| 初代 明石 志賀之助 |
正徳 4年(1714)の「相撲家伝鈔」に記事があり、その後宝暦13年(1763)に出た「古今相撲大全」には、 寛永元年(1624)に江戸四谷塩町で勧進相撲が初めて行われた時に出場したと書かれている。 寛文云々は、喜多村信節(のぶよ)が文政13年(1830)に出した「画証録」の中で推定したものであるが、 逆に「明石は講談師が生んだ出鱈目の産物」という(常識的な)解釈もあれば、「伝説の明石は 2人以上の実在した明石の融合体ではないか」という説さえ出る。
「相撲鬼拳」には「明石志賀之助と申す関取、高の有し、日下開山とは是なり、勝つ人なし」とされているとはいえ、 これをもって「実在の力士・明石」を証拠立てるには弱すぎる。 「日下開山」とは現在では「横綱」とほぼ同じ意味で使われているが、 本来は「天下一の力士」というほどの意味であり、さらに遡れば「開祖」の意である。 講談で有名であり、日本の相撲の開祖という言われ方をするが、謎という闇に包まれた力士である。 身の丈 7尺 2寸( 218cm)ともいわれるが信じ難い。
従来、文献上の初出は上記「相撲家伝鈔」といわれてきたが、いろいろ引くと、ほかにも出てこないこともない。 大雑把にいって明石がいた時代というのは、寛永説・寛文説・元禄説に大別される。このうち寛文説については証拠となる材料が全くなく、旗色が極めて悪い。 寛文説は上記「画証録」のみならず、現在の山形県上山市で寛文元年(1661) 8月15日に興行を打ち、これを上山藩主が見たという記録が「上山三家見聞日記」及び「上山見聞随筆」にあるので、 明石が存在した証と捉えられそうである。残りの元禄説については、宝井其角の付合句に「志賀之助男盛の春立てや(元禄 9年(1696))」及び「それより志賀之助の上こすものなし(宝永元年(1704)」とある他、 浮世草子「好色姥桜(元禄 5年(1692)刊。諸分姥桜とも。のち傾城千尋之底)」序に当時の人気俳優らの名と並列の形で「明石。志賀か。曲相撲」という記述がある。 各々志賀之助が明石であるとか、明石志賀が明石志賀之助の略称であるとかいう仮定が正しいかどうかの検証が必要であり、 また初っ切りに類するものである曲相撲と明石との関連も調べる必要があろうけれど、この時代にも明石はいたろうと推測される。 ただし40年の差と、察せられる相撲ぶりの差から考えて、既述の解釈のうち、「(常識的な)」としなかったものの方が有力であろうという印象が濃い。
| 2代 綾川 五郎次 |
三ヶ津(江戸・京・大坂)で人気があり、江戸の力士が大阪でこれほど贔屓の多いのは珍しいと言われたというように伝わる。 「相撲今昔物語」にはこの他に「土俵へあがりて、にこにこ笑ひ、見物はただ、綾川さま、綾川さまと声かけて誉めたり」と記され、その人気の高さが窺える。 元文 2年(1737)、強豪大関の讃岐の相引を土俵に這わせ男を上げた。
寛政元年(1789)谷風・小野川の横綱免許の時会所から伊勢ノ海が幕府に出した書類の中に、 「その儀は先年、丸山権太左衛門、綾川五郎次などと申す者ども、右横綱伝授申請候儀にご座候…」という件があって、 それが第 2代横綱説の(薄弱ながら)根拠となっているが、これは谷風・小野川の横綱免許の際に、拠るべき先例が必要となったために吉田司家故実門人の中からある程度有名な綾川と丸山を引っ張ってきたに過ぎない。
どうやら綾川は享保・元文・寛保・延享にかけて(1730〜40代)の相撲の名人だったらしい。明和 2年(1765)正月22(或は23)日没。
| 3代 丸山 権太左衛門 |
若いころから非常なる大男で、領主が興味を持ち、家老の下僕として江戸に同道させたが、歩行が下手くそで草鞋を踏み切って道中難儀、 馬に乗れば足が地に着いてしまうとか何とかでダメ、結局帰るのを諦めて相撲取りとなったらしい(「むかしばなし」)。 七ッ森という仙台出身の力士の下で修行。頭の上に大きな瘤があったところから丸山という四股名となったというし、 また仙台丸山の産だから丸山となったともいう(「むかしばなし」)。 元文 2年(1737)大坂に上って西大関を務め、寛延 2年(1749)の大坂興行の時もやはり大関だから、かなりの持久力だ。 力はあくまで強く、技は知らないが、ただ両手で突っ張るだけで相手は堪えられなかったという(「むかしばなし」)。 また、五斗俵に筆を差し、その俵を持ち上げて字を書いたりしたと伝わる。
こうした強豪力士に似合わず、風流の道もよくし、「ひと握りいざまいらせん年の豆」の句を手形によく添えたという。 巴重の号があった。
寛延 2年(1749) 8月、師匠と同道して熊本に赴き、吉田司家の故実門人となった。 横綱を許されたとされるが、これは単なるこじつけで、横綱と故実門人とに直接の関係はない。
同年10月には熊本藩抱えの大関阿蘇ヶ嶽とともに長崎に乗り込み、小島で興行を打って人気を集めたという。 この興行は京坂で活躍する力士と土地の力士がうち揃った盛大かつ豪華なものだったが、当の丸山は体調不良で相撲どころではなく、 薬を飲んで療治していたが、左手の三指が麻痺し、下旬になって大いに悪化、11月 6日夜には昏睡に陥り、 8日に持ち直したが、13日晩に病俄に革まり、 翌14日に歿した。九州で赤痢が流行したという記録があるところをみると、丸山はこれに斃れたものだろう。13人の医師による診断書も現存する。
身の丈 197cmと伝わる。体重 170kgという。勝敗は不明。