関東血気物語
《関東血気物語巻之四》

   夢市郎兵衛が事
爰に夢の市郎兵衛と云者有。此者江戸ニ而男達テの一チ二といふ。吉原いまだ江戸ニ有し比。其時御籏本ニ美濃部権兵衛と申人。 女郎の買論より喧嘩と成。相手をしとめ腹切ッて相果られ。此騒動大方ならず。此喧嘩聞とひとしく市郎兵衛欠付しが。 大門をうちければ。大声にて夢の市郎兵衛が来りしぞ。門を開けと高声ニ云ければ。門を開き内へ入。 市郎兵衛双方へ埒をつけ。かゝる大騒動を只壱人ニ而相済しける。是より昼計客可致と被仰渡。後日くれより不残客をかへすべしと有。 其節の落首ニ。
 鶏もなし七ッ下リのきぬきぬハ
   うらみぞつきじ美濃部権兵衛
其後町方福祐の者共集り。日々碁を打チ慰みける。爰に浮世小路ニ舜明院と云山伏有しが。是も碁会所へ来り。 力量有ニまかせ。我儘を云くせもの有。ふだん朱ざやの太刀作りの大脇差をさし会所へ来ル。亭主を始め皆々心ニハにくみゐ候へ共。 彼朱ざやニおそれ。夫レ成けりに致し置ば。弥勝ニのり我儘のみ致しける。市郎兵衛へ心安き人。此山伏のことかたりければ。 市郎兵衛事のやうを聞。おかしき事。山伏ニ各恐れ給ふか。何れものじやまを退ケて参らせんと。 或時碁会所へ市郎兵衛同道ニ而参時。暫く有て彼朱鞘山伏来り。打かゝりし碁をみて。此碁ハ何れいかゞの碁ぞと問。打かゝりし両人打わけニ致し候間。 爰が勝負也と答。舜明院聞て然ば此碁ハ我等貰申候間。貴殿方明日勝負付ケ給へ。昨日の我等が勝負の碁を打チ申さんと打かゝりしを碁をつき候し。 市郎兵衛を見て勢ひをとらんとや思ひけん。件の碁盤を左りの手ニて角の方をそろそろと持直し置。人々あきれて見る処ニ。 市郎兵衛。是山伏。我等が勝負望て打せし碁を崩す不礼也。碁盤を元トのよふニ直せと云。舜明院聞て。 扨々不敵成者哉。舜明院様をしらぬか。不動の利剱をふるまわんと。朱鞘の脇差を抜く処を。市郎兵衛。 子供をあいするごとく。山伏ハいたづら者也。此脇差ハおれニかせ。何ぞつくるニよからんと引ッたくり。 己ハ定而昨日碁に負たるならん。夫故の不礼と。おれハゆるしかへらす間。宿へ帰りとくと思案して。 誰ぞ頼て我等所へ貰ひニよこすべし。今無念ニ思ひかゝるがさいご。くびがぬける心得よと。山伏をかひつかんで塀より外へなげ出し。 さわらぬ体にて居たりける。皆々きもをつぶし。恐敷も有。小きみわるく。明日来らば如何せんと。つぶやき居ル。 市郎兵衛いふ様。山伏め。重て我儘云まじと。暮迄酒呑て帰りける。舜明院ハ無念ニ思ひ。翌朝市郎兵衛が朝湯ニ入帰る処を待請ケ。 市郎兵衛やらぬといふ。市郎兵衛ふりかへり。うぬめとにらむ。其形成ニ山伏威をのまれひれ伏して起ず。 市郎兵衛其儘ニして帰る。其夜人を頼み。市郎兵衛ニ色々詫びして脇差を貰イかへしけり。其後ニ禁裡御角力有しが。 丸山仁太夫と明石志賀之助と大関に定たり。仁太夫ハ諸人に勝れし大力にて其形大兵也。三尺の間へすぐニ入られず。 横ニそむけて入る。志賀之助江戸一番の手取。天晴名人と云ふらす。今度ハ東西名誉の角力。日本一の勝負と有て。 禁中の御角力御遊の興行。国々へもひゞき渡り夥敷評判也。時ニ志賀之助。夢の市郎兵衛方へ参り頼みけるハ。 此度の角力。日本一の晴勝負。我一ッ世の大事此度也。貴殿何卒同道して玉ハらば誠ニ心の力也。何卒上京の由頼入けり。 元より男気随一の市郎兵衛相心得たりと請合。夫より市郎兵衛同道にて上京す。扨日限を定メ角力相はじまる。 偖丸山明石と取結んと立向ふ。市郎兵衛。志賀之助ニ打向ひ。負てハ二度江戸へ帰られじ。かくごせよ。 我も又同前ぞかし。勝たらば珍重。是ニ不可過。又市郎兵衛が腹の切りよふ見すべしと申渡す。斯て角力立合取結。 市郎兵衛ハひぢをはり。はをかみしめ。かたずを呑んでひかへ居る。双方やッといふ声と供ニ。仁太夫。志賀之助を引請。 指上ゲ投出す。あわやと思ふニ明石中ウにてかへると見るうち。丸山仁太夫。山の崩れしごとくたをれたり。 堂上堂下一同ニ天晴取ッたり。したりやしたりや明石明石といふ声暫くなりハ止マざりけり。則難有も日本相撲之開山明石志賀之助と薄墨の綸旨頂戴仕。 古今ニ名を揚ゲ退出す。扨江戸表へ帰るニ。丸山方の者共意趣を含むとしれければ。市郎兵衛申様。勝ッて甲の緒をしむるとハこゝ也。 我にまかせと。志賀之助をひそかに京都を立せ。市郎兵衛跡ニ残り。扨方々へ志賀之助。明朝江戸発足致し候と触て。羽折ニ日下開山明石志賀之助と紋所を縫せ。 夫レを著し。深編笠をかぶりゆふゆふと江戸表へ帰りけり。後年鮫茂兵衛と改名す。見入るとやらぬと云心なりとぞ。 老年ニ及び。相州田村へ引こみ道心致しける。兄放レ駒四郎兵衛相果たりと聞とひとしく。今ハ浮世ニ思ひ置く事なしと。 食事を止メて仏前ニ向ひ相果ける。誠ニ強勇成ものなり。
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坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp