横綱伝 54代〜57代
54代 輪島 大士優勝14回 殊勲賞 3回 敢闘賞 2回

 初めて本名で登場した横綱であり、学生相撲出身の横綱第一号である「蔵前の星」こと第54代横綱輪島大士は、本名を輪島博といい昭和23年 1月11日に石川県七尾市に生まれた。 中学相撲の県大会で優勝し高校大学と進み、43・44年と連続学生横綱となり45年 1月幕下尻附出でデビュー。 少年時代から力士のブロマイドを手に入れては自分のサインを記し悦に入っていたとか、大学生になって後輩をつけ人に見立てて侍らせていたとか、入門後も幕内の貴ノ花に奢らせていたとか、様々な伝説がある。

 力士輪島は 2場所連続全勝で 5月には十枚目。 9月には優勝し46年 1月入幕、47年 1月小結、 3月関脇、 5月に初優勝。 11月大関と順調すぎる出世を見せる。48年 5月全勝優勝しあっさりと横綱を掌中にした。 11月12日目対貴ノ花戦で右手人差し指と中指の間を裂き、13日目横綱北の富士に外掛けで敗れ休場。 しかし周りの崩れがひどくそのまま優勝。49年 9月までは「輪島時代」と呼ぶにふさわしい土俵振りだった。 「黄金の左」と謳われ、立ち合いこそ下手だが左下手を取り右おっつけで揺さぶって左下手投げで白星を稼いだ。 突っ張りもあってなかなか強烈だった。

 大横綱への道程を論ぜられるようになった矢先、11月初日若三杉の外掛けに仰天し、50年 1月初日麒麟児の変化にバッタリ。 3月 3日目増位山の内掛けにまた仰天と土俵中央での醜態が目立ちはじめた輪島。 ちょうど左半身だけではなく右四つの相撲を目指そうとした過渡期に腰痛を発症し絶不振に陥る。 師匠の命で精神修養に出され、 9月に復帰。51・52年と北の湖と覇権を争うまでに回復した。 輪島は北の湖より 5歳上、しかも30kg以上軽い。従って北の湖に千秋楽負けても決定戦があるという場合でも、決定戦は考えず本割に執念を燃やして必ず取った。

 その後は右膝の捻挫や腰痛再発、さらに頸椎捻挫・左腕麻痺など滅茶苦茶な体調となり、北の湖が絶対的な王者となったこともあって連続した好成績を挙げるのは難しくなっていき、 特に終盤になると疲れて崩れる場所も多くなったが、54年と55年に 1度ずつ優勝し、計14度の優勝を飾った。 56年 3月引退。 186cm 132kg。横綱成績 466勝 142敗85休。定年を間近に控えた師匠が廃業し部屋ごと花籠の株を譲られたが、夫人の 2度に亙る自殺未遂、 そして年寄名跡を借金の担保に充てていたいわゆる「花籠事件」でとうとう廃業。 プロレスラーからタレント、およびアメフトチームの監督、学生援護会勤務など結構多忙のようだ。

 引退まで本名で通したが、地元石川県の輪島塗り業者が反対したからだともいう。 北の湖の擡頭までは圧倒的に強かった輪島、その存在は宣伝効果充分であった。 土俵入りは、間の取り方は良かったものの、初期には脇空いて前屈みなどを散々に酷評された。 後年は随分良くなり、落ちついた土俵入りをやり、北の湖のそれとは実に好対照であった。ただすり手がなかったが。 輪島は左四つということになっているが、元来は右四つ左上手。しかし右が強いのと体重がさほどないことが相俟って、 入門直後に左下手右絞りに切り替わった。後年体ができて実力も備わってからは、右四つ左上手からの吊りにも威力を発揮し、幅広い取り口を示した。 足腰は硬いがすり足は見事で、常に腰が割れて崩れず、気合があれば盤石の強さを見せた。 だが晩年になって気合が切れることが多くなると、途端に腰が浮いてバタバタと崩れ、強豪横綱の印象をやや薄めてしまった。


55代 北の湖 敏満優勝24回 殊勲賞 2回 敢闘賞 1回

 その巨体と馬力が特徴的で、史上最年少横綱記録、年間最多勝記録、横綱勝星数、在位場所数、連続勝ち越し記録、連続二桁勝ち越し記録を打ち樹て、 「北の怪童」「モンスター」「不沈艦」などの渾名をもち、憎まれるほど強かった第55代横綱北の湖敏満は本名を小畑敏満といい昭和28年 5月16日、 NHKの大相撲中継本放送が始まったその日に北海道壮瞥町に生まれた。

 幼稚園に行くのに近所の小学生を従えて歩き、中学 1年で柔道初段。町の大会で高校生を破って優勝している。 自宅には数多くの相撲部屋からスカウトが来ていて、鉢合わせして喧嘩になることもあったとか。 そのうち三保ヶ関部屋のおかみさんから手編みの靴下が送られてきた。三保ヶ関部屋に入ったのはこれが決め手だったという話だ。

 42年 1月中学 1年で初土俵。 2年後には中学 3年で幕下。義務教育修了者のみの入門となった現在これは二度と破られない快記録である。 46年 5月十枚目、47年 1月入幕。一度落ちているがすぐ戻り、48年 1月新小結、11月関脇。この頃の北の湖は突っ張りが主武器で、 後年の北の湖をイメージさせる取り口ではなかった。転機となったのはこの場所12日目の富士櫻戦で左足首を亀裂骨折したことである。 北の湖はこの負傷のため翌49年 1月場所前も稽古不足、ここで開き直り、体当たり戦法に切り替えたのである。 そうしたら見事に当たって14勝で初優勝、大関に昇進することとなったのである。大関はたったの 3場所、 9月には横綱となり最年少記録を樹立、いまだに破られていない。 出羽一門ということもあるが理事長の春日野(栃錦)が自ら土俵入りを指導に来たのも期待の大きさの表れであった。 その土俵入りだがだんだん速くなり、大鵬とは対照的に50秒台で終わってしまうスピード振りだった。

 横綱北の湖となり、輪島不振の間王者として君臨するはずだったが、49年 7月・11月・50年 3月・ 9月と決定戦 4連敗を喫した。 稽古不足とよく言われ、動きが鈍いとも評され、51年 5月決定戦で輪島を破りここからやっと王者らしくなった。 52年 3月に初めて全勝を記録し、これ以降 4年近くは北の湖の全盛時代である。53年 1月から五連覇を飾り、年間82勝の新記録を作る。 55年までは他を寄せつけない強みを示した。56年 1月また決定戦で千代の富士に敗れ、夏巡業で右膝を痛め、11月遂に初土俵以来初の休場。 1143回連続出場、50場所連続勝ち越し、43場所連続二桁勝ち越しの記録がストップ。57年以降は怪我との戦い。 なかなか良くならない膝に加え、足首や脹脛も痛めて苦闘を続けたが、それでも「新国技館で取る」の一念で59年 5月復活の全勝優勝を飾った。 新国技館こけら落としの60年 1月土俵に上がったが、そこにはかつての北の湖の面影はなく、一つも勝てず引退した。 179cm 169kg。在位63場所の成績は 670勝 156敗 107休。一代年寄北の湖として14年 2月から20年 9月まで理事長を務め、24年 1月からまた理事長職に戻った。

 そう言えば北の湖は若年出世をしていながら「未来の横綱」と注目されることがあまりなかった。 新入幕で負け越して陥落、新小結でも大敗して落ちている。それが関脇になって急上昇し横綱にまで上がって驚かれた。 さらに北の湖は序二段で 7戦全勝優勝した次の43年3月、初の三段目という場所で 7戦全敗という記録を残してもいる。

 全盛期の北の湖は左かちあげ右おっつけあるいは上手を引いて無造作にドカドカドカと相手を詰め、ドッと吹っ飛ばしたものである。 上手投げもあったが、腕力充分の犬ころ投げで、味も何もない無造作なものだった。それも馬力相撲なるが故である。 しかし右に廻って上手を取りにいったり、巻き替えを多用したりしたため、細かすぎるという評も一部にはあった。


56代 若乃花 幹士優勝 4回 殊勲賞 2回 敢闘賞 4回

 切れ味鋭い右上手投げが鮮やかで人気のあった第56代横綱若乃花幹士は、本名を下山勝則といい昭和28年 4月 3日に青森県大鰐町に生まれた。

 二子山が噂を聞きつけ、わざわざ中学まで足を運んだが、こともあろうに大会間近で、顧問が困った。 「今下山に抜けられたら困る」と言うのに対し校長は「なーに、今に出世したらウチの学校が有名になるんだ」と言って本人ともども前向きで、かくて入門と相成った。 43年 7月初土俵。だが体が柔らかすぎてとかく無理な体勢で粘るため一度足を折った。 治ってからは快調そのもので48年 7月十枚目、11月入幕。一度落ちるがすぐ返り咲き、49年11月新小結で初日横綱輪島を外掛けに討ち取るなど11勝し一躍注目を浴びる。 50年 1月関脇。しかし 5月肝炎にかかり平幕へ後退。それを克服して51年 9月再関脇から 3場所連続11勝で52年 3月大関。 5月には初優勝を飾り、父の遺影を抱えて涙する母の像が全国に中継された。この優勝で「年内横綱」という声も立ったが、流石にそうはいかなかった。 しかし両横綱に肉薄し、調子を落としていた輪島を追い越すかという勢いをも示し、53年 3月、 5月と連続優勝同点を記録し、晴れて横綱となった。 ここでそれまでの若三杉壽人から師匠の名である若乃花幹士を襲名した。 二子山が部屋初の横綱に譲ってやろうと前々から考えていたそうだ。左四つ右上手投げは腰の切れが良く実に華麗だった。 立ち合いに左前褌を取って出る取り口にも鋭さがあり、外掛けも得意としていた。「強い」という感じではないが、55年までは安定した土俵であった。

 若乃花には立ち合いで踏み込まず上体だけで当たる癖があり、54年 1月対三重ノ海戦でそれを突かれ、当たるところを左差し右を首に巻いての肩透かしに一瞬にして土俵に埋められた。 また富士櫻を大の苦手とし、しばしば惨敗を喫した。脇の甘さもあって頼りなさが常に目立った若乃花だが、55年 9月と11月の内容から考え、来る56年には若乃花もいよいよ一本立ちだと期待されたものの、 肝臓病の再発と痔疾が重なり大崩れ。 9月11勝しているが、優勝の関脇琴風に抵抗できずに敗れ、雲行きの怪しさを予感させた。 57年 5月久々に優勝争いをし千代の富士と相星決戦を戦ったが、その間にも出羽の花に片腕で投げ飛ばされるなど不安がつきまとう。 そして痔の再手術後に迎えた58年 1月、 5日目朝潮に突き倒されて引退を決意した。 188cm 135kg。横綱成績 260勝86敗65休。初優勝の場所から23場所連続して二桁勝ち続け、その後も含めて次点と同点合わせると15回に上るが、 優勝は 4回に止まり、期待ほど伸びなかったということになるのだろうか。土俵で自分を表現し尽くせなかった不運な横綱である。年寄間垣として平成10年から理事を務めたが、 19年 3月に脳内出血を起こし、軽症であったとはいうものの半身不随の状況で、21年からは役員待遇に退き、部屋経営も極めて困難になったため25年 3月で閉じた。 弟子のみならず自分自身も旭富士の伊勢ヶ濱部屋に転属することとなり、一門を越えての異動ということではあるが、同じ青森の出ということなのだろうか。 よくよく考えると、間垣は少し遡ると伊勢ヶ濱系の株で、元に戻ったとみることもできる。

 土俵入りは右腕の構えが変わっていた。というのは、腰を割ってせり上がりに入ろうとするとき、 右掌から肩までで恰度U字型を描くからである。しかし全体的な動作は伸びやかで、せり上がりに非常に時間をかけていた。


