこの盟約の席の下に与るべきものならん。渠も一顆の玉をもてり。 そはその二顆の玉に似たり。彼が玉には見れたる文字のみ異にして孝悌の悌の字あり。さるにより。市人には。なくてもあるべき名告さへ。 渠みづから撰定めて。悌順と名つきたり。玉の文字を取れるなり。件の玉の出処を諦さば。聊又犬飼生の魚腹の玉と相似たり。 そは小文吾が。尚襁褓なりける時。食初の祝きに。小豆飯を造したる。鰭物蔬物。羹膾。形の如く安排たる。 折敷を嬰児に推すえつゝ。飯粒を哺舐するとて。高盛の碗中へ。衝立し箸にかゝりて。滾々と落て輾ぶ物あり。 取て見れば。件の玉なり。原その碗なる飯の中に。あるべき物にあらずして。出しは尤不思議の事か。 且その玉の美しき。細小にして愛たげなる。求て獲がたき宝なれば。軈て小文吾が護符嚢に納たるを。 渠は今なほ秘蔵せり。加小文吾は。市人の子に似げなく。総角の比よりして。親に隠して武芸を好み。 力技をのみ事とせり。かゝるゆゑに。年八ばかりの比なりけん。十五歳なる童と相撲をとりて。敵手をいたく投たれども。 果は己も尻居に辷りて。あたりなる葛石に。臀を撲せしかば。大きなる痣いで来にけり。年を経る随消失はせで。 痣は生憎に濃なりつ。形牡丹の花に似たり。しかれどもこれらの事は。奇異に渉るをもて人に告ず。見八どのもこの事は。 なほ知らでをはすめり。今にもあれ小文吾に。あふて件の玉と痣を。見給へかし。と真実だちて。密語ば両人は。 頻に膝の進むをおぼえず。見八は信乃を見かへりて。某はいぬる年。彼小文吾に対面して。その人柄を知るものから。 さる過世あらんとは。つやつや思ひかけざりき。まだ識らねども額蔵の荘助と共にすべて四人。同因同果の過世ありけん。 よに憑しく候。といへば信乃うち点頭て。微妙く候文五兵衛老人。令郎はその勇力の、捷たるのみならで。 志も世の人に。立勝りたる事あらん。願ふは詳に告給へ。と問れて莞然とうち微咲み。いな。さしたることも候はず。 渠が武芸を嗜むこと。聊又因縁あり。いと恥しき事ながら。某が素姓をいへば。安房半国の主なりける。 神余長狭介光弘朝臣の近習の臣。那古七郎由武が弟なり。初当山下柵左衛門定包が逆謀により。光弘横死し給ひしとき。 兄にて候七郎は。金碗八郎孝吉が旧僕。杣木朴平。洲崎無垢三等と戦ふて。矢庭に無垢三を倒せしかど。 その身も遂に深痍を負て。朴平に撃れたり。その時某十八歳。弱冠にして。いまだ仕へず。且多病なりければ。 定包を撃べき志願もかなはず。母の旧里なるをもて。この行徳に落留り。後に客店となるに及びて。家号を古那屋と唱初しは。 那古の苗字を転倒せしのみ。身は市人になりしかど。父祖は武弁の家臣なり。よりて拙郎小文吾は。自然と武芸を嗜むものか。 渠身長は五尺九寸。膂力の限りはいかばかりなるべき。わが子ながらよくも知らず。曩にこの里に。犬太といふ悪棍あり。 そが面は。落蹲の舞の如く。手足は伊勢蝦の殻の如く。その膂力飽まで剛く。心は悍して曲めり。 酒と賭博を好るまゝに。年来浦里を横行して。しかるべき家毎に。或は銭を借り。或は衣を借て。返すことなし。 もし聊も。債を促すものあれば。理不尽に打倒して。銭を取せざれば已まず。さる癖者なりけれども。領主千葉殿の弓箭衰へて。 政事等閑なれば。訴糺すべくもあらず。人皆毒蛇の如く怕れて。彼奴が怒に触じとのみ。念じて避て通す程に。 あるとき犬太は。酔狂のあまり。里の真中に。一条の索を引渡し。索に紙牌を結さげて。
  この所を過らんと欲するものは。銭百文を出すべし。その銭を齎せず。推て過るものあらば。 犬太が首を得さすべし。犬太は死しても恨なし。
と筆太に書つけて。その身はそのほとりなる。石に尻をかけてをり。是により。人僉途を去あへず。殆難義に及びにけり。 この年小文吾十六歳。窃に犬太が悪行を憤り。衆人の為。親には隠して。ひとりその所に赴きつ。件の索を引断離て。 人を通さんとする程に。犬太は大く怒哮て。衝と身を起して遮留め。栄螺の如く拳を固めて。小文吾が眉の間を。 撲んと進むを引外し。足を飛してと蹴る。蹴られて犬太は身を転して。忽地と倒るゝを。 起しもたてず乗しかゝつて。中を蹂躙れば。さしもに悍き悪棍なれども。胸骨折けて。手足を悶掻き。 血を吐くこと泉の如く。言句も出ず死てけり。当下立聚たる里人等は。小文吾が比類なき。働きを見て。 且驚き。且歓びて感嘆の声を合して誉たりける。さても彼の犬太は。 当初鎌倉を追放せられて。わが里へ来つるものなり。同類もなく妻子もなければ。殺したりとて祟はあらず。 是により世の人は。遂に拙郎に綽号して。犬田小文吾と喚做たり。太の字と田の字と音訓同じ。悪棍犬太を蹴殺して。 里の患を掃ふたる。歓びのあまりなるべし。某は件の事を。次の日。人に聞しかば。驚きて拙郎を召つけ。 血気の勇を箴めて。教訓の辞を尽せしかば。小文吾ほとほと後悔して。刃を帯るとも。抜き候はじ。人と争ふとも。 撃候はじとぞ誓ひける。渠さすがに孝心あるか。愆を改んと誓ひしは。親を思ふものに似たり。並に我慢の悪僧なれば。 武芸を嗜み。相撲を好めり。先祖は兄弟にて分れたる。今なほちかき簇なれども。年来先達職の所得を争ふて果さず。 双方証の文書あれば。両管領も今更に黒白を決かねて。和談を勧め給ひしとぞ。よりて念玉観得は。且くその諍ひを輟て譚ずらく。 いともかしこき譬なれ共。昔惟喬惟仁。同胞の親王。宝位を争ひ給ひし時。相撲の勝負をもて。その甲乙を。定め給ひしとぞいふなる。 至尊も争ひ果給はねば。かかる例あるにあらずや。われも御辺も相撲を好めり。所詮相撲の勝負によりて。勝たるものは所得を増ん。 負たるものは弟子とならん。しかるべし。と熟談して。迭に誓紙を取かはし。遂におのおの彼此に。名だたる相撲を募けり。 さる程に念玉坊は。小文吾がことを伝聞けん。みづからこの行徳に。詣来て渠に相譚つ。観徳坊は小文吾が妹夫。市川の里人なる。 山林房八郎が。膂力飽まで人に捷れて。拳法相撲を善すと聞て。彼処にいゆきて相譚けり。件の山林房八は。 今茲廿二歳なり。川船数艘をて生活とす。渠も亦総角より。拳法相撲を嗜みつゝ。既にその技に長たり。 身長は五尺八寸。膂力は山をも抜くといふ。その名近国に隠れなし。さばれその面影は。優美なる壮佼なり。 斯いはんは無礼なれども。犬塚ぬしとよく似たり。所云他人の猿肖なるべし。かくて本月十八日の未明より。 八幡の社頭にて。件の相撲ありけり。東西に桟敷を掛わたして。念玉観得の両修験。従者と共にこれを観き。 彼此の里人にも見せけり。行司は両家より。一人づつ出したる。初は小文吾と房八が弟子どもの小ぜり合あり。 その小相撲九番果て。第十番は。山林と。犬田が結びの相撲なれば。彼両修験の桟敷はさらなり。観るもの唾を飲み。 腕を扼て。勝負を呼吸の間に俟ば。行司は左右の気息に合して。ヤツと引たる団扇と共に。双方斉一立あがり。 組では別れ。反れば外す。技も力も劣らず優さず。半ばかりあふ程に。 としつ。かうしつ。小文吾は。左を差たる山林が。腕を閃りと振ほどけば。足操被んとする処を。背をと撲しかば。 房八は両三歩。走るが如く跌飛で。俯しになん倒れたる。娼しと思ふものまでも。勝負に咄と被たる声。 霎時は鳴も止ざりけり。是よりして小文吾と。房八と睦しからず。某は予より。さる事あらんと思量て。 しばしば禁たりけれども。彼等は好む事にして。人の懇の推辞がたく。且怯したりなどと。 いはれやすらん。と外聞を。厭ふのみにて竟に用ひず。憖なる事してけり。と手まねに喩す果相撲。打出すが如浦辺のかたに。 笛大鼓の音聞えけり。文五兵衛は見かへりて。あな笑止。無益の話説に実が入りて。両所の疲労をも顧ず。日の暮るゝをも忘れたり。 彼俚楽は。牛頭天王の。神輿洗の供奉船なり。この浦里なる祇園会も。例年六月望の日なれども。十四日より雨ふりたれば。 渡しがたくて延しけり。わが家には多くもあらぬ。両個ばかりの奴婢なれども。この祇園会より三日の間。 身の暇を取らするが。なべて土地の習俗なるに。おのれも在らず。小文吾は。神輿に隷て出たらば。彼等は尻するまでに。 俟不楽とのみ喞めり。とやらかうやら黄昏て。近きわたりも路の程。潜ぶに便よくなりぬ。誘給へ。といひかけて。 やをら身を起し先に進て。陸に登らんとする程に。水際の蘆を掻わけて。半身を顕す者あり。忽地に声を被て。 汝等などて胆の太き。こゝは千葉家の采地なれば。滸我の御所と疎からぬに。訴られなば祟あらん。身の危きを知らずや。 と呼禁られて文五兵衛は。胸を潰して進み得ず。信乃見八もこれ彼の。長物語に時を移して。他にわがうへを知られしを。 いと悔しくぞ思ひける。畢竟今蘆原より。猛に呼かけたるは誰そ。其は次の巻に解分るを看て知らん。

挿図に「八幡の社頭に両修験角觝を試る」とあり。

《南総里見八犬伝第四輯巻之二》第三十三回

信乃見八文五兵衛等は。今蘆原なる人に。思はずも呼かけられて。三人斉一目をあはし。 いかにせましと躊躇程に。その人水際に下拉て。軈てに進み近づき。抱きたる袱包を。左のかたへ取なほして。 頬かむりせし手拭を。解つゝ額の汗を拭ふて。舷に手を掛るを。と見れば。是別人ならず。犬田小文吾なりければ。 文五兵衛は呆れ果て。腹たゝしげに声をふり立。あな不覚なり白物が。祭祀の神酒に酔たりけん。場所も得しらず戯言して。 可惜胆を潰さしたり。然とも和郎は。義も理も忘れて。この人々の仇となる。底意ある故に。しか口走りたりけるか。 と敦圉たかくいひ懲せば。見八は後方より。袂を掖て推禁め。翁さのみな腹たて給ひそ。他人に窃聞せられなば。 俺們が生死存亡。再びこゝに知るべからず。言長ければ洩易し。そを諷諫の誠心ならん。と和解て艫に進み出。 犬田生。恙なきや。苦楽哀歓。幸不幸。ひとつによせし長物語を。初よりはや聞れしか。近きわたりに立在ながら。 其処に在りとは告ずして。躱れ給ひしは故こそあらめ。夙縁尽きず不慮の再会。得がたき甦生はみな大人の。 恩恵にこそ。といひかけて。遽しく信乃を見かへり。こは小文吾に候。と引あはすれば。進み近づき。 大哥こなたへ渡り給へ。某は犬塚信乃戍孝と呼るゝものなり。尊大人の物語にて。過世あるべき由を知れば。 初対面とはおもほえず。現因もなく縁なくは。いかでか大人に邂逅して。再び生ることを得べき。況和殿に遭べしやは。 霎時なりともこの船に。乗りて相譚給へかし。と請勧れど。立もあがらず。某漫に声をかけて。親に戯れ。 刀禰ばらを。驚かせしは非礼なり。縡酔狂に似たれども。諺にいふ壁に耳。興に乗する高声話説は。老たる親の癖なり。 と知りつゝも胸苦しさに。思はず云云といひしのみ。さるを義も理もうち忘れて。刀禰ばらの仇となる。 底意かなどとは。有繋に親の言ながら。あまりに強顔候。と喞がましく膝摩て。 裙に着く蚊をうち払へば。信乃見八はさもこそ。と共侶に慰めて。其処には蚊もあり。裳も濡れん。狭く共この船に。 といふを小文吾聞あへず。否刀禰ばらをいつまでか。こゝに置候べき。某実は中戻して。迎ん為に来つるなり。家尊の大人よ。聞給へ。 嚮に某神仮殿より。還て見れば大人は在せず。婢児們は不楽しげに。又釣にとて出給へば。早には還り給はじ。 といふ壁訴訟聞に得堪ず。彼等はけふの走百病を。日来待しく思ひつらんに。今更に出かねて。留守してをれば憂かるべし。 例の釣場はよく知たり。いでやわれ。いゆきて彼等が為に告ん。と思ふてこゝに索ね来つ。立尽たる蘆原の。 蘆の間より遥に見れば。大人は目熟ぬ舟に乗て。外視もふらず壮佼と。うち相譚ひ給ふになん。やうあるべしと猜しつゝ。 仂なくは呼も得立ず。彼処まで近づきて。窃聞をする程に。又一人身を起すものあり。是則見八ぬしなり。 よりて此彼の厄難奇遇。彼玉の事。痣の事。孝心義胆。異聞珍説。縡の顛末をうち聞くに。いと怪しくも幸なる哉。 われも亦その人々と過世あるべきよしを知る。歓び譬るにものもなし。とく出て対面せばや。と思ひつゝ又おもふやう。 婢児們を出しやらで。彼人々を伴はゞ。よろづに影護かるべし。宿所に還りて。物よく整へ。復こゝに来て迎るときに。 対面するとも遅からじ。と胸に揣りて。宿所に退き。婢児們には身の暇を。取らして出し遣しつ。暮かゝる日の便りよければ。 門を鎖して背門より出。再びこゝに来て見れば。なほ言果ぬ大人の長譚。某がうへ。物々しげに。説誇かし給ふことかは。 傍痛く候ひき。と意中を告れば。文五兵衛は笑つゝ兀たる頭を。汝は年なほわかけれども。 親にはまして思慮深かり。とも知らざれば驚され。腹たゝしさに思はぬ事まで。叱るは親の役ぞとよ。 誘賓客を伴ん。先に走りて案内をせよ。といひあへず立んとするを。小文吾霎時と推禁め。はや黄昏になりたれども。 市中は祇園会に。往返ふ人も。門毎に。掛し灯籠も多なるに。犬飼ぬしの打扮の異なるを見ば怪むべし。 加以犬塚ぬしの。衣も袴も血に染たり。これらの事を思ふをもて。短長不便の物なるべけれど。単衣をもて来れり。 これに脱かへさせ給へ。といひつゝ件の袱包を。艫の板にうち乗て。推転しつゝ解披けば。内よりして両口の刀さへ見れ出たり。 当下小文吾は。信乃と見八にうち対ひ。この榛搨の単衣は。二田山木綿で候へば。膚ざはりあらかるべけれど。 二彦おのおの脱更給へ。衣の間に布の裂も。二条か三条あり。布の中には貝に籠たる。膏薬も候かし。 そは相撲をとるものゝ。搨瘡にも撲傷にも。用ひて効あるものなれば。各位金瘡によく打て。その布をもて巻給へ。 就中犬塚ぬしは。腰の間軽げなり。この両刀はいぬる比。ある人より購得たり。両刀帯るわれならねども。 その価の廉かりしに。無銘なれども焼刃の匂ひ。鋭刀なるべく思ひしかば。漫欲さに買とりて。親にはいたく叱られにき。 当坐ばかりも帯給はゞ。幸ならん。と真だちて。件の両刀を贈るになん。信乃は進寄り跪きて。恭しく受納め。 嚮には某許我の御所にて。不意に敵を受しかば。刃を取るに暇なく。且くて透を窺ひ。 先に進みし一人の刀を奪ふて戦ひつ。それすら竟に折れたれば。身に寸鉄を帯ずなりしに。 輒く更る衣のみならで。かくまで心を用ひられし。賜ものは千金なり。和殿の侠気と勇力は。翁の物語に詳に聞つ。 只その義勇のみならず。才幹遠慮もわれには兄なり。よしや真の同胞なりとも。有がたかるべき恩義にこそ。 と大かたならぬ歓びに。見八も亦小文吾が。縡倉卒の間にして。飽まで心を尽したる。恵を謝して信乃と共に。 手ばやく衣を脱更て。迭に扶てその浅痍を。布もて巻つゝ結ぶ程に。文五兵衛はわが子の才覚。誉られて足る親ごころ。 歓び面に見れて。信乃見八が脱捨たる。衣も袴も。肱盾臑盾も。ひとつに団て袱に。推包みて端引結べば。 小文吾四下を見かへりて。わが大人は賓客達を。誘引てとく還り給へ。某はこの船を。推流して後より退らん。 袱包はそがまゝにして。釣竿をもて立給へ。物とり忘れ給ふな。と心をつくれば点頭つ。信乃見八を見かへりて。 誘たまへ。籠口より。先へ退出ん。無礼なり。許させ給へ。と舷へ。踏かくる親の足を。濡させじとて。そがまゝに。 腰を抱けば。小文吾よ。さはせずもあれ。何ともなし。放せ放せといふ程に。扶て水際に立すれば。 信乃見八は後方より。閃りと水際にをり立て。しからば大哥いはるゝまにまに。翁共侶に宿所で俟ん。 現この船を遺し措ば。彼草隠する野鶏の。尾を顕すに似たるべし。左右に和殿を労するのみ。心ぐるしく候。 といふを小文吾聞あへず。そは宣ふな。こゝろ得たり。こゝらの事を懸念せで。とく邁給へ。といそがせば。 件の二人は小腰を折めて。小文吾に辞し別れ。文五兵衛が後に跟て。古那屋を投て誘引る。
(中略)
このとき夜ははや深て。子の半更かとおぼしきに。頻に門を敲くものあり。小文吾は戸口にいゆきて。 呼門は誰そと問ふ。その人聞て。声をふり立。己は塩浜の鹹四郎なり。神輿洗のかへるさに。浜辺で壮者共が。 大く闘諍をしたるにより。怪我せしものも亦多かり。そが中には。こゝの相撲の弟子もあり。又市川なる。 山林房八が弟子もあり。甲夜より甲乙截判して。双方を和解れども。敵手は他所のものなれば。小夜のみ深て事届かず。 関取いゆきてともかくも。扱ふて給ひねかし。夥計のものも待てをり。とくとくといそがせば。小文吾聞て舌うち鳴らし。 折も折とて奴原が。仂闘諍をしたるにこそ。われは親仁が暑に中られ。婢児們は走百病して。人隊なければ出かねて。 恒にはあらぬことながら。神輿の供奉に立ざりき。さばれ敵手は市川人にて。山林が弟子ならば。聞つゝしらぬ貌も得ならず。 汝は先へとく走れ。追続てわれゆかん。人騒しの奴原かな。といふを鹹四は聞あへず。然らば関取俟てをり。 とくとく来ませ。と期を推て。足音高く走去けり。

《南総里見八犬伝第四輯巻之二》第三十四回

小文吾は親の俟らん。賓客達はいかゞあるらん。と思ふことの。且くも胸に絶ねば。かう扱ひ果るとやがて。 里人等に辞し別れて。家路をさしてかへり来つ。栞崎と字せし。並松原を過る折。忽地後に人ありて。 犬田等。と呼かけたり。小文吾呼れて見かへれば。是則別人ならず。山林房八なり。越の縮の麻衣に。 萌出るばかりなる。緋の縮緬の犢鼻褌の前巾を透させて。銀の輪したる。長き一刀を。 降に挿くだし。pき絽の単羽織を。細く畳て帯に着。夕陽を遮ん為なるべし。白布の手拭を頭に巻たる。 端を額の上に巻留め。朱緒の桐の下駄に穿たり。その性善か悪か知らねど。色白にして。骨法鄙ならず。 現文五兵衛が比興し如く。犬塚信乃に似たりけり。小文吾は見て。うち微笑み。誰ならんと思ひしに。市川のなりけり。 神輿洗の捫択にて。こちの里人。そちの里人。迭に些の傷あれば。昨夕もけふも人橋渡して。召したれども。 面出しせず。さりとて他人の事ではなし。和主が分まで骨折て。やうやく半治めたり。といはせも果ず冷笑ひ。 そははや骨を折りつらん。しかはあれども今途で。聞けば敵手は浅痍なり。市川人は三人まで。おのおの稟たる痍は重かり。 奚ぞ等分に理をもたして。逓りも得せず引わけたる。和主と己等は鰯鍋。内証の事には蓋をして。移香立ぬ術もあらん。 彼截判の片手打。房八は女房の兄に怕れて知りつゝも。知らぬして受とらせし。と世間の人にいはれては。 わが一郷に債かけて。背負ふて退ても路はなし。死ても名折れ。生ての恥辱。今蒔なほす確執の種。 花をもたねば身が立ぬ。思按決めて挨拶せよ。と哮り立れど。些も騒がず。房八それはそなたの僻案。 甲乙つけてわけたらば。片手打ともいはれやせん。一夜一日まてども来ざりし。そなたを達てこなたから。 後らしたるは花ならずや。といふをば聴かで袖巻揚。そはいひ釈になることか。侠骨の捐りし己なれば。いかばかりに扱ふても。 よからずやは。と侮られ。扱れたる故事来歴。いはでも知れしことながら。いぬる日八幡の晴相撲。美事和主に負たれば。 生涯土俵に足踏かけじ。と思ひ絶て個の如く。といひつゝ手拭掻取て。剃たる月額礑と拊。親の異見を外にして。 けふまで惜し額髪。剃落したる青冶郎。武士ならば弓箭を棄て。発心入道せしこゝろ。 よはみ祟る此度の確執。相撲の日より怖気がつきて。生れし里に肩入れず。われから潰す。といはれなば。 釈迦でも還俗せざらんや。夫婦は素より合せもの。女房去れば。阿舅とはいはさぬ。黒白判る覚期せよ。 と競ひ蒐れど争はず。そなたはいたく逆上せしか。額髪まで剃落せし。得度は見あげし男態。形と心はうらうへにて。 相撲の遺恨を拳法もて。返すとならば大人気なし。けふは吾儕に事多かり。いふ事あらば翌又聞ん。今宵一宿預けよ。 と和解て別去んとすれば。袂を楚と引とどめ。物体つけて滑かし。逃ても脱さぬ今こゝで。挨拶せずや。 と敦圉つゝ。後へ蹴る裳をで。端折高く褄取たり。小文吾は今さらに。 もてあまして沈吟じ。しからば又いかやうに。挨拶すれば十分に。そなたは面をおこすやらん。と問へば取たる袂を放ち。 斯して起す。と身を反り。刃を晃りと抜かくる。臂推留て半も抜せず。顔つくづくとうち目戍り。そなたは酒に迷されて。 物にや狂ふ。聞わきなし。人を殺せば身を殺す。親の歎きも子の事も。思ひかけずや。と窘て。取たる臂を衝放せば。 いよいよ逼て。下駄脱捨。小文吾刃に怯れしか。生酔扱ひ胸悪し。和郎は何時房八に。酒を盛て酔したる。 親の歎きも子の事も。予て期したる一生懸命。とくとく勝負を決せよ。と声ふり絞る汗と共に。玉散る如き刃の光り。 又抜かけて詰よすれば。小文吾も今は堪かねて。共に抜ん。と手を掛る。鍔際見れば親の慈悲。被し紙索に禁られて。 怒りとともに手を斂め。房八何ともいはゞいへ。小文吾は一個の親あり。ふたつなき命もて。然る敵手には得ならじ。 といふに房八呆れ果て。思はず呵々とうち笑ひ。長き刀を光らしても。要緊の時は得も抜ず。その筈の事もあり。 見れば紙索で留めたり。さばかり刃がおそろしくは。倶に拳の砕るまで。打あふて運を試ん。とく来よ。進め。 と諸肩推袒ぎ。足踏鳴らして立対へども。小文吾は被られし。指の紙索のいと惜さに。立在たる儘。手を叉き。 頭を低て見かへらず。房八は。と見かう見て。又然とうち笑ひ。小文吾などて立合ざる。 相撲とちがふて命がけなる。勝負は拳もおそろしきか。男態は大きうても。葉つきの橙。銀甜瓜。見かけばかりで味ひなし。 かばかりの臆病者を。人がましく打ならばなかなかにわが拳を穢さん。是を啖へ。と足を飛して。向臑撲地と尻居に蹴居て。 土足を肩に踏被たり。小文吾は片膝を。衝たるまゝに手を抗て。その足楚と受とめつ。向上る面色朱を沃ぎ。 疾視逼てぞ堪がたき。怒を忍べといはれたる。庭訓に悖りなば。親には不孝の子とならん。友には不信と疎れん。 昨夕立たる誓言も。紙索も断らじ破らじ。と思ひかへせどかへらぬものは。人をも身をも恨の涙。見せじと汗に紛らして。 ふり落す鬢の乱髪。顔を背けてついゐたり。当下樹蔭に躱ひて。縡のやうを覧るものあり。是則鎌倉の修験観得なり。 満面に笑ながら。見れ出て禹歩に。ほとり近く立よりつ。扇を颯と推ひらきて。房八を竪にあふぎ。横にあふぎて背を拊。 遖愛たし心地よし。かくてこそいぬる日の相撲の恥を雪ぎたれ。奇妙々々。と小鼻を張らし。誉れば房八誇に。 全体八幡の相撲にも。負る筈ではなけれ共。俄頃に転筋して。思はぬ怪我で。此奴が功名。おん身も先途の腹愈に。些踏給へ。と被したる。 足をおろして立替れば。観得はおそるおそる。顔さし覗きて両三歩。逡巡して頭をうち掉。いないなそれはいらぬ事。 一口ものに頬もや焼ん。窮寇は追ふべからず。和殿が十分してのけたれば。吾儕が百遍たるより。 格別に痛つらん。尾を曳犬田は打栄なし。こはこの儘にうち措て。例の酒肆で一献酌ん。とくいかずや。と誘引ば。 房八は衣領を斂めて。脱捨し下駄穿そろへ。又小文吾がほとり近く。立よりて佶と疾視。犬田これではまだ済ぬぞよ。 いふべき事のなほあれども。そはわれ今宵いゆきていはん。もししかへしをせんと思はゞ。 寝刃あはして俟てゐよ。その折留守を使ふな。といと憎さげに期を推て。先に立たる観得を。うち見てゆたかに市中の酒肆へとてぞ伴る。 且して小文吾は。頭を擡げ。手を叉き。仰て思ひ。俯て又。思へどもなほ安からぬ。心の芥掻流す。汗の麻衣あさましき。 わが身こそ。とやうやくに。立あがりつゝ裙につく。沙を払ふて襟かき合し。さるにても房八が。日ごろに似げなき無法の挙動。 八幡の相撲を根にもちて。身をも親をも忘れけん。物の勝負は争ひの。端緒と知れど名を好み。誉を釣るはなべて世の。 人の情といひながら。原は他人の争ひを。身に引受て妹夫と。よしなや怨を結びたる。皆是吾儕の愆なりき。渠いかばかりに狂ふとも。 打倒さん事難くもあらねど。敵手にならぬは親の戒。知らぬ妹へ兄が慈悲。互の無事は。互の幸ひ。わが身ひとつのうへならず。 といふこゝろを人しらで。笑ひもすべし。狭しもせん。相撲の負ぬわれにしも。只勝がたきは馬鹿者の。無法なりき。 と嗟嘆して。乱れし髪をかき拊つ。再び歩をいそがして。邁こと僅に三町ばかり。藁塚のほとりより。捕手の兵八九人。 簇々と走り出て。逃さじ遣らじ。と捕籠たり。思ひがけなき事なれば。小文吾は驚きながら。厥辺に紅く花さきたる。怕痒樹を小盾にとり。 某犯せる罪あらず。叨に人を認違て。捕な愆給ひそ。と辞せわしく陳ずれば。やをれ小文吾争ふな。と声高やかに呼かけて。野装束せし一個の武士。 この地の荘官。千鞆檀内を先に立し。文五兵衛を搦捕りて。顆兵等に牽せつゝ。物蔭より顕れ出るを。小文吾は佶と見て。再び駭く親の縲絏に。 こはそもいかに。とばかりに。思はず其処についをれば。件の武士はさもこそ。と間近く立対ひ。やをれ小文吾。われは是滸我殿の御内にて。武者長を奉る。 新織帆太夫敦光なるを識ずや。癖者犬塚信乃といふもの。きのふ云云の事によりて。御所を騒し奉り。 捕手の兵犬飼見八と組撃して。芳流閣の屋の棟より。河原面に繋れし。船の中に滾落て。迹を暗し落亡たり。 これにより。某追捕の厳命を受奉り。昨夕通宵路次を急ぎて。水に索め。陸に攷へ。嚮にこの浦に来て。 且く長途の疲労を休へ。荘官檀内に相譚て。窃に信乃を索る程に。件の船は、葛浦の澳に漂ひたりけるを。 辛じてこれを獲たり。その船ありて。その人なし。おもふに信乃は見八を水中に推投て。陸より逃れ去りたるものか。 しからばなほこの浦に。潜居ることもやあらん。と思へば檀内にこゝろを得さして。市中村落おちもなく。窃に穿鑿してけるに。 汝が親。古那屋文五兵衛が宿所にのみ。昨夕両個の旅客泊れり。その一個は今朝立去りぬ。又一個は滞留せり。 此彼共に武士なり。と縡詳に聞えたり。よりてあるじ文五兵衛を。荘官許召のぼして。彼旅客の相貌骨法。又その滞留の事の趣。 厳に質問しに。返答甚胡論なり。こゝに疑を累れば。彼滞留の旅客こそ。正しく犬塚信乃ならめ。そを偽らば文五兵衛も。 亦是同罪たるにより。犇々と縛めつ。兵共に牽立さして。檀内を郷導とし。われみづから古那屋に赴き。 家捜せんとて来つる折檀内遥に汝を見て。彼は小文吾と呼るゝもの。文五兵衛が子なり。 と告るによりて。われはや識れり。見放すべきものにあらねば。顆兵に下知して。遮留め。縡のこゝに及るなり。 親の縲絏を救ん。と思はゞ汝先に進みて。件の旅客を搦捕せよ。異議に及ばゝ親を本なり。身を縛の索に被んず。 あるが随にとくまうせ。旅人の模様はいかにぞや。と威しつ賺しつ説示せば。檀内も亦進み出。小文吾予て知りつらん。 当領主。千葉殿は。御所の御方にをはすれば。領主の下知にあらずとて。縡忽にしたらんには。後の咎を脱れがたし。 かしこうも御所ざまの。隣郡をな騒せそ。しのびしのびに穿鑿して。信乃を搦めよと仰せしとぞ。かゝれば一旦彼癖者を。 癖者と知りながら。宿貸たるものなりとも。はやく自訴せばその咎を。免されて賞禄を賜ん。素より信乃は武芸抜群。 勇力無双の聞えあり。或は詐計て搦捕るか。不意を撃て刺殺し。その首捕て献らば。親の縲絏を釈のみならず。 御所の御感に預らん。その身の名誉。領主へ忠節。和郎は拳法と相撲もて。名を近郷に知られしならずや。 技も力もかゝる時。播してこそ国益なれ。思按を決めておん報せよ。寔に大事の処ぞ。と名利に喩す口功者。 捕手の尾頭に使ふべき。底心とぞ聞えたる。小文吾は目に耳に。見るに就き。聞くに就き。胸ぞ苦しき親のうへ。 義を結びたる友の事。浮沈存亡。この時なり。何といはほを輾し被て。圧るゝ如き心地はすれど。色にも出さず頭を擡。 仰の趣悉。うけ給はり候ひぬ。しかれ共某は。きのふの祇園会より浜辺に遊びて。昨夕もけふも宿所に在らず。 目今帰宅の中途にて。不慮におん咎を蒙りし。親の縲絏に驚くのみ。かゝればその旅客は。武士やらん。 百姓やらん。いまだ見もせず。聞もせず。そはとまれかくもあれ。親の縲絏を放させ給はゞ。こゝより案内をつかまつり。 おん先に進んこと。よに願しき所行なれども。もしその事は虚説にして。昨夕泊し旅客なくは。家捜をせられぬる。 外聞をいかゞはせん。薄き板戸に低き檐。稾屋も賤きものには城廓。証据分明ならざる事に。貧乏隠す家の内を。 隈もなく捜されんは。こよなき恥には候はずや。数ならねども一丈夫。人に侠者といはれたる。名を惜めば歎きても。 なほ余ある事になん。加その癖者。なほ滞留したりとも。武芸勇力捷れたる。大刀風ならば鋭からん。 さらば多勢をもてすとも。捕逃さじとはいひがたし。三十六計欺詐を善とす。おん隊勢を遠離て。某に任し給はゞ。 何事も親の為なり。ひとり宿所に立かへり。その旅客なほ在らば。詐計て搦捕ん。縦その便を得ずとも。 酒を強て酔臥させ。寝首を捕て献ん。この議はいかゞ。とこしらへて。当坐を脱るゝ才子の弁舌。説賺されて帆大夫は。 然なり然なり。と打頷き。汝が意見。説得て理あり。信乃は万夫無当の勇あり。わが隊兵等立られて。 此度も亦得捕ずは。毛を吹て疵を求る。過失はわれにあらん。現後難を脱れがたし。しからば且く汝に任せん。ようせよかし。 といひかけて。檀内を見かへりつ。骨法図こゝへ。と手に取て。さやさやと推開き。小文吾。是は彼癖者。 犬塚信乃が骨法図なり。よしや武士まれ。百姓まれ。その旅客の年紀全骨。すべてこの図に引合し。 一毫も似たらんには。詐計寄て搦捕れ。思ひ錯。認とも。人たがへは咎なし。市中の出口。 江河の船場は。土兵を借加て。厳重に守らせん。さればとて。遅々すべからず。今宵一夕を限りにせん。 明なば有無をまうし出よ。こゝろ得たるか。と骨法図を。隊兵して逓与になん。小文吾これを受とりて。 うち見て。巻て。懐へ。さし入れて襟かき繕い。既にかう命がけなる。奉公を仕れば。願ふは親の縲絏をゆるして。 某に預させ給へかし。といはせも果ず。帆大夫は高やかなる。頭と共に声をふり立。否。そは絶て称ぬ事なり。 親をその子に。子をその親に。委ねざるは律令の本文。汝なりとて一穴なる。貉ならんか。 とは乗らず。癖者信乃を搦捕るとも。首捕て見する共。両箇に一箇。功あるまで。文五兵衛は人保なり。 親を救ふも。罪なふも。すべて汝が心にあらん。そを今願ふことかは。と叱懲せば小文吾は。忽地望を失ふて。 嘆息しつゝ頭を低。又いふよしもなかりけり。当下荘官檀内は。帆大夫にうち対ひ。はや昏になりて候。 彼癖者は夜に紛れて。逃亡る事もやあらん。こゝより小文吾を返させ給ひて。出口の戍り肝要ならん。といへば帆大夫後方を見かへり。 現日は海に没んとすなり。小文吾は且く放す。まうしつる義に偽なくは。ともかくも功を立て。荘官許まうし出よ。 とくとく邁。といそがして又文五兵衛を牽せつゝ。檀内が宿所へとて。衆皆斉一身を起せば。小文吾は阿とばかり。 応はすれども立かねて。目送る子より親はなほ。ものいひたげにいくそ度。見かへるそなたはまだ暮ねども。 心の闇に迷ひつゝ。後へ牽るゝ縛索。未の歩申過て。鶏は物かは別れの悲み。誰がうへ告る夕烏。宿巣をこゝに引裂れ。 歎きの杜か願事を。いはで心を千早振。神こそ知らめ。子は親の。為に隠しつ。親は子の。為に隠していと直き。 道のゆくてとかへるさと。あなたこなたの物思ひ。立とゞまれば。追立られて。跌く老の背影。杖にはならで呉竹の畷の藪に隔られ、看々見えずなりにけり。

《南総里見八犬伝第四輯巻之三》第三十五回

かくてあるべきにあらざれば。又骨法図を索んとて。遽しく紙燭して。門辺に出んとする程に。皆とく来よ。 と外面に。囂しく呼かけて。枢戸礑と推ひらき。関取在るか。と顔さし入るゝ。塩浜の鹹四郎を。先に立して。板扱均太。 牛根孟六など呼れたる。土地に名だたる破落戸。三人斉一店前なる。 板席に推並べば。小文吾は見て。紙燭を振滅し。こは気立しき入ざまかな。三人揃ふて何事ぞ。 しづかに坐れよ。簀子が抜ん。といはせも果ず鹹四郎は。手拭閃りと肩に投かけ。関取今宵は些ばかり。 物いはんとて三尊仏が。台座をはなれて来迎せり。且に居て拝ずや。といへば均太は傍より。 鹹四戯言吐ずもあれ。一番地取の夜稽古に。三人かゝりで肩を入れん。と禁て佶と見かへれば。 孟六も亦進み出。関取斯皆うち連拉て。来つるは別の議にあらず。年来和主が弟子とはいへども。根が技もよし。 地力ある。吾們なれば彼此の辻相撲に怯を取らず。犬田は現よく弟子をもちぬ。と人が誉ればおのづから。 和主の鼻まで高うしたれど。けふ一日で。見限りたり。とかく浮世は倒さまで。 門弟達から師匠を破門。その断をいはんとて。この三人は総名代。今よりしてこの葛飾に。 和主の弟子は一人もなし。しかこゝろ得よ。翌からは。頭高に口を利さぬぞ。忘れたりとて惚な。 と諸声立る諸胡坐。けば聚ふ蚊を打て。膝に拍子をもたしけり。小文吾聞て冷笑ひ。 あなや奴原が。しづかに物をいはれぬか。総角の時よりして。われも相撲を好みしかば。 関取などいはるれども。世わたりするにもあらず。寔に田舎の素人技。弟子はありとも。又なくとも。 吾儕に物を欠べしやは。情由だに立ば面り。望に任して破門せん。その情由をいへ。いかにぞや。と問ば三人は膝立なほし。 いはずも知れたることながら。昨夕浜里の捫択を。和主がひとりで截判きたる。遖侠者と思ふに似ず。山林にしかへされし。 栞崎の為体。間道より遥に見つる。人より人の風聞は。千里を走る世の常言。誰とてしらぬものもなし。 泥臑揚て踏れたる。師匠は弟子の面汚し。さるにより破門する。そを朽をしを思はずや。敵手は正しく妹夫。 借財でもあるか。手ごみにされて。なお阿容々々と猫の糞。踏れて花の開ものは。路傍の腸のみ。 和主は門の腰脱犬田。畢竟八幡の取組に。あがりし団扇は怪我の功名。緊要の時には山林に。手も足も出ぬ薬鑵の湯煮章魚。 真赤になりても恥知らず。陰嚢をもたば。撃ずや突ずや。成らずは舌を啖ずや。と訛声高く手ぶりして。 異口同音に向火を。焼つくれども小文吾は。騒ぎたる気色なく。あな復してもいとし。 扶揺に羽を搏大鵬の志を知らずして。共音に囀る群雀に。嘱賂を養るゝわれにはあらず。栞崎にて房八が敵手にならぬは親の為。 わが為。彼等夫婦が為。負るは勝にますことあり。道理をしらぬ白徒を。避て通すは羞ならず。そを思はずに怯せし。 と狭するものゝあらばあれ。吾身に絶て痛からず。情由だに聞けば要はなし。とくとく邁け。と追立れば。 三人斉一身を起し。邁といはずも去ざらんや。師弟の因はなくなりても。この一郷の面ぶせなる。 人の口には戸も建られず。他人になりし後日の手形に極印打ん。と鹹四郎が閃す拳と共に。足を巣ふて筋斗を打し。 続て蒐る孟六と。均太が腕を捩揚て。起んと蠢く鹹四郎が。背を楚と踏居れば。二人は足を翹つ。面を皺めつ天うち仰ぎ。 あな疼。痛や腕が抜ん。放せ放せ。とばかりに。共音に弱る鹹四郎。からきめ見つゝ大の字に。身を平めかして眼をり。 あら苦しきかな堪がたし。人はともあれ目子が。飛も出なばいかにせん。背骨が折るゝ。と叫びあへず。 おのが名におふ塩辛声。敷板嘗て喘ぎけり。小文吾はさもこそあらめ。と懲せし随に手を緩めず。奴原骨にこたへしか。 怒を忍ぶは親の戒。人の拳を禁るのみ。われから拳を抗るにあらず。是までの好がひに。一度は許す。とくゆけ。 と孟六均太を推遶らして。ひとつによせて外面へ。そが儘撲地と突出せば。三間あまり踉々と。走跌き転輾びつ。 又鹹四郎を引起して。項をて推落せば。糾れるが如く爪走して。おなじあたりに倒れつゝ。 皆且くは得も起ず。狐の如くしばしば見かへり。猫の如く背を高うして。やうやくに起なほり。或はみづから脈を診り。 或は腰を摩り。膝頭に唾を塗たる。口をめ。眉根をよせて。 此彼等く息を吻き。迭に手に手を掖扶て。やと諸声に立あがる。鹹四郎は蛬の。籠に啼く如く舌うち鳴らし。 均太孟六疼は去らずや。侠骨を磨けばかばかりの。罰はあたれど利生はなし。間のわるさよ。と呟けば。 二人は倶に嘆息し。循環がよからねば。七難八苦は娑婆の厄。力に負ても口に勝。いふべき事はなほあれども。 いはぬはいふに升飲の。地酒二斤で気をなほさん。弱ることかは。と慰めたる。均太は腰を掻撈て。こゝろ遽て。 と見かう見つ。等々玉を遺したり。といふ間に孟六は。足にかけて。透し見て。 こゝにござると連銭。二百逓与せば引提て。誘とく先にたつか弓。腰を反しつ折しつ。うちつれ拉て野干玉の。 夜のみかよふ味酒屋。三輪の杉の葉栞せし。馴染の店を投てゆく。足音絶て寂寥たり。
(中略)
当下戸山の妙真は。轎夫等を見かへりて。喃人々。よしや亥中は過すとも。吾儕は今宵退るかし。この前面なる杭根のあたりは。 南を向て涼しからん。且く其処に俟てよ。といふに皆はやこゝろ得て。轎子を外面に擡出しつ。巨戸を礑と引よせて。辞し出るとき枢戸を。 又あなたより闔たりける。且して妙真は。小文吾にうち対ひ。やよ。阿舅。々は臥房に入り給ひしか。 堪がたきまで炎熱かるに。恙なくこそをはすめれ。去年までは婦をも孫をも。 神輿洗に来したれども。きのふは何やら事の多くて。出しかねつゝ本意なかりき。婢児達は処らずや。 と問ふ言の葉に花はあれども。小文吾は雨夜の月と。霽ぬ疑念に眉うち顰め。否。家翁は人に誘引れて。 真間へいゆきていまだ還らず。婢児們は走百病しつ。奥には止宿の修験者のみ。折のわろくて人気なく。 款待態の疎さよ。納戸は絶て風も入れず。且くこゝにて相譚給へ。扨も婦人の夜行を厭はで。沼藺をしも将て来ませしは。 大かたならぬ故こそあらめ。と問かへされて。妙真は。衣領推緩めて。小膝を進め。現推量せらるゝ如く。 いといひがたき事なれども。凡貴きも賤きも。男女のうへはしも。親の随意なるものならねど。年来夫婦睦しく。 孫さへはやく挙たる。母は老楽。幸あるものと。近きわたりの人々に。羨れしは今恥しき。夫婦口舌の縺れより。 憎からぬ婦を離別の断り。憎れに来つる心の苦しさ。神ならずして誰かはしらん。 はじめをいへばいぬる日の。八幡の相撲に房八が。おん身に負てかへりしより。左に右機嫌のわろけれど。 敵手はお沼藺が家兄なり。慰めかねしこの子の当惑。一日二日と歴る程に。何思ひけん房八は。生涯相撲を取らじとて。 額髪を剃落せし。昨夕俄頃に浜辺の捫択。和げ給ひしおん身の截判。如才あるにはあらざめれど。根は腹たちのおさまらぬ。 箭さきわろさに房八は。憤恨甚しく。女房去てこの確執の。黒白を判るとて。母が諫も用ひぬ短慮。媒は去歳の秋。 古人になりつ。今さらに。誰とて相譚ふものもなし。さりとて人に送らして。情由も得告ず返さるゝ事にしあらねば母親の。 役ならぬ役に倶して来つ。熟も馴染て濃中を。裂くはうら見の葛の布。縫合されぬ紊苧の。くるしきものは浮世の義理。 と丈夫に勝れぬ女子の甲斐なさ。可愛やお沼藺は磬蝉の。鳴より外に術もなき。心の誠を知りながら。 果しなければ慰めて。扶けて轎子に乗する折。大八が跡追ふて。泣くは理り母と子の。別れをが知らせてか。 携る袂を振払ふて。出られもせず。出しもせず。四とはいへどその冬の。師走生れの年弱もの。いまだ乳房をはなさねば。 二葉の小草。はゝその森の。蔭ならずして。いかでか延育ん。已ことを得ず合轎に。乗して来つればこよなき歓び。 外祖さま許とくゆきて。美衣着たるを見せ侍らん。物賜らん。と余念なく。膝踊せし稚児の。心は智恵なき聖か神か。 門まで来つゝ母親の。膝倚子借て熟睡せし。夢の浮橋中絶る。歎を知らぬが歎きのひとつ。涙の種は蒔なくに。 憂事毎に生出て。思ひ草とやなりぬらん。愚痴は女子の苧車か。繰返し又かへしても。返すに難き離別の情由。 々にもこれらの趣。とにもかくにも執なして。まうし給ひね。といひかけて。 酸鼻たる姑の言葉に露を結びそえし。沼藺はよゝとぞ泣沈む。小文吾はつくづくと。うち聞て嗟嘆しつ。 言詳なる大家の口状。大かたはこゝろを得たり。沼藺は又思ふ事。いふ事あらばいへ。聞ん。いはれし外になほ深き。 意味はあらずや。いかにぞ。と問ばやうやく頭を擡。女子のうへには五障とやら。三従とやらいふことの。 ありとし聞けば良人には。理なきことも悖らはず。四年以来声立て。いひ懲されしこともなく。心を小めて家の内。 風波立ず取る楫の。朝な夕なの船日記。世わたる業も人の手に。任せぬまでに暇なみ。馴し住ひは川添の。 門の柱は朽るとも。死ずば出じ。出されじ。と思ひしものを。思ひきや。飽もあかれもせぬ中を。去れて還る親里の。 閾も高くならんとは。只願しきは両方の。心ごゝろの和ぎて。胸騒しき風雲の。旧の峰上にをさまらば。 かきくらしつゝ迷ひ来し。涙の雨はとく過て。是より袖の乾きてん。吾儕は撲れ。傷られ。いくその艱苦を受るとも。 恥も厭じ。恨みもせじ。品よく応接し給はらば。十日の飢渇に糧を獲て。千年の齢を延んより。これにましたる歓びの。 又あるべしや。とばかりに。涙坐にはふり落て。膝に抱く子も袖濡さるゝ。隻手空しく使れぬ。痞圧だに撓げなり。

《南総里見八犬伝第四輯巻之三》第三十六回

小文吾は今さらに。事を好むにあらねども。しうねく怨む房八に。既に大事を知られしかば。忍べと親の箴に。 刃に被し紙索すら。今は厭ふに遑あらず。わが顕身の息ある程は。いかでか彼人を逓与すべき。と思へば些も退かず。 立ば撃ん。と刀の柄を。握詰たる指の汗に。釘も湿る可なり。当下房八ますます焦燥て。 あな見ぐるしき女子の截判。泣ばとて口説ばとて。宝の山に入りながら。手を空してかへらんや。 喧嘩の側杖打れんより。其処退ずや。と敦圉て。衝と立さまにる。 爪頭狂ふて大八が腋肚を蹴てければ。苦と一声叫びもあへず。そがまゝ息は絶にけり。沼藺もその子を抱るまゝに。 横転輾てよゝと泣く。房八これを物ともせず。信乃はまさしく子舎に。と進む前面に小文吾が立塞るを抜打に。 拳尖く丁と撃。刃を鍔もて受留れば。紙索は断れつ。小文吾は。今ぞ仇なる堪忍の。二字も反故と恨の刀尖。 抜あはしつゝ丁々と。を削る迭の太刀風。四下を蹴立て戦ふたり。沼藺はやうやく身を起して。 見ればわが子は息絶たり。こはいかにせん。かなしや。と泣つうらみつ見かへれば。兄と良人は一上一下と。 結びたる生死の際。この子もいと惜し。彼首も危し。夫子には去られ。子は殺されて。 わが身ひとつぞ憖に。生る甲斐なき火宅の苦み。刃の下に玉の緒の。絶なば絶よ。と忽地に。志を励して。 かき抱きたる大八を。撲地を投捨。身を起す。哀しみあまりて。些も擬議せず。そは情なし短慮なり。 物にや狂ひたまふらん。止り給へ。と呼かけて。打あはしたる白刃の中へ。入らんとすれば小文吾は。 あぶなし。退け。と疾視て。よせも立ねどあちこちと。禁る女の念力。 身を投かけて良人の袂に。携るを透さずふり落す。房八怒れる眼を反して。碍すな。と蹴倒せば。笄撥矢と折飛て。 髻結断離るゝ乱髪。縺くるしく臥つゝも。足を抱けば踏かへされて。起んとしたる頂の上に晃く良人の刃。 踏入て。小文吾を。撃んとうち振る拳狂ふて。沼藺が乳の下る。 灸所の深痍に霎時も得堪ず。苦と叫て倒れけり。是は。と駭く敵の透間を。得たりと進む小文吾が閃したる白刃の電火。 房八は右の肩尖。ぱらりずんと割れ。拿たる刀を戞と捨て。尻居にと平張仆を。 再び撃ん。と振揚る。刃の下に房八は。やよ等。犬田。いふことあり。とせわしく禁て左手を突立。 頭を挙つ。蜻蛉の。息吻あへぬ。深痍の苦痛。小文吾は訝しと。思へば些も由断せず。血刀閃りと取なほして。 片膝突て佶と疾視。卑怯なり山林。いふ事あらば疾いはで。この期に及びて。何をか聞ん。と窘れば。 眼をり。その疑は理りなれども。わが本心を初より。諦さば特に義を守る。和殿いかでかわれをるべき。 且この痍を。と手を抗れば。小文吾はなほこゝろ得ず。と思ひながら刃の濃血を。拭ふて遽しくに納め。 単衣の袖を断離つゝ。手拭と結合して。房八が瘡口を。楚と巻て端引結び。やをれ房八。痍は浅かり。 いふ事あらばいへ聞ん。いかにぞや山林。と呼かけられて息を吻き。喃阿舅。犬田殿。栞崎にて理不尽なる。 わが為体は予より。和殿に怒を発さして。撃れて難義を救はん。と思ひにけれど事成らず。親の諫めと堪忍を。 守らるゝにはすべもなく。よに有がたき大勇に。いよいよ羞て立別れつ。さりとて已べきことならず。 わが母には予より。示あはせしよしあれば。沼藺を離別に仮托て。甲夜より和殿の気色を試み。今宵再び推て来て。 やうやく本意を遂にき。と告れば小文吾眉根をうちよせ。こゝろ得がたし山林。われは沼藺が兄といふとも。 和殿に大恩あるものならず。然るをその身を殺すまでに。志を尽されし。是疑ひの一なり。 縦和殿のこゝろもて。可惜命を隕すとも。今宵に逼りしわが難義を。救るべきよしあらず。是疑ひの二なり。 なほ故ありや。と問詰れば。房八聞て。声を励し。さればこそ其事なれ。言ながくとも聞給へ。輪回の説。因果の理。 物の本には見つれども。皆わがうへにあるべしとは。一切思ひかけざりき。是も果敢なき今般の懺悔。告るも面なきわざながら。 一昨年の秋世を逝りし。わが父の病危かりし時。窃に母と某を。枕辺に呼近づけ。われはこゝの小厮より。 こゝのあるじになり上りて。一子房八は成長りぬ。わが齢五十を超て。一期の望。分に過たり。しかれども。 こゝろに恥ることあれば。戸山はさらなり。房八にも。素姓を定かに告ざりき。思ひし事をいはで死なば。 冥土の障になりぬべし。よりて窃に告るのみ。抑わが父は。杣木朴平と呼れたる。安房の青海巷村の百姓なりき。 性として武芸を嗜み。殊更に侠気ありけり。この故に故領主。神余長狭介光弘朝臣譜第の忠臣。金碗八郎孝吉ぬしの。 武芸を頻に景慕して。その剣法を受んとて。彼家に仕し事あり。かくて又年を経て。佞臣山下定包が。神余の執権たるにより。 淫酒を勧めて民を虐げ。逆謀萌を見せども。光弘これを暁り給はず。金碗八郎ぬしはさらなり。諫るものは皆追れて。 その家竟に乱れたり。わが父は是義気ある人なり。里人等が為。金碗氏の為に瞋憤り。いかで定包を撃んとて。 同志の友だち。洲崎無垢三といふ壮夫を相譚つ。彼定包が遊山を窺ひ。落羽畷に埋伏して。乗たる馬を心当に。 射て落せしは讐ならで。領主光弘にぞをはしける。無垢三は当坐に撃れ。わが父は領主の近臣。那古七郎と血戦して。 七郎を仆せたれども。その身遂に生拘られて。軈て刑戮せられけり。この条の錯は。 みな定包が奸計なるを。わが父漫に思ひ迷ふて。かくは領主を犯せしかば。金碗氏は里見を佐て。功成り名を遂し後。 禄を辞して自殺せり。こもわが父の故とぞ聞えし。当時吾儕は十四歳。母は曩に身まかりぬ。独安房国を亡命して。 この地に漂泊する程に。里人に汲引せられて。こゝの小厮になりにけり。是よりして年あまた。心を切て仕しかば。 先主人愛歓びて。さるものなりと思はれけん。家督の男児なきゆゑに。吾儕を女壻にし給ひぬ。しかるに去歳より通家になりし。 房八が舅文五兵衛は。那古七郎が弟なりとぞ。今歳はじめて仄に聞ぬ。渠その壻は兄の讐なる。杣木朴平が孫なるよしを。 伝へも聞かば。いかにして。その女児をもて阿容々々と。房八に斉眉すべき。とり復されん事疑ひなし。しられねばこそ口舌もなけれど。 怨を慝して好を結ばゝ。終に子孫の患を遺さん。さればとて。沼藺が怜悧き。人も羨むなるに。 いちはやく挙たる。孫に乳房を放さして。去せんはいといたう。忍びがたきわざになん。那古が弟と知らずして。 通家になりしは悪因縁。孫が拳の人なみならぬも。三世の後まで怨を惹く。彼刀祢ばら神余那古金碗をいふ。の祟か。 と思ひ屈しつゝ病煩ふて。わが死期ちかくなりにけり。人の怨を解んとならば。陰徳にますものなし。房八は親に代りて。 祖父の為に汚名を雪め。彼旧怨を釈ことあらば。寔にこよなき孝行ならん。且房八は祖父に肖たる。侠気ありて武芸を好り。 義の為には命も惜まじ。戸山も心を雄々しうして。わが子を諫奨し給へ。と窃に遺言せられたり。父は義理に惺き事。 既已かくの如し。われに親に及ずとも。その子として志を。嗣ざるべきや。と思ひ起しつ。祖父の汚名を雪ん為に。 杣木の杣の木篇を除て。下なる木字に相合し。みづから山林と名告れるは。その比よりの事なりき。さるによりわが舅。 文五兵衛殿親子の為には。人に異なる志を。竭して後に親の遺言。明々地に告ばや。と思へども折もなく。 実義をあらはす術もなし。さればいぬる日八幡の相撲は。和殿とわれと目星に指れし。修験の募に任するものから。 吾儕は絶て勝負を好まず。技も力も和殿には。及ぶべくもあらざれども。怪我にも勝じと念じつゝ。果して負しは歓びなれ。 何でふねたく思ふべき。そをかにかくといひ立しは。娟るものゝさかしらのみ。かくてきのふは祇園会の。 神輿洗を観ばやとて。この浜に来て遊びつ。岳父文五兵衛をいふを訪んと思ひつゝ。 入江橋を渡る程に。岳父は遥に水際なる。蘆分船の中にして。怪しき両個の壮佼と。うち相譚給ふになん。 端なく呼も立がたさに。そのほとりに近づきて。思はず窃聞してけるに。犬塚犬飼値遇の奇譚。和殿も亦その相似たる。 玉さへ痣さへあるよしを。聞くにますます感激して。今更出るに出られず。蘆原に躱ひて。独倩おもふやう。 われも亦相似たる。玉と痣とあるならば。彼人々の隊に入て。世の豪傑といはれんものを。過世わろくてさるものなければ。 義を結んと願ふとも。許さるべきよしあらず。同盟の議は協ず共。当初は千葉の采地にして。滸我の御所の御方なり。 犬塚犬飼穿鑿せられて。難義に及ぶことあらば。窃に舅に力を戮して。わが性命を隕すとも。その危窮を救ざらんや。 しからんにはわが父の遺言を果さん事。只この時にあるべし。と窃に思ひ決めたり。かくてその日ははや暮て。 彼人々は古那屋へとて。あるじの翁に伴れつ。和殿はひとり留りて。件の船を推流し。血つきの衣ども背負つゝ。 立かへらんとせらるゝにぞ。あまりに遺憾ければ。卒とものいはん。と蘆原より。立は出てもいひがたさに。 恍惚に引留しを。和殿は癖者なりとして。振払ふたる勢ひに。いよいよ呼もかけられず。且く挑争ふ程に。 吾儕はをいたく打れて。倒るゝ間にいちはやく。和殿は走去たりき。跡には遺せし麻衣あり。 他人に拾れなば。殃危其処に起らん。と思へば軈てとりあげて。更闌て宿所に還りつ。 母にすらまだ告ざりしに。犬塚生追捕の事。はや荘官より徇られたり。当下われ又思ふやう。わが舅は客店なり。 彼人々を舎蔵ふとも。人の出入多ければ。いく程もなく顕れて。犬塚犬飼いへばさらなり。あるじ親子も罪せられん。 さればとて今更に。義を結びたる人々を。出し遣るべくもあらず。所詮今わが命を隕して。其処に危窮を救はずは。 竟に脱れがたかるべし。きのふ入江の蘆原にて。つくづくと闕窺しに。彼犬塚が面影は。わが面影に似たるやうなり。 さればわがこの頸をもて。犬塚生の首級と偽り。滸我のおん使に逓与しなば。岳丈父子に祟もなく。犬塚生を落しやる。 便宜はこれにますものあらじ。然ども似ざる所あり。吾は相撲を好る故に。額髪を剃ざれば。その面影は似たりとも。 この儘にては欺きがたし。と心づきては霎時もあらず。八幡の相撲に負たれば。生涯土俵に足踏かけじ。と寓言して今朝俄頃に。 額髪を剃落させ。鏡を把て照し見れば。年紀さへ面影さへ。犬塚生によく似たり。よりていよいよ深念を決し。 窃に母に云云。と思ふよしを告しかば。母は涙さしぐみて。許すべくもあらざれば。われも有繋に請かねて。 自殺の遺書する程に。母ははやくも闕窺て。禁めがたしと思はれけん。泣つゝやうやく許されけり。わが母も亦義理に怜悧く。 男魂あるにより。今生の告別。思ふ事皆いひ尽しつ。縡のやうを知らん為に。俄頃に沼藺を離別して。親家へかへすといひこしらへ。 離別の事は母に任して。われはやこの浜に来つるとき。栞崎にてゆくりなく。和殿が宿所へ還るにあひぬ。 折ふし往返の人もなし。わが撃れんには便宜の場なり。和殿は身がはりに意なくとも。犬塚生とわが面影の。 似たりと視る目は。誰にもかはらじ。わが死するの後わが頸もて。彼身がはりに立ばや。と心づかざることはあらじ。 と思へば些も躊躇ず。浜里の確執に仮托て。理不尽に譴罵り。蹴倒してもなほ争はで。親を思ふて堪忍ぶ。 その孝心にはすべもなく。本意を得遂ず別れたる。途より酒を酌んとて。只管誘引ふ観得を。先に立つゝ出し抜きて。 取て返して稲塚の。辺まで来つるとき。和殿は既に難義あり。滸我より犬塚追捕の大将。新織帆大夫とやらんが夥兵等にとり囲れ。 剰岳丈夫文五兵衛殿は。縛られて牽れたり。吐嗟。と胸は騒げども。救ふべくもあらざれば。藪蔭に躱ひて。 一五一十を見聞たり。かくて。和殿は虎口を脱れて。家路をさして遽しく。去りにし跡に一通あり。取揚て見れば。 彼骨相図なり。麻衣といひ。絵図といひ。不思議に他人に拾れず。わが手に入るは縡の幸ひ。今宵は決して本意を遂ん。 と思へば心に勇あり。予て示しあはしたる。中宿に赴きて。窃に母の来ぬるを俟つゝ。云云と密報て。彼骨相図を逓与せしは。 和殿が心を騒して。今宵撃れん為なりき。さるにより甲夜の間は。背門の辺に潜来て。犬塚生の大病も。 和殿が苦心もよく知たり。願ふは阿舅犬田殿。わが頸取て役にたて。岳父の縲絏と犬塚生の危窮を救ふ手段をめぐらせ。 ふるき怨を釈としならば。これを一期の功にして。昔杣木朴平は。定包を撃んとて。領主を犯して。剰。那古七郎を撃とりつ。 且その師なり故主なる。金碗氏にもこの故に。腹を切せしものなれども。今はその孫房八が。云云の義烈によりて。 孝子義男の寃枉と。岳丈の縲絏を釈にき。と口碑に遺し給はらば。祖父の汚名を雪むべく。父の遺訓も空しうせず。 死して栄あるわが歓び。百歳の寿を保て。富貴の人とならんより。これにます事あるべしやは。身の歓びに就てなほ。 不便なるは沼藺大八。親子三人がおなじ日に。おなじ所に命を隕すも。亦是祖父の悪報か。妻子には一毫も。意中の機密を告ざれば。 怒を移して去るとのみ。思ふてさぞな恨みけん。われこそ必死を究めけれ。沼藺は年なほ二十に足らず。 わがなからん後憖に。後家立させんは便なきわざなり。事に仮托。離別せば。かへりて渠が為ならん。と思ひし故につれもなく。 もてなせしこそ悔しけれ。かうなるべしと予より。悟らばいかでか返すべき。大八さへに隷て遣りしは。 渠が成長る後まで。外猶父に教育を頼ん為なり。しか思ひしは仇事にて。過失とはいひながら。妻をも子をも手にかけて。 殺して竟に身を殺す。輪回応報かくまでに。ありけるものか犬田殿。この悪縁を結びし故に。沼藺が枉死は夫の余殃。 岳父の歎きも。和殿の憾みも。想像つゝ面目なし。許し給へ。と血に染し。左手を抗ておろがむまでに。 心の誠うち諦す。儔稀なる孝順節義。深痍に屈せぬ長物語に。小文吾耳を側つゝ。胸を拊て感嘆の目をしばたゝきて涙を払ひ。 思ひがけなし山林。和殿は親の遺訓を守りて。旧怨を釈ん為。身を殺して仁をなす。心操こそ微妙けれ。 和殿の祖父が謬て。犯せし罪は重くとも。子孫三世の今にして。その汚名を雪る孝順。和漢に多くあるべしやは。 犬塚生の面影は。和殿とよく相似たるものから。累世の主君の為にも。身を殺してその死に代る。忠臣はいと稀なるに。 和殿とわれは通家にして。犬塚生は相識ならず。且八幡の相撲より。快からず見えしかば。窮難今宵に逼れども。 外にだも憂苦を告て。その智恵を借んと欲せず。況身がはりの事などは。企及ぶべきにあらねば。一切思ひかけざりしに。 今ゆくりなき資を得て。父の縲絏を解くよすがにも。わが同盟の士を救ふ。便点にもならるゝ事。意外に出て歓しく。 又哀しさも一しほなり。人を殺して。人を救ふは。素よりわが願ひにあらず。犬塚生も如此ならん。 しかりとて今更に。推辞てその意に従はずは。水に懲て湯を辞す如く。和殿をここに狗死さして。わが家に相伝る。破傷風の奇方あり。 男女年なほ少壮ものゝ。鮮血各五合を取り。合してその瘡に沃ぎ洗へば。よく死を起して生に回し。その瘡も亦癒ること。 箒の塵を払ふがごとく。百発百中愆ず。譬ば養由基が百歩を隔て。柳葉を射つるが如し。便是わが伯父なりし。 那古七郎の伝方なりとぞ。父に口授せられしかど。求めて得べき薬剤ならねば。施しがたしと思ひしのみ。 犬塚生はその暁より。破傷風によりて。命危し。この故に犬飼生は。武蔵の志婆浦に良薬あり。そを求んとて潜やかに。 今朝しも彼処へ赴きたれど。道遠ければいまだ還らず。縦和殿の便点に任して。今宵の危窮を脱るゝとも。 彼人の命終らば。亦何の益あらん。されば沼藺が枉死によりて。図らず男女の鮮血を獲たり。不幸の中の幸か。 天か。人か。欲する所。只塞翁が馬に似たり。是はこれ犬塚生の孝心義胆世に捷れしを。憐み給ふ神明仏陀の。 冥助にあらで亦何ぞや。心安かれ山林。和殿とわれと前世は。相殺したる讐敵。今は旧怨氷解して。恩義は千引の石より重かり。 功徳をながく口碑に伝へて。義烈の亀鑑にせざらんや。とはいへかく迄逞しき。志気ある壮夫を。よしや彼玉はなくとも。 又つゆばかりの痣はなくとも。わが同盟に請加なば。久後さへに憑しからんに。親子三人が共侶に。こゝに命を隕す事。 恨のうへのうらみなれ。賢にして且雄々しき。大家なりとも斯とし聞かば。いよゝますます頽折て。歎き給はん痛しさよ。 嗚呼何とせん。とばかりに。義理にしがらむ愛哀苦。浮世はうしや丑三の。鯨音遠く響つゝ。いとゞあはれをそえにけり。

《南総里見八犬伝第四輯巻之四》第三十七回

当下ヽ大は席上を。つらつらとうち見巡らし。人々ふかくな訝りそ。初より実をもて。汝達に告ざりしは。 思ふよしあればなり。われは年来故ありて。仁義礼智。忠信孝悌の八个の文字。おのづから見れたる。八顆の玉を索ん為に。 六十余国を行脚すれども。一个の玉だも見ることなかりき。かくて今茲五月の初より。杖を鎌倉に曳く程に。 昔歳竹馬の友なりし。蜑崎十一郎照文が君命を稟奉り。賢良武勇の浪人を。しのびしのびに募るとて。関東なる国々を。 潜行くに環会ぬ。折からこの行徳に。云云の力士あり。そが一人は臀に。黒大なる痣ありて。 牡丹の花に似たること。思ひあはするよしあれば。そが膂力をも試るべく。又その痣をも見ばやと思ふて。 窃に十一郎と示合し。われは鎌倉の修験者。念玉と仮名を告り。彼も亦鎌倉の修験者。観得と仮名を告て。 途にて従者を傭ふまで。衣裳も行李も似つかはしく。山伏に拵立て。共侶にこの浦に来つ。先達職得分の争訟に仮托て。 いぬる日八幡の社領にて。犬田と山林が相撲の勝負を試みしに。技も力も劣らず優さず。m房八は小文吾に。 芸術聊亜なるのみ。この折果して犬田が痣を。眼前に見ることを得て。いよゝ捨がたきおもひあり。しかれども。 多力にして智恵なくものは。是則牛馬に等し。兇勇にして残忍なるは。是則虎狼に等し。縦犬田山林等。 人に捷れし力芸ありとも。その心術正しからずは。薦るに足るものならず。よく行状を見究て。後にこそ。 と深念しつ。遊山翫水に仮托て。十一郎共侶に。逗留して今宵に及べり。かくてきのふ甲夜の間に。われ浜里よりかへり来て。 呼門ども応するものなし。よりて背門より入らんとて。漫に立遶つゝ。生垣の。間より不図うち聞けば。 あるじ親子は子舎に。犬塚犬飼等と団坐しつ。彼玉の事。痣の事。又彼額蔵の荘助が事さへに噂せしを。 聞とはなしに窃聞つ。又闕窺つ。年来の。宿望成就の時到れる。わが歓びは餓鬼にして。地蔵の宝珠を見るに勝れり。 さばれその宵はこゝに宿らず。背門の庭より取てかへしつ。十一郎が旅宿にいゆきて。窃に云云のよしを告。 諜あはして今宵又。こゝに宿りを鶏が鳴く。東に広き国々にも。類稀なる房八が。孝順義死の事の趣。犬田親子が良善信義。 及犬塚が。賢にして薄命なる。又犬飼は友の為に。志婆浦に赴きし。いくそばくその憂苦艱難。窃に見もし聞もして。 且感じ且悼る。わが袖さへに濡しつゝ。おなじ浮世の笠やどり。其処に在る身も有繋にて。出てわがうへ人のうへ。 説諦すべき時宜のなければ。なほそのやうを見果んとて。かくまでに時を移しつ。今はかうと思ひしかば。 行李を披きて姿を更め。旅より旅に窶れたる。われは行脚の老僧なるを。人々に示すべく。且房八等。その妻その子の。 臨終正念。幽魂解脱の。導師ともならばやとて。二十年あまり埋木の。花さかぬ身の苔衣。旧の姿になりたるなり。 われも昔は憂に堪で。捨果し世にすみ染の。袖もて掩ふに余りある。四個の義士等が不幸薄命。或は一慈父。一賢母。 或は貞婦と小児の枉死。おもへばむかし薄命を。歎きしわが身は数ならず。南無阿弥陀仏と唱つゝ。そが概略をぞ説示す。 当下蜑下照文は。扇を膝に推立て。諸賢者。伝へ聞るや否や。わが主君里見殿は。文を右にし。武を左にす。 当時無双の良将たり。この故に。仁義にあらざれば動き給はず。礼智にあらざれば起給はず。忠信にあらざれば用ひ給はず。 孝悌にあらざれば賞し給はず。しかれども安房上総は。南島の尽処にして。賢を招くに普からず。よりて某。 主君の密諚を奉り。封彊を出て。英士を募め。且二十有二年。絶て信聞えずなりし。孝徳入道ヽ大坊が。 存亡を訪ん為に。今茲東八个国を編歴つゝ。はからずも鎌倉にて。法師と再会の事の趣。目今ヽ大のいはれし如し。 さればヽ大と某と。姿を変てこの地に来つ。陽には不快にもてなしたれ共。陰には水魚の如く。影の形に従ふ如し。 さるにより某は。甲夜に背門より潜よりて。倶に別室にをり。ヽ大が笛を吹くときは。われ立出ておのおのの為体を窺ひつ。 われ退けばヽ大法師が立かはりて窺ひつ。縡おちもなく聞見して。感涙ほとほと袖を濡せり。犬塚犬飼犬田等は。 既にわが主家に宿縁あり。山林はその事なくとも。亦得がたきの豪傑なり。われ。ともかくも相謀ふて。犬塚が今宵に逼る。 窮阨を救ふべきに。早りて命に代らん。とせられしは遺憾し。わが主君里見殿は。おん父季基朝臣共侶に。 結城籠城の折。忠戦の義によりて。成氏朝臣の御方たれども。近き比は。滸我の執権。横堀史在村が。 奸佞非法の聞えあれば。おのづからに疎遠にして。交はじめの如くならず。されば犬塚難義に及ばゝ。 われ亦一臂の力を戮して。追手の兵を殺ちらし。相伴ふて本国へ。還らんとこそ思ふなれ。人々心安かるべし。 と叮嚀に慰めて。来意を詳に告るになん。僉駭然としてうち驚き。思ひ惑ふてなほ覚果ぬ。夢に夢見る心地せり。 そが中に信乃小文吾は。共侶に膝を進めて。ヽ大照文等にうち対ひ。思ひがけなき両君の本名来由を示されて。 疑ひ忽地氷解せり。しかれども。道徳は又何等の故に。仁義礼智云云の。八个の文字見れし。八个の玉を索給へる。 又何等の故ありて。身の痣牡丹に似たるものを。窃に愛顧せられしやらん。こゝろ得がたく候。と辞斉一尋れば。 ヽ大はしばしはうち点頭。しかおもはるゝは理りなり。さらば縁故を告ん。その所以は如此々々。と彼八房の犬の事。 伏姫うへ始終の事。役行者の示現感応。并に白玉の数珠の事。わが身出家行脚して。二十二个年歴たる事。 凡事の顛末は。安西景連が滅亡の条より。伏姫自殺の条まで。辞短く解示しつ。さていふやう。伏姫うへは賢にして。 心操いと雄々しく。孝にして慈悲ふかく。才貌無双の未通女なりき。この故に。八房の犬に伴れて。富山の奥に入り給ひしかど。 絶ておん身を汚され給はず。法華経読誦の功徳によりて。彼犬さへに成仏せり。しかれども。因果脱れがたければにや。 思はずもその気を感じて。懐胎六个月に及び給ひしかば。羞て自殺し給ふ折。その瘡口より一同の白気忽然と立冲て。 彼感得の数珠もろ共に。中天に晃き乱れ。仁義八行の文字見れたる。その八个の巨玉は。八方へ飛行し失て。 残れるは地に堕たり。われ謬て鳥銃もて。件の犬を撃殺し。剰姫に傷けたれども。君公の仁慈なる。当坐に自殺を禁給ひて。 御手親某が髻を剪捨つゝ。出家を許し給ひしかば。いかで失たる八个の玉の。往方を索て又旧の。数珠に繋ずはかへらじ。 と誓ふて故郷立去りにき。しかるに汝達現八等。又彼犬川荘助も。感徳の玉あるのみならず。その玉に見れたる。 文字はわがこの数珠と符合す。且彼八房てふ犬は。その毛白と黒きを雑へて。黒きは牡丹の花に似たる。 その数八个の斑毛なりければ。八个の花房といふ義をもて。八房と名づけ給へり。しかるに汝達荘助等まで。 四個は倶に身中なる。その痣牡丹に似たるにあらずや。かゝれば是汝達は。おのおの父あり母あれども。 その前身は伏姫の胎内より顕れ走りし。白気の生れるものなるか。その因を推して果をおもへば。皆伏姫のおん子にして。義実朝臣の外孫たるべし。 且おのおのその氏さへ。或は犬塚。或は犬飼。或は犬田と。皆犬をもて称すること。是不可思議の因縁なり。 かゝれば汝達四人の外に。又四個の犬士ありて。その相似たる玉と痣と。具足したらん事疑ひなし。 今その人を得ずといふとも。竟に全く聚ざらんや。わが宿願稍時到りて。こゝに半を果したり。疑しくはまずこれを。 よく見よかし。と説諭して。伏姫の像見なる。数珠を取出て示すになん。信乃小文吾は豁然と。玉の来由を感悟しつ。 遽しく彼数珠を。受てつらつらとこれを見るに。現自他四人が所蔵の玉と。一毫も異なることなし。 只顕れたる文字なきのみ。数珠は百顆にして。数とりの。八个の巨玉なかりけり。原来吾們が所持しつるは。 みなこの数珠の巨玉なりき。と思へどもなほわれとわが。過世怪しむ両犬士と。倶に妙真も感嘆して。件の数珠を見つ拝みつ。 幸にして。縡断ざりし。夫婦が耳にも入りたりけん。房八は苦しげに。吻と息して眼をり。 よに羨しき人々かな。わが子の横死は惜むに足らず。わがその隊に入るによしなき。なからん後までいと欲けれ。 噫憾べし憾べし。と只管嗟嘆したりけり。ヽ大はこれを憐みて。そのほとりに立よりつ。やをれ房八。さのみな憾そ。 汝犬士にあらずといふ共。その義烈は犬士と共に。後の口碑に伝らざらんや。われは則汝が祖父。安房の杣木の朴平が武芸の師なり主なりし。 金碗八郎が独子なり。八郎大人の自殺の事は。定包を討滅せし。功成名遂て。栄利を願はず。死していよいよ亡ざる。 是忠臣のこゝろなり。さりけれども。彼朴平が失は。尤わが父の憾所。誰かこれをよしとせん。唯この順孫房八ありて。 祖父の悪名を雪るに足る。よりてわれ今汝が為に。朴平が疎忽の罪を。亡父にまうし宥るものなり。これを冥府の裹にして。 清果を得よ。と諭したる。辞をちからに房八は。佶と向上つゝ左手を抗て。頻にヽ大をうち拝む。歓びさこそ。 と妙真は。又哽かへりて哭にけり。

《南総里見八犬伝第四輯巻之五》第四十回

浩処に訛声高く。阿懐久しう値ざりき。と呼かけて背門より来るものあり。妙真は誰そ。と応て。木魚かい遣り。 珠数とり収めて。身を起さんとする程に。はやあなたより縁頬なる。簀戸に会釈もなく手をかけて。戸走りと推開くを。 驚きながら見かへれば。その人の年の齢。五十にもやなるべからん。眼円に鼻大く。頬骨高く。唇厚く。板歯一枚脱たるを。 臘石をもて補ふたり。皮膚は赤黒にして。秋茄子の如く。髭鬚は半白して。老冬瓜に似たり。黄戻木綿の単衣は。 肩と腰と汗染て。申の時になりたるに。犢鼻褌のみ花々しきを。これ見よがしに顕して。片端折せし裙も下さず。 四空柱に身を倚て。己が随なる高胡床。近辺の団扇をわが物に。とり揚て衣領を推披き。暑し暑し。 とうち扇げば。戦ぐ胸毛の熊に似て。花繍さへ月輪か。命と書し痩肩に。掛たる手拭左手に攫て。腮の下まで洗るゝ汗を。 頤擡げて拭ひけり。これは是土地に名だたる。暴風の舵九郎と呼れたる。宿も定めず彼此に。身を傭して船を漕げども。 酒と賭博にのみ耽る。烏滸の癖者にぞありける。曩にこの犬江屋にても。工の乏しき折々は。 傭ふて出船に遣せしに。船荷を窃減すといふ。よからぬ風聞ありしかば。房八はうち腹たてゝ。大く罵り懲しつゝ。 尓後は寄つけざりしに。今ゆくりなく来にければ。妙真はあらずもがな。と思へどもさらぬ面色して。背門より奥まで進々と。 呼門あへず来る人は。誰なるらんと訝しかりしに。居起に途を断られたる。舵九郎どこにこそ。けふはいかなる風に吹れて。 こゝらへ訪れしことやらん。と窘れども些も羞ず。さのみ憂悒し給ふな。銭がなければ洒落もせで。浜辺の貝に劣れども。 風に吹れて来たるにあらず。波にれて寄るにもあらず。いぬる日夥計の奴原が。娟みて讒告したりけん。 こゝの哥々に罵られて。安否も問はずなりにたり。そはとまれかくもあれ。旧き馴染を今さらに。さまでもなき事気に持て。 いつまでかかくあるべき。けふは訪ん。翌は邁ん。と思ひつゝ人に聞けば。哥々は鎌倉へ赴きて。いぬる月より今に還らず。 御は里へ返されし。といふはつやつや解せぬ事なり。故なからずや。と手を叉て。他の疝気を頭痛に患むまで。 とさまかうさま案ずれば。仄に聞しこともあり。又見出せし物もあり。是から勘を附て見れば。こゝには近属法師と武士と。 或は一宿。或は二宿。迭代に逗留せり。それでやうやく云云と。疾視し眼は違ざめれど。 人の讒訴をすべくもあらず。かゝる時こそ馴染甲斐なれ。問状かけて。阿懐の。返答聞て身にもならん。仇にもならん。 と思ふ程に。けふは闔宅の工們も。出船に就てみな在らず。彼客人も出てゆきし。と定かに告たるものあれば。 気の毒ながら推掛相談。人に聞する事ならねば。背門より見ふ故事来歴。序開はまづかくの如し。 後段はいといと長かるに。間近く寄りて聞給へ。問べき事もあるものを。こゝへこゝへ。と狎々しげに。 席薦敲きつさし招く。言葉の端も伎倆ある事とし猜する妙真は。うち騒ぐ胸を鎮めて。聞てはいよゝ油断せず。 そはよく心つかれたり。志は大かたならず。歓しう侍れども。疑るべき筋ならんや。房八が鎌倉へ。赴きしは人みなしれり。 沼藺を行徳へ遣せしは。初媒せられし人の。去歳の秋身まかりしに。今茲は又その後家どのゝ。 長き病著に臥したり。と告られたればうちも措れず。そを看とらせん為にこそ。彼処へとて遣したれ。又彼両個の旅人は。 原は古那屋の客なれども。又房八にも疎からねば。渠が還るを待わびて。しばしばこゝへも来給ひつ。道遠ければ日の暮て。 かへすに遅き折々は。宿する事のなからずやは。といはせも果ず膝突詰て。否。宣ふな慝し給ふな。情由は大抵猜したり。 おん身なりとて老ふたる。檜垣の媼が姉にもあらず。齢は四十あまりといへども。根がその縹致の捷れしゆゑに。 脂も脱ずみづみづし。久米の仙人に闕窺さしても。雲の歩板を踏外して。忽地落ん女房盛りを。うたてや年来寡居の。 枕寂しく不図せし事より。心ともなく惑ひ染て。何がし寺の色界和尚。或は連歌に香立花。手蹟美事に趣ある。 鉛刀武士の浮浪人。一個も二個も密夫の。なしとはいはさず証拠あり。色に惑へば子でも亡ふ。昔物語もあるものを。 不便や哥々は殺されしか。第一番に疑しきは。こゝの墓所なる岡山に。新に物をめし跡あり。 されどもこゝには犬猫でも。死たりといふものなし。只房八は鎌倉へ。沼藺は里へ。といはるゝのみ。鎌倉へはなほ遠かり。 われは日毎に行徳へ。ゆきかよへども古那屋にも。また媒人の宿所にも。御の居るを見しことなし。 よしや彼岡の新葬は。哥々夫婦にあらずとも。人に隠して埋めたる。そは臭き訳なからずやは。これのみならで怪しきは。 きのふ人の噂に聞しに。いぬる比古那屋では。犬塚とかいふ罪人に。宿したる科によりて。あるじ文五兵衛は搦捕られつ。 その子の小文吾が働きて。彼犬塚が首捕て。滸我の使に進らしつゝ。親はやうやく免されたるに。その日よりして小文吾は。 いづ地ゆきけん家にかへらず。又吾儕も予て疎からぬ。塩浜の鹹四郎。孟六均太の三人さへ。この比よりして往方しれず。 といふはいよいよ疑ふべし。かゝれば岡に埋めしは。彼犬塚が亡骸か。さらずはこゝの山林と。犬田が窃に諜し合して。 鹹四郎等を殺したる。その亡骸を埋めても。有繋に後やすからねば。且く影を隠せしか。斯遺もなく勘詰たる。 三にひとつは違ふべからず。そは衆人を欺くとも。蛇の道こそ蝮はしれ。いかでか吾儕を欺き得ん。明々地にうち出し給へ。 彼新葬は何人ぞや。と詰問れて妙真は。何と岩峰に集る鷲に。身を直せし兎より。苦しき胸の波風を。再三たび鎮めつゝ。 気色に見せじと微笑みて。思ひがけなき邪猜かな。凡生とし活る物。子を慈ぬはなきぞよと。譬ば色に惑ふとも。 さる悪人は今の世に。又あるべくもあらずかし。一箇も当らぬ事ながら。疑れてはなかなかに。さのみは隠すべくも侍らず。 彼犬塚信乃とやらん。已ことを得ず阿沼藺が兄の。撃捕りしは親の為にして。素より怨あるものならず。 切てその亡骸を。葬らんと思へども。行徳はなほ憚あり。そなたの墓所へといはれしを。推辞れずとて房八が。 その意に任したりけれども。絶て見しらぬ罪人の。躯を埋得させしとて。わが慈悲貌に云云と。人に告べき事かは。 といひ瞞れば。手を拍て。俯つ仰ぎつうち笑ひ。しかいはせんと思ひしかば。信乃をも数に加たれば。問には落で。語るに落る。 よく思ふても見給へかし。犬田が仏ごころありて。よしや彼ものゝ亡骸を。埋んと欲するとも。既に八幡の相撲より。 恨を含む妹夫に。頼れもせじ。諾ひもせじ。件の事の縺より。六月廿二日の昏。栞崎にて山林が。 犬田と出会の捫択は。誰とてしらぬものもなし。尓るを云云といはるゝは。言の後先取次なる。その偽りしるべきのみ。 これによりて猜するに。小文吾はこゝの哥々を。殺して逐電せしなるべし。かくてその親文五兵衛に。窃に金もて和解れし。 おん身はわが子の亡骸を。阿容々々として人にもしらせず。葬たるにぞあらんずらん。さればさへ出したる。 女あるじの朔日より。月さへ大のみそか夫を。とり替。引替飽までに。よき楽をせらるゝよ。人目ばかりの念仏三昧。 その術は喫ぬ。論より証拠。彼新葬を発出して。目に物見せん。と立揚る。裳を楚と引留て。且俟給へいふことあり。 彼新塚は誰なりとも。その職役にあらずして。墓所を発かば不法ならん。その身に預ることならぬに。うち捨て措ねかし。 といへば見かへる睛をて。縦その役ならずとも。正しく認し不敵の悪事を。荘官殿に訴て。 賞禄にせねば酒も得飲めず。宝の山へ入りながら。手を空して帰らんや。迭に誣るか。偽るか。一跨なる岡山へ。 引もてゆきて面前に。明々黎々を分て見せん。運の際ぞ。覚期をせよ。とばかりいふては物もなし。おん身が心ひとつもて。 身にもならん。仇にもならん。と嚮にいひしはこゝの事なり。よろづに人目つゝましき。密夫を引入れんより。 再壻を招給へかし。その壻殿は外ならず。恥しながらこの鼻なり。年の程も十とは登らず。銭こそもたね健にて。 船もよく漕ぐ。小口も利く。酒は喫ども睡上戸なれば。物諍ひせぬ柔和もの。女房の尻に布かば敷け。辛防つよきは年の功。 亀の甲より八卦にこそ。ときのふ堤の売卜に。生刻を見させしに。女房を下に置ぬといふ。地天泰にて大吉なり。 身上は些劣れども。里には友達夥あり。山林が養父といふても。さのみけにくきものにはあらず。今立地に絶更て。 この商量に乗らんとならば。窃に岡へ埋めたる。その亡骸は誰にもあれ。人にしらする事にはあらず。身に引受て一代の守本尊にならざらんや。 否といへば冥罰覿面。荘官殿に訴て。守へ牽して密夫共侶。獄舎に繋ん。いかにぞや。否とも応ともいひ給へ。 あな鈍かしや。と引く袖を。払へども又こりずまに。年に似げなき色好み。憎さも憎し。腹だたし。いかにすべき。 と玉なす汗の。千々に心を摧くのみ。暴立ては事の破れにならん。と思ひかへしてさり気なく。墓所の事に憚りて。 心よはくなるにはあらねど。数ならぬ身の花もなきを。さばかりに思はれなば。そはともかくもすべけれども。 わかきはさらなり。老たるも。浮気は男の癖なるに。苟且にものいはるゝを。いかでか実事と思ふべき。雨にもそぼち。 雪にもかよひし。百夜の情深草の。例に倣ふとしもあらねど。日を連ね月を累ねて。おん身が心の変らぬを。 よく見定めて後ならずは。悔しき事の多かるべし。いとわかゝりし昔より。吾儕に浮たる事なければ。孀婦になりても猥がはしき。 濡衣は被せられざりしに。何認めてかおん身にのみ。云云といはるゝは。よに限りなき恨みなり。かくても思ひ捨じとならば。 又日を隔て来給へかし。只今応をしがたきも。亦理りに侍らずや。といふをば聞かで冷笑ひ。一寸延れば尋とやらん。 なるにもあらず。成ぬでもなく。口賢にいひとくとも。さる緩やかなる恋にはあらず。否と応とは地獄極楽。 岡の死人を掘出すも。夥の人を浮するも。その吉凶は只一言。否ならば否でもよし。 しからば岡へ。と又立あがるを。遽しく推禁て。そは又あまりに性急なり。尓らば応か。それは亦。それは亦とは人惑はしの。 此方へ向ね。と引よして。携るを振解き。かい潜りつゝ。逃ればあちこち追縁れて。せんすべもなき折から。 蜑崎十一郎照文は。文五兵衛を相伴て。行徳よりかへり来つ。背門より入らんとする程に。裡面には人の挑むがごとく。 踏鳴らす簀子の響に。作麼何事ぞ。と先に進みて。庖のかたより衝と入るに。舵九郎は妙真は。 携着んと追遶る。卻舎を拍て照文に。忽地と突当る。勢ひあまりて。仰ざまに。身を転して倒れけり。 妙真は。照文のかへり来たるにちからつきて。よき折にこそ蜑崎ぬし。といふ間に舵九郎は。勃興と起て。照文を。 向上てふたゝびうち驚き。あな無遠慮なる奴もぞある。成事んとせし密談の。腰を折るまでいといたう。投しは後家の密夫か。 穿鑿すべき事もあり。荘官許引摺邁て。この返報を佶とすべし。とくとく来よ。と立蒐る。腕を丁と拿詰て。と投たる修煉の拳法に。 縁頬の簀戸打倒して。遥に庭の中央へ。筋斗りて。あな疼し。痛し痛し。と側なる。羅漢槙に携りつゝ。 やうやくに身を起しても敵すべくもあらざれば。恨しげに見かへりて。鉛刀武士奴。おぼえてゐよ。偶怪我の功名で。 汝が拳法の捷れしならず。わがよく投られたればこそ。これ見よ膝も搨剥ね。これでも啖へ。と裳をて。 尻推向てうち敲けば。照文怒て。まだ懲ずや。女あるじと侮りたる。狼藉はいふもさらなり。某をさして密夫。 と罵りしは何事ぞや。再三たび尾陋の雑言。今はしも許しがたし。其処な退きそ。と敦圉て。刀を晃り。と引抜けば。 妙真吐嗟と推禁めて。渠は名だたる悪棍なるに。傷け給はゞむづかしからん。鄙語にいふ乞児に棒打。敵手になるべきものには侍らず。 逃なば脱し給はずや。と諫られて照文は。歯を切りて疾視なり。舵九郎は。さもこそ。とうち見て呵々と冷笑ひ。 刀を抜て威しても。人を殺せば身も殺さるゝ。有繋に命は惜かりけり。らずや刺ずや。いかにぞや。 その鉛刀もて骨のある。暴風さまはがたからん。らずは暇をまうさん。 と猶予に誇る擬広言。あちこちに黏し衣の土を。うち払ひつゝ檐なる。草履を取て足ばやに。罵りながら逃去けり。

《南総里見八犬伝第五輯巻之三》第四十六回

さる程に。犬山道節忠知は。君父の讐を撃果したる。両級の首を腰に着て。はやくも其処を立退きつゝ。 案内知たることなれば。捷径を疾走りて。その夜初更の比及に。田文の地蔵の茂林まで来にけり。 この堂の辺なる。旧塚の間には。今茲四月十三日。君父の一周忌の追薦に。由縁のものゝ建たりし。 塔婆一基ありければ。件の首級を嚮礼んとて。茂林の中にぞ進み入る。浩処に後方より。 年老たる賤夫の。栲の脚絆に褄端折して。竹子笠を戴きたる。肩には二袱の小包を。結合しうち掛て。道節が跡を跟て来つ。 地蔵堂のあなたなる。樹の蔭に立躱れて。近くもよらず戍りてをり。道節はわが前後に。窺ふものゝありとはしらで。 塔婆の下に進向ひつ。腰に着たる両包の。首級の締塊解おろして。塔婆の前に賻贈つゝ。恭しく額つきて。 頻に祈念を凝らすになん。荘助は塚の蔭より。透し見れどもその意を得ず。肚裏におもふやう。この癖者が齎して。 旧塚を祭れるは。引剥せし贓物を。邪鬼に供養して。なほ造化を願ふならん。這奴憎むべし。憎むべし。 先うち驚して。試して見ばや。と石塔の間より手を出し伸して。並備へし二包なる首級を無手と掻て。 引入れんとする程に。道節はやく頭を擡て。驚きながら荘助が。腕を丁と攬詰て。引出さんと前へ曳く。 荘助は亦引着られじ。とそが儘些も身を動さず。応に千尋の大木の。巨根を四方に張れるがごとく。千曳の綱手に被るとも。 なほよるべくもあらざれば。道節はいよいよ驚き。ますます怒て引あふ程に。迭に劣らぬ金剛力士の世尊の鉢を争ふて。 紫雲を踏も外せし如く。間に両個の石塔を。瓦落離と推倒して。忽地籠盾のなくなりければ。 道節獲たり。と衝と寄せて。股に臑を踏入れて。左手を帯の締塊へ。被んとするを。 荘助は。臀を拈て振釈く。双方入躬の最手抽手。相撲の極秘。拳法の妙奥。互に知たる事なれば。地を踏凹ます力足。 烏夜に目標は暴雄の。勝負孰とわきがたき。争ひ果し奈末与美の。腕に甲乙なかりけり。この時までも彼老人は。 樹蔭に息を凝らしつゝ。透し長視て。舌を吐き。その勇力に呆るゝ可り。端なく出も難たりしを。聊覚あるものなりけん。 怺かねたる面色して。走り寄つゝ両人が間へ杖を衝入れて。推分んとしてければ。道節も荘助も。再びこれに驚きて。 思はず組たる手を放す。卻含に落せし首級の包を。両人取らん。と立よる処を。取らしもやらず又老人は。 間に直と躬を入れて。杖採なほし推隔たる。早速の働き。思はずも。己が肩なる両袱の裹物をうち落しつゝ。 遽しく躬を屈して。頻に四下を掻撈たる。程もあらせず両雄は。斉一焦燥立如法夜に。認ぬ敵も。当座の手覚。 当るに任して左右より。彼老人を突退れば。踉ながら転も倒れず。両三歩退きて。 小膝を突たる手下に。撈り当しは道節が讐の首級の二包ぞ。と思ひかけねばわが包よと。こゝろ得手ばやく引よして。 左右に抱きて身を起す。とは又しらで道節は。探り当たる老人の両個の包をわが讐の。首級とおもへば霎時も措ず。 諸手に引提て直躬と立しを。それかとばかり荘助は。且く烏夜に透し見て。程を揣りて腰刀を。晃りと抜て。 丁とる。は翦てその辺に。推倒されたる石塔の。棹石の稜。と撃つ。 刀尖鋭き拳の冴に。その石四五寸打削られて。と出たる石火の光に。面を認る程もなく。姿を隠せし道節は。 火を獲て脱るゝ火遁の術に。往方もしらずなりたるを。老人はなほ跡を慕ふて。旧来し路へ走るになん。 荘助は亦その足音を。はじめの癖者なるべし。と思ひにければ些も猶予せず。続て茂林を走出つゝ。何処までも。と投かたの。 荒芽山路へ追蒐しかど。曇りし随に霽ぬ宵の。六日の月は没にけん。いと暗ければその迹を。認かねしより只ひとり。 心あてなる彼山の。麓村にぞ着にける。

《南総里見八犬伝第六輯巻之一》第五十一回

有尓程に小文吾は。稍その辺に追蒐来つ。遥に馬の撃れし形勢。陰火の奇特も目。 見つゝ只管驚嘆しつゝ。馬の往方を知らんとおもへば。喘ぎて走る足音に。呆れて立たる両箇の野武士は。 斉一後方を見かへりて。おもふに彼奴も落人なり。馬共侶に追喪せし。女代りに物せずや。と聶く間も暴奪略。 忽地路を要りて。槍を拈て突懸るを。こゝろ得たり。と小文吾は。左手に槍頭を握り留。引抜く刀に右手なる槍の。 間中丁と斫落す。本事に駭く野武士等は。槍投捨て左右より。利腕を捕て無手と組む。小文吾騒ぐ気色もなく。 はやく左に取なほす。刃を銜て立たる儘に。一推する角觝の秘訣。腰を拈て揮解き。 徒倚く項を双の手に。掻攫み又引よせて。頭と頭を両三遍。撲合さすれば堪難て。苦と叫ぶ声もろ共に。 足空ざまに差揚て。地上へと狗児放下。譬に似たる風下へ。籠落しの野武士等は。 ひとつ処に累り伏て。石に鼻づら。株に額。うつゝ夢か。とばかりに。苦痛に堪ず蠢きて。起んとするを小文吾が。 畳蒐つゝ撃大刀風に。一葉の露の玉櫛笥。ふたりが身とて四となる。いつしか積る兇悪の。むくひ来にけん天の網。 七重やま風吹からに。こゝに天引く遠煙百千の国も万みな。火宅なりきと悟りたる。おくこそ知らね無量劫。 数尽されぬ煩悩の。俺にも狂ふ意馬心猿に。胸のを取留て。曳手単節が存亡も。 往方も定めなきまでに。かさねかさねし憂事に。身の疲労すら忘草。路の秋草踏わきて。索ぞくらす壮士が。 心の誠比なき。犬としいへば八の数。十日に近きふみ月の。筆に載てん是仁惟義。忠信礼智孝悌を。 磨あげたる玉にしあれば。いづれ疎鹵はなかりけり。

《南総里見八犬伝第六輯巻之一》第五十二回

この時入相の鐘に響て。杜のかたより昏みたり。こゝより人煙は近かるに。邁て宿りを求んとて。 足の運びをいそがす程に。と見れば前面の藁叢陰より。最大きなる野猪の。手負たりとおぼしきが。忽然と駈出て。 こなたに建し路傍の。石の地蔵を衝倒し。木ともいはず草ともいはず。当るに任して噬折く。勢ひ虎彪に敵すべく。 驀直にぞ走り来る。小文吾咄嗟と思へども。左右はすべて深田なり。避躱るゝに便なければ。手ばやく笠を掻投捨て。直立逆ふ程しもあらせず。 野猪は哮りて牙を怒らし。矢庭に掛んとする処を。小文吾はやく身を翻して。野猪のと蹴る。蹴られて怯む気色もなく。 弥狂ひ倍哮りて。稍強向んとする程に。小文吾閃りと身を跳らして。背の上にうち跨り。刀を抜くに暇なければ。 左に野猪の耳をて。右の拳を鉄器の如く。握り固めて眉間のあたりを。続ざまに搏しかば。 これにぞ聊弱る処を。なほ一身のちからを究めて。搏こと十拳に及びしとき。さしも老たる手負野猪の。脳骨砕け。目子飛出。 血嘔を吐てぞ死でける。当下小文吾は。徐々に傍に下立て。死たる野猪をよく見るに。全身すべて古木のごとく。 大きなること犢に等し。これらが年を経るときは。をりをり松脂を身に塗らして。矢石を防ぐ為にす。と予て聞しを。 見るははじめて。暴虎馮河の戒を。忘れたるにあらねども。脱るゝ路なき禍を。免れしは現けふばかり。力が益に立たるのみ。 思へば危き事なりき。とひとりごちつゝ塵うち払ひ。笠とりあげて今宵寝る。宿りを求めていそぐ程に。 かの処より一町ばかり。ゆくての路の真中に。仰反仆れし男あり。稍光を増す月影に。立よりて熟視れば。 齢は四十余なるべし。身には仁田山木綿の。裳短なる単衣を被て。足には木皮織の脚絆を。紐高に結着。腰には紅銅造の。 二尺四五寸許なる猟刀を跨へ。手には長刃の短鎗を握拿たるに。その鎗はまだ放さねども。気息は既になきが如し。 当下小文吾思ふやう。こは近村の猟戸ならずば。百姓の悍きものにて。彼野猪を刺んとせしに。刺損じて度を失ひ。 立地に掛られて。息絶たるにぞあらんずらん。幸ひにして手を負ぬに。よくせば生ることもあるべし。 われは。角觝を好みしかば。素より撲傷の奇薬をもてり。撲れて気絶せしものに。わきて即功あるをもて。 一日たりとも身をはなさず。旧里を出る日も。そを懐にしたりしかば。失はず今なほあらん。 用ひて見ばや。と遽しく。行袱を解披きて。あちこちと索るに。件の薬はなかりけり。捻服紗の内にかとて。又肌着の財布をとう出て。 端引揚て揮ひ出すに。嚮に蜑崎十一郎が。里見殿の禄とて。強て贈りし一包。 三十両の沙金のみ。先滾々と出しかば。これをば取て菅笠を。仰ざまにして入措きつ。ふたゝび財布をうち揮ふに。 果して件の奇薬も出けり。そをよき程に撮取りて。仆たる彼男の口の中に入れんとするに。 歯をいたく咬締て。開くべうもあらざれば。腋挿の刀に附たる。笄を抜とりて。やうやく口を推開て。薬を遺りなく哺しつ。 懐帋を推円めて。臂近なる田の水に。浸して口中に絞り入れ。薬を胃中に推下して。呼んとするにその名を知らねば。 只喃々と呼活るに。且して件の男は。苦ときて眼をひらき。 鎗とり直し身を起して。忽地走り去らんとするを。小文吾急に抱き縮めて。やよ俟給へ。いふことあり。 われは旅ゆくものなるが和殿の殪仆たるを。見過すに得忍ねば。箇様々々に介抱せしに。甦生せられて本意に称へり。 おもふに和殿は老たる野猪に。掛られたるにあらざるや。われも亦彼方にて。如何々々の野猪にあひぬ。然れども怪我の功名にて。 辛して撃留たり。疑しくは共侶に。誘ゆきて見給へかし。といはれて驚く件の男は。鎗投捨て跪坐き。原来おん身は再生の。 恩人にておはせしなり。既に賢察せらるゝ如く。某の先の程。野猪に一鎗着たれども。 闕所をや外れけん。忽地鎗を振解れ。勢ひ当るべうもあらねば。逃んとせしに。それすらはず。 果敢なく牙に掛られて。空ざまに投らるゝ。と思ひし後は東西をも覚ず。かくて今。やうやくわれに返りしより。 又もや野猪に掛られんかとて。見給ふごとく狼狽しは。嗚呼とやいはん今更に。面目もなき趣舎なり。刺留給ひし彼野猪は。 何処にか候。と問れて小文吾うち頷き。遠くもあらず誘給へ。といひつゝ後方を見かへりて。心つきけん遽はしく。 沙金を取て肌着の。財布に蔵めて腹に巻締。又一包の行袱を。やをら肩にうち被て。先に立つゝゆく程に。 西へ距ること一町許。只一条なる田中の路に。かの野猪は斃れてあり。 件の男はこれを見て。ますます駭き且歓びて。遽しく小文吾が。ほとりにつゐて額をつき。この野猪のかう死したるは。 わが身ひとつの幸ひならず。阿佐谷高屋の村人が。なべてこよなき洪福なり。抑この野猪は。何処より移り来にけん。 鳥越山のほとりより。夜となく日となくいで来りて。芋を掘り圃を暴す。損毛大かたならざれば。荘客們商量して。猟夫を傭ひなどしつ。 撃捕せんとしたれども。いと年ふりたる猛獣なれば。箭も鳥銃の丸も徹らず。これにより。村長の沙汰として。 件の野猪を撃ものあらば。三貫文の辛苦銭を。取せんと徇られたり。某は阿佐谷の民にて。鴎尻の並四郎と呼るゝものなり。 旧里に在りし比は。山猟を事として。さるすぢには些ばかり。こゝろを得たるよしもあれば。いかでわれ。 かの野猪を撃留て。村の患を除くべく。辛苦銭をば獲ばやと思ふて。この日ごろ彼此と。猪径をよく見おきつ。 昨夕より済せし。その甲斐もなく早りにければ。還ていたく掛られて。命も拾ひしのみならで。 三貫文も空しからず。且肉を鬻ぎ皮を售らば。一貫文は又得つべし。かゝれば四貫の徳あること。皆是おん身の賜ものなり。 さばれ疑ひ奉るにあらねども。今亦この野猪をよく見るに。はじめ某が刺被たる。鎗傷の外に疵なし。 おん身はいかなる術ありて。輙く殺し給ひたる。こゝろ得がたく候。と問れて小文吾うち微笑み。 否。われとても術はなし。手負野猪の癖なれば。只管狂ふて疲労れしとき。辛して撃殺せしのみ。そを疑るゝことかは。 といひ瞞めつゝさりげなく。技も力も推隠すを。とはしらずして並四郎も。呵々とうち笑ひ。 人には幸あり不幸あり。狗骨折て鷹が捉る。諺にも似たりけり。そはとまれかくもあれ。はからず御恩を稟たる某。 今宵のお宿を仕らん。いまだ知召れずや。大約広沢浅草よりこなた。無戸金曾木阿佐谷高屋千束の村々は。 みな石浜なる千葉殿の。采邑にて候が。敵より間者の用心とて。他郷の人を留るには。いとむづかしき作法あり。 況て独行などは。宿するものも候はず。せめてもの御恩報しに。とく村長に由を告て。某相計たらんには。 障りあるべうも候はず。扠もおん身は何国より。何国へ通らせ給ふやらん。名告らせ給へ。と慇懃に。 問れて小文吾一議に及ばず。吾儕が故郷は下総にて。犬田小文吾と呼るゝものなり。此度上毛に赴きしかへるさに。 従弟女同胞を相伴ひ。合鞍に乗せていそぐ折。その馬放れて往方をしらず。渠等にたづね逢ん為。 迹を追ひつゝ来つれども。いまだ便宜を得ざるなり。現独行としいへば。いづれの里でも歓びて。 留るものにはあらねども。さまで緊しき法度ある。こゝらとしらねば。日の暮たるに。宿投悩みて難義ならんを。 和殿に遭しは他生の縁。しからば一宿を憑みたし。といふに歓ぶ並四郎。そはいと易き事になん。 させる管待こそしがたけれ。女中の往方を。近郷にて。問定る為にとて。いく日逗留し給ふとも。 飯のみならば進すべきに。心つかひなし給ひそ。こゝより直に宿所まで。伴ひ奉んと思へども。 いかにせん。今宵この儘この野猪を。うち捨て置ならば。狼にや腹せられん。某はこの獲物を。 村長許引搨ゆきて。これらの事も。おん身の事も。告て迹よりまかるべし。この畷をゆきぬけて。 鳥越山の根がたより。東北へ三四町。赴き給へば阿佐谷なり。村尽処なる東のかたの。いと大きなる榎樹のほとりに。 いとちひさなる幹浄房あるは。恥しながらわが宿なり。留守には船虫といふ女房ひとりをり。 ゆきて如此々々と告給はゞ。拒むべうはあらねども。疑はゞ不便ならんに。 これもてゆきて見せ給へ。と辞せわしく説示しつゝ。腰に着たる燧袋を。そが儘とりて逓与すになん。 小文吾はその好意の。よろこびを述て立別れ。阿佐谷を望て赴くに。思ひしより路の近くて。 聞しに違はず村尽処なる。榎樹のほとりに幹浄房ありて。裏面より灯火の光幽に洩たり。こゝなるべし。 と立寄て。折戸を敲きて呼門へば。誰そと応て。指燭を秉て。出て折戸をひらくもの。これ則別人ならず。 並四郎が妻船虫なり。小文吾は先わが名を告て。縁頬に尻うち掛。さて並四郎が事。野猪のこと。 今宵の宿りを許されし。縡の趣如此々々と。その大かたを告知らして。燧袋を出して見すれば。 船虫は聞く事毎に。或は驚き或は歓び。そは思ひがけもなき。御恩にこそ侍るなれ。嚮に聞たる野猪の事。 あぶなき所為ぞと禁めしかども。聴かで命の危かりしを。救ひ給ひし人さまならば。わらはが為にも城隍神なり。 先はやこなたへ登らせ給へ。と応て軈て忙しく。盥に温湯を汲もて来つゝ。草鞋を解して。 足を濯がせ。座席に行灯引提来て。小文吾を上座に推すゝめ。今朝はいづれの里を起て。いくばく里来給ひたる。 俗にいふ盆の後前とて。残る暑の堪がたきに。さこそは疲労給ひけめ。行水の湯も沸して侍り。 あはせものは侍らねども。今夕饌をまゐらせてん。木枕もそこにあり。足踏伸して休らひ給へ。 こゝ許は蚊の名どころにて。刺れし迹の瘡にもなるに。おん管待は蚊遣火のみ。些鬱悒とも怺給へ。 といひつゝいと大きなる。素焼の火盆を竹縁の。ほとりに措て団扇もて。あふぎ立つゝ麁朶折薫て。 又遽しく身を起し。扠小文吾に浴みさせ。はや夕饌を羞たる。管待態の精悍しく。団扇を取て小文吾を。 うち扇ぎつゝ。給仕をしつゝ。果は中酒の盃に。の烹取添て。器物さへ鄙ならぬ。 鄙めづらしき宿ながら。女あるじに小文吾は。言葉すくなく款待の。よろこびを述るのみ。只つらつらと四下を見るに。 こゝの一間は。外に物なく。席薦は六枚ばかり布たる。上座には。唐紙張の袋戸の小棚あり。 紫竹の押縁したる葭簀天井は。不破の関屋の廂ならで。月の漏るべき住ひにはあらぬを。いかなれば。 出居のかたの壁。三尺ばかりいたく落頽れて。骨もなくなりたる儘に。あなたより戸を推被て塞ぎたり。 この次の間は庖にて。別に夜物などする。納戸やうの処あり。 其処に夫婦は睡るなるべし。又この女房船虫は。年歳も三十のうへを。六にやなりぬべからん。 物のいひざま進止まで。よろづ男めきたるが。さりとて容貌の醜きにもあらず。頭髻は。竪ざまに結ね。 櫛は横ざまに挿光らしたる。をりをり釵を抜出して。額髪を掻く癖あり。男帯のふりたるを。 腋下に結垂ても。のみ綺羅やかなるに。単衣の袖も身幅も。いと広く長かるは。 良人に貸て被せん為か。迭代に被るかなるべし。小文吾はこれらによりて。腹裏におもふやう。 こゝのあるじが為体。百姓ならず。商人ならず。抑亦何をもて。生活にするやらん。もし侠客の類ならずは。 袁彦道をも欺くといふ。博徒の煉たるものなるべきか。そはとまれかくもあれ。あるじの留守なる人妻と。 うち対をるばかり。心苦しきものはなし。えうなき宿を取りぬるかな。と窃に困じて。盃は。受たるのみにて飲ざりしを。 船虫が云云と。浮上手にて許さねば。已ことを得ず一度過しつ。しばしば推辞てふたゝび受ず。

《南総里見八犬伝第六輯巻之三》第五十六回

浩処に。年四十ばかりなる老女の。摺箔したる夾衣を被て。六ばかりなる。 女の子の手を掖たると。廿あまりなる男子の。肥て脂盈たる。身長も一岌高きが。 黄黒の袴を穿たると。うちつれ立進み入て。小文吾に揖をしつゝ。軈てあるじの傍にをり。 常武これらを見かへりて。小文吾にうち対ひ。犬田どの。是は荊婦戸牧なり。彼は拙郎。馬加鞍弥吾なり。 母のほとりに候は女児にて。鈴子と呼るゝものなりかし。子は四五人挙たれども。多くは襁褓の中に喪して。 今は冢子と季女のみ。残りすくなくなりにたり。といふに小文吾膝を進めて。歓びを述。名告をするに。 戸牧はさしも鷹揚に。辞寡く応答訖れば。鞍弥吾もいと無礼げに。英名は去歳よりして。耳に轟きたる犬田どの。 君父に憚るよしあれば。面をあはせがたかりしを。本意なしとのみ思ひしに。けふの団坐は一刻千金。 先や鬱胸を霽すべし。武芸は家業の事なれば。弓馬撃剣。鎗棒拳法。人に劣べうは思はねども。いまだ事に遭ざれば。 戦場の進退は。熟士に譲りて。姑くいはず。折もあらば一試合希ひ候。 といふに常武微笑て。何を孩児が小さかしげに。まけじ魂いはずもあれ。よき折なるに四天王等を。 召よして酒を飲せよ。やよ。とくとく。と急せば。次の間に聚ひ居たる。馬加が股肱の若党。渡部綱平。 卜部季六。臼井貞九郎。坂田金平太は。斉一阿と応して。進み入て額をつき。その席末に居並びて。 僉小文吾にうち対ひ。曩に当所へ入来の折。主人の側へ侍りしかば。面を認られ候やらん。某は渡部綱平。 某は云云と。名告をすれば小文吾は。いと慇懃に礼を返して。各位は源頼光の。四天王にも劣らざる。 勇士とは誰も知るべき。姓名といひ骨相といひ。いと憑しく候。といはれて四人は羞たる色なく。 賢察の如く。不幸にして。腕をるべき鬼女に得あはず。土蜘蛛などの変化も出ず。 野飼の牛にこゝろを付れど。鬼童丸も躱れをらず。いく野の道の遠ければ。大江山路を踏わきて。 酒顛童子が旧迹だも。見ることを得ざりしは。残念至極に候。と続語為句の似非的宏言に。小文吾は堪がたき。 笑を袖に包あへず。うち咳きてぞ紛しける。かくて又くさぐさなる。を添ていく遍となく。 盃を巡らす程に。鞍弥吾と綱平等は。いたく酔ふたる癖なれば。僉輪の如く小文吾を。とり環しつゝ誇に。 武芸相撲の技などを。いと諜々しく論ずれば。常武これを推禁めて。あながまや何事ぞ。すべて武士の武士くさきは。 糂の糂くさきが如く。そは素よりの事なれば。めづらしげなく。 いと嗚呼なり。立ね立ね。と退けて季六をのみ呼留め。汝は霎時其処にをれ。なほ分付る要事あり。 とこゝろ得さしつ。微笑ながら。小文吾を見かへりて。犬田どの。さぞな傍痛かりけん。壮佼輩が殺風景は。 いはする酒の科なれば。心になかけ給ひそ。たまたま憂を慰ん。と思ふものから興なほ浅かり。 頃日鎌倉なる女田楽の。幾人かこゝへも来たり。そが中に。一人堪能のものあれば。呼とりて留置たり。 渠を肴に今一度。過し給へ。といふ声洩るゝ。次の間には予てより。縡の准備をしたりけん。 大小の鼓を拍。笛を吹く婢児共。いと美しき打扮して。出て縁頬にならびてをり。当下いと艶妖なる少女の。 年は二八ばかりなるが。搨箔縫箔したる。六尺袖の表衣に。雑色の下襲して。籠たる奇南の香も。 えならぬまでに。今の世にはいとめづらかなる帯のめきて。幅広きを。 竪ざまに。締なしたる。腰は風に靡く柳の如く。姿は独立る花に似たり。色好みなる心もて今これを見たらんには。 魂忽地天外に飛て。この君の為には。命も惜からずと思ふめれど。小文吾は性として。声色を嗜ざれば。 目前に出て来ぬる。この少女をよくも見ず。こゝろの中には爪弾して。あらずもがなと思ひけり。 かくて件の女田楽は。まづあるじ夫婦のかたにうち向ひて額をつき。又小文吾にも額をつき。 そが儘些し退きて。この席の中央を。前面ざまにしてゐたり。常武は咲しげに。遥にそなたを見いだして。 やよ季六よ。汝は何と思ふやらん。これ程の俳優に。開場の白なくは。素本の源氏を読に似たり。 汝は武芸のみならで。猿ばうにもこゝろを得たれば。嚮に呼とめ置たるなり。やよとくとく。と促せば。 季六は酔に乗して。些も推辞む気色なく。仰寔に理りなり。いでいで。といひかけて。扇を取て禹歩に。 進み出つゝ袴の襞を。左右に拿て披せながら。件の少女が左のかたに。 おし直り膝折伏して。霎時額つき。頭を擡て。訛たる声をふり発し。東西々々。南北中央。この席上なる大人君子へ。 敬て報奉る。罷出たる少女子は。薪樵る鎌倉下り。名を旦開野と呼るゝ甲斐に。当今日の出の堪能もの。 当処へは初度の見参。咲も揃はぬ初花に。降そゝぐ雨の足拍子。扇の風の手毎の間に聊失つことありとも。 そは海津藻のおん目ながに。臠し給はんことを。庶幾奉りぬ。抑田楽の幾番なる。題目も亦多なり。 そを数へんはことふりにたれど。就中。呪師。侏儒舞。田楽。傀儡子。唐術。品玉。輪鼓。八玉之曲。 独相撲に。独双陸。無骨有骨。延動大領之腰支。蝦漉舎人之足仕。氷上専当之取袴。山背大御之指扇。 琵琶法師之物語。千秋万歳之酒祷。腹鼓之胸骨。蟷舞之頭筋。福広聖之袈裟求。 妙高尼之襁褓乞。形勾当之面現。早職事之皮笛。目舞之翁体。巫遊之気装貌。京童之虚左礼。東人之初京上。 これらは男田楽の。僉宗とす所。しかるを又この君は。男の技にも堪能にて。幾節竹の一本立。 八尋細の綱渡。これらは特に本事なり。さはさりながら更闌たれば。そは後会の事としとゞめて。 今宵は且今様の踏の態を仕らせて。御笑に備へまつらん。是則桃源の故事に倣ひたる。 いとも愛たき一曲にて。山路の桃と名つけたり。その為開場尓いふにこそ。とりつらねつ逃るが如く。 次の間さして退きたる。跡には咄と婢女等が。腹を抱へて立もあり。得堪ず弗と噴出しつゝ。 そが儘俯して笑ふもあり。山田の畔に樹隠れて。日影不楽と集る木兎の。たつをも知らで群雀。 われから狂ふ散動には。且く鳴も已ざりけり。于有然程。つゝしりうたふ笛の音に。鼓のしらべ打そえて。 立ぞあがれる旦開野が。態も体も美しき。
  抑是は讃岐州。八島壇の浦のほとりなる。弓削山の麓に住ひ候。賤婦にて候。一日里の少女子とつれ立て。 同国八栗山に遊び候程に。この谷川の水上より。いとも愛たき盃の。流れ来て候へば。原来この山の奥にこそ。 浮世を避たる神仙の。をはしますにや候はん。何処までもわけ登りて。たづねて見ばやと思ひ候。 峰の白雲谷の水。源遠く来て見れば。現玉鉾のみちとせに。なるてふ桃の林かな。
と唄ひ出せる声澄て。仏の国にありてふ鳥の。迦陵頻伽もかくこそ。と見る目あやしき舞の袖。 翳す扇の蝶々の。閃めく桃の花釵児に。光照添ふ灯燭の。花や物いふ序破急の。節曲比類なべて世の。 俳優人は数ならずとて。常武夫婦鈴子等は。瞬もせず見惚たる。紙門障子のあなたより。覗く奴婢等の幾人か。 人を掻わけ。推わきあへず。頭に頭をうち累ね。目に目並べて余念なき。眺に時を移しけり。

《南総里見八犬伝第七輯巻之五》八犬伝第七輯巻之五に附記す闘牛考并に小狗の略説

闘牛は。原西羌の戯なり。酉陽雑俎境異篇云。亀茲国。元日闘牛馬駝為戯。七日観勝負。占一年羊馬減耗息也。 といへり。是より先に。三国の時。魏の曹植が牛闘の詩に。行彼山頭。起相突。 といひしは。二牛の自然に闘へるなり。事は太平広記。又野客叢書十二に見えたり。 又淵鑑類函巻四百三十五。牛部に。仇地筆記を載て。牛闘。尾入両股間。 といへり闘牛竪尾図。経識者指摘。見五雑俎。。又昭代叢書巻二十六竹枝詞の附録。 土謡部。苗人を詠ずる詞に。身被木葉。挿鶏頭。銅鼓家家賽闘牛。 といふ句あり。注に。歳時召親戚。銅鼓。闘牛於野。其負者。祭而食之。といへり。 唯牛のみにあらず。西域には。闘羊。闘駝さへあること右の如し。 されば又瀛海勝覧云。勿魯謨斯国。羊有四種。大尾綿羊。重七八十斤。其尾闊一尺余。地。 重二十斤。狗尾羊如山羊。尾長二尺余。闘羊高二尺七八寸。前截毛長地。 後半剪浄。頗似綿羊。角彎向前。上帯小鉄牌。好闘。好事者養之。賭博為戯類函。 かゝる事を鑿出さば。猶いくらもあらんを。大かた似たる事なれば。此に許多せず。又按ずるに。 周末戦国の時。角觝の戯を為れり。憶に秦晋北燕など。胡国に近かりし。 諸侯。彼闘牛に擬して。この戯を作れるならん。正字通角字注に。角觝戯名。觝通作抵。 六国時所造。両々相当。角力相抵。漢武元封二年。作角觝戯。史記李斯伝作抵。 張騫伝作角。と見えたり。
角は競なり。觝は抵なり。唐山の俗語に。言葉戦を。角口といふ。その義これと同じ。角觝は力士牛頭を戴き。 両々相当り。相抵て勝負をなせり。その形勢宛闘牛に似たり。是則今の角力の権輿なり。闘牛は。 本邦にも。むかしより越後州古志郡。二十村に在り。人多くこれを知ざるのみ。吾友鈴木牧之は。越後魚沼郡。塩沢の里長なり。 いぬる庚辰年春三月二十五日。予が為にその地に赴きて。闘牛を観て。手づから図説を為りておこしたり。 牧之云。二十村は地方のハ名なり。闘牛の地所は。定りたることなし。毎歳三四月の間。雪の消果るに及びて。 寅申の両日の。吉辰をえらみてこの事あり。土人は。牛の角突と唱ふ。原是件の村々の城なる。 十二権現の祭祀によりて。この戯を興行す。といへり。この闘牛の光景は。本輯第七の巻に載たれば。こゝに具にせず。 左の図と合し見るべし。原図は牧之の筆するもの。紙中甚闊して。且二三頁あり。そを縮図して漏さず。 めて欄帋一頁の中に尽せしは。画者渓斎の筆力に成れり。 上古には。陸奥はさらなり。越後近江さへ夷俗に擬せられて。夷長を置せ給ひしよし。国史に見えたれば。 この闘牛の戯は。いとふりたる風俗の。波及にこそあるならめ。昇平既に久しうして。辺鄙も文物に乏しからねば。 今は東奥北越の尽処までも。夷めきたる事はなきに。此闘牛の戯の。偶越後に遺りしは。古俗を知るの端崖ならずや。 崔安潜をして世に在めしば。神遊して見まく欲するなるべし崔安潜好看闘牛。見五雑俎人部三。
因にいふ。ちぬはちひさいぬの略辞なり。と閑田耕筆に見えたり。払菻狗の種類なり。 一名は哈叭狗。一名は馬鐙狗。又これを子といふ。唐高祖武徳中。高昌国名献狗。 高六寸長尺。能曳馬銜燭。云。出払菻。中国始有払菻狗唐書摘要。天朝は則淳和天皇の天長元年。 渤海国より。契丹国名子を献りぬ通作。 類聚国史殊俗部云。淳和天皇天長元年。四月丙申。覧越前国所進。渤海国信物。并大使貞泰等別貢物。 又契丹大狗二口。子二口在前。進之。これ天朝に。異邦の小狗あるはじめなるべし。 子も払菻狗に類せる矮狗なり。天宝遺事云。天宝末云云。上夏日。嘗与親王碁。 令賀懐智独弾琵琶。貴妃立於局前。観之。上数子将輪。貴妃放康国子於坐側。 子乃上局。局子乱。上大悦。といへり。これらによりて。子の小狗たる事を想像るべし。 払菻狗は。稲若水の本草綱目別集に。留青日札。肇慶府志。呉県志を引て考証あり。若水云。今之矮爬狗。 即古小狗之種。蓋与中国狗交而。漸高大者也。馬鐙狗。長四寸。可蔵之馬鐙中留青日札摘要。 番狗長毛脚。身絶小。高四五寸。為哈叭狗。来自京師。最貴肇慶府志。 犬小者。有金獅鬧獅呉県志。今按ずるに。近来この間に畜る小犬は。絶小きもの稀なり。 今の小狗に八種あり。そを鬻ぎて生活になすものゝ。俗呼を聞くに。所云八種は。つまり。ちやんぱげ。 かぶり。小かしら。しかばね。りうきう。さつまたね。まじり。是なり。つまりは。その毛つまりて。 長からぬをいふ。ちやんぱげは。占城毛なるべし。かぶりは。頭毛長く垂れて。面上を掩ふをいふ。 小かしらは。頭ちひさく。眼大なるもの。これを上品とす。しかばねは。鹿骨なり。痩てその脚長きもの。 下品なり。りうきうは。琉球より来たる小狗なり。さつまたねは。琉球狗とこの土の小狗と。尾りて生れるをいふ。 この故にその耳垂れずして。形円かり。まじりは。小狗と地犬とまじはりて生れるをいふ。又紅毛狗と尾りて生れるもあり。 紅毛狗は。地犬よりちひさし。穀食せず。或は魚鳥。或は琉球芋もてこれを養ふなり。強て飯を食しむれば。 稍大きくなれり。この他小犬を養ふに。くさぐさの口伝あり。且常に用ふべき薬方。子を産する時のこゝろ得など。 いと多かり。これらのよしを書つめて。好るものに示さばや。と思ひつゝ。さる暇のあることなければ。 久しうして得果さゞりき。こはその崖略のみなれど。八犬伝の名にしおふ。小狗の事しも漏さじとて。諳記のまゝにしるすになん。
  文政十年丁亥冬十一月大寒前六日
蓑笠老逸

《南総里見八犬伝第七輯巻之七》第七十三回

不題犬田小文吾悌順は。犬坂毛野にあはんとて。曩に鎌倉へ赴きしに。毛野は其処にも在らずして。 絶て往方をしるよしなければ。伊豆の山家を索ねんとて。下田船に便りを討め。いそぐ水行に風暴れて。 破船を伊豆の大島に。繕ふこと両三月。稍纜を解たる日に。又悪風に吹流されて。這回は三宅島に着けり。 こゝは国地へ遠ければ。帰らんとするによすがを得ず。罪なくて見る配所の月も。慰めかねつ。吾影の。 外には友もなみ枕。磯山おろし音はすれども。風の便も絶果て。島に在ること既にして。一稔あまりに及びし比。 浪速へ帰る高瀬船の。難風を避んとて。一日この島に歇りしかば。よしを告相譚よりて。その船人等を伴れ。 思ひもかけぬ浪速津へ。辛くして着にけり。身のいといたう疲れしかば。有馬に湯治し。南都左界に保養して。 その年を空に暮しつ。次の年の春よりして。北陸道に遊ぶこと又一稔。 石浜の厄難釈て。鎌倉へ赴きしより。四稔といふ。三月下浣浜路姫の安房へかへり給ひし翌年なり。 越後州苅羽郡。小千谷の郷に旅宿をせしに。あるじは鯛聟源八と呼れたる。侏儒なれども角力の最手なり。 今はさる技を已て。名字を亀石屋次団太と改め。是よりして客店をもて生活とす。尓るもなほ次団太は。 地方の壮佼頭領と称られて。闘諍の和説などには。立入らずといふことなし。されば当時。 この地方の習俗にて。盗窃密夫の悪事はさらなり。もし人の害になるものあれば。郷の壮佼等。 これを搦捕て。活さず殺さず。神慮任しと命けたる。私刑に行ふを恒例とせり。この神慮任といふ事は。 小千谷より十町ばかり藩山のかたに。ふりたる庚申堂ありけり。近曾大く頽破して。その神像は亡たれども。 堂は荒たる儘ながら。人の憩所に遺したり。かくて件の罪人を。この堂内に牽もてゆきて。矮楼の梁に吊し置き。 夜毎に鞭懲すこと。三夜にしてなほ死ざれば。釈卸して追放ち。死すればその亡骸を。千隈河へ流しけり。 こゝをもて悪棍等は。怕れて他郷へ走りしかば。郷中久しく無異なりけり。
間話休題。却説亀石屋次団太は。小文吾が身長の。人に倍して骨逞しく。力士めきたるを見て称賛しつゝ。 角力の物がたりをする程に。小文吾も。素より好む技なれば。思はずも興に乗して。論弁譲ることなかりしを。 次団太駭き感服して。款待はじめに弥増けり。既にして小文吾は。次の日あるじに別を告て。 立去らんとしてけるを。次団太頻りに推禁めて。などてやさのみ急ぎ給ふぞ。当国古志郡二十村には。 毎年三四月の比。或は丑の日。或は寅の日の。吉辰を卜定て。角突と倡たる。闘牛の神事あり。 今茲は隔明日興行す。と既に定かに聞えしを。見ずして何地へかゆかるべき。なほ且く逗留し給へ。 かゝる便宜は得がたからん。といふを小文吾うち聞て。そは珍しき事なりかし。某嘗旧里に在りしとき。 博識家に聞ることあり。闘牛は原是西戎の戯なり。唐山戦国の時。胡国なる闘牛によりて。角觝の戯を作れり。 その楽たるや。力士二人牛頭を戴きて。両々相抵てもて勝負をなせり。 秦はその国胡に近かり。こゝをもて二世胡亥。角觝を好めり。漢の武帝の時にりて。 その臣張騫をもて。初て西域に到らしむ。これによりて。武帝又角觝の戯を作れり。 是今の角觝の権輿なり二世及漢武の角觝を好みしよしは。史記前漢書に見えたり。 蓋唐山戦国の時。武を講ずるの礼を増て。もてこの戯楽を為りしとぞ。かゝれば相撲を嗜むものゝ。 そを見ずばあるべからず。なほ詳に聞まほし。その光景はいかにぞや。と問へば次団太歓びて。 扇を笏に物々しく。うち咳きつゝ講ずらく。抑越後州。古志郡なる二十村は。東山辺のハ名にて。 実は二十六村あり。そが属村を相加えて。細かにこれを数れば。五十个村にも及ぶとなん。然れば這二十村なる。 荒屋。逃入。虚木の三个村。合保の鎮守の神を。十二大権現と斎称へて。 各々その村落に神社あり。この神の祭祀と倡へて。年の三月四月の間。宿雪の消果る。遅速によりて定日なく。 又定りたる地所もあらねど。大約寅か申の日に。当る吉日を卜定めて。里人闘牛を興行す。これを地方の俚語に。 牛の角突と呼做したり。この事いづれのおん時より。当郡にのみあることやらん。昔より今に至て。ここに断絶あらずといへども。 よくその始をいふものなし。そはとまれかくもあれ。家に豢る牛ありて。出して闘せんと思ふものは。 いまだ本日の定らずとも。弥生になれば飼料に。生平より籾を多くして。折々餅などを食しつ。既に本日の定りては。 牛の沢をよくせんとて。蝋種或は油雑巾もて。幾遍となく拭ふ程に。毛色日比に十倍して。就中黒牛は。 天鵞絨をもて包る如く。彼羽毛に芥子せしといふ。魯国の闘鶏さへ。想像られていと勇し。されば北国の沿習にて。 戸々なる牛馬は。初冬の比よりして。明年の三四月まで。皆是厩櫪に閉籠られて。外に出るものあることなければ。 秣に足り気を養ふて。肥太らずといふことなし。況闘牛に。出さんと思ふ牛のぬしは。物の費も敢厭はず。そが妻子奴婢までも。 牛の為に心を用ふる。鍾愛月比に弥増したり。有此而本日になりぬれば。磨き立たる牛共を。各々牛菰屋より牽出すに。 畜生なれどもその意を得て。欣然として前足を屡大地に蹴立たる。奮勇の気色顕れたり。牛は南部の牧多かり。 罕には佐渡あり地牛あり。その毛色も一ならねば。黄牛蒼牛黒白桃花。四足白。虎文。額白。牡丹絞りに六出様。 その雑毛もさまざまにて。枚挙るに遑あらず。又形体にも大小あり。膂力勇猛その差あれば。今定かにはいひがたけれども這回の大牛は。 逃入村なる角連次。牛田村なる孟右衛門。虫亀村なる須本太郎。木沢村なる幹之助。蓬村なる艾三郎。塩谷村なる辛之助。 小栗山村の判官八。これらが牛は最手抜手。俗に大関と称へたる。只これのみにあらねども。いまだ見ざれば大略なり。 又その村落より出るなる。牛奴を力士と唱へて。究竟なる壮少者。或は紺染。或は花田の山夾衣に。紺の股引脚絆を穿きぬ。 又附融といふものを。穿たるも多くあり。又手甲にも華手を尽して。或は栲の纐纈に。 或は蒼く。或は白き。縁をさまざまにとらざるものなく。肚甲には郡内縞絹。繻半は故ら美を尽して帯蹈皮。 副帯手拭まで。をさをさ風流を旨とし。草鞋は白紙をに拈り。紺の麻索をもて紐とせしもの。 この日を晴と装做せるが。七八十名もありぬべし。そが中に。木沢村なる雪車九郎。荒屋村なる漏右衛門。 逃入村なる跣四郎。小栗山村の毬右衛門。これらは宗徒の大力士にて。僉よく牛をふものなり。 又牛裁判といふものありて。東西の力士共。争ひを起すときには。このもの必これを和寛て。 無異に治むる事を宗とす。牛には主の名を被けて。某村の甲右衛門。厶村の乙八など。 呼ぶを地方の習俗とす。彼いにしへの名馬のごとく。別に名つくることはなし。扠隔明日興行すなる。闘牛の地所を討るに。 塩谷木沢両村の境節にて。逃入。荒屋。虚木の。三个村の合保より。其地を借て当場とせり。 この地は三方小山にして。その凹に坦然なる。佃圃をも借てとす。この遠近なる連山は。 秣苅てふ藩山なれども。草葉いまだ萌出ず。処々に斑消たる。遠山の雪に霞天引く。春色今さらに珍しく。 枯結縷草の上に莚布渡したる。出茶屋あり酒舗あり。蕎麦団子煮染物。餅駝菓子を鬻ぐものは。只この一日の為にして。 いくばくといふことを知らず。隣郷隣郡いへばさらなり。遠き境の老弱男女も。観んとてこゝに聚ひ来るもの。 僉高きより見おろさんとて。岡に依りつゝ徘徊す。抑幾億万人なるべき。宛塘渡るに似たり。 彼牛裁判補助人など。その中に雑りて。異あるときはこれを鎮む。力士は処々に隊をなして。 又看官の中に入らず。只その平坦にして数十間なる。四下を彼此と佯す。 久しく雪に閉籠られたる。夥の牛は野辺珍らしげに。なほ繋れて敵手をおもふ。その大きなるものは。 高四尺二三寸。四五寸にも及ぶあり。鉢縢と名づけたる。角の餝は緋の縮緬。 或は紅なる円統の紐をもて。両角に緘みたる。その事の為体に。目を驚さぬものもなし。かくてぞ牛は期を俟に。 折々高く吼る声。然として々たり。介の葛盧にあらざれば。 何といふらんよしを知らねど。谺に響き霞を劈く。彼淮南が丹を舐て。雲に入りけん勢ひあり。 月に喘ぎし呉牛には。似るべうもあらざりける。海内無双の壮観なり。扠角方の光景と。衆牛の勝負は。 本日を俟て行て見給へ。わが訥弁には尽しがたきに。いひ遺せる事多かるべし。こは九牛が一毛のみ。 嗚呼がましくこそ候へ。と息吻あへず物がたれば。小文吾坐に興に入りて。そはおもしろき事なりかし。 素より急ぐ旅ならねば。いはるゝ随に逗留せん。と応てその日を俟程に。間纔に一日を置て。 はや闘牛の日になりぬ。時に文明十四年。壬寅の夏四月初旬。天よく晴て長閑やかなり。小文吾は未明に起て。 あるじの案内を催促す。登時あるじ次団太は。小文吾がをる室に来ていふやう。 けふの牛の角突には。僕案内に立べし。と予ては思ひ候ひしに。昨宵吾郷なる壮佼等が。川口人と闘諍をしいだして。 いとむづかしくなりたり。と今朝報られて候へば。今さらに黙止がたし。かゝれば僕は。件の者共を推鎮めて。和睦させんと思ふなり。 これにより今日の。おん供に立がたかり。僕が相撲の弟子に。鮫守磯九郎と呼るゝものあり。 寓居人で候へば。認りてこそをはすらめ。渠を案内にまゐらすべければ。将てゆかせ給へかし。 縦僕がゆかずとも。渠も亦土地の人に。粗知られたるものなれば。よく仮を取るなるべし。 この義を允させ給へかし。といふを小文吾うち聞て。そは遺憾き事にこそ。勿論和殿は角突を。 幾遍も見給ひけん。所要果なば遅くとも。来給へかし。と応をすれば。次団太は歓びて。然らば早飯をまゐらせん。 僕は彼議に就て。今より彼処へ赴くなり。許させ給へ。と遽しげに。外面望て出にけり。かくて早飯も果てしかば。 鮫守磯九郎は。准備の偏提と一巻の。華筵を肩にうち被て。一刀を腰にしつ。 誘とて室に来にければ。小文吾は叮嚀に。けふの案内を労ふて。中刀を腰にしつ。 大刀を引提て立出れば。磯九郎は先に立て。塩谷木沢の両村なる。境を投していそぎけり。既にして小文吾は。 磯九郎を郷導にして。千隈河を舟渡りす。千隈或は千曲に作る。一名を信濃河といへり。魚野川落合て。 北国中の大河なり。この河を渡し果て。又ゆくこと数町にして。相川といふ山村を過るに。こゝらはすべて山路にして。 或は陟り或は又。降ること無数なり。是より角突の地所までは。なほ二里あまりありといへば。 休ふに暇あることなし。とかくして。彼凹に曠坦なる。闘牛の地所に至れば。はやくも聚合ひし老弱男女。 この日を晴と装做したる。その衣の色々なる。花の如く丹楓に似て。妖艶として美しきに。北国の風土にて。 桃桜の花さへに。又只一時に綻びて。彼此にいと匂やかなる。翠を含む楊柳の糸に。遊いともゆる春景色四月上旬なるも。北国はなほ春なり。 鹿児斑に消残る。白雪も亦愛たし。この日は雨後の晴天にて。一朶の雲なく。猛風発らず。連山の波濤に似たる。 青葱として蒼きあり。白きもありて尖からぬ。晴巒既に霞を籠め。道稍春深し。 人聚りて岡いよいよ高く。鳥啼て谷の深きを知る。寛歩して到る処。興あらずといふ事なし。かくて磯九郎。 正面なる岡の辺に。華莚を布儲て。小文吾を上座に請登し。その身は傍に扈従しつ。問るゝことを具に答て。いと正具に慰めけり。 然程に。闘牛の時刻にもなりければ。村人各々彼此に。繋置たる牛共を。漸々に牽もて出して。 迭に勝屓を決せしむ。その事の為体。今の相撲の土苞入。攬組といふものに異ならず。且その牛と牛とを闘するとき。 東は某村の厶右衛門。西は甲村の乙兵衛。と呼はり名告て。看官にこれを知しむ。初は形体巨大からず。 膂力飽まで猛からざる。牛をもてこれを闘し。中は大ならず。又小ならず。強からず弱からぬ。 前頭たる牛を闘し。後は大関小結と唱らるゝ大牛の。強勢なるを闘すること。亦是今の相撲の如し。 既にして一番二番と。勝負を争ふものを観るに。且東西より牛生各。一頭を牽もて出して。 牛と牛とを相距しむること。その間若干丈。力士等牛縻を解くとそが儘。一隻の角をもて。田を鋤き圃を打ごとく。 大地を数間鑿り進みて。角を闘する牛もあり。又敵を見て進み得ず。俄然として逃るもあれど。大かたは牛縻を。 解くとそが儘相進みて。角を闘する牛多かり。迭に膂力の捷れし牛は。推戻し衝返され。漸に眼中含血て。 朱を沃ぎたるものゝ如く。全体より汗を流して。四箇の角を闘する音。戞々として遠く聞えたり。 掎角の勢ひ怕るべし。又手段ある強牛どちは。組では離れ。はなれては突く。その勢ひ迅速にて。もし舛て突外さば。 忽地眉間を劈かれん。と見る目危く思ふものから。よく鍛煉して愆つことなし。就中大牛の。膂力大象に敵するものは。 角をもて投仆し。更に又角をもて。突殺すべく見えたるとき。力士等群蒐推隔て。捷誇りたる牛を駐む。 事及ずしてざれば。負牛はを突れて。矢庭に斃れざることなし。 角の鋭きこと鉾のごとく。その勢ひ箭に似たり。かゝる故に。東西の力士七八十名。の四方を輪立して。 闘する牛の五間十間。衝然として推行ときは。力士も共にれ動散て。縦横無碍に奔走す。 されば勝色見ゆる牛かたの力士們は。僉歓で掌を鳴らし。推ゆく牛に従て。只洪波の打ごとく。走ること無数なり。 群集の老弱瞬きもせず。彼や負なん。既にはや。弱りにけり。と相憐みて。手に汗を握るもの。 各贔屓あればなり。牛角の勝負に争論あればや。彼牛裁判てふ男。東西の力士に渉りて。商量して。牛主と贔屓のものを和寛などす。 強弱その差ありといへども。既に負色になる牛は。忽地角を退外して。驀直に逃走るを。夥の力士等。 動揺々々と追蒐て。搦捕るを手柄とす。もし追ふことの遅かるときは。その逃牛遠く走りて。郊原田圃の差別なく。 山林嶮岨の嫌忌なく。樹を倒し石を輾す。勢ひ名状すべからず。況勝牛のこれを逐へる。勇猛奮震十倍して。 当るべうもあらざるを。この技に熟たる力士等は。牛の左右に拘らず。横ざまに衝と寄せて。 角を両手に楚と握て。その牛の前足を。わが足もて絡まへて。背に尻を掛るもあり。或は牛の後足に携着き。 或はその尾に携り曳れて。吊れながら駐るもあり。これにも優たる大牛の。暴てせん術なきときは。 その牛の睾丸を。両手に掴て引駐れば。やうやくに怯む処を。毛をもて糾る牛縻を。鶏の羽をもて鼻に融せば。 鎮らずといふことなし。有此而絆索を繋添て。人夥して牽もて返すに。牛は意気揚々と。勝誇りたる驕慢の。 気色この時に顕れて。吼る声牟々なり。力士等これをうち護りて。斉一凱謌を揚る声。山谷に相答へて。勇ましといふも疎なり。 或は又。牛角の勝負を果さずして。一方の牛やうやく弱るを。其方の力士みて。 引分んと欲するを。敵手の力士等聴ずして。いまだしいまだし。と呼はりつゝ。の四方を遶ること。 相撲の行司に彷彿たり。かくても勝負なき牛は。双方の力士等和譚して。大勢入て推隔。辛くして引分るにその牛共はなほ飽かで。 迭に突んと走り蒐るを。力士等手段を旋して。敢又闘はせず。竟に牛縻を引融して。牽て旧所に到るに。 その両牛欣々然と。自負するものに似たる気色あり。迭に負ぬ故をもて。なほその勇を示すなるべし。 されば這数十番なる勝負の間に。観者宛酔るが如く。惘然として食を忘れ。愕然として胆を落し。 日の傾くを覚ずして。奇なり妙なり。と称る声は。彼に鳴る海の如く。又遠山の雷を聞くに似たり。 実に是。北国中の無比名物。宇内の一大奇観なり。この牛の角突の事は。次団太が物がたりの段より。 こゝに至りて皆真説なり。伝聞の来由は。この篇の左に詳なり。 かゝりし程に犬田小文吾は。この幾番なる闘牛を観て。且驚き且感じ。現無智の畜生も。敵にあふに手段あり。 史記に所云角觝の。その義をこゝに会得せり。奇妙にこそ。と嘆賞すれば。磯九郎微笑て。某などは角突を。 今茲で三たび観つれども。興あらずといふことなし。されば牛の主たるものは。角突の前日より。朝夕神厨に灯燭を献りて。 わが牛の捷を祈り。思ひの随に勝得て帰れば。濁酒を醸し餅を搗て。賀席を開き。その村中の老弱を。遺なく招きて管待すことあり。 この角突に負たる牛は。敵手の牛を。後々まで認忘れず。大約この二十村は。深雪隣郡に弥増せる。 山里なれば樵路熊径。いと陝き処多かり。これにより。米粟を負ひ。柴薪を負たる。牛と牛の行遭るに。 途を譲るに由なきも。この角突果て後。負たる牛のゆくりなく。敵手の勝牛にあふときは。頭を縮め立駐りて。 これを避ずといふことなし。又双方甲乙なかりし牛は。あふといへども途を譲らず。これらは総て牛奴の。 手を労せずしてよくゆく事。自然の勢ひにてこそ候へ。と話るに小文吾いよいよ感じて。遺る番ひを見る程に。 唯この大牛一番にて。けふの結角と聞えたる。一方は。逃入村の角連次。 四尺六寸ありといふ黒牛の。骨逞しく脂満て。磨立たる毛の沢は。現天鵞絨に異ならず。その角の長く鋭き。 彼石剣を欺くべし。又一方は。虫亀村の須本太牛。高は敵手の牛に優て。四尺七八寸ありといふ。 連銭葦毛といふものめきたる。その雑毛すべて鱗に似たり。その角は烏犀を欺き。形は牛に敵すべし。 眼は紫銅の鈴かと怪しみ。蹄は冶ざる鉄に似て。実に象駝をも伏すべき勢ひあり。人僉これを観て胸を潰し。 目を驚さずといふものなし。登時磯九郎は。又小文吾に聶くやう。あの須本太牛は竜種なり。初あの牛主の。 家に逞しき牝牛ありけり。一稔夏の比。その家の牛奴が。これに薪を負せんとて。牽つゝ深山に赴きて。 牛を水沢のほとりなる。樹下に繋置き。その身は彼此とわけ入りて終日柴を刈る程に。沢の中より雲起りて。 晦曚として黒白をわかず。牛奴は慌惑ひて。こはいかに。とばかりに。軈て樹蔭に走躱れて。雨を避んとする程に。 且くして雲霽けり。沢辺にゆきて牛を見るに。聊異なる事もなし。但竜涎の如きもの。流れて牛のほとりにあり。 そは竜の精なるべし。是よりして。その牝牛孕むことあり。月満て産る犢は。今闘合する彼牛なり。 現形体の大きやかなる。面魂の猛きはさらなり。見給へ。雑毛の鱗に似たるは。是竜種なればなり。 当国の守長尾殿。縡のよしを聞食て。件の牛を徴されしかども。牛主惜みて進らせず。今茲は五六歳にやなるべからん。 けふの壮観は只是のみ。意を認て見させ給へ。といふに小文吾微笑て。あの牛の異様なればや。 竜種といふ説は。いと信られぬことながら。現怪有の奇物なり。又敵手の黒牛も。尋常の物にはあらず。 こはよく観べき事にこそ。と応てそなたへ推向る。膝に片手を突立て。勝負甚麼と見る程に。力士等は件の両牛を。 東西より牽よせて。はや闘せんとしたりしを。大力士等推禁めて。やよや等ね人々。須本太は竜種なり。又角連次も二十村にて。 聞えたる暴牛なり。闘して失あるときは。後悔其処に立がたし。已ね已ね。と制するを。力士はさらなり。 東西なる。牛主これを肯かず。いはるゝ趣由なきにあらねど。俺們がこの牛は。けふの角力の結局なるに。 今闘せずして已ときは。始ありて終なし。番組全からずば。神慮もこゝに測がたかり。 人に見すべき為のみならぬ。鎮守の神の祭礼なるを。今さらむことやはある。もし孰にまれ負色見えなば。 諸懸りにして引分んに。なでふ事のあるべきや。とく闘せよ。と敦圉にぞ。裁判人等立入りて。 かくまでにいはるれば。闘して後に引分給へ。といふに大力士は争ひかねて。然らばとくとく闘せよ。 といふよりはやく力士等は。両牛の牛縻を。双方手ばやく解放せば。群集の衆人これを観んとて。 前なるは進むを覚えず。後なるは皆立て。前なる人の高きを罵る。声囂々と捫択せり。 然る程に。須本太。角連次の大牛は。迭に敵手を佶と見て。しづかに進み近づきつゝ。霎時呼吸を揣るが如く。 又その透をふが如く。頭を低く脊をたてて。睨あふこと半ばかり。 各々その図やよかりけん。忽地角を突合して。推つ推れつ挑みあふ。汗は流れて四足に伝ひ。蹄は踏駐めて大地に滅し。 含血る眼は燃るかと怪み。鍛做す頸骨は。折るゝかと思ふばかりに。組合しては揮放釈き。又組合して縢へる。 双方の角の音は。戞然として拍子を違へず。三反ばかり推れては。又推返す勢ひに。 力士等も亦奔走して。或は手を抗手を撥げ。各々牛に勢ひを。資けて勝負を見る程に。角連次は稍疲れて。 既に危く見えしかば。大力士等声を被けて。疾引分よ。と叫ぶになん。東西の力士数十名。簇々と走りかゝりて。 推隔引分れば。角連次はその隙に。路を討て逃躱るゝを。須本太はなほ脱さじとて。驀直に追蒐るを。 力士等透さず携着て。捕んとしてければ。須本太弥怒狂ふて。角に突被け空ざまに。 投飛し反倒す。勢ひ当りがたければ。技に熟たる力士等も。駭騒ぎ辟易して。東へれ西へ靡く。 周章大かたならざりけり。然程に須本太は。角連次を索難て。暴に虐たる事なれば。四方に狂巡りつゝ。 人をも物をも当るに任して。角に掛ては投屠る。猛威に怕るゝ群集の老弱。東西に奔走し。南北に逃迷へば。 出茶屋酒店。菓子蕎麦の。牀几葭簾を踏潰されて。只胆を鑠す可なり。かゝれば小文吾と磯九郎は。 逃る衆人に隔られて。迭に索る遑もあらず。然けれども小文吾は。些も騒ぐ気色なく。岡の下なる小松の辺に。 磯九郎を俟程に。突然として走り来る。須本太は小文吾を。掛んとするを閃りと反して。角を楚と捕留たり。 畢竟小文吾が。暴牛を推駐めて。後の話説いかにぞや。そは第八輯に。解分るを聴ねかし。

《南総里見八犬伝第八輯巻之一》第七十四回

再説。犬田小文吾悌順は。那竜種なる暴牛の。突もて来ぬる勢ひ猛く。当るべうもあらざりしを。 些も騒ぐ気色なく。閃りと反して左右の手に。角を楚と捕駐たり。然ども怯ぬ怒牛の奮激。四蹄を壌に踏入までに。 推倒さんと角へども。小文吾も亦一身の。力を極め挑あふて。一歩だにも退かず。千曳の石の地中より。 見れ出て立たる如く。又烏獲が奔牛の尾を援留めしも恁やと覚えて。和漢に儔多からぬ。稀有の壮観でありければ。 初に酷く蒐散されて。辟易したる牛力士們は。亦這縡の為体を。看つゝ再胆を潰して。彼よ彼よ。とばかりに。 手を抗足を空にしつ。衆皆四下に聚ふものから。怕れて近くは找み得ず。呆れて斉一目戍りてをり。 然程に小文吾は。権且牛を疲して。曳と被たるちから声と。共に烈しき修煉の剽姚。左へ推させて。耶と右へ。 揉回したる打擂の本事に。然しも悍たる須本太牛は。鈍や頑童に放下さるゝ。児の如く地拍して。 と仰反倒れけり。これを観るもの思はずも。感じて。喝と采る声。谺に答て夥しく。 霎時は鳴も已ざりける。登時力士幾名か。走り蒐りつ力を勠して。牛の四足を捉るもあり。 又睾丸を掴むもありて。毛をもて糾る牛縻に。鶏の羽多くものせよ。と罵りつ辛くして。鼻に融しつ。 太やかなる。絆索を楚と繋着て。哨子鳴らして牽起せば。牛はそが儘鎮りて。身振ひしつゝ立時に。 小文吾を見て怕れけん。両三歩逡巡して。牽るゝ随に阿容々々と。蕃山のかたに退きけり。 有恁し程に小文吾の。案内に立たる磯九郎は。逃も果さで又立聚ふ。衆人と共侶に。間遥に小文吾が。 勇敢膂力を目撃したる。こゝろ宛酔るが如く。初はみ後は又。さへ面を起すと思へば。 事鎮ると慌しく。はや稠人を掻分て。走り近づき小文吾に。声をかけ腰を折めて。その歓びを演るにぞ。 那大力士牛裁判們は。二頭の牛の主と聞えし。須本太角連二を先に立して。含笑ながら出て来つ。 皆小文吾にうち対ひ。跪坐て斉一額をつきて。俺們はけふの結番の。此彼二頭の牛の主。虫亀村なる須本太郎。 逃入村なる角連二。並に大力士某甲某乙。牛裁判們で候なり。当所の牛の角突は。年毎に間断なければ。 牛の放るゝこともあり。又暴牛もなきにあらねど。牛力士們が修煉して。軈て捕候ひしに。 須本太が牛の竜種なればや。暴出せしより手に乗らで。不慮の劇に及びしに。 鬼神を欺くおん身の勇力。輒く牛を推滾して。那厄難を鎮め給ひし。御恩は三国山より高く。又衆人の歓びは。 千隈川より深かるべし。小坪で鰐を手捕にしたる。朝夷三郎義秀も。牡鹿の角を裂にきといふ。泉小二郎親衡も。 皆是見ぬ世の人なれば。虚実いかにかあるべからん。駭憶ふはおん身の力量。眼前に観て初て知りぬ。 今も亦恁る勇士の。在たるこそ不思議なれ。願ふは本貫尊号旅館を。巨細に名告せ給へかし。 記録に留めて後々までの。話柄に做まく欲す。いかでいかで。と慇懃なる。言語斉一乞問れたる。 犬田が答を俟ずして。找み出たる磯九郎は。さもこそあらめ。と誇に。はや須本太們にうち対ひて。 噫大爺達まだ識らずや。這個刀祢は東国より。武者修行の為来ましたる。姓は犬田世称を。小文吾となん喚れ給ふ。 海内無双の猛者なれば。旅亭も一倍択れけん。小千谷の郷に名もしるき。石亀屋次団太が。一大得意の客人なり。 なれどもさせる款待なし。けふこそ這里の闘牛を。観せまゐらせんと予より。約束せられし哥々の名代。おん郷導に立たれども。 劇で興も忽地に。鮫守の磯九郎を。認られぬことはなからんを。們を閣て当面に。 事問稟すは無礼ならずや。と訛音高く窘れば。牛裁判は力士と倶に。驚きながら仰見て。現いはるれば磯九主。 高名耳に轟くものから。いまだ面を識らざりければ。敬なき事を致したり。允し給へ。とうち陪話るを。 小文吾は傍痛し。と思へばこれを慰めて。各々介意し給ふな。武士たるものは戦場にて。名ある武士を撃てこそ。 聊功に誇りもせめ。暴たる牛を制たりとて。何でふみづから負むに足んや。やよ。うち措し給ひね。 と技に誇らぬ言の葉に。花をもたせて美しき。答に大家感じたる。そが中に須本太郎は。牛裁判們にうち対ひて。 能ある鷹は爪を隠す。といふ鄙語も以あるかな。最大人しき目今の。おん辞に儘しては。御庇に立し甲斐もなし。 幾千人の老弱男女が。幸ひにして怪我もせず。縡はや無異に治りたる。歓びもまうすべく。おん報ひもせまくほしきに。 今宵のお宿を仕らん。この義を取持給ひてよ。といふに頷く牛裁判們は。又磯九郎にうち対ひて。 哥々。目今聞れし如し。誘。虫亀へおん供せん。宜く稟し給ひね。と憑めば有理。と磯九郎は。小文吾を見かへりて。 何方今宵は小千谷まで。還らせ給ふべくもあらねば。牛主達の所望に任して。那里に泊り給へかし。 こは又自然の道理なり。誘快々と。勧るを。推辞難たる小文吾は。才にその意に随ひて。そは左も右もの事ながら。 報ひを受べき俺にはあらず。聊たりとも用意せらるゝ。管待は初より。固く断りまうすなり。 這義を違へ給ふな。といふに歓ぶ須本太郎。角連二さへ真実たちて。けふ御助力に遇ざりせば。 怪我するものも多かるべく。且小可が真黒牛の。突殺さるゝこともあらんを。人畜共に恙なく。 恁まで愛たく隍廟の。祭祀を果せし歓びは。只是大人の賜なり。翌も逗留し給はゞ。小可も亦お宿をせん。 喃。虫亀の翁。素より田舎の事なれば。おん款待の何かあらん。然しも他郷に異なるは。糧食にはあらで米の飯。 秋冬ならばCもあり。小鱈もあれど今頃は。稍雪の新世界。野蔬すら尚稀なれば。 と相槌打るゝ須本太郎は。含笑ながら頷きて。現錯語なしちがひなし。只手製の御酒ばかり。御意に入れんと思ふのみ。 日は傾きぬ誘給へとて。はや小文吾が後に従ひ。先にも立つゝ夜は鳴く。虫亀村へ倡導にぞ。磯九郎さへ又更に。 最も興ある心地して。巨擘を掉りつゝ意気揚々と。犬田が側に隷従ふて。倶に引れてゆく程に。 須本太牛を揉倒したる。大力殿をよく観んとて。今まで残留りたる。老幼男女幾隊か。樹下結縷草に立聚ひて。 拭翳袖掖き低語て。見えずなるまで目送りけり。却角連二は中途にて。今宵は所要ありと倡へて。 辞して家路に還りしかば。大力士們も便路に儘して。別を告るも多かりしを。牛裁判們は恁る時の。 所役なれば。と憑れて。なほ小文吾を送りゆくめり。 尓程に小文吾は。はやく須本太が宿所に到るに。日の最長き比なれば。向暮として暮もせず。下の宿ながら。 田舎は殊に長閑なる。その一布地を看回らして。衡門より找み入るに。主人は素より富裕にて。 本邨第二の長なれば。妻子あり。奴婢も多かり。嚮には小厮を走らして。けふの始末を恁々と。 はやく宿所へ報たりければ。妻も児子も小文吾の。名を聞知りつ。こゝろを得て。大家斉一出迎へたる。 款待態大かたならず。客房へとて案内をしつゝ。上坐に推升して。茶を看め果子を薦め。妻も児子も暴牛を。 捕鎮められし歓びを。云々と演などす。登時主人須本太郎は。婢妾輩がもて来ぬる。酒杯を受とりて。 みづから小文吾に薦めけり。けふは祭祀の恒例にて。家毎に酒肉の儲あり。況牛を出せしものは。各々その捷を祈りて。 准備に匱しからざれば。有べき限り酒菜を取出て。処陜まで安排べたる。主客の辞譲熱閙しく。牛裁判們も立替り。 入代りつゝ提撕て。只管犬田を称賛す。これにより磯九郎も。席末に列りて。思ひの随に飲もしつ。 啖ひもしつゝ笑ひ興じて。人より先に酔たりければ。傍痛きこと多かり。既にして盃の。数番巡りし時。 須本太郎は又更めて。小文吾に羞めていふやう。偶お宿は仕れども。猛の事にて意に儘せず。 田舎料理の似而非饗饌。最恥かしく候なり。就て一二種のあり。 こは暴牛を鎮め給ひし。おん報ひとまうさんは。烏許がましくも思召べし。只献盃ののにこそ。 と臠し給ひね。と演て後方を見かへれば。牛裁判們がこゝろ得て。次房に准備をしたる。縮麻織五六反と。 永楽銭十貫文を。手に手に取てもて来つゝ。小文吾が目前へ。恭く安排べて。共侶に薦るやう。只今主人の稟せし如く。 相応しからぬ東西にはあれど。暑に向ふ折なれば。縮は軈て御旅中の。汗衫にも做さるべし。銭は当所の恒例にて。 暴たる牛を辛くして。捕鎮るものある時は。牛の主より出すこと。三貫文と定めたり。遮莫けふの暴牛は。 大力士們すら蒐散されて。殆難義に及びしを。料らず大人の御助力にて。縡立地に鎮りたる。その歓びを稟さんとて。 聊主人の心を用ひし。折乾にて候なり。敬なき東西を。と叱らせ給はで。受収給ひなば。主人はさらなり俺們まで。 いと辱く思ひまつらん。この義を承引給ひねかし。と口説くを小文吾聞あへず。そは又要なき人情なり。 嚮にも既にいひけらし。武士たるものが暴牛を。捕鎮めたりとても。然までに功とすべきにあらず。 那折牛をめずば。俺身も矢庭に突倒されて。傷つくこともありぬべし。尓れば人の与のみならで。 這身を思ひし故なるに。約束違ひて甚麼ぞや。力士のごとくせらるゝは。只是意外の恨みなり。その義は決して受し。 と推辞をうち聞く磯九郎は。折敷掻遣り找み出て。袖巻掲して小文吾を。佶と睨へて。莞尓とうち笑み。 小可酔ていふにはあらねど。大人の了簡甚歹かり。寡慾も事によるべきに。人の資助になりながら。 報ひを固辞ことやはある。こは小可に任させ給へ。今より小千谷へもて還りて。哥々に見せて羨せん。 といふを小文吾冷笑ひて。何を和主が知るよしあらん。角力の折箱と思へるか。嗚呼なることを。と禁れども。 磯九郎は耳にも掛ず。酔たるものゝ癖なれば。理なきことを囂々と。繰返したる高声に。小文吾は只呆れ果て。 取るにも足らぬ酔狂人と。口角ひ益なし。と思ひかへして再いはず。牛裁判們はまだ酔ぬ。酒よりはやく興醒て。 此彼ひとしく磯九郎を。推鎮んとて捫択したる。迭代りの辞のかずかず。果しもあらぬ殺風景に。 主人はいとゞ胸苦しく。ひとり小文吾を慰めて。人も我も酒ばかり。怪しきものは候はず。寡言なりしが多弁になるも。 柔和なりしも諍ひ怒るは。咸狂水の所為なるを。御こゝろにな掛け給ひそ。且く縡の鎮るまで。 いと徒然に見え給へば。別席にておん湯漬の。夕飯をまゐらすべし。背門のかたには褊小なる。 乾浄舎に庭もあり。北国の風土にて。桃も桜も千葉紅梅も。昨今一度に皆開て。茅の軒端に爛漫たり。 はや黄昏に及びしかども。折から霽たる夕月夜には。聊眺めなきにあらず。誘おん案内を仕らん。立せ給へ。 と正首なる。心づかひを小文吾は。はやくも猜してこれのみ辞はず。且く這里を外すには。好潮間ぞと思ひしかば。 応をしつゝ遽しく。刀を引提て立にけり。尓程に磯九郎は。小文吾が這席に。在らずなりては誰にかも。 憚るべくもあらざれば。いよゝますます罵り狂ひて。牛裁判們の意見を用ひず。舌もまわらぬ声ふり立て。 各々いはるゝことなれども。們が哥々は年こそよりたれ。地方で一二と指れたる。 角力の抜手なりければ。暴たる牛の一箇や二箇組止ること易からんを。けふは火家の回背にて。 其首へいなねば済ぬとて。個磯九郎を客人の。郷導に立られしに。這首の主人が恩義の酬ひに。牽たる縮と楽銭を。 受られずとて損さしては。還りて哥々にいひわけなし。朸一本貸し給へ。今より肩にうち乗して。はやく宿所へもてゆかずば。 又客人が人柄為りて。空辞退して果は亦。們を哥々に叱らせん。日の暮ぬ間に快ゆくべし。 銭も縮も両個に分て。袱借りて裹ずや。と席薦敲きて急せしを。牛裁判們はなほ和諭て。和主のいふよし無理ならねば。 そを用ひぬにあらねども。よく思ふても見給へかし。這里よりして小千谷まで。一里や二里の路にはあらず。 日は暮たるに重荷を担ふて。通宵走るは益なき所行なり。然とも翌まで俟れずば。馬を央ふて駝して遣りね。 真夜中比に必届かん。この義は都て俺們に。任して和主は快就枕りね。やよ喃々。と右左より。只管賺すを磯九郎は。 半分聞かず疾視哮りて。牛より起りし事なりとて。馬を央ふて何にせん。多寡の知れたる連緡銭。 小角力も取る俺なるに。重荷とせらるゝことあらんや。けふは初の九日にて。真夜中までは月もあり。 足の灸にあらねども。五里や三里を走ればとて。甚ばかりのことやはある。快担為りて逓与さずや。 と頻りに狂ふ生酔も。慾には錯はぬ卑劣の本性。留るべくもあらざれば。牛裁判們は賺難て。かくまでいへば是非もなし。 に暴立て。なほこのうへの劇に及ばゝ。裁判人の甲斐なしとて。 主人に怨みられやせん。放て遣るもよかるべし。と聶きつ。商量したる。そが中に一両名。庖のかたに赴きて。 袱朸草鞋まで。手々にもて来て担為る程に。自余ものもは磯九郎を。やうやくに推鎮て。やよ磯九主聞給へ。 恁は和主の望に儘して。銭も縮も担為りたり。草鞋もこゝにあり。身装して出ずや。といはれて歓ぶ磯九郎は。 二裹の担荷を見かへりて。是で好これでよし。然らば罷らん。客人にも。主人にもよくこゝろ得てよ。 といひつゝ立を。庭門より。と辞をかくるそが一人は。先に走りて推開く。胡枝の折戸も巻石近き。 縁頬にははや磯九郎が。裳端折り草鞋を穿に。支て邪魔になる。中刀取らし手伝ふて。 裹の上に挿む。裡面なる二人は朸の両端。耶と吊揚て乗せて遣る。重担を肩に受とりて。物とも思はぬ血気の壮佼。 ながら出てゆくを。心もとなく思ひたる。裁判人們は目送り果て。 旧席に坐を占れば。酒客に怕れて次房へ。避たる給侍の婢妾們と。共に小厮も出て来て。亦復酒を薦るにぞ。 牛裁判們は磯九郎の。噂をしつゝ小厮に対ひて。さるにても酔たるものに。十貫文の銭をみたして。夜行を遣るは心もとなし。 々にても見隠れに。送りゆくこそよかめれ。這義を奥へまうしてよ。 と心を属れど小厮們は。磯九郎が人もなげなる。似而非広言を憎がりて。生応して早には立ず。 偶立しも奥にゆきて。いはれしよしを。恁々と。執次ものはなかりけり。 有恁し程に小文吾は。又那乾浄舎にて。夕饌をたうべなどして。うち譚ふこと半あまり。 夜ははや初更の比及に。主人に引れて又旧の客房に来にければ。牛裁判們は磯九郎が。縡の趣箇様々々。恁々なりき。 と報知するを。小文吾聞つゝ驚きて。そは安からぬ事にこそあれ。這首よりして小千谷まで。一二里の路にはあらず。 況千隈の夜河あり。酔狂人の銭帛を担ふて。一個ゆきなば危からずや。縦恙のあらずとも。他が乾父次団太は。市人なれども侠気あるに。 情由を知らずば某が。財帛に愛て夜深しに。一個磯九郎を還しにけり。と思ひやすらんいと恥かし。時は聊移りしとても。 酔たるものゝことなれば。いまだ遠くは去べからず。快留ん。と立揚るを。 須本太郎推禁めて。宣ふよしは理りなれども。みづからせ給ふにも及ばじ。 僮僕輩を走らしてん。裁判達も心づきなし。よしや禁めても留らねばとて。切て小厮の一両名も。倶に遣るべきことなるに。 といふを大家聞あへず。そは俺們も脱落なく。那人々に恁々と。いひつることはいひしかど。なほ饗膳の最中でありけん。 奥へ通達せざりしにや。今までその義に及れざりき。と報るに主人は眼をりて。そは那奴們が等閑なり。 快甲も来よ乙もいね。提灯点して出ずや。と頻りに焦燥て呼立るを。小文吾禁めて。且等給へ。幾個人を走らして。 引戻さんとせらるゝとも。俺身みづからゆくにあらずば。磯九郎はなほ云云と。強情張て従ふべからず。 思ひがけなき今宵の饗応。歓びは述尽しがたかり。今より暇を給はるべし。いでいで。といひつゝも。立を主人は禁め難て。しからんには是非に及ばず。 然とて遠路の夜行なり。轎をまゐらせん。うち乗りて。やよ走らし給へ。といへば小文吾頭を掉て。 そは浅からぬ馳走なれども。その義によりて時を移さば。いよいよ及びがたかるべし。允し給へ。といひ捨て。 身装しつ慌しく。はや玄関に立出れば。主人はなほも奴僕輩を。両三名呼立て。若們はおん客人に。従ひまつりて快ゆきね。 と辞せわしく吩咐て。却後方へ合寓たる。牛裁判們にうち対て。各位もとてもの事に。一人途まで送らせ給へ。 們は轎を。吊して迹より着ん。這義を憑みなうすなり。 といふに大家異議もなく。そは宣ふな。こゝろ得たり。甲乙は且く遺りて。主共侶に続きて来よ。迹をたのむ。といひかけて。 走り出たる一両名。後れて来ぬる奴僕輩を。呼掛々々急がして。一町あまり先だちたる。犬田に喘ぐ遅牛の。月を便りにふたりける。 案下某生再説。鮫守磯九郎は。酔に乗しつ牛裁判們の。皆禁めたる意見を聴かで。十貫の銭五反の縮を。独朸にうち掛て、須本太が宿所を出しより。 只管路次を急ぐものから。又只踉々蹌々と。歩の運びの危かりしを。幸ひにして滾もせず。跌きもせず辛して。 路二里余来にければ。夜ははや二更の比になりけり。磯九郎は性として。角力を好めば然ばかりの。 膂力なきにあらねども。思ひしよりは持圧りして。背の汗に推流されけん。酒の酔は醒にけり。 霎時こゝらで憩んとて。そが儘に担をうち卸して。推袒ぎつ月を瞻仰て。腰なる手拭を抜出し。 胸毛を浸せし汗を拭ひて。彼此を見かへるに。今来し方の山路なりしは。相川村にてありけんかし。 這里は件の村尽処にて。狭野もあり水田もあれど。樹下藪の蔭などには。残れる雪の多く見えたり。 夜艾の野田のことにしあれば。宇津の山辺にあらねども。人には遇ぬなりけり。と口号つゝ悔しさに。 独熟思惟るに。嚮には酷く酔にけん。人の意見を聴ずして。恁る重担を遥々と。もて来ぬるこそ俺ながら。 労して功なき事なりけれ。是よりなほも苦辛して。小千谷の宿までもてゆきぬとも。銭も縮も俺が東西ならぬに。 人も憑ぬ担奴をせしは。只是酒の所為なれども。痴漢なり。と人にいはれん。然とて棄てはいよいよいなれず。 益なかりき。と独言て。舌うち鳴らす後悔の。今さら此に立よしなければ。思ひかへしつ擡起して。 肩に載せんとせし折から。忽地婦人の叫ぶ声して。やよ喃妾を助けてたびね。助け給へ。と呼かけたり。 登時磯九郎は。思ひがけなき喚声に。駭きつ且怪みて。急に四下を見かへれども。それかと思ふ人影もあらず。 原来是狐狸の。今俺が疲労れて悔しく思ふ。心の空虚に馮入りて。魅かさんと做にやあらん。いと嗚呼なり。 と罵りて。袒推斂れつ遽しく。眉毛に屡唾を塗りて。ふたゝび朸に手を掛つゝ。快擡んとする程に。 亦復喚声頻りに起りて。助け給へ。と叫びしかば。磯九郎はいよゝますます。疑惑ふて去も得やらず。 隈なき月を燭にして。なほ彼此と看回らすに。声は正しく樹下なる。残雪の辺にて。その人土中にあるかとおぼしく。 形状はなほも見えざりけり。越に熟尋思を做すに。こは北国の習俗にて。冬春雪の深かる比。戸們が雪を穿て。 窖蔵の如くにしつ。その雪窖に躱居て。鳥を捉ること毎にあり。今は四月の初旬にて。里なる雪は消果たれども。 日光に疎き巨樹の下。藪蔭などにはなほ雪の。小山のごとく残れるあり。恁れば那里はちかき比まで。 鳥を捕るものゝ。穿做したる。雪窖にもやあらんずらん。然ば夜行をせしものゝ。愆て件の窖に。 陥りしより出がたさに。人の扶助を求るか。これも亦知るべからず。いでいで。といひつゝも。声するかたに立よりて。 見れば果して雪窖なり。下は漸々解初けん。さまで深くは見えざれども。上はなほ巌の如く。堅うして且滑なり。 おもふに違ざりけり。とひとりごちつゝ声をかけて。窖に堕しは甚なるものぞや。声は正しく婦人に似たり。 何等の故に夜を更て。独こゝらを過りたる。情由なからずや。いかにぞ。と声振降して喚り問へば。 窖内より答ていふやう。疑ひ給ふは理りなり。妾は千隈の川辺なる。農夫某甲の妻に侍り。けふは那二十村なる。 隍廟祭祀で侍るから。牛の角突を観にゆきて。黄昏時にかへり来にける。這辺にていと大きなる。 反鼻に逐れ狼狽て。思はずもこの岡に。陟避んとせし程に。身は雪窖に陥りて。出んとするに手がかりなければ。 心いよいよ驚憂ひて。人の扶助を俟ものから。日の暮たれば往還も絶て。声喚嗄せし二許。 悲しさ限りあらざりき。いかで霎時のおん手を労して。扶揚させ給へかし。宿所に還らば良人に告て。 そのおん報ひはiとすべし。いかでいかで。と哀み乞ふて。伏拝む手は見えねども。声は涙に隠りたる。 憂苦さこそ。と磯九郎は。聞つゝしばしば頷きて。そは亦不慮の災難なり。雪は残れど暖なれば。蛇もも出つらん。 那雪頻吹にあふたるものを。穿もて出せし事はあれども。恁る窖に堕たるを。拮るはこれを肇とす。 霎時等ね。といひかけて。旧処に退きつ。両箇の裹を締着たる。索を釈き朸を外して。引提て軈て窖辺に。 来つゝふたゝび声をかけて。やよ喃女中。俺今上より這朸をるなり。和女郎はこれに楚と携りて。 曳るゝ随に出て来よ。取な外しそよくせよ。とこゝろ得さしつ朸の杪を。徐に手繰降すにぞ。那女房は幾番も。 歓びを演るのみ。早には携らざりけるを。磯九郎は焦燥て。何を胡徐々々快せずや。未か々々。と問ふ程に。 油断を覘ふ件の女房。朸の杪に手をかけて。力を極めて。曳と引く。卻含を取られし磯九郎は。咄嗟と一声叫びも果ず。 身を倒に雪窖の。底までと落てけり。当下件の女房は。透さず短刀抜拿て。乗しかゝりつ磯九郎が。 胸前刺んと閃めかすを。磯九郎は臥ながら。身を遣錯はし。退々々。怒れる声をふり立て。 騙賊奴。謀られたりとても。長の知れたる女流の大刀撃。腕戦ならば目に物見せん。覚期をせよ。と敦圉悍く。 矢庭に丁と反覆して。刃を奪取んとせしを。女人も不測の癖者にて。なほ奪れじ。と角ひたる。 手さへ臂さへ支ては。進退便なき雪窖の。そこはかとなく挑みけり。

小千谷の郷…欄外注「小千谷を前回に刈羽郡こちやと傍訓たるは非なり。小千谷は魚沼郡に属して。をぢやと唱ふ。又小栗村も土呼こくりむらなるよし。越後塩沢なる牧之がいへり。看官宜く訂すべし」。

《南総里見八犬伝第八輯巻之二》第七十六回

却説石亀屋次団太は。めたる船虫を。且縁側なる柱に繋ぎて。他が所持せし短刀を。 拿抗つゝ左見右見て。に斂めて小文吾の。身辺に措て却いふやう。小可は那賊婦の。 仮瞽女なりしを知らずといふとも。憖に大人に薦めし。疎忽の辜を争何せん。寔に危き事なりき。 是臠せ這短刀は。焼刃に大く曇りあり。近属人を斫たるものか。是も亦知るべからず。よりて思ふに那賊婦は。 必是旅客の。枕捜の類にあらで。水滸の母夜叉母大虫に。似たる強盗なるべきか。しからずば人の為に。 おん身を狙撃んとしたる。刺客にもや候はん。思ひ当らせ給ひぬる。よしある事か。甚麼ぞや。 と問ふを小文吾うち聞て。いはるゝ趣寔によしあり。俺も亦然はおもへども。いと朽をしくも見ることの。 今さら自由ならざれば。正可に厶とはいひがたけれども。那奴が声は武蔵にて。鴎尻の並四郎と喚做したる。 奸賊の妻なりし。船虫には似たる所あり。その故は箇様々々と。今より五稔前の秋。那並四郎が小文吾を。 宿所に留めしその夜艾。殺して盤纒を奪略んと。計較たる縡の趣。並に件の並四郎は。小文吾に撃れしを。 船虫はなほ詭りて。些も怨る気色なく。小文吾を出し遣りて。途にて千葉家の郷役なる。畑上語路五郎の手を借りて。 搦捕せんと謀りしかども。又小文吾に杪を摘れて。その奸計行れず。縡立地に発覚て。倒その身をめられ。 石浜の城へ牽るゝ折。窃に資る人ありて。逐電せしと聞えたる。その事の為体。又那嵐山の尺八と。 小篠落葉の刀の事まで。その崖略を説示して。顧ふに那仮瞽女奴は。これ並四郎が妻船虫にて。遠く這頭へ流落来つゝ。 俺がこの旅舎に在る事も。眼病にて稍久しく。垂籠てをることも。這奴何の間にか聞知りて。夫の怨を復さんとて。 遂に今宵に曁べるか。這一条を除きては。仇做す婦女子あるべしとは。這身に取りて記憶なし。といふに次団太駭嘆じて。 既にその事あらんには。今さら疑ふべくもあらぬ。那奴は件の船虫とか。喚れし賊婦で候はん。いでいで。 といひつゝも。又身を起して四下を見るに。柱に掛たる一条の。露払の小竹杖あり。これ究竟。と遽しく。 引提て船虫に。iと立対ひ疾視て。やをれ賊婦。今大人の。いはれしよしを聞つらん。汝は那並四とやらんが。 鬼妻船虫にこそあらめ。何の比より這頭に来て。何処を宿にしたるぞや。その身一箇にあらずして。 必支党なからずやは。懐にせし短刀も。贓物にて近き比。人を殺せしことあらん。出処来歴支党まで。 問るゝ随に招道せよ。いはずば目に物見せんず。と罵りつ杖ふり抗て続ざまに撻懲せば。船虫は。吐嗟と叫ぶ。 声苦しげに戦して。やよ主霎時等給へ。恁なるからは何をか慝ん。且いふよしを听給はずや。と悲請ふて已ざりしを。 次団太は。さもこそとて。権且呵責を止めけり。登時船虫は頭を擡。吻と息つきて。喃主。妾は武蔵なる。 人の妻ではあらずかし。故郷は則下野にて。赤岩村に隠れなき。赤岩一角武遠と。喚れし郷士は恥しながら。 妾が良人で侍りにき。尓るに良人武遠は。いぬる年故ありて。籠山某甲といふ武芸の弟子に。闇撃にせられにけり。 過世歹くて仇を撃べき。児子一箇もあることなければ。俺身女流にあなれども。那籠山が往方を索ねて。 良人の怨を復んず。と思ひ決めしその日より。神に祈り仏に誓ひて。縡の便宜を願まうせしに。 ある夜の夢に良人の冤家は。這越路なる魚沼の。郡にあらんと正しき示現に。心勇みて旧里を。潜出つゝ辛くして。 独這地に来つれども。由縁の人のあらざれば。亦定めたる宿もなし。女按摩に形状を変て。盲目と見せて里人にも。 又旅客にも彼此と。近づくことを得たりし甲斐に。計らず這里に喚入られて。初て大人を見てけるに。 面貌年庚声音まで。那籠山と一対にて。不思議に肖させ給ひしかば。別人なりとは思ひもかけず。 霎時由断を覘ふて。撃果さんとしたりしに。思ふにも似ぬ大人の大力。投伏せられしは没怪の幸ひ。 められし折に又。心を属てつらつらと。見れば寔にその人ならず。那籠山には小鬢の内に。 一寸許の旧痍あり。又這大人にはその痍なし。性起たる折なれば。其首まで念を入れざりし。疎忽の辜を允させ給へ。 這短刀は良人の紀念。妾は則犬村氏にて。名をば窓井と喚れ侍り。人に知せぬ宿望も。俺身の素生もうち諦て。 報まゐらするは疑ひをも。這縛の索をしも。はやく解れん為なれば。これを御縁に仇討の。 後見をして共侶に。冤家を索ね給はらば。こよなき慈善で侍らまし。哀しきかな。と声立て。口に信する搗鬼の。 巧はさしも武蔵野に。ありといふなる逃水の。水ならなくに仮涙。虚泣しつゝ伏沈むを。次団太見つゝうち聞つゝ。 有理と思ふ気色にて。只顧嘆息したりしかば。小文吾。呵々と冷笑ひて。翁よ。那奴が巧言虚談に。 惑ふて実事とな聴く給ひそ。他寔に烈女にて。良人の為に讐敵を。撃んと欲するものならば。 俺に刃を捉止られて。本意を得遂ずなりぬとも。忽地に胆落て。怕るゝことはなからんを。投伏せられし時に及びて。 必死を極めしものに似ず。賊心言語に顕れて。められても羞ることなく。 陳ずるよしの巧なるも。只その命を惜むのみ。彼紫の朱を奪ひ。の玉に混ずると。 いふことあるを思はずや。俺は一切こゝろ得がたし。といはれて次団太忽地に。暁りて外股うち鳴らして。 賢察誠にそのよしあり。這奴飽まで撻懲さずば。いかにして実を吐くべき。術寛かりき。と呟きて。 ふたゝび撻んと立対へば。船虫よゝとうち泣て。恁までいひしをなほ疑ふて。強顔き人の恨めしやとて。 蹉しても疾視ても。檻の獣となりし身の。今さらにすべなかりけり。折から次団太が角力の弟子に。 泥海土丈二。百堀三と喚做したる。両個の壮佼這里に来つ。既にして船虫の。生拘られたる縁由を。 奴婢們が噂に聞知りて。観んとてはやく次房にをり。力纔次団太が船虫を。撻んとしつるを闕窺て。やよ喃大哥。と喚かけて。 簀戸の陰より遽しく。共侶に立出て。次団太にうち対ひて。大哥這奴が大胆なる。刀剣三昧せしよしも。 又その陳ずる趣を。搗鬼ならんといはるゝよしも。その大略を聞得たり。現なることのみなれば。 責問れんこと勿論なれども。這首にて笞を中給はゞ。亦復酷く号叫びて。さぞな四隣を駭さん。 恁るものには例もあるに。庚申堂へ将てゆきて。神慮儘にし給はずや。といへば次団太頷きて。 寔にその義しかるべし。然ば這里へ将てゆきね。三夜矮楼の梁に。吊りて宵毎に鞭撻なば。なでふ首状せざるべき。 准備をせよ。といそがせしを。小文吾霎時と推禁めて。神慮儘といふよしは。嚮にも聞たることながら。 そは里人の私刑にして。その刻薄に過たるを。後難あらば争何せん。願ふは領主へ訴へて。官府沙汰にし給へかし。 といふを次団太聞あへず。地方の風儀を知り給はねば。恁宣ふは理りなれども。然では不便の事多かり。 当所は前内管領。長尾判官景春主の封分にて。主は近曾上毛なる。白井の城に在すなり。又当国には春日山に。 長尾家の城ありといへども。路遠ければ訴訟人們の。往還に日数を費すのみ。主在さねば断に。 動もすれば非理の裁許あり。是その不便の一なり。又這里よりして程遠からぬ。 三島郡片貝に。長尾家の別館あり。其首には領主のおん母君。箙の大刀自と喚れ給ふが。年来住せ給ひつゝ。 みづから政事給へば。亦是女儀の臆断にて。贔屓の沙汰も尠からずと。巷談衢説に聞えたり。是その不便の二なり。 銭さへ日さへ費すまでに。労しても功有がたき。領主の庁へまゐらんより。神慮儘に優ことなし。 こは此地方の私刑なれども。昔よりしてこの事あるを。領主にも聞えたり。免許を稟しことならずとて。 なでふ後難あるべきや。やよ。うち任し給ひね。とこゝろ得に説示しつゝ。 却壮佼們に船虫を。牽立さして共侶に。張灯引提て遽しく。里尽処なる庚申の。荒廃堂投て出にけり。 恁而その夜亥中の比に。次団太一箇かへり来て。小文吾に報るやう。那賊婦奴は形のごとく。庚申堂へ牽もてゆきて。 軈て矮楼の梁に。吊りて土丈二鮒三們に。笞を執らし鞭撻して。幾番となく責問ひしに。素より心太き癖者なれば。 撻るゝ毎に叫びしのみ。いまだ招道せざれども。翌も明後も三夜の間。那首にゆきて責懲しなば。竟に衰りて実を吐くべし。 よりて土丈二三にも。縡恁々とこころ得さして。途より宿所へかへしたり。 他們は年来小可が。角力の弟子で候へば。翌の夜も又いなんといひにき。這里よりして荒廃堂まで。 約十町許あり。人家を離れて奥まりたる。蕃山の腰で候へば。白昼でも人の往還罕なり。非如那里へゆくものありて。 賊婦が梁に吊られしを。見るといふとも憐みて。資るものは候はず。這頭の人は並て咸。神慮儘を知ざるものなく。 神慮儘にせらるゝは。歹人なるを知ればなり。抑件の庚申堂は。年々の闘戦に。荒果しより人も詣らず。 神像さへに亡なりて。今は要なき荒廃堂なれども。毀も得せでそが儘に。うち捨置は神慮儘の。私刑によりて這郷に。 歹人徘徊せざればなり。然れば件の賊婦奴が。なほ詭りて陳ずるとも。三夜に及びて死なずもあらば。 千隈河に推淪めて。地方の害を除くべし。こは只大人の与のみならず。這郷人們の為なれば。といふを小文吾うち聞て。 その義はこゝろを得たれども。那仮瞽女を強盗か。然らずば刺客ならん。と思ふは只是推量なり。いまだ招道致さずば。 食餌を与へ。苦痛を緩めて。賺して問ふも可かるべし。然るを三夜を限りとして。惴りて殺さば不仁に似たる。 後悔ありとも甲斐なからん。恨らくは俺睛翳みて。他を見ること自由ならねば。なほ疑ひを釈に由なし。 就て這短刀は。那仮瞽女が東西といへども。焼刃の曇り尋常ならねば。人をたるものに似たり。 といはれしによりて又思ふに。嚮に磯九郎を殺したる。那盗賊もこれらをもて。照験となることしもあらんか。 是も亦知るべからず。然れば這短刀は。和主権且預り措て。那穿鑿をもし給へかし。といはれて次団太異議に及ばず。 先小文吾の身辺なる。那短刀を拿抗て。宣ふ趣寔に尓なり。又那賊婦を譴撻て。這短刀の出処をも。問はゞ磯九の仇を知る。 便着もあらんか。料りがたかり。小可預り措くべきのみ。夜ははや既に深初たり。快々睡り給ひねかし。と告別しつ短刀を。 引提て奥へ退りけり。尓程に小文吾は。睡られぬ随に通宵。身の病著と草枕。旅宿の憂苦を遣り難て。 独つらつら思惟るに。俺が風眼も早晩と。三十余日になりにたり。然しも主人の親切に。医療売薬甲乙となく。 薦めに任して取替引易。久しう用ひたりけれども。只疼痛のみ退きて。物を見ること克はねば。恁ばかり便なきことはなし。 草根木皮の効なきも。又神仏の冥助によりて。世に難病のるもの。亦これなしといふべからず。 然ばこそあれ往歳。俺身石浜の城内に在りし時。馬加大記が邪計にて。独養せられたりけん。と思ひし折の多かりしを。 年来所蔵の霊玉を。口に含みつ。玉液の。奇特によりて腹痛り。不思議に恙なかりしも。 亦神仏の冥助ならんを。憶ざりしは疎なりき。今も亦霊玉の。奇特を祈らば翳む睛の。雲も狭霧もうち払れて。 天日を瞻る応言あらん。と尋思をしつゝ遽しく。枕掻遣り身を起して。夜も日も肌膚を放さゞりける。 身護嚢の紐解披きて。玉を取出つ。祈念して。幾番となく眼包を拊れば。撫るまにまに銷然と。眼内の邪熱退冷て。 心地清爽になりにけり。よりて且試に。枕辺遠く措したる。行灯を徐と引よせて。戸蓋を掲てうち対ふに。 目厭くもあらずなりしかば。憶ず莞尓と独笑して。是則霊玉の。妙応奇特に疑ひなし。恁まで霊験灼然なる。 神宝を身に付ながら。三十余日祷も得せで。他所に薬を求めしは。駝ひしその子をうち忘れて。人の抱る穉児を。 見つゝ羨むに似たりけり。かへすがへすも疎なる。俺が怠慢を許させ給へ。と念じて亦復眼包を拊れば。 物を見ること初にかはらず。枕に被る微塵まで。夜視にも鮮明なりければ。いよいよ歓びますます勇て。 翌は夙めて那荒廃堂へ。ゆきて仮瞽女をよく見てん。その折にこそ船虫か。船虫ならぬか。検定て。 疑ひ其首に氷解せば。推量をもて只管に。人に任して身の為に。人を戮する愆なからん。嗚呼尓なり。と胸にのみ。 思ふ心のいそがれても。夏の夜ながら今宵のみ。尚生憎に明やらぬ。丑三の鐘く比。霎時睡眠に就にけり。

《南総里見八犬伝第八輯巻之七》第八十八回

這折までも立去らで。此彼の問答をうち聞たる一個の旅客あり。傍に人のなきを見て。いそしく找近着つゝ。坐撃師にうち対ひて。 們も亦宿望あり。掌の紋理を看て給ひね。といふに坐撃師はこゝろ得て。売薬箱子の下匣より。 水晶鏡を出し来て。先旅客の相貌を。瞬もせず得と観て。誘とて左右の掌に。鏡を翳し彼此と。観つゝ旅客に示すやう。 人の面は根本なり。手足は枝なり。又幹なり。手に吉凶ありといへども。面部を合して観るときは。その根本を失はず。 よりて先面部を観て。合して掌相を攷るに。坤離の間に。×かくの如き交紋あり。おん身は人の仮子となりて。 倶に家を興すことあるか。然らずは異姓と同居すべし。古人掌相の妙決は。八卦十二宮を排列して。五行を以分別す。 人指の下は巽。中指と無名指の下は離。小指の下を坤とす。おん身は離紋沖乱せり。多くは是労碌して。進退定らざるの象あり。 且朱雀の紋生じて。掌に向ひ来れり。是官災を惹くことあり。しかれども。なほ幸ひに叉紋あり。料らず人の資助を得て。 災初て息べし。といふに旅人胆を潰して。看らるゝ如く些も錯す。今は何をか隠すべき。們は越後の魚沼郡。 小千谷の郷に名も高き。石亀屋次団太といふ。逆旅主人の乾児にて。百堀三と呼做すものなり。 哥々は原是角觝の最手にて。人には負ぬ侠気あり。尓るに去年夏の比。犬田小文吾といふ武士の浪人に。宿せしことのありけるに。 船虫とかいふ盗窃婦が。犬田に旧怨ありとて。仮瞽女に成り近着て。小文吾刀祢を刺んとせしを。組伏せつ生拘りて。 庚申堂に繋れたり。然るを件の船虫は。小文吾刀祢をの義兄弟。犬川荘介といふ猛者を。欺きつ索を解して。その夜宿所へ送らして。 剰殺さんとしたりしを。那犬川がその機を査して。賊の頭領酒顛二と。小們を撃捕りしに。 又船虫は逃亡たり。犬川犬田は恁までに。地方に大功ありけれども。守の母君片貝殿の。憎せ給ふよしありて。 哄引寄せ搦捕して。竟に首を刎られたり。その折に俺哥々は。いかで件の犬川犬田を。救拿らんと気を悶て。 児品子儀を喚聚め。商議せられし折もあり。又片貝へも幾番となく。赴きつ便りを求めて。誘んとせし程に。 宿所に在る日は稀なりき。然ば又哥々の女房。その名を嗚呼善と喚るゝは。後妻にして年もわかゝり。酒こそ好め心ざまの。 歹からんとは思はざりしに。俺身に同じき乾児の壮佼。泥海土丈二と。何の程には情由ありしを。哥々は夢にも知ざりしに。 犬川犬田の大阨を。救んとせし縡の紛れに。嗚呼善は那密夫と。会ことしばしばなりければ。遂に哥々に着られて。 いと発憤しくなりけるを。嗚呼善は怯まずいひ瞞めて。術よく誘たりければ。哥々は老鈍気て追も出さず。人僉歯癬く思ひしかども。 現生でも磨墨でも。老ては駑馬にも及ばずなりけん。日属の気質に似げもなく。土丈二をのみ鞭撻懲らして。 出入ることを禁めたり。奸夫淫婦は幸ひに。免れたるを歓ばで。そを恨しく思へばぞ。此彼密談したりけん。 土丈二は一日窃に。片貝へ赴きて。守へ訴稟すやう。石亀屋次団太は。嚮に犬川荘介に撃れたる。童子子酒顛二們と。 密々に交りて贓物を買ひもしつ。売もせし事いと多かり。這旧悪を人知りたれば。竟におん聆に入りぬべし。小可は次団太が。 乾児にて候へども。その連係を免れん与に。窃に忠訴し奉る。証据は是で候とて。携たりける短刀を。そが儘守へまゐらせけり。 その短刀は去歳の夏。那賊婦船虫が。小文吾刀祢を刺んとしたる。東西なりければ那折に。訴稟すべかりしを。 縡に紛れてその義に及ばず。犬田刀祢の俺哥々に。逓与せしをさらに又。嗚呼善に逓与て蔵措きにき。然るを嗚呼善が土丈二に。 齎して良人を辜なはせんと。右の如くに計較たり。恁而片貝の別館なる。有司奉りて詮議ありしに。誰か知るべき。 その短刀は。木天蓼丸と名けられたる。長尾家の重宝なりしも。村雨の名刀なるや。鑑定の与にとて。 曩に御家臣。籠山逸東太が稟すに儘して。そが武芸の師と聞えたる。下野赤岩の郷士なりける。一角武遠許遣されしに。 那縁連は故もやありけん。木天蓼丸を携て。逐電して往方を知らず。この故に白井殿景春をいふより。 又別人を遣し給ひて。赤岩を穿鑿ありしに。那一角は妖怪にて。真の赤岩一角の子なりける。犬村角太郎礼儀といふものに殺され。 角太郎は大角と。字を改め故郷を去て。是も往方は知れずなりにき。恁てぞ件の木天蓼丸の。穿鑿照験なくなりたれば。白井殿の惜ませ給ひて。 おん憤り大かたならねど。せん術竭て二三稔。空に過させ給ひしとぞ。恁いふ縁由のありければ。片貝殿の最太う。 哥々を疑ひ憎せ給ひて。搦捕せ獄舎に繋ぎて。却土丈二を誉させて。過分の賞銭を賜りけり。嗚呼憐むべし俺哥々は。奸夫淫婦に誣られて。 冤屈の与に獄舎に在り。幾番となく責られて。木天蓼丸を窃拿たる。出処と那縁連の。所在を尋問れしかども。 其頭の事はいかにして。夢にだも知るよしあらんや。只船虫が懐にして。犬田を刺んとしつるより。外にいふべき事なければ。 有つる儘に箇様々々。と稟して承伏せざりしを。片貝殿こそ女儀なれば。いよいよ憎せ給へども。別館の執事なる。 稲戸津衛由充主は。邪正を照す智慧ありて。冤屈ならんと思はれけん。去歳の暮より呵責を制めて。活しもやらず。 殺しもせず。みづから承伏しつるまで。久しく獄舎に置るべき。おん計ひと聞えたり。尓程に淫婦嗚呼善は。思ひの随に謀課せて。 良人を陥れしより。世をも人をも憚らで。幾程もなく土丈二を。後見の与にとて。宿所に召とり家事を任して。 夫婦のごとく腐合るを。誰とて憎ぬものはなけれど。土丈二は片貝殿より。賞銭さへ賜りて。御沙汰宜しきものなれば。 有繋に守を憚りて。前面にいふものあらず。日属は児品子儀とて。虎の威を借るもの多かれども。恁る折には皆阿容て。 哥々の与に力を尽して。義に走らんとするものなきを。最朽惜く思へども。銭さへ。商議敵に匱き。俺身ひとつで争何はせん。 現片糸は線にならず。孤掌は鳴らしがたかり。気をのみ悶みつ。公事に。こゝろ得たる人に問試しに。その人の誨るやう。 去歳の夏より白井殿長尾は。両管領山内扇谷とおん和睦の風声あり。 縡やうやくに整ひて。今春は御対面あるべしと沙汰せらる。扇谷のお上さま。蟹目御前と唱まつるは。白井殿の叔母君なり。女儀には稀なる思慮浅からず。 慈悲さへ深くましますよしを。伝聞たる事しもあり。よりて思ふに。和殿武蔵の五十子に赴きて。城内に由縁を求め。 蟹目御前に願ひ稟して。次団太翁の冤屈のよしを。歎きておん憐愍を乞奉らば。万にひとつ那方ざまより。おん詞をかけられて。 白井殿へ御沙汰あるか。然らずば片貝殿へまうさせて。救はせ給ふこともやあらん。是より外に手段はあらず。 誘へて試よかし。といはれにければ力づきて。拿る東西もとりあへず。軈て小千谷を啓行して。夜を日に続て来にけれど。 五十子の城内には。相識もなく由縁もあらず。然るを那里へ推参して。愁訴をせんはさすがにて。左さま右さま思惟るに。 這菅原の天満神は。人の冤屈を救せ給ふ。御誓願ありとか聞けば。先神社へ七日ばかり。参りて祈稟さん。とおもひ起しつけふ初て。 拝みまつりし下向路。霎時和主の坐撃を観つゝ。稍衆人の立去たる。折を等得て。掌相の。吉凶を問けるに。看るゝ判断吻合して。 人の資助を得ることあらば。念願成就しつべし。といはれしよしの歓しさに。長物語になりにたり。什生なる人に便りを求めば。 資助になることあるべしや。教給へ。と他事もなく。問ずがたりに身の憂苦を。霽せど晴れぬ鬱陶ひ。心真実なる田舎児の。 仁に庶かる木訥に。剛毅も見えて哀れなり。坐撃師はつくづくと。听つゝ憶ず嗟嘆して。そは胸苦しき事なりき。 嚮にも示しまうせし如く。面部手掌の吉凶も。心術の好歹きにしかず。おん身の老実。おもふに優て。その乾父に孝順なる。 誠を神も憐み給ひて。願ひを遂させ給ふべし。然ばとて某も。五十子の城には由縁もあらねど。なほ又攷まゐらすべし。と答る詞の訖らぬ折から。 村長荘客五六名。割竹を引搨鳴らして。遽しげに走り来つ。忽地に声を被けて。やよや賈人。然してはをられず。扇谷のおん上さまの。 目今当社へ参らせ給へば。快天幕を掻拿下し。おの巨刀も鎌も。快々外へもてゆきて。 這頭に土居ておん下向の。後に亦復売買をしね。その程までは忘れても。人を聚合て立すべからず。那々遥におん轎子の。 見えさせ給ふに快せずや。と遽し立る村長は。荘客們を従へて。余の賈人を制めんとて。社のかたへ走りけり。 思ひがけなき貴人の社参に。坐撃師はうちも措れず。はや引下す天幕に。鎌さへ大刀を巻斂て。例のごとく門番屋へ。 霎時憑みて措んずと。肩に載せてもなほ余る。売薬箱子に高足駝。踏継台も木枕も。廻り難たる手搨竹。目面を抓む遽しさを。 倶に慌る三も。見過しがたく手伝ふて。運び果せど轟く胸に。まだ決得ぬけふの時宜。おん轎子に憑まつりて。 愁訴を聞え上べきか。否等霎時不覚なり。然して不敬の咎めに遇ば。命は其首に終るべし。左してやよけん。右せんか。 と思ひ不楽つゝ怖きもの。見たしといひけん世の鄙語に。漏れぬ樹蔭に身を寄すれば。坐撃師は店棚の。迹に土居て轎子の。行過る間を等にけり。

お上さま…欄外注「貴人の妻を上さまといへるは。足利家の時の俗称なり。京師は今もなほしかり」。

《南総里見八犬伝第八輯巻之八下套》第九十回

浩処に六尺棒を。引提て這方へ来る者あり。媼内遥に見出して。他は必牛の主が。蒐来つるにあらんずらん。 俺は権且躱ひて。遣過して那尸骸を流さん。おん身は其頭にをるとても。気色に悟られ給ふな。とこゝろ得さしつ閻魔堂の。 背へはやく躱れけり。程もあらせず。一個の農戸。年歳は四十許なるべし。面の色は赤黒くて。熟せる棗を重ねし如く。 身材は最高くて。港に建る檣に似たり。昔当麻の強力士。蹶速としもいひつべき。面魂の逞しけなるに。 怒りに堪ずや。円なる。眼光いとゞ凄じく。右を省り。左を顧り。来つゝ船虫に声を被けて。喃事問ん浜立人。 和女郎は世上の噂に聞えし。十字街妓にこそありつらめ。方僅赤牛を逐走らして。這里を過りしものあるべし。 何地へゆきしぞ。認ずや。と問へば船虫頭を掉て。否。然る人は見えざりき。去向の路の違ひしならん。 快々外を索ね給へ。といへども去ず。持たる棒を。杖に衝き立沈吟じて。そはこゝろ得ぬ事なりかし。 們は麻生に隠れなき。冠松の頭なる。農戸鬼四郎といふものなり。俺が面のいと赤ければ。 村人們か渾名を搭して。赤鬼四郎と喚做したり。家には年来豢狎したる。牛一頭あり。 地方に稀なる逸物なれば。村人們が亦件の牛に。俺名を搭して。赤鬼四郎。と喚做すことも久しくなりぬ。 然ば地方で人鬼。といふは則俺事にて。又牛鬼といふときは。俺牛なりと知らぬものなし。恁る名物なるをもて。 耕耘のうへ。いへばさらなり。車を掛ても荷を駝しても。尋常なる牛二三頭の。 ぎに倍て俺与に。なること大かたならざれば。憑しき事限りもあらず。けふは二十日正月にて。 人も俺もなべて皆。遊ぶを旨としつるにより。牛にも骨を休して。們夫婦は日の暮るゝまで。 酒うち喫たる楽尽て。不図せし口説のもつれより。殴ば罵る迭の酔狂。思はず四隣を騒したる。縡の紛れに盗児が。 背門より牛を牽出しけん。縡鎮りて俺牛鬼の。あらずなりしを稍知りて。さてこそ蒐来つるなれ。 勿論這里まで路すがら。人々に問試しに。なほ甲夜闇なりし頃より。手炬も点さで牛を牽く。一個の男の慌しげに。 司馬浜のかたへゆきぬるを。見きといふもの多かりけるに。甲夜より這里にをる和女郎の。 見ずといへるは胡論なり。と詰るを船虫冷笑ひて。そは宣することながら。猫か鼠であるならば。目に掛ざることもありなん。 最大きなる牛の。牽れて這頭へ来たらんに。誰か目外し侍るべき。司馬としいへば広かるに。這里のみ浜ではべらんや。 上中下と幾町か。長き浦曲を彼此と。よくも渉猟らでおん身の牛の。必這里に来るといふ。夢でも見させ給ひしか。 奴家は牛の張番人に。央れし事はなきものを。鈍ましさよ。と口歹く。窘られて鬼四郎は。腹も立れず。舌うち鳴らして。 恁いはるれば術もなし。なほ又外を渉猟るべし。益なかりき。と呟きて。帰去んとせし程に。那牛鬼は這年来。 听も熟たる主人の声を。知りけん稾屋の内よりして。忽地高く吽と鳴く。声に駭く鬼四郎。其方をiと見かへれば。 倶に驚く船虫は。折歹かり。と気を悶て。轟く胸を鎮めても。なほ鎮らぬ牛鬼は。両三度鳴く声の。 疑ふべくもあらざれば。歓び勇む鬼四郎。他は正しく俺牛なり。那首に隠して措きながら。悍々しくも欺きたる。 這衒妻奴も賊ならん。先牛鬼を出し来て。虚実を糾さん。覚期をせよ。と敦圉猛く稾屋の戸口へ。 寄るを船虫推禁て。漫なることし給ふな。他は這頭の浦人が。塩木を駝する牛なれば。夜は那菰屋に繋ぎてあり。 司馬には牛の多かるに。おん身の牛のみ鳴くものかは。といはせもあへず鬼四郎は。怒れる声をふり立て。 這賊婦奴が大胆なる。這期に及びてなほ云云と。偽るとてもかは听ん。妨げすな。と暴やかに。 携るを振断突倒して。再找む稾屋の板戸を。推開んとせし程に。後にく鉄炮に。 撃れて仰反る鬼四郎。血烟立てぞ死でける。既にして媼内は。閻魔堂の頭より。縡の破れを覘知りて。 脱れがたしと思ひしかば。又鬼四郎を撃仆したる。鉄炮引提て出て来つ。稍身を起せし船虫が。臀の沙をうち払ひて。却も今宵は折の歹さよ。 おん身は那放免に。謀られたるを悟らずして。行損ふて稠られ。們はものせし赤牛の。 鳴たる故に縡発覚れて。とり復さるべき勢ひなりしに。這鉄炮の微りせば。何をもて二度の祟を。 恁立地に禳んや。今宵のぎは是までならんに。両個の尸骸を海へ流して。 牛を千住へ牽もてゆかん。おん身は宿所へ還りねかし。といへば船虫頷きて。那畜生が鳴ずもあらば。 甘く哄していなさん。と思ひしものを声立て。己が所在を知せし故に。鬼四とやらは撃れたり。 鳴ずば雉子も撃れはせじ。求猟るはおなじ春の野も。此の浜辺も妻恋に。浮れて係る好鳥の。今もあらんか。 料りがたかり。まだ夜深ではなきものを。先その尸骸を棄給ひね。と迭に潜き相譚ふ折から。遥に見ゆる小張灯。 高畷のかたよりして。浦辺を這方へ来るものあり。昼のごとく明かりける。月を便りになほよく見るに。 腰に両刀を佩たれば。旅ゆく武士にあらんずらん。頭巾目に。細小なる。行裹を駝搭たり。 当時。船虫は遽しく。媼内こゝろ得て。四下にありける破苫を。手ばやく拿て鬼四郎と。善悪平の亡骸に。 二三枚うち被て。又鉄炮を引提つゝ。その身は再閻魔堂の。檐下に退き伏躱れて。縡の容をぞ覘ひける。

《南総里見八犬伝第九輯巻之二》第九十五回

尓程に船中の。着席も既に定まりければ。信乃毛野の二犬士は。迭に初面会の口誼を舒るに。是宿因の致す所。 心同く。意相へば。一面にして故旧の如し。親愛宛骨肉に異ならず。登時道節は。 荘介小文吾。現八大角們と共侶に。毛野に対ひて恁々と。信乃が五十子の城を火攻して。些も躬方を損はず。 瞬息間に城を抜きて。降卒を誅することなく。且倉廩をうち開き。窮しき民を賑して。仁あり義ある事の趣。 及戦粟庫の白壁に。姓名を留めたる。諭示の文の愉快なる。並に道節が追書さへ。或は誦し。或は談じて。 迭代に解知すれば。毛野は只管感激して。約莫我義兄弟は。自然に稟たる玉と倶に。其性小しく異なれども。 孰か疎鹵なるべくもあらず。就中犬塚主は。金中の紫磨。玉裡の夜光。といふとも過論なるべからず。 洒家は決して及びがたし。と誉るを信乃は推禁めて。いかにして然るよしあらんや。犬阪主は。文あり武あり。 その学術の広博なる。陰陽卜筮説相まで。よくせずといふことなし。真実に軍師の才なり。則是禽中の鸞鳳。毛裡の麒驥といはまくのみ。 且犬山の剛毅にして。決断に速なる。犬川の行婦塚。犬飼の芳流閣。その才その武。多く得がたし。 又犬田は能を顕はさず。已ことを得ずして做すときは。必是処あり。行徳の角觝。 石浜の窮阨是なり。又犬村は。謹慎老実。言寡くして。行ひに最篤かり。実に是君子の人なり。人心同じからざること。 猶人面のごとしといへども。眼横はり鼻の直きは。孰か亦異なるべき。これを統るに八行の徳。各々一個を得たるに庶きは。 我義兄弟に在りといはんか。恁れば今さら。孰を長とし。孰をか短とすべき。恁論すれば。釈迦に説教。 孔子に語道に似たれども。あまりに太く誉らるゝが。苦しき随に候は。といへば大家感服して。その義寔に私論にあらず。 這両才子微りせば。評。听易からず。身の程々の玉に恥ざる。 行状いよいよ相慎むに。優すことあらじと。笑興じて。亦復余談に及びけり。姑くして荘介は。道節に悄語くやう。 犬阪主の遠慮に就て。胸安からぬ事こそ候へ。落鮎生が陸に登りて。品革にて敵を撃し折。名告掛て戦ひたらば。 那人は是郷士の女壻なり。我們と同じからず。荘園居宅を敵方に。知るものなしとすべからず。 しからんにはに。後の禍を遺すに似たり。この義を尋ね給はずや。といふに道節眉を顰めて。 そは心つかざりき。快。与之七を喚ぶべけれ。と答て後方を見かへるを。毛野は聡くも側聞して。道節を推禁め。 犬山主。その事ならば。落鮎生に問ふにしも及ぶべからず。その義も洒家心つきて。那人に尋ねしに。敵に向ひて。 名告りしことなし。只旧君豊島殿の。与に怨を雪る。と喚りたるのみなり。といひにき。必よ心安かるべし。と報るに荘介道節は。 共侶にうち笑て。何まれかまれ脱落なき。機転にこそ。と感じたる。折から落鮎有種は。別船にて炊したる。 戦飯と酒を。処狭まで安排べて。七犬士に薦れば。別船なる隊兵們も。漏るゝものなく飲食して。 迭にけふの勝軍の。祝寿を做す程に。船は羽田の澳に来にけり。是よりして。七犬士は。有種をも団坐に加つゝ。なほ漏したる事ありとて。 毛野のみいまだ知らざりける。ヽ大法師の甲斐を去りて。結城に赴く。と聞えたる縁由。又蜑崎十一郎照文が。 安房へ還りし事までも。解示したるそが中に。小文吾と荘介は。那石亀屋次団太が事。又三が事さへに。 云云といひ出て。犬阪主に妙方便にて。次団太が冤枉の縲絏を。釈れんよすがを得たりと聞しに。蟹目前も河鯉生も。 世になき人となりしかば。那事成就しがたかるべし。是のみ遺憾しかりき。とうちも不娯つゝ相譚ふを。 毛野は側にうち聞て。犬田主。犬川主。その義も心安かるべし。昨日湯島の社頭より。越後へ使に立られたる。 妻有復六とか聞えし伴士は。三を相倶して。只管路を急ぐなるべし。然らば蟹目前の逝去のよしを。 片貝殿箙大刀自へ告らるゝとも。其より前に。那使者は。越後へ到着すべければ。次団太は赦に遇ひてん。 又那妻有復六は。我実の姓名を。聞知りたるものにあらざれば。這方の事の聞ゆるとも。決して障りあるべからず。非除蟹目前の逝去の事の。 はやく那里へ聞ゆるとも。箙刀自も。亦女儀なり。那生前の願ひなる。次団太の命乞を。いかにして聴ざるべき。 倒哀憐の心起りて。速に赦を行はれん。孰の方にも事成るべし。然るを疑ふことかは。と慰められて。小文吾荘介。 寔に理あり。と応つゝ。共に憑しく思ひけり。是等を言の始にて。各々会話の。限りもあらず春の日の。 長きもはやく暮果て。折よく甲夜闇なりければ。かへさも便り歹からず。大家卒や退らんとて。潮候近き順風に。 筵帆揚る三隻船。楫に儘して共侶に。北を投てぞ走らせける。

《南総里見八犬伝第九輯巻之七》第百四回

登時件の児們は。頭立たる者とおぼしき。両個が先陳ずるやう。在下は。 故の当国の一郡司。安西三郎大夫景連が再にて。安西出来介景次。と叫做すもので候なり。 と名告れば。又一個がいふやう。在下も亦昔年。老侯に討滅されたる。麻呂小五郎信時が同宗にて。麻呂復五郎重時。 と叫做すものなり。然ば景連信時の。滅亡の比はしも。我們が親は病死して。自他孤児なりければ。由縁の人に携られて。 悄びて上総へ走りつゝ。夷の普善村に落住りて。世を民間に不娯たりしに。蟇田権頭素藤が。 館山の城主になりしより。安房四郡の旧領主。神余麻呂安西の子孫あらば。稟出よ扶持せんとて。尋るよしの聞えしかば。 我們両個。神余の児孫と。共に館山に赴きて。来歴を演。家譜を捧げて。仕んことを請ひしかば。素藤歓び対面して。 軈て城内に留め。扶持せられたる。管待通て等閑ならず。賓客の礼をもて。月俸。その余の東西までも。 多く宛行はれしかば。我們心を傾けて。いかで恩義に報ん。と思ふにも似ず素藤は。慢に酒色に荒みしより。 民を虐げ奢侈を極めて。又我們を見かへらず。禄を減し格を貶して。奴僕の像くー使るゝを。いと朽惜く思ふものから。 外によるべの岸もなければ。立も得去らで在りける程に。素藤猛に逆謀あり。縁故は。国主の息女。浜路姫を娶ん。 と欲りせし宿望称はねば。執念深までに国主を恨みて。去歳より間なく時となく。計策を旋らして。義通君を拿籠めつゝ。 国主の多勢を引受て。いまだ勝負を分ざるよしは。是世人の知る所。今亦具にいふにしも及ばず。恁而素藤。 いぬる比。我們を閑室に。招よせて聶くやう。汝達滝田に赴きて。義実を狙撃果しなば。事の潰に義成を。 撃捕んこといと易かり。然るときは房総二国は。我掌に入りぬべし。汝達這回大功あらば。安房四郡を釐与へて。 各一郡の領主に做さん。甚麼。この義をよくせんやとて。亦他事もなく憑れしかば。我們歓び。准備をしつゝ。 其夜城内を潜出て。当国へ赴きたる。同志の甲乙纔に五名。本月の初旬より。滝田の城下を徘徊して。潜入らまく欲せしかども。 城郭総て堅固にて。いまだ便宜を得ざりしに。老侯けふは未明より。大山寺へ参詣の。風声城下に聞えしかば。 時を得たり。と厮歓びて。像のごとくに准備をしつゝ。迹を跟け去向を料りて。狙撃まく欲せしに。微行とまうせども。 五六十個の伴当あれば。左右なくは手を下しがたかり。奈すべきと思ひ難しに。年来這頭の山河の。水岌淵を做ししより。 人迹久しく絶たりしに。いぬる日猛可に水落て。渉すに易し。と聞えしかば。老侯軈て登山あり。亡息女伏姫の。 墳墓を臠するとて。伴の蒼隷が罵りしを。洩聞しより心勇みて。間道を走り。先だちて。快這高峰に陟り来つ。 那里の樹蔭に埋伏しつゝ。悄々地に准備の毒箭をもて。伴当二名を射て仆し。同じ箭局に老侯を。脱しはせじ。 と彎固めたる。二張の弓弦は忽然と。断れて役には達たずなりにき。最も怪しき事ながら。却已べきにあらざれば。 更に准備の竿槍をもて。推拿稠て撃んとせし折。侯には不測の助出来て。們四名は生拘られ。 一個は酷く撃悩され。辛して逃亡たれども。料るに痛楚に堪ずして。遠くはゆかで仆れしならん。現怕るべき這少年の。 勇力武芸は。億万人に捷れしのみに候はず。年来神女の冥助によりて。恁る深山に人と成りたる。瑰談奇話を側聞して。 身の非を悟りし慚愧後悔。世は是澆季に及べども。争ひがたき神霊冥福。併老侯の。賢明仁義の俊徳なくば。 今害を転して。這祥瑞に逢ふよしあらんや。然ば昔年景連と。信時の滅亡は。賢をみて邪計を行ひ。 非義の利をのみ欲せし所以にて。老侯の罪ならざりしに。我們理義に暗ければ。只仇とのみ思ひ怨みて。 恩赦を願ふことを要せず。反て奸賊素藤の。扶持を求め。その隊に属て。他が与に老侯を。刺まくせしは。 紂を資けて。周武を撃つに似たるべし。今は邪念を転しぬ。濁を去て清に附ん。と庶幾外候はず。なれども身の罪軽からねば。 縦饒されがたくとも。仁義の君の手に死なば。そは切もの事なるべし。天神地祇も照覧あらん。今いふ所虚談にあらず。 願ふは亮査あれかし。と那陳ずれば。這も陳じて。迭代に後悔の。招了紛れなかりけり。親兵衛これをうち听て。義実に稟すやう。 老侯聞召れしか。初他們が毒箭をもて。おん件当を射仆せしに。侯を犯すに弓箭をもてせず。槍を引提てうち向ひしを。 こゝろ得がたく思ひ候ひしに。那折弓弦を断れたるは。神女の擁護に候はん。就てなほ疑ふべきは。安西麻呂の党こそ。 侯を怨るよしもあらめ。神余は逆臣定包が。弑逆により家亡びしを。我君義旗を揚給ひて。定包を討給ひしかば。 素より是その徳あり。尓るに恩義を仇として。撃まくせしは。甚なる意ぞ。この義を質し候はゞや。といふを那余の生口們は。 听つゝ倶に声を掛て。犬江生々々々。我們も来歴来意を詳に聞えあげん。疑念を解て。憐愍を。垂給ひね。と叫びたる。 そが一個の且いふやう。在下は。神余長狭介光弘の近習なりける。天津兵内明時が弟にて。天津九三四郎員明と叫喚すものなり。 当年這地の侠民と聞えたる。那杣木朴平と。洲崎無垢三が諜し合して。山下定包を撃んとせしに。反て那逆臣の。奸計に陥られて。 光弘主を犯せし折。我兄天津兵内は。朴平無垢三們と戦ふて。命を其里に殞したり。是より先に我姉は。 光弘主に仕へしかども。那玉梓の儔にあらず。既にして。主君の胤を。孕て五ヶ月に及びし比。光弘果敢なく撃れ給ひて。 定包長狭を横領したるに。我姉は。光弘主の。胤を孕りと聞知りて。淫婦玉梓にこゝろ得さしつ。毒を養んと欲するよし。 事幸ひに洩聞えしかば。在下姉を伴ふて。悄々地に上総へ走りつゝ。蘇々利村なる親族許。共侶に潜びて在り。 恁而月来になる儘に。我姉は産の気つきて。生れしは男児なり。故主の落胤なるをもて。左も右もして鞠養む程に。 我姉は時疫にて。竟に黄泉の客となりにき。折から山下定包は。里見の義兵に討滅され。又麻呂と安西も。滅亡したる事の趣を。 世の風声に聞くものから。然とて還るべき家もなし。是より安房さへ上総さへ。里見の有となりしかど。神余の子孫を尋求めて。 絶たる家を嗣せんと。宣するといふ沙汰も聞えず。いと恨く思ひしのみ。訴出んはさすがにて。百折千磨の世を渡りつゝ。 腋子を養ひまゐらせしに。腋子は質弱多病にて。且その性も人並ならねば。年十五六に及びても。菽と麦だに分ち得ず。 剰風湿に嬰り。脚て。年中三百六十日。枕の外には友もなく。筆把るばかりの気力もあらず。 いと朽惜く思へども。鍼灸薬餌。加持呪法も。空憑めにて効験なき。生来なるを争何はせん。浮世を潜ぶ身にしあれば。 神余の姓氏を憚りて。廼腋子の姓名を。上甘理墨之介弘世と名づけまゐらせて。果敢なく時の至るを俟しに。 料らず蟇田素藤の招きに応じて。這年来。主僕二名。館山の。城内に扶持せられて。安西麻呂們と同列たり。 しかるに素藤心傲りて。我們をよく見かへらず。弘世はその性にて。剰病者なればとて。 月俸なども年々に。貶して定のごとくにせられず。口を餬ふに足らねども。在下をのみ苛刻く。使るゝこと日毎に多かり。 なれども這回の密議を稟て。這個の人々三四名と。倶に今日老侯を撃まくせしは。神余の後を立られざりしを。 恨しく思ひしそがうへに。事成らば神余の旧領。長狭平郡を与ん。といはれしに心迷ひて。賢明徳義の良将を。 暴虐奸詐の蟇田が与に。狙撃まく欲りしたる。先非を悟りて罪を知る。後悔は麻呂安西と。いひ合さねど同意なり。 非如我身はこの儘に。結頸を撃るゝとも。弘世主を憐愍て。小禄なりとも宛行れ。神余の祀を嗣し給はゞ。 この年来在下が。尽せし孤忠も虚しからず。死して栄ある一世の歓び。快く目を閉ぐべし。願ひまつるはこの義のみ。 又この男子は。同志の侠客。荒磯南弥六が乾子にて。椿村の墜八と。叫做すもので候なり。といへば又墜八も。 跪きつゝ陳ずるやう。小可は蟇田殿に。稟たる恩も候はず。素より国主老侯を。怨まつる事もなし。但我乾父南弥六は。 昔年杣木朴平と。倶に定包を撃まく欲りして。愆て光弘主を。犯して当日撃れたる。洲崎無垢三が。外孫なり。 外祖無垢三が撃れし折は。なほ総角でありしかば。上総の夷に逃去て。年来を歴たりと听にき。 愆而件の南弥六は。外祖に劣らぬ侠気あり。無垢三が愆て。光弘主を犯せしを。最酷う羞思ひて。神余の氏族の在しなば。 いかで一臂の力を尽して。外祖の汚名を雪ん。と思はざる日もなき所以に。撃剣白打相撲の術まで。その師に就て習得たり。 膂力も人に捷れしかば。里の侠長。と衆人に。尊敬せらるゝものにこそ候へ。恁りし程に光弘主の。落胤あるよしを。 聞知りしより歓びて。遂に這天津氏。九三四郎と交を。結びて年来疎からねば。今番の計議に荷担を容れ。 小可を伴ひて。三個の人々と共侶に。侯を撃まく欲せしかども。這少年の勇敢武芸に。敵すべくもあらざれば。 辛く命を免れたり。他憖に漏ずして。囚れて這里に在るならば。倶に奇特に感悟して。みづから新にすべかりしを。 逃亡たるは幸ひならず。他が不幸に候ひき。とて。遺なく招了したりけり。義実は。衆口衆意の。斉一かりしをうち听給ひて。 嗟嘆に堪ず。生口們を。つらつらと見かへりて。やをれ天津員明とやらん。神力瑰異に驚きて。後悔陳謝は遅からずや。 汝が亡君長狭介光弘に落胤あらば。何とてや早く恁々と。滝田へ告訴せざりけん。弘世とやらが事はしも。 義実が知ざるのみならず。当時金碗八郎すら。その子の事を知らねばこそ。何ともいはで身故りたれ。そを義実が執立ずとて。 恨みたるは愚痴なれども。その孤忠は憐むべし。又景次重時とやらもしかぞかし。 当時麻呂安西を。義実が討ちしにあらず。信時は。景連に。売られて終に自滅を取りにき。又景連は。義実が。 功をみて邪計を旋らし。攻滅さんとせられし故に。已ことを得ず鋒を交へて。克ことを得たるなり。 恁れば他們が滅亡は。則自業自得にて。怨る所なかるべし。然けれども麻呂安西の。同宗たるもの罪を謝して。 軍門に降参せば。我豈執念深祟らんや。時宜によりて旧家の後を。立て家臣に做すべきに。遠く走り深く躱れて。 反て悪人素藤に。扶持せられしは。是も亦。人を知ざる惑ひなり。この余。南弥六墜八們は。素是市井の侠者にして。 志気ありといふとも。無明の酔は同じかるべし。そは左まれ右もあれ。絶たるを継ぎ廃れたるを興すものは。 古昔聖王の道にして。開国の主の善政なり。陳ずるよしの違ずは。安房殿義成をいふに命乞して。 願ひのごとく做も得させん。但その言の証据なし。異日なほよく鞫問して。賞罰はその折にあらん。先この意を得よかし。 と仰に大家額を衝て。歓び面に顕れけり。

《南総里見八犬伝第九輯巻之十二上》第百十四回

浩る折から巽なる。小坐敷のかた譟しく。人の散動めく声せしを。義成はやく聞着給ひて。那は何ぞ。とばかりに。 耳を給ふ程に。給事の老女女房們が。遽しく来て稟すやう。方僅思ひがけなくも。 東なるおん内庭の。樹柆深き辺より。五の姫君の忽然と。あゆみ出させ給ひしを。折から巽のおん縁頬に。 単侍りし友禽が。心ともなく見奉りて。驚きつ歓しさに。声ふり立て朋輩を。喚聚合つゝ皆共侶に。走下りつゝおん坐席に。 迎入れ奉りて。却昨夜よりおん往方の。知らずならせ給ひしに。恙もまさで還らせ給ふ。事の顛末を問奉りしに。 姫上答給ふやう。我身にこよなき厄難あり。昨夜は特に危かりしに。神の冥助を蒙りて。目今還させ給ひにき。 是等のよしは家尊と母君に。見参して稟上てん。一霎時なりともおん胸の。安からずをはしましけんに。 快このよしを聞えあげよ。と仰によりてまゐり侍り。といふに義成主の歓びはさらなり。吾嬬前は夢かとばかりに。 憂ひを転す哀みの。涙乾かぬ袖の上に。歓び涙堰あへず。女房們を見かへりて。そは又奇しき事なりかし。 対面してこそ詳なる。事由は知るべけれ。吁芽出たや。と宣ふ程に。浜路姫は奥隷の。老党医生侍婢們。四五名に冊れて。 はやくも這里に来ましつゝ。身の歓びを稟し給へば。老党老女女房們も。倶に寿き奉りぬ。登時義成主は。 要なき男女を退して。浜路姫を身辺近く。侍らしつ席を賜ひて。吾嬬前と共侶に。奇異の安危を尋ね給ふに。 浜路姫の宣ふやう。昨宵真夜半時候なりけん。奴家は熟睡したりしに。母君の御声にて。連りに喚せ給ひしかば。 覚るともなく応をしつゝ。遽しく身を起して。建たる屏風の外面に。立出て見れば。一個の女僧あり。思ひかけなき事なれば。 吐嗟と叫ぶ程しもあらせず。矢庭に奴家を引よせて。楚と銜する布嚢に。息さへ籠りて声立ざりしを。左の肱腋に捉稠て。 那里より出にけん。去向もしらずもて去るゝ程に。既にして一里許。来ぬらんと思ふ比。路に一個の男あり。 撞見頭に女僧を見て。児等。と喚禁つゝ。推捉へんと立よりしを。 拳一拳て仆したる。後方にも亦人ありて。棒もて女僧を撃んとせしを。呪文を唱へ。斗を打して。 其をしも倒して。毫も譟がず。左手に刃を抜持て。始に仆せし一個の男子の。胸前刺んとせし程に。いと嬋娟なる一個の神女。 最大きなる狗児の背に。尻うち掛つゝ忽然と。虚空より降り来まして。女僧を遮留め給へば。女僧は怕れし面色にて。 斫払ん。と角ひもあへず。神女に胸を撲地と蹴られて。奴家を捐て仆れ侍り。登時神女は奴家が身辺へ。 狗児を找めつ奴家をも。乗せて翠天に升りつゝ。去向遥に倶し給ふ。快きこと宛箭の像く。風に撲れて布嚢は。 解けて地上に墜にけん。苦しきこともあらずなりにき。恁而神女は。雲の集る。高峯にやをら降立て。奴家が手を拿り扶掖て。 岩窟に入り給ひしが。内はいと洞亮にて。月の夜艾に異ならず。この折神女のおん顔の。正可に拝れ給ひしかば。 忝さの弥増て。問まつらんは惶さに。跪坐て気色を伺ひ奉るに。神女は剏て妙音を。かけて慰め給ふやう。 浜路よ。然のみな怕給ひそ。儕は那尼の類にあらず。過世は和女の親族にて。八犬士們が母なれば。 今宵の厄を見過しがたさに。那悪物を懲したり。恁ばかりにては無明の酔を。醒すにいまだ足らざるべければ。 具に告ん听ねかし。抑当国主義成は。その器其量親に劣らず。仁義の良将なるをもて。征せずして上総を従へ。 下総半国をさへ駢するものから。天道は盈るを虧く。夷一郡。館一城の。素藤が逆謀は。 即天の警戒にて。小敵なりとて侮りがたき。後鑑を示すに在り。こゝをもて身いぬる比。 犬江親兵衛仁に課て。老侯の厄をひまゐらせ。猶且蟇田素藤們を。降伏の功あらせしかども。 又素藤を幇助ぬる。邪魔の幻術大かたならねば。義成の明き鏡も。魔雲に曇り心惑ひて。鈍や犬江親兵衛を。 疑ふて遠離たれば。素藤二たび折を得て。又館山の城に拠りにき。そをしも火急に攻伐ざるは。義成が寛仁大度。 士卒を思ふ故なれども。併素藤を。天罰その時いまだ至らず。仁を等て前功を。全うさすべき天機あり。 もししからずは神力もて。素藤妙椿。いへばさらなり。館山の賊徒数を尽して。衂にせん事の。 かたくもあらぬ所行なるを。只那寛の一字を誨て。事を急がせざればこそ。妖屡起るものから。 里見の軍威を落すことなく。欠損あるも死を免れて。事竟に大害に。至らざりしを思はずや。今は禍鬼解除せられて。 和女の上にも窮阨なく。賊徒は霜の解るがごとく。誅伏せん事疑ひなし。其も親兵衛を召返さずば。誰か亦よく那妖賊に。 当りて克を一挙に奏せん。八個の犬士に軽重なけれど。先入なれば親兵衛を。疑ずして重く用ひば。余の七犬士は招かずも。 皆共侶に来会せん。所謂隗より始るよしにて。こも亦自然の理りなるを。悟らざりしは疎なり。那素藤は。妖尼の。幇助ありとも小敵にて。 心腹の患にあらず。然る小敵だも征伐に。その人を失へば。如意ならぬ事多かるに。異日百万の。 大敵西北に起ることありて。海陸共に攻寄来ば。房総諸城の守将戍卒。悉皆解体せん。その折にしも八犬士の。 幇助あるにあらざりせば。誰か亦よく大敵に。当りて那呉の周郎が。赤壁の克に倣ふべき。遮莫今番は義成の。 やうやくに惑醒て。先非を悔る拠あれば。言を俟ずして。親兵衛を召返すべし。素藤誅伏しぬるとも。 後車の余轍を忘るゝことなく。いよいよ犬士を重く用ひて。才略武芸に任しなば。那百万の大敵も。怕るゝに足ざるべし。 和女稲村へかへれる折。々にこの義を伝へよ。といと叮寧に諭させ給ふ。示現にいよいよ畏みて。 頭を擡げ又伏拝みて。原来おん身は伯母君の。神霊にこそをはすめれ。今にはじめぬ応験冥助。得がたき御恩に侍るかし。 那八犬士の事はしも。奴家も予聞知り侍り。そが中に犬江親兵衛は。六稔の程に身長の。いといたう大人備て。 生年九歳とまうせども。十六七の少年にも。立優れるは甚なる故ぞ。と訝り思はぬ者も侍らず。この疑ひを解し給はゞ。 好家裹に侍らまし。とおそるおそる問まつりしを。神女は听つゝ点頭給ひて。その疑ひは理りながら。非常の人には異体あり。 猶霊木の一夜に生て。一夜に巨樹と成れるが如し。これ凡庸に異なる処。人も亦これに似たることあり。 昔唐山東晋の時。安帝の義煕七年に。無錫の人の子。趙末といひし童男。年八歳。一旦身長の伸ること。 暴にして八尺に至れり。且その髭髯も蔚然たり。と晋書に載せしを思惟よ。宇宙の間往として。何等の物か対なからんや。 恁れば異邦に趙末あり。今は我国に犬江仁あり。世の人視聴に広からねば。その事必なしとして。疑ふものゝ惑ひを解くべし。 今はしも是までなり。二親のさぞ安からざらむに。快稲村へ還りねとて。送りて岩窟より出し給へば。已前の狗児が等てをり。 奴家を背にうち乗せて。雲を起し宙を走るに。駛こと宛駿馬の像く。這大城へ来ぬる程に。奴家は騎に堪ずして。 憶ず狗児の背より。滾びて大地へ忽然と。墜されて庭の樹間に在り。夢かと思へば。臥房にあらず。現かと思へば。 覚ずしてかへり来たれり。然而あるべきにあらざれば。軈て樹蔭を出し折。侍婢毎の見出して。安否を問ふに。 我を怪む。胸はやうやくおちゐ侍れど。そを知食よしもなき。物を思はせ奉りぬる。罪いと重きを争何はせん。 饒させ給へ。と陪話給へば。義成主いよゝ慚愧て。奇なり奇なり。と称給ふ。心はおなじ吾嬬前も。奇しく愛たく歓しさの。 神の冥助の辱くて。感涙の外なかりしを。側聞する老党老女は。頭を擡げ目を注しつゝ。世に有がたき伏姫の。 霊験威徳灼然なる。奇特に心耳を洗れて。疑ふべくもあらざれば。憶ず倶に感嘆の。声もひとしく尊みて。いと憑しくぞ思ひける。

趙末…欄外注「近世此間にも一男子の生れてより両三年の程に身長月々に長大になりしものあり。 大童山文五郎是なり。事は一話一言に載て詳なり。独晋の趙末のみにあらずかし」。

《南総里見八犬伝第九輯巻之十三之十四》第百十七回

漁村の柳風に靡きて。蓑衣乾す門の夕日影。苫屋の煙天に滅て。友呼ぶ鴎浪に浴す。或は蒹葭の戦ぐ処。 魚を踏む白鷺見れ。一葉繋ぐ械の頭には。羽を曝す鵜鴣在り。長汀弓の像く入江に続き。浮洲箭に似たる水澪建り。 仰ぎて西南を眺れば。夏の富士いまだ装を更めず。遥に東北を省れば。翠の筑波。尚霞を残せり。 武総両国の都会にあなれば。海舶多く錨を卸し。商漁那這に軒を比べて。世渡り易き福地になんありける。然ば又這河辺に。 三観鼻と喚做す出崎あり。什麼何等の由来にて。這名あるやと原るに。看官知らざる所あり。約莫這水際に。 翹て観るときは。右は富士。左は筑波。前面は葛西の曠野まで。杳渺として障るものなく。只一覧にて。 三箇の眺望あり。因て土人字して。三観鼻と唱へたり。鼻は即方言にて。猶出崎といふがごとし。然ばこの出崎には。 千里鏡を貸す茶店あり。飯と酒を鬻ぐ小店もありて。辺鄙に似げなく熱鬧ひたる。折から人許多立聚合て。 児の甘きに附くが像し。親兵衛と孝嗣は。今這出崎を過る程に。其を那なるや。と訝しさに。 心ともなく立寄て。稠人を掻分きつゝ。找み近づきてよく見るに。主僕とおぼしき老壮両個。似而非技をして人を立せ。 をさをさ膏薬を売まく欲りする。逆旅経紀人にてぞありける。そが中に年齢。六十ばかりなるらんと見ゆるは。 東人にて。年歳二十有余なるは。従者なるべし。主僕倶に遠山形なる。染木綿の夾衣を。うち披りて帯をせず。 白栲の犢鼻褌を。高く緊しく引結びて。跣足にて双立たるが。地に画して土苞に像り。そが傍に。天朝力鼻祖。 野見宿祢。家秘神方。撲傷折損搨痍妙薬。荻野上風。相伝精製。といふ。三十言を写したる。幟形なる揉紙の招牌を。 真砂地に推植て。なほも寄来る人を等たり。畢竟這逆旅経紀人。恁地に人を稠して。甚なる技を做すにやあらん。 そは次の回に。解分るを聴ねかし。

《南総里見八犬伝第九輯巻之十五》第百十八回

却説又那逆旅経紀人は。聚来る人をなほ等貌に。やをら扇子を推啓きて。胸下を徐やかに。うち扇ぎつゝ在りける程に。 既に没る日を見かへりて。遽しく扇子を畳み。犢鼻褌に刺夾みて。找み出恭しく。衆人にうち向ひて。 東西々々。南北係て。恁までに忝く。光臨を賜ひぬる。四方の君子達聞し召れよ。烏許がましうは候へども。 小可は旅より旅に。世渡るものにて候へども。当所へは初度の見参。然も今日より売買の。開場で候へば。 いまだ知せ給はぬも多かるべし。といひつゝ扇子を抜出し。逆手にく指示して。是に建たる招牌にて。 崖略は知し召れけん。小可家伝の膏薬は。力の開祖と世にしるき。野見宿祢の神方にて。 撲傷折損。搨痍に即効あること。風の塵埃を払ふより速なり。価は一盒永楽十文。貯置せ給ひなば。怪我不慮瘡に医を招かで。 重宝此より宜しきはなし。又只撲傷のみならず。癰疔。無名の腫瘡。皹凍瘡刀瘡にも。 用れば亦妙なり。却売買の御愛敬には。此なる弟子。萩野下露を敵手に立して。力の手合を。 電覧に款まつらん。小可も其昔。年壮なりし時は。力を好み候ひしに。既に筋力衰へて。 いふかひあらず候へども。その像ばかりは左も右も。仕り候はん。も今は我年歳に似て。 はやく暮景に及ぶものから。幸ひに夕月夜にて。天に一朶の雲もなければ。かへさを急ぎ給はざる。刀祢達はなお在して。 拙技を臠せ。先や力の来歴故実を。聊演述仕らん。といひつゝやをら退きて。 児に尻をうち掛て。扇子を笏に。うち咳き。抑力の濫觴は。 むかし垂仁天皇の即位八年。当麻邑の勇悍士。名を蹶速と喚做すあり。その筋力角を毀き。鉤を伸べ鼎を挙ぐ。 天下に一箇として。敵手なし。と聞えしかば。天皇この義を知食。倭直の祖。高尾市を勅使として。出雲国の剛力士。 野見宿祢を召上し。随即当麻蹶速と。力を拿して叡覧ありしに。野見宿祢は手鍛煉にて。 膂力も蹶速に捷りけん。蹶速竟に蹶仆され。脇骨胸骨踏折れて。叫びもあへず死でけり。宿祢はこの恩賞に。 蹶速が地を賜りて。そが儘皇都に召置れ。朝廷に仕奉りぬ。こゝをもてその采邑に。腰折田と喚做す村あり。そは蹶速が旧地なるよしを。 垂仁紀に載せられたる。本文に拠て推量るに。当時の力は足を抗て。相蹶ることを旨とせり。 この後天武天皇の十一年。秋七月。隼人来朝しける折。阿多隼人と大隅隼人に。相撲を拿らして叡覧あり。大隅隼人勝にき。 と亦天武紀に載られたり。是よりの後。世々の朝廷。相撲の節会を行はれんとて。諸国の力士を召すを。 部領使と唱へたり。その力士等は近衛に隷られ。抜萃たるを最手に補し。次を腋手助手に補し。なほ勝れるを抜手とす。 後の相撲に推当れば。最手は大関。腋手は関脇。助手は小結。抜手は即横綱伝受の儔に似たるべし。然るを中葉に至りては。 最後に執るを関といへり。関は所云うち止にて。名目にはあらざりしを。後世転じて。大関の称呼あり。 昔は相撲人を分つに。左右と唱へて。東西とはいはず。且その為体。犢鼻褌の上に。狩衣下袴を着て剣を挿し。 立合ふ折に是を解て。裸形に做れる事。今の相撲と異ならず。但し左右の為体。各聊同じからず。左は葵花を挿頭とし。 右は瓠花を挿頭とす。花は即綵剪なり。左右或は紐を差し。或は紐を開きて帯に加え。或は袴を着ると。 着ざるとの差別あり。その作法多端にて。事は西宮記。并に裏書。江家次第。并に裏書。吏部王記。北山抄等に見えたるを。 今悉く引出んは。おん耳煩しく思召れん。こは只その崖略のみ。但し昔の内取は。後世の地拿。花相撲の如く。 左と左と合し。右と右を合するといふ。召合は。御覧の相撲なり。又立合は。後世にいふ行司の事にて。 弓をもて指揮して。その勝負を定るなり。後世弓を団扇に代にき。古より近江の志賀氏。及吉田氏これを掌る。 神代よりの名族にて。寔に無双の旧家と聞ゆ。今に至てこの方の師表たり。扠又武家執制の世になりては。 平家世盛なりし時。伊豆国の人氏なりける。河津股野が角力の事は。曾我物語に見れて。世の人多くこれを知れり。 又鎌倉の右幕下頼朝のおん時に。長居と喚做す相撲人あり。約莫関の八州に。克者なしと聞えしかば。 頼朝卿の所望に依り。秩父重忠が立合ひしに。長居は酷くうち負て。骨を折れて廃人になりぬ。この角力の折。 重忠は。烏帽子水干掻繕ひて。長居と立合けるよしを。古今著聞集に載られたれば。昔貴人の御前角力は。 裸体になる事はなかりけん。と思ふ人もあるべけれど。至尊御覧の角力たりとも。立合ふ折は。衣裳を着ず。 その証文は上にいへるが如し。当時重忠の為体は。敵手微賤の者なれば。故意衣裳を解ざりしならん。 この一事をもて昔の角力は。裸体にならずといふべからず。又古今著聞集には。中葉の相撲人の。姓名多く見えたりき。 そが中に腹攪と喚做す。名誉の相撲あり。天窓を敵手の腹に当て。攪りて勝ずといふことなければ。この綽号をなん得たりける。 この時中納言伊実卿も。角力を好み給ひしかば。父大臣伊通公。其を懲さん為。腹攪と立合して。勝負を試給ひしに。 腹攪は伊実卿に。四辻を拿られて。頸骨も。折るゝ可に引着られ。攪んとするに攪り得ず。弱りて虚俯に倒れしかば。 恥て逐電しつといへり。因ておもふに。昔の紳は。武弁ならぬも殊更に。相撲を好み給ひぬれば。 その技に修煉して。みづからも拿り給ひにき。況当時の武士たるをや。東鑑を検するに。正治二年。五月二日。 羽林頼家卿。小壺の浦に遊覧の折。常盛と義秀と。兄弟臨時の相撲あり。常盛既に負んとしけるを。江馬殿義時坐を起推隔て。 勝負を分たず。持にしてけり。常盛衣裳を着るに及ばず。賭物に牽れたる。おん馬にうち跨りて。そが儘逐電しつ。と見えたり。 又宗尊親王将軍たりし時。建長六年。閏五月朔日。執権北条時頼朝臣の沙汰として。御前に於て。相撲の勝負を召決せらる。 陸奥掃部助奉行たり。その相撲人。左右十名。皆在鎌倉。歴々の武士なり。姓名は略之勝たる者。 持なる者は。御前に召て。御剣或は御衣を賜ふ。出席の雲客これを執れり。負たる者は。堪否を論ぜず。 大盞もて御酒を賜ふ。各三度浮られけり。御一門の諸大夫等。この酌になん達れける。凡興あり亦感あり。 時の壮観なりといふ。亦是載て東鑑に在り。是より以降当代まで。相撲の賞玩衰へず。なれども近き世の事は。 刀祢達知し召べければ。口状は是までなり。恁はいへども小可は。寔に無筆文盲なれば。古昔の事を考へて。 囀るべき力はなし。少かりし時従ひし。師伝を口妄似しぬるのみ。漏しし事も錯へる事も。あらば允させ給へかし。 既に日の暮候へば。売買の打止に。弟子下露を敵手にして。立合の手を御覧に入れん。やをれ下露。快立ね。 と喚れて。応と答つゝ。衣脱棄て立対へば。上風軈て拿組て。刀祢達よく臠せ。彼が恁々の手を用て。 推んとするを。恁受て。幾番も疲らかし。箇様に投るは。某の手なり。といひつゝ撲地と仆し。 又掖起し拿組して。此は某の手。彼は亦。某の手なり。といひつゝも。投ては起し。起しては。拿組む修煉。 老相撲には。有かたかるべき身の動止。四十八手の秘術を惜まで。その趣を尽ししかば。看官憶ず声を合して。 咄と誉たる感嘆に。一霎時は鳴も已ざりけり。
登時荻野上風は。脱たる衣を手ばやく被て。又衆人にうち対ひて。目今臠せしごとく。老人酷く骨を折りたり。 願ふは膏薬を召れ候へかし。といふ間に下露も。はやく衣被て帯引結び。貝籠の膏薬を。堆高く積乗したる。 盆を拿て。衆人の。身辺に近づき。立向ひて。刀祢達家伝の膏薬を召れずや。撲傷折傷。搨痍刀瘡に奇妙なり。 癰疔。もろもろの。腫瘡にも奇効候ぞ。召れずや召れ候へ。と呼掛々々両三遍。 那這となくうち繞りて。只顧に請薦れども。咸逡巡をしぬるのみ。買んといふ者あることなければ。上風望を失ひて。 憶ず声をふり発し。やよ下露。閣ねおきね。們当所へ初て来て。けふ生活の開手なれば。 殊更に骨を折て。衆人達を慰めしに。人の山成す。群集に似げなく。纔に一盒十文の。膏薬を買ふ人なきか。 さりとては情なし。閣ねおきね。日は暮れたり。今宵は旅宿へ立かへりて。明日は他郷へ走るべし。益なかりき。 と呟けば。下露も腹立しさに。嘆口気しつ手持なく。稍退んとせし程に。前より衆人と立雑り見て。上風が為体を。 似而非技ならず。と感じ思ひし。親兵衛怺ず。孝嗣に。目を注しつゝ找み出て。こやこやと喚近づけ。 我も前より這里に在りて。汝達が技芸を観たるに。相撲の故実も杜撰にあらず。立合も亦法に称ひて。 老人には多く得がたき。修煉精妙。賞するに猶あまりあり。其を料ずも見つゝ聞つゝ。空骨折して。只やは已ん。 我その膏薬を皆買んず。什麼何ばかりの価ぞや。と問れて上風笑しげに。下露が答を等ず。遽しく立迎へて。 こは辱きおん花主もをはしましけり。今日携たる膏薬は。百盒許もや候はん。価は永楽壱貫文にて。事足るべく候へども。 然ばかり多きは御用もあらじ。縦一盒召るゝとも。百十数人なる這内中にて。一個の花主と思ひ奉れば。面目この上や候べき。 下露一盒まゐらせよ。といふを親兵衛聞あへず。否とよその膏薬の。多少に拘る事にはあらず。貴人御覧の相撲には。 勝者には纒頭あり。平民も亦賞銭を取らするを。俗に命けて花とぞいふなる。その膏薬は左まれ右まれ。 和主が技芸のおもしろさに。いでいで花を拿せんず。といひつゝはやく懐より。円金一枚拿出して。卒とて逓与すを上風は。 呆して左右なく受ず。こは又意外の造化なり。小可一儒士に听ることあり。士は己を知る者の為に死し。 女は己を歓ぶ者の為に。貌るとかいへば。知己とし思ひ奉る。刀祢の恩を云云と。推辞稟すは倒に。 人を知ざる者に似て。反て無礼に候はん。なれども其はいと多かり。と辞ふを親兵衛推禁めて。恁ばかりの東西に口誼は要なし。 君子は断金の交あり。路上の人も知音と思へば。蓋を傾けて故旧の如し。豈白頭まで新なる。浮薄の交りに慣んや。 といふに上風推辞得ず。且感じ且歓びを。述てやうやく収れば。下露も亦歓びて。盆児に乗たる膏薬を。 そが儘拿て親兵衛に。逓与さんとせし程に。尚立稠たる衆人の。内中に一箇の大漢あり。忽地訛声振発して。 やをれ等ね。いふよしあり。と喚禁めつゝ隊をはなれて。土苞の辺に近づきしを。大家倶に訝りて。斉一見かへる夕月夜に。 紛ふべくもあらざりける。この大漢の為体。面黒く眼円に。鼻は低うして左右に開き。唇厚くして髭髯に包れ。 月額延て。春山の。結縷草より猶繁く。鬢毛乱れて。百足の。蜈蚣を串に貫きたるに異ならず。身には渋染の栲の夾衣を被て。 片褄をく端折り。白栲の犢鼻褌の。尚巳時可なるを。前垂脩に結做して。直木理の梧桐の下駄の。 小肉俎の似くなるを穿轟し。腰には緋の縮緬の。円括の細帯を。右へ斜に片結びして。左の肩には。 算盤纐の手巾をうち掛しを。拿直し項にねて。揺動ぎ出たる面魂。酒気芬々と。人の鼻を。 穿つばかりの半酔半醒。人の物ともせざりける。地方実生の勢ひは。好て怒り好て争ふ。煩悩口舌の祟鬼ならずは。 蛮蜀二国の城隍か。と思ひ怕るゝ衆人は。事いで来ぬ。とめども。見果ざらんもさすがにて。 立も得去らで。そが儘在り。
当下件の大漢は。眼をらし向臑蹶出して。上風にうち対ひ。這奴甚大胆なり。若は誰が許可を受て。 這里へ出張て売買をするや。約莫這漁父街頭にて。始て生活をしぬる客商は。必先們に垂餽り。 或は周折を送りなどして。しかして後に生活をすなるに。我まだ知らぬ経紀児に。銭賺をさすべくもあらず。 この故に我始より。衆人を警て。若が膏薬を買せざりしに。那国の馬の骨やらん。牛の屎やらん知らねども。 見るには足らぬ似而非技に。金を取する烏許人ありとて。其を亦受る該はなし。快その金を返さずや。と嚼着像く罵るを。 上風聞て。毫も撓まず。身を構へうち向ひて。其はいはるゝことながら。和主は地方の老侠にもあれ。 們は他郷の旅客なれば。知ざるを争何はせん。然る人情ありとても。銭を賺て後にこそ。 欲する随に贈りもせめ。然るを和主が外醋気にて。人を禁めて我膏薬を。買せざりしは非道なり。況那方様の恩を。 和主が差配すればとて。いかにして返すべき。抑和主は何人ぞ。と問せも果ず大漢は。いよいよ声を苛立て。 噫老耄奴がたり。浅草寺の観音を。いまだ知ざる者はありとも。誰か我名を知ざらん。 快垢拿に耳屎を。掻攫して聴聞せよ。武蔵下総両国河の。西の岸畔に隠れなき。向水五十三太と。喚做す侠豪は我事なり。 親の時より住田河。同じ流れで釣漁を。生活にしぬるのみならず。闘諍の裁判。色情の受授。一旦人の憑みし事を。 我撮合て。成ざるはなし。こゝをもて我下風に立つ。乾児乾弟は升もて量り。箕をもて簸るとも容易くは。 量り尽さるべくもあらず。中にも特に勝れしは。枝独鈷素手吉と喚做すあり。我肉身の弟にて。船を駝ひ山を抜く。 膂力を誰とて知らぬはなし。約莫坂東八箇国の。関相撲を一縢にして。立合するともいかにして。克ふべくもあらざるに。 口に本銭の没らねばとて。いひたき随の長談義。乞児相撲の内拿は。寔に沙汰の涯りなり。恁いはるゝが朽惜くば。 立合て我と勝負せよ。快立ずや。と飽までに。罵り哮る勢ひに。惹れて枝独鈷素手吉も。群集の中より找み出。 親兵衛にうち向ひて。阿侍。年少ながら。おん身も心つきなき所行なり。乞児相撲に一両といふ。金花開せし酔興より。 這云品は起りたり。金とり復して快いなずは。闘諍の側杖打れんず。とすを親兵衛冷笑ひて。 こゝろ得ぬ事をいふものかな。我も亦行人なれば。地方の私法を知ねども。我は我が盤纒をもて。這経紀に拿するを。 和郎們に干る事にはあらず。といふを素手吉聞あへず。金は和主が盤纒でも。地方の習俗を破りては。祟を脱れず。 敵手なり。覚悟をせよ。と敦圉くを。上風見かへり。喚禁めて。各云品ありとても。その方さまは観場児なり。 然も少年なるものを。敵手喚り大人気なし。鄙語にいふ無理の前には。道理は退く。自然の勢ひ。然る発憤しき情由あらば。 明日は他郷へ走るべし。下露東西皆拾収けよ。はやく旅宿へ罷るべし。といはれて萩野下露も。立しき腹を横にする。 招牌の竿に手を掛て。抜拿んとせし程に。五十三太透さず走り蒐て。腕を抓て声高やかに。這奴も似たる痴漢なり。 乗掛たる出入の港を。尻に帆揚て逃ればとて。那地へか逃さんや。是を啖へ。と栄螺に似たる。握拳を振抗て。 打んとすれば下露は。その手を丁と捉禁て。衝と跟入て掖組みしを。素手吉。吐嗟と見かへりて。掖仆さんと。 背より找むを上風推隔て。受つえつ相挑む。四拳は山風に。岩根の蕨揺めきて。 小筱を払ふに異ならず。上風は年老たれども。素より相撲に修煉あり。下露も亦素人にあらね。技さへ力剛ければ。 五十三太と素手吉は。思ふにも似ず推着られて。克を拿ること易からねば。怺ず両声ふり立て。大家出よ。と喚れば。 群集の中に立雑りて。拳を握りし。五十三太們が。家の破落戸三四十名。咄ときて三七二十一に。 走蒐れる破竹の勢ひ。衆人呀阿と駭怕れて。素破闘諍ぞ。とばかりに。下めき頽れ立噪ぎて。只子の雛を散すが像く。 往方も知ずなりにけり。尓程に破落戸們は。斉一五十三太素手吉を。幇助て競ふ無法の突戦。先に找むは。 群立蒐て。両個の敵手を打仆さん。と惴るを上風下露は。掻潜々々。拳を避て多く打れず。迹に続きし破落戸們は。 招牌児膏薬筥まで。打摧き河へ放下して。連りに狂ふそが中に。素手吉は親兵衛を。 只是逆旅の少年なり。と思侮り。生拘り懲らして。頑童にせばや。と火急の情慾。両個の敵手を多勢に儘して。 五十三太に目を注し。この時までも自若として。孝嗣と共侶に。勝負誰何とうち目戍りたる。親兵衛に近づきて。 声をも被けず左右より。肱腕丁と拉ぎて。推倒さんとしてけるを。親兵衛譟がず振解きて。左右に抓む両個の項髪。 手脚を一度にして。膕を払て投しかば。五十三太も素手吉も。ひとしく遥に放下されて。河へと落たりける。
(中略)
然ば次団太は。小千谷へ赴く中途にて。料ずも土丈二嗚呼善が。鮠八と共侶に。這路傍に立聚合て。うち相譚ふを見つ聞つ。 只是天の賜ぞ。とおもへば勇む不勝の歓び。倶に性起つ三を。推鎮め耳を澄して。 且那奴們がいふよしを。听果てこそ手を下せめ。と深念をしつゝ足場を量り。釘を湿し身を潜して。 なほも動静を覘ふ程に。俄然として降る驟雨に。慌る嗚呼善土丈二們は。各々先を争ふて。入らまく欲する野豬小屋より。 次団太は又出んとしたる。迭の勢ひ猶予なく。憶ず撲地と撞中る。男女両個の胸前を。左右に丁と引抓みて。 怒りに乗する声も劇しく。奸夫淫婦們。はや忘れしか。次団太なるぞ。覚期をせよ。といはれて。吐嗟と駭怕るゝ。 嗚呼善はさらなり。土丈二も。呀阿とばかりに猿馬を飛して。振放さんと角ひしを。次団太緩めず。中一中て。 前面へ撲地と蹴回せば。土丈二遥に斗りて。水田の畔へ倒れけり。次団太得たり。と抜晃めかす。 片手なぐりの刃の電光。嗚呼善は右の肩尖を。斫られて。苦と叫びも果ず。颯と濆る鮮血と共に。虚空を抓んで仰反たり。 恁りし程に鮠八は。土丈二が跡に続きて。走り入まくしてけるに。今次団太と名告れる声に。胸を潰しつ胡譟て。 張灯其里にうち棄て。足に信して逃走るを。三透さず。ー蒐出て。白物等。と喚はり喚はり。 近づく儘に腋挿の。刀を晃りと引抜きて。撃つ甲斐もなく釘走りて。柄のみ虚しく手に残り。 刃は前面へ怪蜚て。叢裏に堕しかば。鮠八これに力を得て。身を振回し衝と寄せて。四手に亙り引組んで。 倒さんとぞだりける。尓程に土丈二は。次団太に投られたる。 痛楚を忍びて身を起し。殪して逃ん。と思へども。腰に寸鉄を帯ざれば。已ことを得ず。田畔に。建たる苗頃の小杉木を。 力に儘し抜拿る程に。撃んと找む次団太を。寄せじ。と払ふ一生懸命。受つえつ挑みしを。次団太焦燥て物ともせず。 踏入々々撃つ刃頭に。土丈二は利手を斫られて。落す杉木を拿も得ず。逃んとするを。次団太は。走蒐りてと斫る。 尖鋭き拳に土丈二は。背を四五寸斫劈れて。叫びも果ず仆れけり。この時鮠八と挑みたる。三は小角觝なれども。 膂力あり。修煉あり。鮠八も亦相撲を好みて。身長高く年壮ければ。技も膂力も相応しく。敵するに足る手を尽して。 左右なく推も伏せられず。遮莫命運尽たればや。其頭に繁き夏草に。憶ず足を縢して。辷りて小膝を突しかば。 三矢場に推倒して。乗し蒐りつ胸前を。刺んとするに。刃なければ。いかにすべき。 と見かへる傍に。手鞠像の円石あり。こは究竟。と拿る手もはやく。鮠八が頭顱を莅て。続ざまに撻程に。 肉破れ骨も摧けけん。死活は知らず鮠八は。頭髻断離れ血に塗れて。声も得たてずなりにけり。

即位八年…七年なるべし。
最手…欄外註「今馬奴の馬を罵りてほてはらめといふ。ほてはらは最手腹にて相撲人の腹の大きなるになぞらへていふ也。 かゝれば古言は田舎に遺れり」。
犢鼻褌…欄外註「犢鼻褌は和名タフサキ。今俗はふんどしといふ。綾足はふみとほしと訓したれども。 愚按はフンドシはふぐりかくしの略語なるべし。又按ずるにタフサキは手塞ならん。赤裸の者は必手をもて前を塞ぐにより。犢鼻褌にこの和名あり」。
五月二日…九月二日なるべし。
左右十名…左右各六名、都合十二名なり。
古昔…欄外註「天朝の相撲は唐山に所云角觝の戯にして其事大同小異也。書紀垂仁紀に力に作りしを後の記録には多く相撲に作れり。 又唐山元明以来の俗語に打擂といふは角觝の事なり。打擂の事は水滸伝及緑牡丹に見えたり」。


《南総里見八犬伝第九輯巻之十五》第百十九回

登時次団太声を掛て。やよや三一霎時等ね。其奴にもいひ知する。引導の法語あり。 生殺しにして閣ずや。といふに三手を歇めて。且鮠八が呼吸を撈るに。衰て動くべくもあらねば。 そが儘放ちて身を起し。落しゝ刃と刀の柄を。那這と尋ね。拿抗て。小篠を手折て。釘にしつゝ。 に収めて腰に帯けり。尓程に次団太は。深痍に弱りし土丈二が。頭髻を抓み。曳搨りて。 菰屋の戸口にもて来つゝ。既に倒れて片息なる。嗚呼善が上に推累ね。楚と踏へて。血刀もて。男女の頭をうち殴きて。 姦夫淫婦們思ひ知るや。今さらいはんは無益に似たれど。嗚呼善は原是我家の炊妾にて。父母兄弟もなきよしなれば。 我前妻の不便に思ひて。刺縫の技。手習さへ。宵々毎に教しかば。左やら右やら人並の。女子一匹になりし比。 我妻は世を去りて。内を任すべき人を得ざれば。我には年十七八の。妹なれども問試しに。生涯仕へて洪恩を。 永く復さんといふ若が情願。然もあるべし。と思ふをもて。推登して後妻に。做して世帯を掌らしたり。 又土丈二は。我所親の。孤児でありければ。総角の比より我乾児にして。相撲の技さへ教導き。京鎌倉の勧進相撲に。 名を載らるゝまでになりしは。抑是誰が庇ぞ。有恁ば素より若們は。庸常の妻にあらず。渡世の与の弟子ならぬに。 恩義を忘れて密通したる。その罪饒しがたけれども。然ばかりならば世間に。似たる児なきにあらず。 男女ひとしく追出して。地方の住ひを禁めもせんに。若們不義の情慾に。飽かで我身を推斃し。世帯を奪略んとて。事を計較み。 誣訴て。冤枉の罪に陥れたる。その悪越に極れり。これをしも忍ぶべくば。 孰をか忍ざるべき。こゝをもて皇天后土も。這奸逆の。賊男女を容れ給はず。冥罰踵を旋らさで。目今我に屠らるゝ。 悪報を思はずや。甚麼ぞや。と罵り責て。那這となく刃頭をもて。突けば苦む土丈二嗚呼善は。饒し給へ。 といふ声も。霜夜の虫に異ならず。纔に手脚を動して。息絶々に呻しを。次団太。 然こそと冷笑ひて。若們今さら免れがたき。命を惜むは愚魯なり。念仏まうせ。と拿直す。刃を抗て土丈二が。 胸前禺殺と刺串けば。下に布れし嗚呼善まで。串れたる四劬八苦の。両手を握り眼をりて。 共侶に息絶にけり。既にして次団太は。血刀を抜拿て。拭ふてに斂めつゝ。鮠八が仆俯したる。 身辺に找み近づきて。足もて頭顱を踏動し。やをれ児。まだ死ずや。若は塚之山の小経紀。 駝牡八が独子にて。をさをさ相撲を好むをもて。我弟子にしたりしに。近曾若が二親の。世を去りしより。生活に親まず。 産を破り邑を追れて。無宿になるべき者なりしを。我は師弟の義を思ふて。宿所に喚拿り。意見を示して。人に做ん。 と東西さへ没れて。去歳の秋より養ひしに。素より不実の本性なれば。恩を恩とは思ひもかけず。只その同気相求め。 同悪を相憐む。土丈二に相譚れ。嗚呼善に折々餌を飼れて。非義の利慾に惑ひけん。土丈二が讒訴の折。 若は他が証人に。做て巧に我を誣たる。その縡の趣は。我身獄舎に在りし日に。人伝ながら聞知たり。然ば今招ねども。 若も嗚呼善に倶せられて。命を贈りに出て来ぬるは。則是天罰にて。怨る処なかるべし。観念せよ。と罵りて。 項を緊しく蹂躙れば。云とばかりに手脚を張て。脆くも呼吸は絶にけり。当下次団太は。側を急に見かへりて。 喃三。這奴は和郎に脳骨を。摧れたれば。始より。痛く弱りけん休みたり。この儘十々滅を刺さずとも。 又生くべうもあらずかし。嚮に嗚呼善が土丈二に。告るを聞て我知りぬ。他が屍骸の懐には。必金十両あらん。 其も亦都て我東西なれば。拿るとも天道饒し給はん。其を盤纒にして。他郷へ走らん。探りてあらば快出しね。 といふを三うち听て。そは勿論の事ながら。這里より小千谷へ遠からず。件の金を先拿て。 悄地に宿所に立かへり。有ん涯りの銭財を。攫ふて走らば。身の所因を。求る折の本銭にならん。只這奴們を屠りしのみにて。 手を空うすることかは。といへば次団太頭を掉て。そは亦和郎がいふことながら。然では飽く事を知ざるなり。 小千谷の宿所は我宅にて。那里の東西は我有なりとも。既に罪を蒙りて。追放せられし我身なれば。我東西にして我有ならず。 然るをこゝまでかへり来て。姦夫淫婦に怨を復し。屍骸に遺れる十両の。金を拿るだに危窮の為に。已ことを得ざる所為なるに。 慾をがば。強人と。五十歩百歩の間のみ。天道饒し給ふべからず。這里は片貝街頭なれども。 夜の畷に人迹絶て。知られざるこそ幸ひなれ。快々影を躱すべし。といふに三。 有理と悟りて。軈て嗚呼善が屍骸を探るに。項に掛たる財嚢の内に。果して十両許の金ありしを。そが儘拿て次団太に。 逓与せば手ばやく懐へ。斂めて四下を見返り見かへり。いさふれ三。且ゆき給へ。と辞譲も有繋礼あり儀あり。 心ばかりは人の道。倶に迷ぬ野干玉の。烏夜は潜ぶに便りよき。路を求めて通宵。くも走りけり。

《南総里見八犬伝第九輯巻之十七》第百二十三回

登時与四郎は含笑ながら。照文にうち向ひて。最早かりし蜑崎主。在下は首途の折。那船に乗りしより。幾程もなく風波暴れて。 既に危窮に及びしを。纔に免れて上総なる。木更津に船を歇留て。次の日は那港口に在り。只一個なる伴当の。 病臥たるを陸に登して。其頭の客店に留め。順風を等て。十三日の朝。市河なる。犬江屋に赴きて。依介夫婦に対面せしかば。 親兵衛主の往方も知られ。那人は数日那里に在りしに。結城の法会に値んとて。十二日の朝未明に。立去にき。 と報られける。長談会話に時移りて。東人夫婦に留められ。只得那里に止宿しつ。昨日は船もて依介工們に。 関宿まで送られて。昨夜は堺の客店に。明して七里を走一走に。未牌の時候に這城の下に。来ぬる事は来つれども。ヽ大法師の庵を知らねば。 索難つゝ気さへ脚さへ。疲労すまでに。困じたりしに。憶りもあらず。おん身に見られて。喚れずは這便宜を得んや。 おん身は又幾の間に。はやくこの地に来給ひたる。ヽ大道徳に逢給ひしか。犬士は来会せられしか。と問ふを照文推禁めて。 然ばとよ。且听給へ。我も亦往る十一日の夜艾より。勁風劇波に漂されて。船は找まず。危ふかりしを。 辛くして十二日の下に。武蔵下総の封疆なる。両国河に漕入れしに。風波に心地を損れて。 我身安からざりしかば。那河原なる公の。坐席を借て臥て在りしに。その宵料らず犬江仁に。 相逢ふことを得てければ。随即館の御諚を伝へて。御教書を逓与しにき。その故は箇様々々。恁々の時宜なりけりとて。 親兵衛が一路人。河鯉佐太郎孝嗣が事。又霊狐政木が事。並に孝嗣が改名の心操。又石亀屋次団太と。其が角觝の弟子三が事。 又那河原の侠者と聞えし。向水五十三太弟兄。並に田税戸賀九郎逸時と。苫屋八郎景能が。五十三太許寓居の事。都てその日の事の顛末。 一事も漏さず解示して。却親兵衛は。是等の便宜に。快素藤を対治せんとて。十三日の暁天に。逸時景能。孝嗣次団太三と。 照文が夥兵十名の内中。才に両個を借従へて。那五十三太素手吉が。准備の船にうち乗りて。上総を投て漕走らしたる。 事の光景今見る像く。手做をしつゝ聶き告れば。与四郎听つゝ笑局に入て。奇なり奇なり。と感嘆す。登時照文又いふやう。 然ば們は。犬江の船出を。河原に目送り果しより。更に去向のいそがるれば。疾立去まく欲するものから。 宿の公。工奴婢們は。前夜の劇に駭怕れて。 那地ゆきけん在る者なければ。其を辞せずして慌しく。出てゆかんはさすがにて。人の憑ぬ留守をして。 憶ずも天を明す程に。公夫婦。奴婢們まで。那里よりか出て来つ。朝の炊に又時移りて。 日はいと昂う升りし時候。稍早飯をたうべ果たる。夥兵と伴当們をいそがし立て。却公に別を告。 犬江並に一路人們の。房銭までも遺なく還して。千住の方へいそぎしに。予は穂北の郷士と聞えし。氷垣夏行許立よりて。 七個の犬士們の。事をし問ん。と思ひし甲斐なく。不知案内の疎さは。十町許行過て。始て人に問せしに。そはいとに後なり。 といはるゝに悔しく思へば。且試に伴当を。走らしてよしを聞せんとて。們と。以下の兵毎は。 路傍なる茶店に憩ひて在り。心利たる伴の若党。直塚紀二六と喚做たるに。意衷を示し。使を課て。氷垣許遣しけるに。 等こといまだ半ならず。紀二六はやくかへり来て。那里の動静を報るやう。小可那郷士許赴きて。 おん使のよしを言示し。那七個の犬士達の。今も逗留なさるゝや。と問試しに。知ずと答て。左右なくは事の実を。 報べうもあらざりければ。小可猜して。毫も礙議せず。則里見の御内人なる。蜑崎主の使なるよしを。詳に解示ししかば。 那毎の疑ひ釈けん。氷垣の家の老僕なるべし。世智介とか喚做たるが。玄関に立出て。小可にうち向ひ。 悄やかに報るやう。蜑崎主の御姓名は。予聞知り候ひしかば。隠すべうも候はず。尋給ふ七犬士は。春より久しくこの処に。 逗留して在せしが。結城なるヽ大庵の。法会にいかで値んとて。今朝早天四月十三日なりより立去りて。 那地へ赴き給ひにき。折から東人残三は。猛可に中風の大病にて。半身不遂に候へば。余之七も那人々と。 倶に結城へゆくこと得ならず。只小生們一両名。犬士達を一里あまり。送りて方僅還りたり。といふに紀二六こゝろ得て。 其は胸苦しき御病厄。早の平愈を祈らんのみ。照文は君命にて。件の法会代拝に。去向をいそぐ旅なれば。 立よりて御安危を。問まゐらすることも克はず。かへさには犬士達と。倶に必訪ひまつらめ。このよし宜く稟し給ひね。 却ヽ大庵は。結城にて。那方に候ぞや。と問へば世智介。然候。いぬる比小生は。犬士の使を承りて。那草庵へ詣しかども。 故ありてヽ大道徳に。面談は仕らず。本意なくかへり来にければ。事朦朧に似たるものから。件の庵は城下にあらず。 乾浄たる茂林中に。締掛たる柴門こそ。那精舎にて候なれ。地方に知る者稀なれば。索難させ給はなん。 遮莫城下より西のかた。約莫十町許にして。只那嘉吉の古戦場と。問せ給はゞ紛れはあらじ。といふに紀二六こゝろ得果て。 走りかへりつ。恁々と。よしを們に報しかば。亦復言に便宜を得たり。恁て這夜は糟壁なる。 客店に明しつゝ。次の日早旦に宿を出て。連りに路次をいそぐ程に。時の比及に。はやくこの地に来着して。 件の嘉吉の古戦場を。人に問するに紛れもあらず。既にして誨られたる。茂林頭に来ぬる程に。料ず一個の法師に遇ぬ。 因て我又その法師に。ヽ大庵を問試しに。法師答て。其は這里より。遠くもあらず候へども。樹柆深ければ迷ひ給はん。 愚僧も那里へゆくものなり。這方へ来ませ。と先に立て。導くこと二町許。果して樹柆の間ある処に。締べる草のありけり。 登時法師は。們を見かへり。索給ふヽ大庵は。則這里で侍るなり。といふに們は歩を早めて。 找み近づき。歓びを。演るを法師は聞あへず。軈て樹蔭に入るとおもへば。忽地見えずなりにけり。恁而們は紀二六に。 呼門しつゝ找み入るに。縁頬の障子は開きてあり。坐席は才に九尺に過ぎず。前面に六尺許なる。仏壇に笈仏あるのみ。 中央に一戸の地を開きて。席薦五枚布儲け。庵主は仏壇の辺に端坐し。犬塚犬山。 犬川犬阪。犬田犬飼。犬村の七賢士。面識りたるも。識ざるも。左右二側に坐を占て在り。閑談闌なりけんか。 倶に們を見かへりて。こは珍しや。とばかりに。片寄て席を譲られたり。登時們も団坐に入りて。 犬川犬阪。犬村們には。初対面の口誼。互に疎ならず。又犬田犬飼はさらなり。就中犬塚犬山には。石禾以来恙なかりし。 再会を祝し祝され。却今番。当精舎の法会に就き。滝田。稲村両館の。御代香を仰付られて。参向の事の顛末。 滝田の老侯。年来の。御本意に称はせ給ふ。おん歓びの趣を。ヽ大法師に伝達し。供養の時日を問などしつゝ。 公私の話説に及びける。主客の喜悦いふべうもあらず。

《南総里見八犬伝第九輯巻之三十五下》第百六十一回

有恁し程に。満呂復五郎重時は。這陣中に做こともなき。徒然に堪ざりければ。有一日独立出て。漫行をしぬる程に。 行徳今はこの地方を本行徳と唱ふの左右には。川添の村落多かり。所謂。堀江猫貫。 欠真間関島。新井湊村。河原大和田。稲荷木なり。市河に至れば。街衢同じからず。この余も猶あらんを。 要なければ備ならぬ。間話休題。この日復五郎重時は。東西とうち巡る随に。憶ず湊村に来にける折から。 戞々丁々と。焼刀の稜打鳴す。鎚の音。耳にきて高かるを。と見れば。這村の坎稍尽処に。 最寒たる銕匠が家ありて。主人とおぼしき一人の漢子。年齢は。五十有余なるが。其子にやあらん。年十六七なる。 一個の猴子と。相共に銕を鍛冶ひて。多く器械を。製出すにぞ有ける。重時は今這里に来て。憶ず其店前に歩を駐めて。 簾に掛夾みたる。出刃と刀子を見るに。皆是藤原信之。と勒したる四字の銘あり。又其側の壁に白土して。 大なる竹輪の内に。屋字を写たるは。丸屋なるべし。と猜せらる。且其猴子の逞しげなる。全身黒く膏満たる。 眼円に骨太き。身には栲の敗て。下短なる夾衣只単被たれど。敢寒けき面色せず。袒ぎたる。 両袖を腹に巻て。裳を股まで引折みて。合鎚を打つ為体。都て槍棒の手法に称ひて。 膂力あるべく見えしかば。重時は。立も得去らず。其冶ひ果るを等て。急に主人を喚ていふやう。やよ其里なる漢子。 汝が作りし新刀はなきや。あらば我買まく欲す。出して見せよ。其麼ぞや。と問れて主人は見かへりて。 官人先框へ尻を掛させ給へ。先代までは刀鍛冶にて。新刀も多く候ひしに。小可は其弟子にて。木瓜八と喚るゝのみ。 耄化て鈍かる本性故に。技いと拙く候へば。出刃刀子を作るのみ。といふを重時うち聞て。其は左まれ右もあれ。 こゝの家号は丸屋にあらずや。竹輪は。安房の満呂の花号なり。我は昔年亡びたる。麻呂小五郎信時の親族なる。 満呂復五郎重時是なり。今は里見殿に仕まつりて。昨今塩浜の陣に在り。若是汝が東人の先祖は。満呂氏にあらざるか。 矧や又這少年の。骨相を見て猜するに。武芸を嗜る者に似たり。年は幾個ぞ。名を何といふ。久後憑しき心地ぞする。 由緒もやあらむ。聞まく欲し。といはれて木瓜八頭を掻て。原来御身は満呂氏にて。浜の御陣より来ませしか。 問れまつりて恥しき。小可が故東人も。則是満呂氏にて。在昔鎌倉の将軍家。創業の時。頼朝公に従ひまつりし。 麻呂五郎信俊殿とやらの。庶流に候へども。子孫民間に降てより。銕匠をもて生活にす。 と口碑に伝へしのみ。詳なる事を知らず候へども。既に猜し給ふごとく。今もなお満呂氏にて。信之は。 家の通称なり。然ば這子は。小可が主筋にて。故東人。丸屋太郎平の独子なれば。再太郎と喚做したり。 二親早く身故りしかば。小可年来後見して。今茲は十八歳になりぬ。然ば這子の生年は。文正元年丙戌にて。 且丁の月日に生れし所以か。甚しき熱性なるに。生活さへ火を宗とすなる。鍛冶の子で候へば。性として水を好めば。 冬も漁網して。村後なる暴河へ。身を浸す事ありても。反て快しといふめり。こゝをもて誰教ねども。 水戯に自由を得たれば。夏はいよいよ早湍をはで。泅ぎて西の岸に届るを。小可叱り禁れども。 兎毛ばかりも听ざりける。嗜好は又只是のみならず。角觝白打。槍棒撃剣。悄々地に其師に就て。学ぶものから。 田舎に侍れば。良師に遇はず。何するやら。拙かるべき技ながら。膂力あれば。 這頭では。白人相撲の最手といはるゝ。似而非腕扱で候へば。親には肖ざる破落戸に。なるべくや候はん。 といひつゝ呵々とうち笑へば。重時只管感じて已まず。再太郎をつくづくと。見かへりつゝいふやう。 意ふに優たる這子の本性。今戦国の時に方りて。荘客まれ職匠まれ。武芸をもて袴を求めば。 名を揚家を興すべし。但し那身は熱性なりとも。冬の日に水に浸りて。凍ざるよしあらんや。この一条は信がたし。 と詰るを木瓜八聞あへず。訝り給ふは理りながら。この義も亦極めて故あり。我家五世の祖なりける。麻呂太郎平信之より相伝へし。 人魚の膏油今なほ有り。伝へ云この膏油は。昔一個の樽に装られて。塩浜に漂寓りしを。信之不思議に拾得て。 もて秘蔵せり。其樽は。樟木をもて作り。藤蔓を箍にしたり。其大洋に漂ふこと。年久しかりければや。 牡蠣海藻などの多く黏たるが。人魚膏油と写したる。四箇字は幽に読れしとぞ。 然ども孰の国の産物にて。流れ来ぬる故を知らず。又何に用ることを知らず。凝りて蝋の像くなりけるを。 其が儘蔵め置けるに。有一年一個の頭陀ありて。我家に宿せし日。其頭陀件の膏油。我家に在りと聞知りて。 主人信之に誨るやう。人ありて。人魚の肉を啖ふときは。其寿三千年を有つべし。 惜かな膏油なれば。齢を延す奇効なし。遮莫是を灯火に做すときは。風雨にも滅ずして。日月と光を同くす。 又人の身の目鼻口耳臍肛門。都て九孔に塗りて水に入れば。大寒の日といへども。猶温にて。凍ることなく。 波を潜りて海をも渉さん。又刀剣に塗るときは。鉄を斫り角を劈くべし。試給へ。といひしとぞ。這信之の時よりして。 刀鍛冶を活業にしぬれば。件の人魚の膏油をもて。作る所の新刀に塗りて。鉄斫と名つけて是を售るに。 果して其験ありければ。漸々に行はれて。家優にならまくせし時。惜や膏油を用尽して。残り二三合になりしかば。 是をば児孫に貽さんとて。則硝子の壜に蔵めて。其歳月を写ししを。伝へて今にあるをもて。再太郎は試に。 大前年の冬なりき。那膏油を身を塗りて。今井河に入て泅ぎしに。河水温なること湯の如く。波濤を潜るも自由にて。 前面の岸へ渉ししを。観る者一奇とせざるはなかりき。恁れば他が熱性にて。泅を好むのみならず。冬の日水に戯れても。 凍ず溺るゝことなきは。人魚の膏油の奇特なるに。然る無益の技にのみ。費るゝが薄情さに。小可緊しく推禁て。 隠して使せざりけれども。今ある所は一合あまり。二合には足らざるべし。然ば冬の日水を泅ぎて。凍ずといふ一奇談は。 是ある所以に候。と鼻蠢めかして説誇る。折から這門辺に来て。立在たる一個の童男あり。いと窶たる行装にて。 腰に短き一刀を。下りに跨做しつ。背に最小なる。袱裹を駝ふたるが。右手に菅笠を引提て。 前より主客の問答に。耳を欹けて聞て居り。とは知ざりし重時は。今木瓜八が話説にて。再太郎の人となりと。 人魚の膏油の奇特を聞得し。歓びに堪ざれば。又木瓜八に向ひていふやう。聞くがごとくは。這少年は。 正に我と同宗にて。先祖麻呂信俊主の。数世の末葉ならんこと。今さらに疑ふべからず。我は妻もなく子もなければ。 いとなつかしき心地ぞする。言倉卒に似たれども。這子を我養嗣に取しね。倶に里見殿に仕まつらば。父祖の与にも孝順にて。 鍛冶して其身を終に踰らん。況今番の軍役に従ふて。戦功あらば名をも揚げ。家をも興す幸ひあらん。話主のこゝろ甚麼ぞや。 と問へば木瓜八沈吟じて。其は他が立身出世の。階梯に侍れども。我胤ならぬ。先主人の独子で候へば。といひつゝ再太郎を見かへりて。 やよ再太よ。和郎も目今聞く如し。和郎這大爺の養嗣にならば。武士を欲する情願に称はん。左にも右にも主張して。 随意答稟さずや。といはれて再太郎は。叉きたる。手を解き貌を改めて。重時にうち向ひて。不肖の我身を子にせんとある。 御意を得ぬるは。思ひかけなき。幸ひにこそ侍るなれ。勿論他姓に候はば。親の家を絶に忍びず。必ず推辞べけれども。 倶に是満呂氏にて。同宗なれば。一家にひとし。今より親と仰ぎまつらん。先三拝を受給ひね。といひつゝ軈て身を退せて。 三たび重時を拝すれば。重時も亦遽しく。礼を返せる良縁奇遇。この歓びに就て又。木瓜八は。再太郎が。日属には似ず。 賢貌なる言行に我を折て。呆るゝこと半許。さてもさても。と口訥りて。いはでぞ誉る親心。 子に甘口なる村酒は。この用あるを知らねども。夜消の与に買措きし。二合半壜。架厨より。出す乾魚を吹革火に。 炙子執添て。却重時を上坐に。請ひつゝ倶に献酬す。親子の契り。 千世まで。と訛し寿詞も憑しき。興闌に及ぶ時。重時は酒菜せんとて。勒肚なる長財嚢より。拿出す円金十両を。 紙に拈り便面に載て。是を木瓜八に贈りていふやう。我いまだ其詳なる事を知ねども。和主忠信の心もて。 先主人の孤を。守育たる甲斐もなく。我今切に養ひ拿て。且塩浜の陣所へ将て還れば。明日よりさぞな徒然ならむ。 陣中なれば余財なし。こはいと薄義なるものから。這歓びを表するのみ。といふを木瓜八聞あへず。其は亦要なき御仁義なり。 這大金を争何はせん。と辞ひて受も得ざりしを。重時連りに推薦めて。手を掖よせつゝ拿すれば。木瓜八只得受戴きて。 軈て懐に夾る程に。再太郎は恭しく。重時にうち向ひて。為に其歓びを演にけり。
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坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp