横綱伝 47代〜53代
47代 柏戸 剛優勝 5回 殊勲賞 2回 敢闘賞 2回 技能賞 4回

 左前褌速攻とポカの多い土俵振りに人気があり、柏鵬時代の一方の雄であった第47代横綱柏戸剛は、本名を富樫剛といい昭和13年11月29日に山形県櫛引町に生まれた。

 スポーツ万能、特に陸上とバスケットの選手だった富樫少年は定時制高校に入った年に怪我をした兄に代わって対抗相撲の代表に選ばれ、 その活躍振りを知った近所の好角家に勧められ、伊勢ノ海(柏戸)に紹介される。 夏休みの東京見物ついでに立ち寄り、そのまま入門。29年 9月初土俵。31年 5月に幕下に上がったが、既に富樫の名は有望株として知れ渡っていた。 32年11月十枚目に昇進し、33年 5月11勝で 7人の決定戦となる。 富樫(柏戸、のち横綱)、若秩父(同関脇)、北葉山(同大関)、明歩谷(明武谷、同関脇)、若三杉(大豪、同関脇)、冨士錦(富士錦、同小結)、玉響(同幕内)という錚々たる顔ぶれ。 富樫は決勝で若秩父に敗れた。33年 9月の入幕。34年 3月柏戸の名を継ぎ、11月に小結となる。

 35年 1月大鵬が入幕してきて初日から11連勝、12日目に止め役として起用される。表面上は自身満々を装ったが、実はビクビクものだったらしい。 左四つの押し合い寄り合いの末柏戸の下手出し投げ決まってどうやら役力士の面目を示すことができた。 3月関脇、 9月に大関、36年 1月初優勝を飾り、 9月の優勝同点を受け、成績は平々凡々たるものだったが実力を買われて11月新横綱となる。 だが安定性に乏しく執念も乏しく、上突っ張りからの速攻はいいのだが、持病に蓄膿がある上に37年に入るなり肝臓が悪くなり、星がなかなか上がらない。 さらに38年 1月稽古で手首を痛め休場、 3月 5日目海乃山を寄り倒した際海乃山の頭を越えて転落し右肩右肘を痛め 7月まで休場と怪我続き。 ファンを、それから自分自身を切歯扼腕させる日々であった。

 塩原で療治を続け、巡業にも合流でき、 9月に復帰した。「八番勝てば」と言った柏戸だったが14連勝、同じく全勝だった大鵬をも寄り切り全勝優勝、男泣きに泣いた。 過去これほど鮮やかな再起は例がなかった。だが相変わらず土俵運には恵まれず、39年11月糖尿病にかかり急速に痩せ、やっと立ち直って40年 9月に優勝したが11月足首を故障。 この二つに晩年苦しめられた。42年 7月の優勝の後、特に43年に入った途端にガクンと力が落ちたのは傍目にも分かったが、 「柏鵬」より後の横綱に先に辞められて、大関陣も頼りにならぬとて引退できず、44年 7月やっと引退となった。 全盛時 188cm 139kgで、42年11月には 150kgに達したが、43年 5月場所前に再び激しく痩せ、これが命取りとなった。 横綱としては 407勝 147敗 140休。鏡山として理事を務めていたが肝臓・腎臓病が悪化し平成 8年12月 8日没。

 土俵入りは鏡里の型を踏襲し、柏戸らしい豪快さを加えたものであったが、力みすぎる欠点があった。 最晩年にはせり上がる際にかなりフラフラし、右腕で懸命にバランスを取っていた。 なお横綱中期から両足を大きく広げて踵を着けた蹲踞で土俵入りをやっていたが、 時津風(双葉山)の指導で43年 1月から爪先立ちの形に戻した。土俵入りは鏡里の型で、年寄名跡は鏡山、ただの偶然にすぎないが不思議な符合である。

 本人は「無茶苦茶相撲」と言っていたが、怪我に泣かされてからは左前褌を立ち合いに取って右おっつけで走る「型」を確立、 40年後半から42年まで安定した土俵を見せるようになったのは立派だった。 この「型」は、既に秀の山(笠置山)が座談会で話していた(「相撲」昭和37年 1月号)。 座談会当時の柏戸は、突っ張りの威力については「殺人的」と形容されていた。それ故「突っ張り一本で生きるべきだ」という意見が大勢を占めていた。 この座談会でも秀の山は、柏戸は太刀山みたいにならなければいけないのかという北出清五郎氏の問いに対し、「それしかない」と答えてはいるが、 突っ張り切れない際は、ということで、腕力が強いから右でも左でも前褌を取ることだ、と言った。 さらに大鵬の方が柏戸より体重が上となることを見越し、それに対抗するには「前褌を取って相手の左をおっつけていくしかない」とまで言い切ったのであった。 柏戸がこれらの発言を知っていたかどうかはさておき、見事に我が物として土俵に生かしたのは大したものである。


48代 大鵬 幸喜優勝32回 敢闘賞 2回 技能賞 1回

 戦後の大横綱、優勝32回、 2度の六連覇などの大記録を打ち立てた第48代横綱大鵬幸喜は、本名を納谷幸喜といい昭和15年 5月29日に樺太敷香に生まれた。 のち本籍は北海道弟子屈町となる。

 20年戦火を逃れ北海道へ引き揚げる。岩内・岩尾別・訓子府・夕張を経て弟子屈に落ち着き、中学を卒業後、営林署に勤めながら定時制高校に通う。 営林署で遊び半分の相撲を取っていたところを元紅葉山(二所ノ関部屋)が見て、二所ノ関(佐賀ノ花)に紹介したのがきっかけ。 31年 7月入門。 9月に初土俵を踏み、納谷で取る。32年 9月三段目、33年 5月幕下。 34年 5月十枚目入りに際し地元は「摩周山」なる四股名を用意していたが、 漢書が好きな二所ノ関は荘子逍遥遊より「はばたくこと三千里、つむじ風に乗ること六万里」という「鵬」の字が気に入って部屋一番の有望力士につけようと「大鵬」を用意していた。 ここで納谷改め大鵬となる。35年 1月入幕、11連勝などで12勝を挙げた。 7月小結、 9月関脇、11月初優勝で早くも大関。 36年 9月柏戸・明武谷との決定戦を制し柏戸とともに横綱となった。新横綱でも優勝しこれを含め四連覇。 37年 7月から六連覇と王者の地位を不動のものにした。

 しかし39年 5月10勝止まり。 7月途中休場となる。診断は本態性高血圧。以後ずっと悩まされた病名だ。41年 3月から再び六連覇を果たしたが、42年 7月左肘を痛め休場となり、この時医者から「相撲を取っている限り完治はない」という宣告、つまり絶望と言われてしまった。 加えて11月の対豊山戦で勝ったが左肘剥離骨折で休場。稽古ができずヨタヨタのまま43年 1月に出て清國・陸奥嵐に惨敗しまたも休場。 焦って猛稽古を始めたら 3月場所前に左膝を強打して靭帯を断裂し、 7月まで休場、挙句の果てに 9月初日栃東に電車道で黒星を喫し、大鵬ファンは青ざめてしまった。

 ところが翌日から45連勝、叩きが多く相撲の内容は冴えないが、大関相手に力の差を見せつける相撲も織り交ぜ、 踏み込みに気をつけつつ無心で取った結果であった。44年 3月 2日目戸田を相手に安直に右差しにいったところ、これが大誤算で猛烈な押しを受けて腰が崩れ、結局押し出され連勝はストップしたが、 実際は戸田の足が先に土俵を出ておりこれは明らかな誤審だった。おまけに落胆から気管支を冒され途中休場、かなりこじれ、相手を先に疲れさせる相撲を取っていた大鵬も、長い相撲が困難になってしまった。 5月30回目の優勝をしたが、呼吸機能の低下と両膝の悪化で衰えは否めず、45年 3月二人の新横綱を向こうに廻し執念で31回目の優勝をしたものの、 7月今度は三重ノ海に敗れ足首捻挫。引退騒動が持ち上がったが、今度は執念だけではなく内容も良く、11月玉の海と決定戦を戦うまでに復活した。 「玉の全勝を止めるので精一杯だった」と言ったが、46年 1月同じ展開から決定戦をも勝って32回目の優勝を飾った。 3月は風邪で稽古ができなかったが12勝し、まだまだ虎視眈々と賜盃を狙ってはいたが、 5月初日に躓き、却って足腰の衰えをまざまざと見せる恰好となり 5日目にとうとう引退した。 187cm 153kg。横綱時 622勝 103敗 136休。取り口としては新入幕の頃までは突っ張りもあったが、主として両腕を交叉させての両差し狙いから差して取る相撲で、 もともと出ッ尻で上体が起きると足腰の危うさから脆さを持っていたが、上体の柔軟性は類稀なもので、相手の攻めを吸収しつくしていた。 一応の得意は左四つだが、腰が入らず備わらずのため、横綱初期まではがっぷり四つになると攻めがなくなった。 右からの投げは体の開きがなく、無理矢理捻じる形で足の配りも悪く、斬れ味はなかったが、寧ろ左からの投げは掬いでも上手でも大きく決まった。 まとめてしまうと、上体でしなだれかかって相手を徐々に締めていき、捻じ伏せる相撲ということになる。

 44年 9月に一代年寄を許されており大鵬部屋を興し、巨砲らを育てたが、決して弟子運に恵まれたとは言い難かった。 51年に鏡山(柏戸)とともに役員待遇に抜擢されたが翌年脳梗塞で倒れ、懸命のリハビリを経て55年には理事となったが、 やはり体調は必ずしも思わしくなく、平成 8年限りで役員待遇に戻った。兄の幸治氏曰く「内臓は頑丈だからね。深酒しなかったら長生きするんだから」と。 そのとおり内臓病による休場はなかった。関脇貴闘力を三女の婿に迎え(のち平成22年の野球賭博問題により離縁)、17年に定年退職、その後相撲博物館長を務め、25年 1月19日に歿、 2月に国民栄誉賞の授与が決まった。

 土俵入りは最初は見せ場のないものだったが、間の取り方を覚えてから 3分を超え頗る遅くなった。 王者の勢威を天ヶ下に知らしめんとするかの如き土俵入りだったが、あまりにも長すぎ、せり上がりの際は上がりそうでなかなか上がらず、焦れったいものだった。 大病をやった大鵬であるが、還暦を迎えて堂々還暦土俵入りを決行、左半身に痲痺があるため完全なる土俵入りはできなかったが、 一度始めると気合が入ってつい最後まで続けてやりたくなる様子、腰を沈めてせり上がる恰好を懸命に務め、称讃を浴びた。

 あまり知られていないと思うが、二所一門の祖といえる横綱玉錦の墓参りを欠かさず行っていたそうである。


49代 栃ノ海 晃嘉優勝 3回 敢闘賞 1回 技能賞 6回

 小粒の大物と呼ばれ鋭い技を持ちながら怪我のため活躍できなかった第49代横綱栃ノ海晃嘉は、本名を花田(のち宮古)茂広といい昭和13年 3月13日に青森県田舎館村に生まれた。 子どもの頃から名うての負けず嫌いで「ジョッパリの茂」と呼ばれた。つまり「根性」これ一本で横綱に上り詰めたのだ。

 小中学校の同級生に須藤良一(のち幕内一乃矢)という親友がおり、その須藤は祖父が大関一ノ矢藤太郎だというだけあって体に恵まれ、中学卒業とともに春日野部屋に入門していた。 30年夏近くに巡業がかかり、そこに須藤も来ていたのを知った花田少年は、見物ついでに会いに出かけた。 そこで栃錦に紹介されチャンコをご馳走になった縁で相撲の魅力に取りつかれ、高校を中退してそのまま巡業についていった。 9月初土俵。但し、苗字が花田でも若乃花との縁戚関係はない。

 幕下で当時納谷といっていた大鵬に 4連勝という記録を残す。34年 1月十枚目、35年 3月入幕し、序盤は快調に勝ち込んだが、手首骨折で片手だけの土俵となって陥落した。 9月の再入幕に合わせ、花田を栃ノ海と改める。36年 7月小結、 9月関脇。 技能派として注目されていた栃ノ海の名が一段と高まったのは37年 1月の若乃花戦だった。 栃ノ海突っ込むと若乃花は例によって左肩で受け、左をねじ込もうと重心をかけた瞬間、 栃ノ海は左足を飛ばして左から巻き、左腕を手繰ってさらに右から突いた。 一瞬で四行程をやられた若乃花、あれだけ土俵に倒れるのを嫌がった横綱がものの見事にひっくり返った。 37年 5月柏戸に敗れただけの優勝を遂げ大関昇進。13日目対大鵬戦の渡し込みの切れ味は実に凄かった。 ほかに両差しの速攻、出し投げ、切り返しなどの技を用いた。

 大関としてはまあまあであったが、特にずば抜けた内容とも言えず、38年 3月久々に絶好調であったのに途中休場してしまった。 11月、栃ノ海は大変身、柏鵬を降して 2度目の優勝、39年 1月13勝 2敗の星で横綱に推挙された。 この頃になると、頭で当たる鋭さは相変わらずだが、不得手の右から入って動きながら左の攻め、 左も入ったら肘を張って全身で煽り立てるという前撃相撲に変わっていた。 土俵入りは何かしら小さい感じがしたが気のせいか。その代わりきびきびしてリズム感にあふれ上手ではあった。

 横綱 2場所目の 5月には 3度目の優勝を果たしたが、 1月に痛めた腰の怪我が悪化し、 9月には 9勝、11月の途中休場で栃ノ海の華は凋んだ。 腰のヘルニアで動けず、 3場所連続 8勝止まりなど悲惨な成績が続き、 やっと良くなって10勝に乗るようになったと思ったら41年 5月には右腕二頭筋断裂、筋膜ヘルニアで皮の上から直接骨に触れるという重傷を負い、結局11月力尽きた。 177cm 110kg。横綱として 102勝69敗84休。年寄中立から先代死去に伴い春日野となって部屋を継ぎ、 期間がやや短かったこともあって育った関取は多くはなかったが、栃乃和歌を後継に指名し15年 2月に竹縄となり、翌月定年退職した。

 栃ノ海の故障に関する能見正比古氏の見方を紹介する。曰く、腰を入れすぎるほど入れ、全身を使い切った相撲、及びスピードの出し過ぎ、 この 2つの側面が、エンジンのオーバーヒートの如く、腰に負担が掛かりすぎて故障の原因となったのではないか、と。


50代 佐田の山 晋松優勝 6回 殊勲賞 1回 敢闘賞 1回 技能賞 1回

 打倒大鵬を旗印に横綱を張り優勝 6回を記録した第50代横綱佐田の山晋松は、本名を佐々田(のち市川)晋松といい昭和13年 2月18日に長崎県有川町に生まれた。 父は大工。高校 3年のとき千代の山・栃錦一行が福江市に来た折、待乳山(両國)のスカウトで出羽海部屋に入った。

 31年 1月初土俵。佐々田で取る。はじめ千代の山につき、のち出羽錦につく。32年 1月三段目、33年 3月幕下。34年 5月佐田の山となる。 35年 3月に十枚目に昇進し、36年 1月入幕して10勝したが 3月場所前の稽古で打っ棄りを試みて足首を折り休場。 5月西13枚目に下がった佐田の山は、序盤からの上位の崩れを横目に12勝を挙げ、入幕 3場所目にして初優勝。 7月も堂々勝ち越して 9月には早くも関脇。37年 3月横綱大鵬との決定戦、頭から当たって左筈右おっつけで真一文字に押し出し、 2度目の優勝を果たし大関となる。 横綱には腰を痛めたこともありなかなか届かず、38年 5月から11月まで停頓を脱したいと佐田乃山照也と改名したが、 元来四股名をいじるのがあまり好きではない性分で、成績自体にもさほどの上昇が見られなかったせいもあって元に戻した。 39年 9月から40年 1月までの連続13勝を挙げ、遂に横綱となったが、打倒大鵬はなかなか成らず、横綱昇進後の宿題として残された。 出羽錦が「シンマツが横綱になったらおれが太刀持ちをするんだ」といっていたが39年 9月で幕内生活17年の大記録を残して引退し、田子ノ浦となった。 その引退相撲の日、佐田の山は土俵入りを捧げ報恩とした。

 佐田の山の相撲は突っ張り。細く肉のつかない体ゆえリーチの長い腕を生かせと出羽錦に言われたことによる。 四つは右で、下手を欲しがった。常に右足を前に出して取っていた。また粘り腰もあり、打っ棄りもよくやった。 晩年は強い右をさらに生かそうと右を上手に替えて上手投げを使うようになり、その手で41年 9月大鵬を捩じり倒した。

 横綱としては40年 5月に優勝したが、大鵬は休場で不戦勝、内容も勢いだけで特に良くはないとされた。 その後アレルギー性胃腸炎でダウンし心配されたが、42年11月から二連覇し立ち直ったかに見えた。 ところが43年 3月は不調、しかも 4日目入幕 2場所目の高見山に抵抗できずに突き出され戦意を失い、 5日目も完敗するに及び突如引退。 みんなが驚いたが決意は固かった。横綱時成績 188勝64敗33休。 182cm 129kg。土俵入りは栃錦の春日野の指導を受けたはずだが、かなり変わった。 気合を込めての土俵入りで、荒々しい感じではあった。

 引退後すぐ出羽海を継ぎ、平成 8年関脇鷲羽山と名跡を交換し境川となっている。 4年から理事長を務めていたが10年の改選で四選ならず理事。 12年 2月、理事長時津風(豊山)の懇請で18年ぶりに審判部長に戻り、大いに驚かれた。 なかなか上向かない相撲内容を上げたいという理事長の強い希望による。豊かな未来があるはずの大関陣や若手が真っ向勝負を厭うことまであるために、 時に烈しい雷を落としてまで内容向上に熱意を燃やした。15年 2月中立(両国)と名跡を交換して定年退職を迎えた。 スポーツ報知付きの評論家となっている。


51代 玉の海 正洋優勝 6回 殊勲賞 4回 敢闘賞 2回

 右四つの型を完成させ一時代を築くと思われながら27歳にして世を去ってしまった第51代横綱玉の海正洋は、本名を谷口正夫といい昭和19年 2月 5日大阪市の生まれ。 戦火を逃れ愛知県蒲郡市に疎開しそこで育つ。幼い頃原因不明の高熱が二週間続く大病を患ったが、その後病気一つ知らない少年に育った。 既に中学 1年で黒帯を貰い、柔道の猛者として鳴らしていたが、それを知った関脇玉乃海がわざわざ蒲郡までやってきて口説いたことから、それまでの柔道そして警察官という志望から相撲へと変わる。

 34年 3月初土俵。玉乃海は現役なので所属は二所ノ関部屋。貰った四股名は玉乃島。 長く「シマ」の愛称で親しまれた。 9月三段目、35年11月幕下。柔道をやっていたものだから腰に乗せての投げは強いが、一気に押されると弱かった。 36年 7月より片男波部屋。十枚目は38年 9月だから速い出世ではない。39年 3月入幕、40年 1月新小結。

 新小結の初日から部屋別総当たり制が実施され初日に横綱大鵬戦が組まれた。 場所前大鵬と玉乃島は三番稽古をこなしたが大鵬が一番だけ負けている。それは玉充分の右四つからの内掛けだった。 コンピューターと呼ばれた大鵬の分析は「捕まえること。左だな」だった。 一方の玉乃島は「横綱を倒すチャンスが一つ増えた」と言い放った。 その相撲は、玉突っ張って叩くと大鵬のめったが残し網打ちの強襲。 玉は右四つに組み勝ったが上手が取れない。ここで玉から巻き替えて左四つにいくという大博打に出る。 大鵬充分で寄り身にいった端を玉内掛けに切って落とした。館内は大騒ぎとなり、部屋別総当たり成功の殊勲甲として名を上げた。

  7月に関脇となり、一度下がるが41年 1月平幕で13勝を挙げてから波に乗り、11月新大関。 しかし相撲が雑で固まっていないために暫く低迷した。43年 5月初優勝を飾り、前 2場所の12勝もあって横綱は確実とみられたが、 この場所の玉乃島の内容は不得手の左四つで喘ぎ喘ぎする相撲で印象が良くなく、 しかも横綱陣は不調、さらに相撲人気はどん底で、新横綱というムードにも欠けたため呆気なく見送られた。 その後もう一度見送られたが挫けることなく、45年 1月13勝 2敗で優勝同点。 前場所の10勝はあるも「安定度は北の富士より上」との評価で横綱となった。 ここで玉の海正洋と改める。

 昇進後ますます強みを増し、44年秋頃に固まってきた右四つの吊りは横綱昇進後冴えに冴え、実に強かった。 45年 9月から 4場所連続14勝、46年 7月には念願の全勝を果たした。玉の海は脇が甘い。二本差されることもある。 それでもよほどのことがない限り足腰が崩れない。上体は反るが、それだけ。そして自分の形に持っていってやおら吊り上げるのである。 その玉の海は夏巡業から虫垂炎を病んでいた。その手術を終え、経過は順調と伝えられ、退院を明日に控えた46年10月11日、あろうことか急逝してしまったのである。 まさにこれからという時の夭折で、無念の形相をたたえていたと伝わる。 聞くところによると11月場所のポスターは玉の海の土俵入りだったがピントが玉の海ではなく太刀持の二子岳に合っていたとか、 病室が 4階 414号室という実に縁起の悪い番号だったとか、入院後も長谷川に向かって「最後かも知れんから写真を撮っとけ」と言ったとかいろいろ怪談めいた話があった。 横綱時 130勝20敗で 177cm 134kg。

 土俵入りは大鵬の指導によるが「不知火型」だった。四股、せり上がりとも立派で、武骨なイメージがある不知火型のイメージを一新する新しいタイプの型だった。 この辺は若乃花(三代)も似ている。「ニュータイプ不知火」という形容までなされた。太刀山・羽黒山・吉葉山とくれば、前記の通り「無骨」である。 しかし非力で筋骨隆々ではない玉の海には、羽黒山の真似などできない。力感から生まれるものとは違う美しさを持った型であった。 「雲龍型でやらせてみたかった」という声が聞こえてきた所以でもあった。


52代 北の富士 勝昭優勝10回 殊勲賞 2回 敢闘賞 1回 技能賞 3回

 左四つの鮮やかな速攻で玉の海とともに大鵬引退後に活躍した第52代横綱北の富士勝昭は、本名を竹沢勝昭といい昭和17年 3月28日に北海道美幌町に生まれた。 その後旭川市に移り、ここを出身地とした。野球が好きでエース。しかし肩を壊して断念し、その長身を見込まれて角界入りした。

 32年 1月初土俵。香車(キョウス)とあだ名されるソップ型で肉がつかず、また重心も高かったために期待に反して出世は遅れ、 三段目で13場所もかかり、その間に四股名も竹沢から竹美山そして北の冨士と変わっている。 成績も凡庸なものであり38年 3月の十枚目入りまで優勝経験がない。

 ところが何があったのか38年11月何と全勝優勝を果たす。39年 1月新入幕で13勝を挙げ、 3月には小結。 7月には関脇となりつい一年前にはただの取的だったのが大関候補となる。左からかち上げて右上手引いて一気に寄る取り口だった。 上手投げ、肩透かしもあり横綱になっても変わらなかった。体は大変柔らかく、従って細い体のために動く必要がある北の冨士にとってこの肉体はまさに好都合であった。 それだけでなく、このスピードは増量して横綱になっても少しも変わらず、危なっかしい相撲のように見えても、その時には相手は既についていけずに崩れていた。 41年 9月新大関。42年九重独立に際し悩んだ末についていく。すぐの 3月北の冨士は十枚目の松前山とともに優勝を飾った。 これですぐに横綱と思われたが 5月、 7月とよもやの負け越し。綱取りはおろか陥落寸前の大関となってしまった。 その頃から「調子相撲」との批判が噴出。無用な叩きで自滅する悪癖が顔を覗かせていた。 さらに膝が内に入りやすく、足が長いため腰が高く、止まってしまうと脆く、攻めの稽古が不足しては改善されよう筈もなく、低迷を続けた。

 44年 9月の玉乃島の優勝に刺激され、44年11月久々に優勝したが、それまでの成績がそんなに優れていないのに横審にかけられ、満場一致で蹴られてしまった。 だが北の富士は落ち込まずに却って発奮、45年 1月見事に連覇した北の富士(42年 9月より冨の上に点が入る)は晴れて横綱に推挙された。 土俵入りは師匠九重に「地球を持ち上げるような気持ちで」とせり上がりを教わったはずだが、深く前に屈む恰好となり、 千代の山とは随分異なったものとなったのは不思議である。それでも調子のよいときは力感ある土俵入りを見せた。 玉の海というライバルを得た北の富士は10場所で優勝 4回を数える。 46年10月11日玉の海が亡くなり大泣きに泣き崩れた後、11月こそ優勝したが47年に至りボロボロで、 辛苦の末 9月に全勝優勝して復活したが波の大きさは相変わらず。48年には優勝 1回と同点 1回はあるものの、調子の波のピークが低くなってきた。 49年 3月場所前に左膝を痛め、これが致命傷となって 7月に引退。横綱時 247勝84敗62休。 185cm 135kg。

 井筒から九重として千代の富士・北勝海の二横綱を育て、平成 4年 4月千代の富士に九重を譲って陣幕となり、頭脳明晰の理事として誉れが高かったが、 10年高田川(前の山)が高砂一門の意向に反して理事に立候補、その煽りで勢力の大きくない高砂一門は陣幕を擁立できなくなったため、陣幕は気力を失い角界を去った。 NHKの解説に起用されている。

 46年夏巡業のことであるが、青森班の玉の海が虫垂炎で動けなくなり、北海道班の巡業を打ち上げた北の富士に土俵入りのお頼みがあった。 すぐ承諾した北の富士は飛んでいき、玉の海の綱を締め、何と「不知火型」の土俵入りを披露した。 親方衆は「雲龍型と不知火型の両方やった横綱なんて初めてだ」といたく感激したのだった。


53代 琴櫻 傑將優勝 5回 殊勲賞 4回 敢闘賞 2回

 大関昇進後怪我が重なり32歳にして遅咲きの桜を咲かせた第53代横綱琴櫻傑將は、本名を鎌谷紀雄といい昭和15年11月26日に鳥取県倉吉市に生まれた。

 琴櫻は未熟児として生まれ、小学校半ばまでは小さかったのだが、急激な成長振りを見せ小学校を卒業した。 中学 2年で柔道の黒帯を取り、砲丸投げでは中学新記録を練習なしであっさりと出し、スポーツ万能の剛力生徒として県下に名を轟かす。 時津風部屋から誘いがあったが断った。高校でも柔道で活躍したが、相撲大会にも声が掛かって怪力を生かし大活躍した。 2年の時、全国高校相撲大会にまた即席選手として出場、 堂々の 3位。この模様を佐渡ヶ嶽(琴錦)が見ていて、名代として湊(松緑)が鎌谷家を訪問したが、あっさりと断られた。すると佐渡ヶ嶽本人が高校へ行き、自ら少年に会って帰った。 柔道家に成長させたい周囲は賛成しかねているが、元来相撲好きで琴ヶ濱ファンの本人は徐々に相撲志願を固め、33年の大晦日、佐渡ヶ嶽部屋に入門した。

 34年 1月初土俵。左四つの下手投げばかりで出世したが、翌年三段目で早くも壁にぶち当たってしまった。このため師匠と琴ヶ濱とが琴櫻を右四つに矯正しようと徹底的に教育し、 これによりぶちかましと右四つ寄り、左上手投げを得意とするように改まり、再び上昇を始める。荒稽古のお蔭で概ね順調に累進し、37年 7月十枚目、さらに吊りを武器に加え、38年 3月に新入幕した。 この場所は後半に崩れて幕内をすぐに落ちたが、 1場所で戻り39年 1月には新小結となった。 ところが 6日目横綱柏戸との一番で、柏戸が例によって上からかぶさって寄るところ琴櫻左に打っ棄りにいったが、のしかかられて圧力をまともに浴び、結局潰され右足踝を骨折、 また十枚目落ちである。琴櫻は腐らずに努力を重ね11月に 3度目の入幕。40年 3月小結に返り 5月には関脇となった。 ところが一応完治した右足を気にしすぎ、気弱もあって立ち合い左に飛んで上手を欲しがる癖が染みついた。 さらに風邪・左足首捻挫・右膝故障と次々に不運に見舞われ大関争いに大きく後れを取り、新大関は42年11月にまでずれ込んだ。

 43年 7月初優勝したが、翌場所前に左膝、場所中に右手首、次いで左足小指骨折と足首亀裂骨折とまとめて怪我に襲われ途中休場。 さらに44年 3月には 2回目の優勝を飾ったが、その後怪我や偏頭痛とかで調子が上がらず、 飛んでみたり低く出すぎたりで自分の長所を掴み切れないような内容を続け、大関にいるのがやっとという状況に陥った。 47年 1月に急浮上。優勝候補は北の富士唯一人で、八百長防止の名目もあって初日に北の富士−琴櫻の割が組まれ、 当然北の富士圧勝の腹積もりを審判部は抱いていたらしいし、目論まずとも誰もがそう思っていたが、琴櫻完勝、北の富士は大崩壊して休場となった。 翌 3月、今度はカド番大関前の山が 5勝 6敗と苦しくなり、一方琴櫻は 7勝で目処が立った。 12日目の両者の対戦となり、予想通り前の山二本差しから下手投げで琴櫻を転がした。ところが琴櫻は前日貴ノ花にも二本差されながら櫓投げで振るい飛ばしている。 こりゃおかしいと周りは勝手に騒ぎ出した。前の山の張り手で琴櫻が意識を失っただけであるが、「立ち合いが無気力だった」とかで注意が下り、前の山が休場という珍奇な裁定となった。 真面目一本槍である琴櫻のイメージは、可笑しな判断のせいで大きく損ねられてしまったのだ。

 それからだ。琴櫻は遂に不動心を身につけた。47年11月、48年 1月と連覇を遂げて横綱に上がったのだ。 左喉輪は「ウルトラ喉輪」と呼ばれ、右おっつけと併用すると破壊力充分、開眼すればポンコツのポの字も消え、 7月に 5度目の優勝を果たした。 ここで漸く琴櫻完成と思われたのだが、 9月に早くも崩れ、しまいには新入幕の大錦に敗れてしまった。 49年 1月左膝の皿を骨折し、 3月無理に出たせいもあってか怪我は治らず、 7月場所前に引退した。 182cm 150kg。 横綱として66勝34敗20休。年寄白玉襲名のはずだったが引退発表10日後に師匠が急死し佐渡ヶ嶽を襲名して角界一の大部屋を率い、関脇琴ノ若を娘婿とし、17年11月に定年退職、その日に琴ノ若が引退して佐渡ヶ嶽部屋継承ということになった。 その後しばらく琴ノ若の新佐渡ヶ嶽とともに稽古場に姿を見せて「大師匠」の立場にあり、琴欧州の大関昇進伝達式には大師匠も同席するという珍しい光景が見られた。 19年 7月の琴光喜大関昇進をも見届けて、 8月14日に歿した。「不知火型」の土俵入りは初め何かもっちゃりしていたが、その後腰が割れるようになり迫力を増した。なにしろ人並み外れたおでこが迫ってくるのだから。この横綱には前方空中回転という特技があったそうだ。


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