| 19代 常陸山 谷右衛門 | 優勝 1回 優勝相当成績 7回 |
さて27年 1月師の名をもらって常陸山となり、28年 6月幕下に進んだが、女性関係(師匠の姪だという、おまけに失恋)のことで師匠と気まずくなり、 夏、伊勢路の巡業中に脱走して名古屋へ、29年には大阪相撲に走り、中村部屋に所属する。 この間帰参の念やみがたく、後援会が間に入って復帰を許されたのが30年春。
5月幕下付出で、以前より数段強くなって再起した。幕下になど敵はおらず、「幕内上位以上の実力」と囁かれる。 32年 1月に 4枚目に入幕、 8勝 1分で「大関級の実力」と騒がれる。33年 5月関脇、34年 5月大関。 そして36年 5月場所後に横綱推薦となった。
さてさて番附編成会議で満場一致で常陸山の推挙が決まりその旨伝えると、 常陸山しばらく考えて「できることなら、僚友梅ヶ谷と同時推挙が望ましい」と希望した。協会ではこれを了承し、恐る恐る吉田司家に申請すると、 司家はすんなりと認めた。二人とも横綱たる条件を充たしていたからに他ならない。 40年 8月、常陸山は門弟三人を連れて渡米。41年 1月を休場するなど本来横綱としてあるまじきことなのだが角界に常陸山の勢威に抗い得る者がいなかったという事なのだろう。 大統領T.ルーズベルトと会見してきた。専ら弟子の養成に力を入れ、現役中その名声を慕って集う若人は百人を超えた。 大正 3年 5月限りで引退。出羽ノ海を継いだ。 175cm 146kg。横綱成績83勝10敗17分 2預97休。
その取り口を聞くに、相手に押させてそれを片足で受け止め、「ほらほら」などと言いながら逆に撓めて土俵を横断してポーンと飛ばしてしまうという。 剛力の大蛇潟を泉川に撓めて振り飛ばすと大蛇潟は遥か後方に倒れ、 太刀山の鉄砲をまともに胸を張って受け、飛び込んで左を差すや捻って転がした。全盛時代の強さたるや恐るべきものだった。 「泉川という手は、平気で敵を、した手にはいらせて撓め出すんですから、利益の手だと思います」と言っているが、これは生来の強力あっての技である。 能見正比古氏は、常陸山にしか為し得ない横綱相撲が模範とされ、その後の何人の横綱が犠牲となったことかと嘆く文章をよく書いていた。 この点で考えると、鳳や安藝ノ海などは犠牲者の典型であろう。「非力だけれども相手を取りこなす巧さ」を売り物とする場合(これは安藝ノ海や旭富士が該当する)、 「横綱相撲=常陸山の相撲」の式には絶対に当て嵌まらず、常陸山式横綱相撲が信奉される限り、仮借ない集中砲火を浴びることになってしまう。
引退後取締として協会を統率。大出羽ノ海部屋の総帥としては 3横綱 4大関を輩出し、史上空前の繁栄といわれた。11年 6月19日没。 著書に「相撲大鑑」がある。常陸山は艶福家としても知られ、認知した子どもの数が徳川家斉に劣らなかったとか。その土俵入りは全く豪放、せり上がりの武骨なること無類であった。 また、土俵中央での拍手の後双腕を広げるは異端中の異端であり、初披露のときに間違えて周囲が肝を冷やしたというが、 司家のほうが古い資料を漁り、恐らく不知火諾右衛門が両腕を広げている錦絵を掘り出したのであろう、「過去にもあった」ということになり、 もともとまるで気にかけてもいなかった常陸山のこととて、果然最後まで押し通してしまったのである。ところがあろうことか継承者は誰もいない。
| 20代 梅ヶ谷 藤太郎 | 優勝相当成績 3回 |
