。
便止埋生人也。天皇悦賜姓。為土師連。
之誥。
専預凶儀。垂仁紀云。天皇厚賞野見宿祢之功。亦賜鍛地。即任土師職。因改本姓謂土師臣。
是土師連等主天皇喪葬之縁也。推古紀云。十一年。征新羅大将軍来目皇子薨之云々。仍殯丁周芳娑婆。乃遣土師連猪手。令掌殯事。
孝徳紀云。白雉五年十月。天皇崩于正寝。仍起殯於南庭。以小山上百舌鳥土師連土徳。主殯宮之事。喪葬令云。
凡百官在職薨卒云々。三位以上及皇親土師示礼制。職員令云。諸陵司土師十人掌賛相凶令。義解云。凶礼送終之礼即土師宿祢年位高進者為大連。
其次為少連。並紫衣刀剱世執凶儀。案三代格。延暦十六年四月廿三日官符。停土師宿祢等預凶儀。宜合考。菅原姓。
延暦九年十二月紀云。勅菅原宿祢道長等賜姓朝臣。姓氏録云。右京神別菅原朝臣土師宿祢同祖。乾飯根命七世孫大保慶連之後也。
案菅原在大和国添下郡。見和銅元年九月攷証。
。
臣等謹検故事。上古淳朴。葬礼無節。属有山陵之事。毎以殉埋生人。鳥吟魚爛而不忍見聞。
爰及纒向珠城朝廷垂仁天皇御世。皇后薨逝。梓宮在庭。天皇甚傷。顧問群臣。後宮葬礼。為之奈何。
于時土師宿禰等遠祖野見宿禰進奏曰。神聖之徳。伏済民命。殉埋之礼。殊乖仁政。因即喚出雲国土師部三百余人。
自領取埴。造諸物象進。天皇甚悦。以代殉人。号曰埴輪。所謂立物是也。自茲厥後。歴代相沿。緬尋古風。
野見宿禰献策往帝。弘仁政於昔年。停殉陵次。垂遺愛於後世伝曰。善善及子孫。悪悪止其身。然則野見宿禰苗裔。
応霑延賞之沢。而飜掌凶儀。不預吉礼。夫喪礼之事。人情所悪。専定一氏。為其職掌。於事論之。
実為不穏。臣等伏望。永従停止。縦有吉凶。同於諸氏。其殯宮御膳。誄人長。及年終奉幣諸陵使者。
普択所司及左右大舎人雑色人等充之。伏聴天裁。謹以申聞者。画聞既訖。省宜承知。年終幣使者。依治部省移。
差蔭子孫散位位子等充之。自今以後。永為恒例。類聚三代格第七及第十七
。臣等謹検故事。上古淳朴葬礼無節。属有山陵之事。
毎以殉埋生人。鳥如ニ吟キ魚ノ如ニ爛レテ而不忍見聞。
爰及纒向珠城朝廷垂仁天皇御世皇后薨逝。梓宮在庭。天皇甚傷顧問群臣。後宮葬礼為之奈何。
于時土師宿祢等遠祖野見宿祢進奏曰。神聖之徳伏済民命。殉埋之礼殊乖ケリト申セリ仁政。
因即喚シ来リテ出雲国土師部三百余人。自領取埴造諸物象進。天皇甚悦以代殉人。
号ツケテ曰埴輪所。謂立物是也。自茲厥後歴代相沿。緬尋古風。
野見宿祢献策往帝。弘仁政於昔年。停殉陵次。垂遺愛於後世。伝曰善々及子孫。悪々止ムト云リ其身。
然則野見宿祢苗裔。応霑延賞之沢。而飜掌凶儀不預吉礼。夫喪礼之事人情所悪。専定一氏為其職掌。
於事論之実為不穏。臣等伏望。永従停止。縦有吉凶。同於諸氏。其殯宮御膳誄人長。及年終奉幣諸陵使者。
普択所司及左右大舎人雑色人等充之。伏聴天裁謹以申聞者画聞既訖。省宜承知。年終幣使者。依治部省移。
差蔭子孫散位位子等充之。自今以後永為恒例。
。臣等謹検故事。上古淳朴。葬礼無節。属有山陵之事。
毎以殉埋生人。鳥吟魚爛。不忍見聞。爰及纒向珠城朝廷垂仁天皇御世。皇后薨逝。梓宮在庭。天皇甚傷。顧問群臣。後宮葬礼。
為之奈何。于時土師宿祢等遠祖野見宿祢進奏曰。神聖之徳。伏済民命。殉埋之礼。殊乖仁政。
因即喚来出雲国土師部三百余人。自領取埴。造諸物象進。天皇甚悦。以代殉人。号曰埴輪。所謂立物是也。自茲厥後。
歴代相沿。緬尋古風。野見宿祢献策往帝。弘仁政於昔年。停殉陵次。垂遺愛於後世。伝曰。善々及子孫。悪々止其身。
然則貯野見宿祢苗裔。応霑延賞之沢。而飜掌凶儀。不預吉礼。夫喪礼之事。人情所悪。専定一氏。為其職掌。
於事論之。実為不穏。臣等伏望。永従停止。縦有吉凶。同於諸氏。其殯宮御膳誄人長。及年終奉幣諸陵使者。
普択所司及左右大舎人雑色人等充之。伏聴天裁。謹以申聞者。画聞既訖。省宜承知。年終幣使者。依治部省移。
差蔭子孫散位々子等充之。自今以後。永為恒例。
山沢。神人雑糅。| 天穂日命十四世の孫。野見宿禰と云し人に垂仁天皇土師姓を賜ひ。其十一世古人に聖武皇帝天平元年己巳六月二十五日始て菅原の姓を賜ふ。 |
濡渟命弟曰甘美乾飯根命。甘美乾飯命子曰野見宿根。纒向珠城宮御宇垂仁。天皇御世。
喚野見宿禰。与当麻蹶速令
力。二人相対立。各挙足相蹶。則野見宿禰蹈殺蹶速。故奪蹶速之地。悉賜之。
仍留住焉。於是皇后日葉酢媛命薨。是時古風尚存。喪葬無節。天皇神襟有悲傷。詔曰止殉奈之為行。野見宿禰奏曰。夫君王陵墓。
埋立生人。是不良也。豈得伝後葉乎。願喚上出雲土部人等。取埴以造作人形。以是土物更易生人。樹於陵墓。為後葉之法則。
天皇大喜之曰。汝便儀寔洽朕心。則其土物始立于日葉酢媛命狭城墓。今狭城盾列池前陵是也。是以土物謂埴輪。
仍下令曰。自今以後。陵墓必樹是土物。無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功。亦賜鍛地。即任土部職。因改本氏謂土部臣。其後天皇崩于珠城宮。
葬菅原伏見山陵。今菅原御立野中陵是也。土部臣野見宿禰主喪葬之事。皇太子景行天皇。詔充陵戸。
兼守山也。爾来土部氏万葉居菅原伏見邑。土部臣野見宿禰三世孫身臣。難波高津宮御宇仁徳天皇御世。改土部臣賜土部連姓。| 天穂日命十四世孫野見宿禰。垂仁天皇御世賜土師臣姓。三世身臣。仁徳天皇御世改賜土師連姓。十一世孫古人等。天平神護元年乙巳六月廿五日改賜菅原朝臣姓。 |
| 菅原氏。略以菅江両家為大儒正統云々。 天穂日命。天照大神第二御子也。本姓土師宿禰。出雲臣。土師連等祖也。 成務天皇御子。為土師臣子云々。 天穂日命十四世孫野見宿禰。垂仁天皇御宇賜土師臣姓。三世孫身臣。 仁徳天皇御宇改賜土師連姓。十一世孫古人等。天応元年六月二十五日改賜菅原朝臣姓也。 |
| 家の系図には。平城天皇の皇子阿保親王の御子。備中守本主の子。音人初めて大江の姓を賜ふとしるせり。 新編纂図も是れに同じ。たゞ本主に姓を賜ふと記るせるのみ異なり。本朝皇胤紹運録には。音人を阿保親王の御子の例に載せたり。 然れば大江の姓は阿保親王の御末と見えし。されども。公卿補任には。大江朝臣音人は備中介正六位上本主が男。 先祖本姓は土師なり。延暦天子の外戚を以て。改めて大枝となる。音人に至て。枝を改めて江となす。母は中臣氏。 阿保親王の侍女と云々。拾芥抄に大江は右京の人土師の宿禰浄継。大枝の朝臣の姓を賜ふ。貞観八年三月廿二日大江とす。 此二書に依れば。大江は。もと土師姓なり。新撰姓氏録に。土師は天穂日命十四世の孫。野見宿禰の後也とあり。 されば大江の先は天穂日命より出て。平城天皇の御裔にはあらず。江談抄を見るに。菅家は土師姓なれば子孫多けれども。 官位至らずとて。土師姓の事を誹りてしるす事あり。江帥自ら土師の子孫たらんには。おのが先祖の事。かくはなどいひけん。 公卿補任には。母は中臣氏。阿保親王の侍女とあれば。もしくは音人実は親王の御子なるを本主が子とせしにや。覚束なき事なり。 |
| 此事の始は垂仁天皇紀に皇后日葉酢媛命薨じ給ひし時野見宿禰奏して埴を取りて人馬及び種々の物形を造りて人をもて殉する事に易ふ天皇大きに喜給ひこれより後に人をもて殉ずる事をとゞめられ宿禰の功を賞し給ひ本姓を改めて土部臣となさるこれ土部連等主天皇喪葬之縁也と見へたり日本紀及び姓氏録によるに野見宿禰は天穂日命十二世の孫可美乾飯根命之孫なりしと見へたり |
| 或は令に見えし大連少連之号のごときは後に礼経伝へし代に始れりなどもいふべけれど連といふ事のごときは神武天皇の御代のはじめに聞へて土師連の事は垂仁天皇の御時に聞へしかば此等はまた皆今字伝らぬさきの代の事也是よりさき彼国の古文こゝに行はれし事必ずなかるべしともいふべからず |
児の甘きに附くが像し。親兵衛と孝嗣は。今這出崎を過る程に。其を那なるや。と訝しさに。
心ともなく立寄て。稠人を掻分きつゝ。找み近づきてよく見るに。主僕とおぼしき老壮両個。似而非技をして人を立せ。
をさをさ膏薬を売まく欲りする。逆旅経紀人にてぞありける。そが中に年齢。六十ばかりなるらんと見ゆるは。
東人にて。年歳二十有余なるは。従者なるべし。主僕倶に遠山形なる。染木綿の夾衣を。うち披りて帯をせず。
白栲の犢鼻褌を。高く緊しく引結びて。跣足にて双立たるが。地に画して土苞に像り。そが傍に。天朝
力鼻祖。
野見宿祢。家秘神方。撲傷折損搨痍妙薬。荻野上風。相伝精製。といふ。三十言を写したる。幟形なる揉紙の招牌を。
真砂地に推植て。なほも寄来る人を等たり。畢竟這逆旅経紀人。恁地に人を稠して。甚なる技を做すにやあらん。
そは次の回に。解分るを聴ねかし。| 一 | 五条家を相撲之家之様に申候右ハ菅家にて野見宿禰之後胤たるを以自然に其様に心得来候由 |
牧野備後守殿へ被為成相撲上覧の時。牧野藩士鈴木梶右衛門入門の御願有之。将軍家上覧の式一通り致相伝。
品々拝領なり。元祖より拙者迄都合十九代。相続の古実伝授し来り。当時諸国の行司並力士どものゆるし。拙者方より代々差出す。寛政元年十一月吉田善左衛門。| ○ | 崇神帝の時出雲州野見宿禰といへる勇士あり。大和州に当麻蹶速といへる大力あり。 此両人を召して力をくらべしむ。野見力まさりて蹶速か脇骨を折り腰をふみて殺す。是本邦相撲の初なり。 野見には蹶速が領地を給りて都にとゞめて宮づかへせしむ。この人埴を以て人形其外様々のうつわものを作ることをつかさどる。 其末代にさかへたり。菅原氏もこの末なり。 |
| 此モ畢竟仏道が邪魔ヲシテ。先皇ノ為オキ玉ヘル事ヲクヅシタルニ当ルナリ。昔僧ヲ尊ミ玉フ事ノ半分ホド。 土師姓ヲモ尊ミ玉ハヾ。其家ノ仕来ノ事ヲ慙テセヌ様ニモナリハスマジキヲ。僧ヲバムシヤウニ尊キ物ニシ玉ヒ。 俗人ヲバ余リニイヤシミ玉ヒケルガワロキナリ。○又云。土師氏ノ多クアル中ニ。自然ト血脉タユル家アラバ。 其家ヲ葬式ヲシル家ニシ玉ヒ。公ヨリモ尊ミ玉ハヾ。此家葬式ヲスル様ニナリヌベシ。僧ト云フ者ニハマカセ玉ハヌガヨロシカルベシ。 |
里有紫草
部野乃得病死爾時出雲国人来到連立人衆運伝上川礫作墓山故号立野即号其墓屋為出雲墓屋| 菅原 超昇寺の南 菅原ハ野見宿祢の末葉土師宿祢古人土師宿祢道長などのすミける所なり此人々姓をのぞまれしより光仁天皇土師の姓をあらためすめる所の名なれバとて菅原の姓をぞ給ける続日本紀此野見宿祢ハ垂仁天皇の御宇野見の姓をあらため土師の姓を給ひけるとぞ日本紀天穂日命十四世の孫系図因に菅原の池ハ推古天皇十五年にほる日本紀 万葉 おほき海のみなそこふかくおもひつゝこひしき奈良の菅原の里 石川女郎 古今 いざ爰に我世ハ経なん菅原や伏見の里のあれまくもおし |
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| 此歌ハふしミの翁といふ物かたりにありと恵心僧都の勧女徃生義と申造紙にいまめきの中将長井の侍従伏見の翁なんどいふ古物かたりありとのせられたりさやうのもののありさまをよミたりける歌にや又隆縁と申僧ハ伏見の仙人か歌とぞ申侍りし顕注密勘 | |
| 金 | 龍山浅草寺 伝法院と号す坂東順礼所第十三番目なり天台宗にして東叡山に属せり | |
| 按るに東鑑に建久三年壬子五月八日法皇四十九日の御仏事に百僧供を修せらるゝと其条下に僧衆の中浅草寺よりも三口とあり又同書に建長三年辛亥三月六日浅草寺へ牛の如きもの忽然と出現し奔走す時に寺僧五十口はかり食堂に集会する所に件の恠異を見て廿四人立所に病痾を受七人即座に死するよしを記せり寺僧五十口はかりとあるときハ徃古も猶大伽藍なる事をしるへし永禄二年小田原北条家の分限帳に浅草寺家分四拾貫九百文を附せらるゝよし出たり | ||
| (中略) | ||
| 本尊縁起曰人皇三十四代推古天皇の御宇土師臣中知といへる人故ありて此地に流浪日本紀垂仁天皇三十一年野見宿祢に始て土師臣の姓を賜ふとあり野見宿祢ハ天穂日命十四世の孫なりとゝにいへる中知も此遠裔なるへし山岡明阿弥陀仏云中知ハ奈加登茂又登茂奈利とも訓すといへり家臣檜熊浜成武成と云二人の兄弟附添て主従三人恒に漁猟を産業としこゝに年月を送けり檜熊或檜前に作る新撰姓氏録に檜前舎人連と云云然時ハ檜前に作て可ならん歟続日本後記に檜前舎人直由加麻呂武蔵国加美郡の人にして土師氏と祖を同するとあり又延喜式兵部省諸国馬牛の牧の中にも武蔵国檜前馬牧とあり是等によるときハ浜成武成も此国の人ならん歟同三十六年戊子三月十八日の朝碧落に雲消て蒼溟に風静なりけれハ小舟に乗し此所の沖に出て網を下すに浅草川むかし海にちかし旧名を宮戸川と称す遊魚ハさらになく幾度も同し観音大士の尊像のミかゝり賜ふ異浦に至りてもいよいよしかり依て主従驚き是を奉持して帰り機縁の浅からさるを思ひて其家に安すといへとも唯臭魚の穢に雑る事を恐るゝのミ世に草刈の同集つて藜をもつて仮の御堂を造るといへる事縁起に所見なしこゝにをひて終に魚舎をあらためて一宇の香堂を経営り彼尊像を安置し奉る今の一権現の地共旧跡なり其後舒明天皇の御宇十年戊戌正月十八日霊告ありて回禄す其後又三ヶ月を経て炎上し夫より回禄七度に及ふといへとも本尊ハ自ら火焔を免れ出給ひて恙なし衆人皆奇なりとす是累年此地ハ漁猟殺生を業として汚穢の所なれハ焼除て無垢の霊場となさんかためかくは本尊示現ありしとそ依て炎上の後霊験いよいよいちしるし後久く堂宇破壊にをよひしを孝徳天皇大化元年乙巳勝海上人東行の次適こゝに来て再営す則当寺の開山と称すこのとき勝海上人本尊の花容を拝して奇異の霊告をかうむり夫より已降秘仏として拝する事なし天慶五年壬寅安房守平公雅大系図に従五位上平公雅武蔵守に任するよし記せり前大平記第六巻に藤原秀郷平親王将門を誅する功によつて天慶三年三月廿九日武蔵下野両国の守に任せらるゝとあり又同書に同四年七月十六日将門記に二月十四日誅すとあり将門純友誅戮の時も両度の戦ひに軍功あるを以て武蔵守に任せられしか同五年の夏任限満すして重病にかゝつて卒す依て公雅を此国の守に任せらるゝとあり公雅ハ常陸大椽国香の弟上総介良兼の長男にして平将門を諫て切腹ありし六郎公連か兄なり当寺に詣当国の大守たらむ事を祈求すいくはくならすして遷任し此国の守となりけれハ霊験の空からさるをあふき奉り本堂をよひ宝塔鐘楼楼門経蔵法華常行六所の社壇六所の社壇いまた考へすを造立し田園数百町を附して長く龍華の暁を期せしむ又長久二年辛巳十二月廿二日大地震動して仏客顛倒せり寂円阿闍梨永承六年に造営す遥に後白河院承暦三年己未十二月四日堂塔回禄す其時本尊火中を出て坤の榎の梢にうつり給ふ承徳二年戊寅四月藤原成実四箇年の間当国を拝任し猶重任の望ありて祈願し霊験あり依代々罕籠の田畑を尋て元の如く皆施入し奉る按に大系図に源成実と云し人武蔵介になりたる事ありこゝに藤原とあるハ誤なるへし其後左馬頭源義朝当寺へ参詣ありて堂塔を修営し彼坤の榎を以新に観音の像を彫刻して納らる其像今内陣に安す臺座に奉行鎌田兵衛政清と書付てあり坂東順礼記に康治年中義朝当寺観音へ詣るとありまた花川戸六地蔵の石灯籠の銘に久安二年丙寅とありて鎌田兵衛の建立なりといへり依て按るに康治より久安まてわつかに五年の間なれハいつれも政清命をうけて普請の事をつかさとりしころの事なるへし又仁安三年戊子用舜法印大衆に同心して仏閣を修営す治承四年庚子十月十七日縁起に八月十七日とあるハ誤なり十七日ハ北条を初宗徒の人々八牧判官兼隆か館にむかふよし源平盛衰記をよひ平家物語等の書に出たり石橋山の戦ひも同廿日の事にしていまた安房国へもいたらさる先なれハ頼朝当寺へ参詣あるへきにあらす又盛衰記に治承四年九月十一日武衛武蔵下総の境なる松戸の庄市川に着たまふと東鑑にハ治承四年十月二日武衛太井隅田の両河を渡らるゝとあれハ八月十七日とするはおほひなる誤なり右兵衛佐源頼朝参詣ありて田園若干を寄附せらる是平家追罰の祈願に依てなり承久三年辛巳にハ禅尼政子二品及相州武州両剌史敬信し願書を捧け白檀の大悲の像一躯と白色の綾羅の帳一なかれ信濃布千端を寄附ありまた伏見院御宇正応二年己丑十月廿一日大輔聖といへる沙門其頃堂宇の破壊を歎十方に勧進して正安二年庚子三月十八日修営落成す其後建武年中将軍尊氏鎮西発向の折から夢想に依て当寺観音へ願書をこめられ同観応三年壬辰今年文和と改元あり南朝の正平七年なり閏二月廿日縁起に三月廿日とあるは誤なり武蔵野合戦にも兼て勝利あらん事を祈願ありて合戦の後美田を寄らる永和四年戊午十二月十三日伽藍回禄すといへとも本尊ハ恙なしこゝに至て回禄九度にをよへり其後嘉慶元年丁卯修行の聖定済なる者勧進の功を募り応永にいたり建立成就せり夫より後天文四年乙未八月十八日炎上す其頃相州小田原の城主北条氏綱当国を領しけれハ破壊の諸堂再興ありて大伽藍とし天文八年己亥五月十八日当寺奉加帳に島津長徳軒大道寺盛冨松田盛秀等の名を注し加ふ是本文の意に合せり又知足軒友山翁の説に元和年中迄の棟札に武州河越城主大道寺駿河守是を奉行すとありと云云忠善上人を以て別当職とす忠善上人ハ北条幕下遠山丹波守の末子なり又其師忠海上人といへるハ摂州細川律師定禅の末葉武州金沢の城主伊丹三河守の子なり三河守宿願の事ありて末子を沙門とし当寺の別当とす是より後ハ代々伊丹遠山の両家より別当職を相続せしとなり然るに元禄年中故ありて或人云貞享二年の事なりとそ別当知楽院権僧正宣存鎌倉へ退居し夫より東叡山に属す当寺本尊ハ殊に 大神君御信仰最厚に依て寺領若干を附せられ寛永十九年二月十九日回禄の後も慶安三年庚寅六月三日手釿はしめありて堂塔御建立ありしよりこのかた公より修理を加へられ誠に無双の霊場となれり |
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| 正 | 一位鷲大明神社 花亦村にあり此地の産土神とす祭神詳ならす本地は釈迦如来にして鷲に乗する躰相なり別当ハ真言宗にして正覚院と号す毎歳十一月酉日を以て祭日とせり縁起曰本地釈迦牟尼如来ハ新羅三郎義光崇敬の霊像にして天喜の昔奥州安倍貞任叛逆を企るの時本尊の示現によりて其軍勝利ありし由を記せとも其説詳ならす | |
| 按に当社鷲大明神ハ土師大明神なるへしはとわの仮字の転せしより謬り来れる歟当社を世俗浅草観音の奥院と称す是に因てこれを考ふるに浅草寺縁起のうちに土師臣中知をよひ檜前浜成竹成といへる漁者主従三人の名を挙たり日本紀に垂仁天皇三十二年野見宿祢にはしめて土師臣の姓を賜ふとあれハこの中知も其遠裔なるへし野見宿祢ハ天穂日命十四世の孫なり古事記に天穂日命ハ出雲臣武蔵国造土師の連等か遠祖なりとあり又続日本紀曰檜前舎人直由加麻呂といへるハむさしの国加美郡の人にして土師姓と祖を同すとあれハ此浜成竹成も武蔵国の人にして主従三人ともに姓ハ土師なるへし古事記に天菩比命の子に建比良鳥命といへる神あり此神ハ土師姓の祖なれハ彼三人の漁者の輩なと此等の神を崇まつりしものならん歟当社に毎歳十一月酉の日祭あり世に酉のまちと云まちハ祭の略語なり此日近郷の農民家鶏を奉納す翌日納る所の家鶏をことことく浅草寺観音の堂前に放つを旧例とすこれ又より処ある歟猶後人の考を待のミ | ||
士
夫恋吾嬬恪 摂関老相称妃爺士
恪 柿本歌残使彼誇亨
人又然。倶酷好角力。一日公績至
家。
有人偕婦来謁。乞与主人角力。其風俗古朴。在当麻蹶疾野見宿禰之上也。主人大異。辞却曰。余第好観而已。
実未染指。然固請不已。遂相搏。勢不可敵。忽為所擲。公績恚。不忍視。与其婦角力。亦擲之趨出。急遣門生。
問其姓名。答曰。吾是
者擲儒者擲那尊。| 相 撲 | 塒出たか久上毛 | |
| 勇むらし寄らばけはやの勢にかたづをのみの宿禰がたにも | ||