雨窓閑話
《雨窓閑話巻之上》

   ○織田信長公吝嗇印陣打の事
織田上総介信長公は吝嗇第一の人なり。角力を好みてとらせらるゝに。三番勝する者へは焼たる栗三づゝ褒美にあたへ給ふ。 至てしはき事これにてしるべし。然ども其器量においては。中々凡人の及ぶ所にあらず。幼年の時。尾州清須在所の寺へ手習に行れけるに。 相弟子の寺子共四五十人も有けるが。五月五日の日は休の事なれば。印地打を遊びとなす。此印地打は。古きたはむれにして頼朝時代より有とぞ。 たとへば其遊は。子供東西に立わかれ。石礫を以て打合勝負を争ふ。五月五日を印地打の遊びの日とす。印陣打とも書。双方の手負死人多きに因て。 或怨を含み憤恨を夾むもの少からず。毎年々々其戦ひ大になりて。偏に剣を用ひざる軍に同じ。此故に御三代目将軍家の御時。寛永十一年印地打の儀厳敷御制禁を仰出されける。 信長幼少の時は。深く此遊びを好て。五月五日の日はいつも。御母公より。紙筆墨のたぐひ。飯米三斗に永楽銭一貫文づゝそへておこされけるを。 信長其銭をば子供にあたへ印地打をさせらる。其鳥目をもらひたるものは働抜群也。扨又高名により。褒美として恩賞の鳥目を与ふ。終に一銭も貯へずして。 皆子供らにわかち与へけり。其心入の程。日頃の吝嗇とは格別にて。心有者は。此童子末々は名将となりなんとて。舌を巻て感ぜしとかや。果して其ごとく也。
 某の人曰く。此噺を誠に銘々の身に引競べき事なり。今日の倹約。此心持にてする時は間違こと有まじ。信長公名高き吝き人なれ共。 其人をして其志を見るといふが如くにて。印地打に鳥目をおしまざる所。誠に感歎にたへたり。昔神君御代に。駿河にて二三年の間御倹約の事有て。 本多佐渡守正信命を蒙て奉行しける。其年の門松例より大にして。又正月三日御謡初の節。門ごとに灯す蝋燭例年より格別又大ひ也。神君正信を召て。 かねて倹約の儀申付たる処。門松の大なると。蝋燭の大なるはいかにやと御尋有しに。佐渡守畏りて申様。かゝる御規式の事をりつぱに仕らんとて。 かねての倹約仕候也と申上られしかば。御機嫌不斜とぞ。此佐渡守両三年の御倹約中に。金銀米穀軍用等の手宛。沢山に拵置しに。元和五年天下困窮に及びし節。 其貯にて御赦下されし由。佐渡守が功奚において顕れたり。天下の倹約は天下の為也。国家の倹約は国家の為なれば。別に余計の湧出るにもあらざれば。 たゞをのれが身を詰。まさかの時に用に立んとするは。倹約にしくはなし。能此事心得べしと也。しかれば倹約は。随分心をちひさく持をいふかと思へば左にあらず。 既に信長かほどまで吝き大将なれ共。人に国所など与へらるゝは何とも思はれず。柴田勝家には。北国越後に柴田といふ所あれば。其方に宛行に依て切取にせよとて北陸道七箇国七拾万石を賜り。 滝川左近将監一益は。八幡太郎義家が郎等伴介兼が子孫なれば。関東をほしく思ふべしとて上州を賜り。関東八州の管領職をゆるさる。其外明智光秀は日向国。 羽柴秀吉は筑前国。川尻鎮吉は肥前国。佐々成政は陸奥国を賜らんとて。日向守。筑前守。肥前守。陸奥守などゝ号す。 心の広き事かくの如し。角力は遊興のものなれば。僅焼栗三ッを以て褒美とし。天下を治んと思ふ時には。不惜して大国を与ふ。実に物の差別かくありたきもの也とぞ。

奚において…爰において。
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坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp