藝界きくまゝの記
《藝界きくまゝの記》

     ○むかしの雷電
雷電為右衛門ハはじめ小野川の門に入らんとせしに。小野川傲慢無礼を以て之に接し。あまつさへ入門以後。 両三年を経ざれバ褌かつぎにもなりがたしとまでにいひのゝしりしかば。雷電怒て。そのまゝ辞し去り。 更らに一方の大関谷風を訪ふ。谷風人となり謙遜。礼を以て為右衛門を遇し。一年をも待たで。ブツツケ幕之内へ名を掲げしむべしと諾ひしかバ。 雷電意外のことに。歓喜いはん方なく。遂に師弟の約を結びしが。果してその翌年則ち寛政二庚戌年の春。 東方幕の内の末席八枚目に名を掲げさせたり。それより一年を経て翌三年亥年の冬場所に。 西の関脇に進み。同八丙辰年の春場所に大関の位置を占め。小野川と相対峙せり。
是れより先き雷電しばしば小野川を敗れり。爾来文化八辛未年に至る迄十六年の久しき間。大関として力士社会に雄飛し。 一人もその右に出るものなかりき。
さて雷電。寛政八丙辰年の春場所に大関となりてより。文化元甲子年の春場所まで。凡そ九ヶ年の間。いまだ一回も敗を取りたることなく。 所謂土つかずにてありたりとのことなれど。くはしき記録なきを以てしるすに由なし。
左に享和元辛酉年以後の勝敗表をかゝぐ。
  爾来十年のながき。その間に黒星わづかに合計十箇のみ。
享和元年辛酉春
雷 電 休
 同
出しほ
田子ノうら
大つな
花頂山
ゆづりは
鴻ヶ峰
平いし
  負ナシ
辛酉の冬と壬戌の春とハ番附にその名みえず。またとりもせず。故にこゝにしるさず。
享和二年壬戌冬
雷 電はまがせき
あげは
くもきり
荒馬
大つな
山おろし
押尾川
  全 勝
享和三年癸亥春
雷 電くろわし
八十しま
ゆつりは
アゲハ
大つな
荒うま
  負ナシ
    コノ相撲七日目ニテ願下
享和三年癸亥冬
雷 電八十しま
みどり川
鏡いは
ヒオドシ
荒うま
秀ノ山
鬼面山
平いし
  全 勝
文化元年甲子冬
  春ハ不在且ツ番附ニナシ
雷 電左ノ山
ユツリハ
鏡いは
ヒオドシ
柏戸
荒うま
大みさき
鬼面山
平いし
  負 一
文化二年乙丑春
雷 電左ノ山
田子ノうら
しかまつ
四ッ車
音羽山
アゲハ
大つな
荒うま
柏戸
八十しま
  全 勝
同 冬
雷 電左ノ山
しかまつ
田子ノうら
三保がせき
アゲハ
春日山
荒うま
柏戸
平いし
  負 一
文化三年丙寅春
雷 電左ノ山
シカマツ
 休
音羽山
四ッ車
  負 一
同 冬
雷 電左ノ山
大角
八十しま
音羽山
たきの音
荒うま
柏戸
春日山
アゲハ
  負ナシ
文化四年丁卯春
雷 電大角
左ノ山
八十しま
たきノ音
四ッ車
アゲハ
春日山
荒うま
柏戸
  負ナシ
同 冬
雷 電左ノ山
大木戸
浅香山
アゲハ
鏡いは
ヒオドシ
鬼面山
勝負ナシ柏戸
荒うま
たきノ音
  負ナシ
文化五年戊辰春
雷 電ユツリハ
八ッヶ峰
たきノ音
音羽山
四ッ車
アゲハ
カヾミ岩
 休
勝負ナシ柏戸
  負ナシ
同 冬
雷 電荒角
大角
四ッ車
鏡いは
アゲハ
ヒオドシ
荒うま
柏戸
鬼面山
音羽山
  負 一
文化六年己巳春
雷 電荒うみ
たきノ音
音羽山
アゲハ
 休
かゞみいは
荒馬
ヒオドシ
柏戸
鬼面山
  負ナシ
同 冬
雷 電八十しま
たきノ音
立神
アゲハ
かゞみいは
大みさき
荒うま
ヒオドシ
  負 一
文化七年庚午春
雷 電北こく
たきノ音
立神
アゲハ
江戸がさき
かゞみいは
大みさき
ヒオドシ
柏戸
音羽山
  負ナシ
同 冬
雷 電北こく
たきノ音
左ノ山
江戸がさき
ヒオドシ
アゲハ
かゞみいは
柏戸
  負 一
文化八年の春ハ番附にあれどもとらず。それ限りにてひけり。
稀有のつよき力士なり。

雷電の傍線は省略せり。本数は勝ち数に等し。
太字は勝ち力士なり。引用元にては傍線にて示せり。


《藝界きくまゝの記続篇》

     ○阿波の四天王
万延文久の頃。東方幕の内に鬼面山谷五郎。大鳴門灘右衛門。陣幕久五郎。虹ヶ嶽杣右衛門とて四人の屈竟なる力士あり。 鬼面山ハ小結。大鳴門ハ四枚目。陣幕ハ五枚目。虹ヶ嶽ハ六枚目に相ならびて位置を占め。いづれも阿州侯の抱へにてありしゆゑ。 人呼で阿波の四天王といへり。この中陣幕最も強く。他ハ伯仲の間に在り。当時西方にハ不知火鷲ヶ浜の両人ありしのみ。 殊に鷲ヶ浜ハ四天王よりも伎倆やゝ劣りたれバ。
 鷲ヶ浜ハ手取りの名人也。左れバ当時の角力甚句に。
 相撲じや陣幕。男じや不知火。程のよいのが鷲ヶ浜
といへり。鷲ヶ浜ハ程のよきほどの人ゆゑ。又手取りにてありし也。然れども惜むべし。力足らざりし也。
天秤はいつも東方のみ偏重をなして面白からず。それゆゑ年寄追手風喜太郎等の攷案にて。四天王の中一人を阿州侯より暇を乞はしめて西方に廻はさん決し。 かの力士等に就てはからんとすれども。種々の情実ありて之に応ぜざるを如何せん。
然るに独り虹ヶ嶽ハ追手風の婿なれバ。これを説き伏すること方寸の中にあり。遂に彼れを窃かに有馬侯に見えしめ。 その抱へとなし。小野川才助と名を改めて西方四枚目の地位に据えたり。これ文久元辛酉年春場所のことなりき。
今文久元年冬。同二年春冬三場所の勝負表を掲げて四人優劣の概略を知らしめん。
 たゞし大鳴門ハ二年冬の場所を限りに相撲をやめたり。故にその以後の勝負表を略す。
   第一 鬼面山
もと弥高山といひて幕下にありし比ハ。さして強からず。大根の評さへありしが。鬼面山となりてより伎倆メツキリと上進し。第一流の強のものとなりたり。
 たゞし文久元酉年の冬と同二戌年の春とハ東方小結にして。戌年の冬場所にハ同じく関脇に上進したり。
文久元年辛酉冬
鬼面山かしま潟
小柳
綾なみ
小ノ川
 休
境川
 休
まつがへ
駒がたけ
  負一
文久二年壬戌春
鬼面山君がたけ
東関
待乳山
わしが浜
荒うま
小ノ川
不知火
 休
白真弓
  負一
文久二年壬戌冬
鬼面山東せき
両ごく
出釈か山
君がはま
わしがはま
白真弓
小ノ川
不知火
まつがへ
  負三
以上三回の勝負ニ
   勝十八    負五
又小野川ニ対シテハ
   勝二     負一
   第二 大鳴門
はじめ張良といひ高越山と改む。遂に大鳴門と称す。大坂より下りし初より驍名喧しく。高越山の比ハ黒縅よりも強かりし也。
 文久元酉の冬より三場所とも東方四枚目即ち前頭の筆頭たり。
文久元年辛酉冬
大鳴門桑ノ弓
東ぜき
小ノ川
不知火
 休
小柳
境川
荒うま
まつがへ
  負一
文久二年壬戌春
大鳴門だんノうら
君がたけ
小ノ川
小柳
 休
わしがはま
荒うま
かしま灘
むさしがた
  負ナシ
文久二年壬戌冬
大鳴門両ごく
君がたけ
東ぜき
出釈か山
白真弓
小ノ川
不知火
 休
わしがはま
  負二
以上三回の勝負ニ
   勝十九    負三
又小野川ニ対シテハ
   勝二     負一
   第三 陣幕
谷風雷電以来の無類の剛の者也。はじめ黒縅といひしことハ。さして強き力士にもあらざりしが。 陣幕となりてより負ケタコトナシの相撲とほめそやされたり。
 表中小柳に負けたるハ所謂怪我負けにて。小柳これが為めに命を殞せり。
文久元年辛酉冬
陣 幕茂リ山
かしま潟
わしがはま
小柳
 休
不知火
小ノ川
  負ナシ
文久二年壬戌春
陣 幕両ごく
わしがはま
不知火
 休
 同
小柳
白真弓
  負一
文久二年壬戌冬
陣 幕山分
東ぜき
両ごく
わしがはま
不知火
出釈か山
 休
小ノ川
  負ナシ
以上三回の勝負ニ
   勝十四    負一
又小野川ニ対シテハ
   引分二    休一
   第四 小野川
はじめ大みさきといひ。又虹が嶽と称し。後小野川と改む。
 文久元年の冬ハ小結たり。二年春もおなじ。同冬関脇に上れり。
文久元年辛酉冬
小野川登龍山
梁せだけ
大鳴門
鬼面山
明石がた
ひゞき灘
陣まく
外がはま
  負一
文久二年壬戌春
小野川登龍山
さゝなみ
大鳴門
梁せだけ
 休
鬼面山
ひゞきなだ
明石がた
  負二
文久二年壬戌冬
小野川さゞなみ
小森ノ
明石がた
春日山
千年川
大鳴門
鬼面山
陣まく
  負三
以上三回の勝負ニ
  勝   十五
  負    六

以上の成績に就て考察するときハ。
   第一   陣 幕
   第二   大鳴門
   第三   鬼面山
   第四   小野川
と優劣の順序を立てゝ適当なるに似たり。

左方、鬼面山・大鳴門・陣幕・小野川の傍線は省略せり。本数は勝ち数に等し。
右方、太字は勝ち力士なり。引用元にては傍線にて示せり。
文久二年冬の鬼面山、鷲ヶ浜には負け、小野川には勝ちたるなり。


     ○生月鯨太左衛門
天保弘化の頃。生月鯨太左衛門といふ大男あり。生年十九歳と称して相撲土俵入をなしたり。
 当時の錦絵を見るに。生月が駒下駄を穿きて立つて居れば。その下駄の歯の間を人が傘をさして通行し居れり。 これハ例の絵そらごとにして途方もなきことなれど。以てその大男なりしことを推知すべし。
  安政万延の頃。舞鶴駒吉なるもの。当年九歳と称して土俵入をなせしが。 これも子供にしてハ見もの也。たゞし横にひろき方也。
その後鬼若後に勝ノ浦皆瀬川後ニ武蔵潟。又君ヶ浜。年寄となりて後の名也。など。 みな大男として土俵入をなしたるもの也。
   鬼若ハ横に太き方。皆瀬川ハノツポの男たりし也。

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坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp