閑田耕筆
《閑田耕筆巻之四》事部

相撲の赤裸になることは。後世の弊風成べしと思ひしに。古き絵巻物の相撲の図をみれば。 皆赤裸なり。是に附て。又玉串正視生のかうがへを得たれば。左に掲ぐ。西宮記内取条註曰。玉串氏の按。 今俗地取と云もの也。左は左と手合し。右は右と手合す。左相撲。犢鼻上着狩衣。経陣向幕。右犢鼻上着狩衣袴入幕。 近代不分別。又江家次第内取条云。左相撲人参入。犢鼻褌上着狩衣。差紐挿狩衣前。中略。右相撲。 犢鼻褌上着狩衣。開紐。以狩衣前相違夾之。裏書云。延久三年江記云。次相撲人三十人。次第行列。其装束烏帽狩衣犢鼻褌也。差紐。 狩衣上着帯。不着下衣袴。徒跣。或人曰。大内時左相撲如此。是依渡陣座前也。右相撲依不渡陣前。開紐。狩衣前不加帯。 左右引違夾之。今仗座在右方。若左方可用右体歟。然而依為年来例不改也。蒿蹊云。或は袴を着。或は不着。 或は紐をさし。或は紐を開。帯を加はふるとくはへざるとの差別はあれども。畢竟は裸体に狩衣をつけて参るなり。 手合はせするときは。狩衣をもぬぐべし。玉串生又按。栄花物語根合巻。相撲の条。はだかなる姿どものなみたちたるぞ。 うとましかりけると見ゆ。古今著聞集には。烏帽子。水干。袴ながら。重忠の相撲とりしこと見ゆれども。是はとみのことにて。 取あへぬさまなるべし。只いづれの御前にても。裸にてとる成べしといへるは。実しかるべし。さてまたこれにつきて。 すまひのいにしへのさま及び。此生のかうがへ等。ちなみに左に挙ぐ。
西宮記召合条註。左着花。右着匏花。取剱衣等出。裏書云。天暦七年七月二十八日。於仁寿殿前有内取事。 中略。次相撲人三十人立庭中。西面有天気。上卿仰云。北。 次仰云罷入。列而入畢。次始自白丁一々取畢。十五番。玉串氏按。北山抄に拠るに。 北向の上に東爾向介。次仰云の七字あるべき歟。此時最手額田成連。与腋宇治郡利里。決勝負。成連負畢。吏部王記。 応和二年八月十六日。有相撲事。次相撲。着犢鼻巾葵花瓠花。北山抄内取条云。相撲人進出列立御前。 大将候天気。仰東向。次仰北向。次仰罷入。次相撲。江家次第云。相撲人等次第進出列立於庭中。傍書曰。 自上臈出。大将候天気。仰云。東。次仰云。 北傍書云。以上依御所之体可改詞。 或有先南向。次東向之所。次仰云。罷入一本禰作礼。次相撲。 傍書云。近例自上始。一番。最手与助手取。若有腋共可決之者。 最手独練退入畢。下略。玉串氏云。御前へ出東へ向。北へ向などの様子。今いふ土俵入リに似たり。裏書云。 十五番。左右各十五番也。故相撲人左右各可為三十人也。助手又云脇也。最手腋手皆近衛府各補也。相撲人者皆近衛之類也。 召合条云。取円座置幕前二許丈。一枚置剱衣料。次一番。左先出着葵華。取剱衣。置北円座。 進立桜樹下。次右出。着瓠華。次次番。裏書云。葵瓠華造花也。一番。右詐負。 事長暦元年以後例云々。蒿蹊按。加茂競馬。又凡歌合一番左は必不負。若不勝もまた持とすること歌合の例なり。 玉串氏云。最手の名目。三代実録四十九。又うつぼ物語俊蔭巻にも見ゆ。今いふ関なり。腋手助手も推当れば。 腋手は関脇。助手は小結なるべし。又相撲の長とは。今の頭取ならん。立合とは今の行事なり。弓を以て指図をなす。 又結番文といふは。今の番付なり。又算刺といふことあり。勝負の数をとるなり。円座を敷て先矢一筋を立て。 それより勝負に従ひて。矢をたつ。其体は鳥羽僧正の画巻物に見ゆ。此巻物。相撲のことを考ふるによしあり。 又犢鼻の皆様。職人尽歌合相撲人の像及び光長が地獄の図の羅刹の褌。仏鬼軍の巻物。 或は千本閻魔堂の粉壁の地獄の図の羅刹の褌を以て合せ考ふべし。又玉串氏云。関といふ名目は。 近世室町殿物語といふものに。秀次公相撲を見給ふ条に。こゝに西岡の住人につきうすといふ相撲あり。 かくれなきすまふとは申せども。さるべき相手なきによりて。よひより一番もとらざりければ。人々出て関をとれとぞすゝめける。 行事きゝていそぎいでられ候へ。遅参は御前へおほそれありと申さるれば。是非なく出にけり。下略。此詞をもてみれば。 今世のごとく定たるものとは見えず。終に取をば関といふみや。蒿蹊云。前の記録に。近例上より始むとも。 或は白丁より一々取とも見えて。一定の義なし。秀次公の比は。今世のごとく終りにとるは上手なるべければ。 相撲人の中にて。首たるものを称して。関といへるなるべし。古に引合すれば最手に当るなり。又云。此次に此つきうすが体をいふに。 白布を三重にまはして。いかにもつよくしめたりける。さて岩根の介は云々。あかねの下帯二重にまはして。 大手をひろげつい立けると有をもてみれば。昔はさしも晴の義に。白布。茜布などにて。質朴の義なり。 今織物。繍物の美をつくすは奢侈の至なりと。蒿蹊云。むかしの風流は。右に出たる作り花をさしはさむごときものなり。 今世は唯奢侈をもて風流とす。凡の事皆かくの如し。可嘆。さて相撲の絵巻物。おのが見しうつしには。 藤原基光土佐家の祖。息男阿闍梨。巨瀬公持或公望と書は非なりとぞ。 金岡の孫金忠の子とかや。等画所と記せり。さるに同図を田中訥言生もてるは。土佐光吉光信の孫。 光茂の二男。剃髪久翌と云。粉本のうつしなりといふ。光吉は慶長のころの人なれば。彼古本をもて画ける成べし。 今田中氏の縮図をこゝに挙。また此図によりて。頭を半剃ことも。古きならひなりといふことをさとりぬ。 或は太平記大塔の宮の熊野落の所に。村上彦四郎あらあつやと頭巾をとりて。まことの山伏ならぬをしらせける所にて。 其前よりの事かといひ。又なほ古き証は。撰集抄に月代の跡あざやかなりと見えたり。などいへども。此すまひの図は。 其撰集抄よりも時代のぼりて古きものとみゆれば。其はじめはしらねど。いかさまにも縉神家ならぬ人は。久しきならはしなりし。
  因いふ。近江草津近邑人。産土神の神事をさうもくと称ふ。それはいかに。何わざをかするととへば。 神前にてすまふとるなりといふ。さらば相撲の字を呉音に唱へ。やがて神事の称とさへならひし成べし。他所にては聞ぬことにて。 中古の唱への残れるならんと。殊勝におぼゆ。

挿図七葉あるなり。今之略。
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坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp