一宵話
《一宵話巻之一》

   蝦 夷 カイは所の名。エゾは。えみし。えびすと同し語なるべし。然らば。カイのエソといふべき歟。
むかし安部貞任が父頼時。奥地より北に国ある事をしり。其所を我物にせんと。 子共郎党引具して。艤して。彼地へ押渡り。大河を三十日程こぎ登り見れど。すべて無人の地なりしに。 俄に両山鳴動し。胡人千騎計出来て。彼大河のそこ井もしらぬ淵を。 馬にて苦もなく渡りし様を見て。胆を寒して帰りしといふは。宇治拾遺に出て。定かに蝦夷国とはあらねど。 此は必西蝦夷地ならんかとおもはるゝ也。蝦夷人の馬に乗る事なけれは。 此騎馬人を故人也とは昔よりいへり東方はエドロフ辺を深く入るとも。胡騎に逢べきよしなければ。 此大河は西方のイシカリなどにやあらんか。拾遺の頃迄は。蝦夷島はいまだひらけで。今のやうにはなし。 又想ニ此物語も宗任法師に直にきかれしともおもはれぬ物から。最初ニ海路出船の所もいとおぼろ也。されどイシカリより先も猶蝦夷地なれば。 胡騎はいかゞして来りけん。唐大の地方は。山丹満洲へつゞけば。韃靼にても。蝦夷にても。尊者の事をシヤムといふ。 此シヤムの同語なるによりて地続きならんとおもへど尚海をへだてゝ。唐大の西北辺ナツコと云所の出崎より。 山丹へ海上十里計離るゝといふ。夢にだに見ぬ北溟万里の国の事なれば。定ニは知がたし。其辺ならんかといふ人あれど。 ソウヤより唐大へ。海上舟路十七八里。直径六七里隔てゝ。此大河の事は。右にも左にも覚束なし。但日本人の。 津軽南部の海を越えて。蝦夷地へ入りしは。此頼時や初めならんか。此已前に。将門叛して。 新皇と称し。弟の将平に。正月一日を以。討チ取リ渤海国ヲ。攻ンコト東丹国ヲ領掌ナリやといひしは。 大胆ものなり。渤海東丹。みな蝦夷の北なり。むかしアツケシの酋長イトコイといふ者。遥に東北の島へわたり。夥く漁猟し其魚を乾して持帰りしから。 其島をカンシヤケ島と唱へしといひ伝ふ。蝦夷の語に。干をシヤツケとも。サツケともいふよしなり。鮭はシヘなれ共。干もの故に。 シヤケといふか今はカムサツガ。カムシカツトガ。カンサツカ。カムシヤツタヱ。カムサスコイなどゝ転じたるよし。或人いへれど。其本は審ならず。又山丹は。高麗夷丹の地にして。 遼の本国契丹の種類なるが。山により深く住めれば。山丹といふ。山越山戎。また生女直熟女直の類。例ありて。同じ種類をも分けて名づけしなりとかや。 山に住から山丹といふは少し唐人らしきいひ様なり或は東丹の転じたるならんともいふ。新羅の始祖。昔脱解は。多婆那国の所生なり。 其国は倭国の東北一千里にありといふは。此辺の事か。疑はし又山丹辺の人を。蝦夷人キタイチンといふ。これを漢人ならんといふ人あれど。 やはり契丹人なるべし。又東北にゴロヲタラハンといふ所あり。是は大韃而靼なるべし。即ヲゴロ人も同じ。モンゴルは蒙古国なるべく。ヲボツコイは。渤海なるべく思はると。或人いへり。 すべて外国の名どもを沙汰するは。前条に挙たる痿儂の類が多き物なり。普魯社。俄羅斯は。一音の転ぜる様なるを。清人少し差別せしは。 紅毛と蘭の人物は。俄羅斯人によく似たりといひしはよし。いかさまよく似たりとかや。西域見聞録に。唐書の戞々斯は。今の鄂羅斯。亜魯西亜。莫斯哥未亜。皆同じ国にして。 古の丁零なりといふ。知れる人に尋ぬへし。北溟狄地の国々は。唐人の説も大方おしあてなり。唐太島は。古の靺鞨の地方なりと或老先生いはれつれど。おのれ尚考る事あり。
 因に云。此頼時が蝦夷へ行しも。実説にして。又義経の渡り給ひしといふも。偽ならずは。義経。秀衡が許に居給ひし日。 此頼時が事聞及ばれしから。泰衡が襲ひし時。忠臣どもの防矢して。討死せし間に。忠衡などが落し参らせしにもあらむか。 此事を今蝦夷地案内の人に尋るに証とすべき事三ッならではなし。其一は。彼ヲキクルミの事なり。 又一は。蝦夷どもに義経の事を語り聞かすれば。かならず皆涙流せど。外の名将達の物語になりては。 さる事なし。又一はヱトロフ島に。ヱトロフワタラといふ石有。島の名も是より出て。ワタラは。岩てふ事。ヱトロハ。 剱鼻てふ事。フは。緒てふ事。此岩の形。剱鼻に似たるよりの名なりと。或人はいひ。又たゞ物の首てふ事なりといふ人もあり。異訳は有ものなり扨此島の蝦夷どものいひ伝るには。 昔此へ奇異なる人ふたり来給ひ。剱を此岩にかけ給ひしから。此名残れりといふとぞ。此二人。一人は義経。今一人は辨慶ならんと。人も我も此事聞くと。直さま思ひ付事なり。人心のさとりは。 あやしきものぞ。此二人が誠に義経辨慶ならば。ヱトロフ迄至り給ひ。是より東北は無人島なるから。北べりをつたひ。西の方唐太へ渡り給ひしならん。此路は舟とも陸ともいひがたし。 此義経の事。唐土の書にあまた載たるよし金史別本。図書集成ノ序等。いふ人あれど。皆偽造事なりときく。又ある書に。寛永年間越前の船。韃靼の地方へ漂流し。彼地にて此主の像祭るを見たるよししるせれど。 是又何等の像を見まがへたるかも知れず。おのれ今かゝる取とめなき夢物語をくだくだしういふも。此主かしこへ渡り。今の清朝の王は。 義経の子孫なりといふ事を。年来実説になし度おもひ居る心願の余りなり。琉球の舜天王は。日本天皇の後裔。朝公の子なりといふ様にして見ば。豈快事ならずや。又蝦夷の中に。 義経辨慶の旧跡なる所まゝあるにより。実に渡り給ひしやうに。論ずる人あれど。是又考へのたらぬ也。これは此二君の武勇を。蝦夷ども聞伝へ。浦山しがり。己か名に付しが。 其者死して後。其跡を後人の判官屋敷。辨慶水などゝ呼べるなるべし。武蔵の国墨田川の辺なる成平といふ相撲人の旧跡を。 在中将と取違へて。物知り人の歌にも詩にも詠ぜんは。いとはかなしや。今子共咄に。信濃の国へ行通ふ人。ある山家にて。御子達の名は。何とか申すと問ひしに。 兄は十五。弟は十三になれど。いまだ名は付侍らずといふ。さらば。名付親にならんと。兄を頼朝。弟を義経と名乗らせたるを。 親共悦び。今妻が腹に。壱人もふけて候。やがて産れなば。たのみ参らすよし約束し。其後行て問へば。余り久しう御出なかりしから。先かりに付置たり。其名は法然上人といふよしなり。 此法然上人生長の後。暴者の名をとりなば。後の人。此坂は彼の上人の赤熊を組伏せ給ひし所なれば。此岩を。 上人岩となん申と。語り伝ふべし。是は子供の戯れ言なれども。深山の奥にはかゝる事もある物なり。蝦夷に辨慶が旧跡の残るも。此類なるべし。和漢雑笈やらんに。出羽の秋田に。 蘇武屋敷といふ所あり。むかし漢の世に。蘇武。匈奴へ。使に行しを。俘となし。北海へ移し。羝羊が子をうまば。返さんといひし所なりといふ。此は秋田城下より一日路ほど北の方。 牡鹿島の内にあり。此島の図を見しに。実に蘇武が社あり。おもふに是も曾武平などといひし名高き人の旧跡なるべし。蘇武が北海上に移されしといふは。山丹唐太辺にてもあらんか。 秋田は程隔りてよしなし。扠孔融が魏の曹操へ。丁零がムスコヒヤの先祖なる国の名なり。蘇武が牛羊を盗み奪ひしといひしは。蘇武。山丹辺に住し故か。 一時の作り言なるべければ。今正すべき様なし。其丁零が盗みせし所を。秋田辺の事としては。千里の謬りにて。露ばかりも叶はず近来北辺の事をしり顔にいふ人あれど。大方おしあてなり。 知る人はいはず。いふ人はしらず。

以下頭註を掲ぐ。
又倭国と倭奴国と別也倭奴国は一小島の名也といふも。うけられず此はこゝに用なければ別に論ずべし。
養老四年に渡島津軽の諸君鞍男を靺鞨へ遣はされしを。今の様に。ソウヤの渡海して行しと思ふは。わろし。然しこの道すぢは。いかにも今知がたし。
せくらへするほど也。すべて花は六月中にみなみな開くとぞ。
むかし奥羽の間に住しを熟蝦夷といひ松前辺成を生蝦夷といひし様におもはる其例にて生丹熟丹と唐人のいひしをきゝおぼへて生丹といひしか。 生はサンの音也。中古日本へ朝貢せし渤海は朝鮮の地続きにて文華もありしが契丹に降りしより東丹と改名して延長四年より朝貢絶たり。
和銅三年やらんに此尾張人をも蝦夷の防きに出羽へ遣はされし事ありしといふ
義経は泰衡如き凡人にうたれ玉ふ人にはあらず又此主の首を鎌倉にて実検せしは六月の事にて奥州より来りし其間四十五六日も経たりさすればいかで実の首なる事しらるべきといふ也。
或人云。出羽は。越後の様に臭草水の多き国なり。こゝもくそうづの水そぶのうく池あるから。そぶ屋敷といひしを。蘇武に附会せしならんかともいへり。
北狄はとかく古来より海賊強盗する悪風俗と見えたり。

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坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp