思ひ出草
《思ひ出草巻二》
民の膏血の事
備前少将治政朝臣は予わかき時より懇遇を蒙り。手あらき事を好み給ひて。おもひたち給へる事は財宝をもれのごとくにつかひ捨給へる事は。
世もて知る所なり。酒宴をこのみ給ひて予も筵に侍しける。大なる杯をもて満酌ならではゆるし給はず。ある時あまりに大なる器ゆえに。
堪かねて少しのみて傍の人にたのみ。べちの器を取来らせこれに写したるを見つけ給ひ。飲得ざらば何とて吸ものゝ中にはうつさぬぞとありしに。
これは百姓の膏にて候へば勿躰なし。他のうつわにうつしたらば飲む人もありぬべければなりと答へければ。朝臣。是はできたり。
尤なりとのたまひ。其のち酒宴の席に陪する毎に。縫殿百姓の膏はいかにいかにに戯れ給ひし。多くの民を撫育し給ふから。
其理りをばよくわきまへ給ひぬと感じき。
又愛せられし覇王樹のありしを。御庭をはらふ下部さはりて半より折りたるを見給ひ。何とも仰なきまゝ我等を初かたはらなる人々。
扨もをしく事也といひしに。朝臣は平気にて。折れたるものいかゞすべきとのみ仰られたり。又ある時。
御内所に庭作りして山を築かせらるゝときこえければ。いかなる御物好キにやとおもひしに。
高き板塀に土をもりかけて。ふじの山に似せて作りたるにて有けり。かくては板塀の朽つべきにと申ければ。
さればとよ塀の朽ざるうちに。又このみかわりて何にか変じんと仰られけるが。果してその山遠からずして掃地となりぬ。
物に滞らざる御気質これに類したる事多かりき。わかくあらせし御時の事かとよ。岡山の学校にて相撲をとらせ御覧ぜられ。
家の長をはじめ有司共に見物せよとて召出されける。相撲なかばにして諸臣へむかひ。皆々今日の相撲おもしろからんとの給ひけるに。
家の長。有司まで難有拝見仕ると平伏せし中に。有司一人。恐ながら申上候。烈公はじめて学校を設け給ひしは。文教を講じ。
且武技をも習はしめんが為なるに。今はそれをばおろそかになし相撲場とせられ給ふ事。世はおしうつるといへども是非もなき事也と申上ける。
朝臣聞給ひ。則相撲相止申べし。我も直に帰城。すはや供揃へよと仰ければ。諸臣は興ざめて有ける。扨帰城ましまして彼有司にいそぎ登城いたすべきよし仰出さるれば。
彼レは定めて御手打にやならんと覚悟をきはめ出たる所。是へ召出せよとの事にて。彼もの恐つゝ御前に平伏しければ。
近く召して今日の諫言尤至極せり。学校にて相撲を催す事我が過ちなり。已来致まじくと懇意なる御こと葉給はりたりと。その人の名はわざと其時はかくして。
かたりし人もいはざりしが。今は問ふべき人さへなきは口惜しき事也。
れのごとく…水のごとく。
写したる…移したる。
いかにいかにに…いかにいかにと。
《思ひ出草巻三》
物はの事
食物にかぎらず。人品。禽獣。魚虫。草木。器物。すべて甚だ好悪ある事。幼き時は猶更甚きものなり。是過去の宿業。前生の習気はじめて発動するによれり。
年やゝ長ずるにしたがひ。或はうすらぎ或は増長するは。現在の縁に触てなりと仏者のいひけるが。是をおのれに省するに果しかり。
予いとけなき時甚だ好めるものは。犬。兎。鉢坊主。高野山女人堂と唱へ歩行く行者。銅像の仏。悪める物は。牛。猫。熊胆。木乃伊。猩々緋。錦手の茶碗。
錦手は人の血もて染るといふ話をきゝてより。見るも気味わるく。熊胆等は。いかなる情しらぬものゝ製するやと。話きくだに恐しかりき。
さて年長じて好める物は。書籍。茶。酒。烟草。酒は露児が戒しにより今は脣をも濡さず。大欲の存せるひとつもとし老ぬればやみぬ。
次に。河漏麪。豆腐。柚味噌。糖果は悪しからざれど。カセイタといふもの。魚も好めども。中にも。鯉。鮒。
記月魚。鱸。棘鬣魚なり。鯉鮒の二いろは自死のものは味劣りぬれば。今は賞せず。水果はわかき時は賞したれど。今は好にもあらず。
桜花。桃花。荷花。燕子花。萩。山ぶき。なでしこ。きちこう。鶯。杜鵑。うき鳥。石たゝき。鹿の声。松むし。すゞむし。かうろぎ。古き狩野氏の画。
松花堂の書。芭蕉翁の発句。東北。江口。田村。羽衣等のうたひ。名所旧跡。さゞれ石見え透きかちわたりする小川。蒲団きて寐たる姿の山。
鄭子産。荘周。諸葛孔明。陶淵明。王維。白居易。紀貫之。紫式部。西行法師。元政法師。美濃紙。小文筆。其外もあるべし。
悪めるものは。干瓢のみそ汁。生漬の茄子。獣肉。河豚。江豚。かつを。まぐろ。鰯。
。養鳥。盆栽。中にも鵜。鷹。孔雀。
錦鶏。音呼。作り松。其余枝ためたる樹木。浄瑠璃。三絃。相撲。力持。酒飲み別房持てる僧。不遜なる人。赤坂奴。狩人。鼠取業。流行神。
富士講。心学。両部習合の神道。六朝の禅譲。梵頂伯。梁江総。宋秦檜。明厳嵩。清銭謙益。梶原景時。大江広元。北条義時等。佐々木盛綱いよいよ悪めり。
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坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp