横綱伝 14代〜18代
14代 境川 浪右衛門優勝相当成績 5回

 「横綱濫造時代」の横綱で唯一の公認横綱である第14代横綱境川浪右衛門は本名を宇田川(のち市川)政吉といい天保12年(1841) 4月 8日に千葉県市川市に生まれた。 3歳の頃から大柄で 5歳ほど上乗せしてもバレなかったという。13歳で江戸新川の酒問屋「小西屋」に奉公に出たが、 体も大きいし、四斗樽を楽々担ぐのを見た主人が、出入り先の大関境川のもとに送り込んだ。

 入門は安政 4年(1857)。小西川の名で前相撲から取り、文久 2年(1862)11月四方山と改めた。 前者は奉公先の屋号、後者は同じく銘酒の名に因む。狂歌師の四方赤良(蜀山人)もこの酒の名に由来する。 慶応元年(1865)11月幕下で師匠ともども姫路藩の抱えとなり、増位山(ますいざん)大四郎と改名した。 3年 4月入幕。明治元年11月小結。 2年 4月関脇。 3年 4月大関と、順調な出世であった。 そのとき師名を継いで境川大四郎となり、尾張徳川家の抱えと変わり、11月には境川浪右衛門と改めた。

 境川は大関たること 8年、 9年12月の天覧相撲に因んで京都五條家から横綱を免許された。 熊本の吉田司家には「西南戦争の直前に出かけて免許を受けた」という記録があるともいうが、 どうやら司家の免許は出なかったらしく、10年 2月に「承認」の形を取った。 23世追風の吉田善門は西郷軍に従軍、熊本城攻撃から田原坂戦にも参加したが武運拙く捕らえられた。 こんなことから司家の権威は失墜、江戸幕府崩壊以来京都五條家が盛り返し、訳の分からぬ横綱を濫造した。 横綱境川はこんな混乱期に誕生し、並み居る「濫造横綱」を押しのけて唯一「公認横綱」の栄に浴した横綱なのである。

 14年 1月限り引退、 5月の天覧相撲を名残とした。固太りで力が強く、吊り出しや腹櫓が得意、腹にかかったら相手は諦めたという。 ただ積極的でなかったのか引き分け預かりが多い。察するに相手にさんざん取らせておいて振り飛ばす後年の常陸山的取り口だったのだろう。「明治の谷風」とも言われた。 170cm 128kg。横綱免許後の成績は20勝 8敗20分 3預30休。年寄境川となり相撲長にもなったが、酒で体を壊し20年 9月16日没。

 師匠の娘を娶ったが、この妻に浪費と不貞の噂が絶えず、子が生まれたがすぐ死ぬなど家庭的には不幸だった。 境川は愚痴一つ言わず、晩年は茶の湯、俳諧に親しんでいた。 郷里のために相撲興行を催してもいる。横綱時代、近くの大鷲神社にある小さな鳥居に向かって四斗俵を放り上げ、向こうに走っては受け止めていたという。


15代 梅ヶ谷 藤太郎優勝相当成績 9回

 堅実無比の左筈からの寄りを得意とし、引退後は雷として協会を統帥した大横綱第15代横綱梅ヶ谷藤太郎は、本名を小江藤太郎といい弘化 2年(1845) 2月 9日に福岡県杷木町に生まれた。 赤ん坊のとき石臼を引きずって這って歩き、稚いころから菓子よりも酒を好むという怪童(?)で、なんでも母乳の代わりに酒で育てられたとやら。 そんな評判を聞いた近所に住む大坂相撲の世話人をしている不取川清助という男がもらいに来た。嘉永 5年(1852)のことである。 12歳ごろから寺子屋に通い、相撲も取るようになり、16歳の頃には「筑前無敵」といわれるほどになった。 当時の名は梅ヶ枝。17歳になって、大阪相撲が巡業に来たので飛び入りで参加すると三段目あたりでは梅ヶ枝に歯が立たない。 いよいよ力士を志し、文久 2年(1862)、不取川を通じ湊部屋に入った。

 梅ヶ谷を四股名とし、最後まで通した。 3年 6月初土俵で、「三五(大坂では給金これ即ち階級呼称。 1日につき35匁の給金である。以降50匁まで 5匁刻み、それから上は10匁刻みで、最上位の大関は 100匁)」なる位置に出たというのだが、 番附にその名が見当たらないという。慶応 2年(1866) 5月、二段目から中頭に上がった梅ヶ谷の給金は大きく飛んで50匁となる。 明治 2年 3月、陣幕らによる改革番附が出たが、梅ヶ谷はここでいきなり小結に飛ぶ。 3年 3月には大関に飛ぶ。 その間わずか 4敗しかしていない。

 同 3年冬東京に出る。実力者の玉垣の弟子となった。ところが附け出された地位が「本中」。序ノ口以下である。陣幕らが大阪に去ったことについては裏切りと見られ、従って怨念が強いため、大阪大関とても蔑まれたものである。 梅ヶ谷は当然圧倒的に強く、 3日目から幕下格となり 4年11月には十枚目格に張り出された。 7年12月入幕、10年 6月小結、10年12月関脇、12年 1月大関となり、第一人者として17年 2月、五條家と司家の両方から横綱免許が下りた。 「横綱濫造時代」の終焉を告げるものである。 3月10日、天覧相撲が催されるのに先立ち伊藤博文が金を与えて三本一組の化粧廻しを作らせたのは有名。 また割りでは大関楯山を叩き込み、天皇のお好みとして大達と取って、これが凄い水入りの大相撲。遂に引き分けた。 18年 5月限り、11月の天覧相撲で西ノ海に寄り倒されたのを最後に髷を切り、雷となった。58連勝、 1つ黒星を挟んで35連勝の記録を残す。 176cm 124kg(横山健堂著「日本相撲史」には 182cm 150kgと書かれているがとんでもない)。 免許後は10勝 2敗 3分12休。在位 3場所うち出場 2場所なので記録としての価値はあまりないが掲げておく。 突っ張ってから右上手を浅く引き、右から崩して左筈で寄る堅実な取り口だった。

 22年取締となり、弟子の梅ヶ谷が引退した際に雷を譲り自身は廃業したが、協会は「大雷」の尊称を贈り、元老として遇した。 昭和 3年 6月15日の没は弟子よりさらに半年あと。


16代 西ノ海 嘉治郎優勝相当成績 2回

 三人にわたる横綱西ノ海の初代、泉川以外にこれといった決め手を持たなかったが、 それだけでなかなかの持久力を見せた第16代横綱西ノ海嘉治郎は、本名を小園嘉次郎といい安政 2年(1855) 1月 3日に鹿児島県川内市に生まれた。

 青年期から土地相撲で鳴らし、力士を志してまずは大阪の朝日山を訪ねたが、巡業中で誰もいない。 思案の末、宿の主人に勧められて京都に上り、鯨波の門に入ったのが明治 6年 8月だった。 西ノ海嘉治郎を名乗り、 7年 7月(但し興行は延びて 9月、三都合併となる)西三段目に出る。 9年 9月入幕、12年 9月の大阪での合併相撲では関脇である。 ところが西ノ海は高砂改正組が巡業している際にはそちらに参加して高砂の知遇を得ていた。 14年 7月、大阪に来た高砂は、京阪合併相撲に出ている西ノ海に東京行きを促す。かくして12月に上京し、 15年 1月幕内格番附外で出発(普通は二段目格に出すのが慣例だが、高砂の粘りで幕内格となった)、 5勝 1敗 1分 2休と実力を示す。 16年 5月小結、翌年 5月関脇、18年 1月大関となった。同部屋の強豪大達より 1年早く大関となったのだからその強豪ぶりがうかがえる。 ところが19年 1月その大達に大関を譲って関脇に陥落。さらに小結に落ちるが、23年 1月大関に返る。

 西ノ海はこの年 3月に横綱を免許され、 5月の番附では初めて「横綱」の文字が載った。 それまでは横綱を免許されても番附面には「大関」として掲載されていた。この場所より 4大関となり、小錦より成績の劣る西ノ海は張り出されることになった。 しかし横綱免許を受けた者が張り出されるということに納得のいかない西ノ海は、散々ごねた。 この収拾策が、「横綱」表記だったわけである。

 西ノ海は決して素晴らしく強い横綱ではないが、撓め一本槍で大崩れを見せない安定した力を示し、 7年に亙って横綱を務め、29年 1月引退。 年寄井筒を継ぐ。 176cm 127kg。横綱免許後の成績は44勝13敗 1分 2預48休。幕内では一度も負け越していない。 またいつも自分の出番までは高鼾で寝ているという実に豪放な性格であった。 「藩閥横綱」と呼ばれていたが、維新後まだそんなに時を経ておらず、薩州の勢力が非常に強く、そうした圧力が横綱免許に影響したというような言われ方をした。 そのためか鹿児島出身力士はみな井筒部屋に送り込まれるようになり、その後 2人の横綱西ノ海、鶴ヶ嶺、そして最近の大関霧島などに続いているのだ。明治41年11月30日没。


17代 小錦 八十吉優勝相当成績 7回

 色白の柔らかい体で出足一気の寄りを得意とし、「狂える白象」と形容された第17代横綱小錦八十吉は、本名を岩井八十吉といい慶応 2年(1866)10月15日に千葉県横芝町に生まれた。

 父は米穀商を営みながら土地相撲の大関を張り、小さいときから肥満体の息子を本職力士として何とか大成させたいと、高砂に弟子入りさせた。 修行の辛さに驚いて何度も逃げ帰る。父の励ましで再入門し、小錦の名で前相撲から取り、明治16年 5月序ノ口に載った。 出世は大変な速さ、響矢の薫陶よろしきを得て急上昇。21年 1月十枚目、 5月には入幕した。 2場所で小結。 また 2場所で一気に大関へと躍進。入幕から負け知らずで39連勝、十枚目からだと41連勝を数える。 行司が「はっけ」と声をかけ、「よぉい」と言い終わらぬうちに勝負を決していたというほどの速攻であった。 立ち合いから突っ張って突き切るのが得意。叩きも吊りも投げも捻りもある万能型だった。 こんな激しい敏捷な相撲に加え、白皙の肉体に温和可憐な容貌、性温厚無邪気で頗る人気が高かった。 司家免許は29年 3月、五條家免許は同年 4月。この時東京では「小錦織」という織物が発売されるほど人気は沸騰した。

 さて横綱に上がった頃から成績は下がり始めた。ちょうど師匠の高砂が脳病のため臥せった頃である。 小錦は孝心深く看護に一生懸命になった。土俵のほうは精彩を欠いていった。 30年 1月、新入幕の荒岩と初日に対戦、蹴手繰られてでんぐり返り、翌場所も同じく蹴られて転んだ。 小錦の上昇時分には周囲は古典的とも言うべき四つ相撲が主で、小錦ほどの速攻力士は稀であった。 ところが、小錦よりさらに敏捷な荒岩が登場してきて小錦は苦しんだ。おまけに、重くて素早くて柔らかい梅ノ谷にも勝てない。 加えて33年 1月、師匠高砂の脳病が悪化、小錦の土俵も入幕以来 2度目の不成績、そして 4月に高砂は死す。 小錦は二度と土俵に立たなかった。引退は34年 1月限り。強かったのは大関までであり、わずか 6敗しかしていない。 しかし横綱として37勝17敗 6分 3預27休の成績は、やや不本意か。初日によく負けていた。 168cm 130kg。 全くの小心者で、出場が近づくと少しも落ち着かず、矢鱈と煙草をふかしていたという。

 小錦は小説を読むのが大の趣味。新刊の書籍は兎に角買い漁った。調子をつけて朗読するのが好みで、 雨が降ると梅ノ谷(二代梅ヶ谷)や荒岩が聴きにやってきた。小錦の部屋はまるで貸し本屋の如く本のぎっしり詰まった書棚が並んでいたという。

 引退後は二十山を継いで髷をつけたまま検査役を務め、取締となり、腰低く、誠実な人柄で人望を集めた。 大正 3年10月22日没。


18代 大砲 万右衛門優勝相当成績 2回

 巨人横綱、「分け綱」第18代横綱大砲万右衛門は本名を角張萬次といい明治 2年11月28日に宮城県白石市に生まれた。 13歳で 6尺を超え、四斗俵を左右に軽く 1俵ずつ下げて歩き評判となる。

 尾車部屋に入門したのは17年で、 5月初土俵。三沢滝の名で前相撲から取る。 地元では図体と剛力が話題になったにもかかわらず、不器用で腰が弱く、自分の図体を持て余してさっぱり勝てない。 19年 1月など全休である。 5月、師匠が勧進元となった場所、お情けで新序出世という始末。これは「お蔭出世」といい、 勧進元が自分の弟子を一人だけ出世させることができるというものである。

 三段目に進んだ22年 5月から実力が安定、自分から動くと失敗が多いため、遠くから突っ張って徐に引っ張り込み、力を利して振る相撲を取るようにしてこれが当たった。 23年 5月幕下。25年 1月十枚目入りして 8勝 1敗 1分、 5月めでたく入幕した。 この場所 3勝 6敗のボロ負けだが、こちら西方は兄弟子大戸平以外大関以下総崩れで、 翌場所の26年 1月にはなんとまあ小結である。27年 1月関脇。病気がちだったが、31年頃から安定してきて、32年 5月に大関。 34年 4月司家から横綱免許が下りた。

 横綱初期にはなかなかの成績を挙げたが、日露戦争に志願して従軍。 その後はリウマチに悩み、また38年 5月 3日目若左倉に不覚の黒星を喫してから負けることが恐くなり、左上手を取って防備を固めた。 そして40年 5月「九戦九引分」の大(珍!?)記録を残すに至った。 本人曰く「私はいつも雷(梅ヶ谷)さんから、横綱は決して負けてはならぬものだと言うことを聞いていた。 …それにしても向こうが死力を尽くしてぶつかってくるのを我慢して喰い止めているというのも、並大抵の努力ではなかったことをお察し願いたい」と。 197cm 134kg。横綱成績34勝 7敗29分 2痛分54休。最後の 4場所(全休は除く)は 4勝 2敗25分という「引分大バーゲン」である。 41年 1月引退。

 敏捷性は全くないが、「うおっ」と一吼えして立つやガバッと右四つに捕まえ押さえつけて離さず、 相手が草臥れたらジリジリと寄る、或は突っ張って突き倒すか真下に叩き落とすこともあった。常陸山も組んでしまうと動けず、 大砲本人も常陸山が相手だと安心だった。また、骨が出ていて毛深いので、頭をつけると額の皮までむけてしまうと相手は歎息した。 横綱になった折、とめ名であるはずの同郷の大力士名「谷風」襲名を勧められたが「将来の笑い者になりたくありません」と恐縮するばかりであった。

 外見に似合わず神経は細かく、頭の回転も早く、算盤と五目並べも得意とし、論客でもあった。  年寄待乳山となってからは検査役を務め、また出羽ノ海(常陸山)の懐刀として活躍し、巡業の売り込み名人といわれた。 だが大正 4年胃潰瘍で入院、死亡説まで流れるほどの重病で、その後も体調はすぐれず、背中にできた瘍が大きくなり、 5寸にもなって切開手術をした。 これはうまくいったが、糖尿のため弱っており、 7年 5月27日に亡くなった。

 また肺活量と握力は測定不能だったとの由。焼芋 2貫程度を食べるのが大のお気に入り。相撲記者と挿絵画家とで組織していた「角美会」例会が尾車部屋で行われたとき、 尾車の希望で寄せ書きを行ったことがある。平福百穂画伯(岩波文庫の表紙デザインでも有名)は国民新聞にいたが、 この人が大砲の塵浄水の後姿を描いた。すると都新聞の新井芳宗画伯、そのお尻から薩摩芋大のものが落下するところを書き込んで一同を爆笑させた。 大砲本人も大笑いして「これやァ、わしの家の宝物にするよ」と言ってくるくると巻き懐中に入れた。これが大砲自慢の逸品だった。


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