嬉遊笑覧
《嬉遊笑覧巻之一下》容儀

○額を抜にさまざまあり。貞室が嘉多言に。そがうびたひといふは。十河殿といふ武家の人の頭つきよりいひ出たる事とぞ。無下に近き世の事也此書慶安三年の刻なりと有。 三好に与したる十河氏なるべし。此風女も学べり下の女けはひの処にいふ。安斎随筆。錦芥抄を引て云。 額を四角にせしは。越前の追手といふ相撲のせしを。みな学びてなり。昔ははながみひたひとて。丸らかに少し抜し也。 此説のごとくなるも。本は男達の風にならひし也といへり安斎は古風には額ぬく事なしとするより。かくいへり。 丸らかに抜は月代也。はなかみとは。物の端をはなといふ。かみは髪にや。又。みやびたるを花香実などいへる。それにや。 箕山が大鑑に。ひたひは大びたひに百会の穴迄取あげ。角を錐さきのごとくとがらせて抜上ること。六法むきの輩。是を用。 尤此道の一派にありといへども。多くは卑賤の所作也。小者中間これを専とすれば。彼に比せむは口惜かりぬべし。 されども額はひらき。かり高き方まさる。高く取すべしたるはいやし。ひきからずとみゆる程に有べし。 角は蛤角に取べし。猶額の至極は。おのれなりにきはだゝずして。鬢さきのみ。きしりと取廻したるを最上とす。 洞房語園に。男立深見十左衛門といふもの有。延宝年中浪花の宗因。江戸に来りし時。十左衛門其社中に入。 それが発句に。名月やきて見よがしの額際。といへり。額を広く抜あげたる故なり。その句の端書に。 上略治る御代の月はさえて。仲の大路は艶色の最中。前から見えぬひたひ際を来てみよがしのとうたふはたそ。 深見十左衛門と有は。其頃吉原にて小歌にうたひし也。此事侠客伝にも出たり。此男髭を生じたる故。 髭の十と異名をとれり。同書一麿が鯨の発句の端書にも。髭の達人は唐土に関羽。日本に朝比奈宗祇。 女郎買に無休あり。十あり云々。又。唐犬権兵衛といふ男立も。大びたひに名高く。唐犬びたひといふこと今にいひ伝ふ是彼百合の穴まで取あげといへるなるべし。 これは十左衛門などより前のこと也。一代男草子承応年中の事をいへる処。其頃世之助は江戸に来りて。 唐犬権兵衛がかくまへて有ける。あたま付。人にかはり云々あり大額を世人好みしとみえて。寛文二年寅七月町触に。 町人若き者大びたひ取候もの有之。自今已後。無用可仕事と有。唐犬が組のもの。享保年中も九十歳ばかりにて。ながらへゐしとぞ。 此等の男立の悪風俗。室町将軍の時より盛りなり。其頃異風の出立したり。半頭なども多し。これは若き武士にも有て。 古画にみゆ。常の奴あたまの中程に横に毛を剃残して。今俗これを障子といふ。その処まで剃て。後のかたをそらで置。 是半頭なり。又。半かう剃ともいふ猶相撲の条にいへり
(中略)
○いにしへ。おつがみといへるは。今立髪といふとひとし。古事談三。おつがみといふ程に。おひたる法師云々。 著聞集十七。かみおつがみなる法師一人ふしたりけりとみゆ。おつがみは。怕ろしき義にや。今もおぞ毛振ふなどいふ事有。 髪毛久しく剃らで。長う延たるをいふ。是おふし立るにはあらで。かくなりたる也。立髪は。ことさらにおふしたつるなれば。 これもはじめ故有て。久しくそらず。のびたるをもいふ。箕山が大鑑。月代は立髪を第一とす風流には第一と也。 然りといへども。世に勤むるものなどはなりがたき躰相なれば。是を用ゆる人すくなし。病気保養の内などいふより外の事なし。 相撲とりなどは。平生かくもあらむ。かれに類するもおこがまし。役者さへ作り立髪用ゆれば。とかく希々の事也かぶきものも。 かづらを用ふるとの事也。松の落葉手合相撲踊。してゝん立がみ。ちから自慢云々。諸艶大鑑。 立髪の小者に。べんがら島の風呂敷包もち添云々。此躰の草履取。むかしのはやりもの也。これを作り奴ともいふ。 東海道名所記。当世の作り奴に。はき替の草履もたせ云々。又。立派草り取などゝもいへり。丹前の余風也。此奴みな頬髭を作れり。

《嬉遊笑覧巻之二上》服飾

かるさんは義山後覚五。伏見にて比丘尼相撲の条に。島かるさんを着たりと有此文相撲の処に引り。これも蛮服にならひて作りたる物歟。 その名もしか覚し。鷹筑波集に。きてみればきもかるさむぞ藤ばかま此服にはあらねど。 新著聞集十七。卒爾之禍といふ条。かるたの札にかるさむといふもの我子供も持たり云々有。いかなるものに歟。 明和二年川柳点の句。かるさんで心中のぞく料理人など有て。すべてせわしき者はみなはきたるものなりしが。 今は廃れて髪結など得意の方に乞ひねだりて。かるさん作る料を集む。是をかるさん無尽といふ。今は名のみにて。 よの常のもゝ引を拵へてはく也。昔の絵草子どもにみゆる髪ゆひ皆かるさんをはきたり踏込も裾ぼそといひて下を細く作れ共かるさんのやうにはあらず。 いはゞ袴とかるさんの間なり。今も呉服屋の下男などこれを着たり。はつぴは下学集に。法被打敷と有林逸節用集に。 法被半臂と并び出。僧家の服とみゆ。今はつぴといふもの此字には有べからず。安部泰邦卿東行話説。荒井の渡りの条。 かごのもの皆大島のはつぴをなむ着たる云々有。水主などの着るかんばんをいふなるべし。今火消やしきの人足などが着るもの。 単衣の半截なれば半被といふにや。貞佐文集に。御能装束。法被半切長絹大口云々なども有。
(中略)
ふんどしは。ふもだしなりとぞ。万葉集十六。乞食者詠に。馬爾己曾布毛太志可久物云々。ふもだしはほだしと同言也。 和名抄。鞍馬具に。絆保太之とある是也。馬をとゞめ置具にて。其さま似たるよりいひ出しは賤き名也。 此服に手綱はだばかまたふさぎ等の名あり。手綱は春湊浪話に。犢鼻褌と同じ類なれども短き肌袴也といへるはいかゞあらむ。 八幡殿着鎧次第に。手綱と見え。又。曾我物語。相撲の処に。手綱二筋より合せなどあるは。強くしむべきものなれば平常の紐にはあらぬなるべし。 猶下にみゆ。和名抄に。褌。方言注云。袴而無跨謂之褌和名。須万之毛能。一云。知比佐岐毛乃とありて。 唐韻云。楊氏漢語抄云。子。毛乃之太乃太不佐岐。 一云。水子小褌也とみゆ。是を秋草に。毛は犢鼻褌也。はだばかまの下にかくたふさぎといふ事也云々。 はだばかまは褌也。犢鼻褌ともいふ。源平盛衰記に宇治川先陣の条。はだばかまをかきと有。褌は長短くして膝の辺迄至る袴なりといへり。 和名抄。褌は一条にして。其条下にも出たり。は褌のなをちいさきものにて。 必しも褌の下に子を着るにはあらじ今も其製種々あるがごとし。 されば毛とあるは広く袴のことをいふと聞ゆ。又。春湊浪話に。盛衰記に。難波六郎が布引の滝に入し時に紺のをせしと有。 字した帯と訓せし。いといぶかしき。後代に付たる訓にや。尤古き歌に井手の下帯。 又下の帯の道はかたかたなどよみて。下帯といふこと其名なきにはあらねど。是はたゞ常の帯の事也。 清輔奥義抄。うへしたに帯をばすれば下帯とはいふ也とみえたり。今の俗にいへる下帯といふことはふるく聞えずといへり。 按るに。和名抄。衿帯。陸詞云。衿和名。比岐於比。小帯也。釈名云。衿禁也。禁不得開散也とみゆ。 これ古へにいへる下帯にや。又。今小児のつけ紐を彦帯といふも此ひきおびの転なり。古事記。八千矛の神の御歌に。 比古豆比とあり。ツラヒは即ツリを延たる也。今世に引つると云なり。源氏若な上に。猫のつな長く付たる云々。 逃むとひこしろう程に云々。夕霧に。惜みかほにもひこしろひ給はねば云々みゆ。然れば今引しろふといふももとこれ也。 小児の彦帯は引帯なり。俳諧温故集。一漁の句。彦帯を母がひかへて柳哉。屠竜工随筆には。下帯は束帯衣冠の時。 下襲の切を細くくけて内衣にしむる也。又云。紐といふは袍の入紐。文筥の紐。笠紐。短くて二つあるものゝやうに聞え。 緒は玉の緒。大刀の緒。甲の緒など長くして一筋の物のやうに聞ゆる也。さて下紐は下帯にもあらず。 又。たふさぎふみとをしにもあらず。万葉第十一。旋頭歌の下に。狛錦紐片叙床落邇祁留明夜志将来得云者取置待。 これ今の童のつけひものやうに内衣に二つ縫付たり。それが片々落居たるともよみ。又。落たる紐を我ぬひ付むとよめれば。 付紐のやうになしたる物に極りたりといへり。
○新撰字鏡に。褌云々。口大袴。志太乃波加万と有。褌は跨なくて一口に作りたるをいひ。 犢鼻は褌に跨ありて二口に分れたるをいふ。
○たふさき。著聞集。坊門大納言忠信。交野の御狩に馬にのりて淀川に入。水れんのめでたかりし事をいふ条。 かやうの用意にや。かねてたふさぎをなむかゝれたりける。同書。畠山庄司次郎と長居と相撲の処。 それも立てたふさぎかきてねり出たりと有。相撲の古画にみえたるもの是なり。
○手綱。源平盛衰記。木曾義仲。院宣の御使に小袴。懸直垂。烏帽子に手綱うたせて出あひしこと。又。 藤九郎盛長。頼朝卿の御使にて滝口三郎利氏同四郎利宗がもとへ向ひし時。御使も憚からず烏帽子に手綱うたせて悪口せしこと有。 是を春湊浪話に。東武士のふつゞかなるも必かしらをあらはさず。烏帽子にかゆるに手綱をば打かけたる也といへり。 安斎これを非として云。烏帽子に手綱うたせてといふは。えぼしのかけ緒ゆるみてえぼしの動くをいふ也。 侍えぼしの躰を云なり。馬に手綱うたするといふは。手づなをゆるく持て馬の頭のうなづくにつれて手綱のゆるぐをいふ也。 えぼしのその如く動くを云たるにて。古の諺なるべしといへり。今按るに。二説ともに非なるべし。 古画をみるに。武士甲衣を着たるに烏帽子のうへに鉢巻をしたり引立えぼし也。 是を手綱うたせとはいふなるべし。侍えぼしにも鉢巻したる。職人尽の放下師などにみゆ。いづれも動きはたらく時の為なれば。 常にせぬ事故非礼なることゝ知らる。曾我物語。敵討の条。十郎は白き手綱を以て鉢にかきつゝ。白帷子の腋ふかくかいたる云々。 是上にいへると同じ事也。手綱もまたこの如く。ちから綱にすべき布をたふさぎに代て用ひたるにても有べし。 職人尽。舞まひなどが立えぼしの懸緒のさま。手綱かきたるやう也。又思ふに。和名抄の。知比佐岐毛乃。たふさぎと音通にて同音と思はるゝは。ひがことにやしらずかし。
○今のふんどし。見聞集に。愚老若き頃までは。はだの帯。麻布などにて四尺ほどに切。中より二つに割。わりたる方を腰へ廻し前にて結たりしが。 当世の下帯は替りたり。皆人ねりはぶたへなどのやはらかなる物を腰へ引まはし。片むすびになせり。 色好みの人達は。純子綸子あやしゆすなどのはゞひろものを二ひろ余りに切。腰へ二重に廻し後にて片むすびにとめ。 前へ長くさげ。海道あるくとては裾をかゝげ股尻を人にみする。下賤小者のたぐひ迄もすると見えたりといへり。 此老人若き頃とは天正年間也。今の下帯の製は慶長よりと知らる。これを思へば手づなも前にて結びたる物歟。 古き相撲の画。たふさぎみな前さがりといふものなし。此老人のいへる下帯やゝ似たり。曾我物語に。河津は俣野が前ほろをつかむでさしのけ云々あるも。 前の処ほろに似たればいふにて。今の前下りといふものにはあらず。又。二重廻りは。箕山が大鑑に。男をたしなむものは下帯二重廻りを用といへり。 相撲の古図に見えたるは一幅を割たるとは見えず。他の布を添て紐とし。後の方は布をりて結べり。 大よそ今の越中ふんどしに似て。それをうしろ前にしたらむやう也。古も相撲などに用るは。常の製と異なるべし。 次に云。今の越中ふんどしは古体なるを簡便に作りしものか。いづれの家より起りてさる名はあるにか。 みをつくし大坂の遊所細見。延宝年中木村や又次郎抱へ越中といへる大夫有。 ある時あげやにて我相方の客風呂へ入らむとせし時。下帯迄はづして入らむとせしかば。姿見苦とて俄に思ひ付。 湯具の緋ぢりめんの二布をときはなし。それに紐付て与へしより此風を越中ふんどしと云。越中国より始りしとは大なる俗説なりといへるも又俗説と聞ゆ。 むかし浴するにはふどしをかきたり。はづして入らむとする事有べからず。按るに。茶事指月集に。三斎翁。 亡羊に物語の内。脇ざしの鞘形を予が鞘は越中流とて人のゆるしつるに云々あり。又。貞徳が歌林雑話に。 彼殿は何事も幽斎翁を云古風に掟給ふとあれば。このふんどし恐らくは彼越中流ならむ歟。 されど紀長谷雄の絵巻物は。筆者はしれねど光信前後の画とはみゆ。雑人迄も皆総髪にてもとゞり丸くして頂にあり。 其中に小童たふさぎめくものかきたり。越中ふんどしの躰也。此さまの童子二人見えたれば其他もかく有を知べし。 おもふにこれ小児のむつきより因循して用ひしなるべし。されば古く其躰は有しなり。
○守武千句。町へ出るはいかめしくみゆ。手綱をばかゝず袴はほころびて。似せ物語。おかし男。芸にもならぬすまふを取けり云々。 ちりめんのたんなをして。とゞろ足ふみで手とりぬ。醒睡咲に。宗長法師ある方に下帯をわすれ置けるを持せて送りければ。 おもひきやおとにたつなの浜風に浪より高き名のたゝんとは。俳諧懐子十。心ゆるまるたんなゆるまる。 早川の水につれつゝおよぎ越早川は赤ふんどしをいふ。尤草子。赤き物の内。早川主馬のふんどしと見えたり。 此人みごとなるふんどしをかきたれば。聚楽ふしんの時京童の小歌に作りたるとぞ。後には早川といへば赤ふんどしの事となる。 されど土器の早川といふ事狂言記に有と覚ゆ。是は地名にて早川織なるべし。見聞集にみえたる如く。 むかしは相撲とりならでも地厚き織物などふんどしに用ひたり。諸艶大かゞみ三。浮世ぐるひの者をいふ。 丸裸になる時緞子の下帯云々。かゝるものなどには貞享頃までも此風あり。
○もつこふんどし。明良洪範に。伊藤三白と云老医。細川三斎公に物がたり。深手負又は討死せし者下帯なきよし諸人申候。 何共合点参らぬ事と申上候へば。なる程其事実正なり。医者などは其理心付べき事也。死候へば肉落る。 分て戦死は血も多く出。結び付し物たまるべきやうなし。夫故功者。心がけの者は。下帯の結めと前の方とに緒を付て首へかけ。 もつこふどしと申て用ひ候。これ死後脱落ぬ用心と被申候有。是等の物語より越中ふんどしの事もいふ歟。 又。製作は異なれどももつこふどしの名はこれなり。又。相撲取たふさきかくに。先紙を畳みて前陰にあつるは固く褌を引しむる故也。 戦場にはさる事もすまじき也。然るに何を見聞していへる歟。全浙兵制に。我国の風俗をいふに。夾青紙一幅掩其穀道以布或紬成小袋嚢其玉茎。 名曰法檀那和皮上穿其云々いへり。

それも立て…「それ」に「長居」傍書あり。

《嬉遊笑覧巻二下》服飾

○むかしは葬を送り。罪人をわたすなども。みな車を用。景清の草子。あこわうといふ女を車にてわたす事ありあこわうは戯場にあこやと作れり。 是は作り物がたりなれば。平家物語などのさまをとりて書るにやと思へど。さにはあらず。蟻岡の城落たる時。信長。荒木が女房を車にてわたし。 豊臣公の時。秀次の女房なども車にてひきしとか。然らば彼草子も当時の制とみゆ。物を運ぶ車は。庭訓などにみえたる車借といふ者の業也。 狂歌咄に。鳥羽といふ処は。保延年中より此処に牛車ゆるされ。今も車借の家々ならび立て物をはこび送る。四方の硯に。 鳥羽僧正の旧跡は鳥羽にあり。此僧正参内に乗れし車を。村の農夫が借て米を京へつみ運びしこと有。それよりこの鳥羽に牛車始まりしといふ。 其村の村岡氏のものがたり也といへり。付会の説なるべし。一代男八。車借の車を借。それに乗て八幡に詣し事をいへり寛文のころには。 逸興にさる戯などをせし事もあるにや。椀久も花車に乗て物詣したることみゆ。是は地ぐるま也。されどかゝる戯はためしなき事をすなり。 紫一本。武蔵野の条。馬もかごもならずは。大八車になりとも乗たらばよからむなどいへることあり。芭蕉が付合に。 大八の通りかねたる狭小路。師走の顔に編笠もきずいと近きには。明和八年銅脈が勢多唐巴詩。伊勢参りはやりたる時の作。 引扱島田元結黒。立双梳漢犢鼻紅。牛車猥載参宮徳。亀浴皆容下向衆とあれば。もとよりかくさまの事ありとみゆ。 江戸には。牛にかくるも人の挽も。みな大八車を用。此車は世事談にも。寛文年中江戸にて是を造るといへり。 人八人の代りをするといふを以て。代八と名付。今は大八と書といへり諸艶大鑑に。江戸のことを書る処。 大声に笑ふは代八車の如しなどもあれど。紫一本にも。大八と書。又。そのかみの法度書ども皆大八と書るをや。 されば代八の説は非也と知べし。もと借駕籠と同く伝馬かたへ出銀ありしが。其事止たり。元禄八年日記。 十月廿五日。町中の大八車の数。合て千四百四十五輌とあり。今は夥しことならむ。元禄十三年辰八月九日。三伝馬町へ。 大八車辻駕籠横印致し。大八車より一ヶ月に銀壱匁づゝ。借駕籠より一ヶ月に銀三分づゝ取立候様被仰付候。 同十六年未十二月十六日。大八車并借駕籠出銀。三伝馬町へ出之候儀向後差免候間。此旨可触聞者也とみゆ。 此触書大八とあれば。もとよりかく書し也。車に大八葉といふに一説有。古図をみるに。車の紋に青蓮花の八葉を画けり。 是大八葉也。雑車も此名を襲ひて大八と呼りといふ。是又わろし此車を呼むよりは先鳥羽伏見の車をしか呼むことなるべきに。 さもあらぬは牛車よりいふ名ならぬこと明らけし。按るに。誰身のうへ巻三に。一日に銭を一貫文づゝもち出て百人に与へ。 我とすまひをとるならば。必まけよとやくそくしてとりたる間。大八町の男をも片手にてとりてなげ。 六尺弐分の法師をも指ひとつにてつき倒しけると有。大八町は大津の八町をいふ。大津はもとより雑車も有。 又。相撲など好みて強力のもの多ければ。かたがたこれを取て車の名には呼しなるべし。

《嬉遊笑覧巻之三》書画

○ばさら絵。昔。婆娑羅狼藉などいひしさまを画ける也。土佐節浄るりの草摺引に。あふぎうちはのばさらゑにも。 腕押首引草ずり引云々。すべて米搗をのこが。日待の遊びに似たるやうの事を。ばさらといへり。今。ばれ絵といふも。 ばさらの転じたる歟。俳諧などには。ばれ句といふ。いづれ殺風景なるよし也
(中略)
○大津絵は。岩佐又兵衛がかき始めたりといひて。それが子孫めかしく。又平久吉などゝ名をかけるもあり。 たしかならぬこと也。其画法は。信貴山玉蔵院に。明兆が地蔵菩薩の絵を絵表具にして。十戒図をかきたるは。 海北忠左衛門藤原某とか。今の大津絵に似たるものとなむ。清水寺の額に。頼政が怪鳥を射たる図は。この海北忠左衛門が筆也。 寛永十二年乙亥六月吉日と識せり。又。画者の名はしらず。大奴が番枡を肴にして。酒を大盃にて飲ところをかける上に。 当時の小歌書たるは。正しく光広卿の書也といふ。又。古き相撲の絵にも。此絵の画法なるがあり。似我蜂物語に。 初心。連歌の会をして遊ばむとて。先床には。大津粟田口の道にて売天神の御影をひつぱり。竹の筒に花を生。 かはらけに抹香をふすべける。松の落葉三。大津追分画踊の唱歌あり。其中に。猫が三味ひく。酒のむ奴。 あたご参りに袖をひかれた此あたご参といふは。古き小歌と見えて。備前老人物語に。信長公の侍名も忘れたり。 いづれの陣にやかの侍。左手に扇を持。右手に刀を抜。大音に。愛宕参に袖をひかれた。とうたひてをどり出たりと有。 これを思ふに。藤の花をかつぎたる女をかけるは。もと樒の枝を持たるあたご参りの女なりしを。後にはさまざまにかけるにや。 こゝの絵。もとより仏像をむねとかき。其外は旁にかきたる物にはあらず。仏像は田舎人の求る為にかきしを。後には買ふものもあらねば。 今はかゝずなりぬるにこそ今も追分にて仏絵は売れど。常の仏画を彩色したる也。 そのかみ此絵の外に。今の一枚絵のやうなる物もなければ。是を童の手遊にせし也。一代男天和二年いづもざき寺泊りの処。 屏風引廻して有ける。おしゑをみれば。花かたげて吉野参りの人形板木おしの弘法大師ねづみのよめ入鎌倉団右衛門多門庄左衛門がつれ奴。 これみな大津の追分にてかきし物ぞかし此ころも仏絵は板木を用ひたれ共。今の製とは異也。又平が書初めしといふことは。傾城反魂香といふ浄るりより其説広ごりぬ
(中略)
○一枚絵は。延宝天和の頃あり。その紙。美濃紙より大にて厚く。西の内といふ紙のやうなり。丹緑青黄土にて彩りたり。 武者絵金平鼠の嫁入角力遊女等の絵也。歌舞伎役者もあり。これは。元禄頃より多くなれり。丹と黄汁にて色どる紅粉絵となりしは。 醒斎云。享保のはじめ。同朋町和泉屋権四郎といふ者。紅粉色の絵を売初め。是を紅粉絵といふ。それより色々に工夫して。 墨のうへに膠をぬり。金泥などを用ひて漆絵と云て。大に行はるといへり。其頃の前句付。光りかゞやく光りかゞやく。浮世絵にこの頃きせた黒小袖。馬琴がいへらく。 錦絵は明和二年の頃。唐山の彩色摺にならひて。板木師金六といふ者。板すり某をかたらひ。版木に見当を付ることを工夫して。 初めて四。五へんの彩色摺を製し出しが。程なく所々にて摺出す事になりぬ。と金六語れり。明和已前は。みな筆にて彩色したり。 これを丹絵といひ。又。紅粉ゑといへり彼金六は。文化元年七月没と也
○此二説共に非なり。奥村文角が一枚絵に。三。四篇ずりの紅画あり。是。始めなり。蜀山人も又云く。 板木に見当を付て彩色ずりする事は。延享元年。江見屋吉右衛門工夫を始とすといへり。彼の文角が画は。寿字越後屋店を開きし時の事なれば。 延享元年にて其説かなへり。寝惚文集明和四年。詠東錦絵。忽自吾妻錦絵移。一枚紅摺不沽時。鳥居何敢勝春信。 男女写成当世姿。また詠衣裳絵。模様雛方当世装。板元住在堺町傍。細工仕上流々事。応著人形傀儡坊是は絵をきりぬきて。 衣服に仕立るやうにかきたるもの也。香筥の絵も。似たるものなり。きり組灯籠絵は。上方下りの物なり。初は京師の生簀。難波の天満祭りなどの図を。 江戸にて重板したり。寛政享和頃より寫ヨ政美多く画き。北斎もつゞきてかけり。夫よりあまた出。唐山には。是等を時行紙画といへり。 東京夢華録に。宣和楼前省府宮宇の条に。街北都亭駅相対梁家珠子舗。余皆売時行紙画花果鋪席云々。 居行子後篇安永五年。むかし愚が少年の頃迄は。江戸ゑといふ物は。市川団十郎大谷広治等が絵。漆ぬりにひからせ。 大津ゑめきて。甚田舎らしき物なりしに。今の江戸絵は。飽まで粋に色めき。西川のうきよゑも及ばぬ位。みれば心も動くばかり。人々のしる処也。

《嬉遊笑覧巻之四》武事

居合やはら。悔草正保四年板。我などは。やはら取手や棒などをあらまほし云々。浮世物語明暦の頃。ゆくゆくは渡り奉公。 歩わか党にもなさばやと思ひ。居合やはら兵法なんど。おさなきより手なれさせ云々。一代男天和。けんぼうといふ男だて。 其頃はゐあひはやりて。世の風俗も糸びんにしてくりさげ。二筋がけのもとゆひ云々。けんぼうは。宮本武蔵と闘し吉岡氏なるべし。慶長ごろのことゝ聞ゆ。 洞房語園に。市橋如見といふ者の書たる柔気目録序を載て云。右柔気目録序は。先師一橋如見斎より予が祖父玄意斎に伝へ。玄意是を沢道智に伝へ。 道智より予に伝ふる所なり云々いへり。此書作者。庄司道恕が祖父甚右衛門は。正保元年六十九歳にて身まかれり。如見は。これが師にてありし也。 宮本武蔵と同時の人にはあるべけれど。如見は年齢まさりたるべし。原本洞房語園。新町野村玄意は。其頃かくれなき柔気一流の名人市橋如見斎が弟子にて。 宮本氏とは懇意なり。江戸町二丁め山田屋三之丞角町並木屋源左衛門は。共に宮本が弟子也。右三人殊に餞し。首途を祝し送るとあるは。其頃武蔵。 遊女雲井にかたらひ。折々通ひける。寛永十五年。肥前島原一揆起りし時。武蔵黒田家の幕下へ見舞の為。島原へ行むとする時。かの遊女がもとより旅立するを。 人々送りたる也。この武蔵は。初代武蔵の子にて主馬といひしかど。其頃。今むさしと称せられしとぞ。さて此柔気といへるは。やはらの術なり。 武蔵が書るやはらの名目は。先に雑考の中に載。かゝれば和事始などに。柔術は陳元贇より始るといへるは。 妄なり元贇が物語を聞て工夫したる浪人。福野七郎右衛門磯貝次郎右衛門三浦与次右衛門等三人。これは唯起倒流の始めなる也。此流。 福野七郎右衛門より寺田某。それより滝野貞高其弟子比留川某。又。加藤長正に伝ふ。長正は安永中の人にて。門人千余人に及べりとぞ。 元贇がこゝに来りし万治二年より。武蔵が没にし正保二年は十五年ばかり先也。又慶長頃。とりてゐあひはやるとあるとりては。即やはら也。 ゐあひは人倫訓蒙図彙にも。ゐあひとりてと并べいひて。柄に手をかくるより。抜出す遅速によつて。勝負こゝにあれば。いかで学びずしてあらんやといへり。 諸流多き中に関口流。其名高し。されども。ふるくゐあひといへるは。かたな抜わざのみをいはず。貞徳が油嘉須に。ふぐりをしめてぎいめかせけり。 ゐあひしるものにはならぬ相撲取と有。是。柔術をゐあひといへり。しからば上に引たる草紙どもに。居合やはらといひ。とりてゐあひとあるは。いづれにかあらむ。 思ふに。居合はとりてにも大刀抜ことにもいふべきことゝしらる。万蔵諸用日記。もと訓蒙師の童の手本に書たるものにや。年号記さず。寛延元年の反古にて表紙の裏打したり。 其中に兵法の処。抜合の法。関口多田片山の諸流。皆其法具り申事にて候。其内大口流の居合刀は。木刀を仕込申候。所作少き者にて候故。 世上に曲抜とて。三方に乗。一丈の刀中取仕。或は襷掛など申類は。一つも役に立不申候。抜合は。但鯉口のはなれ一種にて。指て外に子細無之由に候。 同書棒の手。旧法八角に作り。八尺にて筋金入鉄の疣を。末四尺の間に打。是を金さい棒と名付。剛力の所作に仕候。其後。山科流と申は。槲の木にて六尺に作り用候へ共。 利方宜からず候故。近代捨りて。今は辺土の順礼の所持に罷成候。棒遣候義。用捨可有候。又とつたりといふも。とりてのことにや今も戯場狂言に。 とつたりの兵あり。上野国郡馬郡簑輪軍記に。永禄四年二月みのわの城を。信玄これをせめ落し。内藤修理之助に預る処。此度預り候侍共。在々所々の取伝の侍共呼出し。 簑輪の城の番兵とすとあり猶おもふに。取伝とは其処土着の士にや。土御門泰邦卿東行話説に。 市場村の橋をわたり。山中村を通りて見れば。苧縄あるは網早縄買くされ。銭ざしはいらぬかとすゝむ。此方は取たの術をしらねば。早縄の入目なく。おあしそへても召れがたし。
○延宝の頃。かしんとて。居合やはらをみせものにしたるが葺屋町にありし。これは今の如く。長き刀を抜しなるべし。近時の松井屋源左衛門などのごとく。薬など売たるものか。 東みやげと云絵本あり。江戸のみせ物類をかきて。発句を題したり。其中に。居合ぬき有。若衆にて冶郎ぼうしして。上下を着し。黒ぬり足駄はきて。 三方の上に片足にて立り。発句に。鉢植の梅の姿や居合腰とあり。寛延頃の画風也。
(中略)
 相撲 勧進 関脇 江戸にて興行 相撲の手 大家の扶持 かたや 褌 力紙力水 さし櫛 仮粧 髪の結ぶり 四つ辻 前づけ われといふこと 興行日数 大漢 長人侏儒 大太ぼつち 大ぼや 座頭相撲 女ずまふ辻ずまふひとりずまふ
垂仁紀に宿禰蹶速の力より後。皇極紀に。命健児相撲とあるを始にて。相撲の節会を行はるゝ事。毎歳七月に諸国の供御人を召て。 先内取あり右は右。左は左と取也。今いふ地取のごとし。さて召合ありて後。抜出あり昨日召合の内を。 抜出してとらしむる也。拾芥抄は日数相違せり。其式は内裏式江家次第雲図抄等に委しく見えたり。最手占手助手相撲長立合等の名目あり。 今の称にていはゞ。最手より助手迄は。関より小結の位なるべく。相撲長は頭取。立合は行司なり。玉勝間に。江家次第にすまひの事をいへる処に。 特鼻褌上着狩衣差紐と見え。古今著聞集には。烏帽子袴など着ながら。すそをくゝりてとりたりしやうも見えたり。然るを。栄花物語根合巻には。 はだかなるすがたどもの。なみたちたるぞうとましかりける。とあれば。むかしより裸にてとりしにこそといへり。今おもふに。狩衣など着るは。 いまだすまふとらぬ内の儀なるべし。又。常に人の家などにて。かりそめにとる事などあらむには。すそを括る迄にて。裸躰に及ばざることもあるべし著聞に見えたる。是也。 昔。相撲人は。其業のみなすものも有べけれど。大かたは力つよき武士のわざと見えたり。曾我物語に。さすがに。野は相撲の大番つとめに都へ登り。 三とせの間。宮こにて相撲になれ。一度も不覚をとらぬもの也。其故に院内の御目にかゝり。日本一番の名を得たる相撲也。又おくのゝ酒もりの条。 海老名源八いにしへを思ふに。秀定が若ざかりには。鷹狩川狩の帰り足には。力わざすまふがけこそ面白けれ云々など有。
○童相撲は。三代実録に見えて。清和の時を始とす。相撲の節は。著聞集に。安元より以来。絶て其名のみ聞。口をしき事也と有それより兵乱打つゞきて。何事も絶たり
今の勧進相撲は。相撲大全に。山州干菜寺八幡宮再建に付。正保二年六月下鴨会式の内。十日が間興行す。是。京都勧進相撲の起り也。江戸は寛永元年。 明石志賀之助。寄相撲と名付。四谷塩町にて晴天六日興行す。是。はじめ也。大坂は元禄五年。袋屋伊右衛門といふ者。南堀江高木屋橋筋立花通にて興行すといへり。 此説。大かた誤なり。下に処々いへるをみつべし勧進相撲の事。狂言座のごとく。伝来正しからず。 すべて覚束なし。志賀之助が勧進相撲は。寛永にては時代かなはず。寛文の誤なるべし。延宝頃板行の一枚絵に。志賀之助相撲の体あり。 行司は木村喜左衛門。相撲とりはかご之助大竹など。名をしるしたり。惜むべし。紙やぶれて志賀之助と取組たる角力者。欠たり。此内。大竹とあるは。大竹弥五大夫にや。 又。延宝年中の画巻物に。京都四条河原の図あり。丸山仁大夫が相撲あり。此仁大夫と志賀之助。京師にて上覧相撲ありといへり。 其時。夢の市郎兵衛といふ男立。志賀之助に伴ひ行たりしは。喧嘩あらむ事を恐れて也。志賀之助。仁大夫に勝て事故なく帰りしは。市郎兵衛が功なりと。侠客伝にいへり。 又。四ツ谷塩町をいへるも。おぼつかなし。寛文元年丑十二月諸見物事法度の内。勧進相撲。前々より町中にて御法度候間。弥其旨相心得。町中にて為致申間敷候とあり。 江戸にて興行の事。慶長頃に見えたり。大坂も押て知べし。遺老物語永禄已来出き始めし事の内。相撲取はやる事と見えたり。昔より。寺社境内にて勧進興行したる事也。 神事相撲は猶古く。いづくにも絶ず有しなるべし。職人尽甘露寺。又。鶴が岡等の歌合に見えたるすまひ人。みな是を業としたるもの也。 又。京都に勧進相撲有し事。やゝ古くもみゆ。義残後覚文禄五年に書たる書也。京伏見繁昌せしかば。諸国より名誉の相撲ども到来しけるほどに。 内野七本松にて勧進相撲を張行す。勧進本の取手には。立石伏石荒波岩崎反橋藤瘤玉葛黒雲追風筋金貫木抔を初として。都合三十人計ありけり。 寄には京辺五畿内。扨は諸国より集りて取けれども。流石に勧進相撲を取程の者なれば。何にても取勝けり。寄手の人々。こは口惜きかな。如何なる人もあらば。 求めて取合たしと議してある処に。或日。立石関にて出る時。行事申けるは。御芝居に相撲は尽申候哉。若御望の方御座候はゞ。只今御出候へ。 左あらずば。名乗申候とよばゝりければ。出むといふ人一人もなし。かゝる処に鼠戸よりも。暫く相撲をまち給へ。 御望の方御座候と申程に。行事。其儀ならば早く御出候へと申ければ。出にけり。人々何たるいかめしき男なるらむとみる処に。 年のころ二十許なる比丘尼なり。行事。こは異なる人ぞと申ければ。比丘尼申けるは。さん候。我は熊野辺の者にて候が。 常に若き殿原達の相撲を取せ給ふを見及候に因て。人々とらせ給ふが浦山しさに。参りて候。似合ぬ事にて。 歴々の殿原達并居させ給へば。恥敷こそ候へと申ければ。芝居中是を聞て。如何様聞も及ばぬ不思議かな。 急ぎ合せ給へといひければ。立石申けるは。かやうの微弱なる者は。十人も廿人も一つまみ宛にすべきに。 争か某。おとなげなくも取べきぞ。若小相撲の候はむに。合せ給へといひければ。比丘尼聞て。いやいやとる程ならば。 勧進本にて上相撲を出し給へ。左なくば取まじくと申す。見物の貴賤是を聞て。誠に面白し。立石取れと。一同に所望しければ。力なく取にける。 扨比丘尼は帷子を脱て出けるを。みれば島かるさんをぞ着たりける。行事。相撲を合する時。立石大手をひろげて。 やつと云て構へければ。比丘尼。樋と入て仰に突倒しける。芝居中是をみて。忙惚果てぞ褒たりける。 立石口惜と思ひ。なめ過て負けると思へば。今度は小躰にかまへてかゝる処に。比丘尼樋と寄ければ。立石弓手のかひなを取て。 三振ばかり振けるに。比丘尼は後臑の追とりを取て。俯ざまにぞ投たりける。芝居中は時の声を作て咲ひけるほどに。 少時は鳴も止ざりけり。其よりも伏石貫木荒波など出て取れども。後は次第に比丘尼が投口は電光のごとく。 如何に取やらん目にも見えず。手にもためず取たりける。斯て相撲は。この比丘尼に関をとられければ。 芝居は則退散す。其より又。伏見にて勧進相撲ありけるに。又この比丘尼出て取ふせけり。醍醐大坂など迄も行て。 世にすぐれたる大相撲といへばひろひける程に。世の人。是は唯ものに有まじと恐れ慄き。奇代の事と沙汰しけりと有。 此物がたり奇怪ながら。そはさて置。昔の相撲のさま。見るが如し。勧進相撲いづくにもありしこと。しるべし。相撲大全にいへる起源は。みな非なり。
○関といふこと。古は最手占手左右あり。みな免田を賜はりて。勅許なり。この故に。最手脇などに昇進しぬる相撲は。 公家猶たやすく雌雄を決せられざること。古事談十訓抄等に記したり。其後この節会やみて。召合らるゝ事もなければ。 最手。其外の位も。私に定むべきやうなく。その事絶たる也つよき者ありても。私には広く諸国の者とその力をためさん事。たやすからじ。 著聞集に。長居といふ相撲。畠山重忠と取て肩骨を砕かれたる事をいふ処。長居は。東八ヶ国うちすぐりたる大力とあり。 今東西と分つは。かやうにうちすぐりたるの義也。前の古記に。関を名乗とあるは。勧進もとより定て出るにあらず。 合手なき時に名乗。是なり。日本相撲鑑正徳壬辰秋洛陽処士とあり。すまふはそのかみ。 大内にて諸国の供御人をめし集め。七月に相撲の節といひて。仁寿殿にて東庭にてめし合せて。御覧あり。 供御人とは。相撲を役とて仕へ奉る。諸国の防守也。この故に。今にすまふの長を関といひならはせりといへり。 此説。通ぜず。相撲を奉仕する人。皆防人ならば。其長たる者のみ。せきとはいふべからず。そのうへ日本紀万葉集等。 防人をサキモリと有。崎護の義なるべし。海国の辺塞を守らしむる也。故に島守とも書り。後世に関といふは。其義にはあらず。 関門の義にて。これをこゆるものなきをいふ也。相撲大全に。上古。朝庭にて行はせ給ふ時は。関々脇小結ともに。 二人づゝ是を撰み給ふ。勧進相撲になりても。二人づゝありし也。干菜寺より二度め元禄十三年庚辰六月。 糺の東。高野川原赤の宮にての相撲組を記すに。寄方にも各二人づゝ。勧進方にも各二人づゝあり。三度め正徳六年には。 一人宛に成たり。其以前二人づゝの時。表裏になずらへ第一を関といひ。第二を裏関と称しける。立派は古今相違すれども。 此裏関の称号は。今にも此道熟達の人々は聞伝へられける云々いへるは。覚束なし。先づ古へ。関小結等の称はなく。 二人づゝ撰まれしといへるも。明証なし。おもふに古は。左右に同位の最手ありしには有べからず。最手も占手も一人なるべし。 彼高野川原にての時は。いかなる故にかあらん。正しからぬことにて不便なれば。次のたび正徳には。 今の定めの如くになりしことゝしらる。又。裏関など称することも。あるまじき事にや。是は。古への占手をうら関と心得たる誤ならむ。 関脇は。古へも腋といへり。西宮記の相撲の条。最手額田成連与腋宇治部利里決勝負とあり。最手といふことは。三代実録より見えたり。 又。西宮記江家次第などに助手とあるも。腋のことかと玉勝間にいへり。
○そゞろ物語。もとよしはらのさまをいふに。勧進舞云々。相撲浄るりと。観場の種々を挙たり。又色音論にも。禰宜町に。さこんがかぶきまひすまふとあるは。 慶長より寛永頃のこと也。勧進とて。仏寺などの建立修覆の為に興行するのみにあらず。寄を勧むるをもて。 勧進といふなり。大全などに。ひたすら彼勧化の為とのみ心得たるにや。それ故。干菜山鎮守八幡宮再建の時を勧進相撲の始。といへるなるべし。
○相撲の手は。古事談六。伊成弘光相撲の処。一差。仕て見候はむと有。一差といふ事。舞などにのみいふことにはあらず。 山家集に。ものゝふのならすすまひはおびたたしあけとのしさりかもの入くび。新猿楽記に。内搦外搦亘繋小頭小脇逆手。また庭翔心地手合気色云々。 異本曾我物語。俣野は名にふれたる大力なれば。人々面を合打たる者こそなかりけれ。内からみ外からみ向からみ入からみ手斧がけ入蹴爪け逆手け腕組前亘後わたり走亘小頭掛たぶさ取胸返し辻膊肚取。 すまひの手は数を尽して云々。源平盛衰記廿一。小坪坂合戦条。武蔵国住人。綴党の大将に。太郎五郎とて兄弟二人有。 共に大力也けるが。太郎は八十人が力あり。東国無双の相撲の上手。四十八手のとり手に暗からず云々。 竹斎物語。あらしをいてじゆんれいやこぎつねやけなべひんせうが。すまふをこそははじめけれ。扨すまひの取手には。さまたがへしによこだをし。 入くびさしくびはね返し大ごしもとつめむかふづき。まはりてかへすは車なげ。四十八手の其内を。百手にくだきて取たりけりかゝれば。 四十八手といふ名目も古くいへり。大全に。古法四十八手より後。人また工夫し出して。手捌八十二手。手砕八十六手。合せて百六十八手あり云々。 後撰夷曲集。名乗れるは弓取なれやかちかたの関のすまひをうつぼづけにて 且保。
○東海道名所記に。近江の国は。むかしより相撲をとる者多くて。石部草津の両宿より出合て相撲をとる云々。大名がたに聞及び給ひて。相撲の衆とてめしかゝへ給ひし。 今は天下に此事すたれたるに似たりといへり。近江には。多く力者出たり。称名院御説に。諸国の供御人をめし集めて。七月に相撲節といふことを行ひて御覧ずる云々。 年中行事歌合にみゆ。供御人とは。粟津のさると今いふもの也。供御などしたゝむる故也とあり。大家に相撲どもを扶持せられしこと。承応明暦の頃はすたれて。又。宝永正徳のころに至りてはやれり。
○かたや。今昔物語に。関白殿もしのびて女車のやうにて。埒より東の方屋の面に。立て御覧あり。かたやといふこと。相撲のみならず。すべて物合などの場にはいへることなるべし。 相撲にいふは。今いふ土俵のことにて。其左右をいふなるべし。大友家記。大友宗麟の家人。原大隈守は。日田永季以来の大力といふ。或時上方より。雷稲妻大嵐辻風といふすまふとり下りて。 豊後府内に於て。勧進相撲を興行す。これらに勝もの。一人もなし云々。関相撲かれこれ七。八人。大隈がもとに来り。相撲の手合を望む処に。大隈。 家人を呼て大竹一本とり出させ。さらばかたやをつくらむとて。かの大竹をひしひしとつかみひしぎ引わりて。もと末を一つに合せ。 大きなる輪を作り。この輪より外へ踏出したるもの負なりと定むれば。雷も旋風も目を驚し。はやわれわれ負にてさふらふ。我等諸国の大力をも見候へ共。かやうの力はいまだ見候はず。とて帰りけりと有。
○褌。古はさらにもいはず。元亀天正の頃迄も。相撲とるに用ひしは麻布にて。白或は茜染を。三重又は二重にも結べりとぞ。又。昔は相撲とるなどに手綱を用ひしは。 常のたふさぎ。三重などはまはさねば。しかせしなるべし。むかしの褌は。前下りといふものなし。後の方をよつひといひ。前の方を前ぼろと云は。其形。ほろに似たる故也。 後世すまふの褌をまはしと云は。幾重も廻す故の名也。其後に至りては。常人も純子綸子綾繻子などを用たれば。相撲には勿論の事也。 次第に花美を好みしが。紀州まはし出きしより後。土俵入に用ることゝして。取とき用るとは別物となれり。大全に。織紋縫もやうの風流は。 正徳中に始り。享保に盛なりと云。まはしといひしも。近ごろの名にもあらず。後撰夷曲集。米屋をよめる。高故 下帯のさがりし米をかふ人は肌ゆるさずにまはしよくせよ。
○下帯花美の事。古くは制禁あり。慶安元年戊子二月廿八日町触。相撲取の下帯。絹布にて仕間敷候。屋敷方へ被呼候共。布木綿の下帯可仕事。 一。勧進相撲とらせ申間敷事など見えたり。其かみ。勧進の寄を相手とする法は。此頃より止たる也。又同四年辛卯七月廿一日。シコ名の異名を付候者有之候はゞ。 早々可申上候。いにしへより相撲取候者。異名付候共。向後其名堅可為無用事。これは相撲取にはあらず。よの常の者。相撲取事を好める輩をいふにや。 思ふに。そのかみ男達ども。異名付し故の事とみゆ。古へも盗人に。袴垂天竺冠者など異名あり。是を今昔物語に。字とあり。 もろこし人の字の義にはあらず。今のあだ名といふが如き歟。相撲人には。腹くじりなどいふもあれど。自称にはあらず。人の呼たる也。 漢土にも。草賊には異名あり。宋代ことに多し。水滸伝。証すべし。これを渾名。又。綽号ともいへり。相撲取のシコ名も此類也。名の趣はかはれ共。芝居役者の苗氏めく者を名乗るも。 同日の談なり。源平盛衰記師高流罪の条。官兵等の交名に。平利家字平次。皆この例にて。あまた記したり。これは通称を字といへり。
○力紙。鷹築波集五。相撲とる草葉や露をちからがみ 忠次。おもふに。昔は髪に伽羅油といふものなく。元結も文七などの堅くつよきものなければ。青楼に登る遊冶郎など。 茶筅がみになる事。見えたり箕山云。茶せん髪は無礼なる物ながら。遊所にはくるひて打みだかれたるに。引さきにてちやせんにゆひたるもよし云々いへり。 いはんや相撲取は。乱髪になる事。常に多し。それ故に。かねて髪をしごき。もとゞりを結たる物と見えたり。相撲大全に。化粧紙と号し。正面の四本柱の左右の柱に釣置。 すまふ取。是をつかひ用。是は全く勧進になりて後。初りしと推せらる。なを後考を俟といへり。又。力水とて。相撲場の桶に水を湛おき。力者に与ふ。 此こと。古より今に至る迄同様也。今は化粧水といふと有。右いづれも。仮粧は名に負ず。仮粧水も。もと力水といひしを思へば。仮粧紙も力紙といひしなるべし。 寛永中の俳諧に。力紙といへるもの。この紙なり。後には。元結にかくる事もせずなりぬるによりて。只仮粧ばかりの心にて。呼かへたるにや。又。前髪ある相撲取。 櫛をさしぬる事。元禄中。西方大関なりし両国梶之助。さし初たりとなむ。是又。上にいへる如く。髪の乱れ易き時のことにて。掻撫るも度々にて労がはしければ。 櫛を其儘さし居たるが便宜なりしかば。常になりし事とおもはる。其後。鬼勝象之助が二枚櫛をさし。白粉をつけしなどは。たゞ戯れ事にて。 仮粧といふべし此鬼勝は大漢にて。長七尺三寸ありしとぞ。これが仮粧はうとましかるべし。是等に仮粧のことも見ゆれば。 彼力水力紙も。なべて仮粧といふことになりし歟。又。按るに。大全に。角前髪の相撲とり櫛をさす事。元禄年中に盛なりし云々。此事もいかゞあるべき。 多くこれをさしたり共おもはれぬ事あり。五元集に闘鶏句合。素琴が句。勝鬨に毛並をなほす櫛もがな。判云。中入して手初めなるに。女房の後見とは。心得ぬ業也。 富士の烟のかひやなからん。力かひなく。歯がみせらるゝぞかし。牝鶏。晨すればわざはひ有とこそ伝へ侍れ。象もよくつながれ。鹿かならずよるといへる詞をしらば。 さし櫛も心をつけてつゝしむべし。力の出る最中なるぞと有。是にて考ふべし。又。按るに。古き相撲人の図。うつし伝ふるもの有。古相撲の節。専ら行はれし頃の画なり。 其内にも。相撲人自ら櫛をもて。髪の乱れをつくろふ処あり。これ。必持て有べき具なり。梶之助がさし初めたるも拠あり。されども。めゝしきやうなればにや。 行はれたり共聞えず。たまたま象之助が如きは。只異風をことゝしたりし也。もし元禄中さかりに此風行はれたらむには。其角が件の判詞にさはいふべからず。 但し其判。彼梶之助が事をば思はざりしにや又は。いまだ櫛をさゝざりし頃にや。殊に女房の後見などいへること。 櫛によりし推察にて。其句の意には見えぬこと也。作者冤みなるべし江戸歌舞妓芝居には。昔より勇武の扮には。角力人のさまを学べり。 色芝居草子に。またしても朝比奈が門破り。金ひらが人つぶて云々。糸びんにたばね髪。おみき徳利の口したるやうなはね元結をかけ云々いへり。是。力紙なり
○髪の結ぶり。昔の相撲取の髪の風は。今は歌舞伎狂言のかつらに残れり。髻するに元結を多く巻。曲を立たる。又。鬢そぎしたる。形さまざま。又。前髪あるは。額の小鬢さきをそぎて。 左右へ鳥の羽をひろげたるやうなる。又。耳の際にて髪を切たる。種々なり此風。また武家の手子の者。水主などに残りたり。これも貞享頃迄は。鳥の羽ひろげたるやうなるは絵にも見えず。 元禄このかたなり。類柑子闘鶏句合宝永元年三月。名乗せむ三枚朱冠をみつの山といふ句の判云。鬢切。左右へこきあげ。大前髪つかみ立たる有さま。三枚さかの見参と也といへり。 当時。前がみ相撲の頭つきをいふ也。新竹斎貞享四年刻。爰に八月始の日。松の尾の神わざにて。鳥居のもとに相撲をとる。昼よりすまふの場ならしに。十一。十二。四。五。六迄の小すまひを始れば。 次第次第に大になる。仁王をそねむ大兵ども。どんすひざやの三重まはり。大なであげに半かう剃。其ほか丹波津の国伏見大津のうはきもの。所せき迄並居たり云々。この撫上半頭剃の形容。 さまざまになれる也。古へ。相撲人の髪。別なる事もなし。烏帽子したといふものにて。唯えぼし着ざるのみ也。空穂物語初秋の巻。みなすまひの装束し。ひさご花かざしなど。 いとめづらかなることゞもしつゝとあるは。匏の花を挿頭せるを云。これは時節の花なるに。後世もころばぬ呪ひなどにもする物の花にて。上代は十六。七歳迄は頭髪を額に束ぬるを。 書紀に。ヒサゴバナニシテと訓るは。古言なるべし。そは。形の似たればいふならむ。これらの事などにも依れるにや。専ら観ものの為なり。古歌に。さしかねてなげまよふよりも相撲長のひさご花とるけしきまづみよ。 こは。左はあふひをつけ。右はゆふがほをつくるに就て云。
○著聞集に。相撲なにがしとかやいふ上手ありけり。敵の腹へかしらを入て。かならずくじきまろばしければ。これによりて。腹くじりとぞいひける云々。 この頃。亮々草紙といふ随筆に此段を引て。中納言伊実卿。腹くじりといふ相撲と立合ける所の文に。腹くじりが四つ辻をとりて。前へつよく引れたりければ。 頭もをれぬばかりに覚えて。やがてうつぶしにたふれにけり云々。今。犢鼻の尻の上にて結はれたる処を。みつひといふは。三結の省けるなるべし。 さて。其結目は上に角あれば。四辻ともいふべく覚ゆ。すまひの手に。三結とるといふことあれば。今こゝに四辻とるといへるに似つかはしげ也といへり。 上に引る異本曾我物語の相撲の手に。辻膊肚取とある膊字は。下の肚字のうつりたる誤にて。搏字なるべし。辻搏は即。四辻とるといふ。是なり。 後世も。四結といへり。類柑子闘鶏の句。とり結ぶ植毛の爪や要石。判云。かなめ石。四結を取てちつとも動かずといへり。 然らば三つなどいふは。近ごろのとなへとみゆ。まはしをもていはゞ。三つ結なるべけれど。さにはあらず。背の中筋に。三処より廻して結ぶ故に。 四辻といふ也。腹くじりは。今いふ前づけにや。或説に。元禄頃。相撲取櫛をさしたりしは。前づけといふ手をとる事を。つたなきことゝし。其手をとらぬ印としたるより始まれりといへるは。非なり。上にいへるが如し。
○おて。猿楽狂言記すまふの処に。おてつ。まいつた。おてつ。勝たぞなどいふ事あり。是はもと。只。手といふこと也。人を指ていふ故。おもじを付る歟。 著聞集に。時弘。しきりに宗平をてこひ。もしまくるものならば。時弘が首をきられむ云々。又。一条に。とりわき。そこをてこひ申ぞ。 心み給へとの給はせ云々。又。伊成弘光すまふの処。左の手出し。てこひけるを云々あり。是もてこひなるを。てもじ重なる故。誤りて。てもじ一つ脱たる也。 古事談に此事を。弘光。左手ヲ指出テ。手乞ケルヲとあるにて明らか也。狂言にいふおてつも。是也。ツは語勢にて。手とつよくいふ故。ツは口にあり。 それを其儘にうつし書るなり。今。狂言のうへにては。唯おてとのみいふにて知べし。但し今はボテと云は。誤れり。合戦などにも。手に合とは。闘ひたるをいふ。 手に合はぬは。たゝかはざりし也。傷を請たるを。手を負と云。凡人の括動に皆。手を云。与する者を。手下といふ類の詞。多し。をさなき事ながら。女児のいしなどりに。てつといふ事も有は。狂言のことばよりいふにや。
○勝負なしをわれ。勝負わかたざるすまひをわれといふも。むかしよりしか也。懐子明暦二年。相撲場にわれやみゆらん河津がけ。むすぶてのあかでも人やわれすまふ。関すまふわれても末や合物。 又。相撲興行の日数は。四方山人が狂詩諺解。いにしへより。晴天八日の定めなりしが。安永七年戊戌三月廿八日より。深川八幡にて角力興行ありし時より。 十日となりしと覚ゆといへり。近来は秋角力なく。寒中興行す。是も天明三癸卯七月浅間山焼。秋角力冬に延て寒中興行したるよりなり。
○行司の出立。大全に云。古代。行事装束は侍烏帽子を戴き。素襖を着し。露を結びてたすきとし。揮を以て相撲を合せしもの也。中古。風流になり。えぼしをとり。茶筅髪にして。すあをを陣ばをりに替。 裁付をはき。揮を唐団扇に換たり。此出立。漸く久しかりしに。享保年中より又。装束転じて。着ながし小袖のうへに上下を着し。股立を取て立出。古の風流より今の変化に心を付べき也といへり。 按るに。いにしへは弓を用ひたり。素襖えぼしの頃もしかるべし。麾にはあるべからず。弓を用ひしことなどはしらぬにや。又。唐団扇を用るは。猿楽狂言唐相撲の躰也。 裁付を着。うちはを持し躰は。延宝ごろ京師の古画にも見えたり。又。同頃。其躰ばかりにもあらず。前にいへる志賀之助相撲の絵。木村喜左衛門行事にて。上下の股立とり。唐うちはを持たり。 江戸の風は異なるにや。されども上方なども。其後は唐人出立の筒袖の服。裁つけは廃れし歟。類柑子闘鶏の句。裁つけの足に覚悟や錐袋。 判云。裁付の躰。田舎行事と見えたりといへり。されど西川祐信が画に唐人出立にかきたる有。享保頃迄も。京師は此風とみゆ。それを田舎とはいふべからず。
○釈迦嶽雲右衛門。手形押たるは半紙に満。又は朝寝せる豆腐屋の二階の戸を扣きしといふは。大きなることの勝れたる迄なり。谷風が如きは。近世には稀なる力者といふべし。 その手掌のかた。寸錦雑綴にも出たり南品川妙国寺に。加藤清正自筆の法花題目を書たる上に。みづからの手がたを押たる有。石摺に作りたるを出す。 谷風が手形と較べみるに。谷風より指の一節長し。○又。深川八幡社地に。釈迦嶽雲右衛門が身の尺を写したる石柱あり。高さ七尺五寸也。 此ころ肥後国より来る大男。武左衛門も七尺五寸にて。重さ三十九貫目といふ。相撲取の名の事を。後はむかし物語に。和田原。はじめはわたの原と言しが。近き頃は和田が原といへり。 文字が関なども。もじの関なるをかくいひならはせり。されどもわたが原。耳にはたゝず。是に限らず。角力取の名傾城の名は。誤れる事多し。桟にシの字をおくりたるもをかし。 さんともかけば。すとも読まじきをなどいへり。此類多かるべし。爰に入らざる事ながら。久米の平内を相撲取といふ事。八水随筆に。元文の始め。予が鎗術の師徳永氏と。内藤山城守殿へ招かる。 用人松村勘右衛門と云仁。彼是挨拶。種々物がたりの序に。浅草観音に久米平内兵衛石形あり。是則。勘右衛門祖父の由。世に久米は角力者といひ。車引などゝ共云ふ。 勘右衛門咄には。世々処士にて。家富み。馬も二匹迄つなぎしと也。剛毀の質にて。力わざをこのみ。件の石形。存生の内に作りなして。死後に印しとなすべしとて。庭に居置しとなり。 其身。歴々たれども。石形つたなければ。其跡いやし。雅なき人の失。知べしといへり。
○大路にて取を。辻ずまふといふ。職人歌合。かげ法師みぐるしければ辻ずまふ月をうしろになしてねるかな。独ずまふは。日は入て月こそ空にねぢいづれひとりすまひの心ちのみして。 後世。座頭ずまふ女ずまふも観場に出。江戸名物鑑寛延より明和迄。世にはやりし物を集。坐頭相撲。伸す手は撫るやうなる柳かな。女ずまふ。 男より勝色ありや女郎花此句などにては。艶なるやうにも聞ゆれど。辻立夜発のすがれものなど出る事にて。うとましきものゝ限りなるべし。同頃。みせ物女ずまふ発句。柳より風に音なき瓢かな。
○本朝の史には。侏儒など献りしことは見えず。長人のことは往々あり。そは。相撲あるは追儺の設なり。西宮記追儺の条下。国史云。天長十年四月。勅喚大舎人穴太馬麿。与内竪橘吉雄。 双立量其身長。吉雄短而。其頭首不及馬丸腋下焉。また貞観八年五月。下知相模武蔵上総下総常陸等国。選進長人六尺三寸以上者。按世人及今呼長人曰馬丸。起于是歟とあれば。大なるものを馬といふこと。 いと古し前文は続日本後紀三代実録の文。今按は。西宮左大臣殿の考なり。大太ぼつちといふは。平家物語第八。豊後日向両国の界に。姥が岳といふ山の下に岩穴ありて。 大蛇住。是は日向国高知屋明神々躰也。豊後国に大大夫といふものゝ娘に。此大蛇通妊して男子を生む。七歳にして元服して。名を大太といふとあり。紫一本大太橋の条に。 大太ぼつちが掛たる橋のよし。いひ伝ふ。肥後国八代領の内に。百合若塚といふあり。塚の上に大木あり。所の者いはく。百合若はいやしきもの也。世に大臣といふは。大人なり。 大太ともいふ。大人にて大力有て。強弓をひき。能礫を打。今。大太ぼつちとは。百合若の事也。ぼつちとは。礫のことゝぞ。一とせ大風にて。右の塚のうへの大木倒れ。崩れたる中に石のからうと有。 内をみるに。常の人の首。五つばかり合せたる程の首あり。不思儀におもひみるに。雪霜の如く消失ぬ。依之。大きなる卒都婆を塚のうへに立。右の様子を書付たるもの。今にあり。 百合若は筑紫の人にて。げんかいが島にて鬼を平ぐること。百合若の舞に作り侍り。然るに。奥州の島の内に。百合若島といふありて。みどり丸といふ鷹のことまで。たしかにある島ありとぞ。 又。上州妙義山の道にも。百合若の足跡。また矢の跡とて有。此外にも。大太ぼつちが足あと力業のあと。爰かしこにありといへり。春湊浪語に。笠朝臣金村は。備前国の人なり。 塩津山作歌二首。ますらをの弓ずゑふり起し射つる矢を後みむ人の語つくかね云々。万葉集三巻にみゆ。むかしは精兵なるものは。我弓勢を後代の者に知らしめむとて。道路などの大木に。 箭を射付残すことありし也。保元の軍に八郎御曹子。上矢の鏑一筋残りたるを。末代のものに見せむとて。宝荘厳院の門の柱に射留しと。保元物語に見えし。又。建久四年。曾我兄弟。親の仇を討む為。 富士野の狩くらへ行とて。箱根路の湯本の矢立の杉に。矢を射立置しこと。曾我物語に見えたり。是等みな同じ類也。近き世の事なれ共。此国備前に伊庭藤大夫といふものありし。 極めて精兵なりし。備中吉備津宮に。昔より鉄の弓あり。誰が奉納せし事をしらず。俗に。百合若大臣の弓といふ。是に弦をかけて。藤大夫引試みけるに。其弓半ばかり折たり。此事は。世の人口にもあり。 其引折たる弓。今。社頭にありといへり。古へ。大勇の力わざの跡。誰ともしられぬを。大太ぼつちといひしなり。ぼつちは。礫のことにあらず。 例の法師といふことにて。大きなる人といふ義也大入道。また見越入道といふも同じ。只今。大なるを大ぼやといふも。是なり。 馬といふも。其意同じ故に。紀の海音が傾城無間鐘といふ浄るり。猿廻しの段。馬といふおほぼやしは。せなかに物を置より外。一芸もござらぬ故云々。 又。殊なるは。古事談一。万寿三年四月頃。女長七尺余。面長二尺余。乗船寄丹後国浦。船中有飯酒。触辺之者。悉以病悩。仍不令着岸之間。死去云々。
○古き年代記に。延宝二年の条。十一月。近江国より長七尺三寸ある大女。名をおよめと云。見せ物に出とあり。続無名抄延宝八年。惟中が撰也。 近ごろ道頓堀に。頭大甫春といふものあり。其たけ。一尺二寸。足脛すぐれて細く。四。五歳に越へず。梅花心易を諳むず。粗書をよみて。義に通ず。又。大女房あり。江州の者也。白髭大明神の変化也といひ伝ふ。 たけ七尺二寸。足の長さ一尺三寸。手の長さ一尺。全身すぐれて背高く。力人に越へ達者。究竟の男にも勝れりといへり。其頃の俳諧に。大女房とあるは。此およめが事也。 近年文化の半ば頃。大女淀滝と名付て。みせ物に出。大なる駒下駄など。看板に出せり。これは。先に文化四年の春の頃。南品川鶴屋といへる旅店の飯盛女つたといへるが。 今歳廿才。駿河の産にて。たけ六尺七寸あり。めづらしとて。遊客多く来しが。後二年を経て巳年の春。浅草はたご町へ大女淀滝とて。力持みせ物に出。環海異聞に。文化元年四月下旬。マルケイサといふ島辺に船を寄す。 裸なる男女。顔色逞しく。男は丈七尺余。惣身すべてほり物入墨。陽物を露はし。女はたけ五尺ほど。同じくほりものして。前陰は。細きすゝきの如き草葉を垂て覆ふ。 これらを他国の人。セイカと呼も。鬼人と云こと也といへり。猶後の漂流記にも。此島の事見えたり。坤輿外記に。長人国又名智加国。地方頗冷。人長一丈許。遍体皆毛。 好持弓矢。々長六尺。男女以五色画面為文飾。これは又。別なる歟。万国風俗通と云書に。智加は長人国の総名なり。ハンタウンナンと云国。其類也。七。八十年前。長崎浜田氏若年の頃。天竺諸国を巡り。 彼国辺に船をよせんとする時。長人。弓を持て追来る故。舟を出して逃たりと。浜田氏物語也。日本より南東に当る。海上六千里と云。
○又。小人国は西域見聞録に。郭牢西域回子之一国也。其人短小男女皆長二尺余。魁梧俊偉者亦不能過三尺。羊高八九寸長尺余。牛馬高不二尺云々。椿園氏曰。又聞其地麦顆大如芝麻。 白楊高於江葦乃人小而一切飛潜。動植之物亦従之而収縮。其天地雑気之所鍾聚乎。又同書絶域諸国の条。阿諦在西海之浜。皆人皆長三四尺。無屋宇多処山林麓之間云々。女はよの常の如く。 且みな好なるよしいへり。こは伝聞にて。信ずるに足らず。前説は目撃したるべし。 万国風俗通に。小人国。ホトリア国北海の浜にあり。人の高さ二尺計り。鬚眉なく。男女見分がたく。土地鹿多く。人みな鹿に乗る。又鶴の如き鳥有。其人を食ふ故に。人常に四。五人相伴て行。 東方曼倩が小人国。人長七寸。海鶴食之といひしも。拠処有に似たり。環海異聞。帰帆前。使節レサノツトが家に往けるに。日本尺にて二尺四。五寸程なる小人。酒宴の食盤の上に載せ。 戯弄して漂客を指して。彼等は日本人也。汝も共に彼国へ渡るべし。望みの物あたへらるべし。と云ければ。日本へ行ことはいや也。彼人は日本にては有まじ。 カメイカの人歟。といへり。此小人。何方より来りしと問ければ。カルラと人々答へたり。訳者按るに。此国北辺尽境に。サモヱデンと云国あり。近頃オロシヤ所領となる。其処の人なるべし。世に小人島といへども。こゝは島にはあらずと云り。
○因に云。新猿楽記に。侏儒舞田楽とあり。是は。侏儒のまねしてまふ舞の名とみゆ。侏儒のこと。漢土には列女伝に。夏桀の時にありといひ。家語には。魯定の時の事など。いとふるく見えたり。 こゝには只その小きをいはゞ。かけまくもかしこけれど。少彦名神をや申べき。又。蛭子は。後世傀儡の徒。あがめ祭れば。これらをも申さむ歟。漢土には侏儒をめで興じたること。後々まで多くしるせり。 其故に唐書。武徳元年十一月戊申。禁献侏儒短節小馬牛異獣奇禽といふことなども見えたり。こゝには続日本後紀。承和十一年三月甲申朔云々。戊戌。但馬国上帽子単衣腰帯草鞋刀子等一櫃。其体様卑小。不似此間之物。 疑侏儒国物流着者歟とあれど。侏儒国といふ国はなし。さる処もあらんと。おぼめきて書るなるべし。小人島といふことは。いひ伝ふれども。いづくとも定かならず神異経山海経等に。小人国をしるすといへども。 誕妄に似たり。又輟耕録巻十四。小人の乾したる。長六寸許なるを見たるよし記して。豈其人歟といへり。また長人小人の事。徐岳が見聞録巻二にも載たり。おもふに。外国の嬰児の調度など。流れ来しにもあらん金瓶梅に。李瓶児が生る子の名を。 道士に付さする時。道士より。道家の衣冠服玩を小く製りて。一櫃に入て贈れることあり。これら。もし他国に行こともあらむには。かならずいぶかしく思ひて。小人島の調度ならむなどいはむかし。俗に。矮人を一寸法師といふ。 尤草子。ひくきもの。なぎなたぼこ一寸法師。犬子集。すゞの子は竹の一寸法師かな 徳元。正章千句。ゑたゑたしたるなりはみたむな。いつしかも一寸法師年闌て。 洛陽集。蓮花菜や一寸法師座下の草 計也。今はほうしを略して。ぼうといふ。ぼう尽しの俗謡めけ共。梅ぼうし影ぼうしてりてりぼうし。猶多かるべし。略きてぼうといふは。 猪の子にうりぼう。豚をどろぼう。桜の実を桜むぼう。柚の類に九年ぼう。人のうへには吝むぼうべらぼう。此は挙るに遑あらず。
 こぶし打 腕おし 首引 臑おし 指はじき 枕引 扇引 扇切 綱引 力もち
和名抄に。相。和名古布之宇知。これは漢土の券法といふ類にて。両人打あひて勝負する事なるべし今。小児両人にて。一人手を開き。甲を上にして出せば。一人その上を撫る時。 手を翻して打。撫る者は。打れじと手を引戯あり。和名抄右の次の条に。相扠。和名多加閉之。楊氏漢語抄云拗腕とあり。これは手を捩る事とも聞ゆれど。 手がへしといふ名は。よく腕おしにかなへり。闘腕といへるも。是なるべし。斉爵林王何妃淫乱。与侍書馬澄闘腕較力。王以為笑といへり。腕おしは。義経記三。弁慶幼き頃。 比叡山の学頭。西塔の桜もと僧正が弟子になりたる条。師の仰にはしたがはず。ちごほうしばらをかたらひて。人も行ぬ御堂のうしろの。山のおくなどへともなひゆきて。 腕おし首引すまふなどぞこのみける云々。猿楽狂言れんちやく。商人。女商人とあらがひごとして。腕おし。又。すねおしをする事あり。又。為朝と鬼と。首引腕おしする狂言もあり。 異制庭訓に。目比頭引膝挟指引腕推指抓とあり。膝挟みも足おしにして。臑おしとは。いさゝか異なるべし。両人ひざをたて。挟みて押倒すにや。指はじきは。指しつぺいなり。 寛永発句帳。すねおしに風力そふ小萩かな。吾吟我集。露をいとひもすそくりあげ野をゆけばすねおしがまし萩の花ずり。世話やき草。暑ければ募る力も出かぬらし日は暮かたの夏の腕おし。 五元集。腕押のわれならなくに梅の花。丹前能といふ草子に。腕おし枕引足おしなど云々。足おしは一種あり。枕引は京羽二重。枕引みじか夜明て笑ひけり 珈妾。古き冠付。やすやすとかげきよになる枕引。 元禄九年若葉合。其角 首引のころぶ拍子に起上り。明和の初川柳点。首つ引まをのけざまにみそをあげ。又。手拭引あり。享保中の冠り付。みいりみり手拭引の関とせき。本朝文鑑支考が文に。 扇てんがう枕ずまふと有。枕ずまふは。両人にて互に握り拳のうへに枕を立て。あたり合せて落たるを負とするにや遊戯をかける画にみえたり。扇てんがう。 扇の曲か又は扇引をいふ。佐夜中山集。扇引や紙のちからのあらん程。類柑子。大空を天竺といふ月見して 仙鶴。又引負の扇一本 貞佐。又。扇ぎりといふ事あり。 甲陽軍鑑十六。武田信勝十一歳の時。小姓友野又一郎と日向伝次と扇切いたせと御意の時。又一郎は。腰にさしたる扇をぬく。伝次は。手に持たる扇を腰にさして。指をたてゝ向ふ時。 信勝。はや見えたるぞ。おけ。扇切に伝次は勝たりと。心の逸物なるをほめ給ふ云々。かくあるのみにて。其法しられねども。今。ゐあひ抜が扇を空に投て。地に落さず宙にて切ことをする。 是もそのたぐひとみゆれど。指たてゝ向ふとなれば。扇を投付などするを。指にて打落すにや。寛永発句帳に。宗富 骨折てかち負はなに扇切。埋木にも此句を載て。まけかちとあり。
○つな引。唐書四。中宗神竜三年二月己丑。及皇后幸玄武門。観宮女抜河。為宮市以嬉。同四年二月庚戌。及后妃公主観三品以上抜河と有。五雑組に。唐時清明有抜河之戯。其方以大麻組。両頭各繋十余小索。 数人執之対挽。以強弱為勝負。日次記事に。江州大津の人。三井寺門前の人と各原野に於て。左見日に分れ互に大綱を争引。両方共に大鼓をうち。競進み引。勝方。その年各福を得るといふ。 これをつな引と称す。正月十三日より十四日の朝に至て去といへり。後撰夷曲集。親月とて町々にするつな引はゑいや大勢の子どもあるゆゑ 良因。東寺の前にて綱ひくをみて。東寺にて綱を引とる人はたゞ鬼よりつよき力なりけり 一見。其外。田舎にも処々にこの事あり。
○力持。諸国咄に。下鳥羽の車つかひに。大仏孫七といふは大男なれ共。力なきを無念におもふ内に。男子をまうけ。はや取立の時分より六尺三寸の棒を持ならはせ。三歳の時ははや一斗の米をあぐる。 それより段々仕込。八歳の春のころ。手なれし牛の子をうみたるが。草むらにかけ廻るをとらへて。始てかたげさせけるに。子細もなく持ければ。毎日三度づゝかたげしむ。次第に牛は車ひくほどになれども。 そもそもより持つゞけぬれば。九歳の時もとらへて中ざしにするを。みる人。興を覚しぬといへり。理はさる事なり。
○米をかつぎ。石を持もの。先抱きあげて腹のうへにのする。これを中つ腹といふ。故に力あるを夸りて。五十五貫目を中つ腹に持といふ。それを省きて。中つ腹とばかりいふは。何のことゝも分らぬいひざま也。 又。勇気あるを。いさみといふ。是を中の字といふは。彼中つ腹を。猶省きたる也。専らつよむことにいへり。此ごろは。つよむことをゐばるといふは。威をはること歟もと力むといひしも。同じ程の詞也
○その昔は。此中つ腹の輩を。こりや又組といへり。こりや又何の事。といふ夸り詞なり。

上野国郡馬郡簑輪軍記…上野国群馬郡簑輪軍記。
朝庭…朝廷。
或説…傍書「大全」あり。
などゝ共…など共。
剛毀…剛毅。
春湊浪語…春湊浪話。
券法…拳法。
日次記事…日次紀事。


《嬉遊笑覧巻之四》雑伎

○蔵鉤。文徳実録に。帝覧蔵鉤之戯。左右相分飛鳥游付者不禁とあり。康煕字典に。風土記京師人臘日後。為蔵鉤之戯。分二曹闘勝負云々。若人偶即敵対。人奇即一人為游付。或属上曹或属下曹。名為飛鳥。 以斉二曹人数。一鉤蔵在乎中。曹人当射知所在。一蔵為一籌三籌為一都。和名抄。三秦記を引て。昭帝母。鉤弋夫人。手拳而国色。先帝寵之。世人為蔵鉤之法是也といへり漢武故事に云。 上巡狩河間。見清光自地属天。望気者云。下有貴子。上求之。見一女子在空室中。姿色殊絶。両手皆拳。数百人擘之莫舒。上自披即舒号拳夫人。即鉤弋也。後人見其手拳而国色。故因之而為蔵鉤之戯云々。また瑯環記に。 毎月廿九日。陽会とて女子遊ぶに。此戯をなす事。採蘭雑志を引ていへり。和名抄に和名を載せざるは。蔵鉤と音にてとなへしなるべし。西土には。此戯を蔵鬮。また蔵彊ともいへり。こゝにて。後には賤き戯とせしにや。 古画に。往々其さまみゆる。みな下部のもの。僧俗ともにこれあり。後には是を。なごといふ。守武千句に。握り拳はうき大はむにや。なごよぶに六百貫やまけぬらん。鷹築波集。今はよぶとももどらじと思ふ。まけぬればなごの勝負のやめにけり。 続山井。握る手をてうか半とやかぎわらひといへるも。是なるべし。一代男に。扇引なんご呼て。子供心と成て。諸艶大鑑。手相撲なんご呼もあり云々。なごは。もと石なごの略なり。それをなんこといふより。何箇の義とおもふは非也。 何箇ならむには。幾箇とこそいはめ。石なご握りてもせし故。なごといひし也。勘物御伽双紙に。十にたらずといふ法あり。銭にても碁石にても。物数九つ。先の人にわたして。いかほどなりとも心のまゝに。手の内に握て御出あれ。 此方よりも又。握りて出て。其方の物数などかへして。扨御出ありし物数を十にたして。跡に三つ余さんといふに。 物数十三持て出る也。十二持て出れば。二つ余さんといふ也。いくつにても同断といへり。是。なごより出たる戯なり。 天禄識余に。唐路徳延孩児詩に。抛果忙開口。蔵鉤乱出拳ともみえたり又。小児両手の指を組合。何れの指にても一つ掌の内に蔵して。中さする事あり。なごを学べるもの歟
(中略)
○又。輪鼓とあるは。和名抄。本朝相撲記云。輪鼓二人。その分注に。諸雑芸之中。弄輪鼓之者二人也。今按。此物所出未詳。但其形如細腰鼓。而輪転於糸上。故以名之と有。 沙石集に。其形。中のくびれたる事をいへり。また立鼓とも書り。形をもて也。職人尽。放下が衣服の紋。りうご也。放下がまはす物なれば。付たる也。 是をまはすやうを思ふに。中のくびれたる処に緒を巻て。はかたごまなど廻すやうに。投て緒の上にうけ。少しづゝ投上投上。いきほひつよく廻る処を。 高く空へ投あぐるわざなるべし今。はかたごま廻す。てうのがけといふがごとし。輪転於糸上とは。是をいふならむ。

鷹築波集…鷹筑波集。
勘物御伽双紙…勘者御伽双紙。


《嬉遊笑覧巻之五》歌舞

猿楽は。もと散楽の仮字なり散楽は。荘子に散木とある散字の如く。散人散住の散も同意にて。正躰なき意なり。三代実録に。貞観三年六月廿八日云々。有雑伎散楽。透撞。呪擲云々之戯とみえ。又。同紀。元慶四年庚子七月廿九日辛巳晦。島滸人近之内蔵富継。 長尾米継。伎善散楽令人大笑。その後。村上天皇御製の散楽策にも。島滸来朝而有解頤之観と書せ給ふ。新猿楽記に。猿楽之態鳴之詞とあり。 彼是ともに誤にて嗚滸と書べし。後漢書南蛮伝に烏滸人とあり。是なるべし。源氏物語等のかな文には。散楽をさるがうといへり。故に。江家次第には散更とも書たり。 又。枕双紙に。つれづれなぐさむるもの。をとこのうち。さるがひものよくいふがきたる云々。さるがひ。さるがふ也。人を咲はす事するをさるがうといふ。 今昔物語に。俊平入道がもとにて。女房共庚申しける夜。俊平の弟入道君。かた角に居たりけるを。女房共寝ぶたがりて云やう。入道君。人々咲ぬべからむ物語し給へといふ所。 咲はむとだにあらば。咲はし奉らむかしと云ければ。女房は否不為。只咲はさむとあるは。猿楽をし給ふか。其は物語にも増る事にてこそあらめ。 又。同書に。世の人。上も下も由无からむ虚して。猿楽に然様ならむ悪き戯れ事は可止云々。又。宇治拾遺十訓抄にも出。 陪従家綱行綱兄弟が猿楽の物がたりをみるに。その時に臨みて何にても興あるわざするとみえたり今にていはゞ。にはか。茶ばんといふものゝ如し。 又。さばかりにもあらで古き曲もありし。散楽策に。所謂船太新靺鞨魚丸世羅国世称妙舞。また。新猿楽記。形勾当之面現。早職事之皮笛。目舞之翁体。巫遊之気装貌。京童之虚左礼。東人之初京上。 なほあまた載たり。源平盛衰記にも。猿楽と申はおかしき事をいひつゞけて人を咲はかし侍るぞかしといへり。春湊浪語に。文献通考に散楽雑戯多幻術。皆出西域と見えし。 然るに翰林胡蘆集明応の頃僧宜竹が撰也。猿楽。もと申楽と書て。其始推古天皇の御時。秦川勝。神楽によりて作り出せし故に。神字を分ちて申楽と名付と見えたり。 是は猿楽の家に伝へたることを聞て書るにや。古書に申楽と書しこと更に見えず按るに。本朝通紀にも。川勝奏神楽。当此時。以後代翁舞名神楽。爾後俗間可有祝事。 則致神楽。然鄙人恐神楽之名。更以神字換申字。業其芸者。遂称猿楽。根源いやしき業なる故に。順徳帝の御抄には。猿楽のごとき。庭上に参ることを止むべしと書せ給ひ。 明月記には。下衆猿楽を召るゝ。先々此事なし。仍只侍猿楽を可召といふ事見えたり。下衆猿楽とは其家をたてたる猿楽也。今も同例にて朝廷へ参ることなしとぞ。寛喜の頃より後。散楽衰へ。 北条執権の末。京都将軍の初までは。田楽のみ世に聞えて。猿楽のさたはなかりしが。貞和五年に。四条の橋を渡さんとて。新座本座の田楽能くらべをせし時に。始て。日吉山王の示現なりとて。 猿面を着せし猿楽を舞出せしと。大平記に見えし。是より又田楽は衰へ。猿楽盛に行はる。その後様々の事作り添て。謡といひ。能といふ事に成し。古雅なる事はなく。散楽といひし時の残ると見ゆること更になし。 是貞和以来作り出せし故なるべし。職人尽歌合に。猿楽又曲舞まひといふものゝ歌。また。判詞をみるに。今の狂言といふは。貞和已前の猿楽といふものなるが如し。昔の猿楽。今の狂言に転ぜし事ある歟庭云。 職人尽。猿楽又曲舞まひの歌。判詞ともに古き猿楽とおぼしき事も見えず。猿楽の画は今の翁舞のかたなり。もとの猿楽は今の狂言のごとしといふに。別に証を求るにも及ばざるべし。寛正の頃。興行ありし猿楽能の謡の名に。 出雲。十柄。鶴次郎。打入曾我。梶原二度のかけ。星宮など書しもの有。今の内外二百番といふには見えず。今その名の転じたる歟。廃れたるかしらずといへり。按るに。今二百番の外百番の謡曲に似たるものあり。十柄は大蛇といふがあり。 二度のかけは梶原座論にや。伏木曾我は打入曾我なるべし。外題の昔と替りたる物とみゆ。其謡曲ども見て知べし。其他もあらめどいまだ覚悟せず。 能といふ事も古くみゆ。西宮記相撲条に。相撲了能一番とあり。田楽などをいふ也。さるを玉勝間に是を引て。此能字は音態なるべきに。のうといふは昔より誤れるにやといへり。 これは態芸の義にあらず。堪能の意なり。番謡の能は。東山殿の頃より始れり。是は笑ふべきこと更になければ。猿楽の本意の背けり。安斎漫筆に。諷は足利の代に作りたるものとおもはるゝは。鉢木藤永檀風など北条の代まではあれども。 足利の代に至りては憚りて作らずといへり。猿楽伝記は。妄説多き物ながら。又取べき事もあるべし。謡曲作者のことをいふ処。むかし。村上帝の御文庫に納め置給ひし十六章の謡物の次第を。叡聞に達し置しを思召出され。是謡舞べきもの也と。 上代よりの楽人の頭人たる。大和の円満が家のものに賜ふを以て。音曲の鳴物を添て。今の能を仕初たり云々。その十六章の謡物。今の曲舞也。一芭蕉。二東北。三源氏供養。四錦木。五何。六七八九十何々と。十六曲有しを。円満が是を始てより前に作次第の文談を添。 跡に論議。切り謡迄の文句を足し。今うたふ処の一番となる云々。又云。一休和尚。山姥江口を作。観世家にて遊行柳出来。朝鮮陣の時。肥前名古屋の御陣城にて。芳野詣高野詣明智等の五番。大閤の御慰能として出来たり。 羽衣は。○駿府に御座の時出来。角田川は関東御入国の後。彼地の遊民。夫婦して舞に似たる座敷芸を世渡とせし者。し初たるよし也上にいへる十六章の謡ものとは。曲舞まひなどのうたへるものにや。それを上より賜はりしなど飾りていへるなるべし。 又。加藤磐斎が諷増抄巻一。諷の作は四座の大夫の作りて。当座々々に能にしたる也。よき人の御作などもある也といひて。此下に。大永四年。吉田蔵人為将といふ人。安東典厩之所望によりて。観世弥次郎長俊が物語の趣注置たるを調進すと奥書ありて。 謡の作者を注せる文を載。その作者といふは。大かたふしはかせを付たるをいふ也。其内文句を作れる人を記したるは。狭衣常盤三条西殿御作。喜界竹田法印宗盛作。浮舟細川弘源寺作。 住吉音阿弥作。槿小田垣能登守作。夕内藤藤左衛門作。後に河内守と云。俊成忠度同作。木玉浮舟同作。吉備津宮善徳作。 源氏供養河上神主作。和州十二大夫先祖。朝比奈同作。文覚同作。小手巻同作とあり。 又。世子六十已後猿楽談義といへるものにも謡曲作者のこと。あらあらみゆ。今の猿楽。もとは観世金春の両座なりしが。近世さかりに行はるゝから。観世より保生分れ。 金春より金剛分れて。是を四座の猿楽といふ暮松大夫がことは神田神事能の処にいふ

春湊浪語…春湊浪話。
大閤…太閤。


《嬉遊笑覧巻五下》歌舞

○おくにかぶきの江戸にて行はれしことあらあら記すべし。そゞろ物語三浦浄心の見聞集五十二冊の内より抜出て。寛永十八年に開板の書也。くにがことをいひて。 北野つしまの守と名付東海道名所記に。五条の東の橋づめにて。やゝ子をどりといふ事をいたせり。其後北野の社の東に舞台をこしらへ。念仏をどりに歌をまじへとある。其時の名と聞えたり。 翁草に。国が歌舞妓興行の芝居の地は。始め五条の橋の南に有しを。右の橋を只今の処へ掛かへらるゝに依て。其場処。御用地となり。芝居を四条宮川の西畔へ移されけるが。夫も秀吉公伏見より御参内御道筋に近く。憚り有とて。 只今の東畔へ移されしとかやといへり。おもふに。そのかみは後世の如くならず。芝居は竹がこひ。むしろばりなどにて。しばらく興行しては又他所に行しなり。○江戸にて興行は。ある日記に。慶長十二丁未年二月十三日。従今日於御本丸与西御丸之間。 観世金春勧進能あり云々。桟敷銭六十貫文有之。一人二十銭づゝ。大夫共やゝこ踊もさやうに御座候間。外聞迷惑之由申札を不立。人によりて勧進銭をとる。何れも永楽銭也。同月廿日。於先度之能之場処に。国といふかぶき女。勧進かぶきありとみえたり。 諸国の遊女そのかたちをまなび。一座の役者をそろへ雍州府志に凡能大夫脇大夫狂言大夫以下。笛大小鼓地謡ことごとく備る。これを一座といふとあり。一座の役者是也。 舞台を立置云々了意が記に。其時三味線はなかりき。かくて三十郎を夫にまうけ。伝助をかたらひ。三条縄手の東。祇園町の後に舞台を立。さまざまにまひをどるといへり。 中にも名を得し遊女には。佐渡島正吉村山左近国本織部北野小大夫出来島長門守杉山主殿幾島丹後守などゝ名付。是等は一座のかしらにて。かぶきの和尚といへる也羅山文集に。佐渡島かぶきは。慶長十九年なり。 了意の記。六条傾城町より。佐渡島といふもの。四条河原に舞台を立。けいせいあまた出して舞をどらせけり。若上らうといふ傾城屋。また。舞台を立て能をいたす。脇もつれも地うたひも皆傾城共也ければ。謡は蚊の鳴やうにておかしかりければ。 後には脇地謡は男をやとひて出せりと有。その頃。歴々の人迄も。これが為に放蕩なりければ。女かぶき止められ。なほ六条三筋町も追たてられて。西朱雀。今の島原に一廓を立。傾城。その外へ出る事を許さず。 佐渡島正吉といふ遊女。かみ方より江戸へ下るいまだ上方にも盛なりし頃也。払はれしは江戸も同時成べし。江戸繁昌故。三里四方は野も山も家を造り。寸土のあき間なし。 然るに。東南の海ぎはによし原あり。色ごのみする京田舎の者ども。此よし原を見立。けいせい町を立むと。よしの刈あと。爰やかしこに家作りたりし此もの語は慶長中の事にて。甚右衛門が開きしは再興なり云々。 能かぶきの舞台を立おき。毎日ぶがくをなして是を見せける。此外勧進舞蛛まひ獅子舞相撲浄るり。色々さまざまの遊びしてぞ興じける。 これらの見物をかごとになし。僧俗老若貴賤。此町に来り群集すすべてこれらの事。洞房語園板本写本ともに載せず。おもひ見べし江戸よし原町にて。来三月五日。かつらぎ大夫かぶきをどり有と。 日本橋に高札を立るいづれの年ともしられねど。元和已前にてはあるなり。貴賤群集し。見物す此下に大夫かぶき踊りの事あり。文長ければ略之。 大小つゞみ笛大この役者は男也云々。弥兵衛善内が狂言の風情。取分猿若出て。色々の物まねするこそおかしけれ猿若の事は後に出。はうさい念仏猿廻し酒に酔在郷の百性あらゆる物まね。 扨もよく似たるものかな此下。かつらぎ大夫。自然居士の能をしてあしかりければ。皇帝のかつらぎ大夫異名取し事あり。遊女ども江戸を払はるゝ条。とかくかれらを江戸に置べからずと。 女の数を改めらるゝに。和尚と号する遊女三十余人。其次の名を得る遊女百余人。みな悉く箱根相坂をこし。西国へながし給ふ吉原の事は娼妓の条にいへり。○古屏風の絵に。四条河原かぶき芝居の小屋。やぐらの下に庵形の札あり。 六条三筋町の傾城出て。かぶきするよしを書付たり。定とはしに書。正中に。大夫 蔵人市十郎金作。右に。来ル八日より。於此処。六条中の町。又一大かぶき仕候。左に。御望みかたがた御見物可被成候。卯月吉日と有。やぐら幕の紋は。水に車なり。 又一は。林又一郎なるべし。伏見の繁華こと変り。又一も六条に移りし頃なり。○高札も書やう此様なるべし。歌舞妓事始の妄作を知べし。○蔵人は。西鶴大鑑に。大夫蔵人。お国が女かぶきも絶て。若衆を数多かゝへ云々いへる蔵人なるべし
(中略)
○其頃葺屋町はいまだあらず。故に村山又三郎も堺町にてといへり。是は泉州堺の産。村山又左衛門が二男と云。承応元年に身まかれり。吾嬬物語寛永十九年の印本。伝馬町を通り。禰宜町に至りぬ云々。 村山さこんが大かぶき。さつまたくみがあやつり。くわんじんすまふ。土佐が能。其外色々限りもなくと見えにける。色音論草子は寛永廿年の板本也。それにも禰宜町にさこんがかぶきまひ相撲さつま虎屋が操土佐が能と見えたり。 左近がかぶきは。此村山又三郎が芝居也。又三郎聟村田九郎右衛門は家業ことなれば。其名題を立て。一村宇左衛門并三国彦作。相座にて。右の芝居相続す。此時上方より三線芸者共下る。是より専ら三線用ひたりと見ゆ。右近源左衛門も同時に下り。 海道下りといふ狂言に。かつぎたるゆかたびらといへるは。能狂言の女の形する。かつら巻ゆぼうしにて。お国かぶきの頃。専ら用ひたるものなるを。此書上の頃は見知らぬ事故。かやうには書し也。卜養が狂歌。女のまねして舞ける源左衛門といふ者を見て。 又。たぐひあるものでない過去未来げん左衛門が舞のなりふり。吉原徒然草に。小まひのふりは。京四条大和屋伝助が弟子。右近源左衛門かいだう下りを作り。赤手拭をかつぎ小まひをしけり。昔々物語に。右近源左衛門といふ若き役者。京より下り。三味線引壱人。 地謡壱人にて芸をする時。今のかつら緒といふものもなく。鬱金の服紗ものに糸を付て額にかぶり。月代に打かくる。面躰きれいの若ものなれば。女のごとくみゆる。扨芸とては。海道下り山崎下りなどゝいふ道行。地うたひうたふ間。小舞にまふ。 又業平餅を買ふ処を独狂言にまふ云々有。海道下りの歌は。糸竹初心集。おもしろの海道下りや。なにと語るも尽せじ。加茂川白河打わたり。おもふ人にはあはだ口とよ。しのみやがはらや。じうぜんじ。せき山さんりを打渡り。 人をまつもとにつくとの。見渡せば瀬多のからはし。のぢのしのはらや。かすむらん。雨はふらねど。もり山をうち過て。をのゝ宿とよ。すりはり峠の細道を。こよひはこゝに草枕。かりねの夢はやがてさめが井。ばんばと吹ば袖さむき。 いぶきおろしに。ふはのせきもり。とざゝぬ御代ぞめで度。海道下りは。京よりいづくへも行ことをいへり。何処下りといふも。もと是也。俳諧埋木に。おもしろや花にかいだうくだり月。続五元集。乞食になれてやすき世をしる。町くだり二声うらぬ茶筅うり。 温故集。桃隣が案山子の句に。道くだり拾ひ集めてかゝし哉。西鶴が大鑑に。むかし右近左近が時は。面かげまぎらはしく。頭は置手拭にして。大かたに色作りしに。諸見物もそれなりけりに請取。仕組も今に見くらべて過にし事おかしかりき。 某下りといふ事。次でに今一つ。やゝ遠き処をいふに似たり。夜更るを夜降チと云意の如し。夫木集に。述懐。町くだりよろぼひ出て世をみれば物のことはりみなしられけり 慈円。また。唯その辺をもいへり。西翁。寛文中の句。おかし気に鑓をかまへて参りさう。をとがひくだりこぼす盃。 もと登り下りの義なるが。移りてはかくもなれり。右宇左衛門悴竹之丞。十歳の時。葺屋町にて。玉川主膳と云役者と相座にて。寛文四歳。初て二。三番つゞきの狂言を作り始む。外にてはいまだこれなきよし。或云。実は三代宇左衛門妻の弟明石勘三郎。弟子養子として見物贔負つよく。 金方余情にて。村山九郎右衛門名題を買取。竹之丞一名の太夫役となる故。明石勘三郎出て。諸見物へ竹之丞引合せ。口上を述。此時鶴の丸の紋を与へて櫓に付る。後延宝七年迄。十六ヶ年大夫役つとめ。此年廿五歳。西行法師の役を一世名残狂言とし。畢の日舞台より笈を負て修行に出。 比叡山にて学び。年経て江戸に帰。もとの師。本所五ツ目自性院病気看届け。終に爰に住持し。上野御門主様にも御懇命を請。此小庵を再建して一ヶ寺とす。此寺の開山となる新編江戸志にも委し。 滝井山三郎と相座元の事。此書上には見えず。是は初の宇左衛門が時なるにや。
(中略)
○角兵衛獅子とは越後獅子をいへり。山岡明阿の説に。是角觝戯なり。其名を誤りて角兵衛獅子といふといへるは僻ごと也。こは其国蒲原郡より出るなれば。蒲原獅子といひしが訛れるにや。越後国にては角兵衛といはず。蒲原獅子といふにて知べし。

《嬉遊笑覧巻之六下》児戯

いしなどり。栄華物語。月の宴。へんをつかせいしなどりをさせ。拾遺集に。十八賀。春宮のいしなどりの石めしければ。卅一をつゝみて一つに一もじを書てまいらせける。よみ人不知 苔むさばひろひもそへんさゞれ石の数をみなとるよはい幾よぞ。 赤染右衛門家集に。女院の姫君ときこえさせし頃。いしなどりの石をめすを参らすとて。すべらきのしりへの庭のいしぞこはひろふこゝろありあゆかさてとれ。山家集に。石なごの玉の落くる程なきに過る月日はかはりやはする。 散木奇歌集。いせの斎宮に侍る頃。いしなどりの石あはせといふことせさせ給ひけるに。ちいさき草子のいしなどりの石の大さなるをつくりて。十の石にひとつつゝかき侍りけるとありて。数十首あり。その歌金葉集に一首入。くもりなくとよさかのぼる朝日には君ぞつかへむ万代迄も。 和訓栞に。法隆寺の宝物にいしなどりの玉あり。小児の語に小石をいしなといふ。伊勢に石名原あり。奥州にいしな坂ありといへり。 いしなどりは今いふ手玉なるべし。埃嚢抄に。石小をいしなごと訓り。は字書に摸也とありて。 義はかなへるやうなれども。其字面何に出たる歟。疑ふらく字の誤にや。帝京景物略に。正月元旦是月也。女婦間手五丸且擲且承。曰子児。 丸用象木録礫為之。競以軽捷とあり。これ手玉なるべし。いしなごは石投なり。物類称呼に。石投。江戸にて手玉といふ。東国にて石なんご。又なつことも云。 信州軽井沢辺にてはんねいなはといふ。出羽にてたま。越前にてなゝつご。伊勢にてをのせ。中国及薩摩にて石なごといふといへり。房総志料。上総附録の内に。長柄山辺二郡の海錦砂子を産す。 女児輩イシナゴといへるもの也。又ナンゴともいふ。其最小なるを市原望陀の海に産す。其名をキサゴといふ。土人採て稲田の糞とすなどみゆ大なるをいしなご。小きをきさごといふにや。 きさごは鶴岡職人歌合。蒔絵師。月かげにみぎはのきさごかきよせてこゝに蒔絵のはこ崎の松と有。きさごに大小二種あり。大和本草に。チシヤコ。小螺なり。殻薄し。赤白の紋あり云々。 小児其からをつらぬきあつめて玩とす殻薄しといへるは非也。堅厚にして小は斑文あり。大は灰色にて斑希なり。小野蘭山云。本草綱目。山草部。自集解に根形似扁螺といへり。 白根ほどきさごの似たる物なければ。此扁螺きさごなること明らか也。京師にてゼヽ介と云。小児これを貫き弄ぶといへり近江にてゼヽ介と云は。膳所貝にて蜆をいふ。是と異也。 ゼヽ介とは銭貝の意也。江戸にてはだんべいきさごといふ。だんべいはもと石を積舟をいふ。風俗文選李由が湖水賦。段平に大石を積。は耕のたすけ也とあり。 段平といふ舟の。平たく堅厚に作れるをおもひよせて。貝の名に負せたるにこそ。此きさごの大なるを今は手玉にとれども。古しへは小石を用ひし也。此介をいしなご共いふは。この戯事よりうつれる也。又。童戯に舌尖にきさごを吸付る事あり。 屠竜工随筆に。シタヾミはキサゴのこと也。此介を舌のさきに吸つくれば。舌のだみて物いはれぬ故に名けたりといへる説わろし。神武天皇御歌に。大石に八重匍纒へる小螺子と読せ給へりしは石也。タヽミは重るをいふ。今又一種石たゝみといふ介あり。 これは紋理の石たゝみに似たる也。入子枕は正徳元年の梓行也。まゝごといしなごなどにむすめらしうといへることあり。此頃迄も手玉とるとはいはざりしとみゆ。又。手玉とるにテツといふことあり。相撲の条にいへり。
(中略)
○相撲人形。今薄板を切ぬき。熊と金太郎のすまふ人形を作れるあり。江戸二色に其製の物あり。二つともに人形の躰同じく。ほゝかぶりを赤く色どりたり。狂歌に。勝もすまひまけもすまひの木偶の坊勝負は人の手の内にあり。 又一種。すまふとりの人形絵をきりぬきて。後に発燭を細く截たるを貼つけて。立やうにして二つ向はせ。息を吹かけて倒し。勝負をみる戯あり。板にて作れるといづれ先なるか。是も古き物なり。相撲大全の序に。予少時有一戯具。 取見之摺畳繭紙。聨剪為鼎形。折如人字。乃細覩之。則塗鴉其首而為髻。綵飾其腰以為ツ。各紀其字号。宛然両人将相撲之貌也。其戯法装之席上。戯者亦相対。曲折傴僂。尖其口嘴。気息徐々。一斉吹起来則盤旋欹斜。暫時争競而仆。得其上者為勝而号呼とあり。これ宝暦癸未の撰也。
(中略)
○松葉の鎖。明和二年川柳点。迷惑なこと迷惑なこと。礼の供松葉でくさりこしらへる又。松葉すまふのこと。草木の条にいへり

《嬉遊笑覧巻之七》行遊

○可咲記正保元年の記。むかし。弥生の長閑なる花の盛りにいざなはれて。善光寺といへる武蔵野の辺をさまよふ折から。深山桜枝もたはゝに咲みだれて。こゝらの人めにぎはしく。富栄ふ人々。わりご等のもてなしさまざまに。うたふつまふつの声きくも。 心そゞろ也といへり寛永中の草子色音論に。しのはずの池云々。北はととへば。ぜんくわうじ。あたりにちかきやなか寺。仏法はんじやうのれい地にて云々あり。青山善光寺は。もと谷中にありしを。宝永中。此地に移るとなり。谷中を。むさしのゝ辺とはいふべからず。 然らば。こは川口の善光寺にや。いぶかし。そのかみ此あたり。花見する処にや。紫一本に。花は東叡山。谷中感応寺。浅草観音堂。四ツ谷自性院。芝大仏。渋谷。柏木円性寺。谷中法恩寺とあり。 こは延宝天和の頃賞せし処なり。されどこの内。東叡山の外は花も少く。花見の多く出しとも聞えず。さて。むかしの花見のさまは。守武千句に。うしろをみればさびわたりけり。とぎもせぬやりをやとものかつぐらん。あぶらはなきか山さくら狩。 これ天文頃武士の風俗をいへる也。雄長老狂歌。花見する供衆のはなす鉄炮にあたらじとてや帰る雁がね。慶長の頃。お国かぶきを見物の人。鎗をもたせたる古画あり。後までも此風遺りて。昔々物がたり。むかしは寛文頃をいへり花見。 野遊山には。小身とても鎗をもたせ。侍を召つれ出る。其内若き衆。もし家来不自由の時は。鎗持も侍もなければ。六法上は気に出立。器量よき草履取計召つれ。友達四。五人にて出る人はあれど。大かた鎗もたせぬはなし。 近年は何かたへも。皆草履取計なりといへり。近年とは。元禄よりこなたをいふ。一代男慶長の頃の事をいへるに。小塩山の名木も落花狼藉。今一しおとおしまるゝ。けんぼうといふ男だて云々。北野にまうでゝ梅をちらし。 大谷にゆきて藤をへし折。鳥べ山のけふりとは。五ふくつぎのきせるづゝ。小者にへうたん。毛巾着。ひなびたる事にぞ有けるといへり。穏ならぬ世のさま。思ひやるべし。今も人多くつどふ処には。無頼の徒打まじれり。花はよくとも。さるあたりは。 出て見ぬこそ風雅ならめ。人ぞめき多きは常にて。人出ること多ければ。ますます出る人多し。是其処によるにあらずして。人によりて也。後日男草子に。古人称美して吉野の花といへど。盛りのたゞ中にも。木樵の外は。けがに髪長といふもの。 山伏の髭より外にしる人もなく。花見小袖のもやうも見ず。弁当のしたみさへしらぬ山桜を。いかなれば花の名所とは。いひつたへけむといへるもおかし。花見には。蹴鞠奕棋相撲連歌猿楽絃歌など。常のこと也。ことに昔は。花見にはかならず男女ともにをどりて遊べり。 古画をみるに。此さま多し。望一後千句に。花見するをどり鼓に笛の声。いかに頭をふりふる柳ごし。洛陽集に。ぬぎかけて桜かざゝぬ袖もなし 正武。京羽二重。人ごみぞあたら桜のいせをどり 政則。花見小袖。衣裳幕なんどいふことは。紫の一本に東叡山花見の条。 松山の内。清水のうしろ。幕はしらかして。見る人多し。幕多き時は三百余り。すくなき時は二百あまり。此外につれ立たる女房の上着の小袖。男の羽織を。弁当からげたる細引に通して。桜木にゆひ付てかりの幕にし。毛氈花むしろ敷て。酒のむなり。鳴物は御法度にて。ならず。 小歌浄るり踊仕舞は咎むることなし。本町通り町をはじめ。有徳なるもさもなきも。町方にては女房娘。正月小袖といふは仕立ず。花見小袖とて。なる程手をこめ結講に。だてなるものずきしたるを着て出るは。花よりも猶見事也。花の頃は曇りて。大かたは昼過より雨ふる。 しかれども傘をもさゝず。よき小袖をすきとぬらして帰るを。遊山にも又手柄にもする也。花盛りには。どんどろめきの石橋からは。中々先へは行かれず。見物の人。四方からの集りなれば。ひしとつまりて。動きはたらきもならず。車坂からもあがり。 屏風坂からものぼれば。上野の人こみあひ。夥しき事也とあるは。天和のころ也。又花見に風呂を立て入し事あり。同条に。あなたこなたもみる内に。遺佚。何かたへか見えず。陶々斎方々たづね歩行たるに。いつの間に支度しけむ。大仏の後の窪に。 桜の花さかりなるその下に。居風呂をたてゝ花を入て。温泉水なめらかに岸を洗ふと。たはごとつきして。垢を流し居る。水風呂のあかなくおもふ花なれば上野の山も入てこそみれとあり。こは戯作ながら。さることあらむと思はるゝは。宝倉に花見の夕暮をいふ処。 氈も筵も打まくりて。水風呂の火けしてよ。物落すななど。かしこげに掟てゝ人々は立帰れば。下部ぞあとに残りけるといへり。又上野に人の群聚せし事は。加友といふものゝ発句に。上を下へえいとう山の花見かなこの句のこと。靱随筆に。添削を宗因に乞ふ。 宗因云。おもしろけれ共。連歌めきたり。かやうにてよかるべしとて。花見衆やえいとうえいとう東えい山。即時に引直して。さて脇をし侍らむと。霞ひけひけ押車坂。とつけられたり。えいとう山の句。連歌めきたりとや。厚きはいかいなりといへり。 松の葉に載たる小野川検校が花見といへる長歌に。八重の霞にいや高き。めぐみになにかうへの山云々。さてそれぞれ幕の内。ちやのゆまつかぜそめもやう。なにはにかるやよしあしの。とさをかたらぬ幕もなし土佐ぶし流行の頃ほひ也。 おなじをかべの松にはあらで。その里人のふうぞくも。名はなつかしきやり衆やり梅。すがたかたちはよこぶとり遣手女をいへり。みとりたよりがかみゆひかへて。やぼに身をなすかゝへ帯かゝへ帯は。今いふしごきの腰帯也。 これ吉原町の禿ども。花見に出し也。貞享元禄頃より此事あり。西鶴が諸国咄に。屋かた住居気づまりも。上野の花にわすれて云々。衣裳幕の内には。小歌まじりの女中姿云々。この小袖まくといふこと。京師難波にはなかりし。誰袖梅に。むさしの国のよしの山。 春の盛りもけしきだち。京にめなれぬ衣裳幕。衣かけ山もけおさるべし。艶道通鑑に。知恩院の馬場先より。下河原安井の内八坂霊山地主の庭。声なうて人を呼花。まねかざれどもおのづから群がりて。木かげつぎつぎしき処。水草の清きにたよりて我一と幕打まはし。 氈しき並べ。まくよりまく。御めんたがひの挨拶して。所せきは都ぞ春のにしきに木綿こきまぜて。抜かけし小袖のちらほら風に靡くは。霽ざるの虹。足拍子のどろどろは。雲あらざるの雷云々あるは。小袖の肩ぬぐ也。幕にぬぎかくるにはあらず。 されど。宝永三年刻梓の塵滴問答に。江戸京都の女子。花の時野遊に。色々の衣を樹上にかけつらね。外の隔となし。是を衣裳まくと名付云々いへれば。其頃には京にも江戸をまねびしか。此事。唐にも似たる事あり。 開元天宝遺事に。長安士女遊春野歩。遇名花則設席藉草。以紅裙逓相挿掛。以為宴幄。其奢逸。如此也といへれど。彼手を尽して新たに仕裁しを。雨にぬらしてあそびとするなどをば。何とかいはむ。

結講…結構。
どんどろめき…「今ハ三枚バシト云」傍書あり。


《嬉遊笑覧巻之九》娼妓

○芝屋町。箕山云。近江国大津遊廓を。世に柴屋町といひならはし侍れども。馬場町也。柴屋町は遊廓の外。下の一町をいふ。傾城廓中の外へ出ず。天神廿六匁。小天神廿一匁。囲十六匁。青大豆十匁。半夜八匁也。 夜みせのみ。昼みせなし。傾城先年は八町の旅館迄も出しぬ。いつよりか制禁也。今はさびわたり。昔の五分一もあらず。伏見より少しまさりたれど。かくおとろへたれば。いづれとわきがたし。 一代男。柴屋町。都に近き女郎の風俗もかはり。端局にものいふ声の高く。ありくも大あしにせはしく。着る物もじだらくに帯ゆるく。化粧もめだつほどにして。よしあし共に三線をにぎり。 づをふつてうたふ。立寄ものは馬かた。丸太舟のかこ。浦辺のれうし。すまふ取云々。此処をいさかひの場にして命しらずのより合。身を持たる者の夜ゆく処にあらず。永代蔵に。大津近年問屋町長者の如く。 屋作り昔にかはり。二階に撥音やさしく。柴屋町より白女よびよせ。客の遊興昼夜かぎりなし此事延宝頃には止たりといひしが。又貞享ころより再興したるにや。 丹前能に。柴屋町。格子女郎。禿あり。挙屋を中宿といふ。端女郎。小家に青のれんかくる。局といふと有
(中略)
江戸吉原町の起りは。三浦浄心が見聞集巻七。そゞろ物語に云。見しは今。江戸繁昌ゆゑ。日本国の人あつまり。家つくりなすに依て。三里四方は野も山も寸土のあき間なし。 然るに東南の海ぎはに。よし原あり。色ごのみする京田舎の者ども。此よし原を見たて。けいせい町をたてんと。よしのかりあと。爰やかしこに家作りたりしは。 たゞ蟹の身のそのほどに穴をほり。住居たるがごとし。古歌に。あし原の刈田のおもにはひちりていなつきかにや世をわたるらむ。とよみしも。此けいせい町にこそとわらひたりしが。 日を追ひ月をかさぬるに随つて此町繁昌する故。草のかりやを破り。西より東。北より南へ町わりをなす。先本町と号し。京町江戸町ふしみ町堺町大坂町墨町新町などゝ名付。 家居美々敷軒を并べ。板ぶきに作りたり。扨又本町を中にこめて。其めぐりにあげや町と号し。幾筋となく横町を割。能歌舞妓の舞台を立置。毎日ぶがくをなして。是をみせける。 此外勧進舞蛛まひ獅子まひ相撲浄瑠理。色々様々のあそびして興じけるこれらの事。洞房語園には。板本写本共にすこしも見えず。あはせ考ふべし。 已下。文繁ければ。要をつみてしるすべし。当時おくに歌舞妓の学びして。舞台を多く建おき。妓女ども能歌舞妓をなすよし高札にしるし。町中繁華の処々に立て人を集む。 これに惑ひて身を亡ぼすに至れるもの多かりければ。とかく彼等を江戸に置べからずとの議にて。女の数を改め給ふに。和尚と号する遊女遊女の上色を和尚といひし也卅余人。 其次に名を得る遊女百余人。みなことごとく箱根大坂をこし。西国へ流し給ふと有。これ慶長年間の事也。是によりて吉原また荒廃してありしを。其後甚右衛門といふもの願をたてゝ。 再興せし也落穂集に。慶長五年以前葭原町のことをいへり。合せおもふべし。写本洞房語園に。元和三年甚右衛門に傾城町のこと御免許ありて但し慶長十七年の頃遊女町の願書を出すといへるは。 うけがたし。夏中より地形普請に取かゝり。元和四年十一月より一同に商売致候由といへり。又事跡合考に。宝永の半頃。江戸町名主西田屋又左衛門に傾城町来由を尋ね委細に記し置。 しかし享保十七年の頃。かの町より来由を書上候とは。少し違ひ候やうなども。総ての事公界と内証とはさはることある故。 公界へは実伝十分に書出されぬものなり。又左衛門が先祖は。庄司甚右衛門といふ。慶長の頃。駿河国元吉原の宿駅たりし時。 其旅店の亭主廿五人打より相談いたしけるは。江戸御城下朝日の輝く如く御繁昌の由。なにとおもふぞ。 各抱へ置旅人の足洗ひ女共召連罷下り。遊女宿となり候はゞ。抜群富饒の身となるべしといふ。さてもよき相談と。 皆々一同して江戸に下り。御城下に入候は御咎恐入候間。今の荒井宿の浜辺の出町の地をかりて。表に紺の木綿の三尺幅に仕立たる長暖簾の端に鈴を付置。 客来りて覗けば。其鈴なるやうに致したり。鈴なるを合図に女ども出候を見たてゝ。思ひ思ひに客上りし故。此処を鈴の森と名けたるよし也。 森とは。尤此町の入口に大井社の森あれば。なぞらへていふ也。其後御願申上。今の京橋具足町の東。葦沼の汐入を拝領し築立。南をすみ町。北を柳町と名付。 中の通を中町と名づけ。此筋にかまどを出し。茶がまをかけ茶屋申。茶を売候云々。然るに日を逐て遊女やど爰かしこに出来しかば。彼庄司勘左衛門分別し。今の堺町の東に於て。 江戸中に散在したる遊女やど。一処に罷在たく由願候。吉原町に至りて。公儀より御書付両通被下置候処。明暦の火災に消失す。さて遠所へ被遣べくと有て。 先今の本所弥勒寺の処。其ころいまだ荒地にてありしかば。暫くこゝに移さる。それより今の千束の田地へ移され候。引料として金子三千両とかや下し置れ候云々いへり。 さも有べし。さて。もとよしはらのさまを現に見て書たる物。いとすくなし。色音論草子寛永廿年板本。たちやすらひてみる時は。 賤が心もよし原に。二八ばかりの上らうの。はだには白きうす小袖。うへはさまざま物ずきの。色ははなだのひたち帯。宿と揚屋のそのあひを。めぐりめぐりてわが君に。 むすびあはんと引まはし。かぶろやり手をめしつれて。町もせばしととをらるゝ。是を大夫と申けり。この町なみのならひにて。人にいみやうをつくる也。 あとに見えたるさぶらひの。いみやうをいへばとられんぼ。あれに見えたる上らうは。かうしの君と申けり。是をばはしの上らうと。 そのくはしきをかたりけり云々。又吾嬬物語これも同時の細見なり。かたちかたの如くにて。今様をうたひ。らうゑいし。扇おつとり一ふししほらしく舞たるを大夫と名付。 すこし品おとれるをかうしと名づけ。はしといふ。さて又くつわ。貧くてするわざもかなはねば。端となしおくも有。然れ共。あだし世のきのふ迄時めきし大夫はしになるあれば。 はし又けふは大夫となる。さだめしことのさだめなく。はかなさよとぞ申ける云々。さて局はいかに。これみな。はし女郎のうきすまひなり云々。大夫七十五人。かうし卅一人。 はし八百八十一人。惣合九百八十七人と記せり。女郎の名。大夫は殊なることなし。それより次には。よの常のおもじ名。又何之助。何太郎等の男名も多見えたり。 揚代はしるさず。明暦三年今の新吉原に移りても。揚代は同じかるべし。写本洞房語園に。大夫名目は京都より始る。芸のうへの名也。 慶長頃迄遊女共小舞乱舞を嗜み。一年に二。三度づゝ四条の河原に芝居をかまへ。能大夫。舞大夫みな傾城が勤めしなり。おのづからよき傾城の惣名となりける由。 大夫一日の揚銭三十七匁也。格子は大夫の次。京都の天神に同じ。大格子の内を部屋に構。局女郎より一ときわ勿躰を付る。局に対して紛れぬやうに。 格子といふ名を付たり。局女郎一日の揚銭。銀廿匁也。但し寛文年中。散茶といふもの出来て。揚銭も同金百疋になる。局のかまへやうは表に長押を付。 内に三尺の小庭あり。局の広さは九尺に。おく行弐間六尺也云々。元禄中より局といふことすたり。惣て吉原の古風古実。取失ひたり云々。 又元吉原より今の地に引るゝ時の事共をいへる条。只今迄は二町四方の場処なれ共。新地にては二町に三町の場処五割増に被下候。 只今迄は昼ばかり商売致候処。自今昼夜の商売御免あり。町中に二百軒余有之候風呂屋。悉く御潰被遊候云々あり。按るに。元吉原にても初め昼夜商売したりし也。 色音論に。よしはらや。よるのかよひのやみければ。ふろ屋の女はやりものとあれば。夜の商売は寛永の末にやみたる事。しるし。さて天和貞享の頃。 女郎の揚銭。江戸鹿子に。大夫は三十七匁。格子廿六匁。山茶金壱歩大夫揚代もとの如し。局五匁三匁。その下は銭百文云々。 諸艶大鑑。貞享元年の草子なるに。大夫は揚銭昼夜七拾四匁。格子は五拾弐匁。是は上がたにて天神といふなるべし。昼計は廿六匁也といへり。 しからば大夫も三拾七匁は。昼夜の半分也。諸芸太平記。惣じて此里のならひ。昼一つ夜一つと二つに割て。大夫を卅七匁づゝに極め。 昼夜の揚銭七拾四匁。引舟はなし。かぶろ二人也。又。五寸つぼねを通し領。三寸を半領といへりと有後世元文寛保の頃。大夫八拾四匁。格子六拾匁。 散茶昼夜三歩。寛延の頃。大夫九拾匁。格子六拾匁。散茶金三歩。これ文金行はれしより也。局五寸。二寸などいふは。切れを売の意也。元禄の初め五寸局をあつめ。 うめ茶といふもの出来ぬ。又。爰にも散茶といふは。ふらぬといふ心なり。近年の仕出し。弐町めの玉屋。兵庫屋。大津屋。是から見れば揚女郎にもさのみおとらぬ姿を。 一軒に五十人づゝも見せかけ。大かたは歌うたふて弾ざるはなし爰にも。といへるを見れば。散茶といふこと。江戸にのみいひしにはあらじ。 写本洞房語園。寛文八年の頃。端々の売色ども吉原へ移りし時。風呂屋者共ありて風呂屋の家作りを用。局を広く構へ大格子を付。庭も広く取。 ギウ台とて暖簾の側に三尺四方ばかりの腰かけを付。ギウといふ者をつけ置て。客を引この家作り。今の女郎屋。皆これ也。 有来りし傾城とちがひ。意気もなくてふらぬといふ意にて。散茶といひけるが。いひやまずして。終に惣名と成たり。近年散茶みせの模様をかへて。 広き庭をもとらず。大格子の内を局座敷に拵へたるを。散茶に対し。うめ茶と戯れにいひけるが。是も又。この頃は本名のやうに成たり色三線三巻。 近き頃のしだし。うめ茶で咽のかはきをやめ。当座ばらひの気さんじ。それから五寸。三寸。新町がしのかきのうれんは。定めて百づゝ。ころりとねて。 かくはあれ共。散茶は何をいふにか。按るに。籠耳冊子五。その家の下女。そばに茶をふりてゐける云々。茶をたつるを。ふるといへり。 これは挽茶にはあらず。枝共に刈たる晩茶を濃く煮て。茶筅にて振たつる也。散茶とは今いふ煮ばなにて。好茶なり。ちらしともいへり。 文献通考。茗有片有散。片者即竜団。旧法散者。則不蒸而乾之。如今之茶。五元集拾遺。侘に絶て一炉の散茶気味ふかし。ちらしといひしは。 一代男一。風呂屋者をいふ処。ちらしを飲せ。浴衣の取さばき云々。一代女五。烟草盆かた手に。ちらしをくみて云々。諸艶大かゞみ四。役者まじりの人ごみ。 ざつと揚り場に散しなど呑。ゆかた畳む間云々あり。風呂あがりに是をもてなせし故。風呂やもの。吉原にを出したる時。 その女郎を散茶といひし也。あながち。ふらぬといふ謎にはあらぬを。やがてその義に取。かたる也山東京伝。自笑が内証鑑に。 ちらしを汲といふことを引り。西鶴の画に多きを。後の自咲を引さへあるに。ちらしを風呂のかゝり湯のことなりといへるは。いたく誤れり。 又。うめ茶は水をうめて。ぬるくしたる心也是も北女閭起原に徒流が説あれど。甚わろし。 茶を挽といふ事は。道恕が説に。慶長頃迄は。歴々の御方も兼日の約束にて。明日は誰が家の何といふ大夫が手前にて茶をたべに参る抔と。 こゝろやすき同士は誘引あるきしと也。今に至る迄。隙がちなる傾城をお茶を挽といふも。此節よりの癖なりといへるは非也。唯徒然にてさびしきさまをいふ也。 元隣が発句に。花を見で留主して茶ひく座敷かな。続山井。住吉にて 松風の音や茶をひく神の留主。茶をば留主居に挽する事と見えたり。 寂しき躰おもふべし。女郎のもてなしを茶にたとたるは。散茶以来の事也。又道恕が説に。寛文年中散茶出きし時。江戸町二丁め名主源右衛門御願申上。 堺町伏見町両町の新屋を作る。堺町は角町と二町めの堺なれば堺まちといひ。伏見町と名付しことは。同町二丁めの年寄山田屋山三郎山口屋七郎右衛門東や次兵衛岡田屋吉左衛門。 此者共の先祖は。吉原開基の頃。伏見の夷町。同処豊後橋抔より引越たる者共なれば。先祖の古郷を慕ひて。伏見町と名付たる也云々按るに。 此時散茶みせを作りたるにて。町屋はもとより有し也。界町も伏見町も庄司が再興已来の名にあらず。元吉原慶長中に此町あり。首にいへるが如し。 徒流云。界町。明和の類焼後建塞りて。其跡なし。伏見町は今も繁昌す。価銀二朱。鐘四つ過より。孔方四百。うかれ人是を鉄炮といふといへり。 茶屋。遊女持共吉原へ入込しは。寛文八申年の頃也。一日の揚銭金百疋づゝ也。此節迄局女郎といふは。揚代弐拾目なりしが。散茶におされて是も金壱歩となる徒流が云。 元禄年中より。局といふことすたり。惣て吉原の古実取失ひたりと歎きて有。其頃よりみな散茶造りになりたるが。当時遊女屋の家作。どれどれも散茶作り也。 むめ茶作りさへ廃して。今知れる人稀なり。近き頃迄江戸町一丁め巴屋源右衛門。家作がむめ茶作りにて有しが。表惣格子にて。みせの壁の方と跡尻のかた二方に女郎並居て。 籬の方にギウ同座す。まがきと表の格子の間を三尺程明て。落間あり。ギウ。是より出入す。格子の並に露地あり。それより客を誘引す云々いへりといへり又寛文頃。端女郎をケンドンと異名せり。此事飲食の条にいへり

浄瑠理…浄瑠璃。
たとたるは…たとへたるは。
界町…堺町。


《嬉遊笑覧巻之九》言語

○きそん十七。明暦二年に刻せる世話尽に。まだ闇まぎれ著るをどり笠。月かげもちつくときそん十七夜。後撰夷曲集寛文十一年撰。をどりもてきそん十七。 八人もまじる役者は笛太鼓かね。一休噺。きそん十七寅のとし。角のないこそゝひよけれ。松の葉。らつぴといふ小歌。我は都のらつぴらくぐわい寅薬師。しかもわれらはまうし子で。な。うかれもの云々。 又松の落葉。京わらんべといふあづま上るり。初秋の。ぼんのをどりはいせをどり。きそん十七寅のとし。参る薬師はとらやくし。さつさとふりやれ。さつさふれふれと有。男女にかぎらず年のわかきが。はすはなるさまなるべし。 多くをどりのことにいへり。続五元集。むかしになりぬ吉首座十七。音羽とは切ていたゞく桶の音。これは浮蔵主にてありしをいへり。きそんとは木曾木なり。 羅山先生文集。慶安辛卯五月云々。童子立紙幡木曾。これは菖蒲刀を木曾といへり木ぎれといふが如し。其角が錦繍緞。十八がすまふに色をふくむなり 湖月。木曾木つかゆる月の川音 素彳。 これには十八といへり唯年わかきをいふなり。伊呂芝居冊子。近ごろ迄。きそんぼのやうに痩肉で。その無芸さ無器用さ云々有。 是にて。きのきれのやうなるをいふ。なりふりにかゝはらず。彼やつこ又金ぴらなどいふたぐひ也。松の葉。小歌のらつぴといふは。師門物語に。向ふものをばらつぴらんくわい。 かゝる者をばゆうおんつばせめ云々。戦ひの形容なり。らつぴは乱飛。らんくわいは乱廻にてもあるべし語勢をつよくいふ故。かやうの類多し。 かの小歌にらくくわいと有は。都のといふよりして。洛外といひかけたる也。又寅薬師とつゞけしは。松の落葉。とがし城といふ歌に。向ふてかゝるから竹わり。らんぴらんくわい。 とらばしりとある是にて。かくいへるがもとにて。とらといふより薬師とつゞけ。まうし子などさへいひ出しなり。また寅薬師といふことは。太秦の薬師。安置は。日本紀略云。 長和三年庚寅五月一日丙戌。五日庚寅。東西京貴賤挙令参広隆寺。人云。寅年五月五日庚寅日。薬師奉安置此堂故也と有。これによりて縁日とす。又寅のとしといへるは。虎はたけきものなる故。かの木ぎれの如き少壮の。 しかもとらのとしの生れなり。といふ意也。乱飛をらつぴといふ例は。童をわつば。白波を素波といふがごとし。こは。もと乱波といへりらつぴは。今俗言に。らつぴらんごくといふ。是なり。 北条五代記に。氏直乱波といふ者二百人扶持す。是をかまりとも草とも名付たり。過し夜は忍びに行。今朝は草より帰たりなどゝいひしとぞ。みな盗人にて。草叢に伏し。敵を討などす。 誰家集。素波に出て朝かへる月 嵐雪といふ句あり。又後撰夷曲集。白なみのにごりて黒きどろぼうやすつぱのかはの流なるらん 良久。すつぱのかはといふ諺も。やゝふるし。
(中略)
○吾吟我集に諺の歌多し。もとの女に中人なしや男山またこの秋も咲をみなへし。これそこの炮烙千につちひとつ月におさるゝ星の光は。又享保中によみたる諺の狂歌集民の竈戸といへるもの有享保十一年丙午二月佐々辺青人誌と其人自筆にて書たり。 七十ばかりの老筆とみゆ。狂歌面白からず。其内耳なれぬやうなる諺などもあり。たまに吹風ものにあたる。まてば海路に日和あり是にて聞えたり。今人。甘露の日和と云は非也。 田にしもなまぐさもの。落こぼれは弥陀の物。卯月中の十日に心なき者に雇はる今の十日中の十日とは表裏せり。河童も河流。紙子きて川立。冬瓜の花で百一つ。忠は憎のもと。門の姥にも用あり。 春寒と秋ひだるいはこらえられぬ。上戸のひ盆の前その歌酒のみのひたひにさめぬほとぼりは玉祭る頃の前のあつさや。ひだるさあくび寒さ小便近ごろいふことかと思ひし。さもあらず。 女の鼻の前。女は会釈にあまれ。漠耶が剣も持人がら。破頭巾で耳にかゝる今古綿ぼうしといへり。是は今のかた。古かるべし。男は気でもて。逸物の鷹もはなさねばしれぬ。人の異見に餅をつく。 紙子にもえり祝ひ。初のさゝやき後のどよめき。鬼とのざれ。ねて花をやる。ごぜの日だか。駒の朝ばしり。百日の照にはあかで一日の洪水にあく。世中流れ渡り。死人に妄語。餓鬼の目水。十王の勧進もくあふが為。 生れぬ前の繦袍定。やしやが馬。下手の長談義高座の妨。土仏の水狂ひ。風は吹ども山は動かず。坊主の櫛たくはへ。是非は道に依て賢し。投どをみるとも落どをみるな。夢と鷹とは合せながら。なま物じり川へはまる。 心なき子は親の古さとをかたる。銭なしの市立。ひや酒と親の異見は後薬。松木柱も三年。身でない物は骨鱠。大海芥をえらばず。えせ者の空咲ひ。聾の立聞。なりに似せてへそをまぐ。馬子にわんぼ今馬子にも衣裳といふ。意ことなり。 短気はみれんのもと。好物にたゝりなし。雁も鳩も喰た者知る。しらぬ金商ひよりしれた小糠商。藁千本有ても柱にはならぬ。粉米も嚼ば甘い。鳶の子鷹にならず。やせ坊主時に逢た。鬼の人不喰。千里一はね。食に餅を嫌。 やけど火にこりず。風下にざる。長者のはぎに味曾。我物喰て主の力もち。水入て垢おちず。時しらぬ山伏。借屋栄へて大母屋倒れる。目細あれど口細なし。尻といふとも口といはるな。一さい起れば二さい起る。主関白。犬にもくれず棚にも不置。 相撲も立方。ぶたに念仏猫に経。二度めは馬の鞍。舅のもので相聟。虱の皮を鑓で剥。木欒子は白くならず。達磨の目を灰汁で洗ふ。理を破る法はあり法を破る理はなし。高かろよかろやすかろわるかろ。楽屋で声。 小家より火を出す。因果は車輪今は銭の輪。餓鬼の物を虫がせびる。猿楽の跡七日面白。やせ子にも産神。蟹の死はさみ。立仏が居仏をつかふ。墨は餓鬼にすらせ筆は鬼にもたせよ。ほゝはつら。 水三合あれば大海。せつは時をきらはず。かまの神はお荒神。猶あまたあり。又古くは明暦二年に刻したる世話尽にあまた諺出て。今聞なれぬことゞも也。諺はおのづからの理によりていひ出しものながら。 いとあるまじきことなども往々あり。小糠仁義などいふこそ。かたはらいたけれ。よきことはすこしばかりといへども。よみすべきを知らぬにや似て非なるをば。いかで仁義といはむ

吉首座…「キソン」傍書あり。
長和三年庚寅…長和三年甲寅。
わつば…わつぱ。
味曾…味噌。


《嬉遊笑覧巻之十上》飲食

○拇戦。委巷叢談に。杭州の隠語をいふ条。今三百六十行。各有市語。不相通用。倉猝聆之。竟不知為何等語也。有曰四平市語者。以一為憶多嬌。二為耳辺風。三為散秋香。四為思郷馬。五為誤佳期。六為柳揺金。七為砌花台。八為覇陵橋。九為救情郎。十為舎利子云々。 これこゝにいふ通り符牒なり。この憶一 イ。耳二 ルウ。散三 サン。思四 スウ。誤五 ウヽ。柳六 ロリイ。砌七 チ。 覇八 パ。救九 キウ。舎十 ジは。数目にて。細注したるが如く拳にうつ唐音是なり拳法には無あり。ウヽといふ。今二をリヤンといふは両の音なるべし。二は六と紛れやすき故に両に代たる歟。 又五をゴといふは。スーリーなどの引音のウと紛るゝに依て也。類柑子に。或第宅の事をいふ中に。から国のうたを扇にうつし。拳といふ酒のみかはして云々。松の落葉。はやり歌かむふうらん替り。ヤンシウスンイロマリヤンケンタニコタマサンチヱマサンナ。 ハラリトサケノカン。オナジコト梅ノ花。トウライキウゴ五ウリウスウ。これら訛りてさまざまにいひしとみゆ。吉原町などにも。享保中にも拳相撲といふ事はやりて。遊女玉菊是を上手にして。拳まはしといふものを用ひしが。今に伝はれりとて。その図説奇跡考に載せたれど。 其頃いまださばかりは行はれざりしと見えて。延享三年丙寅。吉原細見虎が文といへるものに。拳の図解委しく出たり。かゝれば彼拳まはし。後の物なるべし。明和七年辰巳園といふ草子に。拳相撲ありし事をいへり。 江戸名物鑑。拳相撲とありて。其句。米河岸や指で戦ふ秋の雲。唯拳を打つも拳相撲なれと。辰巳園などにいひしは。酒席の上に打とは異也。銭希言が獪園に。相与揖譲而坐。拳杯便云。好酒用拳作馬互角勝負。痛飲狂歌宵向分矣と有。清商。これを化拳といふは俗語也。 拇戦といふべし。秋坪新語に。偶赴友席四坐喧譁。飛觴拇戦。履交錯。また虞初新志汪价三儂自序の内。拉客中之豪者。並拇戦不已といへり。右の拳より後さまざまの拳出きぬれど。 行はるゝは狐拳なり。虫拳などは唯童部のなぐさみ也。蛙と蛇と蛞蝓。相制するをもて勝負をなす。鉄囲山叢談に。托胎虫制蜈蚣ことをいへり。托胎は土蝸の一名也。義残後覚に。原美濃守懼内の事を人に返答するに。蝮蛇は虫の分際にて人命を取程恐しき物なれども。 藪の中に居る土蝸といふものは。海蘿を解たる如くなる物を。毒蛇の伏て居る廻りを遠懸て輪をまはす。蝮蛇是を見て逃れんとすれども。輪のうへを越す事を痛みて。己が身をひたもの少く曲る程に。土蝸は混々と廻して後にはひかゝりぬ。時に蝮蛇へたへたと崩れ朽て死す上の托胎虫これと同じ物がたり也。 本草を按るに。蝸牛蛞蝓ともに。主治功用相似皆制蜈蠍と有山中には土蝸大さ一尺ばかりなるも有とぞ。五雑組六巻。後漢諸将相宴集為手勢令。其法以手掌為虎膺。指節為松根大指為蹲鴟。食指為鉤戟。中指為玉柱。無名指為潜。小指為奇兵。腕為三洛。五指為奇峰。但不知其用法云何。 今里巷小児有中指之戯。得非其遺意乎。これによれば虫けん古雅の趣。狐けんなどの比ならず。中指といへるは。今の化拳にや。

《嬉遊笑覧巻十二上》禽虫

鶉は歌に多くよめ共。飼鳥にする事は古へは聞えず。後世慶長より寛永の頃。鶉合大に行はれし事。其頃の草子に往々見えたり。犬子集に。籠もちつれてかへるさの袖。暮るより鶉合やみてぬらむ。又。発句帳に。貞徳 詰籠でもしくわくはひとなく鶉かな詩歌会の意にや。 然らばしかくわいと書べし。又。鶉の啼声に七つさがりといふこと有。籠耳草子に。なく声ふとく七さがりの名鳥也と云り。声に抑揚多きなるべし。岩翁が若葉合第二。介我 やくそくも二処なり月二夜。鶉合は金ほどの声。近年明和安永の頃。鶉合流行て。大諸侯競ひて飼はれける。 鳥籠は金銀を鏤め。唐木象牙彫物螺鈿高蒔絵にて。皆一双二双づゝに作り。装束は足掛。天幕を金襴。猩々緋に繍もの手を尽し。用ひざる物なし。其会日には江戸中の鳥好の者は。是も件の如く劣らじと美を尽し。風流を巧み。よき鳥をえらび持出て。おなじく飾り立。勝負を争ふ。 鶉は朝をむねと啼ものなれば。必朝とく会あり。飼鳥屋は江戸中の者みな集り。よしあしを聞わけ。甲乙を定め。角力番付の如く東西を分ち。一。二を以て記すに。大奉書を横に継て書付。東西の壁に貼。もし江戸一となれば。鳥屋共に祝義として目録を遣す。此費許多也。凡鶉は鶯などの如く。 よき鳥に付置て音を学ばする事ならぬうへ。何ぞ驚さわげば胸を突て忽死する事あり。高価もて買ふは危き物也されど。近ごろ文政頃より。やうやう巧みになりて。子を生せて。よき種をそだつとかや。鶉の雌をあひふと云。懐子集。草枯やあひ夫鶉も床ばなれ 玖也。 鶉を飼ふものよく其声をまねて口笛にふけば。是を聞て雄なく。同集。なけばなく真似の入江のうづらかな 宗治。件の如く奢遊の町人等。費を厭はず大家の席に連り。勝を争ふ。もとより利の為にせず。侈りの甚しきものなり。其時勢を知べし。扨。鶉といふもの。西土にはこれらの事なく。 其声を賞せず。たゞ闘鶉とてこれを戦はしむ。五雑組云。江北有闘鷯鶉。其鳥小而馴。出入懐袖。視闘鶏。又似近雅云々。鶉雖小而馴然最勇健善闘。食粟者不過再闘。食者尤耿介。一闘而決。故詩言。鶉之奔々。言其健也。また花鏡に。凡鳥性畏人。惟鶉性喜近人。 諸禽闘則尾竦。独鶉竦其足而舒其翼。人多畜之使闘。有鶏之雄。頗足戯玩。また。小き布袋に納れ。身辺に近づけ放ちて養ふよし也。此戯はこゝにていまだせざる事也。唯放し飼にする事もなし。この外の鳥は放ちがひにする事。古くも有しなるべし。菟玖波集。よみ人しらず 軒の下にて夜を明すなり。 籠の内のねぐら尋ぬる放ち鳥。新撰六帖。人ぞうきすゞめのひなの手なれつゝしばしも身をばはなれざるらむ。よく馴て。その家をわすれぬものは鴿なり。和名いへばとゝいひ。俗にどばとゝいふ是なり。鴿に書を伝ふる事本草釈名に。張九齢が故事をいへり開元天宝遺事にもこの事出。 また。八通志に。性甚馴。善認主人之居舶。人籠以泛海。有故則繋書放之還家。故又曰舶鴿とあり。鴿は鳩より形小なり。鳩はきじばと。又。つちくれはとといふ。太和本草に班鳩をつちくればとゝするは非なり。班鳩は数珠かけばと。又。としよりこいと呼もの也。 京師にて鳩をも。としよりこいと呼り。然れども鳴声に異なる処有。土くればとは声濁りて。末を重ねて鳴。九州にて。是を与惣次こいこいと聞て。与惣次ばとゝ呼。東国にて。とゝつほうほうと聞。班鳩は声高く清て。としよりこいとばかり鳴く。末をかさねず。東国にて。とゝつほうと聞。 油粕に。よぶかよばぬか心もとなさ。年よれば気にこそかゝれ鳩の声。契沖が余材抄に。としよりこと鳴て。やがてしか名付たる。鳩はげにも。しか聞ゆれば。むかしよりかくよめり。西行の歌。山はたのそばのたつきにゐる鳩の友よぶ声のすごき夕暮。近きころみつね集の古本を見侍りしに。 声きけば老のみまさる人にくゝ来つゝのみ鳴よぶこどりかなと侍り。此歌声きけば。老のみまさるといへるは。またく彼年よりことなく声をさしてよめると聞ゆと云り。続山井。鳩の峰みよや年よりこい紅葉 未翁。また。埋草。卜養千句。ふくろうののりすれと鳴月の夜に云々。 嘉多言に。うそ鳥のさへづるは。琴の音に似たればとて。琴ひくといひ。梟のから声をば。のりすれとなくといひ。やさしきとさもしきと各別なれど。生れ付たる声なれば。すべなし云々。これらも古くよりしかいへり。鴉鷺合戦物語。梟の云。えせげなれども。がいぶんの能をぐす。 明日の雨を知ては。糊すりをけとなく。老者に死を告るに。そのをと丈を呼。続五元集。八重玉椿壺の口張。おのが音の糊摺桶に雪解て。軽口咄に。宿老いはるゝは。此中こちのもみの木でふくろうが。ほゝしゆくらう。とりおけとりおけとなきましたと有。老者に死を告るといひしは。 是なるべし。雅筵酔狂集に梟の絵に。写し絵の墨はすみにき表具せむのりすりおけと鳴やふくろう。其磧が子息気質に。我内には狐が住て嫁入事するやら。梟が来て洗濯するやらといへるも。糊すり桶と云より戯れいへり。

粟…「アハ」左傍書あり。
…「モチアハ」左傍書あり。
太和本草…大和本草。


《嬉遊笑覧巻十二下巻》草木

○宗懍荊楚歳時記に曰。競採百薬謂。百草以除毒気。故有闘草之戯といへり。和名抄に雑芸部。また此記を引て。五月五日有闘百草之戯闘草。此間云久佐阿波世と出たり。 七種類稿に。風俗闘百草之戯。独盛於呉。故荊楚記有四民闘百草之言。未知其始也。昨読劉禹錫詩曰。若共呉王闘百草。不如応是欠西施。則知起呉王与西施也。おもふに禹錫が詩は。唯その国の風俗をもて作れる迄にて。必しも呉王西施が故事あるにはあらじ。 世諺問答に。五月五日をば薬日といひて。一切の薬をば此日取なり云々。闘草の戯も薬猟より起るにやとあるは荊楚歳時記の意なり。帝京景物略。水尽頭条。雑花水藻。山僧園叟。不能名之草至不可族客乃闘以花。采々百歩耳。互出半不同者云々。 かやうに草花多き処には。又おのづからこの戯あり。天禄識余に。唐人孩児詩。闘草当春径。争毬出晩田。児輩の草合するさま。やすらひ花の画巻物に見えたり。 醒睡咲。児の遊びに草合あり。一方よりとて出さるゝ。侍従僧なりわきから。せうしなる顔にて。いや是ははこくさとなほしたり。児のは聞にくからず。侍従どのゝはめづらし過たとあり。 かく一種づゝ名を云て出すことゝ見ゆ。琵琶記に。牛府の仕女院子等が園中に遊ぶ条に。老母云。闘草到好。院子云。不好。香径裏。攀残柳眼。雕闌畔。折損花容。又無巧芸云々。
○又。すまふ取草にて。童ども勝負を争ふ戯あり。金葉集。連歌。すまひ草のおほかりけるをひきすてさせけるを見て。よみ人不知 ひくにはよはきすまひ草かな。とる手にははかなくうつる花なれど。 菟玖波集に。蘆もてかへる難波津のなみ。みだれ藻はすまひ草にぞ似たりける 源頼義朝臣。守武千句。ちからを出すほしあひのかげ。すまふをば草の露より猶とりて。先一ばんに秋風ぞふく。これらみな菫をいふなるべし。 又。続山井。相撲草も野見のすくねのたぐひ哉 不老子。すまひ草ほり取もやしば返し 友静。吹風に芝ゐがへしやすまふ草 直昌。雅筵酔狂集。すまひ草野見とむかしに聞名をもおぢてわらはや庭の内どり注に。 菫を俗にすまひ草と云。物類称呼に。菫は畿内及近江加賀能登。又東海道筋。すべてすまふ取ぐさと云。江戸にてすみれといふ。西国にてとのゝ馬と云。茎のかたはらに鉤の形あり。両花交へ引て小児の戯とす。又。東武にて。すまふ取草と云別種あり。 江戸の鄙にては。はぐさと呼。草の穂に出たるをいふ。尾州にて。やつまたと云是なり。貞佐が足を空なるすまふとり草といひし付句も。むかし語となりぬといへり。本草啓蒙。スミレはカギヒキグサ仙台。アゴカキバナ越後。 カギバナ伊ヨサヌキ。本草。湿草類なる紫花地丁なり。花は春早く開く。紫も白もあり。葉も処によりて形異にて。長きも円きも有。菫菜の類也といへり。江戸にて相撲とり草と呼ものは詩経名物弁解に。小雅鹿鳴章朱注に。 草名。茎如釵股。葉如竹蔓生。郷名ヒジハ云々。此物野外間あり。ヲヒジワメヒジワ二種ありといへり。此説誤れり。朱伝は陸が草木疏の文に随ひ。これは地しばりといふもの也。その根。 節ありて葉も竹に似て蔓延するもの也。さて其ヒシハといふもの雌雄あり。叢生するものにて。刈れども刈れども生ずる故。肥後にて小ぞうころしと云。漢名は馬唐なり。その穂四つ五つ叉になるをつみとりて。倒に席上に置。 二つよせて席を敲けば自ら跳りてすまふ取さまあり。組合せて席をうてば。一つは倒るゝなり。ヒジワの名義おぼつかなけれど。旱芝にや。乾地に生て枯れざれば也。 又。和漢三才図会に。角觝草。秋起茎頂作穂云々。小児取茎綰穂結如繦而用二箇。一挿其。両人持茎相引。而切方為輸以戯。名力草。もとはかやうにしたる也。 又。稲草或は灯草など束ね括りて。三寸ばかりに截て立れば。下広ごりて立也。是も前の如く。二つ向へてすまひとらす事おなじ。又。松葉の又を互に引かけて。切れたるを負とするを。松葉きりと云。此等のわざ異なれども。闘草の類なり又松葉の兵。後に出

《嬉遊笑覧付録》

○夏山雑談。むかしの武士は組打を好みたる故に。相撲を武芸とせし也。近世戦法そなはりて。組打を好まぬ故に武芸とせざる也。是故に今は下賤の業となりぬといへり。 鎌倉将軍家の時。歴々の武士相撲を取しも其頃の流行也。必しも戦場の為にはよらず。戦場にては甲冑利器あり。すはだの相撲と同じからざる事勿論なり。組ふせられたるも利を得る事あるは相撲といたく異なるべし。 遺老物語。永禄已来出きし物の内にも。相撲取はやる事とあり。武士にも取しもの有しなり。おのづから時の流行によれる事にて。治世にはよき人の力わざする事なければ。強き人もすくなかるべく。相撲など取る事はたとひ力ある人も。よにつれてせざるなるべし。
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坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp