| 214人目 琴風 豪規 | 優勝 2回 殊勲賞 3回 敢闘賞 2回 技能賞 1回 |
49年琴櫻が師匠となる。50年11月十枚目、52年 1月入幕した。11月横綱北の湖を左四つに組むや一気のがぶり寄りで東土俵に寄り倒し、53年 1月関脇となった。 大関候補と呼ばれた矢先の11月、麒麟児戦で左膝靭帯を痛め、54年 1月金城戦で再び痛め、そのまま幕下30枚目まで陥落した。 しかし琴風はくじけず、55年 1月再入幕を果たすと 5月にはもう関脇を回復。 今度こそと誰もが思った。だが 7月の栃光(金城改め)戦でまたもや同じ所を痛めてしまう。 幕尻に落ちてまた這い上がり、56年 3月関脇、三度目の正直だ。
9月、琴風は走った。横綱若乃花を12日目にがぶり寄りで圧倒し12勝 3敗で初優勝。晴れて琴風は大関となった。 左四つ右上手を取ってのがぶり寄りは必殺の攻撃であったが、生まれつき下半身が固く、 特に足首はふくらはぎと変わらぬ太さであったため、ごちんごちんだった。 大関としてはかなりの成績だが横綱を狙うとするとやや物足りないといった成績を続けていたが、 58年 1月、初日に敗れたがあとを勝って14勝 1敗。小結朝潮との決定戦は、好んでつけた「忍」の化粧廻しそのままに我慢の相撲。 焦れた朝潮が先に仕掛けるところを逆に引きつけての寄りで制し 2回目の優勝。 その後59年頃から衰えてきたが、 9月千秋楽、入幕 2場所目で12勝を挙げ、 横綱大関を「殺人突っ張り」で吹っ飛ばし、多賀竜と優勝を争う小錦を、 左四つ我慢の相撲で掬い投げに破って「真面目大関」の面目を施した。 60年 3月大きく負け越して、 5月 6日目大錦戦でいい方の右膝を骨折。11月10枚目で引退した。 大関成績は 212勝 110敗 8休。 184cm 173kg。尾車を襲名した。解説が実に好評である。 生後すぐに死にかけて蘇り、また大関候補から一転して幕下に陥落してまた戻って大関を勝ち取ったことなどから「地獄を見た男」とも呼ばれる。
| 216人目 若嶋津 六夫 | 優勝 2回 敢闘賞 2回 技能賞 3回 |
5月序ノ口で軽く 7戦全勝、三段目でやや停滞したが、55年 3月十枚目、56年 1月入幕した。 この場所10勝を挙げて敢闘賞。56年11月・57年 1月と横綱北の湖に連勝し 3月新関脇。 58年 1月新大関となった。その後、いつでも横綱を狙えそうな成績を続け、59年 3月に初優勝しいよいよ 5月綱取りとなったが 9勝止まりで失敗。 7月全勝優勝で再び 9月は綱取りであった。11日目まで10勝 1敗であったが、12日目小錦戦で左上手投げにいった時に体を預けられ、土俵を割って 2敗。 さらに14日目、 1敗で優勝争いの単独トップを行く多賀竜戦、相手充分の右四つの大相撲から審判部長であり多賀竜の師匠である鏡山(柏戸)の前に寄り倒されて 3敗。 結局千代の富士に当たらなかったにもかかわらず 4敗し、横綱ははるか遠くへ去っていった。 60年 7月左肩を痛め、さらに糖尿病が追い討ちをかけて、勝ち越しがやっとの状態となり、62年 5月の休場の時には左肩はまったく言うことを聞かない状態となっていた。 7月引退。左四つ寄りと上手投げで、速さと鋭さがあった。いかんせん千代の富士に 3勝しかできなかったことと大乃国、小錦の擡頭の前に屈したということになる。 また、どうしても左下手を欲しがるため半身が多く、体力が落ちてからは左を絞られると為すところがなかった。 188cm 122kg。大関成績は 250勝 145敗13休。年寄名は松ヶ根。 引退後はすっかり痩せて一般人と変わらないほどの細さである。四股名は日高から55年 3月若島津、58年 9月より若嶋津である。
| 217人目 朝潮 太郎 | 優勝 1回 殊勲賞10回 敢闘賞 3回 技能賞 1回 |
前評判通りの実力と勝負強さを発揮して、11月早くも新入幕。 54年 1月大関貴ノ花を突き出して10勝を挙げ、大物ぶりを見せつける。 3月高砂部屋の期待を一身に集めて朝汐太郎を襲名。 5代目である。 しかしなんと初日から 8連敗、初白星が大関旭國の休場による不戦勝という有様。周囲を愕然とさせた。
その後着実に実力をつけて55年 9月初めての大関取りに挑んだ。 プレッシャーからか押し相撲に肝腎の出足がない。初日横綱若乃花の外掛けに敗れ、終わってみたら負け越していた。 その後も56年11月と57年 5月に小結で優勝決定戦に出たが、いずれも横綱千代の富士の前に屈し、大関取りも一歩及ばずチャンスを逸すること 7回。 この間57年11月から朝潮と潮の字を変えている。58年 1月関脇で決定戦に出たが、長い相撲の末朝潮が出るところを、大関琴風に引きつけられて寄り切られ、またも優勝に手が届かなかった。 それでも堂々の14勝。そして 3月12勝を挙げて遂に大関の座を獲た。「今までの百倍稽古をして」と言おうとも考えたようだが、 その巨体ではすぐ息が上がってしまう事は必定のため取りやめたとか。殊勲賞10回は第一位。
大関となったが、 9月横綱隆の里戦で上手捻りに敗れ右膝を痛めて休場するなど、今一つぱっとしない。 そうしているうちに、10連勝するなど大のお得意さんだった横綱北の湖が60年 1月に引退していった。 3月、朝潮は見違えるような相撲で、千秋楽大関若嶋津との相星決戦に勝って悲願の初優勝。 5月は綱取りだったが、 9日目大錦に敗れたのが痛く終に横綱を夢とした。 慢性的な稽古不足は出足の鈍化を誘い、同じ引かれて落ちるにせよ落ちるまでの距離がだんだん短くなっていった。 57年 5月決定戦で千代の富士に敗れたときは一直線で土俵の際までいって落ちた。 60年 5月千秋楽千代の富士に敗れたときはそれより 2・ 3歩早く落ちた。 61年 9月14日目千代の富士にまた引き落とされたときは仕切り線と徳俵のちょうど中間で早くも倒れていた。 そして「プロの横綱」の夢を叶えることなく、平成元年 3月、やはり大阪で引退した。 183cm 186kg。大関成績 294勝 203敗33休。押しと左四つ右上手の寄りの相撲、額で当たってそこから血が噴き出れば本物だといわれた。
年寄名は山響から平成 2年 3月若松となって房錦の若松部屋を継ぎ、14年 2月には本家高砂を吸収して自らの名跡も高砂となった。「大ちゃん」と呼ばれ、明るい人柄で人気があった。 弟子から横綱朝青龍を出したが、これがいかにも高砂部屋らしい奔放すぎる横綱で、長所を伸ばすだけ伸ばす指導が「度が過ぎる放任」とも取られ、度を越した非難に曝されたのは気の毒であった。
| 218人目 北天佑 勝彦 | 優勝 2回 殊勲賞 2回 敢闘賞 4回 技能賞 1回 |
初土俵は51年 3月であった。期待は非常に高く、はじめから「末は大関・横綱」と期待された大器であった。 55年 5月十枚目、11月に入幕した。56年 3月横綱若乃花の必殺右上手投げを土俵際左下手投げで切って落とし大物の名を不動にした。 7月小結となって 3場所保ったところ57年の正月に放送される番組の収録で足首を捻挫し、番附が急降下した。 しかし本復するとすかさず失地回復。11月小結に返って翌58年 1月には新関脇。 5月両横綱休場の間隙を縫って14勝を挙げて初優勝し大関となった。
師匠の三保ヶ関(先代増位山)は「北の湖と北天佑を東西の横綱に並べるのが夢だ」と常日頃語っていたものだが、大関となった「北海の白熊」北天佑は、大関としては凡庸な成績を続けていた。 得意は左四つ寄りと左下手投げとなっているが寧ろ右上手投げの方が強く、さらに右四つ左上手投げのほうがもっと強く、攻防兼備型でもあった。 だが裏を返せば「こうなれば絶対」という型を持たないということでもある。 「大関」北天佑は「関脇」北天佑のような荒々しさを見せなくなり、相撲が小ぢんまりしていた。 そんな中60年 7月北天佑は久しぶりに豪快な相撲を続け、11日目関脇大乃国を一押しで押し倒した時は館内大騒ぎであった。 そのまま 2横綱を降し13勝 2敗で 2回目の優勝。 9月は綱取りだといわれ、 稽古も意欲的にこなしているように見えたが、引退していた兄弟子の横綱北の湖は「横綱を狙う者の相撲ではない」とバッサリ。 案の定 9勝 1敗から 5連敗してしまった。その後は優勝争いにも顔を殆ど見せず、 平成元年 7月千秋楽に横綱千代の富士を下し、同部屋横綱決戦のお膳立てをした程度。 2年 9月同い年の旭富士が新横綱になったので自分も…と思った矢先左手人差指の亜脱臼で精彩を欠き、 2勝 4敗から引退。 在位44場所という史上 2位(当時)の記録を残したが、期待されたほどの成績は残せなかった。 大関成績は 378勝 245敗29休。 183cm 139kg。二十山を襲名し、白露山を幕内力士にまで育て、自らは審判委員を務めていたが、 18年 3月に脳梗塞の診断書を出して途中休場、実は腎臓癌の脳転移で、 6月23日に亡くなってしまった。
| 222人目 小錦 八十吉 | 優勝 3回 殊勲賞 4回 敢闘賞 5回 技能賞 1回 |
少年時代は弁護士に憧れ、世の悪と闘いたいと思っていたそうだ。 それが高見山のスカウトで日本にやってきて初土俵を踏んだのが57年 7月のことである。 新弟子検査はもう大騒ぎ。体重計は使えないは、血圧計は腕に巻けないはで初めから「怪物」といわれていた。 一番相撲、見よう見まねで塵を切る。立ち合いでも相手が突っ込んでくるのをもろ手を出しただけ。 それで相手を吹っ飛ばし、悠然と勝ち名乗りを受けた。
58年11月には早くも十枚目、59年 7月新入幕。 9月、日本全国を震撼させた「黒船襲来」「小錦台風」というあの「殺人突っ張り」が猛威を振るった大活躍である。 関脇大乃国・横綱隆の里・大関若嶋津と倒し、14日目横綱千代の富士をも僅か 3発で押し出してしまった。 千秋楽大関琴風の執念の前に屈し12勝 3敗。蔵前国技館最後の場所は大揺れだった。新関脇の11月は肩の負傷で途中休場。 受け身の型を知らず肩から倒れたためだった。しかし怪物は60年 5月には小結、 7月には関脇と再び大関目指し突進。 ところが 9月またもや怪我。腰の負傷ということになっていたが、口の軽い大関朝潮が一部始終を喋ってしまった。 巷間さまざまに言われているが、風呂で木製のいすを潰して尾挺骨を痛め、おまけに尻に木片が刺さったということだった。 そんなことでへこたれる怪物ではなく、61年 1月小結、 5月関脇となったものの、 今度は致命的な怪我が襲う。 8日目大関北尾戦で北尾の寄りをこらえた小錦、右膝がポキリといって倒れた。 最重量力士小錦の下半身故障の嚆矢となった怪我である。その故障を持ったまま11月関脇に返り咲き、62年 7月新大関として登場した。初の外国人大関である。
とはいえど膝を痛めた小錦はやはり不安定だ。63年 9月など 3勝しかできなかった。 要するに突っ張っての小錦であるから、足が出ないことにはお話にならないわけだ。 平成元年11月の小錦は前場所負け越しとは思えないほどの元気さで、13日目千代の富士を突き出して14勝 1敗で初優勝。 ここから小錦の全盛時代が幕を開けた。 2年 3月優勝同点、 3年 5月優勝同点、 3年11月 2回目の優勝、 4年 3月 3回目の優勝。 ほぼ二桁勝利を挙げて横綱は間近だった。ところが好成績が連続しなかったために惜しくも届かず、 5年に至り故障が悪化、 11月自分が育てたといってよい横綱曙に寄り切られ 2場所連続負け越しで39場所務めた大関を陥落。 これと歩調を合わせるかのごとく帰化が認められ、佐ノ山株を持っていることもあって引退かと思われたが、 小錦は相撲を取り続け、その巨大な存在感で土俵を沸かせ続けた。
7年 1月貴闘力戦での水入り相撲。しかもこれに勝ってスタミナのあるところを見せつけ、しばしば大関を喰った。 そして三根山が持っていた大関陥落後の幕内在位記録を塗り替え、24場所を務めて 9年11月13日目を最後に引退を発表した。 晩年は突っ張っても足が出ぬため捕まえて相手を真正面に置きながら自体の一部分にするかのようにして相撲を取った。 大関成績 345勝 197敗43休。 183cm(最初は 187cmあったはずだが)全盛時 250kg。最高で 287kgに達した。
引退後CM出演等も含め多才ぶりを見せ、その故か(ある程度予測されてはいた)角界と反りが合わず10年 9月27日退職し、「KONISHIKI」なる芸名でタレント業を始めた。 本名は日本に帰化したとき塩田八十吉となったが、16年 1月に改姓して小錦八十吉となっている。 小錦は高砂部屋にとって由緒ある名であるため、芸名としては使用させてもらえなかったが、戸籍名としてなら構わない、ということらしい。 引退後も体重がなかなか落ちず 300kgに近づきさえもし、体調も著しく悪化したため、20年 2月に胃を縮小させる手術を受けて体重を半分にし、 たるんだ皮をぶら下げていたことから翌年10月にはその皮膚を切除する手術をも受けた。さらに22年 5月からは、本名としてのみ用いていた「小錦八十吉」を芸名にもした。
| 224人目 霧島 一博 | 優勝 1回 殊勲賞 3回 敢闘賞 1回 技能賞 4回 |
50年 3月初土俵というから大関若嶋津と同期である。軽量ながら相撲は巧く、また運動神経をも生かして、決して早い出世とはいえないが57年 5月十枚目。 59年 7月小錦と同時に入幕した。以後幕内からは一度も落ちなかったが、中堅あたりで何とか幕を保っている状態が長く続いた。 62年 1月関脇となったが 3勝どまり。上位には歯が立たず、僅かに小錦や大乃国に勝てるかどうかくらいだった。
平成元年 1月小結で 1勝しかできず、これをきっかけに自己改造が始まった。 以前からトレーニングジムには通っていたが、その後は高蛋白の食事を摂り、生卵を日に20個飲み、 また特製プロテインドリンク(通称霧島ドリンク)を愛用し、メキメキと筋肉が盛り上がり、 130kgを超えて横綱千代の富士とも互角以上に渡り合えるようになり、 2年 3月の優勝同点で大関となった。前々から出し投げは鋭かったし、それは左右どちらからでも、また上手でも下手でもよかった。 さらに左四つの正面吊りは圧巻であった。そして 3年 1月霧島は14勝 1敗で初優勝を飾った。 翌 3月は大負けしたが、その後も精いっぱいの土俵を展開、横綱が続々といなくなる中で、小錦とともに互角の勝負を演じた。 しかし久島海や豊ノ海に極め技を立て続けにやられ、右肘を痛めてからは力が急落し、 4年 9月負け越し、11月負傷休場で大関を陥落した。 その年齢(当時33歳)から引退必至と言われたが頑張って取り、 1年後に大関を陥落した小錦とともに平幕で頑張っていたが 8年 3月力尽きた。 年寄錣山から勝ノ浦となり、さらに陸奥を継いで陸奥部屋を継承、立田川部屋を吸収して小部屋陸奥は突如として大部屋に変貌することになった。大関成績は 139勝76敗25休。 186cm 132kg。
| 228人目 貴ノ浪 貞博 | 優勝 2回 敢闘賞 3回 |
足腰は強いのだが、なにしろ立ち合いから引っ張り込むため相手に両差しを許すことが多く、それをよく突かれていたが、 貴ノ浪は相撲は変えずに、入られても耐えられるような足腰の力を身につけ 5年 5月小結、 7月関脇となり、 6年 1月の13勝で大関となった。 3月は12勝で決定戦には出たが横綱曙に突き倒されて涙を呑む。この年は 5月を除き12勝を挙げているが、 7年に入って 1月こそ11勝を挙げたものの、 3月から肝機能障害が悪化して 5月には負け越した。 相変わらず引っ張り込んでいたが力が入っていないため簡単に寄り切られた。 8年 1月貴ノ浪は変身。抱えていっぺんにグイグイ出る。千秋楽には怪力関脇魁皇を上廻る力で極め上げて寄り切り14勝 1敗。 決定戦では横綱貴乃花を相手に迎え、左四つ横綱の二度に亙る外掛けに左足が俵に乗ったが、廻り込んで右足で河津掛け。 変則相撲の貴ノ浪は変則の極致で初優勝を飾った。
その後は相撲に積極性が出て、安定した成績を残しつつあったが、 9月初日小結琴の若戦で寄り切った後右膝が反り返り負傷、 11月未だ回復しない膝を庇いながらの土俵で11勝、決定戦に出て前哨戦を突破、巴戦に残ったが敗れ、 しかもこの場所から喉輪や筈で攻める相手に極端に脆さを見せるようになり、足首をも悪化させて 9年 1月負け越し。 その後足首はすっかり慢性化し、腰をも悪くするなどで不安を抱えての土俵であったが、 11月、後半になってすっかり自信を持ち、決定戦で貴乃花をぶん投げて優勝を果たした。 左差し右で上手か抱えての速攻が毎日のように出れば横綱は確実であったのだが、10年に入り元の杢阿弥、 3月は全く踏み込まず、よもやの 8番止まり。 強いときと脆いときとの落差が激しく、10年後半からは力自体が下降してきたように見えた。 これは11年 3月に一旦持ち直したが、慢性化した足首に苦しみ、 9月には右足肉離れで休場、11月は優勝争いを引っ張っていた出島を引き摺り降ろしたが、 自身は 6勝止まりで大関を陥落した。一度壊した肝臓には特に気を遣ったが実際は治っていなかったようだ。 下半身の踏ん張りが利かないとこの大関の相撲は成り立たないために苦しいが、幕下で痛めた右の足首が殊にひどい。 12年 1月は思い切った相撲で10勝し、大関復帰を決めたものの、 5月14日目新入幕の栃乃花に負け、何と最短コースでまた陥落してしまった。 考え得る最短径路での大関陥落は千葉ヶ崎以来(明確な降下規定なし。大関たるべき成績を残さず、またすぐに大関と為し得るような力士が同じ片屋の関脇にいる場合は、あっさりと入れ替えられることが考えられる。 大正12年 1月再大関の千葉ヶ崎は糖尿病で全休、翌 5月は太刀光と入れ替えられたばかりか、千葉ヶ崎は小結に落とされた)である。大関成績は 353勝 194敗 8休。 197cm 177kg。 陥落後も大関相手には五分近くに取り、14年 7月大関を目指して絶好調の朝青龍を倒した相撲は圧巻だったが、 足首痛に悩み、場所中にこれが出たときは負け続けだった。加えて肺炎や右大腿故障などに襲われ、 足首は四股だけで炎症を起す状況ゆえ、満足に稽古もできずにいたが、それにしてはよく三役から幕内上位に踏ん張った。 14年11月には悲願の初金星を挙げ、敢闘賞を授かった。ところが15年は全場所負け越し、16年 1月にやっとこさ勝ち越したのが最後の光で、 5月場所前は大関時分から悪かった心臓の不調で入院、重篤そのもので相撲どころの騒ぎでなく、 2連敗で引退、音羽山を襲名した。 なおこの心臓疾患で18年 1月から入院、意識不明に陥るなどの状況に至ったこともある。
| 230人目 千代大海 龍二 | 優勝 3回 殊勲賞 1回 敢闘賞 1回 技能賞 3回 |
初土俵は平成 4年11月。序ノ口と三段目で優勝して、関取になったのは 7年 7月、19歳。 幕内はすぐだと思われたが、右肘を痛めて足踏み、さらに右膝を痛めて手術したあとの 9年 1月、 東十枚目筆頭で入幕の絶好機だからと周囲の反対を押し切って出場したが 2勝止まり。 筆頭でさんざん止められてやっと入幕したのは 9年 9月のことだった。お蔭で「昭和50年代生まれの幕内力士第一号」は栃東に譲った。 翌場所に大関若乃花を突き出して若武者ぶりを発揮、10年 3月前頭筆頭で貴乃花と貴ノ浪を倒し、 5月に小結、 7月には関脇に昇進、 9月には本人の念願であった曙戦初勝利を果たした。 この場所 9勝、11月は10勝で迎えた11年 1月、引きも目立って 2敗したが、 13日目から物凄い勢いに乗り、14日目絶不調の横綱貴乃花を破り、千秋楽は 1敗で先行する横綱若乃花を右で掬い倒して決定戦、出端を叩かれて吹っ飛んだものの同体取り直し、 激しく寄り倒し大逆転の初優勝、入幕10場所目の大関昇進を達成した。 貴ノ浪・武蔵丸が昇進してから30場所、この間幾人もの力士が大関候補と呼ばれ、 挑戦する度怪我に泣かされた。千代大海も10年11月場所前に左足首関節炎を起こしたが、 10勝で乗り切ったのが大きく物を言った。
千代大海は立ち合い左おっつけ右喉輪でぶち当たって一気に突きっ放す豪宕な突き押しが得意である。 当たりが強いだけにいきなり叩くのもよく決まる。ただその使用頻度が高いためよく指弾された。 新大関の場所は場所前に右手首を痛め稽古不足で絶不振、さらに鼻骨を折って途中休場、いきなりカド番となった。 これは悠々切り抜けたが、猛突っ張りの威力はおろか当たりの威力さえ鈍り勝ちであった。 12年 5月から調子を戻したが、上を目指そうという大関が立ち合いに逃げたりもするため、安心して見られなかった。 13年 1月貴ノ浪を右外掛けで倒した際に右足首を壊し、翌日に悪化させて休場、出れば強いが、 9月も左足の故障で途中休場、両足に故障が集中してきた。 その功名か、14年 1月の突き押しは、一突きの威力も腰の構えも出足も申し分がなく、優勝同点の星を残して力強さを見せた。 ギックリ腰で翌場所負け越しに沈んだが、 7月には前年 1月の貴乃花以来久々に14勝を挙げて優勝した。この頃が最盛期だろう。 翌場所から出足が鈍り、無理が祟って11月に右腕を痛めて休場したが、15年 3月に混迷の中を抜け出して優勝し、16年前半までは強いところを見せていた。 その後は左肘や両膝、さらに蕁麻疹などの不調が相次ぎ、体調が終盤まで維持できないでいるが、19年11月は久々に絶好調で14日目まで優勝を争い輝きを見せた。 この白鵬戦で右肘を壊されたために20年には一進一退に陥り、21年 1月に驚異の大関10年60場所を達成したが、 3月に糖尿病発症による大減量から13敗の大負けを喫し、遂に11月限りで大関から陥落した。ここで引退せず、大関復帰を目指して翌場所に 6敗目を喫するまでは現役を続けるとしたものの、 いざ22年 1月の土俵に上がってみるとまるで相撲にもならず、 3日目に好敵手として火花を散らした大関魁皇に烈しく叩きつけられ、意を決して土俵を退き佐ノ山を襲名した。 大関成績は 515勝 345敗 115休。
| 231人目 出島 武春 | 優勝 1回 殊勲賞 3回 敢闘賞 3回 技能賞 3回 |
9年 3月の入幕、当たる角度や筈押し、左のおっつけ、豊かな出足と、その内容の素晴らしさから注目されるようになった。 そして 9月の 2金星を含む11勝で11月は関脇に特進、 2日目から 5連勝と乗ってきた矢先の 6日目、玉春日の左突き落としに遭って左足が捩じれ、左足首の骨折。 順調にきた力士出島には大きすぎる試練がやってきた。10年 3月に復帰する予定だったものが案外時間がかかって 5月の再起となったものの、失地を順調に回復していく。 7月、新横綱若乃花に最初の黒星をつけている。さて復帰もし、勝ち越しも続けたが、出足がやや鈍り、体も肥って攻めがなかなか続かないでいた。 11年 5月、関脇に返った出島はやっと出足が冴えるようになって11勝、技能賞の候補にはなったが、出島はいきなり左へ変化することが間々あり、 この場所も 2番やったために意外に大きな反発を招いた。結局技能賞の話は消滅となってしまった。明くる 7月、出島はますます快調、変化も封印して出足に賭け、破竹の進撃を見せた。 曙を叩きつけ、貴乃花を木っ端微塵に粉砕して13勝 2敗の星を残し、大関を確実にした。 そして決定戦で曙と対してこれに勝ち、優勝の土産までつけての昇進となったのであるが、決定戦では当たりもせずに左変化をやったため印象にやや暗い翳をつけた。
兎も角出足大関の誕生、鋭く当たって右差し左おっつけ、差せない相手や誘い込まれる相手には筈で押し立て攻め切る。 優勝の 7月には左筈だけで相手を吹き飛ばした豪快相撲もやってのけている。一本差し速攻と言えば玉錦の例があるが、玉錦は腰こそ弾性があって強かったが足腰は硬くて脆かった。 出島の足腰は柔らかくてバネがあり、当たったあとの煽りがまた強烈だった。大関としては安定してきていたが、骨折した左足首の痛みが残るまま、逆に右足首が悪くなり、出足が浮き立って、 もともと右をおっつけられると他愛無く負けていたのが、右を入れても左攻めがないため捕まって負け、突っ込みも鈍って自分の型にもなれなくなっていった。 13年 1月に負け越し、 3月もカド番脱出が千秋楽にまでずれ込み、 5月は10敗、場所後には右足首の手術をし、不安を除いて 7月に臨み、 3連勝を飾ったのに、 翌日より41度の熱を出し、右脹脛蜂窩織炎のため 6日目から休場に追い込まれ、再出場も果たせず、雅山より早く大関の座から滑ってしまった。 復調と見られるたびにウイルス性顔面麻痺や右大腿肉離れなどの不運に見舞われた。徐々に浮上して15年 1月から 2場所連続 7日目に横綱を倒し、 3月小結、 5月には関脇となって再度の大活躍を期したが、右膝半月板を 5月場所前に痛め、 7月を全休することとなってしまい、またまた壁に当たった。 下半身は至るところに包帯やサポータがつき、照國に似ていると言われた風貌に加え、その痛々しい姿まで似てきている。 そんな中、19年後半に至ってにわかに出足が輝きを取り戻し、好調を続けて20年 1月に小結に戻ったのには恐れ入った。引退は21年 7月、最後の場所は左腕を痛めており攻めに出られなかった。 大鳴戸を襲名し、部屋を継いだ藤島(武双山)を補佐している。大関成績は 100勝71敗 9休。 180cm 159kg。
| 232人目 武双山 正士 | 優勝 1回 殊勲賞 5回 敢闘賞 4回 技能賞 4回 |
まさに評判通りの強さ、幕下 2場所を全勝で快走し、 5月には十枚目に昇進した。この場所より四股名を貰い、前場所終盤には「武双海に改名」という報道も一部にあったが、 武双山という名に決まった。髷もなくオールバックで、銀色廻しが嫌でもを目を惹いた。十枚目も 2場所で通過して 9月には晴れの幕内昇進となっていた。この時漸く髷を結う。 6年 1月曙から初金星を挙げ、 3月に早くも関脇となった。まだ大銀杏は結えない。 9月、初めて大銀杏を結った場所で初日から11連勝、初めて優勝を争い12勝。 期待通りに11月大関に初挑戦。ところが場所前に左肩を亜脱臼し、初日に躓いたため焦って負け越しの憂き目に遭う。翌場所初日新横綱貴乃花を振り飛ばして30連勝で止めたが、 6日目に左肩を外して休場、 体が硬く、怪我に襲われ続ける武双山の苦難が始まった。
7年 5月貴乃花から金星を挙げ(以降金星はない)11勝して再上昇を期した矢先、 9月 5日目若翔洋の去なしで土俵を飛び出し、 その際に左足親指つけ根の靭帯を故障、伸び切ったままで親指が土俵を噛まず、以降は特注の足袋を履いて土俵に上る。 踏ん張りが弱まったために威力がやや落ち、三役相応の力は見せるものの、大関が遠のいた。 8年 7月に大関を再度狙ったが、今度は腰痛が出て負け越した。 故障も原因であるものの、全盛を誇った貴乃花に勝てなかった上に、曙にも歯が立たなかった。 9月から曙に 2連勝したが、もう遅かった。 9年 7月に至っては三役を滑ってしまった。当たりが鈍り左半身で動けず、出ていくと詰めが上ずって逆転負けが目立った。 すぐに三役に戻った 9月は左脹脛肉離れで 3日目から休場、とことんまで怪我に泣かされる。
11年 1月久々に好調で、九分通り復活成ってやっと大関を視界に捉えた 3月、また左肩が外れて途中休場。 土俵に戻った武双山、星は挙がっているが内容が伴わず、失望感を持たれたまま11年は暮れた。 ところが、新年早々絶好調の報が届く。土俵でも素晴らしい活躍ぶり、突き進んで13勝を挙げ初優勝を飾った。 武双山は左差し右筈または右おっつけで相手を吹き飛ばす猛攻が売り物である。 突っ張りはあまり見せなくなったが、重みがあって下から突き上げる型である。 続く 3月も12勝で、とうとう大関に手が届いたが、実は腰がかなり軋んでいた。 5月は全休、 7月も稽古不足で動けず、堂々と相撲を取ったが大敗で大関を滑ってしまったのだ。 またまた怪我に泣いたが、 9月は10番勝って大関に戻り、11月初めて大関で勝ち越したが、腰があまり良くないため、大関としては聊かもどかしがられた。 13年 3月に12勝を挙げてやっと気を吐いた。14年半ば過ぎまでは10勝程度を常に挙げ、 総体的に大関としての星は及第すれすれといったところだったが左肩脱臼の癖が顕在化し始め、15年になって大きく崩れ、左腕が全く伸びず下手投げや突き落としで凌いだ。 16年 1月には左膝をも痛め、苦闘の日々から抜け出せぬまま11月を最後に引退、藤島を襲名した。久々に藤島が出羽系に帰ったという点で意義の大きい年寄襲名といえる。22年11月からは武蔵川部屋を継ぎ、部屋の名も藤島部屋に改まった。 大関成績は 179勝147敗68休。 184cm 175kg。
| 233人目 雅山 哲士 | 殊勲賞 1回 敢闘賞 3回 |
「大物」の評判高く、その評判通りに幕下を連続全勝優勝で通過、11月十枚目に上がって十枚目連続優勝で通過、 11年 3月難なく入幕した。四つは右四つ、左四つの力士には突っ張り、右四つの相手には右四つ左上手か左おっつけ、下半身の構えは全然ないので、 体力任せの典型的な上半身相撲である。その代わり腰は重くて体は柔らかい(それに加えて廻しが緩い)ので、滅多矢鱈には足腰は崩れないが、内股という武蔵丸と同じ致命的な欠点を抱える。 初期には突っ張りに威力が欠け、当たるにも頭の下げすぎで、よく前に落ちた。しかしボロ負けをすることはなく、11年11月には胸軟骨を骨折しながらも前頭筆頭で勝ち越している。 12年になって 3場所連続二桁勝利を挙げ、その数字のみを認められて大関に推された。
しかし大関推薦時の理事会で 3名の反対者が出た。時津風(豊山)や境川(佐田の山)が示した反対理由に挙げられた「数字」には大きな意味は感ぜられなかったが、 多くの記者・好角家もが異を唱える中での昇進で、おめでたいムードは殆どなかった。何せ前に出て決めるでもなし、これといって優れた技術があるわけでもなしで、 飛び抜けて優れた技術がなくとも、上昇時の貴乃花のように相撲の基本がうまく調和して土俵に出ているかというと、 それもまるっきりないのだから、大関として期待されないのは当たり前だった。さて疑いをかけられた雅山は、 その汚辱を雪がんとて新大関として土俵に立った12年 7月、初日に右肩を壊したのに始まって、結果論とはいえ案の定大崩壊。 曙が優勝を決めた相撲、この相撲に敗れて負け越したのである。 前記の如く「案の定」と言われても言葉を返せないような相撲内容のまま、場所は終わってしまった。 早々のカド番をやっと乗り切り、次の11月は初日から 8連勝で勝ち越したが結局 9勝 6敗、少しずつ調子を戻して、多少腰が落ち着くようになったが、 13年 1月に左手首を故障。その後は突きの腕が伸びず非力が目立ち、しかも下の追い上げが急で、さらに元大関貴ノ浪には一本差せば極められ、 そればかりか13年 1月には二本差される不始末までやってしまうなど、心許なさは増幅の一方。 大関在位 4場所目終了時で自分より 1場所在位が少ない魁皇に勝ち数で抜かれ、 13年 3月と 7月は魁皇が優勝で雅山は負け越しだから話にもならず、13年 5月魁皇は途中休場なのに、殆ど貯金ができずじまい。 遂に 9月、内股の癖が消えない雅山は海鵬の引き技を残さんとして左足を挫き、足首脱臼で途中休場、呆気なく陥落となった。 大関成績は57勝58敗、最後の不戦敗で大関成績が 5割を切った。在位 8場所で半分が負け越し、暗黒の大関時代だったといえよう。 入幕当初は一部で「20世紀最後の大物」と騒がれたものの、実は「21世紀最初のお荷物」だと「大相撲」の座談会で言われる有様になった。 足首のみならず、右肩の瘤の下に軟骨が多数でき、除去手術したものの回復が遅く、再起場所では勝ち越したが、相撲内容まで良くなるには相応の時間を要した。 その後、踏み込みがちゃんとできるようになって当たりは大関時代より遥かに良くなり、腰のぶれは以前ほどではなくなり、 15年 9月に関脇にも返り、16年 9月からは 4場所連続関脇、さらに18年 5月には優勝同点を記録し、大関目前にまで迫ったこともある。 19年 3月には初金星を挙げたが、20年頃からは足腰に慢性的な故障が顕在化しており、22年 5月場所後に表面化した野球賭博問題に絡んで 7月は出場停止となり幕内から陥落した。 1場所で幕内に戻り、その維持で精一杯の状況と思ったが、大関陥落から数えて10年余を経た24年 1月に小結に戻ったのにはびっくりした。 ただ同年夏頃から左足が使えず、25年 1月の大敗で幕内を陥落、翌 3月も大敗でとうとう引退した。 187cm 177kg。
| 234人目 魁皇 博之 | 優勝 5回 殊勲賞10回 敢闘賞 5回 |
引退して間もない魁輝の一番弟子である。四股名の意味は「頂点を極める魁になれ」である。 昭和63年 3月の初土俵で、師匠は当然の如く大きな期待を寄せるが、本人にはさほどの欲がない。 幕内に上がった頃、ライバルを問われて同期の和歌乃山と答えたのだが、師匠は「どうして若花田・貴花田と言わんのか」と、おかんむりである。 曙・貴花田とは対戦がなく、若花田とは初土俵翌場所に当たって二本差され完敗、和歌乃山(西崎)にも分が悪い始末であった。 十枚目は 4年 1月、翌場所左足親指脱臼骨折で途中休場したが、少しずつ上に上がって 5年 5月に入幕した。 緊張の余り大敗してすぐに落ちたが 2場所で戻り、 6年 3月に大活躍、若ノ花・武蔵丸・曙と薙ぎ倒し一躍注目されるようになった。 5月に小結、 7年 1月には関脇に上がり、 9年 1月まで関脇に居座ったのである。 関脇連続13場所の間、優勝同点 1回があり、武蔵丸に長く勝ち続け、大関を狙う場所があったが、 当時の大関 3人が元気だった上に、相手の腕を手繰ってばかりという印象が色濃く残り、 13場所目に大風邪を引いて惨敗、翌場所また優勝同点を記録したが、 5月11日目貴ノ浪を強引に振ろうとして潰され、 左股関節の筋肉が破裂、大関への道を固く閉ざされてしまった。
10年も11年も不本意な成績のまま過ぎた。10年11月は初日から横綱大関ばかり倒して 5連勝したが、その後崩れて平々凡々。 12年 1月もガタガタで、千秋楽に武双山相手に逃げたところ、完膚なきまでに吹っ飛ばされ、 優勝を決めさせたばかりでなく自分は負け越し、周囲の冷視線を浴びる破目になった。 慙愧の念に堪えぬ魁皇にとり、この場所は一大転機になった。翌場所右膝を壊しながら勝ち越しでまとめた魁皇は、 5月に漸く本領を発揮、顕われ続けた連敗癖も遂に出ず、踏み込み鋭く左は堅く、一見無雑作とも思えるような相撲っぷりで相手を問題にせず、 14勝で初優勝を飾った。余勢を駆り翌場所も11勝で大関の座を勝ち取ったのである。
魁皇の本来の相撲は、右で一つ強く踏み込んで左脇を固め、左差し右おっつけから上手を取って出るものであるが、 右おっつけだけで持っていくこともできるし、右上手投げや右小手投げには唸りを伴うかのような恐ろしさがある。 右小手投げで壊された犠牲者としては、小城錦・栃乃洋・千代天山・玉春日・琴龍・豊ノ島が挙げられ、晩年の21年になってから、左肘の不安に悩む朝青龍をも小手投げで振り出し、 同様に怪力で鳴らす把瑠都でさえも小手投げが怖いと言っていた。破壊力は抜群で、歴代の大関陣の中でも地力一番、いつでも横綱になれそうだという期待を抱かせる、久々の大関力士であったが、 大関昇進後は立ち合いの崩れが目立ち、安定性に影がついた。13年 3月に優勝を遂げたものの、相変わらず立ち合いの鋭さがあまり見られず、 横綱狙いというには時期尚早の感があり、そればかりか古傷の腰痛を悪化させてヘルニアという診断、逆に大変なことになった。 復帰した 7月に優勝し、優勝−休場−優勝という珍記録をつくったが、運に乗った優勝という色合いが濃く、終盤など粗雑を極めた。 それのみか 9月も腰故障で途中休場、さらに14年 6月に左腕、11月に右腕の順で二頭筋を切り、怪力自慢ができなくなった。 15年になり、無謀な相撲が取れなくなった代わりに左を差して右から上手を狙いながらおっつけて攻める相撲が目立つようになり、 7月に至って久々の優勝を果たした。 9月に右腕故障悪化による負け越しがあったものの、怪我を大量に持っている割にはそれなりの相撲を見せ、 16年は 9月の優勝を含めて安定した相撲を取り、横綱目前にまで近づいたが、11月の琴ノ若戦以来左肩が痛み、 その肩は一向に良くならないまま17年 1月琴ノ若戦に敗れてから崩れ、途中休場に追い込まれてしまった。 以降は頻発する負傷と戦い、18年からは二桁勝つのも稀となったが、伸びてくる若手を相手に左四つの型で対抗しつつ大量の叩きで相手を押し潰し、39歳になる 5日前まで大関を張り続けたばかりか、 22年と23年に白鵬から 1勝ずつを挙げているのは驚くべきことといえる。 幕内勝数は20年 7月に大鵬を抜き、21年11月に北の湖を、22年 1月には千代の富士を追い越して 1位となり、 通算勝数は22年 5月に1,000に到達、千代の富士を視界に捉えた。幕内在位100場所や大関在位60場所を越え、22年11月には勝運に乗って12勝の大爆発を見せた。 23年 5月には大関勝数で千代大海を超え、幕内出場回数で高見山を抜き、最後の砦となった通算勝数も23年 7月 5日目にとうとう追い越した。 これを土産とし、この場所10日目に 7敗となったのを一期として、カド番でもない魁皇は潮時とみて引退に踏み切った。大関成績は 524勝 328敗 119休。 184cm 172kg。 大関在位場所数も千代大海に追いつき65場所、粘りに粘って地力を保ち、最後には国産唯一の大関にもなってしまい、白鵬とともに協会の二枚看板として在り続けた功績は計り知れず、 平成の大相撲史を象徴する偉大な力士として記録されよう。
| 235人目 栃東 大裕 | 優勝 3回 殊勲賞 3回 敢闘賞 2回 技能賞 7回 |
初土俵は平成 6年11月である。以来豪速出世を見せる。各段で優勝(序ノ口 7年 3月・序二段 5月・三段目 7月・幕下11月)を勝ち取り、 8年 5月には関取だ。 9月にはここでも優勝し、11月に早くも入幕、13場所目の入幕は大関小錦に並び最速で、 7日目に小錦と対戦して「最速出世力士同士の対戦」と言われた。 この場所10勝で優勝次点(11勝で 5人の決定戦だから 6番目の星ではあるが、同点者の次でも次点とする)、以降大関になるまでに次点は 7回を数えた。
三役は 9年 7月。殆どの場所で勝ち越していてその実力を示す。左右のおっつけ、もともと左が得意で、右をも磨いた。 そして幕内に上がってからは前褌を取っての攻めも研究、最初は前褌を欲しがるあまり出足を忘れ、取ったと思えばバタ足で出てしまう相撲だったが、 徐々にその難は矯められた。現在最も安定している型は、左で踏み込んで脇を締め、おっつけて左前褌を取れば右ではおっつけるなり差すなりして出る。 右四つで左上手を浅く取って胸を合わせず、腕を返して出る型には特に安定感がある。左下手を深く取ったなら、右から絞って出る。 筈の攻めもあって割り出しもできる。大きい相撲は取れないが堅実さがある。しかしスタミナ面に難があり、 終盤に脆さが出て大関「候補」の声しかかからなかった。体が硬く、疲れが抜けにくいのも要因としてあろう。 不調時には左での踏み込んだ後、相手にこたえないためか次の右足が出ないで止まってしまう。 しかも、10年 3月に右肩を脱臼し、同時に肩関節を剥離骨折したため、時々右肩痛が出て、まともに当たれないこともあった。 明らかに実力で圧倒できる相手に立ち合いざま左に飛んでみたりして評価を下げ、しかも飛んだ後数日間相撲が乱れることから成績にも影を落とし、 なおさら大関への道を険しくした。
本当に大関に近づいたと最初に見られたのは12年 7月の活躍後であった。 踏み込みが素晴らしく、下からの攻めに力強さが加わり、堂々の12勝。翌場所の成績如何ではすわ大関という声が高まった。 しかし、大事な場所前に右鎖骨を外してボロボロ、出島に小手投げで吹っ飛ばされてさらに痛め、大チャンスを棒に振ってしまった。 とは言うもののその実力は確固たるものとなっており、復帰後は負け越しはおろか 8勝どまりもなく、着々と大関に近づいていった。 13年 9月に12勝したときは左に飛びすぎて散々な評価を受けたが、それでも実力は誰もが認めるところ、 翌場所も12勝にまとめ、三役での継続的な好成績も認められて晴れて大関となった。
迎えた14年 1月、初日は緊張したらしいが翌日に相手に飛ばれても冷静かつ迅速に対処し13勝、決定戦を制して遂に親子優勝を果たした。 3月からは一段落という形か、栃東らしい内容は随所に見られるが10勝で落ち着き、しかも 5月13日目に左肩の筋肉を破られてしまった。 翌 7月、癒えないままながら連勝でスタートしたものの、左腕の関節突起が折れるという災難に見舞われ、本当の小休止になった。 その後は初日に躓いて崩れる繰り返しで、15年 1月にまた左肩を外し、その後右膝・座骨神経痛・左膝・左手薬指と立て続けに壊れ、 7月に負け越すに至って捲土重来を宣言し、 9月の10勝のあと、11月には見事な技能の冴えを見せて優勝を遂げたが、 今度は左肩関節 3ヶ所の亀裂骨折で 3月に休場、治らず 5月も全休で、あえなく大関を陥落した。 7月に10勝で復帰するも 9月は 3日目に右膝を強打して休場、 11月は 2日目に左肩を強打して肩胛骨を亀裂骨折、これがもとでまた途中休場に沈み、呆気ない陥落となった。17年 1月、陥落直後の関脇力士として史上初めて11勝まで星を伸ばして大関に返り、 18年 1月には大変な強みを発揮して優勝を遂げた。ここで初めて本人も横綱を意識し始めたが、 5月の途中休場の原因となった左膝はかなりの重症で、19年 1月に大敗して引退を覚悟するようになった。 翌 3月、衰えぬ技能を示して勝ち越したが、今度は激しい頭痛で途中休場、検査を受けると脳梗塞が自然に治った痕跡が見つかった。 事ここに至って栃東は意を決し、 5月場所を前に引退を表明した。年寄としても栃東を名乗っていたが、父の定年に伴い21年 9月に玉ノ井を継承、部屋も継いだ。 大関成績は 207勝 125敗 118休。 181cm 148kg。