松屋筆記
《松屋筆記巻五十四》

小児の力持大女大男 同書延宝二年の条に江戸さかひ町に四つに成子ちからもち石臼に銭弐貫文のせ持上ル十一月あふみの国よりたけ七尺三寸ある大女名をおよめと云見せ物ニ出ス云々按に文政十年の夏熊本侯の領地肥後国上益郡矢部の在郷田所村より出たりとて江戸に来り熊本侯の白金の第に居る身丈七尺五寸手平壱尺弐寸足壱尺三寸五分名を大空武左衛門といへりとなん

同書…大日本王代記。

《松屋筆記巻五十八》

相撲人小島源蔵 元親記上巻相撲之事の条に元親卿相撲ノ数奇ニテ毎年国分十七夜ノ会ナドニ近郡ノ取手共ヲヨセトラセテ見物シ給其比泉州小島ニ源蔵トテ天下一ノ相撲取有リ修行ニ諸国ヲ廻トイヘドモ彼者ノ手ニタル者無之トイヘリ云々長六尺二三寸モ可有云々元親の家人久万兵庫ツマ取ヲシテコレニ勝タルよし見ゆ

《松屋筆記巻八十四》

健児チカラビト 日本紀皇極紀三丁左元年七月乙亥条に百済使人大佐平智積等於朝乃命健児相撲於翹岐前云々通証廿九巻三丁右に健児平家談云古牟弖伊和良波謂健児童也鶏肋編健児之語見于晋段灼伝梁陳伯之伝至唐尤多聖武紀天平十年停諸国健児杜詩淇上健児帰莫懶註健児軍之総称字典天宝十四載京師召募十万号天宝健児韻瑞唐旧制戌辺者三年而代以其労於途路募能更住三年者謂之健児云々集解廿四巻四丁左に呉志管寧伝曰寧選健児百余人云々按集解に呉志管寧伝といへるは甘寧伝の誤なり ○同書天智紀五丁右二年八月甲午条に於是百済知賊所計謂諸将曰今聞大日本国之救将盧原君率健児万余正当越海而至云々 ○続日本紀十一巻廿丁左天平六年四月甲寅条に免諸道健児儲士選士田租并雑徭之半云々同書十三巻三丁右天平十年五月庚午条に停東海東山山陰山陽西海等道諸国健児云々同書廿四巻四丁右天平宝字六年二月辛酉条に簡点伊勢近江美濃越前等四国郡司師弟及百姓年四十已下二十已上練習弓馬者以為健児其有死闕及老病者即以与替仍准天平六年四月二十一日勅除其身田租及雑徭之半其歴名等第毎年附朝集使送武部省云々 ○儀式二巻十五丁右践祚大嘗祭儀上に抜穂使在国云々上道向都其行列健児四人各執白木左右列立後陣健児亦同云々 ○文徳実録九巻十五丁左天安元年四月庚寅宣に始置近江国相坂大石龍花等三処之関分配国司健児等鎮守之云々按此時事日本紀略文徳天皇天安元年の条に見えて龍花を龍華に作れり ○三代実録卅九巻九丁右元慶五年三月廿六日条に出羽国司言云々承前国吏以健児為戎兵士鎮兵无置一人仍令諸郡進勇敢者云々同書四十二貫十二丁左元慶六年十月廿九日条に勅山城国司令祗承奉伊勢大神宮幣帛使先是神祇官言検格条奉伊勢大神宮九月十一日神嘗二月四日祈年六月十二日月次等祭及臨時幣帛使出宮城之日左右京職主典以上率坊令兵士相迎外門送出京城近江伊賀等国毎至堺首目以上一人率郡司健児等相迎祗承云々 ○延喜民部式上十四丁左に凡諸国健児皆免徭役唯志摩駿河武蔵飛騨上野下野佐渡播磨長門阿波讃岐等国免徭畿内免課役其食畿内用桑田地子余以国営健児田充之出羽国出挙給之隠岐国以造田三町地子充之同主税式上一丁左に健児田云々等未授之間並為輸地子田云々また九丁左出羽国云々健児粮料五万八千四百十二束云々同兵部式十五丁右に諸国健児山城国三十人大和国七十人河内国三十人和泉国二十人同雑式四丁右に凡遣鋳銭司旧銭路次国差加勇幹健児逓送若致亡失者令当国司填納 ○江家次第六巻五十四丁右賀茂祭使路次第に健児各十人云々考四巻に健児トハ力ノツヨキ人ノ事武士ノカルキ職名也今時武家ノアシガルト云類也云々按に江家次第流布印本には右の文欠たり古写本に郡司八人の下一人の上に健児各十人検非違使一人史生目椽各一人守の十九字あり ○以呂波字類抄七巻古部人倫門に健児コンテイ諸国健児云々 ○下学集上巻十五丁左家屋門に健児所中間所居也云々 ○政事要略五十三巻 ○庭訓往来三月七日条に侍御厩会所囲炉裏之間学問所公文所政所膳所臺所贄殿局部屋四阿屋桟敷健児所者芦萱葺可支度也云々抄上巻十七丁左に健児所はひそかに公事をさばく所也又秘なる客人などあひしらふ所也云々諸抄大成一巻廿五丁右に健児下学集云中間之所居也云々健児をちから人とよむ下部の事也云々扶翼に貞丈云日本紀皇極紀ニ健児チカラビトヽ訓ズ続日本紀聖武紀天平十年停諸国健児平家物語ニコンデイワラハト見エタリ力ワザヲスル者ヲ健児ト云健児所中間之所居也ト下学集ニ見エタルモ中間ハ力ワザスルモノナレバナリ平家物語ニ師光成景ト云者出根イヤシキ下郎也コンデイワラハ若ハカクゴンヤナドニテモヤ有ケント見エタリ貞丈又云健児ノ字西土ノ書ニモ見エタリ杜詩ニモ見エタリ云々按庭訓往来抄の説は取にたらざるひが事也貞丈が西土の書にも見え杜詩にも出たるよしいへるは日本紀通証の説を襲たる也貞丈は漢土の書はさらによまぬ人なれど転引してさかしらをいへる事おほし ○平家物語一巻卅一丁左鵜川合戦条に故少納言入道信西ノ許ニ召仕レケル師光成景ト云者アリ師光ハ阿波国の在庁成景ハ京ノ者熟根賤キ下臈ナリコンデイ童モシハ格勤者ナドニテモヤ有ケン云々按新野問答一巻健児条に健児こんでいと訓申候延喜兵部省式に充諸国被召由所見候下輩の兵卒ニ候歟平家物語に故少納言信西のもとにめしつかはれける師光成章と云ものしゆつこんいやしきげらうなりこんでいわらはもしはかくごしやなどにてもやありけんと候ざいちやうは諸国の吏務を行ふ政所に仕候下賤の者に候しゆつこんいやしきげらうとは出根賤しき下郎に候これにて健児童よく被心得候かくごしやは侍の中にも恰勤者と申名目候これは幹の士ニ候此平家物語にかき候恰勤者は諸寺の僧房召仕下郎に候云々庭訓往来扶翼に引たるにも出根賤き下郎とあり熟根は出根の誤にや今俗ゾツコンといへるもこれ也 ○同書八巻十七丁左猫間の条に木曾牛飼トハエ云デヤレ小牛健児ヨヤレ小牛健児ヨト云ケレバ車ヲヤレト云ゾト心得テ五六町コソアガヽセケレ云々木曾手形ニ無手ト掴付テ哀レ支度ヤ牛健児ガ計ヒカ殿ノ様カトゾ問タリケル云々按ニ伊勢貞丈ガ日蔭縵百二丁右に牛ゴテイハ牛健児也健児コンデイトヨムトハ中間ヲ云也健児所トハ中間ノ居所也ト下学集ニ見エタリ牛コデイヲ俗本ニ「コ」ノ字ニ濁ヲサシタルハ非也「テ」ノ字濁ルベシ云々といへり今武蔵相模の方言に人を罵てゴタイヤラウと云は健児丁の訛なるべし ○源平盛衰記卅三巻十七丁左木曾院参頑事条に木曾我官ヲ成タリサノミ非可有引籠出仕セントテ直垂ヲ脱置テ狩衣ニ立烏帽子〔著テ初テ車ニ乗リ院ノ御所ヘ参ル云々牛童車ヲ門外ニ遣出テ後テ一アテタレバ飼立タル強牛ノ逸物也何ノ滞カ有ベキナレバ如飛走ル木曾車ノ内ニ却様ニマロブ牛ヲ留ン為ニヤヲレ童々ト叫ケレバ留ヨト云トハ心得タリケレ共イトヾ鞭ヲ当ツ云々郎等共ガ馳付テ如何ニ暫シ留ヨト仰ノ有ルニ角ハ仕ルゾト云ケレバ牛童陳ジ申ケルハヤレ小テイ小テイト候ヘバ初テ御車ニ召テ面白シト思召テ車ヲ遣々ト仰アルト心得テ仕テ侍リ云々牛飼今ハ中直リセント思テソレニ候御手形ニ取付セ給ヘト教ケレバ云々初テ取付テアハレ支度ヤ是ハ和牛小テイガ支度カ又主ノ殿ノ構カトゾ問タリケル〕云々按平家物語八巻同説なれど盛衰記の方くはし長門本平家物語十五巻木曾乗車院参条はた同けれど牛健児牛小舎と書たり ○太平記参考本十三巻九丁左龍馬進奏藤房卿諫言条に非職凡卑ノ目代等貞応以後ノ新立ノ荘園ヲ没倒シテ在庁官人検非違使健児所等過分ノ勢ヲ高セリ云々音義上巻廿三丁左に健児所コンデイドコロ云々 ○能改斎漫録一巻軍卒為健児条に今所在以軍卒為健児往々以杜詩健児勝腐儒為証非也按世説祖逖過江時公私倹薄無好服玩王諸公共就祖忽見裘袍重畳珍飾盈列諸公怪問之祖曰昨夜復南塘一出祖于時恒自使健児鼓行却鈔在事之人亦容而不問東晋時軍卒已有健児之称 ○新猿楽記十三丁ウ四郎君受領郎等の段に是以凡庁目代若済所案主健児所検非違所田所出納所調所細工所修理等若御厩小舎人所膳所政所或目代或別当況於田使収納交易佃臨時雑役等之使不望自所懸預但民不弊済公事君無損自有利上々也云々按こゝは国の役所を並いひたれば毎国に庁目代とて国府庁に目の代ありし也済所は勘済にて公文を取扱ふ役所と見ゆ案主は台記に大従小従或号案主云々右辨官史生従七位上紀朝臣俊光可為知家司正六位上紀朝臣良成可為案主被仰件人等宜令従大臣方政所者久安五年十月十五日宣旨云々などありこゝも国の政所の役人なるべし健児所は国府の中間を置所と見ゆ検非違所は国検非違の役所也看督長一人ありてその随身の役人あるべし田所は田畠を取扱ふ役所歟出納所は出入の改役所今の勘定所なるべし調所は御調物役所也御厩は国の御厩にて別当も有し也小舎人所は侍の役所なるべし膳所は臺所也政所は元〆役所なるべし田使等は掛り役なるべし

《松屋筆記巻九十》

猿楽相撲抔の纒頭を後日に代料に引替る事 今世猿楽大夫能役者がかづけものをたまはれるを後日に金銭に引替てたまふ事あり又相撲取に衣類など投与たるも後に鳥目と引替る也こは足利将軍の世の風にて三議一統上四十五丁オに遊者請物事とて記したり

《松屋筆記巻九十四》

大名の抱の相撲田楽 今世大名衆の抱の相撲といふは相模入道の時田楽を抱たりしにおなじ太平記五三丁ウ

「田楽宇治拾遺五ノ十四丁ウ」頭書あり。

《松屋筆記巻九十四》

犢鼻褌 神代紀下巻卅六丁左に於是兄著犢鼻以赭塗掌塗面告其弟曰云々纂疏下巻百十五丁右に犢鼻褌穢衣也云々神代口決五巻廿八丁左に著犢鼻者為裸也云々合解十二巻十八丁左に兼倶曰著犢鼻−罪人ノヤウニナツテ褓ノ体ニメタヅナバカリ腰ニマトフテ面ニハ赤土ノヤウナル物ヲヌル也云々環翠曰著犢鼻−ハハダバカマヲツケラレタゾタヅナバカリニナルゾ赭ハ赤土也身ヲヤツス心也云々按犢鼻ハ「タフサギ」にて小褌の事也吉田兼倶舟橋国賢が抄に手綱といへるはひがこと也手綱は今世まはしとも「フンドシ」ともいふ物に同じくてその図相撲画巻鶴岡放生会職人歌合などに見ゆ肌袴といへるはよしされど肌袴を手綱と同物とおもへるは誤也手綱とは馬の手綱に似たる一幅の布なれば然は名づけたりと見ゆ ○雄略紀廿三丁右十三年九月条に乃喚集采女使脱衣裙而著犢鼻露所相撲云々按衣を脱ぎ裙を脱て裸体に犢鼻のみしたる也倭名抄十二巻衣服類部褌条に唐韻云小褌也楊氏漢語抄云子毛乃之太之太不佐岐とありて女子下に子して其上に裳を著男子は犢鼻して其上に袴を著る也古事記上巻伊邪那岐大神の禊祓の条に御杖を投棄次に御帯次に御裳次に御衣次に御褌次に御冠次に左右の御手の手纒を投棄給へるよし記されたるは後に袴の字を裳に写誤れる也さて先帯を投棄次に袴次に衣次に褌を投棄て裸体になり潜し給ふよし也褌は多不佐岐と訓べきを波加万とよめるは裳字の写誤に心づかざりしゆゑ也神代紀上廿一丁左に天照大神結髪為髻縛裳為袴とあるも男子の貌にに出立たまひ御髪を総角にし長き裳を引縛て袴のさまにし給へる也 ○天武紀上九丁左に先秦造熊令犢鼻而乗馬馳之俾謂於寺西営中云々集解十二丁左に按令下脱著字著犢鼻者裸体也示急遽之状云々 ○万葉集十六巻廿丁右無心所著歌に吾兄子之犢鼻爾為流都夫礼石之吉野之山爾氷魚曾懸有懸有反云佐家礼流仙覚抄十七巻十丁左につぶれいしはつぶらなる石なりそれをば人はたふさぎにしてんやさればあるまじき事にてよしなく氷魚をとらんには宇治川へこそ行べきに大和の吉野の山に氷魚のさがりてあらんやうにたとふる也云々 ○侍中群要八巻童相撲条に但縵料緋紺絹并装束料信濃布紅花等召内蔵寮即給縫殿寮令調之細注に縵八条各四条退紅衣卅領各廿領袴卅腰各廿腰犢鼻褌卅条但縵人別不給通用之云々按信濃布を犢鼻褌に用しなるべし然て此犢鼻褌は手綱の事にて犢鼻と同名異製也その図相撲画巻鶴岡職人歌合梅津長者画巻などに見ゆ。相撲の最手に横綱といへる名目あるも手綱より転れるなるべし ○宇治拾遺物語一巻三丁右鬼に瘤とらるゝ事条に大かたやうやうさまざまなるものども赤き色には青き物をき黒き色にはあかきものをたふさぎにかき云々同十一巻十九丁左空入水したる僧事条にとかくいふほどにこの聖たふさぎにて西に向ひて河にざぶりと入ほどに舟ばたなる縄に足をかけてづぶりともいらでひしめくほどに云々同十二巻十丁左聖宝僧正渡一条大橋事条に賀茂祭の日まはだかにてたふさぎばかりをして干鮭太刀にはきてやせたる女牛に乗て一条大橋を大宮より河原までわれは東大寺の聖宝なりと高く名のりてわたり給へば云々同十五巻十三丁左伊良縁の世恒毘沙門御下文事条に額に角おひて目ひとつあるもの赤きたふさぎしたるもの出来てひざまづきて居たり云々 ○古今著聞集十巻十三丁右馬藝部に坊門の大納言忠信云々交野の御狩に同じ馬に乗て鹿に付て馳けるほどに鹿淀河に入ければ馬もつゞきて入にけり乗人河に沈みて見えざりければ上下おどろきあざみあへりけるほどにしばし有て物具水干みな浮出たりけり其後はだかにておよぎ上りけり水の底にてのどかにぬぎとかれけり水練のほどめでたかりけりかやうの用意にやかねてたふさぎをなんかゝれたりける云々按こゝにたふさぎをかきて水練の用意にせるよしなるは手縄の事にて肌袴にはあらぬなるべし同巻廿二丁右相撲強力部に中納言伊実卿相撲競馬などを好て学問などはせられざりけるを父のおとゞ伊通公常に勘発し給けれども猶しひられざりけり其時相撲なにがしとかやいふ上手有けり敵の腹へかしらを入てかならずくじりまろばしければ是によりて腹くじりとぞいひける件の相撲をしのびやかにめしよせてこの中納言相撲をしのび好むがにくきにくじりまろばかせさらば纒頭すべししからずばなくなさんずると仰合られにけり則中納言に汝が相撲好むに此腹くじりとつがひて勝負を決すべし勝たらばわれ制止する事有べからず負たらんにおきては永く此事停止すべしとのたまひければ中納言恐れをなしてかしこまりておはしけりさる程に腹くじり召出されてやがて決せられけるほどに中納言は腹くじりが好むまゝに身を任せられければ悦てくじり入てけり其後中納言腹くじりが四辻をとりて前へつよく引れたりければ頭もをれぬばかりにおぼえてやがてうつぶしにたふれにけり云々按四辻をとりて前へつよく引とはれいの手綱をしめたる尻方の四辻を今俗もフンドシノ四ツといふ所によりては三ツともいふこれ也又廿二丁右重忠座を立て閑所へ行てくゝりすべ烏帽子かけなほしてけり長為は庭に床子に尻かけて候けるそれもたちてたふさぎかきてねり出たりまことに体力士のごとくに見えければ畠山もいかゞとぞおぼえける云々按このたふさぎかきたるも相撲の体にて手綱をしめたる也 ○袖中抄一巻一丁左ひをりの日の条に褐の尻を胯より前ざまに引たふさぎて前にはさめり云々按印本には引たをりと有今は古本に引くたふさぎてとあるをとれり褐衣の裙をうしろより胯へ引とほして前にはさめる也かけまくもかしこけれど天照大神の御裳を縛て袴にしたまへる類といふべし ○源平盛衰記十巻廿三丁左有王渡硫黄島事条に島ノ住人ト覚シクテ木ノ皮ヲハネカヅラトシテ額ニ巻赤裸ニテムツキヲカキ身ニハ毛太ク長ク生テ長ハ六七尺計ナル者ニソ遇タリケル云々按長門本平家物語四巻硫黄島人の事をいへる条には木の皮をはぎてたふさぎにかきと有こゝには「ムツキ」といへり肌袴の類にて手綱の事とは聞えず同十一巻十五丁左経俊入布引滝事条に小松殿布引滝為遊覧御参アリ云々小松殿被仰ケルハ滝壺覚束ナシ底ノ深サヲ知バヤ此中ニ誰カ剛者ノシカモ水練アルト尋給ケレバ備前国住人難波六郎経俊進出テ甲臆ハシラズ候滝壺ニ入テ見テ参ラント申ス然ルベシト免サレタリ経俊ハ紺ノカキ備前造ノ二尺八寸ノ太刀随分秘蔵シタリケルヲ脇ニ挟デ髪ヲ乱シテツト入云々按の字シタオビと訓たることいといぶかし字鏡集衣部をタフサギとよみ色葉字類抄太部雑物門に浴衣の二字をタフサギとよめり水中に入に便よければ浴衣とも合字にとも書るをこゝには誤て字には写しひがめたるなりシタオビと訓も快からねばタフサギと訓直すべし ○同四十二巻十九丁右屋島合戦の条に爰ニ伊勢三郎義盛ガ郎等ニ大胡小橋太トイフ者アリ駿河国田子浦ニテ生立チ富士川ニ習ヒテ究竟ノ水練ノ上手ニテ水底ニハ半日モ一日モ潜リアリキケルガ兵ノ乗ナガラ而軍モセズシテコギマハリ漕廻リスルハ大将軍何ヤランタダモノニハアラジト危ミ思テ人ニモシラセズ焼内裏ノ芝築地ノ陰ヨリ裸ニナリテ犢鼻褌ヲカキ刀フタツ持テ海ヘ入ル敵モ味方モ是ヲシラズ鞆六郎ガセガイニ立テオノレハ軍モセズ人ノ船ヲ下知シテ軍ハトコソスレ角コソスレト云ケル処ニツト浮上テ足ヲ懐イテ曳声ヲ出シ海ヘタブト引入タリ云々。按十巻には「ムツキ」といひ十一巻にはと書て「シタオビ」とよみこゝは犢鼻褌「タフサギ」とよめり学者宜取捨也 ○長門本平家物語四巻十九丁左成経康頼俊寛被流硫黄島事条に男とおぼしき者は木の皮をはぎてたふさぎにかきはねかづらといふものをし女は木の皮を腰に巻たれども男女の形も見えわかず云々同十六巻廿五丁右義仲最後合戦事条に為久が郎等二人馬よりとびおりてたふさぎをかきふか田におりて木曾が頸をとる云々同十八巻十六丁左屋島合戦事条に能登守云々船軍はやうあるものぞとて唐巻染の小袖にたふさぎかきて唐綾おどしの鎧を著て汀に飛こして云々按能登守教経朝臣たふさぎかゝれしは水上の戦ゆゑの心しらひ也 ○承久記下巻八丁左に佐々木向ノ中島ニ打上タレバ子息左衛門太郎トテ十五ニナリケルガタフサギニ白キ帷ヲ著腰刀バカリ捨テ太刀ヲ頸ニカケ父ガ馬ノ鞦ノ総ニ取付テ来タリ云々 ○参考太平記十六巻十八丁右多々良浜合戦事条に金勝院西源院本云鐙ハ八木岡タフサギノ緒ヲ引切テ倒ニハイデ著云々按タフサギノ緒とありさては手綱には殊にて実の犢鼻褌の事ときこゆ ○新撰字鏡廿八丁左衣部に夫寐反去犢太不佐支云々 ○倭名類聚抄十二巻衣服類部に褌方言注云袴而無跨謂之褌音昆和名須万之毛能一云知比佐岐毛乃如牛鼻者也唐韻云職容反与鍾同揚氏漢語抄云子毛乃之太乃不佐岐一云水子小褌也云々釈義に褌俗洗云須万須頻ニ洗故スマシモノ歟云々万葉十六に犢鼻ノ字ヲタフサギト訓ゼリ真淵云太不佐岐者股塞略歟云々按褌は袴の短きやうなる物にて胯のなき也須万之毛能といふは汚穢を度々洗ひ清せばさいふ也水子といふはた此義に叶へり知比佐岐毛乃は小物の義にやまたは小き裳布の義にても有べし毛乃之太乃太不佐岐は裳の下の胯塞の義と見ゆ犢鼻褌は韋昭が注に布形如牛鼻といへるは本末違へるにや下学集絹布門に男根如犢鼻故云犢鼻褌といへるが本据にて犢鼻をおほふ褌なれば然いひ布の形をも牛鼻の如に作れるなるべし伊勢貞丈が舳艪訓にハ如牛鼻者也ト云ハスソノ所両足ノ入ル様ニ分レテ牛ノ鼻ノ穴ノ如クナルベシ後代四幅袴ハ其遺制歟といへり小褌といへるは女は裳の下に別に小き褌を著る事と見ゆ劉熈釈名五巻四丁左釈衣服部に褌貫也貫両脚上繋要中也とあり太平記参考本十六巻にたふさぎの緒といへるも腰に繋ぐ料の紐なること疑なし再按に褌ハタフサギにて袴の短きやうなる物所謂蹈通也犢鼻褌は越中フンドシノ類ト見ユ ○字鏡集六巻衣部に夫寐反「ハカマ」「タフサギ」犢云々また褌同「シタバカマ」「チヒサキモノ」「スマシモノ」「ハカマノカサネ」「シタモ」「タフサギ」内衣云々また同職容反「タフサギモ」「ユカタビラ」「コギヌ」「シタノハカマ」云々またタフサギ云々 ○類聚名義抄仏中巻日部に敢曼タフサギ云々同法中巻衣部に褌音昆或「シタノハカマ」「チヒサキ物」「スマシ物」内衣云々又子「モノシタノタフサギ」一云水子云々按内衣は今世「ユカタ」といふもの也倭名抄十四巻澡浴具部に内衣温室経云澡浴之法用七物其七曰内衣和名由加太比良論語注云明衣以布為沐浴衣也など此外古書におほく明衣と見えたり犢鼻褌とおもひまがふべからず ○伊呂波字類抄四巻太部雑物門に犢鼻褌タフサギ子浴衣褌已上同方言注云袴而無袴謂之褌音昆和名スマシモノ知伊左伊モノ史記云司馬相如著犢鼻褌韋昭曰今三尺布作之形如牛鼻者也唐韻云子小褌也云々 ○下学集下巻絹布門に犢鼻褌男根衣也男根如犢鼻故云犢鼻褌也晋阮咸家貧而七夕晒犢鼻褌以献星又唐人李義山以華上晒犢鼻褌為殺風景之第一也云々また膚袴ハダバカマ云々按犢鼻褌に訓を脱せり膚袴は古制の袴に似たるタフサギにいひ犢鼻褌は手綱の方にいへりと見ゆ言鯖録上巻殺風景条に李義山雑纂有殺風景之語謂清泉濯足花上云々類篇に褌同といへり ○倭玉篇上巻衣部に襌タフサギ云々褌シタバカマ云々「コカタビラ」「スマシモノ」云々 ○節用集波部衣食門に膚袴ハダハカマ膚帯ハダノオビ云々太部器財門に犢鼻褌タフサギ云々志部食服門に褌シタノハカマ云々按膚袴褌ともに古制のタフサギ也膚帯犢鼻褌は手綱の方にいへりと見ゆ ○難字記二巻衣部に襌「シタノハカマ」「カタビラ」云々「コカタヒラ」「タフサギ」「スマシモノ」云々褌「スマシモノ」「シタノハカマ」云々 ○運歩色葉集波部に膚帯ハダノオビ云々又登部に犢鼻褌唐曰膚帯云々按節用集にも膚帯見ゆこれ手綱の事也 ○義貞記群書類従四百廿四巻四十二丁左に鎧可著次第事一番浴衣二番小袖三番大口云々按浴衣は伊呂波字類抄に据てタフサギと訓べし体源抄拾二本巻に此記を引たるには一番手綱と書たりさては「タヅナ」と訓べき歟 ○曾我物語一巻相撲事条にや七どの出よといふすこしじたいにおよびしをふなこしひきたてゝたづなとりかへ出しけり云々や五郎二人まかしてやすからずおもひ袴の腰をおそしと引きり手綱二筋より合せつよくをさめはしり出云々かはづの三郎すけしげ云々ひたゞれぬぎおき白き手綱二すぢよりあはせかたくをさめて出んとする云々右のかひなをつッとのべまた野がまへほろをつかんでさしのけあらくもはたらかばたづなも腰もきれぬべししばらくありてむずと引よせ目より高くさしあげ云々按此手綱といへるは相撲画巻梅津長者画巻鶴岡職人歌合などの図に見えたる膚帯にて今「まはし」とも「ふんどし」ともいふこれ也こゝに白き手綱とも「まへほろ」ともいふ詞見ゆ前絖は前の方の立幅をいへるなるべし ○太平記十八巻十七丁右金崎城落事条に気比大宮司太郎ハ元来力人ニ勝レテ水練ノ達者ナリケレバ春宮ヲ小舟ニ乗進ラセテ櫓カイモ無レドモ綱手ヲ己ガ横手綱ニ結付海上三十余町ヲ游デ蕪木ノ浦ヘゾ著進ラセケル云々按横手綱ハ手綱を修し横幅の腰に纒たる所をいへる也 ○甲州流歩騎必用口伝二巻兵具部肌帯当時越中と云有是も可用事の条に布縮緬ノ内何レモ心ニ任スベシ先ヅ一幅ノサラシ三尺二三寸一方ハ袋乳ニヌヒクケ紐ヲ通シ腰ヲ廻スタレノ両ハシニヒボヲ付テ襟ニカケ大小便ノ用トス又常ノ褌モシメヤウニテヨシ云々按越中フンドシ天明寛政の比よりの物とおもへるは誤也又下帯と犢鼻と同物とおもふべからず歩騎必用口伝二巻兵具部下帯ハ木綿布類是は下著の上に可廻也上帯はゆるぎの糸の上を可結事の条に帯ノシンハ木綿ヲ三重廻リ九尺五寸位幅ハ曲尺ニテ二寸五分位コレモ真中ニ印ヲツクルユルギノ糸ノ上ニマハシシカトトメテ大小ヲサシ打緒五尺位アルモノヲ以テ太刀ドメスベシサテ所々ニ九字叶友糸ニテ縫モ心ニ任スベシ上帯ハ「ホツテ」ノヒネリカヘシノ上ニテ結ビ後ハ「ネズ緒」ヲユヒカラムモ有りと見えて下に結ふ帯也上帯に対たる名也 ○似我蜂物語上巻廿二丁左にまつはだかになりふんどし計になりかのたらひを持云々又廿三丁左かみなりを見るにせいは八尺ばかりの大入道布ふんどしをしめまはし云々同下巻二丁右に一休おほせけるはいらざる事をしてほとけを洗ひけるぞ又それまで行もむづかしこれにて地蔵のあたまをくゝりておけとてぬしのなされたるふるき布ふんどしを一筋給はりけり云々 ○春湊浪話下巻犢鼻褌手綱の条にふるく手綱と記せるは今の下帯といふもの也或は犢鼻褌といふ同じ類なれども〔手綱には異にして是は短き肌袴也日本紀に火酢芹彦命の犢鼻褌をつけたまふを忌部正通の口決に肌袴と注せる是也兼倶も環翠軒も是を手綱と注せるは同類なるを以て注し誤れるにや其後天武帝と大友皇子と御軍の時秦造熊がせし犢鼻褌其後はるか世を経て宇治拾遺著聞集又承久記等にとうさぎといひし皆肌袴なるべし後三年の画に黄なる肌袴を着しを画たる則是也手綱といふは義家朝臣の甲冑着玉ふ次第を体源抄に義貞記を引て書たるに手綱とみへたり曾我物語に相撲の時藍沢弥六郎が手綱二筋より合せと記し又同弥七郎が相撲とるとて手綱をとりかへ出せしともみへたり此手綱をせし様は職人尽の相撲に画きたり是等をならべ考れば犢鼻褌といふも手綱といふも昔よりありしものなれど其製は異なるに是を混じて盛衰記に犢鼻褌と書たるをとうさぎといわずたづなと訓を付たる同類なるを以て是も誤れるにや殊に難波六郎が布引の滝に入し時に紺のの字にした物ひと訓ぜしはいといぶかし若後代につけたる訓なるにや尤古き歌に井手の下帯又下の帯を道はかたかたなどよみて下帯といふ事其名なきにはあらねど是はたゞ常の帯の事也清転奥義抄にもうへ下に帯をすれば下帯をはいふなりとみへて〕今の俗にいへる下帯といふ事は古くは聞えず云々按富常問答にも此事見ゆ伊勢貞丈が後院下巻にも此説を引たり ○服飾管見別録三巻令已前服翫辨褌袴犢鼻辨に褌は方言注に〔袴而立跨謂之褌釈名に褌貫也貫両脚上繋腰中也又袴跨両股各跨別也玉篇に小褌也史記に司馬相如着犢鼻褌韋昭曰今三尺布作之形如牛鼻者也と見ゆ紀に褌の字多く見ゆしかして天武記に括緒褌あり是やがてかり褌なりその製股なくて左右の足におひへるきぬ前後各かさねあはせて腰につけ裙に括緒ありかの褌の一字をもちうるはみなこのものゝ裾のくゝり緒なきものなるをしるべしされば跨ることなりといひ釈名に貫なりといへるにあへり褌を倭名抄にすましもの一にいふちひさきものと訓せしは誤り也唐書に王顕与太宗有旧掣褌為戯将帽為歓と見へまた韓退之が詩に炎官之属朱冠褌とあれば褌は袴の一種にて犢鼻と同じからざることあきらけしすましものちいさきものとよむべきよしなしかの抄褌の条に犢鼻褌ありては小褌也といふことをつけたり是をもて見ればすましものちいさきものといへるはをよめるなるを誤りて褌の下につけたる事明らけし既に犢鼻はたふさぎとよむなるをも書もらしける程の物なり扨紀の令に白袴とあなるは式以下の表袴とかけるもの也此製は左右足におほへるきぬ前後各二寸ばかり間を置て腰につけ幅三寸ばかりなる帯二筋をもてその透をおほひふせけりさればまたがらではきることあたはず方言注釈名の意にあへり紀に袴の一字を用うるもみな表袴なる事はあきらけし紀にはなかばよりはじめ皆褌の字をかきたるに天照太神いくさ立し給ひし所にのみ縛裳為袴とあり是は御裳の御紋の御裾を左右の御足の間よりひきあけて前の御腰にはさませ給ひしなど袴の意に叶ふべし褌の意に似ずよりて袴の字を用ひたり但し褌袴いづれをもはかまとよめり云々は既に小褌なればちひさきものとよぶもうべなりすましものといへる名はたゞうどなどのにこそあらめやむごとなきなどをばいふべくもあらねばひがことばなるべし又延喜式年中御服料のうちにとか小褌の一字を用ひたりこは是よりさき褌の字をば小褌などに用ひしと見へて貞観儀式に褌とあるべき処みな袴とあなりいかさまにもかの御服料の褌をばなほちひさきものととなへて字にはかゝはらざるなめり後の世には大口といふもの也犢鼻は雄略紀に犢鼻とかきてたふさぎとよませたり此製は古き絵をみるにまことに三尺ばかりなる布をまたにしてほそき緒して腰にゆひたり前の韋昭が説にあへり此もの小褌のかはりにするものなれば犢鼻褌とかきたれど〕褌のすがたならぬによりて後は犢鼻とのみかく也けり云々 ○倭訓栞十四巻多部卅五部右にたふさぎ神代紀に犢鼻をよみ〔新撰字鏡にをもよめり股塞の義也今も上総に此語遺れり漢書に犢鼻褌とみえたり釈名に犢鼻褌貫也貫両脚上繋腰中下当犢鼻と犢鼻は足の三里の上の空処の名古かゝる制の物ありしにや承久記に佐々木が宇治川を渉りしに裸になりたふさぎばかりをかきてと見ゆ今の旅股引の類にてふどしには非るべしといへり袖中抄にかちのしりを後ろより前へ引たふさぎてと用にもいへり漢語抄にをものしたのたふさぎと読りたんなといふものは相撲などの時に馬の手綱をとりて肌の帯にせしをいへりたづなの転ぜる也西土にも〕兜肚とて嚢を造り前陰を掩ふ制あり云々 ○与清曰ふどうしもふんどしともいふは蹈通の義にて膚袴に両足を蹈通して著るゆゑなるを手綱の事にもいひうつせる也上古の犢鼻褌は短き袴のさまにて跨なしこれを緒して腰に結とむる也劉釈名五巻釈衣服に褌貫也貫両脚上繋腰中也とあるにおなじ胯をふさぐ物なれば万多不住岐を省て多不佐岐とはいへる也此「たふさぎ」の上に男は袴女は裳を著る也裳にも上裳下裳ありてその下にたふさぎする也後には肌袴とも下袴ともいひ不浄を度々洗ひすますゆゑに須万之毛能ともいひ形小き帷布にて製れば知比左支毛能とも古加多比良ともいふ女のは裳乃下乃多不左岐といへりまた水練相撲などの便よからんために手綱とて一幅の白布紺布などを用ひ切れじためには二筋より合せても修るをそのさま馬の手綱に似たればやがて手綱とはいへる也こを音便に「たんな」ともいふ相撲の最手が横綱といへるも手綱によれる名目ときこゆ俗にまはしといふも腰に廻して修るゆゑの称也四辻とは手縄を修たる腰の辻にて今俗ふんどしの四ッとも国によりて三ッともいふ是也前絖とは前の方の竪幅の其屈伸に随て絖のごとくふくれもすればいへりさては後の方の竪幅を後絖ともいふべけれどこは相撲画巻に後は縄のやうによりて修たる貌に見ゆれば絖といふべきよしなし横手綱とは腰を横さまに纒たる所なるべし手綱を近来はふんどしまはし下帯などいへりふんどしの名甲州流の歩騎必用又は似我蜂物語などに見え体源抄にはふどうしと有又越中といふもの手綱にもあらず膚袴にもあらず一種の製也甲冑の時の便利に日根野越中が作り出しゆゑ越中とはいふなりとぞ古くは浴衣といひけんを近来は越中ふんどしといふ事と成ぬさて「たふさぎ」は肌袴にも手綱にもわたりて男女共によぶ名也「ふんどし」下帯はたおなじ又女の「いまき」とも「いもじ」ともいふ物ありこは御湯殿奉仕の女房が湯巻とて腰にまく物あるをそれに形の似たれば女のたふさぎを「いまき」といひ又「いもじ」ともいふは女房の片詞に肴を「さもじ」子を「しやもじ」などいふ類也湯巻は「ユマキ」とはいはず延喜式などに今木と書たるにて知べし古の小褌も女の「たふさぎ」にて男にはいふべからず源平盛衰記十巻に「むつき」とあるも下学集絹布門襁褓為孩児之拭不潔者也と見えて犢鼻に隣き不潔物なればやがて「たふさぎ」の事にもいへる歟下学集の襁褓は古代の襁褓とは別にて運歩色葉集志部に湿布シメシと見え今も然いふ物の事也さて犢鼻神代紀下雄略紀天武紀上万葉集十六源平盛衰記四十二字鏡集六新撰字鏡犢鼻褌伊呂波字類抄四下学集下節用集上運歩色葉集犢鼻褌倭名抄十二侍中群要八新撰字鏡字鏡集六倭名抄十二伊呂波字類抄四同上類聚名義抄法中節用集下字鏡集六倭玉篇上字鏡集六類聚名義抄法中字鏡集六伊呂波字類抄四倭玉篇上敢曼類聚名義抄仏中小褌倭名抄十二伊呂波字類抄四浴衣色葉字類抄四義貞記源平盛衰記十一水子倭名抄十二類聚名義抄法中内衣類聚名義抄法中色葉字類抄四字鏡集六倭名抄十二類聚名義抄法中字鏡集六倭玉篇上難字記二同上膚袴源平盛衰記下学集下節用集上躰源抄二末巻膚帯梅津長者画詞節用集上運歩色葉集歩騎必用口伝二実悟記拾遺下たふさぎ宇治拾遺物語一同十一同十二古今著聞集十に三処仙覚抄十七長門本平家物語四同十六同十八承久記下躰源抄五同八上はだばかま日本紀合解十二環翠抄たづな曾我物語一手綱躰源抄所引の義貞記日本紀合解十二兼倶抄同環翠抄梅津長者画詞むつき源平盛衰記十たふさぎの緒参考太平記十六たふさぎの四辻古今著聞集十手綱のまえほろ曾我物語一横手綱太平記十八越中歩騎必用口伝二ふんどし似我蜂物語同下躰源抄二末巻下帯武辺咄聞書九まはし俗称いまき同上いもじ同上などさまざまの名目ありと知べし ○体源抄弐末巻六十九丁右剱気褌脱条に褌フドウシハダバカマ犢鼻褌也云々私云剱ヲ帯タルヲヌギタル心叶ナリ又秘説云鬼ヲシタガヘタル事アリ鬼ハ「タヅナ」ヲカキタルニテ辱ヲカクス其ヲ脱セタル躰ヲマナブ極秘也上褌殺風景ト一也口伝云褌ハ「コン」ト云ヲヨミツケニ「ケンキコダツ」トヨム又物語アリ有口伝禿鼻褌ト云古事アリ禿ハフルクナル心也云々同五巻百廿四丁ウ或人語云云々後鳥羽院ノ御時大井川ノ御遊覧ノ日地下ノ楽人等召具セラル此中ニ安部季遠三宅守正水練タルニヨリテ水ヘイレラレタリ上皇彼二人ニ勅シテ水上ニテ篳篥ツカマツレト仰下サル爰ニ季遠ハ用意セザル間急ギ陸ニアガリテ器ヲトラントス守正ハ兼テタフサギノ中ニカクシモツ故ニイトシヅカニ水ニウカミナガラ是ヲ吹タリ上皇殊ニ御感アリケリ道ヲ立ン人ハ何レニモカヤウノ心バセハアルベシ云々同八本巻七十二丁右琴物語条に文君ハ酒ヲマボリ相如ハタフサギヲシテケコノウツハモノヲ洗ヒナドシケリ云々 ○催馬楽律歌我門に和加々止爾宇流毛乃須曾奴礼之太毛乃須曾奴礼安左名川美由不名川見云々梁塵愚按抄下巻六丁右にうはもしたもは女の著裳也云々古写本には女の著裳に二色ある也と見え体源抄拾中巻に引たるにはウハモシタモハ女ノキタル裳也と見ゆ ○梅津長者画詞にかくて大黒おほせけるは布袋和尚のありさまを見申すにしゝあひふとくたくましゝ定めて力強からんすまひ一ばんまゐらんいざやとすゝめたまへば和尚につこと打笑ひかくたのしみの時なればざしきの興になすべしさらば相手にまゐらんと衣を袈裟を脱捨て袋の中より肌の帯とり出し手綱を強く引しめゆるぎ出給ふありさまはふくぶくしくぞ見えにける云々按相撲の肌帯のさま画に見えたり ○義経記四巻廿九丁右義経都落事条に片岡のぼれと仰られければ承て候とてやがて御前を立て小袖直垂ぬぎ手綱二すぢよりて胴にまき本鳥ひきくしておしいれ烏帽子に額ゆひてやい刃のない鎌取て手綱によこさまにむずとさし大勢の中をかきわけて柱よせに上りて手をかけて見ければ云々按義経船中にて暴風の難に逢し時せみの綱を切んために片岡が帆柱にのぼれる事を記したる条也 ○甲州流具足著順書に一褌下リヲ紐ニ付エリヘカケルコト後ニテワニスル不結前デハサム邪魔ニナラズ云々又一褌前ノゴトシ常ノ褌シメ方アリ云々 ○新撰類聚往来孟秋十八日状に肩衣肩抜股抜犢鼻褌貫履行騰云々按武具の事をいひつゞけたる条也 ○旧本今昔物語十四巻三語に鬼ノ云ク我レハ此レ鳩槃荼鬼也トゾ名乗ケル時に聖人貴シト思テ目ヲ開テ見レバ長ケ一丈余ナル鬼也色ハ黒クシテ漆ヲ塗タル如シ頭ノ髪ハ赤クシテ上様ニ昇レリ裸ニシテ赤キ浴衣ヲ掻タリ後ロ向キタレバ面ハ不見ズ掻消ツ様ニ失ヌ云々同書十八巻相撲人成村常世勝負語に成村は前狩衣ト蕎ノ浴衣ノカハトヲ取テ恒世ガ胸ヲ差テ只絡ニ絡バ云々同所廿巻七語に金剛山ノ聖人云々忽ニ鬼ト成ヌ其形身裸ニシテ頭ハ禿也長ケ八尺許ニシテ膚ノ黒キ事漆ヲ塗レルガ如シ目ハヲ入タルが如クシテ口広ク開テ剱ノ如クナル歯生タリ上下ニ牙ヲ食ヒ出シタリ赤キ浴衣ヲ掻テ槌ヲ腰ニ差シタリ云々 ○本朝文粋十二巻鉄槌伝ニ後朱門落魄著一端之犢鼻年及五十杜門不処人事云云々至于彼犢鼻夜湿雁頭気衝此是淫奔誰称矩歩云々按こゝの犢鼻は女人のなれば裳の下の犢鼻也 ○三議一統下巻五十丁右供奉門主人の御供に風呂へ入べき事の段に主人御入なき内に手綱ぬらすべからず云々 ○新猿楽記群書類従百卅六巻十四丁左六君夫高名相撲人の段に浴衣腰支云々按初段九丁右にも延動大領之腰支漉舎人之足仕とあり腰支は和名抄三巻身体類部に遊仙窟云細腰支師説古之波勢云々類聚名義抄仏中巻肉部に腰支コシバセ云々色葉字類抄七巻古部人体門に腰支コシバセ云々遊仙窟抄本一巻廿二丁左に依々弱柳束作腰支々横波翻成眼尾云々また二巻七丁右婀娜腰支細々許眼子長々馨云々また四巻八丁左千嬌眼子天上失其流星一搦腰支洛浦愧其廻雪云々抄一巻廿四丁右に腰支ノ支ノ字ハサヽフルトヨム玉造小町ナドニモコヽノ腰支ヲ取テコシトヨミ付タリ楊柳ニ腰ヲサヽヘタルト云心ニ見ルハアシヽ腰ト云マデナリ腰ハ人ノカタチノオチツク処ナレバ支テアルヤウナルモノナリ支ノ字ヲオモク見ルベカラズコヽニ腰支ヲ「コシバセ」トヨマセタルコト「バセ」トハアリサマト云也「コヽロバセ」「面バセ」「ナドノ「バセ」ニテ助語ノゴトキモノナリト心得ベシ又説ニ支ノ字ハ支体ノ支ノ字ニテ四肢トツヾクレバ手足ナリ腰モ支体ノヨルトコロナレバ腰支トツヾケタリ正ニカクノゴトクシテ抵当セリ云々玉造小町子壮衰書序群書類従百卅六巻一丁左曄面子疑芙蓉之浮暁浪婀娜腰支誤楊柳之乱春風云々など見ゆ字書に支持也とも注したれば腰持にて腰ツキといふ事なるべし面持を「カホバセ」と云も美色の走顕るゝ貌也意を「コヽロバセ」と云も志の走顕りゝ也腰破勢も腰付の婀娜風情が走顕れて見ゆるよし也また玉茎を破前といふも常は痿貌の物の春心発動すれば走顕るゝゆゑにさはいへるにや麻良も破留の通音にて張ふくるゝ由の名にても有べし和名抄三巻茎垂類部に楊氏漢語抄云口臥口外二切亦作破前一云麻羅云々本朝文粋十二巻鉄槌伝に鉄槌者簡笠袴下毛中人也一名麻裸云々為人勇捍能破権貴之朱門天下号曰破勢云々字鏡集五巻尸部に課塊二音臀「ハセ」一云「マラ」云々色葉字類抄一巻波部人体門にハセ今案閉字也玉茎同云々などあるを考て知べしまた新猿楽記二丁左第一本妻の段に野干坂伊賀専之男祭叩蚫苦本舞稲荷山阿小町之愛法破前喜ともあり伊賀専は伊賀国の猿楽の女が京の狐坂辺に住て男祭といふ猿楽をしありきて活計者なるべし苦本は女陰の事也蚫貝もて其さまを作り男祭の舞の取物にせしと見ゆは未詳ならねど笠魚の合字なめれば男陰のさましたる魚もて破前を作りそれを稲荷山の阿小町といへる女猿楽が愛敬祭といふ猿楽をするに鼻にてかぐ態をせしなるべしは和名抄十八巻毛群体部に説文云五忽反以鼻動物也宇世流とありて獣が鼻もて物をかぎ動すさまをいへり ○武辺咄聞書九巻前田慶次は松風と云名馬を持と云段に或時慶次銭湯の風呂に入頬かぶりして忍入り下帯に一尺許の脇差をさして風呂に入ぬいりごみの輩すはや曲者よ爰にて風呂に不入ば恐れて不入といはれんとて皆脇差をさして風呂に入数刻入て慶次は板の間へ出てかの小脇差をすらりと抜たるを見れば竹のへら也則足の裏の垢をこそげにけり入交りの人々腹をたち扨も扨も出し抜に逢て大事の脇差を風呂へさして入ネも下緒も役に立ず身は汗かきなまり皆捨たりと憤たりとかや按前田慶次は加賀亜相利家卿の甥也文武に就て高名也加賀を去て上杉景勝に仕へ遂に米沢にて病死せりこゝに下帯とあるは手綱の事也 ○室町殿日記廿巻撞鐘わる事の条に鏡とぎ由けるは云々女の朝夕はだをはなさぬ脚布を取て龍頭のかしらより打きせてなにゝても打せ給へ即時にみぢんとなるよしをかたりてこれ大なるまじなひなれども伝る也といふ云々〔やがてこれを龍頭におしまき大なるよきをもつて打せければ〕ふしぎなるかな六つにわれてぞひらきける云々こゝには脚布とも仮名にきやふとも書たり ○新撰犬筑波集部に「たづなもかゝぬ高砂の浦「しほ風にぶらめきわたる松ふぐり」 ○古事記上巻古訓本十二丁右に是以伊邪那岐大神云々到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而禊祓也故於投棄御杖所成神名衝立船戸神次於投棄御帯所成神名道之長乳歯神次於投棄御裳所成神名時置師神次於投棄御衣所成神名和豆良比能宇斯能神次於投棄御褌所成神名道俣神次於投棄御冠所成神名飽咋之宇斯能神次於投棄左御手之手纒所成神名奥疎神次奥津那藝佐毘古神次奥津甲斐辨羅神次於投棄右御手之手纒所成神名辺疎神次辺津那藝佐毘古神次辺津甲斐辨羅神云々按此の伊邪那岐大神の御装束を脱捨給ふ順次先御手に持給へる杖を投棄たまひ次に御帯を釈棄給ひ次に御裳を脱捨給ひ次に御衣を脱捨給ひ次に御褌を脱捨給ひ次に御冠を取捨給ひ次に左の御手纒を釈捨給へり然るに古事記伝六巻四十七丁以下四十九丁以上に裳を後の女の裳と一物に心得て疑を起し又褌をハカマと訓るも誤也褌は日本紀にも皆「ハカマ」と訓たれどこゝは「タフサギ」と訓では叶ぬ所也神代紀上巻十四丁右伊弉冊尊の泉津平坂にて杖帯衣褌履を投給へる事を記されし条には裳を脱せり和名抄十二巻衣服類部に釈名云上曰裙下曰裳和名毛と見え万葉にも御裳我裳朱裳下裳などよめり古事記中巻九丁崇神条に腰裳とあるも腰に著物なればさいへるにて別物にはあらずざれど上古は裳袴同物なりしを中古以来は裳あり袴あり褌あり三種各別也魏書廿三巻廿九丁右裴潜伝注に脱袴纒褌面縛及其原褌腰不下とあるも表への袴を脱て下の褌を纒てかくれ所のみをおほひ恥を顕してかしこまりたるが原免せられて去時其褌腰下らず股をあらはして趨たるよし也 ○西宮記七月部相撲召仰の条に左相撲犢鼻上著狩衣経陣向幕右犢鼻上著狩衣袴入幕近代不分別云々同後日条に貞信公記云承平六年七月廿八日召合云々相撲著犢鼻挿葵花匏花云々按相撲画巻に手綱のありさま見え葵花をかぎしたる体も画けり葵は細辛にて赤色の小花あるさま也 ○実悟記拾遺下巻四丁オに御前ニテ如此オノオノハタラキ候アヒダモシハダノ帯ナド見グルシキコトノ候テハト存ジ候ツレバイカニモ新キハダノオビ御沙汰候ヒツレバ安堵シタルト下総入道愚老ニタタラレケリ願成就院殿天然器用ノ御機遣ノ由サフラヒシカバ御膚帯バカリニテ扇御持候テ御立候云々 ○雑説問答一八丁オ犢鼻褌はた袴手綱の事見ゆ ○侍中群要八巻童相撲の条に犢鼻褌卅条云々 ○続教訓抄或紀之巻廿二丁ウ

「○字鏡集六巻」の前に「南史十九ノ十七ウ謝幾卿伝に後以在省署夜著犢鼻褌与門生登閣道飲酒酣呼云云」頭書あり。
「古の小褌も」の前に「紫日記傍注本上十丁ウに御湯殿は宰相の君御むかへゆ大納言の君ゆまきすかたどものれいならずさまことにをかしげなり云々」頭書あり。
「犢鼻」〜「褌(下帯の前)」までの振り仮名は各々タフサギ・なし・タフサギ・トクビコン・タフサギ・チヒサキモノ・スマシモノ・シタノハカマ・シタバカマ・タフサギ・タフサギ・タフサギ・なし・タフサギ・3つなし・タフサギ・タフサギモ・モノシタノタフサギ・ユカタビラ・スマシモノ・ハダバカマ・ハダバカマ・ハダノオビ・10個なし・フドウシ。


《松屋筆記巻九十六》

相撲取猿楽などに纒物して後に料足にて引替る事 三議一統上巻四十五丁右法量門に遊者請物の事かうがいはすぐに立れば百匹也なげて立れば五十疋也なぐれば十疋也 ○扇は手渡しは卅疋也投れば十疋也 ○素襖を投れば十疋約束は五十疋也 ○太刀帯取をむすべば五十疋ときては百匹也 ○長太刀は鞘のまゝには五十疋鞘はづしては百匹也馬は百疋也座頭にひたゝれと云ては百疋也御くつを下されては二十疋也 ○御出家に衣と云ては五十疋倍堂百疋紙衣は十疋也云々

《松屋筆記巻百十二》

長人 天保十五甲辰の冬肥前平戸領生付島の土民の子年十八歳にて身丈七尺四寸五分の長人江戸に来れり相撲人是を養て最手とせんとす平戸侯より優名を賜て生付鯨太左衛門と称す今より五六年前筑後柳川より丑又といへる長人江戸に来れり身丈七尺余といへり鯨太左衛門はそれに比ぶれば最長ぜり近古谷風梶右衛門といふ最手身丈六尺五寸といへり九紋龍七尺といへり釈迦が嶽七尺余といへり上古長髄彦宿儺豊城入彦命安部貞任足利忠綱の類長人少からず琅代酔編廿七巻に漢土の長人長秋兄弟巨無霸曹交等が事をいへり他日暇を得て長大の人の事考証すべし
記録・随筆・紀行に戻る

坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp