| 26代 大錦 卯一郎 | 優勝 5回 |
41年 8月に入門、43年 1月初土俵。大正 3年 1月十枚目、 4年 1月入幕した。その場所、 8勝 1敗 1休で翌場所には小結。 横綱太刀山には敗れたが、横綱鳳を倒して 9勝 1敗の星。 5年 1月には大関となった。 そして大関 3場所を 8勝 2敗、 7勝 3敗、そして無敵太刀山を両差しから寄り倒しての10戦全勝で通過し、 6年 5月新横綱として颯爽と登場。 入幕僅か 6場所目の快挙である。その取り口は左を差すや体を生かして一気に寄るか吊り上げるというもの。 稽古場ではそう強くないのだが、一番相撲になると抜群の強みを発揮した。 「粗笨」という言葉も掛けられたが、何しろ速かったという。左差しから吊って出る一手、出足が物凄かったのだという。 足腰はやや脆い。従って、ボロを出す前に勝ってしまえ、という「勝ちに行く」横綱相撲の典型であった。その意味でも「速攻の開祖」といえる。
栃木山とともに土俵のリーダーとして奮闘したが12年 1月、優勝 5回の成績を残し突然の引退。 事の起こりは、場所を前にして力士会が養老金問題など三条件を協会に出して横綱大関を除く全員がストライキに入ったことである。 これぞ「三河島事件」である。大錦は横綱として両者の間に立ち調停を図ったがうまく行かず、警視総監の手でやっとまとまった。 責任を感じた大錦は和解となったその宴のさなか独り別室で髷を切り落とし、土俵からの訣別を闡明したのである。 175cm 139kg。横綱成績77勝 9敗 3分21休、28連勝がある。
引退後、角界を離れなんと早稲田大学に入学。経営学を学び、細川旅館(今は細川ビルになっているという)を経営する傍ら、報知新聞の相撲評論家となった。 晩年は糖尿で病臥すること数年、さらに神経痛を病み、昭和16年 5月13日急逝。 早稲田大学に体育科ができ、角道講師に招聘されるという話もあったが、実現しなかった。
大錦の土俵一代は、「頭で取る」一代であった。「ヤア」という掛け声の「ヤ」と「ア」の間に立つのだというその分析も、「頭脳派横綱」らしい。 その大錦の相撲の一端が、岸田劉生の日記に窺われる。 「大錦と紅葉川は、紅葉が満身の力で突っぱった時錦もちょっとよわった風だったが左手が入って右に首をかかえるや左からフーッとつりあげた時は二尺以上も紅葉の体が宙に浮いて見事だった」(大正10年 5月 8日目)。 相撲自体は理屈も何もない、「攻撃は最大の防禦なり」を地で行くようなものだった。
| 27代 栃木山 守也 | 優勝 9回 |
44年 2月、栃木山の名で初土俵、全勝また全勝で各段一場所で通過。大正 2年 1月幕下に進んで 4勝 1敗と初めて負ける。 この相手は千葉ヶ崎である。 3年 1月十枚目、 4年 1月入幕する。ここまでの黒星、わずかに 3個。 5年 5月小結、 6年 1月関脇、 6年 5月には大関となる。 7年 5月には横綱となった。その間、五連覇をやってのける。
5年 5月 8日目、鉄人太刀山を破っている。栃木山突っかけるのを太刀山軽く受け、左上手を探る。 ここで栃木右から掬った。太刀の腰がぐらつく間に左も入れて遂に寄り切った。 国技館は大騒ぎとなり、贔屓が続々と詰め掛け、栃木山は支度部屋から出られず裏の稲荷の柵を乗り越えて脱出したとか。 一晩の祝儀は一万円に達したという。
横綱となり、おっつけと筈押しの奥義を極め、 9度目の優勝を飾ったのが14年 1月。 そして 5月も当然優勝候補の筆頭と目されていたが、 2日後に控えた12日突如引退を表明したから満天下のファンのみか協会関係者も驚いた。 彼曰く「今が花だと思うから…」。禿げが恥ずかしくてという理由もないではなかったがやはり散り際を大事にしたと見るのが妥当だろう。 172cm 104kg。横綱在位中は 115勝 8敗 6分 3預11休。
栃木山の相撲は最強の右筈をはじめとした鬼をも拉ぐ怪力押し相撲である。如何せん栃木山は横にやや脆かった。 即ち立ち合いで負けないことに意を注ぎ、絶対に後手を踏まないことを心掛けたという。 土俵入りは非常に速い。栃錦の土俵入りを見れば分かろうが、キビキビしている。この土俵入り中、四股の前には足を引かない。
年寄春日野となり欧米漫遊に出て見聞を広めんと図った。春日野部屋の師匠としては、 最初はなかなか力士が期待通りに育たず、殊に未来の横綱と衆目一致した相模川がうまく育たず、弟子運のなさに泣かされていたが、 栃錦・鳴門海・栃光などが進出してきて昭和30年代になると大変賑やかになった。 協会では取締として活躍し、34年10月 3日没。
強豪怪力伝説は数が知れない。昭和 6年 6月、第一回大日本力士選士権大会に出場、強豪の天竜、玉錦を破って選士権を獲得した。まさに史上最強の年寄である。 大正10年 6月、大錦・栃木山一行はアメリカ・ハワイ巡業に出た。ロサンゼルスのバーで日系人と飲んでいた栃木山の前にボクシング・ヘビー級チャンピオンのジーン・タニーがやってきて、 太い鉄棒を力ずくでグググと曲げてテーブルに置いた。それを見た栃木山は黙って鉄棒を手に取り、ヒョイと元に戻すなり「こうしておけば使えるのに」と一言。在カリフォルニアの日系人の間では未だに語り種だという。 昭和も30年代に入って、弟子の栃光がつけ人と部屋の大火鉢を動かそうとしたが動かない。 そこに春日野が現れて、「どれどれ」といいながら一人で持っていってしまった。 これには若手の栃光もたじたじ。とても60代の老人の出来る業ではない。
| 28代 大錦 大五郎 | 優勝相当成績 6回(大阪) |
6歳で地元の子供相撲大会に出るや17人を倒して「稲元の金太郎」の異名を取り、のちに京都で車大工の職人となった。従来の説では逞しい体を見込まれて33年頃京都のいろは幸太郎に入門したということになっているが、 最初は矢ッ車部屋門下ですぐにいろは門下に移ったということのようだ。大錦の名で三段目まで進んで(ただし36年 5月に幕下で出場もする)、36年師匠の勧めで大阪に転じ陣幕門下に属し、 1月三段目で登場。 4月に師匠が急逝して朝日山部屋に移り、37年 5月幕下、38年 6月十枚目に昇って土つかず、39年 2月には入幕した。 この時力士連中から全勝とはいえ10枚目から幕に上げるのは公平を欠くと文句がつき、十枚目筆頭で取らされたが、堂々と 3点勝ち越し 5月に正式に入幕となった。 その後も順調。40年 6月小結、41年 1月関脇、そして43年 6月には大関となる。天下を取っていた大木戸を追いかけて実力をつけていった。 左右どちらでも取れたが左を引くと良く、左四つ右上手で充分、筈押しもあり、勝ち味は遅いとはいえ力はあったが、見た目には動きやすそうな五体であるにもかかわらず動作が実は緩慢なため、動かれると脆さがあった。
大正 7年 1月の 8勝 1敗 1預で横綱を免許された。大錦を応援していた佐多という医学博士の弟は連隊長であったが、 その部下に吉田長助大尉がいた。これは23世吉田追風の長男である。連隊長は吉田大尉に「大錦に横綱を与えてもらいたい」と頼んだ。 追風もあっさりと承認、土俵入りは鳳が教えた。大錦は 5年 7月の師匠の急逝に伴い、遺言によって後継とされたが、 自らは辞退して弟弟子の二タ瀬川を推薦、結局 1年間は大錦が朝日山を名乗り、 7年 1月からはこの名跡を二タ瀬川に譲った。 横綱となってから急速に衰えが目立つようになり、皆勤はわずか 2場所にとどまった。 山陰地方の巡業で生イカを食べ中毒にかかり、一時は死の宣告を受けるほどの重症だったとかで、以後、腰の粘りを失ったのだともいう。 11年 1月引退。 176cm 113kg。横綱免許後は21勝12敗 7分 2預38休。
引退して頭取大錦となったが、龍神事件の後の12年 8月に廃業し大阪曾根崎に「京いと」という茶屋を経営した。 昭和18年 5月16日没。
| 29代 宮城山 福松 | 優勝 2回 優勝相当成績 4回(大阪) |
若い頃から体力に恵まれて父の仕事(農業の傍ら乗合馬車の御者もする)を手伝い、田舎では「馬力にまさる」と噂され、 暇がある時は数々の草相撲に出て活躍していた。42年の秋、近くに出羽ノ海部屋の巡業がきた時に力士に憧れ、スカウトも受けた。 43年 3月上京し、 6月初土俵。岩手川を名乗る。45年 5月三段目に上がったが病気を理由として一度帰郷した。実質的には脱走ともいう。 今度は大阪相撲の高田川部屋に身を投じ、三段目と幕下の間に附け出されたのが大正 2年 5月。 宮城山を四股名とする。「岩手は伊達藩の領地だから」という理由らしいが、相当岩手県民の反感を買ったようだ。 東京仕込みのためか出世は上々。 5年 6月に入幕、 6年 1月に関脇、 6月大関という暴走に近い出世。11年 1月10戦全勝で大錦に代わり横綱となった。 10年 3月の東西合併大相撲で 7勝 3敗。その勝ち星の中には大関常ノ花、源氏山、横綱大錦を破った星があり、そうした実力も評価されたのだろう。 その後は12年 1月場所前に右手中指の爪を剥いだのがひょう疽になってしまい、腕が痺れて14年まで休場が続いたが、15年 1月の台湾場所では 9勝 1敗で優勝している。
昭和 2年 1月に東西両協会が合併した。宮城山は東京三役とほぼ互角と見られたが、司家公認ゆえ横綱のまま横滑りしてきた。 宮城山は大阪方の総帥として奮戦、横綱常ノ花に敗れただけの10勝 1敗で堂々の優勝を飾った。 しかしすでに峠は越えており、その後は 3年10月の優勝、 4年 9月の優勝同点を除いてひどい成績が多く、皆勤負け越しも 5年 3月と 6年 1月の 2回記録している。 「わしは横綱でなくなってもいいから相撲を取りたい」と頑張ったらしいが、年寄名跡を所持していなかったという事情によるらしい。 5年 5月五分の星からやっと楽日に勝ち越し、ここで一度引退を決意したが、折悪しく場所中に常ノ花が引退したために協会に引き止められ、 6年 1月でやっと引退を許された。 174cm 113kg。 横綱昇進後、大阪時代は22勝 4敗 3分50休で、東京では90勝70敗 1痛分26休。 年寄白玉から芝田山となり検査役を務め、18年11月19日、高知で没。
相撲は前捌きが巧みで右四つの寄りを得意とする巧者で、神様大ノ里に強かったことは特筆される。 さらに打っ棄り腰にも定評があり、「弱い横綱」と陰口をたたかれたが、決して弱くはなかった。 土俵入りの型は、池田雅雄氏の記憶では「柔らか味があって折目正しい、宮城山独自の型」だという。 確かに映像に残る宮城山の土俵入りは、常ノ花ほどの派手さはないが、丁寧な土俵入りである。
| 30代 西ノ海 嘉治郎 | 優勝 1回 |
少年時代から強力で評判となり、当時大関の西ノ海に見出され井筒部屋に入門。源氏山の名で初土俵を踏んだのが43年 1月である。 大正 4年 1月十枚目、 5年 1月に入幕している。離れては突っ張って叩く、組んでは二本差しての寄り、掬い投げという取り口で新入幕の場所 9勝 1敗。 7年 5月新関脇。その後平幕に落ちているが10年 1月再び関脇。 当時、出羽ノ海陣営には横綱大錦・栃木山・大関常ノ花がいる一方、反対陣営において対抗できるのは大関千葉ヶ崎ただ一人。 東西対抗制の不均衡の恩恵を受けた源氏山は出羽ノ海陣営から反対陣営に廻され、11年 1月に大関となった。 3場所の成績が 7勝 3敗、全休、 8勝 1敗 1分(優勝同点)というから今ならとても横綱にはなれぬ星であり、 司家も最初は異論を唱えたが、やはり自陣の人材不足が幸いしたか、将来を期待してという条件つきで12年 5月新横綱。
西ノ海(13年 1月改名)はなまじっか横綱になったために「弱い横綱」「小便相撲」と陰口をたたかれた。 ケチのつきはじめは新横綱の場所の途中休場、翌場所の全休(こちらは本場所を名古屋で行ったことへの反発とも一部では言われている)であるが、 致命傷となったのは14年11月に行われた第一回東西合併連盟相撲の千秋楽、横綱栃木山の太刀持ち(露払いは横綱常ノ花)を務めて花道を引き揚げる際に心臓発作で倒れてしまったことである。 14年 1月・ 5月(優勝)・15年 5月と 9勝 2敗の成績を残したが、昭和に入って心臓は脚気となり、腰も故障していて皆勤はなく、 3年10月限りで引退した。 3年 1月から仕切り制限時間(幕内10分)が設定されたのに、西ノ海はこれを 3分半もオーバーしお目玉を食っている。 結局最後まで立ち合いの呼吸を体得することはなかったようだ。 183cm 116kg。横綱成績は49勝19敗 1痛分95休。平年寄のまま 8年 7月28日没。
この力士の綱の結び目は江戸時代からの「片輪結び」であり、本人も「不知火の型」と語っていた。 土俵入りは師匠の型を継いだということになっているが、写真を見る限りその様子はない。
| 31代 常ノ花 寛市 | 優勝10回 |
強烈な突っ張りと右四つの出足豊かな寄りと、何と言っても櫓投げに定評があり、軽い相撲という非難はなくもなかったがキビキビした取り口で人気があった。 非力ではあったが、常に闘志を熾んにして立ち向かった。横綱昇進直後は左腕蜂窩織炎や糖尿などが出て不調や休場続きだったが、15年 1月全勝。 しかし翌場所は扁桃腺炎で休場と土俵運に恵まれなかった。昭和に入って 2年 3月から三連覇して第一人者となり、実力的に抜きん出ているわけではないにせよ出羽ノ海陣営の総帥として頑張った。
その常ノ花は 5年 5月10日目、前場所優勝の直後、突如引退を声明して皆を驚かせた。 まだ取れると思われていただけに苦闘していた宮城山など誰もが惜しんだ。 三連覇がある。 178cm 112kg。横綱時代 131勝31敗 3分 1預52休。実力的に群を抜く力士ではないが、勝率は 8割を超え、一次代を担った。 派手相撲の横綱として記憶されるが、昭和になってからは、体力的に必ずしも秀でてはいないのに、がっぷりに組んで勝ってもいる。「あでやかな相撲」という評語もあった。 しかし能代潟には突っ張られて敗れ、また極められて敗れ、動きたくても動けずに敗れることが多く、大いなる苦手とした。 土俵入りは、一つ一つの挙措に適度な節度があり、華やかであった。宮城山とともに自分の特色を充分に生かした上手い土俵入りを見せた。
藤嶋を継ぎ19年より理事長。24年出羽海となり蔵前国技館の建設など協会運営に尽力。 しかし茶屋制度などが国会で批判されたため32年 5月 4日割腹自殺を図った。 一命は取り留めたが理事長を退いた。35年11月28日没。