及瓜漫筆
《及瓜漫筆巻之下》

   相撲八岩の墓
洛東知恩院山内一心院に相撲八岩善五郎の墓あり。
 右の横 江戸住人
       八岩善五郎事
中臺石に下臺石に
前に宝暦四戌年江戸相撲連中
南都相撲連中
秋田相撲連中
大坂相撲連中
堺 相撲連中
京 相撲連中
 転悪成善信士  頭 取 
七月廿九日
と見えたり按るに此八岩の狂言は江戸にてはせしことありやなしや知らねども。嘉永六年癸丑四月四条南側芝居にて尾上多見蔵八岩役にて。 かれが百回忌追善と名づけて興行し。大入なりとて。江戸表までも聞えけり。是は清水寺夜開帳八岩喧嘩聞書とて享保年中。 二代目中山文七。角力八岩役にて清水寺夜開帳のとき。喧嘩を狂言に取組大入ありしぞはじめなる。そも此狂言の事のおこりを聞にもと喧嘩にはあらず。 清水寺夜開帳満日の夜。今夕限りなりとて。力士八岩の扶持せられ居る大医家の愛子を抱き。乳母つきそひて参りしに。群集夥しく。産寧坂のほとりにて。 抱き居たる七八歳の男子さへおしつぶさるべくおもふほどの人にて。乳母さへ泣立つることゆゑ。八岩何心なく人除のためとて帯せし脇差を抽て。振上しを見て人々すは喧嘩よ。 人殺しよとあはて騒ぎて。老若男女ふみたふされ。踏殺され。また産寧坂より落ちて即死怪我人多く。すでに翌日脱すてしはき物または櫛笄紙入扇の類数知れぬばかりなりとぞ。 かゝる騒動せし罪に拠つて八岩は死罪に行はれしが。仲間のもの并その大医家のあはれみて墓を当院に立しとぞ。 天保のころまでは三条大橋法林寺の境内。主夜神の宝前に。その節。難をのがれし人の奉納の額ありしが。いつのころよりかうせて今はなしときゝぬ。

南都…南部か。
按るに…割注の八岩は当該墓の八岩に非ず。

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坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp