明良洪範
《明良洪範巻十》
○伊達政宗は活達の人也或時江戸御城にて酒井讃岐守忠勝に立向ひいざ相撲一番まゐるべしと云酒井答て只今御用有て御前を退きし所也相撲の儀は重ねての事に仕らんと辞せしに伊達承引せずして手を掛られし故止事を得ず取組たり諸大名いと興ある事と皆見物す時に井伊掃部頭直孝申さるゝは若し酒井負なば御譜代の名折れ也酒井負なば我伊達殿を投げ申さんと息を詰て見て居たるに酒井やがて伊達を大腰に掛けて投出したり伊達むくと起上りてさてさて御身は相撲功者かな我御身が力には劣るまじきと思ひの外負を取たりとて酒井を賞美せられし此頃は御城内と雖もかゝる振舞せられし也
《明良洪範巻十三》
○土岐山城守は相撲好にて関西に名を得し伊郷十右衛門と云抱への相撲有しが追々年を取りしかば今は家士となし使者役を勤め居ける又細川越中守も相撲好にて撞鐘某と云抱への相撲取り有り或時越中守自分屋敷内にて相撲を催され山城守をも招かるゝ所山城守此節病気故使者役伊郷十右衛門を呼び我病中にして越中守が招きに応じ難く残念也汝吾代に行て勝負の程を一々記し来れ我病牀の慰みにせんと云十右衛門畏り候迚細川家へ行き主人山城守病気の由を演べ私主人代を申付り今日の勝負一々記し来れとの主命に候と云是に因て越中守指図にて席を賜はり其席にて見物す然るに細川家の撞鐘と云者勝れて強く余多集り来りし相撲取り皆々打負け今日の勝撞鐘の上に出る者なく撞鐘惣勝と定まらんとする時集会見物の諸侯の中より土岐家の十右衛門今は使者役に候へ共私只今は歳五十に及び候へば手も足も利き申さず御免下さるべしと申けれ共越中守も共に所望され辞むによしなく拠なく御請申し供の僕に申付け純子の下帯を取寄せ支度して相撲場へ立出ける合手の撞鐘は廿四五歳十右衛門は五十歳にて腕も股も肉落ち皮たるみて見えければ見物の諸侯所望はしたれど今更気の毒に思はれ居ける所に行司双方の中に在てやつと声かけ団扇を引や否双方立上り互に二三度突合ふと見えしに十右衛門やゝといふ声と共に撞鐘を仰向に投倒しける撞鐘すぐに起上り血眼に成て十右衛門に取付行司制すれ共撞鐘聞入ず此時十右衛門つまどりと云手にて撞鐘を土俵の外へ投出ける越中守初め見物の諸侯一同感賞の声しばし止ざりける翌日越中守より使者を以て白銀十枚時服五重十右衛門へ下さる此十右衛門追々立身して元じめ奉行迄に昇進しけるがいかなる故にや後年討首になりける
《明良洪範後篇巻三》
○尾州家の藩士に星野勘左衛門と云者有り此者大力の聞へ有り或日さる諸侯の家老の方へ行れしに其家老相撲ずきにて常に相撲取り立入けるが此日相撲取来り居れり此相撲取五百石積の船のいかりを片手にて振廻す程の力也星野勘左衛門に其相撲とりと相撲をとられよと亭主所望せり星野勘左衛門再三辞しけれども強て所望されける故止事を得ずとる事とは成ぬ其相撲とりは裸かに成て出たり星野勘左衛門は袴の儘高股立をとり大小を指て立出ける諸人不審に思ひける行司某是を見咎めて相撲をとるに帯刀する法は無しと云星野勘左衛門答て我は角力取に非ず士也亭主の所望に依て合手に成る也されば士の身として無腰に成る法無しと云やがて取り組んとする所に星野勘左衛門抜き討ちに合手の相撲取りを大げさに切倒し諸人大いに驚きしに星野勘左衛門は白刃を鞘へ納め亭主の前へ坐し士の勝負を争ふ時はかくこそと存じ候と云て暇を告げて帰りける亭主心中には大いに怒れどすべき様もあらざれば其儘にして止みぬ一坐の人々後に云けるは星野勘左衛門が仕方尤の事也相撲取りと士たる者と勝負を所望するは失礼也全く亭主の誤り也と云けると也
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坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp