| 161人目 能代潟 錦作 | 優勝 1回 |
左四つを得意とし、勝ち味は早い方ではないが、腰は重くどっしり構えてじりじり寄っていく堅実な取り口となった。 残されるや捻りがあり、力もまた強かった。おまけに裏をかいた猛突っ張りがあり、これで常ノ花・玉錦・武藏山を喰った。 5年 5月関脇に下がったが 6年 1月に復帰。 8年 1月小結に陥落したが「50まで土俵を退かぬ」と常日頃人に語っていた。 その後も三役に返ったりしていたが11年 1月小結で持病の喘息と神経痛の為全休し、翌場所限りで引退した。 引退後は立田山を襲名し、錦嶋の名跡は大蛇山に譲って補佐役に廻った。 31年 5月に錦嶋が没するや、長老行司の木村今朝三に跡目を相続させ、自分は相変わらず裏方として補佐している。 36年 1月定年退職し、48年 6月 8日没。大関として 122勝 104敗 2分10休。 170cm 124kg。横綱常ノ花が散々苦しめられ、幾たびか全勝を阻まれた。
その悠々とした態度で「今様実盛」なるあだ名があったが、また「廻し叩き」とも呼ばれた。 仕切り直す時ボン、水を含んで吐き出してはボンボン、塩を撒いてはボンボン、 土俵に上る時ボンボン、これまた力のこもった音で、いかにも「わしの力を見よ」と誇示しているかのようであった。 春秋園事件のとき革新派から盛んな勧誘があったが、頭っから撥ねつけていわく 「おれは仮令紙屑拾いをしても、師匠を養わねばならんのだ。どんなことがあっても師匠の側を離れない」といって残留。 大いに師弟関係の麗しいところを見せた。 6年 5月 8日目天竜と引き分け10日目に再戦、 吊り出されて敗れたが、その敢闘精神は素晴らしい。
| 162人目 常陸岩 英太郎 | 優勝 1回 |
余勢を駆って 3年 1月、当たる三役陣を連破して10勝 1敗で初優勝。 このときである。幕尻から 2枚目の老巧三杉礒が10戦全勝、常陸岩は 9勝 1敗。しかも常陸岩には西ノ海からもらった不戦勝がある。 千秋楽、常陸岩には横綱宮城山、横綱とはいっても大した難敵ではないのに対し、三杉礒には小結玉錦、侮れない新鋭である。 一般の同情は三杉礒に集まっており、人気大関常陸岩は完全に敵役に廻されていた。 また、不戦勝の価値が並の勝ち星に比べてどうかという話にもなって揉めた。 結局三杉礒は打っ棄られて 1敗、常陸岩は寄り倒しで勝ち同じく 1敗、上位で常陸岩が優勝となったが、 玉錦の勝ちによって他力本願の優勝をしたといわれ、この日だけ人気の常陸岩が無視されたのだから、 勝負の世界の冷酷さと人気というものの不思議さを実感した好角家も多数あった。 6年 3月引退、大関成績87勝53敗 1分35休。 173cm 115kg。
境川を襲名し、部屋の興隆に与って力があった。また読売新聞に評論を寄稿していた。 常陸岩は甘いものが大好物だったという。しかし酒と煙草はやらず摂生に努めた。32年 7月21日没。
| 163人目 豊國 福馬 | 優勝 2回 |
大正 4年 1月初土俵。 7年 1月幕下。 8年 1月十枚目。そして10年 5月に幕に入った。 このときそれまでの陸錦(くがにしき)から小野川喜一郎と改名。口性ない者が「横綱小野川」の名を継いで名前負けはしないかなどと言ったものだが、 本人も遠慮して「喜三郎」から二本取って「喜一郎」とした。幕内上位から15年 5月小結。昭和 2年 1月関脇。10月大関となった。 2年の東西合併のとき大阪から年寄小野川が入ってきたので、生国「豊後」から取った四股名である豊國としたのが 3年 5月である(実際は大正期東西合併相撲のときはいつも豊國で取っていた)。
左四つの寄り切り、小手投げ、泉川からの撓め出し、巻き落とし、喉輪などを得意とし、その腕力に横綱常ノ花などは辟易していた。 ところが一直線に攻めてくる相手には腰の脆さを曝け出してしまうことがあった。 またやや稽古嫌いであったという。優勝は 4年 3月と 5年 1月の 2回あるが、玉錦の進出の前に屈し、横綱に届かなかった。 5年10月引退。九重を襲名。理事、検査役として活躍していたが病気のため12年 5月で廃業。 17年 5月 5日没。大関成績は82勝43敗18休。 181cm 117kg。
九重を継いだばかりのとき、衆議院へ傍聴に行き、椅子に腰をかけたのは良いが、 いきなりメリメリという大音響が院中に鳴り渡り、演説中の代議士も、 静まり返った傍聴席も一斉に九重の方を向いたので、さすがの九重も頭を抱えて逃げ出した。 両国に帰ってきて、大きな体を縮め、その怪力ぶりの失敗談を語る温厚篤実な好人物ぶりを出羽海(常ノ花)は懐かしんで語っていた。
| 166人目 清水川 元吉 | 優勝 3回 |
初土俵は大正 6年 1月。 7年 1月の序ノ口から11年 1月十枚目、12年 1月入幕と、出世は早かった。 15年 1月には小結となる病気のため全休。その後人気に溺れたきらいがあり、酒と女の毎日で、加えて女の兄が破落戸で脅迫を受ける始末、 本場所をも勝手に休み除名処分を喰らった。一度は関東軍司令官白川大将の添え書きまで持って復帰を希望したが、協会は鉄則を楯にとり、頑として受け付けなかった。 そして昭和 3年、父親が「大関になってくれ」との遺書を残して自殺。 協会は亡父の真情を以って情状酌量の措置に出、帰参を認めた。
4年 1月十枚目尻から復帰。 5年 1月再入幕、 6年 1月小結、 7年 1月関脇となった。 春秋園事件のときも残留し、 2月編成替え番附の本場所で 8戦勝ちっ放して優勝。 5月大関となった。 177cm 97kgで右四つ左上手投げは必殺の斬れ味を誇った。10月再び優勝。 さらに 9年 5月には11戦全勝で 3回目の優勝を飾り、いよいよ横綱が見えてきた。 気迫を全身に漲らせ、鎌首を擡げて敵を凝視する仕切りは近世の逸品であった。
9年秋、巡業で腰を脱臼。上手投げを打てなくなった清水川は寄り身に新境地を開拓せんとしたが、 10年 1月 5勝どまりの負け越しで遂に横綱は彼方へ去った。12年 5月10勝 3敗の好成績を残したがさっと引退した。 大関成績は87勝47敗。追手風を襲名し、検査役を務めて40年 1月定年退職。42年 7月 5日没。
| 169人目 鏡岩 善四郎 |
3年 3月の入幕。 7年の天竜事件の際、朝潮(男女ノ川)らとともに革新力士団を結成し協会を離反したが、 8年 1月帰参を許された。 9年 5月小結に上がったが全敗。10年 1月平幕に下がって10勝 1敗。11年 5月 9勝 2敗の星を挙げて大関に推された。 右四つ絞っての寄りに威力があった。支度部屋の真ん中にどっかとあぐらをかいてからからと笑う姿は愛敬があり、 強敵を一気呵成に押し倒した後の勝ち名乗りをにこにこして受ける姿は見る者を楽しませた。
大関になってからは、粂川二枚鑑札となって気楽になったのか楽しんで取るようになった。 12年 1月 7日目横綱男女ノ川を居反り、13年 1月 6日目九州山に内無双、 5月 3日目羽黒山に、 4日目両國に二日連続の二丁投げ、 6日目名寄岩を巻き落とし、14年 1月 2日目安藝ノ海を胴捻りなど、多彩な力技を振るった。 14年 1月11日目磐石戦で両者ともに取り疲れて鏡岩が棄権、両者不戦敗(当初は預かり、打ち出し後の協議で決定)という珍記録を残した。 5月引退。 大関としてはあまり芳しい成績ではないが36勝42敗。 173cm 113kg。
15年 5月検査役となったが、幾ばくも無く体が弱ってきたので、親友双葉山に弟子を託して郷里に帰り、 25年 8月 5日没。
| 173人目 五ッ嶋 名良男 |
昭和 5年 5月初土俵。 6年 1月序ノ口に載った。四股名は本名の金崎から肥州嶽と変わっている。 腰重く、腕力もあって好成績を続け、十枚目に上がったのが 9年 5月。五ッ嶋と改め、11年 5月入幕した。 笠置山の研究に耳を傾けて技に一段と進境を見せ、連勝を続ける双葉山を打倒せんものと一門挙げての猛稽古を繰り広げていた。 一番槍は安藝ノ海が成し遂げたが、五ッ嶋は15年 1月、 5月と連勝し男を上げた。 1月は五ッ嶋の声で立ち、上突っ張りを強襲、さらばと双葉山は上手狙いを止めて突っ張りで応戦、 突き勝った双葉山が東土俵でとどめとして右肩を突いた瞬間五ッ嶋体を開いて叩けば双葉山バタッと倒れた。 5月は双葉山が不調で五ッ嶋右筈左おっつけからとったりで双葉山を轟沈。
16年 1月大関に昇進し、大いに期待されたが、膝関節を痛め、17年 1月関脇に陥落して廃業した。 得意は巻き落としと下手捻りで、どちらも捩じる技である。大関成績は12勝13敗 5休。 173cm 113kg。故郷五島に帰り、農業をやっていたが、のち東京に戻り京橋で家具商をやって、 時折出羽海部屋に顔を見せていた。48年 5月 6日没。
| 175人目 名寄岩 静男 | 敢闘賞 2回 |
7年10月初土俵。師匠は自分の四股名(緑嶋)から取った緑川と名づけようとしたが、 本人は「そんな弱そうな名前はいやだ」と苗字岩壁と出身地名寄を搗き交ぜた名寄岩を主張し押し通した。 11年 5月十枚目。優勝して12年 1月入幕した。13年 5月関脇となる。天真爛漫、無邪気、あまりにも生一本なため立ち合いに焦らされると頭に血が昇り、 「怒り金時」のあだ名があった。ひところ「名寄岩熊五郎」と名乗ったこともある。18年 1月大関。 19年 1月足を捻挫して大関を陥落し、21年11月復帰したものの22年11月11戦全敗してあえなく落ちた。
この頃から左肩骨折・胃潰瘍・腎臓病・糖尿病・蓄膿症など数多の病が次々に襲いかかり、 力士としては致命的な状態でありながら刻苦奮闘、25年 5月 9勝を挙げて「涙の敢闘賞」。 27年 9月、実に13年半ぶりの金星を千代ノ山から挙げて 9勝し再び敢闘賞を受け、28年 1月関脇に復帰した。 しかもそこで10勝したあたり超人的である。インシュリン投与の注射を自ら打ち、野菜豆腐饂飩のみの食生活でやせ衰えた名寄岩の姿は映画化されまた劇化された。 29年 5月協会から特別表彰を受け、 9月限りで引退。右で引っ張り込み左差し、上手を狙うが取れなければ相手の背中の肉をつかんで吊り上げるという粗っぽさ、 また小手投げ、掬い投げを武器とした。「非技能的」と言われたが、太鼓腹を使って相手の左を極めるあたり理にかなった相撲ではあった。 優勝こそなかったがその実力はなかなかのものであった。大関成績は振るわないが26勝31敗22休。 最盛期は 173cm 128kgあった。春日山を襲名し、検査役を務めていたが40年脳溢血で倒れ、46年 1月26日没。
| 176人目 佐賀ノ花 勝巳 | 優勝 1回 |
昭和 9年の入門。 5月初土俵。荒稽古で鍛えた身体は艶があり、見るからに精悍な風貌であった。 13年 1月十枚目。14年 5月入幕。師匠の急逝にもめげず、一門挙げての猛稽古に明け暮れ、 右四つ出足一気の寄り切り、押し切りに素晴らしい威力を見せ、17年 5月小結。18年 1月には関脇に進んだ。 5月に負け越して19年 1月は小結に下がっていたが、その場所、横綱照國を堂々と押し立て、13勝を挙げて初優勝。11月大関となった。
立ち合いの呼吸のうまさは絶妙で、飛燕の如き出足はますます鋭く、しばしば横綱を倒している。 しかしやや安定感に乏しく、24年 5月 4横綱全てを倒しながら負け越した。 しかも26年 5月から二枚鑑札で二所ノ関となり、それ以前から戦中戦後の混乱で苦労をなめて活気を失いつつあり、 鑑札を許された場所から関脇に陥落。27年 1月引退、年寄専任となった。大関成績 101勝77敗 1分 7休。 170cm 128kg。全身全霊を込めて大鵬を大横綱に育てたが、分家に際してのゴタゴタが多かった。50年 3月28日没。
平成21年 8月号の「相撲」の記事に驚いた。佐賀ノ花の優勝額が掲げられていたというのである。国技館は昭和19年 2月に接収を受けているから、 5月の夏場所までは間があることでもあるし、額は製作されなかったものと思っていたが、後楽園球場で行われていた夏場所中の 5月17日(千秋楽の予定が土俵状態不良で延期)に、 「佐賀の花勝巳」と書かれた優勝額の掲額作業が行われていたのである。次に国技館で行われた本場所は20年 6月、しかも焼け落ちている。 ということはこの額を目にした好角家は皆無に幾かろう。当時の新聞に写真まで掲載されているが後世殆ど伝わることもなかったことで、貴重な再発見といえるだろう。