大関伝 237人目〜244人目
237人目
琴欧洲 勝紀
優勝 1回 殊勲賞 2回 敢闘賞 3回
ヨーロッパ出身第一号の大関である琴欧洲は、昭和58年 2月19日にブルガリア共和国のヴェリコ・タルノヴォ市で生まれた。 本名をカロヤン=ステファノフ=マハリャノフという。父はレスリングのコーチであり、生まれたときから大きかったカロヤンは、小学 3年からレスリングを始めた。 16歳でブルガリアの代表となり、大学(ブルガリア国立ヴァイスルレヴスキ大)でもレスリングを続けた。 ブルガリアには相撲の課程もあるところから、レスリングと並行して大学で相撲も取り、レスリングに無差別級がなくなったために相撲に絞った。 欧州相撲選手権でも活躍を見せ、ドイツ大会の際にブルガリアの監督と佐渡ヶ嶽部屋の元床山(ドイツ相撲連盟の役員)とが懇意になったことから、佐渡ヶ嶽部屋に紹介された。 そして父が事故で負傷したのを機に入門を決意、大学 2年で休学し、平成14年 8月に日本にやってきた。
初土俵は14年11月、ブルガリア出身としては史上初の力士である。四股名は琴欧州勝紀とつけられ、負け越すことなく16年 5月に十枚目、 9月には入幕し、17年 3月の新小結で初めて負け越すまで快進撃を続けた。 長身と怪力で、上手を取れば上から引きつけて寄り、また腰をぶつけながら捻じるような独特な上手投げがあり、 上昇時には相手の動きへの対処も素早く、大きな期待を寄せられた。 7月に初めて優勝を争い、 9月に新関脇で初日から12連勝を果たして優勝同点、11月にも11勝を挙げ、 幕内僅か 8場所を経たのみ、入門から数えてもたったの19場所で大関に推された。伝達式は、まだ引退して数日の佐渡ヶ嶽(琴ノ若)夫妻と、定年を迎えて数日の前佐渡ヶ嶽(琴櫻)とが同席する珍しいものだった。
18年 3月、場所前に右膝を痛め、場所終盤の栃東戦で右足首まで痛め、それ以降は全く鳴かず飛ばずの状況に陥った。 もともと立ち合いの 2歩目が内に出る欠点があり、さらに自信を喪って頭を下げて差そうとする相撲が現れ、立ち渋りまで目立つようになってすっかり矮小化してしまった。 右膝は元来膝の皿がずれる症状があり、三段目のときには亜脱臼もしているので、慢性化しているのが実態といえる。低迷を打開するため 9月27日に四股名を琴欧洲と改めたものの、 実際には効果らしいものはなく、そして19年11月には初めて途中休場するに至った。
明けて20年、相撲ぶりはますますおかしく、右足はまるで使えず左足だけで飛び跳ね、廻しを取れば相手に被さってしがみつくだけで、 3月には左腕を痛めて途中休場となり、いよいよ大関維持も難しくなったかと思われたところ、 5月には別人のような琴欧洲が現れた。 踏み込みが良く、高腰ながら割れ、14勝を挙げて初優勝を飾った。これが今後も見られるのか元に戻ってしまうのかと思っていたところ、 同一場所に両方の琴欧洲が出現するため、判断が難しい。傾向としては場所前半には見事な琴欧洲が、後半になると脆弱な琴欧洲が出た。 従って前半の貯金で10勝程度の星にまとまり、大関としては充分な力量を示していると言えるが、優勝以外の大勝は21年 7月の13勝のみで、横綱への展望はない。 立ち合いに廻しが掴めないとすぐに両差しを許し、掬われて大きな風車のように倒れる負け方が目につく。 23年以降は右膝・右肘・右肩と故障が続発して二桁勝つことは稀になり、今後の道のりの険しさをも感じさせる状態である。大関成績は 356勝 250敗44休。 204cm 155kg。
239人目
琴光喜 啓司
優勝 1回 殊勲賞 2回 敢闘賞 4回 技能賞 7回
体当たりからの速攻と差し身の良さが売り物だった琴光喜は、昭和51年 4月11日に愛知県豊田市に生まれた。 出身地は愛知県岡崎市としている。本名は田宮啓司。父はトヨタ自動車相撲部の監督で、その影響から岡崎相撲教室に小学 1年から通う。 中学(新香山中)時代には全国大会で活躍、小結高見盛とはこの頃からライバル関係にあった。強豪校として名高い鳥取城北高校に相撲留学、 2年で高校横綱となり、大学は日大。取ったタイトル27、叔父が九州後援会長である縁で、佐渡ヶ嶽部屋に入門した。 他にも若松(朝潮)も声をかけていたという。
高見盛や濱錦(十枚目)とともに幕下附出で11年 3月初土俵、入門当初は本名の田宮を名乗ったが、初土俵は琴田宮で踏んでいる。負け越すことなく11月には十枚目、ここで琴光喜と改めた。 「光る相撲で観客を喜ばせる」という意味が込められており、他に「琴圭傑(ことかけつ)」「琴吉勝(こときっしょう)」という候補もあった中から選ばれたものである。 早くも12年 5月に入幕したが、この場所前に右足首を痛めて全休した。この頃の琴光喜は右廻しを取ったら完全に止まってしまう取り口だったが、夏巡業から馬力が見られるようになり、11月に再入幕、13勝で早くも優勝目前の星を残す。 年が明けて13年 1月には関脇に飛んでいた(新小結は 5月)。 9月には早くも優勝を飾り、14年 1月には栃東・千代大海と優勝を争って大関取りとも言われたが、 前場所が 9番でその前の優勝が平幕だったこと、相手より早く立って勝とうとする汚さと、14日目の武雄山戦で出足なく腹這いにさせられた脆さとが災いして見送られた。 しかも次の場所、皇司に張られて顎を骨折するありさまで 8勝どまり、袋小路に入った。
琴光喜の相撲は立ち合いの当たりから右差し一気に出るときは素早く、右上手を先に狙って振って崩す取り口もある。 右四つに組んで両廻しを取れば真っ向から寄ることもできるが、右下手一本になると半身になって長引く。 若い頃はスタミナにも定評があり、長い相撲も厭わなかった。右の出し投げや内無双といった小技も持っているし、廻しを切るのも巧みである。 ところが、完全に動きが止まって自分の体勢をつくろうとしているときに動かれると、まるで足が出ずにベタッと腹から落ちる。 これは大関になっても改善されないで終わった。
15年になって両肘を悪くし、 5月に途中休場して右肘を手術、 5場所連続小結など上位に在って勝ち越しはするが、 相撲は遅く出足がなく、たまに走るかと思えば相手がいない方に進んだり、17年11月から関脇に居座り続けても状況は殆ど変わらず、19年 1月までは 9勝が 1回であとは 8勝、 稽古場では途方もなく強いという話はまるで信じられなかった。やっと光が射してきたのは19年 3月で、ここから10・12・13勝と星を伸ばし、 特に 7月に新横綱の白鵬を倒した上手出し投げは必殺の斬れ味、これを手土産に琴欧洲に遅れること 1年半、やっと大関を掴んだ。
大関となってからは胆石の手術で体力が落ち、勝ち越しがやっとの状況で停頓、21年 7月の12勝が大きく光るが、大関17場所中二桁は 5場所にとどまった。 もともと30歳を過ぎてからやっと得たワンチャンスを掴んで上がった大関であり、一部には横綱を期待する声もあったがさほど大きくはなく、寧ろそれなりに土俵を務めたとは言えるだろう。 しかし22年 5月場所中に野球賭博関与が明るみに出、関与の度合いが大嶽(貴闘力)に次いで深いことから 7月 4日をもって解雇された。大関成績は 141勝 104敗10休。 183cm 158kg。
ライバルといえば、若手時代に称された朝青龍には完全に水を開けられ、14年 9月に下手投げで投げ飛ばしたのを最後とし、 翌場所逆に上手投げで投げ飛ばされて以降全く勝てず28連敗を記録、金城が持つ対北の湖戦29連敗に迫ったが、20年 3月にとうとう勝った。 この頃朝青龍はめっきり衰え、白星を増やす好機とも考えられたものの、朝青龍のほうに休場が目立ったせいもあって21年 3月と11月に勝っただけにとどまり、翌年 1月限りで朝青龍がいなくなってしまった。
241人目
把瑠都 凱斗
優勝 1回 殊勲賞 1回 敢闘賞 5回 技能賞 1回
エストニア共和国ラーネ・ヴィル州ラクヴェレ県エバベレ村に昭和59年11月 5日生まれた。本名はカイド=ホーヴェルソンという。 バスケットボールや柔道を経験、柔道の先生は相撲も教えており、平成14年のユーロ・ジュニア選手権で準優勝に輝いた。 父は早くに亡くなっており、ナイトクラブの警備員で生活の資を得ていたこともある。
16年 5月初土俵、当初は三保ヶ関(増位山(子))部屋に属し、のち尾上(濱ノ嶋)の独立により18年 9月から尾上部屋に移籍している。 四股名の把瑠都はバルト海にちなむもの。「凱斗」は名の「カイド」によるが読みは「かいと」であり、エストニアに凱旋してほしいという願いを込めて「凱」を当てた。三保ヶ関の命名による。 初土俵以来負け越すことなく、十枚目に達するまでの 7場所はすべて 5勝以上の星を挙げ、17年 9月に十枚目に昇進、ここでも12勝を挙げていよいよ幕内を狙ったが、 なんと11月の初日朝、急性虫垂炎に罹って入院、この全休で幕下に落ちた。 1場所で難なく十枚目に戻ってすぐの18年 3月、北の冨士以来 4人目の十枚目15戦全勝を達成、この達成者は全て大関以上になっていることもあって、把瑠都への期待はさらに大きくなった。
新入幕の18年 5月も勢いはそのまま、この場所14勝を挙げた関脇雅山と大関白鵬とに最後 2日間にぶつけられ、これははね返されたが11勝 4敗の星を残し、新入幕での三役揃い踏み出場も果たした。 この当時から廻しを引けば無雑作な投げや吊りに強さを見せつけていたが、組むまでの過程に大きな問題があった。 一本差すということもせず上から上手廻しを取りにいき、相手が出てくれば飛ぶように下がって透かしたり、波離間投げにいったり。 顔を背けて立つということもあって出し投げに脆く、下半身はお留守そのもので危なさを強く感じさせた。 その不安は早くも 9月の雅山戦で的中、雅山の筈押しをまともに引いて腰から落ち、左膝を捻じって自力で立てず、控えの千代大海にやっと助け起こされた。 この左膝は19年 1月と 7月にも繰り返し痛め、23年 1月には日馬富士の猛攻を凌いだのがとうとう右膝にきた。 あの巨躯と溢れるパワーを支える土台は、入幕当時ほどではないものの、そんなに安定してはいない。
19年11月以降は取り口に改善が見られ、挟みつけることと一本上手を取ったら他方ではおっつけることをやっと始めた。 その後、右は相変わらず甘いが左では下手前褌を狙うような立ち合いを始め、いくらか安定してきた。20年 9月新小結、翌場所には関脇にも昇進、 21年 5月に右足首の故障で大敗したのを除けば概ね上昇線を描き、21年11月からの 9勝・12勝・14勝の成績をもって大関に昇進した。 22年 1月には白鵬を破り、 3月は突っ張りが大振りながら猛烈な威力を発揮したことから、大関昇進を喜んでいる間に横綱昇進も叶うのではないかという印象すらも与えた。
大関としては、把瑠都の「把」が大雑把の「把」であるかの如く、取り口の雑さから星が伸び悩み、上を狙える大関とされるにしては取り口と異なり安定しすぎた成績となっている。 22年11月に好調さを見せたものの最終盤に失速、大関陣の中から抜け出せる状況にはない。朝青龍には 9戦して 9敗、四つ具合の差で力が充分に出ないまま終わった。 白鵬とは力相撲になり、技術力の差から攻めにいけなかったが、白鵬が峠を越えたようで、草臥れた白鵬をいいようにあしらう場面も見られ始めた。 意外なのは琴欧洲を苦手にしていたこと。把瑠都が大関に上がろうという頃、琴欧洲は自分の存在が忘れられると危機感を抱いたことがあった。 ところがいざ取ってみると、把瑠都にとっては低く組みつける唯一の相手なのに逆に力が出にくいのか、引きつけ勝つのは大概琴欧洲の方であった。 23年は序盤でボロボロ星を落とし、中盤から勝ち込むというパターンを繰り返したが、24年 1月になって、序盤の相撲振りは相変わらず不安定ながら、 気づけば連戦連勝で14勝 1敗、とうとう優勝に手が届いた。ここで把瑠都は横綱に狙いを定めたものの、 3月は風邪で崩れ、 9月場所前に右足親指が土俵に減り込んで故障、 剥離骨折で 4日目から休場し、翌場所も無理矢理出場したが左大腿の筋挫傷で 3日目から休場に追い込まれ、呆気なく大関から落ちてしまった。大関成績は 133勝69敗23休。 198cm 187kg。
242人目
琴奨菊 和弘
殊勲賞 3回 技能賞 4回
福岡県柳川市に昭和59年 1月30日生まれた。本名は菊次一弘。早くから相撲に親しみ、中学は高知の明徳義塾、つまり相撲留学である。 3年生で中学横綱を取り、高校も同じく明徳義塾で、卒業を待たずに角界入りした。
平成14年 1月に琴菊次の名で初土俵。佐渡ヶ嶽部屋に属したのは、既に小学校当時から佐渡ヶ嶽(琴櫻)に目をかけられていたことによる。 さすがに中学高校と相撲で活躍しただけのことはあり、11月にはもう幕下だ。一度幕下上位で 2場所連続負け越して壁に当たったのを受けたのか、 16年 1月に琴奨菊と名を改め、早くも16年 7月には十枚目入りし、 3場所で通過して17年 1月に新入幕を果たした。低く当たって左筈右おっつけから左を差して煽るのが主武器で、 のちのちがぶり寄りを磨き上げて大関に達したが、この当時は両筈押しや喉輪押しも多く、必ずしも取り口が固まってはいなかった。
新入幕の際は 1場所で滑り落ちたが、すぐに幕に戻って徐々に累進、18年 7月に前頭筆頭に達した。この頃でもまだ相撲ぶりは試行錯誤の連続、 右で引っ張り込む相撲を見せたり、あるいは右差しを狙ってみたりで、琴奨菊が思い描いている相撲がどのようなものなのか、今一つ掴めないように思えた。 9月の10勝でもまだピンとこなかったが、11月の10勝で大きくステップアップした。右で肩を突きながら左を差し、右で攻めて煽って出る形がはっきりしたのである。 これが評価されて技能賞を受け、19年 3月には小結を飛んで関脇に昇進した(負け越して 5月は陥落しての新小結)。 誰彼構わず右から引っ張り込む大雑把な相撲が出て停頓もしたが、11月に小結で初日早々横綱白鵬を破り、翌場所の白鵬戦で右膝を痛めたものの、 この場所も勝ち越して 3月から 3場所連続して関脇に居座った。大勝ではないが 3月に朝青龍にがぶり寄りで勝っている。 なお琴奨菊には金星はない。朝青龍にはこの 1勝きりで、白鵬には大関昇進直前に 2勝を加えているが、すべて三役在位中の白星であった。 その後 2年半、三役から幕内上位で勝ち越したり負け越したりを繰り返し、21〜22年にかけては関脇を 1場所ずつ経験したものの負け越しに沈み、 特に22年 7月は 5勝10敗の惨状、頭を下げて両差しを狙っているのに、逆に二本差される脇の甘さを露呈し、上体が反る悪癖が如実に出てしまっていた。
23年 1月、関脇通算 7場所目の琴奨菊は11勝の大勝ちで、一躍大関候補の筆頭格にのし上がる(幕内昇進後11勝に達したのがこのとき初めてで、そのゆえか敢闘賞の受賞経験がない)。 とかく右から引っ張り込むのは相変わらずだが、それで苦もなく攻められるようになった。左は立ち合いに差すか、おっつけて差すかである。腰が重く、相手に入られてもがぶれるようにもなり、出られなくても踏ん張って突き落とす。 5月も10勝にまとめ、次いで 7月には久々に白鵬を破って11勝と星を伸ばしたが、13日目からの連敗に目を狂わされた審判部はあっさりと見送ってしまった。 琴奨菊は続く 9月に12勝を挙げ、ようやく大関昇進と相成ったのである。川下りで有名な柳川市では、逆に川を溯上する昇進パレードを行った。 大関としては徐々に軌道に乗ってきた感じもあったが、24年 9月に左膝の靱帯を痛めて途中休場、これが治り切るかどうか。 右から引っ張り込んで相手を縛ってしまおうとするが、自分の重みが半減している状況では逆に揺さぶられる基となり、 当たりの威力にも湿りがあるので左差しも果たせずバタついている。大関成績は74勝50敗11休。 179cm 174kg。
243人目
稀勢の里 寛
殊勲賞 5回 敢闘賞 3回 技能賞 1回
昭和61年 7月 3日生まれ、本名は萩原寛(ゆたか)。兵庫県芦屋市の生まれで、中学 2年生のときに茨城県牛久市に移り、後者を出身地としている。 但し小中学校は龍ヶ崎市である。小学 4年生から始めた野球の実力でも注目されていて、有名高校からの誘いもあったのだが、その前から相撲が大好き、鳴戸(隆の里)が両親や学校関係者を口説き落として入門にこぎつけたのである。
初土俵は平成14年 3月、本名で取り始める。15年 7月にはもう幕下に上がってしまった。ものすごい期待のされようであったが、それに応ずる出世の速さも驚くべきもの。 なにしろまだ17歳になろうかというところだ。幕下も 5場所で通り抜け、16年 5月には早くも関取になった。まだ17歳のままだ。 この頃の十枚目には、安馬(日馬富士)も琴欧州(琴欧洲)も豊ノ島もいたし、翌場所には琴奨菊も上がってきて、華やかであった。 取り口自体は無茶苦茶と言ってよく、足腰には柔軟性がないのでまずは突き押しから覚え始めたが、確実性に乏しく相手に入られ、 体力を利して捻じ伏せるような勝ち方をしてみたり、あるいはスルリとかわされてみたりで、危なっかしさは多分にあった。 関取になったあたりから左四つでも取るようになった。右上手を取れば相撲にはなるが、引きつけはあまり良くなかった。 また左の攻めはもともと威力を秘めていたもののあまり発揮されず、左を固めて右でおっつけようとするときは確度が極めて低く、 右が万歳になることも珍しくはなかった。粗削り中の粗削りといえよう。
新入幕は16年11月で、ここで稀勢の里の四股名が与えられた、「稀なる勢いで駆け上がる」という意で、鳴戸部屋には「為稀勢」の掛け軸も下げられていた。 筈やおっつけで攻めるか、左四つ右上手で攻めるかの二本立てで、17年 9月に12勝を挙げて注目度を高め、18年 7月に小結に上がるや 4場所居座った。 9月には 6日目に朝青龍を左四つ右上手からの猛攻で降し、横綱大関 6人総倒れの最後を飾っている。腰がだんだん備わるようになり、 取り口にまとまりが出始めたのがこの時期だったのだが、19年に入ってまた緩み、 7月に11勝したものの内容はなく、 漫然と立っているような土俵振りになってしまった。20年も一進一退、左四つ右上手を取って落ち着いて攻めることもあるが、 右で張って立ちながらつんのめってしまったり、腰高で脆く負けたりで、朝青龍に 2勝、白鵬に 1勝と力のあるところは見せるものの、大関候補どころか関脇にすら上がれない。 やっと関脇になった21年 3月も負け越しで陥落、三役の常連にはなったものの、まるでパッとしないのだ。 ひどいときなどは両脇ともがら空きで、何をやりたいのか分からない相撲になり、目を覆わしめた。
転機と考えるべきは、22年11月であろう。前 2場所連続 7勝どまりで東前頭筆頭に落ちて迎えたこの場所 2日目、 白鵬の64連勝を阻む歴史的大金星を挙げたのである。この場所10勝で23年 1月には関脇に戻り、また10勝した。 やっと安定した構えができるようになってきた。右の攻めにも確実性が備わった。 5月と 7月はさほどいい出来でもなかったが、 9月になって化けた。明らかに下半身が強化されたのである。突っ張りも左右のおっつけも猛威を振るい、 白鵬を左一本で吹っ飛ばしてしまったのである。11月は前場所ほどの強さというわけにはいかなかったが地力を認められ、 長く期待され続けた大関昇進をとうとう果たした。昇進の伝達を受けたのは、場所前に急逝した師匠の遺影の前だった。
この人、優勝や横綱を熱望する声を多くかけられているようだが、現在のところそのような雰囲気が感じられない。 成績はコンスタントに10勝前後、非常に安定しているが、では取り口はというと、左右からおっつけたり左四つで出ようとしたりはするが、 四つ身の恰好が悪くて攻めあぐんだり、左右とも脇がら空きで立っていったりで相撲の崩れが目立ち、大関卒業の期待は全くない。 大関成績は81勝39敗。 188cm 171kg。
244人目
鶴竜 力三郎
殊勲賞 2回 技能賞 7回
昭和60年 8月10日生まれ、本名はマンガラジャラブ=アナンダ。生まれはモンゴル国ウランバートル市であるが、出身地については平成20年11月から父の出身地であるスフバートル県に改めている。 父はモンゴル国立工業大学教授で、バスケットボール・テニス・レスリング・ボクシングといったスポーツ経験があるが、モンゴル相撲については本格的に取り組んだことがない。 だがNHKの大相撲テレビ中継はよく見ていて、小結旭鷲山らに憧れて力士志望の気を起こし、12年に行われた八角(北勝海)部屋の選考会に応募したが、あえなく落ちた。 ちなみにこの選考会に合格したのは 3人いて、そのうち幕内に上がったのが光龍、十枚目まで上がったのが保志光である。 外国人力士を 1部屋 1人に限っていた関係から、光龍は花籠(太寿山)部屋に属しての出世であった。さて落とされた当人は、このまま黙っていたわけではなく、 手紙を書いて父の同僚(日本語の教官)に翻訳してもらい、相撲協会と相撲雑誌の編集部宛に送った。これに反応したのが井筒部屋で、高校 3年で中退して13年 5月に来日して入門、11月に初土俵を踏んだ。
体力に決して恵まれていないので三段目で壁に当たり、二度に亙って序二段に落ちるなど苦労したが、16年 7月の優勝で 2年近くに及んだ三段目を卒業、 17年11月に十枚目に昇進した。新入幕は18年11月、前場所は十枚目筆頭で 9番どまりだが、何と西の 8枚目に据えられた。 角度良く当たって右四つ狙い、どちらかというと右下手が欲しい人で、下手投げを得意とした。足腰は柔軟で、低く構えてしぶとく、右に廻る足捌きが巧みで、 前捌きの上手さといい、巻き替えの速さといい、鶴ヶ嶺以来の井筒部屋のイメージを見事に受け継いだ力士といえる。 四股名の鶴竜は、鶴が鶴ヶ嶺に由来し、力三郎は関脇寺尾が十枚目に上がった際に名乗った「源氏山力三郎」から取ったものである。
しばらく幕内中堅力士として在り、20年 1月に技能賞を受けたが、11月に高見盛に寄り切られて西の溜まりに左足から落ちたとき、右足が土俵に乗ったまま、そこに高見盛が跨ってしまい右膝を痛めた。 靱帯損傷で、必ずしも重症とはいえなかったようだが、師匠はスパッと休場させて治療に専念させたのが幸いし、負傷が癒えただけでなく体力が増した。 左で上手前褌を取って右四つ、引きつけての寄り身が出てきた。突っ張りも少しずつ出てきた。21年は 3回の技能賞、 5月に小結、 7月には関脇にも上がった。 22年は相撲振りには停滞が目立ったが、 9月以降三役から下がらず、23年 7月からは関脇に定着した。この頃も鶴竜の相撲には斑があり、 右四つに組んで鋭く攻めるかと思えば、上体が立って他愛なく負けたりと、評価の難しい場所が続き、そうしている間に琴奨菊と稀勢の里とに置いていかれた。 特に琴奨菊と大関を争った 9月などひどい相撲振りで、翌場所の活躍でこれを帳消しにはしたものの 5大関となって椅子が埋まった恰好になってしまったが、24年になって 1月から横綱白鵬に 2連勝し、 3月の大活躍を受けて遂に大関に昇進した。
大関となってからは、生真面目すぎるためなのか、肩に力が入ったままで24年が暮れてしまった。 9月のみ鶴竜の実力の片鱗を示したが、本調子で取った場所はまだない。 186cm 146kg。大関成績は53勝37敗。
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