春湊浪話
《春湊浪話巻之二》

   ○猿楽
猿楽。是も今奈良に四座ありて。其家をたつ。其始を考ふるに。昔は是を散楽とはいひしなり。此もの国史にみへけるは。 清和天皇の貞観三年六月廿八日。殿前にて種々雑伎。散楽。透撞。呪擲。弄玉等の戯あり。相撲の節のごとしとあるぞ始なるべし。 陽成天皇の御時には。の人近元といふ者。并に右近衛内蔵富継。 長尾米継よく散楽して。人みな頤を解くといふ事。是も三代実録に見へし。其後に村上天皇の御製の散楽策にも。 来朝して解頤の観とすと書せ給へば。此散楽の根元は。といふ所より来りし物にて。 是を富継。米継も近元に習ひ得たるにて有しなるべし。さらば文献通考に。散楽雑戯多幻術。みな出西域とみへしものなるにや。 然るに翰林胡蘆集明応の比に。僧£|がえらびなり。に。猿楽はもと申楽と書て。 其始推古天皇の御時。秦川勝神楽によりて作り出せし故に。神楽の神の字を分ちて申楽と名付。又其時上宮太子申楽延年記を書せ給ふといふ事見へたり。 是は猿楽の家に伝へたる事を聞て書るにや。推古紀に此ことと覚しきことはみへず。尤も此時百済人味麻之来て伎楽舞を教し事あれども。 是は今の高麗楽の事にて有べき。古き書に申楽と書し事更に見へず。又猿楽の家の遠祖と称する秦氏安が散楽策の位署にも。 申楽とはなくて。散楽得業生六位上行兼腋陣吉上秦宿禰氏安と書たれば。猿楽を昔散楽といひし事はまがふべからず。 此秦氏安よりは廿九世の孫なる者。則今の猿楽の金春家の始といふ者なりといふ。是秦の姓なれば。其祖川勝に散楽始るといふ。 げに故あるが如きなれば。若其時にもより散楽する人来りて。 川勝習ひ得て舞出しけることの有しもしるべからず。散楽策を書給ひし天暦の御時までは。散楽とのみ見へし。 夫より三四十年にや及びぬらん。源氏。世継。枕草紙の類には。散楽とはなくて皆猿楽。又さるがふとは書ける。 江次第には散更とも書たる。かくさまざまにいひけるが。終に猿楽といふ事になりて。藤明衡の新猿楽記といふ書名も出来たり。 扨其散楽又猿楽の業とする所。三代実録より以来。物語の類。古事談。十訓抄。宇治拾遺。著聞集。源平盛衰記等にいたりて。 皆其時に当りて人の笑を含。頤を解ことをたくみて作り出す事を以て専らとすることにて有し由見へし。 然るに。其家にいふ所は。川勝の時に六十六番の曲あり。後に卅三番とするとあれば。定めし曲も有しが。是を散楽の策にて考ふるに。 所謂船太が新靺鞨。魚丸が世羅国。人是を美談とす。世に妙舞と称すとみへ。其余鞭を揚げて半蔀に騎り。 柱に傍て胡を負ふ。安勅氏が老に臨める相撲などは。師の伝ふる所とあれば。曲の数卅三番などいふことも虚談ならず。 同策には其術月次に随て体を変ずといふこともあれば。其業時に臨て作り出す事も又ありしなるべし。 昔天暦の御時に。散楽策をみづから書せ給ひし程のことなりしが。根元いやしき業なる故にや。順徳の帝の御抄には。凡賤を遠ざくべき事の条に。 猿楽の如き庭上に参る事を止べしとかゝせ給ひし。又明月記にも。下衆猿楽を召るゝ先に此事なし。仍只侍猿楽を可召由といふ事も。 寛喜の記にみへて。下衆猿楽と云は。其家を立たる猿楽の事にて。今も同例にて。朝庭へ下衆猿楽参る事などぞ。いかにして此寛喜の比より後。 猿楽衰へ行て。鎌倉北条執権の末。京都将軍のはじめまでは。田楽のみ世に聞へて。猿楽の沙汰はなかりしが。 貞和五年に四条の橋を渡さんとて。新座本座の田楽能くらべをせし時に。始めて日吉山王の示現なりとて。 猿面をきせし猿楽を舞出せしといふ事。太平記にみへし。是より又田楽は衰へ。猿楽さかんに行はる。されどもむかし散楽といひし時の古体は廃れて。 年々に新敷事に移りぬるは。此貞和五年に一変せし根元なるべき。是より前暦応三年に。 伊予国にて猿楽能有し事。是も太平記にみへたれども。いぶかしくおもふ事あればこゝにとらず。其後さまざまの事ども作り添て。 謡といひ。能といふ事になりし。今の謡の百番二百番と云ふ。みな平家物語。義経記。曾我物語の事跡ども多く。 或は源氏物語の事もあり。昔し散楽といひし以前の事はすくなくて。たまたま神代人の世のはじめの事を作り出せるも。 近き世の俗の詞のみにて。古雅なることなくて。散楽といひし時の残れるかと見ること更になし。是貞和以来作出せし事なるべし。 職人尽歌合に。猿楽又曲舞まいといふものゝ歌。又判の詞をみるに。今の狂言といふものぞ。貞和以前の猿楽といふものなるが如し。 若昔の猿楽。今の狂言に転ぜし事あるか。其道しられん者にたづぬべし。寛正の比興行有し猿楽能の謡の名に。 出雲十ネ鶴次郎打入曾我梶原二度のかけ星宮など書しもの有。今の内外二百番といふにはみへざるにや。 今其名の転じたる歟。廃れたるかしらず。

《春湊浪話巻之三》

   ○犢鼻褌。手綱
又ふるく手綱と記せるは。今の下帯といふものなり。或は犢鼻褌といふ同じ類なれども。手綱には異にして。 是は短き肌袴なり。日本紀に。火酢芹彦命の犢鼻褌をつけ給ふを。忌部正通の口決に。肌袴と注せる是也。 兼倶も。環翠軒も。是を手綱と注せるは。同類なるを以。注し誤れるなり。其後天武帝と大友皇子と御軍の時。 秦造熊がせし犢鼻褌。其後はるか世を経て。宇治拾遺。著聞集。又承久記等に。たうさぎといひし。皆肌袴なるべし。 後三年の画に。黄なる肌袴を着しを画たる則是なり。手綱といふは。義家朝臣の甲冑着給ふ次第を。体源抄に義貞記を引て書たるに。 手綱とみへ。曾我物語に。相撲の時。藍沢弥七郎が手綱二筋より合せと記し。又同弥七郎が相撲とるとて。 手綱を取かへ出せしとも見へたり。此手綱といふものをせし様は。職人尽の相撲に画たり。是等をならべ考れば。 犢鼻褌といふも。手綱といふも。昔より有しものなれど。其制は異なるに。是を混じて盛衰記に犢鼻褌と書たるを。 とうさぎといはず。たづなと訓を付たる。同類なるを以て。是も誤たるや。殊に難波六郎が布引の滝に入し時に。 紺の褒をせしとある褒の字に。したおびと訓ぜしいとどいぶかし。若後代につけたる訓なるにや。尤ふるき歌に。 井手の下帯。又下の帯の道はかたかたなみなどよみて。下帯といふ事。其名なきにはあらねど。是はたゞ常の帯の事なり。 清輔奥儀抄にも。うへしたに帯をばすれば下帯とはいふなりと見へて。今の俗にいへる下帯といふ事は古く聞へず。
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坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp