大関伝 106人目〜118人目
106人目 緋縅 力彌優勝相当成績 2回

 阿武松・稲妻と並んで文政角界の三傑と謳われた大関緋縅力彌は京都の出身で寛政11年(1799)生まれ。 文化14年(1817)に玉垣の門に入って、錦幸太郎の名で取り始め、文政 6年(1823) 2月幕下。 7年10月緋縅と改め、 8年正月入幕した。平戸松浦家に抱えられる。 先代緋縅は抱えをいろいろ替わっており、緋縅の名は藩にゆかりのものではなくて、玉垣部屋の出世名前なのである。

 11年10月関脇。好成績を続けたが稲妻が頑張っていて関脇に 9場所留め置かれ、天保 4年(1833)11月ようやく大関となった。 これは稲妻の不出場の代役で、 2場所の大関は全休、 5年11月は不出場であるから、代役は全く果たせなかったといってよい。 稲妻が帰って来た 6年正月、緋縅は関脇格の番附外で相撲を取り、11月も関脇、 7年 2月を最後として、 8月15日急死してしまった。

 「安政三傑」の中でひとり実力の劣る緋縅だが、人気は決して劣らず、 176cm 148kgの体でその太鼓腹は全力士を圧倒した。 憂いを持った童顔の残る美男子で、錦絵は飛ぶように売れたという。 こういう体でありながら怪力の持ち主で、鉄砲が強烈だった。また盆栽が趣味で、商売人はだしの目利きをしたという。 先代緋縅の養子となって本名は森脇幸太郎。


107人目 秋津風 音右衛門

 岩手県花巻市の出身となっているが、青森県階上町説もある。 南部八戸侯のお抱えで、二所ノ関の門人である。寛政 9年(1797)の生まれ。 文政元年(1818)10月、千年川の名で二段目中軸に附け出され、 4年10月幕に入った。 5年10月 4枚目で大関柏戸を倒し、 6年10月にも再度柏戸を破っている。 7年10月関脇となる。 8年10月鉄生山珪吉と改名。 9年10月から 4場所を欠場し、11年10月秋津風と改めて小結格で再登場。 数年間三役を張ったのち、天保 5年(1834)11月大関となった。 しかしこの場所に出場せず、翌年正月には平幕に落とされて廃業した。 なお、 5年11月の番附は二種残っており、秋津風の大関は後の発行と思われ、 出場するといっておいて欠場したための制裁の意味での大幅な陥落であろう。 9年正月 4日没。
108人目 手柄山 繁右衛門優勝相当成績 2回

 滋賀県八日市市出身。本名を安村弥三郎といい寛政10年(1798)の生まれ。 安定した地力を持ち、兄弟子であり師匠でもあった阿武松緑之助の引退後に大関昇進、 天保後期の土俵を飾った。

 はじめ京都力士となり、後に江戸に下って武隈文蔵の門人となり、 長州お抱え力士として勇山岩右衛門で二段目に附け出された。 文政10年(1827) 3月小柳春五郎と改め、12年10月入幕。好成績を続け、天保 4年(1833)11月下の名を長吉に変え、 5年正月 8勝 1分の成績で11月関脇となる。 7年 2月大関に進み、 8年10月姫路藩の抱えとなり手柄山繁右衛門を名乗る。 平石七太夫に大関の座を譲ったこともあったがすぐ復帰して、 12年11月お抱えを解かれて郷里琵琶湖にちなむ湖東山文右衛門と改名。 13年 2月関脇に下り14年正月武隈を襲名して引退するまで関脇にあった。 下位力士にはほとんど取りこぼさない反面強豪相手にはほとんど勝てずに終わった。 182cm 135kg。

 引退後年寄専務となり、門下から横綱鬼面山などが出た。安政 5年(1858) 6月25日没。


109人目 追手風 喜太郎

 神奈川県藤野町の出身で、寛政12年(1800)生まれ。本名佐藤松太郎。 先代追手風の弟子で、始め由良湊の名で前相撲から取り、三段目の時黒柳と改名。 文政 4年(1821)10月二段目に上がり、 7年10月入幕。 11年10月筆頭に進み、13年の上覧相撲では関脇格として登場。 柏戸宗五郎を破り弓弦を受けた。天保 2年(1831) 2月追(逐)手風と改名。 5年11月関脇に昇進。 7年11月稲妻が不出場で大関に繰り上げられるが、 1場所でもとに戻り、その後10年 3月限りで引退した。 幕内を15年務め、関脇の力量は充分にあったが、取りこぼしが多かった。 年寄追手風喜太郎となり、手腕を発揮した。養子になった横綱雲龍ら多くの門弟を育成。 自らは安政 6年(1859)11月から会所の筆頭に君臨し、 文久 2年(1862)11月から雷権太夫を継いだが 3場所でもとに戻った。慶応元年(1865)閏 5月 4日没。
110人目 平石 七太夫

 享和元年(1801)の生まれ。実力の割に出世が早く、幸運にも大関まで昇進。 はじめ岩井川金八と名乗って前相撲から取り進み、 文政10年(1827) 3月に七ッ嶋兼五郎と改め、翌11月二段目に上がる。 12年10月初日から和田ノ浦濱五郎と改名。天保 2年(1831) 2月入幕。 すでに丸亀藩のお抱えとなっていた。 6年10月 2枚目に進み、 平石七太夫と改めて 7年11月関脇と好成績を挙げずに出世した。10年 3月には大関に栄進。 1場所で下がったがすぐ復帰して、11年 2月を最後に40歳で引退。 182cm 129kg。 年寄粂川新右衛門を襲名、相撲会所の重鎮として活躍した。安政 2年(1855) 2月19日没。
113人目 劔山 谷右衛門優勝相当成績 6回

 不知火・秀ノ山・劔山を「天保の三傑」という。大関劔山は富山市の出身で、 享和 3年(1803)の生まれ。少年時代の話はあまり伝わっておらず、江戸に出て二十山の門に入り、 鰐石文藏の名で下位から取る。文政10年(1827) 3月初土俵。阿武松の薫陶を受け、11年 3月三段目、及び12年 2月幕下で全勝。 天保 5年(1834)正月入幕。まだどこの抱えにもなっていなかった。 7年11月小結。12年正月関脇。 13年 2月大関となる。10年11月から阿波藩の抱えとなっている。 14年正月劔山谷右衛門と改める。徳島の最高峰劔山が四股名の由来という。この頃までが全盛期である。 その後休場が多くなるが、大関を張り通すこと天保・弘化・嘉永に及び、嘉永 5年(1852) 2月を限りに引退した。 幕内生活足掛け19年。横綱級の実力を示した。

 劔山は 167cm 115kgと小柄ながら、「古今の名人」と謳われた。 土俵際の巧みさは他に類が無いといわれ、はやり歌に「手取りの名人劔山…」というのがある。 事実弘化 3年(1846)ころ会所から、劔山を横綱にしようという動きがあった。 しかし「私は体も小さいし、土俵姿が悪いから…」といって辞退し、秀ノ山を推したという。 また劔山が力士達を前にして「力士は得意手のないのが名人である」というと、ある力士が「いや、得意手のあるものこそが名人である」と反論した。 劔山は「それは違う。もし得意手を相手に覚えられてしまうと、その裏をかかれる。 臨機応変で、その場にもっとも合理的な技を用いて勝つこそ名人である」と語ったという。 稲妻の「相撲訓」と好一対を成す土俵の哲理である。安政 4年(1857)没と伝わるがはっきりしない。


114人目 鏡岩 濱之助優勝相当成績 1回

 新潟県村松町出身で、姓は広瀬。文化 6年(1809)生まれ。 取り口、風貌、全て地味で、その昇進ぶりも平幕 9場所、小結 7場所、関脇10場所と徐々に力をつけ大関まで昇進した。 名門雷の弟子となり、初名は虎家谷で、文政13年(1830) 3月に二段目附け出しで初土俵。 天保 6年(1835)10月 6日目、和田ノ浦と改め、 8年10月入幕する。 翌 9年 2月鏡岩と改名、この場所は 6日間で不況のため打ち切りとなっているが、 5勝 1敗の成績を残した。嘉永 3年(1850)11月、秀ノ山引退のあとを受けて大関に栄進。 6年11場所を務め、安政 3年(1856)正月 3日目より粂川新右衛門を襲名して、小柳とともにこの場所限りで年寄専任となる。 稲妻・不知火・秀ノ山・劔山らの強豪にはあまり勝てず、他の大関陣とは互角に渡り合い、 関脇以下にはあまり負けないという典型的に地味な大関だった。 これだけ地味ながら人気はあり、錦絵は多く残っている。慶応 2年(1866)11月 4日没。
115人目 小柳 常吉優勝相当成績 5回

 千葉県市原市出身で文化14年(1817) 8月生まれ。子供のときからの肥満体で、 力士を志して横綱阿武松の門に入ったのが天保 5年(1834)。 6年正月緑松八十吉の名で三段目格で初土俵を踏むが全敗。なのに10月には幕下に上がる。 そこでも白星なしにもかかわらずまた番附は上がっている。 こんなに弱い力士がなぜこんなに大抜擢されたかというと、 そのあまりの大兵肥満ぶりが「将来の大物」と誰の目にも映ったというのと、 師匠阿武松の威光が物を言ったからであった。この間下の名を慶次郎、常吉と改めている。 また 8年10月には緑松を小柳に改めた。これは大関の小柳が手柄山と改めて、その名をもらったものである。

 11年 2月入幕。また負け越しながら番附は上がり、そこでも負け越していながらまた 1枚上がっている。 12年になって勝ち越すようになり、そうなると番附の上昇が滞るというなかなか皮肉な経過を辿りながら弘化 2年(1845)11月小結、 嘉永 3年(1850) 3月関脇、 5年11月には大関となった。安政 3年(1856)正月引退。 阿武松を継いだ。大器晩成タイプの代表といってよい。土俵後半は師匠や会所の期待に応えるに充分の成績を挙げた。 170cm 155kg。

 丸々とした肉体と眼光鋭い不敵な面構えは「絵になる」関取として、錦絵も多かった。 5年 3月23日没。大名の抱えとなっていないが、本人がそれを嫌ったためであろう。 「ペルリ提督日本遠征記」には「当時無敵の評判ある壮士小柳」と記されている。


116人目 猪王山 森右衛門優勝相当成績 2回

 本名を加藤勝四郎といい文化12年(1815)の生まれ。宮城県河北町の出身。 稀有な酒豪で、本場所でも土俵に上がる時はいつも酒気を帯びていたという。 仕切りは無造作、相手に充分差させておいて上手を引き、出てくるところを構わず寄るか、 浴びせ倒すのが得意で、「上手大関」の異名があった。始め仙台侯の抱えで、入幕後は因州侯に抱えられ、好成績で累進。 嘉永 5年(1852)11月関脇。安政 3年(1856)11月小柳の引退により大関に昇進した。 翌 4年正月土つかずの好成績を挙げたのが最後の花で、負け越すこともあり、関脇に下ってから土俵を去った。 6年11月 6日目、新進の陣幕と水入りの大相撲を取り、陣幕が寄るところを浴びせ倒した一番は長く相撲界の語り草となった。 年寄とならず不遇のうちに明治 5年 4月25日没。
117人目 階ヶ嶽 龍右衛門優勝相当成績 2回

 富山県高岡市出身、本名を高畠岩次郎といい、文化14年(1817)生まれ。 二所ノ関の弟子となり、はじめ大勝から竜ヶ嶽となり、弘化 2年(1845)11月に階ヶ嶽龍右衛門と改名。 5年正月入幕。嘉永 2年(1849) 3月 7勝 1敗、11月 5枚目で小柳・稲川らに勝ち地力を示した。 6年 2月小結に昇進。安政 2年(1855) 2月関脇に昇り、岩見潟丈右衛門と改名したが、 3年11月に再び階ヶ嶽に戻り大関昇進となる。 4年11月関脇に下り再起を懸けたが、 2日目巨漢白真弓との一番で両手を挫き、 再起不能となり土俵に上れず、 5年正月熊ヶ谷を襲名して 6年正月限りで引退した。 188cm 131kg。 すらりとした体格で、大関小柳とは 4勝 3敗 1分の戦績を残したが、 雲龍や猪王山には合い口が悪かった。年寄専務となるも短期間で廃業、郷里に帰り、 明治元年10月23日没。

 平成10年 1月、階ヶ嶽松太郎(現・十文字松太郎)が関取となった。「階ヶ嶽」の名は、この大関から取ったものだが、 読みは「はしがたけ」ではなく「かいがたけ」である。大関階ヶ嶽は富山の出身だが、抱えの関係で青森県階上町にいた。 その大関にあやかるべくつけられた四股名なのであるが、名づけ親の間違いであろう。さらに「たけ」と発音するのが正しいのに「かいがだけ」と濁るアナウンサーまでいる。 昭和30年代の小結大起(正しくは、「おおたち」)のときと同様で、どうにかならないものか。


118人目 境川 浪右衛門優勝相当成績 2回

 三重県長島町出身で、文化11年(1814)の生まれ、本名古村源次郎。 はじめ大阪の頭取三保ヶ関の門に入り、伊勢ノ戸から朝ノ戸と改名して、幕下まで進む。 天保14年(1843)江戸に下り、先代境川の門に転じて10月幕下に附け出された。 かなりの実力で圧倒的な強さを見せたが、番附は金縛りに遭ったかの如く動かない。

 弘化 4年(1847)11月姫路藩酒井家に抱えられ、増位山岩之助と改め、嘉永 3年(1850) 3月入幕する。 わけあって抱えを解かれ、 3年11月から六ッヶ峰岩之助となり、安政 2年(1855) 2月小結のとき、 1場所だけだが鬼面山谷右衛門とする。 3年正月丸亀藩京極家の抱えとなって境川浪右衛門と改めた。 大関となったのは 4年11月。その後 1場所関脇に下がったが、大関を務めること 8場所、文久元年(1861)10月を限りに引退した。 安政 6年(1859)正月以後は桑名藩の抱えであった。 身長は正確な記録がないが、遊廓の軒の庇を扇子で叩きながら歩いたというから 190cm近い長身だったようだ。 体重は 140kg。吊りと櫓を得意としたという。慶応 3年(1867) 9月 8日没。


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