天性の肥満児で、23年夏、横綱西ノ海・大関劔山一行が巡業に来た折、 家に出入りする理髪師と一緒に相撲見物。少年、初めは怯えていたが、逆に興味を持つようになって自分でせがむ始末。 さて土俵入りを終えた劔山は、見物の肥った子に気がついた。巡業 4日目、大関は理髪師に、この少年を支度部屋に連れてくるよう一つ耳打ち。理髪師はすっかり有頂天。 少年も「どうせなるんなら、西ノ海のような横綱になりたいな」と向こうから切り出されるまでもなく言い出した。 逆に慌てるは理髪師だ。押田家に急ぎ報告したが、祖母は大反対で、父も反対したものの、 劔山の師匠である雷(梅ヶ谷)が話を聞いて大乗り気、引き取って養子とすると言うのである。 こうこられたもので、父も折れた。
24年 1月頃、雷は鬼ヶ谷をコーチ役に任命、英才教育を施した。当時鬼ヶ谷は40近くの老練である。 梅ノ谷は自分も稽古をやろうとしたが、如何せん祖母の溺愛の下に育ったこともあり、からっきし駄目でコロコロコロコロ。 師匠もこれは危ないと悟り、基本の鍛錬ばかりやらせた。しかし本人は土俵での稽古を熱望、鬼ヶ谷も仕方がないので軽く軽く稽古をつける。 だが意外や技の覚えは早い。それで(確実な記録ではないが) 5月の前相撲への出場を認められたという話である。
梅ノ谷の名で取り、序ノ口に入ったのが25年 6月。30年 1月には十枚目。31年 1月に何と 5枚目に入幕し、鬼ヶ谷( 7枚目)を追い越していた。 32年 1月小結、 5月には関脇。33年 5月大関と常陸山より 1年ずつ早い。 35年 1月師匠の現役名を許され梅ヶ谷を名乗る。「ノ」と「ヶ」の違いだが、 重みがずっと違う。36年 5月場所後、常陸山とともに横綱を許された。 24歳 6ヶ月の横綱免許は当時の最年少記録であった。
こういう体つきの力士は持久力がないといわれる。だが梅ヶ谷は横綱を張ること実に12年の長きに及び、常陸山より 1年長く務め大正 4年 6月を最後に引退して、雷を継いだ。 168cm 158kg。横綱24場所の成績は90勝13敗37分 1預88休。優勝相当 3回、同点相当 2回であるが、 数字だけを見ると判断を誤る。相撲は名人と評され、肥体でありながら動きは敏捷、四つ身の正攻法の極致を見せた。 自分の相撲はいつも詳細に説明、分析したという。ただ晩年は神経痛に悩み思うようには働けなかった。 引退後は検査役、取締を歴任したが、昭和 2年 9月 2日没。先代より 1年早く亡くなった。なお現在俗にいう「雲龍型」の完成者ということになっている。 映像を見るに、完成とは言い切れないが(二代西ノ海や栃木山とやや異なる)、確立者とは言えるだろう。 スーッと流れる麗しさと、止まるべきところでは止まる端正さとが調和した型であった。
ではコーチの鬼ヶ谷はどうしたかというと、梅ヶ谷と猛稽古を繰り広げること実に15年、コーチになった頃の小結を最高に51歳まで務めて明治40年 1月で引退した。 大阪での初土俵以来30年の土俵生活であった。田子ノ浦として梅ヶ谷に仕え、梅ヶ谷の死後 4年の昭和 6年 2月 2日に亡くなった。 節分の豆撒きをしていて梅ヶ谷が威勢良く「鬼は外」とやっていると、そこに鬼ヶ谷が来た。 梅ヶ谷は流石に「鬼は外」と言えず、「福は内」とばかり言っていたそうな。
| 21代 若嶋 權四郎 | 優勝相当成績 4回(大阪) |
13年に東京は深川の八百屋に養子に出、加藤姓となる。体が大きいところから、当時八丁堀に住んでいた大関若嶋の預かりっ子という形で角界入り。 まずは茨城県真壁町の土地相撲に修業に出された。 5年の後、成長して帰ってくるや、松若大五郎で23年初土俵。24年 5月序ノ口。 師匠が亡くなり、友綱部屋所属と変わる。28年 6月十枚目。このとき粂川門下に移る。29年 1月入幕、四股名を松若から楯甲と改める。 この改名には裏話がある。24年10月、岐阜県大垣を巡業中、濃尾大地震に遭った。 この時兄弟子の楯甲久四郎が、松若を庭先に突き出したために松若は助かったが、楯甲は圧死した。 この恩にあやかって楯甲大五郎に改めたのだという。
巷に話題が広まって人気に拍車がかかったが、成績は伸びず、幕内下位を往復する。 何しろ男前で声も良くて、もててもてて酒浸り、花柳界にも入り浸りで稽古はろくすっぽしないのだ。 この頃の相撲は突っ張って叩くというものであった。30年 5月、師匠の名である若嶋久三郎とするが、 天然痘に罹り芽が出ず、31年 5月を前に熊本で脱走、髷を切り、大碇を頼って京都の草風部屋へ入り、その後大阪の中村部屋から声がかかって移動、そこに落ち着く。 そして31年 4月幕内附出(悶着があって実際は幕下十枚目格に下げられた)でスタート。大阪大関若嶋幸右衛門がいたが、わざわざ 5代目秀ノ海に改め「二人若嶋」を避けるほどの期待の大きさであった。
東京ではまるでダメだったが大阪では強いのなんの。東京では幕内も覚束ないほどだった筈が、実力そのものも向上していった。 33年 6月小結。 1場所で34年 5月にすぐ大関。従前の説では36年 1月五條家から横綱免許とされているが、如何せん証拠がなく、最近は吉田司家準免許と解される。この時大五郎を權四郎とする。 38年 4月司家から本免許が下りた。常陸山には勝てなかったが大砲や梅ヶ谷などとは互角以上に渡り合うまでに地力をつけていたのである。 32年 5月から36年 1月まで35連勝。突っ張りが強く、この頃には右四つの寄りには定評があった。蹴手繰りや出し投げもある派手な土俵、百発百中の切れ味は、東京の三役をも脅かす代物だった。
ところが38年 9月、山口県での巡業で自転車を運転中、坂道を下りながら後ろを向いたためハンドルを切り損ね、溝に頭から突っ込んでしまった。 39年 9月の東西合併大相撲も初日から休場していたが、 8日目から出場。 体調不充分ながら太刀山の突きを堪え、右差しての寄り身からの下手投げの連発に太刀山を屠った。 その後、四股を踏めば脳天に響くほど悪化し、40年 1月限りで自ら髷を切った。 横綱成績は司家本免許後は 8勝 1分27休、司家本免許前も合わせると33勝 3敗 3分42休。 178cm 107kg。
引退後、一旦は一代頭取となったが、41年 6月限りで廃業して劇団を経営、興行師となった。 ところが経営は大雑把の人任せ、巡業生活も大正初め頃には行き詰まり、苦慮しているうち、 8年 7月、米子の御幸座経営の話が持ち込まれ、 引き受けて神戸から移住した。おまけにここを拠点に社会奉仕事業も展開、ますます財産を蕩尽して昭和 3年には御幸座を手放すことになった。 撞球場を開いて細々と暮らしたが、金には全く頓着しなかった。大正14年に米子(当時は町だった)の町議会議員に当選、貧乏の筈なのに社会奉仕事業の規模は馬鹿でかく、 太平洋戦争中には横浜に遺族会館を建て、靖国神社には大鳥居を建てた。立浪の招待で東京の相撲協会へ向かう途中、神戸で脳溢血に倒れ、昭和18年10月23日没。
| 22代 太刀山 峰右衛門 | 優勝 9回 優勝相当成績 2回 |
家では農業の傍ら製茶業を営んでおり、老本家の茶はどこの品評会でも一等賞を取った。 昔は茶は手で揉んだが、弥次郎の怪力は針のような優良品を生産したのだ。 徴兵検査の折、五斗俵 4つを括りつけて持ち運ぶ金剛力が新聞に出て「化け物」と騒がれた。 31年夏、友綱(海山)が角界入りを勧めたが相撲に興味がなく、また家の事情もあり固辞した。 そこで友綱は後援者の板垣退助に頼み込んで、そこから内務大臣西郷従道へ、さらに富山県知事へと連絡をつけ、 漸く「一大国家プロジェクト」で入門にこぎつけた。32年 2月のことである。 郷里の名峰立山と「ヒタチヤマに迫れ」という願いを込めて太刀山とつけたのは、やはり板垣である。
怪我で遅れたが33年 5月初土俵。幕下附出である。35年 1月十枚目、36年 1月入幕した。 このころはまさに夢中で、立ち合いに変わられ面喰らったが上手を取るや掴み投げで勝って、 板垣伯の桟敷に来て「いまどうやって勝ちましたか」と聞いたとやら。38年 5月関脇。 ところが梅ヶ谷・大砲・荒岩・國見山という強豪がいて上がつかえ、大関になったのが42年 6月。 44年 6月新横綱。この間五連覇。また、黒星一つ(西ノ海に引き落とされたもの)を挟み43連勝と56連勝を記録した。
43年 6月、小結の小常陸が太刀山と対戦するにあたり、小常陸の後援者は一計を案じほくそ笑んだ。 太刀山を宴会に呼ぶと太刀山はやってきて酒を呑みいい気分で変わった芸者と相撲まで取った。 太刀山も所詮人間だ、精も根も尽き果てて小常陸のぶちかましに「腰砕け」… という計略だったが、小常陸が当たった次の瞬間小常陸は太刀山の前から消えていた。 小常陸は東の桟敷上空を空中遊泳し通路の仕切り板をメリメリと突き破り、右足負傷で休場と相成ったのだった。
長く独走時代を続けるが、栃木山・大錦に敗れ、さらに矢筈山との稽古で折った足の負傷が完治せず大正 7年 1月限りで引退した。 いまの「不知火型」を大成させたのは太刀山である。 185cm 139kg。横綱成績84勝 3敗 1分 1預51休。 東関を襲名し部屋を興したが、検査役選挙に落選し角界に失望して部屋を高砂に譲って廃業した。 その後は巨万の富を擁して悠々自適。立浪(緑嶋)と親交が深かった。また赤い綱を締めて還暦土俵入りも行っている。 絵もうまく「太刀山の富士」として有名だった。太刀山は力士としては珍しい節食だった。昭和16年 4月 3日没。 大正 6年 1月に詠まれた狂歌「太刀山が負けてくれれば儲かると号外売りがかげでひそひそ」。
| 23代 大木戸 森右衛門 | 優勝相当成績10回(大阪) |
西宮附近の子供相撲の大関として鳴らし、武庫川・内田山と名乗っていた。のち17〜18歳頃には沖仲仕の仲間となって小野浜で荒仕事をやっていた。 この小野浜は草相撲が盛んで、近在に内田山の名は知れ渡っていた。日清戦争には近衛師団管理部担夫として台湾に従軍、人夫の中には東京力士が多かった。 自分も力士を志し、知り合った大阪力士の紹介で、帰国後に湊(黒柳)部屋に入る。半年ほど稽古をし、大城戸平八の名で29年 9月見習(序ノ口格)、いきなり全勝し、 31年 4月序二段、10月(この年のみ特別に 2回興行)に三段目に昇って大木戸とし、翌年 6月下の名を森右衛門とする。33年 6月幕下、35年 6月十枚目。36年(この年から年 2回興行) 1月に入幕し、 37年 1月小結で横綱若嶋を上手投げで破り人気沸騰、 5月に関脇でまた若嶋に勝って38年 1月大関となる。その間、黒星 1つを挟んで28連勝と19連勝を記録、負傷引退を余儀なくされた横綱若嶋に代わり、大阪は完全に大木戸の天下となった。 さらに41年 6月から42年 5月まで 3場所連続全勝、ここで横綱問題が起こった。 両手突きが強く大概は二突きに相手を飛ばし、右四つがっぷりになっても吊りや投げに強みがあった。
大木戸は36年から 3年間常陸山一行と巡業したが、常陸山に気に入られ、大木戸自身東京へ出ようともしたほどである。 けれども若嶋を失った大阪は大木戸をも失ってはたまらない。頭取の朝日山と湊が常陸山の許に出向いて断りを入れたということもあった。
さて横綱問題、吉田司家に申請書が出されたが司家は許さず、博多での合併相撲の結果を見た上でということになったが、 大木戸は慎重になりすぎたか今一つの成績、大木戸を贔屓した熊本市長等が司家に斡旋し、司家は東京横綱加判の上で再度申請をするよう大阪協会に言った。 しかし大阪協会内部には、前記の件で常陸山に対し不快感を持つ頭取がいる。若嶋だけの加判で免許を強引に得ようとしたため、とうとう決裂した。 それならと大阪協会は43年 1月 6日、協会楼上において独断で免許を与え、住吉神社の神前において奉告土俵入りを行って天下に喧伝した。 司家は大阪協会を破門、東京協会も立場上大阪に絶交状を送りつけた。45年に東西が和解、条件はまず大阪が司家に謝罪、大木戸の横綱撤回、 大阪相撲が横綱を申請する場合東京相撲は調印ではなく口添えすることの三点。 この二つ目の条件は「当分の間大阪・熊本を除く地方巡業の場合は横綱黙認」という但し書きがつき、和解は成った。 大木戸は改めて横綱を申請、晴れて認められた。公認記録は大正元年12月25日免許である。
不幸な横綱問題が漸く始末でき、全盛を過ぎたとは言え今暫くの活躍が見込まれた大木戸だったが、 2年 1月の本場所( 5勝 3敗 2休)、その後の東西和解合併大相撲( 2月から東京10日、 大阪10日、名古屋 7日、京都 9日、計31勝30敗 8分 1預 6休と振るわず)の後、 4月の呉合併興行 2日目、東京関脇伊勢ノ濱と組んでいる最中に眩暈がした。勝ちはしたもののやっぱり調子がおかしい。 夜の宴会に出て電灯が煌々と輝いているにもかかわらず電気をつけようとしたため、同行の頭取藤嶋が慌てて眼科に連れていき、 次いで海軍病院に担ぎ込んだところ、脳溢血と分かった。呉の共済病院で 3ヶ月の療治の後帰阪したが、半身不随となっては現役続行は不可能、 3年 2月を最後に引退。湊を継いだ。 177cm 120kg。結局公認免許を受けた後の成績は 5勝 3敗22休。
頭取となったが健康が回復せず出勤もままならないので 5年 6月限り廃業し、晩年は不遇で、大阪国技館内に煙草の売店を出すなどして細々とした暮らし、 中風が重くなり、死の半月程前に大阪医大(今の大阪大医学部)に自身の解剖を申し出た。昭和 5年11月 7日没。 男女ノ川もそうなのだが、墓所がいまだに分からない。
| 24代 鳳 谷五郎 | 優勝 2回 |
鳳の名を貰い35年 1月初土俵を踏み、36年 5月に序ノ口に載る(番附面は大鳥)。幕下時代の41年 1月から鳳と書かれるようになり、 5月十枚目。そして42年 1月入幕した。 新入幕の初日に大関駒ヶ嶽と対戦し、肩透かしに降す大波乱。43年 1月関脇、大正 2年 1月大関となり初優勝。 4年 1月全勝優勝で尚早意見もあったが協会が押し切る形で横綱を免許された。 これが鳳にとってただ一度のチャンスであり、その後は糖尿病に泣かされ衰退が目立ち、 さらに後援者の重宗芳水氏(明電舎社長)が亡くなってから衰色いよいよ甚だしく、 9年 5月引退した。
その取り口は体の柔らかさと腰の重さを生かして変幻自在、右掛け投げと左掬い投げを得意とした。ただし巧い取り口ではなく強引な相撲ではあった。 弱い横綱の代表に数えられてしまうが、盛りの頃は常陸山を相手に一歩も引けを取らず、 相手が晩年だとは言っても真っ向から攻め切ることができる数少ない力士であった。 174cm 113kg。横綱としては35勝24敗 1分 1預49休。
引退後は宮城野を継いだが、酒乱癖もあり、さらに戦時中より中風を病み千葉市にこもっていた。 昭和31年11月16日没。戦後になっても新弟子の紹介が多数届いていたという。「久松」という綽名があったが、猛稽古のため前髪が擦り切れてササラの如く、 それが愛敬のある顔と相俟ってつけられたものである。酒乱といえば、鳳は巡業中チョコレンバンに大敗してヤケ酒をさんざ呷っているうちに土俵入りの出番が近づいてきた。 鳳は泥酔状態のまま土俵に向かい、中央に出て四股を一発踏んだまでは良かったが、腰を割ってせり上がろうというところでデンと尻餅をついた。 露払いの五十嵐が助け起こしてどうにか収拾したが、まったく、ヤレヤレである。
| 25代 西ノ海 嘉治郎 | 優勝 1回 |
島随一の大男といわれ、30年秋、逆鉾がやってきて力士を勧めたが、本人は激昂して断り、 父は乗り気だったが母は頑として反対した。ところがその後大阪(または奈良)での興行中、逆鉾の許に本人突然現れ、 代議士の先生に勧められてその気になり、母も許してくれたという。逆鉾喜んで巡業に加え、稽古をつけた。
種子ヶ島の名で初土俵(入門と初土俵の時期ははっきりしない)。33年 5月序ノ口に出て星甲とし、翌場所序二段で錦洋と改める。 34年に脚気に罹って苦労したが、38年 5月十枚目、39年 5月入幕した。鳳のような派手さはないが、左四つでじっくりと構えて寄るという取り口で、 勝ち味は遅かったがそれだけに大きく崩れないという安定感があった。ただ堂々とはしていたが闘志に乏しく、また長身で腰に弱みがあったため、上からのしかかる攻めとなっては速攻は望むべくもなかった。 42年 6月西ノ海を継ぎ、43年 1月大関。安定した実力ではあるが、頭抜けて強いわけでもなく、並みの大関であった。
大関を務めること 7年に亙り、最強とは言い難いが実績をコツコツと積み、大正 5年 1月の優勝( 8勝 1分 1休)という最高の実績をも積み上げて横綱となった。 多分に功労賞的な意味があった。もう既に井筒の鑑札があり、門下には有望力士が多数いた。さらに優勝という成績で横綱にはなったが、既に36歳間近の横綱とあっては今後に大きな期待をかけるのは無理な話だった。 新横綱の場所を皆勤、この場所の千秋楽は太刀山戦、左四つから西ノ海の下手投げを太刀山残して寄り立て上手投げ、さらに寄って太刀山の勝ちとなったが、大熱戦であった。 これが西ノ海最後の花だった。結局太刀山の対抗馬としての期待を裏切り、 7年 5月限りで引退となった。 太刀山には 1回しか勝てなかった。その代わり鳳には 1度しか負けず、自身も「なぜか鳳とは取りやすい」と語ったこともある。 土俵入りは力強い柏手に始まる型。しかし師匠(初代西ノ海)の型とは思えない。「雲龍型」になるのだが、せり上がる際に腰を割らずに前傾しているあたり、二代梅ヶ谷とも違う。 185cm 139kg。横綱成績12勝 5敗33休。
井筒を継ぎ、検査役から取締、相談役となり人望を集めたが、昭和 6年 1月27日没。 自宅で狭心症のため…と発表されたが、実は自殺だったという。亡くなる少し前、検査役として堂々と座蒲団に座り、 堂々と…鼻をほじり始めた。それだけならばまだしも、これをあの松内則三アナウンサーが実況したから大変だ。 引き揚げてきた井筒の周りでみんなが笑っている。井筒は亡くなるまで松内さんにぼやき続けていたそうな。