兎園小説余録
《兎園小説余録第二》

   ○八木八郎墓石
江戸伊皿子臺町の先。大円寺に。薩藩の大力士八木八郎の墓あり。縮図左の如し。
◎図略之。墓石高八尺余。頂部厚一尺二三寸。底部厚一尺四五寸。
貞享三丙寅六月十七日
正山常真庵主
薩州生縁八木八郎
      行年十九歳
伝云。八木八郎は多力也。この石泉岳寺の揚げ場にて。数十人かゝりて。船より引あげんとしつゝ。あげかねたる折。 八郎其処をよぎるとて。見つゝ頻りに笑ひしかば。船頭車力等これを怒りて。その笑ふゆゑを問ふに。 八郎こたへて。汝等かばかりの石を。数十人してなほ引あげる事得ならぬか。わが笑ひしはこの故也といふに。 衆みないよいよ怒りて。おん身今この石を引あげて見せ給はゞ。石をまゐらすべしといひけり。 折から雨後の事なりければ。八郎木履をはきながら。件の石を引かつぎ。大円寺の門前へもて来て。 寺へあづけおきけり。この寺は八郎が菩提所なるによりて也。そののちに八郎早世しければ。 則その石をもて墓表にしつをいひ伝へたり。予この事を聞て。その墓を見ぬるに。享和中の事なりき。 大円寺の墓所に到れば。衆墓に抽ていと高きをもて。問ずして八郎が墓なりけりと知るに足れり。 かくて文政のなかばに至りて。鱗斎漫録といふ写本を閲せしに。その書に亦この墓の事を載たり。 鱗斎云。余が近き辺の伊皿子に。大円寺といへる薩州の菩提所あり。其墓所に八木八郎といへる士の石碑あり。 竪の長さ七八尺。横幅下に至りては三尺程もあるべし。此石もとは高輪なる薩州の下やしきの庭に。 年久しく埋みありしが。其時分の主侯一時の戯れに。かゝる石を引起す力量の者もあるべきやなど聞えしに。 八郎なるもの年十九歳なりしが。たゞちに彼石を震起し。大きなる井戸綱やうのものにて身にからみ。 庭上二三遍負あるき。又もとの所に居置たり。主侯をはじめ其怪力に驚かざる者なし。かゝりし程に彼八郎。 其夜総身いたみ。気息頻りにつまりて。終に十九歳を一期として。なき人の数に入たりし。主侯殊に惜み給ひ。 益なき事にあたら若者を失ひしは。我言によれりとて。其跡念頃に仏事なし。彼大石をとりあへず墓じるしとはなしたり。 今其石をはかるに。究竟の鳶のもの。手引十四五人ならでは。車にて引くことなしがたしといへり。 即ち八郎は延享の頃の人なりし。南史に羊侃嘗戯以数石。人八尺大囲者。執以相撃。悉皆破砕。 五雑俎に三原王大嬢。以首戴十八人而舞など。昔より怪力のことを。和漢にしるせしもおほければ。疑ふべきことにもあらず。 以上鱗斎漫録の全文なり。この書には墓石の図もなく。歳月もしるさず。只延享の比の人といふのみ。 延享は貞享のあやまりか。今按ずるに。漫録にいふ所。その実を得たるが如し。とまれかくまれ八木八郎は。 蜀の五丁力士の風あり。もし戦国に生れなば。妻鹿孫三郎と伯仲すべきものなるに。この墓石をだも知るものの多からぬは遺憾ならずや。

◎図之略…原文のまゝ。

《兎園小説余録第二》

   ○大空武左衛門
文政十年丁亥夏五月。江戸に来ぬる大男。大空武左衛門は。熊本侯の領分肥後州益城郡矢部庄田所村なる農民の子也。 今茲二十有五歳になりぬ。身の長左の如し。
一。身長七尺三寸一。掌一尺
一。跖一尺一寸五分一。身の重さ三十二貫目
一。衣類着丈け五尺一寸一。身幅前九寸。後一尺。
一。袖一尺五寸五分一。肩行二尺二寸五分
全身痩形にて頭小さく。帯より下いと長く見ゆ。右武左衛門は熊本老侯御供にて。当丁亥五月十一日。 江戸屋敷え来着。当時巷街説には。牛をまたぎしにより。牛股と号するなどいへりしは虚説也。 大空の号は。大坂にて相撲取等が願出しかば。侯より賜ふといふ。是実説也。武左衛門が父母并兄弟は。 尋常の身の長け也とぞ。父は既に歿して。今は母のみあり。生来温柔にて小心也。力量はいまだためし見たることなしといふ。 右は同年の夏六月廿五日。亡友関東陽が柳河侯下谷の邸にて。武左衛門に面話せし折。見聞のまにまに書つけたるを写すもの也。 下に粘する武左衛門が指掌の図は。右の席上にて紙に印したるを模写す。当時武左衛門が手形也とて。 坊売の板せしもの両三枚ありしが。皆これとおなじからず。又武左衛門が肖像の錦画数十種出たり。 手拭にも染出せしもの一二種あり。後には春画めきたる猥褻の画さへ摺出せしかば。 その筋なる役人より。あなぐり禁じて。みだりがはしきものならぬも。彼が姿絵は皆絶板せられにけり。 当時人口に膾炙して。流行甚だしかりし事想像るべし。しかれども武左衛門は。只故郷をのみ恋したひて。 相撲取にならまく欲せず。この故に江戸に至ること久しからず。さらに侯に願ひまつりて。肥後の旧里にかへりゆきにき。
当時この武左衛門を。林祭酒の見そなはさんとて。八代洲河岸の第に招かせ給ひし折。吾友渡辺華山もまゐりて。 その席末にあり。則蘭鏡を照らして。武左衛門が全身を図したる画幅あり。亡友文宝携来て予に観せしかば。 予は又そを文宝に写せしめて。一幅も差錯あることなし。錦絵に搨り出せしは。似ざるもの多かり。 さばれ件の肖像は。大幅なれば掛る処なし。今こそあれ後々には。話柄になるべきものにしあれば。その概略をしるすになん。

大空武左衛門手形
  (原寸六分の一)
文政十年丁亥夏六月
廿五日柳河侯の邸に
て。武左衛門が掌に燕
脂を塗りて紙に印し
たるを写す。当時坊
間にて板せし渠が手
形はこれと同じから
ず。合し見ば玉石立地
に分明なるべし。


大空武左衛門所穿裏附草履(原寸五分の一)

亡友海棠庵は。その性好事なりければ。かゝるものすらもらさず蝋墨
にて草履のはしばしを搨りて。その形をとりおきにたるを写す。


肥後国熊本在矢部村出生牛股武左衛門亥廿六歳身丈七尺六寸

   武左衛門人品。并牛股と名乗る事
一。年二十六歳一。身重さ五十二貫目
一。身の長七尺六寸一。かほ長二尺二寸
一。手首より中指迄一尺二寸一。たび長一尺四寸
一。両手を合せ米一升三合入一。こし巡り八尺一寸
熊本より二十里ほど東の方。矢部むらの出生也。しぜんと太守の御聞にたつし。御らん被遊度との上意に付。 衣類上下を下さる。其寸法着丈六尺二寸。袖二尺三寸。酒食をあたへ。酒と飯とははかりためすべきよしの上意。 まづ酒五升米五升。其外種々御料理を給はる。太守御すき見あそばさる。およそ酒三升のむ。飯は五升を半分給べる。 一尺五六寸の鯛三まい。二まいをさしみ。一まいをあらともに煮附にしたるを残らずたべる。御側の衆。 いまだ給べる哉。武左衛門申上る。ぼう食は毒なるよし。父母申候へども。珍味御料理ゆゑ。父母にそむきたべすぎ候と申。 その後御狩野の節。武左衛門をつれ行べきとの上意。前々日よびよせ。御ぜん所にて御遠見被遊。にこやかなる奴也との上意。 太守の一言捨置ならず。一升ぶち五人扶持給はる。御なぐさみもとて。色々の力業を御覧に入る。 中に大なるコトヒウシをひき出したゝせおき。そのうしの脊をまたぎこす。太守不斜くつきやう也と上意なり。 名を牛股と名乗べしとの上意。明日刀脇差を給はるべし。
 文政十丁亥年五月十八日。市中を売あるきしを購得たり。このもの本月江戸に到る。 猶道中なりといふ。或は既に到来しつともいへり。到来といへるが実なるべし。
右に貼せしは。世にサゲとか唱らるゝゑせ商人の。当時巷を喚りつゝ売もてありきし也。かゝる類に三板あり。 六七月に至て肖像の錦絵多く出たり。それもはじめは牛股をしるせしを。後には皆大空と改めて出せり。 身のたけなど或は推量をもてしるし。或は伝聞によれるのみなれば。謬りならざるはなかりき。只上に識すもの実事也。 もて標準となすべし。

渡辺華山…原文のまゝ。
想像…振り仮名「おもひや」あり。
挿図三葉あり、省略す。
五十二貫目…原文のまゝ。

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坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp