源氏物語
《源氏物語竹河》

大臣殿は。たゞこの殿の東なりけり。だひきやうの垣下の君達などあまたつどひ給。兵部卿の宮。左の大臣殿の賭弓の還立。 すまゐのあるじなどにはおはしまししを思ひて。けふの光と請じたてまつり給けれど。おはしまさず。 心にくゝもてかしづきたまふ姫君たちを。さるは。心ざしことに。いかでと思ひきこえ給べかめれど。 宮ぞ。いかなるにかあらん。御心もとめ給はざりける。源中納言の。いとゞあらまほしうねびとゝのひ。 何事もをくれたる方なくものし給を。おとゞも北の方も目とゞめ給けり。
隣のかくのゝしりて。行きちがふ車のをと。前駆をふ声々も。むかしのこと思出でられて。この殿には物あはれにながめ給。 故宮亡せ給て程もなく。このおとゞの通ひ給しほどを。いとあはつけいやうに。世人はもどくなりしかど。 かくてものし給もさすがなる方にめやすかりけり。定めなの世や。いづれにかよるべきなどのたまふ。

《源氏物語椎本》

夜深き月の明らかにさし出でて。山の端近き心ちするに。念誦いとあはれにし給て。むかし物語りし給。 この比の世はいかゞなりにたらむ。くぢうなどにて。かやうなる秋の月に。御前の御遊びのおりにさぶらひあひたる中に。 物の上手とおぼしきかぎり。とりどりにうち合はせたる拍子など。ことことしきよりも。よしありとおぼえある女御。 更衣の御局々の。をのがじしはいどましく思。うはべのなさけをかはすべかめるに。夜深き程の人の気しめりぬるに。 心やましく掻い調べほのかにほころび出でたる物の音など。聞き所あるが多かりしかな。何事にも。女はもてあそびのつまにしつべく。 ものはかなき物から。人の心を動かすくさはいになむ有べき。されば罪の深きにやあらん。子の道の闇を思やるにも。 男はいとしも親の心を乱さずやあらむ。女は限りありて。言ふかひなき方に思捨つべきにも。なをいと心ぐるしかるべきなど。 大方のことにつけての給へる。いかゞさおぼさざらむ。心ぐるしく思やらるゝ御心のうち也。
すべてまことに。しか思給へ捨てたるけにやはべらむ。みづからのことにては。いかにもいかにも深う思知る方のはべらぬを。 げにはかなきことなれど。声にめづる心こそ背きがたきことに侍りけれ。さかしう聖だつかせうも。さればや。 立ちて舞ひはべりけむなど聞こえて。飽かず一声聞きし御琴の音を。切にゆかしがり給へば。うとうとしからぬはじめにもとやおぼすらむ。 御みづからあなたに入り給て。切にそゝのかしきこえ給。筝の琴をぞ。いとほのかに掻き鳴らしてやみ給ぬる。 いとゞ人のけはひも絶えて。あはれなる空のけしき。所のさまに。わざとなき御遊びの心に入りておかしうおぼゆれど。 うちとけてもいかでかは弾き合はせ給はむ。
をのづから。かばかりならしそめつる残りは。世籠れるどちに譲りきこえてんとて。宮は仏の御前に入り給ひぬ。
   我なくて草の庵りは荒れぬともこのひとことはかれじとぞ思
かゝる対面も。このたびや限りならむと。もの心ぼそきに忍びかねて。かたくなしきひが言多くもなりぬるかなとて。うち泣き給。客人。
   いかならむ世にかかれせむ長きよの契むすべる草のいほりは
相撲など。公事ども紛れはべる比過ぎて候はむなどきこえ給。
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坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp