梅翁随筆
《梅翁随筆巻之五》

   ○角力。芝居盛衰の事
明和のころより谷風といふ角力取世に名高く。関東方の大関と成。其頃是に及ぶものなしと。又九州方に小野川といふあり。 江州大津産にて。久留米のかゝえなり。一体は谷風に対すべきにあらず。谷風とはねを取る時は。たちまち土俵の外へはね出さるゝゆへ。 谷風一生此手をとらず。又長く揉合ふ時は。小野川ちからつかれて。必押出さるゝ故。行司其程を見はからひて引分とし。 勝負を決する事なし。しかれば此時に当りて。谷風に対して。是程の間も相手になるものなければとて。 小野川を九州がたの大関と定めて。勧進元の花とせり。小野川身の重さ三十五貫目。しかも其秘妙手ありし。 少しの透もある時は。谷風といへども勝手あり。寛政のはじめより両人の角力盛りにて。見物群集し。 暁七半時より相撲場に居所なきほど充満して。皆夜の明るを待居たり。寛政三亥年六月十一日吹上の御庭にて相撲上覧あり。 詰合の布衣以上役人をはじめとして見物仰付られて。御番方は当番のうちより二日代りに見物す。 此日谷風と小野川取組有り。勿論谷風勝て弓をもたせて帰りたり。其後また上覧ありし。此時もおなじ取くみなりしが。 小野川とてもかたひがたくやおもひけん。場所までは出しかども。俄煩ひにて御断申上たり。日頃牛頭の勢ひなるに。 如何して斯は臆しけるにやと。其故をたづねければ。外にての相撲とちがひ。上覧の節は引分ケといふ事は曾て成がたし。 いつ迄も勝負の分るまでとり結ぶゆへ。かくは御断申上しよし申輩も有しなり。谷風は強剛大力にて。相撲の妙術を得たるのみならず。 又勧進角力の上手なり。若もの日の出贔負多く。評判高き者と取組時は。先しばらく押合て。その者の器量一ぱいに秘術を尽させ。 下を引立たすけゝるゆへ。其内には自然と面白き妙手も出て。感心多きこと故。貴賤かんじて見物せり。 谷風は幼名与四郎と云。父は弥右衛門とて賤しき百姓なり。寛延三庚午年八月八日奥州宮城郡霞目村にて生る。 十九歳にて角力に出て秀の山といふ。のちに伊達関と改め。二十七歳の時谷風と改め。梶之助源守胤と云。 寛政元酉年十一月十九日横綱免許あり。本朝角力の司行司追風より出す所なり。同七乙卯年正月九日四十六才にして死す。 台漸寺に葬るといへり。是より関東方の大関は雷電といふ。雲州の抱えにて。無双の大力。三拾八貫目有と云。 日の出のすまふなり。小野川は是にも勝事能はず。後は雷電との取組も。其日にいたりていつも断るゆへ。 次第に小野川の評判あしく成。雷電につり合べき相手なきゆへ。相撲の見物も多からず。其後は上覧の御さたもなく次第におとろへたり。

記録・随筆・紀行に戻る

坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp