開巻驚奇侠客伝
《開巻驚奇侠客伝第壱集巻之五》

   第九回郷士二たび癲病人に遇ふ
光棍初て旧悪を懺悔す
(中略)
却説野上著演は。軈て宿所に還着て。且従者を休はせ。猛可に奴婢們に吩咐て。目四郎を玄関の。 次の室に召陟さして。早飯を啖しなどする程に。その身は奥に退きて。頃之して又出て来つ。 却目四郎に対ひていふやう。嚮に汝に諮ぬべき。事ありといひしは別義にあらず。きのふ汝が倒れし折。 俺従者に介抱さして。薬を飲せんとしてけるに。歯を噬締て受ざりければ。刀に挿たる銅笄をもて。聊口を開かしたる。 縡に紛れて取遺せし歟。ゆくべき所へゆき果。刀を見るに銅笄なかりき。抑件の銅笄は。俺親の遺愛にて。 家の紋を附られたれば。最惜とのみ思ふにより。今朝は未明に立出て。花水橋を徘徊しつゝ。汝に遭ひしも這所以也。 那折汝は跡に残りて。なほ在りければ俺が銅笄を。拾ひしことのなからずや。然る事あらば返せかし。といはれて目四郎些も騒がず。 源宣はするごとく。那銅笄は俺手にあり。そは拾ひしにあらずして。詭計よりて窃みし也。恁のみいはゞ憎みても。 悪み飽なく思はれん。今は何をか慝むべき。在下は君の仇也。きのふまでは不測の罪に。陥んと謨りしかども。 その人を見つその言を。聞ては高名虚しからぬ。大徳仁義の長者に恥て。稍悪念を転し。その大阨を告ばや。 と思ふものから今さらに。せん術もなき難義あり。これらの情由は一朝に。説果べきもあらざるに。這里はなほ端近也。 乾浄れたる所にて。意中を尽しまうさん歟。といふに著演頷きて。爾らば俺と共侶に。這方へ来よ。と先に立て。 庭を隔し離舎へ。伴ひて坐を占れば。目四郎障子を引闔て。衣領の間に隠したる。那銅笄を取出しつゝ。 膝を找め声を低めて。這銅笄を窃みしにも。深き意味あることなるを。そは次々にまうすべし。願ふは収め給へかし。 といひつゝ返すを著演は。徐に取て得と見て。故のごとくに刀を挿て。却目四郎が告んといひし。よしを甚麼と訊れば。 目四郎思はず嗟嘆して。且俺うへより告まうさずば。こゝろ得がたく思されん。言長くとも聞給へ。在下原は仮名川なる。 客店肝八と喚れしものゝ。独子で候ひき。この故に世の人の。今に至て在下を。客店の目四と喚做したり。 年十五六なりし比より。這身の悪心稍萌して。良らぬ友に引入られ。賭博に耽り遊女に惑ひて。親の東西を喪ふこと。 幾番といふ限りもなければ。勘当せられて一稔あまり。賭鈔友人を親品に。頼て其処に寓りてをり。父の他行を覘ふて。 母を賺して銭を借り。衣をも借りて皆賭博に。失ひしこともしばしばなりしを。竟には父に暁得られて。緊しく母を箴めけん。 後には母も中垣を。樹てつやつやよせ着ざれば。日来の悪心弥増して。窃むに不如。と尋思をしつゝ。 二親の外に出て。守者稀なる折を張ひ。背門より潜び入る程に。客房に逗留の。旅人とおぼしきが。夫婦と見えて二人をり。 男子はいたく病ひて。何事やらんうち譚ふを。心ともなく窃聞せしに。その比底倉にて撃れたる。 脇屋少将義隆の家臣にて。他們が子也とて携来つる。小六とかいふ総角は。主の義隆が子なりしよしを。 この時具に聞得たり。恁而件の病人は。なほ諄々と遺言して。袱に包たる。短刀と巻軸などを。両三種妻に示して。 われ死なば小六殿に。倶して藤沢に赴けかし。那郷に隠れもなき。野上史著演は。わが少かりし時義を結びたる。 異姓の兄弟なるをもて。左も右もして養れん。この余の事は恁々。といふ声細りて苦しげに。写め措たる一封の。 手簡を取出て逓与せしかば。妻は頻りにうち泣て。口説立たる哀傷悲歎を。窃聞く随に気のみ滅入りて。 窃心も且くは。耗て忙然たりし折。外面に人の足音して。かへり来ぬるは俺親也。看着られじと思ふにぞ。 東西も得とらずそが儘に。鈍くも逃て親品の。宿に還りし本意なさに。那旅客がいひつる事を。左さま右さま思惟るに。 巻軸は脇屋の系図。又短刀は菊一文字。と名づけたる重宝也。又一種は何にかありけん。そは袱に掩れて。 見えざりければ知るよしなけれど。巻軸と短刀は。新田の余類の証据也。那落人們を鎌倉へ。訴稟さば手も濡さで。 許多の賞銭を賜るべし。しかはあれども俺親の。宿せし只今訴ては。わが親も亦落人を。留措きたる祟を受ん。 然では外聞妙ならず。且藤沢へ遣して。爾後訴まうすべし。と尋思をしつゝ日を過して。縡の便宜を覘ひしに。 那病人は館大六英直と喚れしものにて。幾程もなく身まかりければ。そが妻の母屋とやらんが。小六と倶に柩を戍りて。 大人を憑みて這郷へ。来にける縡の趣も。又英直の柩をば。遊行寺へとて丁寧に。葬り給ひし為体の。 遺もなく聞えしかば。この時にこそものせん。と思ふ心を親品に。告て窃に相譚ひしに。親品聞て従はず。 和主はよくも思はずや。俺們は博徒でも。人に侠者といはるゝを。這身の栄にすべかるに。些の賞銭を求んとて。 海道一の侠者なる。野上の翁を其落人們と。斉一罪なひ害なはゞ。世の豪侠に疎るべし。然とも和主は賞銭の慾しさに。 訴んとならば禁めはせねど。けふより夥計を除く也。乾父乾児の好みを離れて。六郷以西。貌姑峰より。東で飯は啖せぬぞ。 後悔すな。と窘られて。その義を思ひ留りにき。這親品は台町にて。猪三太と喚れたる。豪傑で候ひしに。 惜むべし年来の。強飲に親肝八は。その次の年の夏五月。時疫に犯されて。病こと纔に一旬あまり。医師も半分手伝ひけん。 只掌を返すが如く。劇しうなりて世を去りけり。その病中に里人們の。俺二親に勘当の。賠話して這身を召かへされ。 親の経営せし活業を。嗣て主人になりたれども。持崩せし身をそが儘に。浮たる心を改めねば。僅に二稔ばかりの程に。 宅をも庫をも沽却して。裏家住ひのそが中にて。母親も亦身まかりけり。その初七日に藻潮草。掻集めても数多からぬ。 家材を遺なく敗鉄経紀に。售たる銭は月来の。房銭の債に屋主に。推留られて。勘定の。合ぬ字号の質牌を。 借屋の柱に置土産。残るは四十七文の。仮名川を立退きしより。鎌倉金沢。いへばさら也。大磯小田原貌姑峰の湯本。 這里に半年。那里に三月。同気同病相憐む。友をよるべに生活もせず。闘鈔に浮世を亘ること。五六稔になりにけり。 恁而今茲は相模なる。底倉人に身を寓せて。両月あまりをる程に。いぬる日闘鈔に利を失ひて。債を贖ふ術なさに。 窃心の復起りて。その進退を考しに。折から相模の眼代なる。藤白隼人正安同主は。湯治の暇を賜りて。底倉の浴室にをり。 をさをさ民の膏腴を絞りて。富るに任せし酒宴遊興。采邑なれば由断多かり。いかで那里に潜入らば。宝の山猟。 造化も。宜しからん。と計校たる。准備をしつゝ夜に紛れて。件の旅館に潜近づき。垣を踰窓より入りて。 安同主の臥房に赴き。却彼此と掻撈るに。窃偸に熟ざる悲しさは。思はずも度を喪ひて。傍へ臥たる嬖妾の。 足をしたゝかに踏しかば。忽地覚て吐嗟と叫びし。声に驚く安同主。偸児入りぬ。と呼りて。岸破と起て引組だり。 遮莫在下も。小膂力あり。相撲も聊嗜みしかば。左右なく組も伏られず。且く挑争ふ程に。駭覚たる近習の侍。 紙燭を秉つゝ両三名。はや次の間より走り来て。主を援けて在下を。撃倒し圧累りて。矢庭に縄をかけられたり。 恁て柴薪場に繋れて。戍卒二名側を去らず。左右する程に天の明しかば。今ははや斬られぬらん。と思へば生たる心地せず。 後悔の外なかりしに。果して庭に牽出されて。命俟間の厨下の豕。烹るゝおもひなべて世の。憂を今俺身ひとつに。摘て疼痛ぞ知られける。

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○開巻驚奇侠客伝第六集五巻右同著近刻嗣出
  本集は第五十一回より第六十回に至りてすべて小六が事を叙られたり。始は伊勢の垣内にて小六が偽似の猜忌を被りし事を説出し。 中ごろは安濃津の伎院にて二人の侠者名妓を争ひて角力を試みし事を挙。終には初集に見えたる新田貞方朝臣主従の行方の事。 且楠廷尉正勝主の事までをあらはして奇話珍説五集に倍せり。さて七集にいたりて小六姑摩姫出会のはしを開かれたる草稿既に成たれば追つぎて出板すべし。 看官ますます高評を賜ふべし。

第六集…出板されず中絶。
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坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp