| 関脇 清瀬川 敬之助 |
10年師匠が亡くなって楯山部屋所属となり、28歳から弟子を持つ。その弟子の中には幡瀬川・照國・若瀬川らがいる。 師匠の清瀬川は「巧者揃いの伊勢ヶ濱」の伝統を創始したが、本人は巧いだけではなく実に強かった。 14年 5月の出羽ヶ嶽の鯖折りと、昭和 3年 5月新海の右内掛け、この両方で膝を痛めたことで大関は成らなかったが、 大関大ノ里との対戦成績12勝11敗 1分、大ノ里が大関になってから 9勝と全く互角で寂れかかった土俵を熱戦で盛り上げ、 また、横綱常ノ花に 3勝、横綱栃木山には最初は連敗したが、大正11〜12年の各 1月場所に勝って 2勝、 栃木山は以後清瀬川との対戦では無理をせず引き分けとした。11年のほうを再現すれば、 栃木山の左筈を清瀬体を開き小手投げから右の内掛け、さらに搦み投げを続けると栃木山たまらず横転した、というもの。 大関以降 8敗しかしなかった栃木山から 2勝したのは清瀬川だけである。
晩年に至るまで衰えを見せず、昭和 4年 1月ひとたび引退を決意しながら慰留され、 9月まで務めた。引退後は前記の通りの名人力士を多数生み出し、協会取締を務め36年 1月定年退職、42年 7月 1日没。 174cm 98kg。
| 関脇 三杉礒 善七 |
全盛は大正 8〜 9年、病で果たせなかったが大関目前という勢いがあった。 8年 5月大錦を倒し、 9年 1月関脇で栃木山を屠り、 5月また大錦を破った。 その後も常ノ花を二度倒したが、昭和に入って盛りは過ぎた。この頃には所属は片男波から伊勢ノ海と変わっている。 昭和 3年 1月、13枚目に落ちた三杉礒は初日から連勝を続け千秋楽を迎えた。 千秋楽は成長株の小結玉錦戦であったが、玉錦の決死の覚悟の前に打っ棄られて敗れ、 優勝は大関常陸岩に持っていかれた。これが最後の花で 4年 1月限り引退、10日目に断髪式が行なわれた。
全盛時 177cm 101kgの均整の取れた体で、美男でも通ったが、また頑固者でもあった。 花籠を襲名して理事や検査役を務めたが、弟子には恵まれず、戦後は藤田山を高砂に預けて隠居、26年 4月22日没。
| 関脇 若葉山 鐘 |
二十山部屋に入門し、初土俵は大正 2年 5月。腕力強く、両筈で押す一点張り。 9年 5月新入幕。脇堅く、腰を入れて圧力を下にかける押し、言うなれば「圧し」で相手の腰を砕いて押し切った。 あるいは圧力負けした相手の両足が流れて前のめりになっても、若葉山は真正直に押して押して押し出したと伝わる。 これを上位相手にもやる。栃木山と筈の押し合いを長々とやったこともあるという。 両筈押しの特性として外側から巻き込まれると押せなくなるため、出羽ヶ嶽や男女ノ川には合口が悪かった。 昭和 8年 5月引退。錣山を襲名し、33年 4月27日没。 175cm 105kg。真っ暗闇のうちから稽古していた。
「若葉山 もみじの頃に 立ち上がり」の名台詞(NHK松内アナ)はあまりにも有名。 鈍感なのか仕切りがやたらと長く、本当に自分充分になるまで立てず、その勘がまたつかめず、大事な一番になると立ち合いに失敗するのが目立った。
| 関脇 山錦 善次郎 | 優勝 1回 |
押し一本鑓。出足が非常に早く、土俵度胸もあり、立ち上がって一気に押すその押しは、まさに猪突がぴったりだった。 大正15年 5月横綱西ノ海を一遍に押し出したのをはじめ、大関時代の玉錦には 4勝 1敗と勝ち越しており、また横綱宮城山をお得意さんとし、 3連勝するなどの記録が残っている。 山錦は立ち合いがうまく、玉錦が手を下ろすまで自分は手を下ろさず、常に機先を制した。 宮城山最後の場所となった昭和 6年 1月、宮城山は初日から 3連敗、しかもすべて与金星という惨澹たる土俵に対し、一方山錦にとっては宮城山は恰好の餌であったため、 4日目に対戦したところが横綱が立ち合いから逃げて完敗。 4日連続の金星配給となった。 結局宮城山は 5勝 6敗の負け越しとなって土俵を去った。
山錦が優勝したのは 5年 5月で、11戦全勝であった。このうち押しは10勝を占める。 当時は十三尺の土俵であったことも押し相撲の山錦には幸いした。 しかし 6年 5月から十五尺土俵となってからはやや苦戦気味だった。 7年 1月春秋園事件で脱退した。 47年 5月27日没。 173cm 107kg。
山錦はぶちかますたびに鼻ッ柱を痛めるため、とうとう医者に頼んで鼻の骨を削ってしまった。驚くべき鼻ッ柱の強さである。
| 関脇 出羽ヶ嶽 文治郎 |
かつてない巨体、特に上位が怖がり、西ノ海との二戦目、喉輪の腕を引っ張り込んで二本差させ、逆に両上手を引いて潰した相撲は肝胆を寒からしむるに充分だった。 この当時は栃木山の指導が良く、精彩があった。その栃木山が引退すると、他の力士は稽古を嫌がったことから精彩を失い、 さらに度重なる故障で勢いを失っていった。昭和 3年まではどうやら頑張っていたが、 徐々に下降線となり、 8年には脊椎をも痛め、これがカリエスとなって急降下、 13年 5月には三段目に下げられた。14年 5月幕下10枚目を最後に引退。田子ノ浦を襲名して木戸に顔を出すこともあった。 23年に廃業し、焼鳥屋をやっていたが25年 6月 9日早世した。東大医学部で行われた解剖結果では、身長 195cmで体重 139kg、内臓が通常人の 2倍以上あり、 胸部及び腰部の脊椎は強度の彎曲を持っていた。
大正末期には全好角家の期待を一身に担った出羽ヶ嶽だが、出羽ノ海部屋の内部ではさほど強くないのが分かっていた。 何しろ脆い。さらに非力。幕下の天竜に歯が立たない。時折「怪力」と書いてある書もあるが誤り。 だが「栃木山がもてあました」と場所直前に噂を流す(稽古場で常ノ花を壊したという事実はあったのだが)。さらに本土俵では怪我人が出る。 相手は怖がる、というサイクル。ところが化けの皮がはがれてからの出羽ヶ嶽は惨憺たる土俵に終始した。 「番附もくだりくだりて弱くなり出羽ヶ嶽見に来て黙しけり」斎藤茂吉。 相撲は不器用の典型で、浴びせる潰す、または右手だけで突くの「二点張り」だが、手先は非常に器用で、 カメラや小鳥の飼育から、マージャン、釣り、さらにビリヤードも得意だった。 ビリヤードといえば前田山の趣味として有名であるが、出羽ヶ嶽もなかなかだったらしい。
| 関脇 錦洋 与三郎 |
黒い肌を光らせ、突き押しで先制し常に相手の陣地にあり、 相手が残れば右から掬い投げ、下手投げで倒すというはつらつとした相撲。 出羽ノ海が期待をかけていた。15年 1月には10勝 1敗の優勝同点。 東京と地方との番附が一本化され、昭和 4年 1月から 6場所連続関脇。 まさに大関への絶好機だったが、 5年 3月虫垂炎で途中休場となり好機を逸す。 常ノ花から 3勝を挙げ、大ノ里には滅法強かったが、出足の相手には分が悪かったという。
7年 1月革新力士団のリーダー格として脱退、最初の小結から第五回場所には関脇、 さらに八回には張出大関、十回には西の大関となって天竜(東大関)とともに屋台骨を背負ったが、 12年末の解散により力士を引退、35年 3月 1日没。弟の悠蔵氏は早稲田大学相撲部主将で学生横綱だった。
| 小結 真鶴 秀五郎 |
4年 1月の玉錦戦では、時間いっぱいになって玉錦の立ち合いが汚いと(片手を擦って立つため)真鶴が咎めれば、 行司は「時間いっぱいで立たぬなら負けだ」とやった。真鶴怒って支度部屋に引き揚げる。 朝日山や贔屓筋に宥められて再登場したが、立つや玉錦の頭を拳骨でぶん殴った。 流石に玉錦だって喧嘩では名うての力士、一気に寄り倒した。こんな具合で喧嘩っ早い真鶴は、 酒が入ると全く手がつけられず、幾度となく新聞のネタとなり、以前の恨みだと神楽坂の交番で酒に酔って火鉢持って大暴れ、 とうとう除名を喰って 6年10月限りで廃業となった。12年12月 4日没。
| 関脇 新海 幸藏 |
入間川部屋に入門し、大正10年 1月初土俵、出羽ノ海の没(11年 6月)により師匠が出羽ノ海を襲名したのに伴い、12年 1月から所属も変わる。 入幕は昭和 2年 5月。右四つあるいは二本差しから、相手が投げを打ってきたら足を掛ける。 外掛けも内掛けもあったが、外掛けは足の位置が高いにもかかわらず、只管掛け続け、 相手の腰が折れてしまうというものだった。これで右相四つの宮城山から 3勝している。 足を警戒して腰を引いてきたら吊りでも攻めた。その体勢に持ち込むための立ち合いが巧く、 さっと立って右から入るのは絶妙だったという。
この力士も気性が荒い。新国劇の沢田正二郎が中耳炎で亡くなったが、新海に殴られたせいだという噂が立った。 部屋では威張り散らし、12年暮れ、綾川をビール壜でぶん殴り、綾川も引退させられたが新海も辞めさせられ、 荒礒を襲名した。 174cm 98kg。26年 9月限り廃業し、その後は家族さえ何処にいるのか知らぬ状態で51年 2月17日、 煙草の不始末から川崎のアパートで焼け死んだ。
| 関脇 幡瀬川 邦七郎 |
初土俵は大正11年 5月。この小粒が、しかも非力だというのに、異常なまでの負けず嫌いと、 これまた異常な体の柔軟性を生かして、毎場所 1敗のみのペースで豪速出世した。 十枚目で盲腸のため初めて負け越すまで快調な上昇だった。入幕は昭和 3年 3月。 若き頃は天竜や鏡岩と大の仲良し、巡業では三人で猛稽古、一番負けた力士が翌日の稽古までつけ人をやるという決まりで、 決まってどん尻は鏡岩で、常に一番は幡瀬川だったという。
同じ相手に同じ手で負けるのは恥だという一念で辛辣を極めた技能相撲を展開、 独得の平蜘蛛仕切りも相俟って、まさに曲者の典型だった。 ただ、下位相手にはどうも気が入らず、また関西本場所でも気合抜けが見られたが、上位を相手に迎えれば猛烈な闘志を見せた。 立ち合いは突っ張りから出るのだが、その突っ張りは肘と手首を駆使した峻烈なもので後の大関増位山(父)が似る。 そして去なしを交え体を崩すや得意の右差し、寄りも強く足癖もあり、投げに捻りと何でもござれ。 多種多様の相撲技を切れ味良く駆使した見事過ぎる名人相撲だった。神様と呼ばれる所以である。 その幡瀬川を神様たらしめているのは、出し投げから放たれる小股掬いの鮮やかさでもある。 鮮やかという語ではまだ足りないという。右で相手の右膝を引き上げるわけだが、 それがいつやられたものかさっぱりわからない。相手はいかにも怪訝な表情をする、というわけだ。 また、本人のご自慢は、「投げは一度も喰ったことがない」ことだった。 男女ノ川が常に恐怖心にかられて惨敗を喫し、武藏山も悩まされた。 一応公式記録では全盛時 173cm 83kgということになっていた。 ところが、本人に言わせれば、大抵20貫に達しておらず、最高で20貫 800匁(78kg)。それ以上にはならなかったというから恐れ入る。 ましてや、その体で 180kgはあろうという男女ノ川(これも記録では最高43貫、 161kgということになっているが)が手玉に取られるのだから様にならぬというものだ。 ただし、玉錦にだけは全く通用しなかった。玉錦の出足は一見暴走なのだが、実は細心、幡瀬川にも隙を見せなかった。
昭和10年代に入って神通力が弱り15年 1月引退、千賀ノ浦から楯山を襲名。 理論に精通し「魚雷亭主人」なる筆名で評論の筆を執った。照國を名横綱に仕上げ、本人も「一代の傑作」とご満悦だった。 ただやや頑固で「角界の大久保彦左」といわれ煙たがられたようだ。43年 1月廃業、49年 5月12日没。 美術鑑賞が趣味で、コレクションもあったがそれもまた並ではなかったという。 力士というものは大概足の裏はひどくゴツゴツしているのだが、幡瀬川の足は異常な柔らかさ。本人も「特異体質」と笑っていたという。
| 前頭筆頭 玉碇 佐太郎 |
横綱大錦を慕って出羽ノ海部屋に入り、大正 9年 1月の初土俵。 昭和 3年 3月に入幕し、おっつけて押し、突き放してまた飛び込み押す激しい取り口で善戦、 詰めも万全、腰を下ろす形は完璧で、打っ棄られることなど全くなかったという。 当たり激しく常に前髪は擦り切れていた。この小柄と激しい押し、男女ノ川に 4勝、豊國にも 4勝、 能代潟にも 5勝、宮城山から 2勝を挙げ、錦洋も玉碇を苦手とした。 筆頭にとどまったが押しの完璧さは見事であった。
しかし 6年 5月から土俵が十五尺に拡大されたのが大いに響き、その後二場所連続 3勝止まり、 30cmの差であるがこれが押し切れず、このため15枚目まで下がり迎えた 7年 1月の春秋園事件で脱退、戻らなかった。 50年10月25日没。
「生涯四つになったのは二番しかありません」という徹底ぶり。 神様幡瀬川が手放しで褒めたのが、栃木山と大ノ里、そしてこの玉碇である。 執念を示す材料は他にもある。この玉碇の左右の手の指。薬指と小指が第一関節から大きく外側に彎曲している。 重症なところでは約80度も。武器のおっつけの稽古でこうなってしまったという。 相撲においては小指を怪我して一人前という。不便は不便だろうが、素晴らしい勲章である。
| 関脇 天竜 三郎 |
三方ヶ原の名から10年 1月天竜と改名した。いずれも静岡ゆかりの四股名ということができる。 ところが翌年常陸山が急逝、それこそ心酔していた師匠が亡くなり落胆深く、また相撲そのものにも非力が目立ち、出世は捗々しくなかった。 昭和になってから長身を生かした(最盛時 187cm 116kg)右四つ吊りと突っ張りに磨きがかかり、 3年 5月に入幕。 晩成型実力派として累進、 5年 5月には関脇となった。徹底した上手相撲で、大関級の力、またその上も狙える風格ある相撲振りで、顔も良く人気があった。
しかし、本人の言葉を借りれば「自分で幕内力士となり関脇となってみて相撲の内部生活の不合理さが、いよいよ身にしみるばかりであった」。 ゆえに天竜は革命を志した。同志獲得のため、初めて大ノ里に打ち明けたのは 6年 3月の京都場所中だった。 大ノ里は十五分ほど考え、「やろう!」と応えた。 5月場所後、天竜は高松で左親指に怪我をした。 大した怪我ではなかったが、これを機に帰京、いよいよ蹶起の秋(とき)と策を練る。 翌年 1月 6日、春秋園勤皇の間に出羽ノ海部屋の関取衆が結集、協会に改革要求を突きつけた。 大ノ里を盟主とし、天竜はその主導者として常に中心に在った。かくて刻苦 5年、固い結束こそ全く崩れなかったが、 勢威を回復した大日本相撲協会に圧されてとうとう解散の憂き目に遭った。
天竜は相撲指導者として満洲へ。満洲国武道会常務理事、角道部委員長、主任師範なる肩書を持ち、また合気道も修行し、事業は順調であったが、 太平洋戦争は敗色濃厚となり、俄かに暗雲が垂れ込める。敗戦後は満洲にいる日本人の引き揚げのために奮闘、21年10月15日に漸く帰国し、 スポーツ用品店を経営、さらにそれを中国料理点に改装、その傍ら28年 5月からテレビ東京の相撲解説者として活躍、 鋭い舌鋒で親しまれた。亡くなったのは平成元年 8月20日。昭和の相撲を初めから終いまで見通した数少ない一人ということになる。 著書に「相撲一路」「相撲風雲録」がある。天竜の革命思想の下地には「力士は協会の操り人形ではいけない」という常陸山の訓戒がある。
さて、天竜は昭和16年 6月に協会の申し出を受けて顧問となり、終戦までその任に在った。 それに先立つ15年 6月、立田川(16代伊之助)が出羽ノ海組合の巡業の先乗りとして満洲にやってきた際、 頭に浮かんだ大きな構想を伝えたものだ。即ち、本土でやっているような準本場所をごっそり満洲に持ってきて行うということである。 立田川も大乗り気、早々に帰京して幹部と交渉した。渋ったのが立浪(緑嶋)だが、 天竜は関東軍の報道班長中島少佐に頼んで協会に電報を打った。曰く、立浪がぐずぐず言っているならば伝えてもらいたい、 満洲に全力士団を持ってきて何が悪い、分からぬことを言う立浪には、今後断じて満洲での興行を封鎖する、再考を促してくれ、と。 これでは立浪も折れるしかない。かくて15年 7月の満洲場所が挙行された。 案外知られていないが、本人も知られることを望んではいない。 とはいえ、天竜は協会に恩返しをしたわけである。
| 小結 和歌嶋 三郎 |
この度胸の良さで宮城山、豊國、能代潟をよく倒す。鋭く立って離れては突っ張り、前捌きも良く右四つとなっては上手投げ、下手投げ、 掬い投げに内掛けと、豪快な技を繰り出して大豪力士を宙に舞わせて「相撲の天才児」という異名も取った。 ただし、「天才」とはただ単に褒めているわけではない。 なにしろ「稽古なんておかしくて」と嘯いたという伝説があるくらい稽古をしなかった。 それにしてもやはり天才肌、天下一品の巧さを誇った。 その代わり最高位は小結、それもたった一場所のみに終わったのは稽古嫌いのツケか。 過大に言われがちだが、まっとうに稽古をしておれば大関は確実だったともいわれる。
小結の12年 1月、男女ノ川を右内掛けに攻め、男女ノ川も切り返して倒れ軍配は横綱に上がった。 負傷を押して控えに残っていた玉錦の物言いで差し違いとなり勝ちとなったが、この相撲は実際は負けていた。 同年 6月の大阪大場所 4日目には双葉山を珍しい右からの上手投げに仕留めている。 明治大学の師範を務めていた。14年 5月引退、濱風から関ノ戸を襲名、相撲茶屋「和歌嶋」を経営していた。36年 3月 4日没。
| 関脇 綾櫻 由太郎 | 優勝 1回 |
6年10月大阪で10勝 1敗の平幕優勝。しかし地方場所の優勝のため優勝額が無く、 息子や孫に話しても信じてもらえないとぼやいていた。 7年 1月の春秋園事件で脱退したが、 8年 1月の別番附で復帰した。 10年 1月には関脇に昇進。12年 6月 9日、大阪準本場所(大阪国技館竣工記念大相撲)の初日、 横綱昇進が決まったばかりの双葉山を両差しで寄り立て、右外掛けに倒した。 これがきっかけとなり出羽一門は双葉山の足を狙う研究をし、「双葉には右外掛けが効く」という結論が出た (連勝ストップが左の外掛けだったのは皮肉ではあるが)。 準本場所は、番附には関係ないが、給金には影響するというのでどの力士も真剣に取った。 その中で連勝中の双葉山に勝つというのは大変なことである。
この大阪準本場所で 9勝 4敗の星を残した綾川( 9年より改名)は、翌13年 1月の番附にはその名がなかった。 年寄千賀ノ浦となってしまったのだ。真相は、九州の巡業で、酒癖の悪い新海に絡まれ、 ビール瓶で頭を殴られたが、暫くすると新海だけでなく綾川をも非難する動きが現れ、 とうとう両者ともに強制引退となってしまったということである。15年 1月限り廃業し、 戦後は東京で商売をしながら明治大学相撲部の師範を務め、晩年は青森県五所川原市に住んで、 57年12月 8日、84歳で亡くなった。五所川原に記念碑がある。 170cm 113kg。
| 関脇 沖ッ海 福雄 | 優勝 1回 |
均整のとれた体は柔らか味があり、左四つからの強烈な下手投げを武器に活躍。 やや猫背で出っ尻、そして若干長めの脚にも特徴があった。性格は温厚だが、土俵の人となれば闘志を猛烈に掻き立てた。 6年10月小結武藏山戦で、利き腕である右の肘めがけて頭突きをかまして亀裂骨折させ、 7年 3月には大関玉錦を上手投げで下して 9勝 1敗で優勝。 また10月には優勝者清水川と同点の 9勝 2敗の成績を残している。 しかし大関目前の 8年 9月30日、山口県の萩で、フグに中って亡くなってしまった。
横綱・大関になる器だったといわれ、「もし生きておれば双葉山の69連勝もなかったのでは…」とまで言われて惜しまれている。 182cm 116kg。師匠若藤の長女と婚約しており、部屋を継承することも決まっていた。