大正12年・三河島事件
  1月 8日、回向院広間で恒例の力士会総会が開かれ、その席において司天竜から、以下のような動議があった。 力士が廃業する際に支払われる養老金(横綱10,000円、大関 7,000円、幕内 5,000円、十枚目 3,000円)を、倍額にして貰いたいというものである。 当時は年寄名跡を襲名するには、先代若しくはその遺族の扶養金として10,000円を要したためで、 養老金だけでは年寄になれぬ、ということであった。これを受けて協会は10日早朝から緊急の役員会を開いた結果、浅香山(八嶋山)・立浪(緑嶋)・宮城野(鳳)を使者として、 「目下のところ財政状態からみて無理であるから、好転の見込みがつき次第、要求を満足させたい。春場所が12日から始まるのだから、この問題の解決は、場所打ち上げ後の 5日までに」と横綱大関を通じて回答した。 その日力士会を再度行って横綱大関の回答を聞いた一同は、協会案を拒否した。横綱大関は力士会と別れて調停者となった。
 明くる日、協会は午前10時に触れ太鼓を市中に出した。力士会は桐ノ花と常陸岩を使者に出し、「問題が未解決なのに太鼓を廻すとは、我々を無視した行為だ」として、 「主張貫徹までは本場所休場もやむを得ず」と気勢をあげ、関脇以下79名は上野駅前の上野館へ移った。 横綱大錦・栃木山・大関常ノ花・千葉ヶ崎・源氏山・立行司木村庄之助・式守伊之助は、上野館に駆けつけ慰留した。 そしてこの 7名は早速協会と交渉したが、協会は申出を断り、「太鼓を出した以上、面目にかけても開場するから、横綱大関だけでも出場してくれ」と逆に申し入れた。 7人は承諾したが、力士会側は横綱大関に対する信頼を喪い、態度を硬化させて上野館を引き払い、三河島の日本電解工業の工場に立て籠った。
 自主解決を目指す横綱大関の奮励も空しくいよいよ事態は悪化、所轄の相生警察署は、この件を労働争議と看做し、鈴木署長が調停に乗り出した。 さらに警視庁から正力主事(=正力松太郎氏)・笹井保安部長も参入、回向院に力士全員を集めて主張を聞いた上で、協会側とも話し合い、双方とも当局に一任となり、これで横綱大関立行司の面目は潰された。 改めて赤池警視総監が調停者となり、関係者を警視庁の会議室に招き、「養老金は現在の 5割増」という折衷案を提示、双方異議なく纒まった。 協会はこの財源を確保すべく、10日間興行を11日間とし、千秋楽には10日目までの分け・預かりなどの取組を再び組むという新例を提示し、 1月18日夜半、 0時に解決した。 かくて当局の赤池総監・笹井部長、出羽ノ海(両國)・雷(二代梅ヶ谷)・井筒(二代西ノ海)の取締、春日野(木村宗四郎)理事、横綱大錦・栃木山、大関常ノ花・千葉ヶ崎・源氏山、立行司木村庄之助・式守伊之助、力士会側から司天竜・鶴ヶ濱・芦田川らの間で手打ち式が行われ、 その後総監の招きにより、日比谷の平野家にて協会側を上座に据えての和解の宴が催された。
 その宴酣なる中、大錦は独り部屋を出て、初めは巻紙と硯を頼んだがそれを止めて鋏と空き部屋を改めて頼んだ。 そうして横綱は、宴会場とは 2部屋離れた別室で、髷をふっつり断って再び広間に帰った。 最初に驚いた雷はじめ、周囲が驚愕のあまり瞠目する中、大錦は「横綱として調停に乗り出しながら(赤池総監)閣下の手に委ねたことは不徳不明の致すところ、横綱の面目を潰した以上、土俵での自信も喪った。 横綱としての責任上、相撲界には止まることができない」旨の引退決意を表明し、袱紗に包んだ髷を差し出した。 大錦は自宅に戻り、記者に「師匠(常陸山)の墳墓のまだ乾かぬうちに、出羽ノ海部屋の力士までがこの運動に加わって、 かかる紛擾を起こしたことは、部屋頭の自分として誠に申し訳なく思った。相撲道の最高権威たる横綱の栄位を辱めた責任を感じた」と改めて引退理由を語った。
 かくして、三河島事件は円満解決を見たが、実力絶頂の横綱大錦を失うという大きすぎる犠牲を払った。

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