57代 三重ノ海 剛司優勝 3回 殊勲賞 5回 敢闘賞 1回 技能賞 3回

 前捌きの良さで横綱を掴み、張り手を交えた激しい速攻が売り物だった第57代横綱三重ノ海剛司は、本名を石山五郎といい昭和23年 2月 4日に三重県松阪市に生まれた。

 母子家庭に育った石山少年は、中学を出ると力士を目指して東京に出たが、背が足らない。アルミ工場で働いて背が伸びるのを待ち38年 7月初土俵。 同期は大関旭國。この旭國は序二段を 1場所で通過するが、三重ノ海は13場所もかかる。 出羽海曰く「幕下優勝するまで居るのか居ないのかわからん存在だった」。44年 3月十枚目、 9月に入幕し45年 7月新小結。 この場所横綱大鵬と玉の海を破り 9月関脇となる。家賃が高くすぐ落ちるが、46年11月再小結、47年 1月再関脇と再び大関目指し驀進するかに見えた。 ところが47年 7月、 5勝 1敗と好調だったが 6日目の晩、急性肝炎で病院へ救急車で運ばれ無念の休場。 その後も三役と平幕を往復するが、50年になって好調が続き11月初優勝を果たし大関の座に就いた。

 本家出羽海部屋の牽引役たらんを期待されたが、51年 1月新大関の場所、 7勝 1敗で迎えた 9日目対魁傑戦で無理に小手投げを打ったところ掬い投げに返されて足首を痛め、その場所は何とか勝ち越したが、 続く 2場所を負け越して大関を陥落してしまった。 7月の10勝ですぐに復帰したが、「クンロク」「八勝」ばかりで「大関の窓際族」とまで言われた。 52年11月、輪島に対しバチバチ張りまくって寄り切りに破り、「無茶苦茶なファイト」とも言われたが、「弱い大関」脱却のきっかけとなろうとは、誰も思わなかった。 53年 1月に二桁勝ったがまだ染みついたイメージを払拭するには至らなかった。しかし 5月からは常に二桁勝利を続け、内容にも冴えを見せた。 54年になると横綱候補になり、 7月の優勝同点で実際に横綱となったのである。人間こうも変わるものかとまで思われたが、横綱になっただけでは終わらなかった。

 新横綱の 9月、 6日目を終わって 3敗。休場かと騒がれるが 7日目花道で嗽水の代わりに酒を飲み気合いを入れて臨み、旭國の寄りに対し乾坤一擲左下手投げで勝ち立ち直る。 そして11月に14勝で優勝。それだけでなく55年 1月は全勝で、高齢横綱昇進者が誰も果たせなかった「連覇」「全勝」を成し遂げた。 不振を極め、稽古場で金城を相手にしてもゼーゼー喘いでいたのが、敵なしの技能横綱に見事に変身したのである。 だが神通力はここまで、その後は燃え尽きたかの如く不調を極め、 7月に腰を痛めたのが響き11月に引退した。 181cm 135kg。横綱時55勝23敗30休。 年寄山科を襲名したが僅か半月で武蔵川となり、56年 8月に部屋を創設、 1横綱 3大関を育て、特に平成10年代前半には一大勢力として角界を席捲した。 14年からは理事に就き、20年 9月に北の湖が理事長を退いたあとをうけて理事長に就任、多難すぎる時期の舵取りに当たり、 22年 8月に胃癌予後のため辞職するまで務めた。また武蔵川部屋は22年11月に藤島(武双山)に譲り、名跡交換を行わなかったことから部屋の名も藤島部屋に改まった。 25年 2月定年退職、武蔵川の名跡は横綱武蔵丸に渡り、出羽ノ花の武蔵川は喜偉、三重ノ海の武蔵川は晃偉ときた流れに沿い、武蔵丸にも偉の字をつけて武蔵川光偉とした。

 張り手を交え、前捌きの応酬からふっと身を沈めるとあっという間に二本差しになってしまう。 妖しげなまでの巧さを見せた。喰い下がっての寄り身に勝負師の真髄を見たという好角家も多い。 現存する中で「雲龍型」土俵入りを披露した横綱としては最も祖型(二代梅ヶ谷の型)に近い型を演じた横綱である。 やっと武蔵丸が横綱となり、三重ノ海の型を継承した。武蔵丸の型は、先に横綱となった曙・貴乃花・若乃花とは一風異なった土俵入りであるように見えるだろうし、 何せ三重ノ海引退から19年経って出た継承者であり、見慣れない型でもあるだけに、周囲の横槍が入らないかどうかが心配であったが、結局教わったままに通して終わった。 次は誰が継ぐだろう。


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