| | 因に云。此頼時が蝦夷へ行しも。実説にして。又義経の渡り給ひしといふも。偽ならずは。義経。秀衡が許に居給ひし日。
此頼時が事聞及ばれしから。泰衡が襲ひし時。忠臣どもの防矢して。討死せし間に。忠衡なンどが落し参らせしにもあらむか。
此事を今蝦夷地案内の人に尋るに証とすべき事三ッならではなし。其一ッは。彼ヲキクルミの事なり。
又一ッは。蝦夷どもに義経の事を語り聞かすれば。かならず皆涙流せど。外の名将達の物語リになりては。
さる事なし。又一ッはヱトロフ島に。ヱトロフワタラといふ石有。島の名も是より出て。ワタラは。岩てふ事。ヱトロハ。
剱鼻てふ事。フは。緒てふ事。此岩の形。剱鼻に似たるよりの名なりと。或人はいひ。又たゞ物の首てふ事なりといふ人もあり。異訳は有ものなり扨此島の蝦夷どものいひ伝るには。
昔此へ奇異なる人ふたり来給ひ。剱を此岩にかけ給ひしから。此名残れりといふとぞ。此二人。一人は義経。今一人は辨慶ならんと。人も我も此事聞くと。直さま思ひ付事なり。人心のさとりは。
あやしきものぞ。此二人が誠に義経辨慶ならば。ヱトロフ迄至り給ひ。是より東北は無人島なるから。北べりをつたひ。西の方唐太へ渡り給ひしならん。此路は舟とも陸ともいひがたし。
此義経の事。唐土の書にあまた載たるよし金史別本。図書集成ノ序等。いふ人あれど。皆偽造事なりときく。又ある書に。寛永年間越前の船。韃靼の地方へ漂流し。彼地にて此主の像祭るを見たるよししるせれど。
是又何等の像を見まがへたるかも知れず。おのれ今かゝる取とめなき夢物語をくだくだしういふも。此主かしこへ渡り。今の清朝の王は。
義経の子孫なりといふ事を。年来実説になし度おもひ居る心願の余りなり。琉球の舜天王は。日本天皇の後裔。朝公の子なりといふ様にして見ば。豈ニ快事ならずや。又蝦夷の中に。
義経辨慶の旧跡なる所まゝあるにより。実に渡り給ひしやうに。論ずる人あれど。是又考へのたらぬ也。これは此二君の武勇を。蝦夷ども聞キ伝へ。浦山しがり。己か名に付しが。
其者死して後。其跡を後人の判官屋敷。辨慶水などゝ呼べるなるべし。武蔵の国墨田川の辺なる成平といふ相撲人の旧跡を。
在中将と取違へて。物知り人の歌にも詩にも詠ぜんは。いとはかなしや。今子共咄に。信濃の国へ行通ふ人。ある山家にて。御子達の名は。何とか申すと問ひしに。
兄は十五。弟は十三になれど。いまだ名は付ケ侍らずといふ。さらば。名付ケ親にならんと。兄を頼朝。弟を義経と名乗らせたるを。
親共悦び。今妻が腹に。壱人もふけて候。やがて産れなば。たのみ参らすよし約束し。其後行て問へば。余り久しう御出なかりしから。先かりに付置たり。其名は法然上人といふよしなり。
此法然上人生長の後。暴者の名をとりなば。後の人。此坂は彼の上人の赤熊を組ミ伏せ給ひし所なれば。此岩を。
上人岩となん申と。語り伝ふべし。是は子供の戯れ言なれども。深山の奥にはかゝる事もある物なり。蝦夷に辨慶が旧跡の残るも。此類なるべし。和漢雑笈やらんに。出羽の秋田に。
蘇武屋敷といふ所あり。むかし漢の世に。蘇武。匈奴へ。使に行しを。俘となし。北海へ移し。羝羊が子をうまば。返さんといひし所なりといふ。此は秋田城下より一日路ほど北の方。
牡鹿島の内にあり。此島の図を見しに。実に蘇武が社あり。おもふに是も曾武平などといひし名高き人の旧跡なるべし。蘇武が北海上に移されしといふは。山丹唐太辺にてもあらんか。
秋田は程隔りてよしなし。扠孔融が魏の曹操へ。丁零がムスコヒヤの先祖なる国の名なり。蘇武が牛羊を盗み奪ひしといひしは。蘇武。山丹辺に住し故か。
一時の作り言なるべければ。今正すべき様なし。其丁零が盗みせし所を。秋田辺の事としては。千里の謬りにて。露ばかりも叶はず近来北辺の事をしり顔にいふ人あれど。大方おしあてなり。
知る人はいはず。いふ人はしらず。 |