大関伝 124人目〜140人目
124人目 象ヶ鼻 平助

 千葉県館山市の出身で天保 7年(1836)生まれ。異例のスピード出世、幸運な昇進で知られる。 谷川部屋に属し、安政 6年(1859)11月鍬形平次の名で二段目に附け出され、 万延 2年(1861)轟平助と改め、慶応 2年(1866)11月 4日目より丸亀藩の抱えとなって象ヶ鼻を名乗る。 4年 6月入幕。急速に力をつけ、明治 3年 4月関脇。 4年 3月鬼面山のあとを受けて大関となった。 年功序列の当時としては入幕 7場所目の大関は、考えられないものであった。 171cm 103kgの体で、力に頼る不器用な取り口。大関 3場所で 5年 4月引退した。 白玉を襲名したが、高砂事件で改正組に参加、大関となったものの長続きせず、不遇のうちに郷里に帰り、 23年 3月18日没。
125人目 綾瀬川 山左衛門優勝相当成績 1回

 「相撲じゃ陣幕、男じゃ綾瀬、ほどのよいのが朝日嶽」と俗謡にまで謡われた美男(?)大関、 この綾瀬川山左衛門は大阪市の出身で、天保 6年(1835)10月の生まれ。本名川村藤次郎。

 はじめ大坂の湊部屋に投じて、登り舟、達ノ森などを名乗る。 江戸に下ったのは文久元年(1861)、秀ノ山門下となり、実力を認められて11月幕下番附外に附け出される。 元治元年 4月には達ヶ関森右衛門という、横綱谷風の前名を名乗った。 慶応 2年(1866) 3月には幕下ながら姫路藩に抱えられ、相生松五郎と改め、明治元年11月に入幕した。 4年 3月高知土佐藩の抱えと変わり、綾瀬川と改めて小結。 5年 4月いきなり張出大関に抜擢される。 その前後の強さは圧倒的で、 3年から 5年まで27連勝を記録。 9年 4月限りで土俵を去ったが、年寄とはならず、現役時代から経営していた東京日本橋の割烹旅館「綾瀬川」の主人に納まり、 晩年は大阪に戻り、10年 3月 8日に没した。

 とここまで書くと平々凡々の土俵人生のように見えるが、綾瀬川も維新動乱の中でもみくちゃにされた一人である。

  2年 6月の版籍奉還で、姫路藩も力士の抱えを解いた。相生(綾瀬川)、高見山(高砂)、兜山(雷電)、武者ヶ崎(手柄山)などが抱えられていたが、 協議の結果「今後どんな厚遇で招かれようと、決して他侯には仕えぬ」と誓った。 ところが相生はすぐさまこれを破り、土佐藩に抱えられて綾瀬川となった。 怒ったのは高見山で、一刀両断と乗り込んだが、会所が中に入り、綾瀬川は「今後一生大関にはならぬ」という証文を入れてその場は納まった。 のちに和解して、高見山はその証文を返し、綾瀬川は大関となっている。

  6年11月「高砂改正組事件」の折、高砂(高見山改メ)は綾瀬川を会所との交渉の使者に立てるが、綾瀬川は高砂を裏切り、会所側についた。 高砂からすれば 2度も煮え湯を飲まされたことになる。 綾瀬川は優柔不断だったのかというと、一度力水をつけたら二度とつけないというあたりに、逆に強い信念が窺える。 世渡り上手が裏目に出たといえよう。だから決して評価は芳しくない。

  173cm 113kg。柔らか味のある体で、きびきびしていた。猪王山・清水川とともに「古今上手投三大関」と呼ばれる。 「勝った夜は酒まで強い相撲取」という川柳が作品として伝わっている。息子は作家の栗島狭衣。


126人目 雷電 震右衛門優勝相当成績 6回

 為右衛門ではなく震右衛門だが、雷電と名乗っただけあってべらぼうに強かった不運の大関雷電震右衛門は石川県羽咋市出身で、 天保13年(1842)の生まれである。本名を楠和助という。文久 2年(1862)ころ江戸に出て千賀ノ浦の門に入り、 槙割、里神楽、北ノ浦と改めて、順調に出世する。慶応 2年(1866) 3月、まだ三段目のとき姫路藩の抱えとなって兜山和介と改めた。

 正月に年始のあいさつに来た出入り町人の好角家に、酒井侯が「幕下の有望力士 5人を選べ」と命じた。 選ばれたのは四方山(境川)、達ヶ関(綾瀬川)、東灘(手柄山)、松ヶ枝(高砂)、そして北ノ浦(雷電)である。 その町人の目は極めて正確だったわけだ。その場所、全員が勝ち越し、大満悦の藩侯は羽織を与えようと各自に紋を聞いた。 ところが兜山だけが知らなかったので、「輪(和)の中に介」を紋としたという。

 明治 3年 4月の入幕。強さは既に無敵で、 5年11月小結。「雷電の再来」といわれ、 6年 4月新関脇のとき本当に雷電とした。 大関となったのは10年 1月。平幕から関脇の時代に44連勝を記録、このままいけば文句無く横綱と思わせたが、 その春頃から難病に罹り、10年 6月から11年 6月まで三場所を全休。10年12月に年寄阿武松和介となって番附に名を載せている。 12年 1月再登場したが、その後小結、関脇、小結と下がり、14年 5月 3枚目に落とされ引退した。 177cm 125kg。

 さして大きくはないが、骨太で肩幅広く、力は強い、組んでよし離れてよしであった。 「飲む、打つ、買う」は一切やらず相撲一筋に打ち込んだが、あまりにも強すぎ人気はあまりなかったらしい。 病気がなかったならば確実に大横綱であった。17年11月16日没。


127人目 朝日嶽 鶴之助横綱伝・朝日嶽へ

 「ほどのよいのが朝日嶽」とは風貌もよく、相撲も強かったことをさす。 本名佐藤庄蔵。新潟県山北町の貧農の子である。少年の頃、庄内の漁師、佐藤家に養子に出された。 そこで浜仕事をしているところを、たまたま沿岸視察に来た庄内藩の武士が、 「大きくて力の強い少年がいる」と上司に報告。藩侯の耳に入り、力士へのきっかけとなる。 江戸は立田川の門に送り込まれ、由良ノ海庄蔵と名乗ったのが安政 6年(1859)のころ。 生年ははっきりしないが、天保 9年(1838)頃と推定される。

 万延 2年(1861) 2月幕下に附け出され、文久 2年(1862) 3月朝日嶽鶴之助と改めて、庄内藩酒井家の抱えとなる。 慶応 4年(1868) 6月入幕。明治 5年 4月小結。 7年 3月関脇。10年12月大関となった。 大関は 2場所で11年 6月を最後に引退、立田川を継いだ。引退後も病気がちで、15年 4月 4日、温海温泉で没。

 成績では平凡な大関にすぎないが、人気の点では維新の土俵史上欠かせない。 新入幕の場所、 4日目から休場。翌場所も全休しているが、これは折りから風雲急を告げる庄内藩のために、 身を藩侯に捧げようと、官軍の包囲網を突破し庄内に潜伏したためで、ついに藩侯が帰順と決したので、 東京に戻り、 2年 4月から土俵に復帰したのだ。幕府贔屓の多い江戸っ子たちが大喝采で迎えたこと、言うまでもない。

 11年春、大関として故郷に錦を飾った朝日嶽に対する歓迎ぶりは凄まじく、県令三島通庸は、 五條家の当主五條為栄に諮って「山形県内だけの横綱」を許してもらった。 番附、絵、写真も残っている。司家免許は下りていない。 180cm 113kg。色白の美丈夫だったという。相撲甚句の一節
「お相撲さんとは 名もよけれども
 相撲もよく取る 男もよいし
 女泣かせの 朝日嶽」


129人目 若嶋 久三郎優勝相当成績 2回横綱伝・若嶋へ

 梅ヶ谷の大連勝の狭間にただ一つ残る黒星はこの若嶋によって記された。 天保13年(1942) 9月、福島県会津若松市生まれ。本名小澤久三郎。幼いときから恵まれた力量を持ち、 江戸に出て楯山の門に入り、文久元年(1861)10月初土俵を踏み、若嶋を名乗る。 2年 3月序ノ口についてからなかなか遅い出世だったが、明治 7年 3月やっと入幕した。 13年かかっている。入幕後は順調で、10年 6月小結。12月関脇。14年 1月大関と進む。 その場所の 9日目、無敵の梅ヶ谷と対した。それまで 9敗 1分と全く歯が立たなかったが、 この日は真っ向微塵と筈押しで押し切った。得意満面で家に帰ると、 妻はいつものことで負けたものと信じている。「今日はこうして勝ったんだ」と女房相手に再現したところが、 勢い余って妻の体を吹っ飛ばし、腕の関節を挫いて、長く通院する破目になったという。 15年 6月師名を継いで楯山久三郎となるが、17年 5月を最後に引退する。 174cm 113kg程度の体で、押し相撲を得意とした。ただ出足が止まると前に落とされること頻りだったらしい。 24年 1月 6日没。大阪横綱若嶋は弟子。
131人目 大達 羽左衛門優勝相当成績 4回

 山形県鶴岡市の出身で、嘉永 6年(1853)12月15日生まれ。本名諏訪辯次。

 明治 6年頃東京に出て朝日嶽の門に入り、大楯の名で取ったが、素行が悪く、 脱走し越後方面を放浪の果てに村上の酒造家に厄介になっているところへ、 10年高砂改正組が巡業に来て、改めて高砂と師弟の契りを結ぶ。 そのころ朝日嶽の一行も巡業に来ていた。この話を聞いた朝日嶽は人を介して大楯を呼びつけ叱り飛ばした。 一度脱走した力士は師匠の許しが無い限り復帰できない。 無断で他の師匠を取るなど以ての外。ましてや高砂そのものが角界を除名になった男だ。 朝日嶽は腹に据えかねていた。大楯は朝日嶽の前で髷を落として詫びのしるしにしたあと、 床屋に行って丸坊主になり、平気で高砂の元へ帰っていった。

 11年 6月高砂が東京と和解して合併したとき復帰。12年 1月大達羽左衛門と改めて幕下附出となり、15年 6月入幕。 明治天皇の天覧の折、梅ヶ谷との対戦。左四つとなって動かず、二度の水入りでも勝負つかず、30分余の熱闘の末、とうとう引き分けた。 無敵の梅ヶ谷に引けを取らない大達の強豪ぶりが話題となって、人気沸騰の17年 5月、梅ヶ谷を破った。 このとき縁山尾崎徳太郎(のちの紅葉山人)は、「力士大達得勝於梅谷慨然有作」と題し、 「盛者必衰是自然 昔時人能莫争先 孤梅花砕老幽谷 大樹幹長達九天」という詩を作した。

 強豪の名が定着した大達は17年 5月に小結、18年 1月には張出大関となったが、張り出された番附が気に入らないと師匠を殴り飛ばし、 破門となって翌場所関脇落ち。再度大関となってから伊勢ノ海部屋と変わっている。 仕切りは中腰のまま、拳を相手の鼻先へ突き出して「よいしょ仕切り」といわれた。 そこに相手が立ってくると、その首根っこをひっ掴んで後ろへ捻じり倒す「徳利投げ」を十八番とした。 関脇浪ノ音が聞いたところによると、「相手の首に手をかけておいて、エーかエーかと声をかけてからねじり倒す。それを大関相手にやるんだから」という。 20年 5月までは圧倒的な強さだったが、酒で体を壊し、21年 1月から22年 5月まで全休。 平幕に落ち、28年 6月引退。千賀ノ浦を継いだ。26年に60人ほどで大阪へ行ったとき、 大達ひとりだけが滅法強いために番附の作りようが無く、「蒙御免」のところに大達羽左衛門と書いたという。 175cm 125kgで、胸から肩にかけての盛り上がりは巌のようだったという。 「獅子を張り殺してみたい」とも言ったそうだ。37年 8月17日没。


132人目 劔山 谷右衛門優勝相当成績 1回

 大阪の大関から東京の大関となった。徳島県鴨島町の出身で嘉永 5年(1852)正月20日生まれ。 本名吉原熊十郎。父は鶴ヶ濱という名で、かつて大坂力士であった。

 明治 3年に大阪に出て、父の縁で猪名川の門に入り響矢熊吉を名乗る。 8年 6月の入幕。 9年 6月 4枚目のとき大阪に大脱走事件が起き、「開化組」なるものを組織した。 響矢も行動を共にし、大関を張ったが、11年 9月に帰参したときは、その実力を認められて大関に推された。 15年 9月郷里の名峰にちなんで劔山熊十郎と改名している。

 16年春、感ずるところあって上京。梅ヶ谷と師弟の関係を結んで 5月「東客席」(三役待遇)で附け出された。 17年 1月劔山谷右衛門となり小結。18年 5月関脇。19年 1月大関となった。 3度目の大関ということになる。 177cm 120kg。 師の梅ヶ谷を凌ぐ肩と胸の厚味を持ち、左を差しての寄りは堂々の大関相撲といわれた。 25年 6月まで大関を張ったがさして大きな活躍もなく引退した。 引退後は武藏川の養子となって後を継ぎ、検査役にもなった。43年11月21日没。


133人目 一ノ矢 藤太郎優勝相当成績 2回

 青森県田舎館村の出身で安政 3年(1856) 3月25日生まれ。本名福士藤太郎。 相撲王国青森の中興の祖としてその名を残す。 明治13年 1月の序ノ口から 8場所目に入幕という異例のスピード出世。 二段目11枚目からの抜擢は将来を期待されてのものであろう。 入幕早々 7勝 2敗の優勝相当の成績を挙げ、大達・西ノ海とともに高砂三羽烏と謳われた。 22年 1月大関に栄進したが、わずか 2場所、それも勝ち越していながら関脇に落とされるという不運に見舞われた。 その後は三役の地位を保った。25年 6月の廃業後は土地相撲を率いて巡業生活を送る。 一ノ矢を慕って郷里から続々と高砂部屋に入門する若者が続出し、一時津軽部屋と呼ばれたほどであり、 その興隆に尽くした役割は大きなものがあった。大正12年 2月15日没。
135人目 大鳴門 灘右衛門横綱伝・司天龍へ

 兵庫県津名町の出身で、本名は大空由蔵。嘉永 6年(1853) 5月14日生まれ。 初代梅ヶ谷門弟三羽烏といわれた一人。始め大阪の小野川の弟子となり、司天竜芳五郎と名乗った。 明治12年 1月梅ヶ谷を頼って上京し、二段目附出となり、13年 5月に入幕。 3場所目には小結。翌14年 5月には関脇と出世が早く15年 5月大鳴門と改めて、16年 5月下の名を灘右衛門と変える。 左差しの寄りが得意で、技の幅の広い取り口。早く関脇になったものの、好成績をあげても大関にはなかなかなれず、 西ノ海、大達、一ノ矢の強豪を相手に三役を連続17場所務めて、23年 5月ようやく大関となった。 この大関昇進は功労の意味合いが強く、 2場所で引退。二枚鑑札だった八角専任となった。 検査役を務め、41年 1月15日没。
136人目 八幡山 定吉優勝相当成績 2回

 高知市の出身で、本名を広田(のち伊藤)貞次。安政 5年(1858) 5月15日生まれ。 技能派の手取りで、足癖を最も得意とした小兵大関。 はじめ大阪の猪名川部屋に所属していて二段目まで上がり、明治17年 1月東京に出て、玉垣門人となり、二段目番附外で取った。 入幕は19年 5月で、場所ごとに活躍。花形力士として人気を集め、24年 5月には大関に昇進した。 全盛期はこの頃で、その後膝を脱臼することがたびたびあり、気分的に腐って脱走、髷を切ってザンギリ頭で出場して話題をまいた。 27年 1月引退。 170cm 101kg。引退後は年寄湊川となったが、神奈川県平塚市に海水浴事業を経営したために、角界から去った。 当時としては時期が早すぎて成功しなかったが、なかなか先見の明があった。郷里で不遇のうちに大正 3年 3月11日没。
137人目 大戸平 廣吉優勝相当成績 2回

 仙台市の出身で、慶応 2年(1866) 8月生まれ。本名太田廣吉。

 少年時代から筋骨逞しく、土地相撲の強豪として鳴らす。 上京して尾車の門に入り、大戸平の名で前相撲から取る。18年 5月序ノ口につき、23年 5月十枚目。24年 5月入幕する。 25年 6月には関脇となり、 1場所で大関となった。 以来30年 1月まで大関を張るが、病気のため休場が多くなり、30年 5月張出関脇に落ち、32年 1月引退して尾車となった。 一時は小錦より早く横綱になるかと思わせたくらいだから、晩年を飾れなかったのは惜しまれた。 175cm 101kgという体格で、骨太の筋肉質、右差しを得意とし、技も巧みだった。

 29年 1月場所前、「西方力士紛擾事件」いわゆる「中村楼事件」が起こった。 高砂の専横に対する西方力士の反発で、大関大戸平を中心とする33力士が、檄文を協会に叩き付け、 1月を休場する構えを見せた。 力士の要求が通って事件はすぐ解決し、70条に及ぶ「東京大角觝協会申合規約」というのができた。 これにより高砂の専制は封じられ、近代化の第一歩を踏み出した。 年寄になってからもその頭脳を高く評価され、雷(梅ヶ谷)、友綱(海山)とともに「協会三智嚢」といわれた。 毎場所打ち上げ後、好角家や新聞記者を尾車部屋に招き、その場所の好取組の型を弟子に演じさせて意見を交換したり、 相撲画家たちのために技を実演して、それをスケッチさせるなどの大サービスをした。門下からは横綱大砲、大関荒岩などが出た。 大正 5年 3月13日没。


138人目 大碇 紋太郎横綱伝・大碇へ

 愛知県南知多町に明治 2年 2月22日に生まれ、本名は日比紋太郎。 少年時代、草相撲で鳴らし、上京して山分部屋に入って、のち伊勢ノ海部屋に移る。 前相撲から取り、18年 5月序ノ口に載る。はじめから大碇紋太郎を名乗る。 22年 5月十枚目入りしたが、そこで停頓すること 3年、26年 1月入幕した。 27年 5月小結。28年 1月関脇。そして翌 6月大関と進む。 ところがこの頃から人気への溺れが目立ち、大関をわずか 2場所務めただけで29年 5月張出関脇に陥落し、そこでも惨敗して京都へ脱走した。

 看板の無い京都相撲としては勿論大歓迎で、早速大関に仕立て上げた。30年 4月の京阪合併大相撲では京都大関を務めている。 31年 1月東京に復帰して番付外張出の幕尻格で取ったが 1勝しかできず、ここでまた脱走して京都の草風部屋に入り、また大関となる。 32年 4月京都五條家から横綱を免許されたが、所詮京都のお山の大将で、 以後東京や大阪との合併相撲でお茶を濁していた。

 43年ロンドンで日英博覧会が開かれた時、渡りに船と30余人の力士団を率いて渡英。 開館式の時は全員化粧廻しの正装に、肩から名入りの襷をかけて派手なデモンストレーションをやった。 大碇は横綱を締めてその先頭に立って、意気揚々、半年間「ジャパニーズ・レスリング」を披露した。 閉幕後、力士たちは現地解散を余儀なくされ、大半は帰ったが、残った者はレスラーやサーカスの芸人になり、 大碇も一部の力士を連れて各地を放浪したあげく、南米チリで没したといわれる。 大正10年頃までは健在だったようだが、没年ははっきりしない。

 京都相撲は密かに大碇の帰国を心待ちにし、華やかに「凱旋興行」を打つ予定だったようだが、結局画餅に終わって、 大正の代となって、京都相撲は潰れてしまった。

 大碇は全盛時 170cm 105kgで突っ張って押しまくるという相撲は無類の巧者といわれ、 「大碇のおがみ押し」として玄人筋から高い評価を得ていたが、身から出た錆とはいえ、 末路があまりにも哀れだった。


139人目 鳳凰 馬五郎優勝相当成績 3回

 千葉県習志野市の出身で、慶応 2年(1866) 9月 3日生まれ。本名は三代川(のち宮城野)寅之助という。 船橋の酒造家に奉公したが、米俵を手玉にとって驚かせ、名物「喧嘩相撲」の強豪として鳴らした。

 明治19年東京に出て宮城野門下となり、荒海虎之助の名で前相撲から取る。 その後、鳳と改名して順調に進む。25年 1月幕下上位で鳳凰虎之助と改め、 6月十枚目。 26年 1月入幕した。28年 6月、横綱西ノ海と大物言いで預かりを取って大評判となり、29年 5月関脇。 すぐに30年 1月大関となった。31年 1月 7勝 2分で横綱の声もかかったが、翌場所 3敗し、機会を逸した。 33年 5月平幕に下がり、一度は関脇まで戻ったが、36年 5月引退。36年 1月より宮城野となっていた。 179cm 117kgで、受けて立ち、泉川で撓め出すという大関らしい取り口だったが、やや腰に欠陥があったようだ。

 西ノ海との大物言いとは、左四つから西ノ海寄るのを鳳凰こらえて回り込み、西ノ海の打っ棄りを堪えて寄り倒した。 伊之助の団扇は鳳凰。ところが東の控え力士から物言い、このとき検査役でもない高砂が登場。 西ノ海の踵のあとを消し、西ノ海有利を主張した。曰く「蛇の目といえどもこの土を掘れば下は俵だ」と。 検査役は当惑して引き揚げ、日が変わってから「預かり」とした。伊之助は 3日間謹慎、検査役は辞任し、西ノ海はあとを休場した。 この高砂の強引さが「中村楼事件」の伏線になっている。

 門下から横綱鳳を出して、40年 5月 4日没。


140人目 朝汐 太郎優勝相当成績 2回

 愛媛県瀬戸町の出身で、元治元年(1865)11月28日の生まれ。本名を増原太郎という。 艀人夫をしていたが力と体を見込まれて、明治16年大阪の頭取押尾川の門に入り、朝汐と名乗る。 当時とある人が「汐は、夕方の夕で差し引きがあっていけない。もっといい名前をつけたらよいではないか」と言ったが、 本人は「いや、稽古をして強くなれば、名前なんぞ何だってかまいません」と答え、力士生活をずっとこれで通した。 結局、後に朝汐(潮)太郎は高砂の出世名前となり、初代・二代・五代は大関、三代(男女ノ川)・四代は横綱であるから、 初代朝汐の啖呵は、決してはったりではなかったのだ。22年10月入幕。 ところが感情のこじれで大阪を諦め、22年暮れ、高砂を頼って上京した。

 23年 1月幕尻と十枚目筆頭との間の番附外で相撲を取り、 6勝 2敗 1分と実力を見せ、 5月には入幕する。 26年 1月関脇。安定した力を見せたが、上に西ノ海、小錦という強豪がおり、31年 5月になってようやく大関を張った。 その場所 7勝 1敗 1分という好成績で横綱近しを思わせた。

 33年頃までで盛りは過ぎて徐々に衰退期に入り、36年 1月を最後に大関を陥落。 関脇、小結、平幕と下って、41年 1月11枚目を最後に引退した。年寄佐ノ山となった。 179cm 102kg。左四つの出足早の寄り、吊り、右上手投げを武器とした。 風貌はあまり上がらず「おこぜ」というあだ名があった。大関琴ヶ濱と似ている。大正 9年 8月26日没。


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