昭和 7年・春秋園事件
  1月場所は14日から開幕する予定であったが、 6日、春秋園事件が勃発した。
 天竜は常陸山から「相撲取りは力士であって幇間ではない」と常々訓えられていたが、 当時の収入では(天竜の試算によれば自分が月に70円程度・大関大ノ里で80円余)力士としての体面は立たない。 新橋倶楽部事件当時と全く変わらず、後援会に頼み込んだり、師匠から借りたりして暮らしていた。 引退時には養老金が出るのだが、師匠から借りた金を返すと養老金は吹っ飛んでしまう。 さてそうなると師匠がいくら収入があるものか、と考えるのだが、協会は収支報告を出さない。 三河島事件当時にも要求されたが、改善されなかった。 5年 5月に関脇となった天竜は力士生活の不条理さにますます憤る。 6年 3月の京都、天竜は大ノ里に打ち明ける。大ノ里は熟考の末、「やろう」と答える。 天竜は「天竜会」という「一種の」後援会を持っていた。天竜が幕内に上がってすぐに作ったもので、 正規の観覧料で場所に 1回観戦してもらえればよく、後援会費も祝儀もないというもの。 会員は 1,000人ほど。払戻金が天竜の許にくるのである。常陸山からの教えもあって絶対に「祝儀」は取らない。 さて天竜はその後援会の代表などと話し合って構想を練り、 6年末までにだいたい決まった。 12月頃、高知の巡業で天竜は左手の指を突っ込んでしまった。天竜は、潮時だと思い「治療」と称して単独で帰京した。
 明けて 7年 1月 5日、新大関武藏山が目を惹く新番附が出る。天竜は「武藏山に先を越された怨念を晴らさんがための叛乱」と言われるのは心外であるから、 番附発表の翌日を期して、一門の全関取に「俺がおごるから大井の春秋園という中華料理店に集まってくれ」という誘いをかけた。 春秋園の主人も天竜会の会員。そこの 2階80畳の大広間「勤王の間」に出羽ノ海一門の関取全員(出羽ノ花を除く。出羽ノ花は入院中だった)32人が集結した。 天竜は蹶起の趣意を朗々と謳い上げる。賛成でないものは去るように言ったが、誰一人帰らない。檄文は以下の通り。
「    檄
 今回の挙は角界旧来の弊習を打破し真(に)秩序ある純正なる相撲道建設を目標とするものなれば諸君宜しく範を垂れ結束を主とし自我を捨て節制ある行動あらんことを望む
 一月六日
(大日本相撲協会)  
  (新興力士団) 」

 さて天竜一派は相撲協会に改革要求10ヶ条を提出したが、内容は「協会の会計制度の確立と収支を明らかにすること。興行時間の改正と夏場所の夜間興行実施。 入場料値下げと桝席削減・大衆席の増加。相撲茶屋撤廃。年寄制度の漸次廃止。養老金制度の確立。巡業制度の根本改革。 力士収入増による生活安定。冗員整理。力士協会設立と力士の共済制度の確立」であった。 協会は春日野(栃木山)・藤嶋(常ノ花)を派遣して説得するも天竜一派は応ぜず、 さらに協会が用意した回答書 8項目も何ら具体性がなかったために力士連は受け入れなかった。 さらに東方総帥玉錦に合流ないし蹶起を促したが、東方の意見は纒まらずしばらく様子を見ることとなった。
  8日、天竜派は再び 8ヶ条の要求書を提出、返答があったがやはり具体性に欠け、物別れ。 翌日晩、東方も 1月場所出場拒否、協会改革側面支援を声明。天竜は協会に財産調査を申し入れたが協会は電話で拒否。 天竜派は拒絶理由を文書で返答するよう要求、その返答が力士団の意に満たざるものであったため、 交渉決裂と判断、全会一致で脱退声明書と絶縁状が協会に送られた。 10日、組織づくりが協議され、名称は「大日本新興力士団」とされた。12日、 1月場所の無期延期が決定。 その晩、新興力士団から武藏山が帰参した。大日本国粋会から調停の申し出があり、14日話し合いが持たれた。 しかし国粋会の高圧的態度の前にあっても力士団の結束は固く、国粋会の面目は失われ、 15日に再び会見をするも不調。16日、力士団は国粋会の顔も立てねばならぬということで、 午前 8時より出羽ヶ嶽を除く30人が断髪。銘々白紙に包んで後援会員が国粋会へ届けた。 協会の誠意のなさと認識不足を訴え、調停辞退の詫びとして髷をお届けするという形である。 協会は警視庁の保安部長に調停を依頼したり、親方による説得も行ったがすべて物別れとなり、 22日には力士団の復帰を断念し、 1月場所の開催を決定。また25日には、武藏山の復帰が正式決定した。
  2月 3日初日で場所を開こうとした矢先の 1月25日、今度は朝潮はじめ東方15人が脱退し、 深川の料理屋に集まり、声明書を作成した。翌朝には本部は浅草に移ったが、この時潮ヶ濱・太郎山が協会に戻る。 その晩東方力士は伊勢神宮参拝と称して西へ下ってしまった。27日、東方力士13人は伊勢神宮前で結盟式を挙げた。 29日協会が改革案を決め、残留力士の諒解を得て発表したが、東方力士団は問題にならぬと一蹴、「革新力士団」と名乗ることを発表する。 新興力士団は協会とは無縁として、改革案を黙殺した。新興力士団は旗揚げ興行開催への準備を進め、 29日、警視総監の裁可が下り、 2月 3日より第 1回興行を行うことになった。 階級別勝抜トーナメント等ファンサービスに努めた。初日が雨で入れ掛けになったが、 実に盛況裡に幕を閉じた。
 天竜は 2月12日協会と革新力士団との三者会談のため東京へ呼ばれたが、 この会談も物別れに終わり、新興力士団は協会と完全に袂を分かつこととなり、事件は終局を迎えた。 この時錦洋(革新力士団)が切り出して、新興・革新の合併興行を依頼し、合意に達した。
 協会は13日、十枚目及び幕下から力士を幕内に引き上げ、東西幕内10人ずつの番附を発表、 22日から 8日間の 2月場所を開くことを決定した。 3月、新興力士団と革新力士団の合併は成立して、 「大日本相撲連盟」が結成された。ところが 5月の皇軍慰問大相撲中に出羽ヶ嶽が脱走した。 さらに後援会との関係から亀裂が生じ、12月、計22名が脱退して東京に復帰した。
 天竜一派は 8年 1月「大日本関西相撲協会」を設立し各地で興行を打ったが、 東京の協会が復興目覚ましくなると次第に追い詰められ、12年12月、関西側は解散し、 肥州山ら17人は復帰、天竜・山錦ら12人は廃業した。

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