閑度雑談
《閑度雑談中巻》
○長門の国の鬼丸といふ角力とり。江戸より都にのぼる道にて。ひとりの座頭にゆきつれしに。若干の金をかくし持たるをしり。
あはれこの座頭をすかして金をうばゝんと。邪なる心起り。いろいろたくみしかど。坐頭が金を守る心怠りなきによりて。よき便りをえず。
されど慾心いよいよさかんにして。いまはこの者をころし。金をとらんと大悪心を生じ。ひまをうかゞふに。けふもくれ。
あすもまたうちつれてゆくほどに。鈴鹿山にいたりつゝ。日すでに傾き。行かふ人やゝたえたり。鬼丸いまぞ其時なりと。
坐頭をかたへなる木だちのかげに引いれ。一刀にと切つくる。坐頭たふれながら急にさけび。まづまてよ。いふ事ありととゞめていへるは。
われそことはもとより深き仇にあらず。しかるに殺害せらるゝは。金をうばゝんためなるべし。今はのがるべきやうなければ。いさぎよく死して金をそこにあたふべし。
われ生ては盲目となり。死もまたかくあさまし。されば冥途もさこそ苦悩ふかゝらんと。かなしくおそろしけれ。こゝにたふとき二句の経文あり。
そこに授け申べし。わが追福のために夜ひるとなく。思ひ出給ふごとに高声にとなへてたべよ。其功徳によりて必悪業消滅し極楽に生るべし。
さあらば。そこを恩人とこそおもふべけれ。いかでうらみ申事あらん。そこもまた我へ報謝の道なるべければ。うけひき給へかしと。
くるしき声涙とゝもにいひけるにぞ。鬼丸もさすが心にはぢいたみ。われ今さら悔みぬれどせんすべなし。せめては遺托の事はいさゝか怠りなくつとむべし。
いそぎ其文をさづけられよといふ。坐頭よろこび。その文は。れいろくさんのたうじんは。ちやうもんのきぐわん。これなり。
よく記憶あれといひ終り。息たえぬ。鬼丸急に金をとりて懐にし。はしり出て都にのぼり。しるべの方に留まりぬ。かゝる悪人なれど。
座頭のうらみん事おそろしとや思ひけん。遺言をかたく守り。日夜いくたびとなく思ひ出るごとに。かのれいろくさんの文をとなへけるを。
きく人何事やらんとあやしみ。また友とし交るもの。其故をとふあれば。これはとふとき経文なり。ある人にさづかりしをとなふるなりとこたへ。
なを高声にとなふ。かくて日をへしに。此事官にきこへけるに。官の長。心さとくてひそかに鬼丸が名をきかしめらるゝに。
長門の鬼丸といふ角力人なりときゝ。さらば其者とらへ来れとて。やがて鬼丸をからめ来る。官長召見ていへらく。数日以前。鈴鹿山にて瞽者をころせしものあり。
これ汝なるをしる。速かに自首すべしと。鬼丸こたへて。いな。われ人をころしたる事なし。人たがへなるべしといふ。官長大に怒り叱して。われすでに汝が口より鈴鹿山の盗はわれなりと。
日夜となくしばしば訴ふるをきく。然るにいま俄に言葉をかへ。いつはるは何ぞや。汝つねにいふれいろくさんとは。鈴鹿山なり。たうじんは盗人。
ちやうもんのきぐわんとは。長門の鬼丸といふ文字なり。おもふに。かの瞽者は智あるものにて。何時が一丁字をもしらずして。愚蒙なるをしるによりて。
害せらるゝに臨んで。盗賊は汝なる事を早くあらはししらしめんため。経文なりといつはり。かの二句を汝がさとらざるやう。音読にてさづけ。
我とわが口より其罪をふれさせたるものなり。さあらずとも。天誅のがるゝ所なく。ほどなくあらはるべきに。
瞽者はかられ。かくあるこそ。かれ死たる身をもて。よく其仇を復し。みづから怨魂を慰するものなりといふべけれ。
速に白状し。その罪にふくすべしと。厳然たることばに。鬼丸その明智に驚きふくし。地上に伏して。瞽者を殺し。金をうばひ。
及其遺托を受し事どものこらず申のべ。白状にのせしかば。ほどなく死刑に処せられけり。此事は余が幼とき母のはなしに聞て。
いと面白き事に思ひしに。年へて後。母ののたまひしは。われも幼きときこの話を聞て。面白かりき。おもふに。もと舌切雀などのごとく。
懲悪の意をふくみて。子ども教訓の端ともなり。またなぐさめともなれかしとてつくり出せしものなるべしと。さとしたまへり。
《閑度雑談中巻》 →
記録・随筆・紀行に戻る
坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp