大関伝 93人目〜103人目
千葉県富里町の出身で、本名を国本与平治という。明和 5年(1768)生まれ。
強豪たちの並ぶ雷電爲右衛門を総帥とする西方に対し、柏戸宗五郎の下で長く関脇を張り、
晩年 1場所ながら大関に昇進した阿波蜂須賀侯の抱え力士。同郷出身の勝ノ浦甚五郎の弟子で、大阪では小野川門人である。
寛政元年(1789) 3月二段目格番附外で、岩ヶ根国五郎で初登場。 5年11月高根山与一右衛門と改め、
7年11月入幕した。 9年 3月 6日目より大岩と改名したが、翌場所からしばらくお抱えの関係で欠場して、
11年10月再出場のときは鬼面山と改めている。その後も不出場が多く、
文化 5年(1808) 3月に関脇昇進となってからは10場所連続関脇を務め、10年正月大関に昇進。
しかし全休して、11月関脇に陥落して引退した。 188cm 158kg。雷電にはまったく勝てず10連敗だった。
千田川の玉垣にも 1回しか勝てず、大関としては貫禄不足。先師の後を継ぎ年寄勝ノ浦与一右衛門となった。
勧進元、差添などを務め、筆頭、筆脇の次席となっていた。天保 3年(1832) 7月10日没。息子も岩ヶ根与市と名乗り二段目まで昇進。勝ノ浦を継いだ。
腹が大きくて前屈が困難なため、煙草を吸うときには、
煙管に粉を詰めてから左手で火鉢の獅子脚を掴み上げて火をつけていた。
あるとき雷電の弟子が灰の下に四文銭を敷いておいたが、鬼面山は全く同じようにやる。
弟子ども魂消て、今日はその火鉢いつもより重くは思わないかと訊ねる。
鬼面山は、そういわれれば少し重くも思うと、悠然として答えたという(「真佐喜のかつら」)。
秋田県鷹巣町出身で、本名を津谷徳五郎という。天明元年(1781)生まれ。
大関柏戸宗五郎の弟子となって、はじめ三嶽山徳右衛門と名乗り文化 5年(1808) 7月京坂で大関として登場。
7年 7月京都で小結のとき桑ノ弓と改名。10月江戸に下って、看板力士として小結に附け出され数場所その座にあった。
9年11月関脇。10年正月大関に抜擢され白川志賀右衛門と改める。
翌11月は不出場で、11年 4月関脇で再出場したのを最後に帰郷した。
江戸加入以前の文化 5年(1808)に、京都一條御覧相撲の際、東大関の玉垣に対し、西大関で登場したことがある。
文政元年(1818) 4月11日没。
筑前の出身。文化 7年(1810)10月、荒鷲玉之助と名乗り二段目 4枚目に附け出され、
8年11月雪見山堅治郎と改めて入幕。しばらく欠場していたが、10年11月大関に鳳谷五郎と改めて抜擢され、
6勝 2敗の好成績を挙げ、11年 4月同じく大関で 3勝 1敗 1分の成績を残して姿を消す。
一説にはその後西國と改名したといい、とするならば15年 2月から文政 2年(1819) 4月まで幕内にいた西國斎藏がそれか。
身の丈は 188cmあった。
広島県千代田町の出身で、安永 2年(1773)の生まれ。姓は森脇。
幕内生活21年という驚異的な持久力。上位陣にはあまり通じなかったが、下位からの取りこぼしは少なく、
運良く 1場所大関を張った。前歴は大坂力士で、寛政 6年(1794)11月三段目に緋縅力弥でついた。
7年11月二段目。 7年後の享和 2年(1802) 2月入幕となり、長く幕内上位に在位して、
入幕11年目にして文化10年(1813)正月小結、11年 4月関脇、11月大関となるも全休。
その後は三役から前頭上位で取っていた。入幕前より阿波藩抱えで、
のちに南部盛岡侯のお抱えに転じ、下の名も勝五郎と変えた。文政 5年(1822)正月引退。
177cm 116kg。引退後は「赤翁」と称し、養子であった錦改め緋縅の活躍を楽しみとした。
13年 2月22日没。
長崎県小浜町の出身、天明初年頃の生まれという。大阪相撲から漣大五郎の名で初土俵。
文化 5年( 3年ともいう)江戸に出て、玉垣の門に入る。 5年10月幕下上位に附け出されたあたり、かなりの実力である。
この頃、同じく幕下上位に漣濱藏がいてややこしい。
文化 7年(1810)10月入幕して越ノ海勇藏と改め、ここから花開く。
10年11月小結。11年 4月筆頭に下がったところで師名玉垣額之助を継ぎ、
5日目から出て 5勝を挙げ、11月西大関を張る。異例の大抜擢。
前場所までの看板力士が一掃され、番附を実力本位のものに一新したためである。
足掛け11年、文政 7年(1824)正月まで大関を堅持した。
6年 6月、京都五條家から横綱を免許されたが、相棒の柏戸が参加を取りやめたため、
土俵入りをするつもりだった玉垣も遠慮したか参加せず、結局免許はうやむやになってしまった。
もちろん司家からの免許はない。こちらの玉垣は先代と比べると小兵だったようだが、
腰がよく、相撲も巧者だったという。 7年になって体を壊したのか 8月 5日江戸で没した。
無論現役中であった。
出身地は和歌山県田辺市で、本名を目良熊吉という。寛政 5年(1793)生まれ。
はじめ大坂の真鶴政吉の弟子として熊野潟熊藏と名乗って大坂で取っていた。
文化11年(1814)江戸に下って玉垣額之助門人となって千田川熊藏として西関脇に附け出された。
12年 3月玉垣休場のため 1場所だけ大関を務めた。
13年 3月下の名を吉藏と改め、以後関脇・小結を続け、文政 4年(1821)からは不出場が多くなった。
6年 2月限り江戸を去って、大坂で 9年 5月と10年 6月に大関を務めたが、11年正月 8日現役死した。
188cmと伝わる。当時の大関には勝てなかったが、下位には強い力士だった。
青森県五所川原市出身で、天明 3年(1783)生まれ。
子どもの頃から土地相撲で鳴らし、文化 3年(1806)江戸に出て、伊勢ノ海の弟子となり、外ヶ濱の名で幕下に附け出された。
5年10月頂利助と改め、 8年 2月入幕した。玉垣と千秋楽に顔を合わせているが、無勝負に終わっている。
師匠の養子となって、師匠の引退と同時に柏戸利助となる。 9年11月 4日目からの改名である。これを機に弘前藩の抱えとなった。
11年11月関脇。 1場所で12年 3月大関となる。足掛け11年大関を守り、文政 8年(1825)正月引退するまで、
優勝に相当する成績を16回挙げたが、これは雷電、谷風に次ぐ強豪ぶりである。 183cm 132kg。玉垣よりはるかに大型だが、やや体が硬く、取り口は豪快だったという。
6年 6月五條家から横綱を免許されたが、いろいろと不都合があって立ち消えとなってしまった。
弱い横綱よりはるかに強かった大関である。ところが玉垣の急死に遭い、柏戸も急速に衰え、 8年正月大敗して引退した。
伊勢ノ海を継いだ。そして11年10月27日没。
兵庫県西宮市出身で、天明 5年(1785)生まれ。
「小野川になられぬわけが有馬山」とは相撲史上有名な事件を詠んだ川柳で、この有馬山はその主人公。
最初は大坂小野川の弟子となって、鳴尾潟善太の名で取り進み、文化 5年(1808)10月江戸に下って勝ノ浦門人として二段目に附け出された。
翌 6年 2月下の名を善太郎と変え、 7年 2月に鼓ヶ滝調右衛門と改名、10年11月入幕した。
この頃すでに雲州松江藩の抱えであるにもかかわらず、番附には「江戸」となっている。
文政元年(1818)10月関脇に上り、 6日目より小野川嘉平治と改めたが、
「小野川名義は横綱免許で相撲故実門弟である」として吉田司家と前小野川の抱え藩主有馬侯から強い抗議を受けてしまい、
翌 2年 4月南部藩の抱えに転じて有馬山滝右衛門と改名、前述の川柳がはやった。
3年10月龍右衛門と変え、 4年10月玉垣の休場の穴を埋めて大関となった。
5年10月関脇に退き、南部藩ゆかりの岩見潟丈右衛門と再度の改名。
7年正月休場のまま引退した。優勝に相当する成績が 4回もある実力者であった。
その後大坂で13年 7月より岩見潟で世話人を務め、天保 4年(1833) 7月に小野川嘉平治を襲名したが、
頭取とならずして 6年 2月 8日没。小野川の名乗りはいずれも 1場所とは、偶然とは言えよほど縁がなかったものと見える。
岩手県北上市の出身で、寛政 7年(1795)の生まれ。本名小田島乙吉。
大関錦木の甥で、娘婿。文化 9年11月新序。
文政元年(1818)10月二段目筆頭に進んで大関柏戸を破る殊勲の星を挙げ、 2年 4月入幕を果たす。
4年 2月再び柏戸に土をつけ、関脇源氏山と引き分けるなど優勝相当の成績を挙げ、
5年10月小結に進む。 4場所在位した後、 7年10月には関脇を飛び越して一躍大関に昇進した。
結局大関には 8場所名をとどめたものの、休場が多く躍進時代の強みは見られなかった。
文政 8年 5月の大坂相撲(難波新地)に小柳(後の阿武松)とともに大関として出場したが、
小柳ともども「すまふ小サシ」という一言で済まされている(「摂陽奇観」)。
11年 3月引退。天保 3年(1832) 9月 3日没。
山形県天童市出身で、天明 6年(1786)の生まれ。弘前津軽侯の抱え力士で、
藩ゆかりの源氏山の四股名を許され、大関まで昇進。引退後は秀ノ山を襲名して、
横綱を免許された秀ノ山雷五郎らを育成した。初代秀ノ山伝治郎の門人となり、
冨士ノ越吉太夫で二段目附け出しとなり、文化 6年(1809)10月に城取、 8年11月に縄張と改め、
雲州藩に抱えられた。11年11月に入幕を遂げ、15年 2月に小結、文政 2年(1819) 4月関脇に進んでお抱え替えとなり源氏山と改名。
8年10月柏戸の引退により大関に昇進。翌場所より下の名を綱五郎と変えた。すでに晩年で在位 2場所、
関脇に下って11年 3月引退。年寄秀ノ山伝治郎となり、中改めなどの要職を務めて、
立神改め岩見潟(横綱秀ノ山)を養子に迎え、部屋を繁栄させた。天保15年(1844) 4月 8日没。 182cm 131kg。
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