傍廂
《傍廂前篇巻之三》

   ○御位争
惟喬親王と清和天皇御諱惟仁と御位争ひに。紀名虎と伴善雄と相撲の勝負にて定め給ひしよしいへるは。 とらへ所もなきいつはりなり。惟喬親王は承和十一年御誕生にて。同十四年紀名虎卒去せり。夫より三年を経て。 嘉祥三年の四月。清和天皇御誕生。同年十一月立坊ありて。皇太子になり給ひ。八年を経て。天安二年に文徳天皇崩御し給ひ。 直に清和天皇御即位なれば。争ひ給ふ程の間はなかりしなり。其後貞観八年に伴善雄罪ありて。伊豆島へ流罪なり。 是相撲に勝ちたるは偽なる証なり。惟喬親王は貞観十四年に病によりて。出家沙門となり給ひ。寛平九年に薨じ給へり。 御史をしらずして。石清水にて十番の競馬の事。大内にて名虎と善雄が角力の事。又東大寺に紀僧正真済と。 延暦寺にて恵亮和尚と精力を尽して。大威徳と降三世との行力くらべなどつくりそへたるなり。

「傍廂糾繆」曰く「惟喬親王と清和天皇と出典有べし」と。

《傍廂後篇巻之中》

   ○蛙 掛
角力の術に河津掛といふを。相撲紀原に云く。この手は上古よりありて。蛙掛といひしを。俣野河津相撲のときに。 河津は不双の大力にて。俣野を片手にて指揚ゝる時に。俣野が河津にかけし故に。混じて河津が掛し由に誤り伝へたるなり云々。 とあるは誤なり。安元二年奥野の狩のかへるさ。柏峠にて酒宴の時に。若殿原相撲となりたる時に。祐安勝て景久が負けし事は。 三歳の小児もしる処なり。景久蛙掛せしや。そはとまかくまれ。後世四十八手としたる中に蛙掛あり。 相撲に勝べき為の手なるべし。まくべき為の手をかねて備へ置べきかは。蛙掛といふ名目は後にて。むかしの川津三郎に附会したるなり。 上古より有りし手にはあらず。相撲紀原にある図と。四十八手の伝書の図とこゝにあらはせり。

図あり。今略之。「勝つべきが負けとなる也」「負くべきが勝ちとなる也」「此図ハ蛙掛の手の伝書にあり かくてハ蛙がけが負となるにて此図の蛙掛ハ推量なり」とあり。

《傍廂後篇巻之中》

   ○大 男
むかし釈迦嶽雲右衛門といひし相撲は。身長七尺八寸ありしよし。我幼き頃にて。つひに見ずやみたり。 その後親しく見しは。谷風梶之助源守胤といふ。陸奥宮城郡霞月村農民弥右衛門子。寛延三年八月八日出生。 幼名は与四郎といふ。十九歳にて力士となり。秀の山といひ。後に伊達が関と改め。廿七歳にて。谷風梶之助と改む。 寛政七年正月九日死。行年四十六歳。仙台東漸寺に葬る。法名釈谷響了風といふ。身長六尺三寸余。円七尺余。 四十五貫目あり。我かゝる大男を始めて見たり。終に横綱の免許あり。其文に曰く。
        免   許
 一横綱之事
  右は谷風梶之助依相撲之位。令授与畢。
  以来片屋入之節迄相用可申候依如件。
                     本朝相撲之司御行司
                         十九代孫
      寛政元酉十一年十九日            吉 田 追 風 花押
その頃。又小野川喜三郎といふ大力士あり。谷風に亜たる相撲人なり。一たび谷風に勝たる事ありて免許あり。其文曰。
        証   条
                     当時久留米公御家来
                         摂津大坂住人
                            小野川 喜三郎
  右者此度相撲力士故実門弟相加候依之証条如件。
      寛政二戌正月                吉 田 追 風 花押
その後。小野川も横綱免許ありしなり。
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坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp