| 58代 千代の富士 貢 | 優勝31回 殊勲賞 1回 敢闘賞 1回 技能賞 5回 |
体のバネは抜群で、中学校で陸上競技を始め、松前郡の競技会に出て走り高跳び1m62の大会記録、渡島管内の大会でも三段跳び 12m58で優勝。 専門コーチが居たらオリンピックものだったといわれる。相撲は大嫌いだったが対抗相撲に無理矢理引っ張り出される。 その直前虫垂炎にかかり手術を受けたが筋肉が厚くてメスが入らない。手術はしたが麻酔が切れている。 それでも歯を食いしばって耐える秋元少年を見た岡本という医師が、九重(千代の山)を角界に送り込んだ若狭竜太郎に連絡。 秋元少年はその後例の相撲大会に大将として出場。寄り詰められたが「ウオォォォ」という叫びとともに相手を吊り上げて真後ろに放り投げていた。 若狭はこれを見て感嘆し九重に連絡。その九重が直々にやってきて説得。45年 9月初土俵となった。
大秋元の名で出発。46年 1月千代の富士を名乗る(もっとも番附では点無しの冨だが特段区別されていなかったらしい)。 11月三段目。47年 9月幕下。49年11月十枚目と好調。しかし48年 5月 6日目左肩を脱臼。 少し動かしたら入ったので放っておいたのだが、これが後々苦しむ原因ともなった。50年 9月入幕。 このころの相撲はただ天井向いて投げを打つばかり。故に通ぜずその後幕下まで落ちるが、53年 1月再入幕し 7月には小結を務めた。 小結昇進を決めた 5月の相撲は千代の富士にしては緻密で、中に入って両廻しを引くや、投げてばかりでなく吊り寄りの速攻で相手を破るというもので、専門家から絶賛された。 けれども肩の方は万全ではなく、54年 3月 7日目対播竜山戦でおっつけをまともに受けて、右肩まで外れてしまったのだった。 この時の入院で初めて体重が 100kgに乗ったが、書類上の手違いから公傷が認められず、 5月 3日目から出たところが左腕だけで 9勝、気の強いところを見せて 7月幕に返った。
55年 3月10日目対若乃花戦で左前褌で寄る相撲を取って完勝、開眼のきっかけとなる。11月関脇。素早い立ち合いと強すぎる引きつけ、そして出足の凄さに磨きがかかり、 56年 1月、沸き立つウルフフィーバーの中、北の湖との決定戦に上手出し投げで勝ち初優勝、大関となる。 7月優勝し横綱に推された。新横綱では足首故障が祟り途中休場、最初 3年余は、強いときは恐ろしく強いが、やや頼りない部分も見受けられ、 特に59年は、股関節捻挫や巡業中に落ちてきた屋形の材木が肩に当たった影響から中だるみと言われるようになり、 5月には蘇った北の湖の寄りに完敗、また 9月には入幕 2場所目の小錦に三発で押し出され、 11月に優勝して久々の好調と謳われたが、それでもあと何年続くかという不安は消えなかった。
新国技館ができ、北の湖が去り、隆の里に衰色が濃く見られるようになった60年 1月、緩急自在の相撲で全勝優勝、ここから 2年は独走態勢を築き、速攻の出足こそやや鈍ったが、 あの頭を押さえての上手投げ、通称ウルフスペシャルで勝ち進む。62年に僅かな崩れが出て、千代の富士時代の終わりが近づいてきたという認識から、「次代を担うのは誰」というアンケートまで試みられたが、 63年にはなお円熟味を増し(円熟してしまうとあとは衰えるだけという意味から、千代の富士本人は「円熟」と言われることを嫌った)、53連勝を達成した。 平成元年 7月三女を失い数珠をつけての場所入り、弟弟子の横綱北勝海との決定戦に勝ち、12勝 3敗ながら、場所前の憔悴振りから想像もできなかったような神懸かり的な優勝を果たした。 2年 3月通算1000勝を達成。11月には31度目の優勝を飾った。 3年 1月左上腕二頭筋の肉離れを起こし(幕下時代に右腕もやっている)、 5月に再起を懸けたが、初日貴花田、 3日目貴闘力に敗れ、10年弱の在位中に様々な大記録を残して引退。 ここに千代の富士時代は幕を下ろした。優勝決定戦に出ること 6回、すべてものにしている。 183cm 126kg。横綱としては 625勝 112敗 137休。土俵入りは気合が入りなかなか上手かった。戦後随一の「魅せる」土俵入りという点では誰もが一致するところであろう。
年寄陣幕から九重となり、大関千代大海や小結千代天山を擁して九重部屋第三期隆盛期を築いたが、 その千代大海も10年以上大関として粘ったもののとうとう22年 1月で力尽きたため、九重部屋もおとなしくなってしまった状況にあったが、 23年 7月からの 5場所間で関取を 5人も出し、またまた活気に溢れている。
| 59代 隆の里 俊英 | 優勝 4回 殊勲賞 2回 敢闘賞 5回 |
43年 6月、下山少年(若乃花)を誘いに来た二子山(若乃花)がタクシーに乗ると運転手が「浪岡町にも大きいのが居るよ」と言う。 早速飛んでいって高谷少年を誘い、下山少年とともに同じ夜行に乗って入門した。 7月初土俵。ところが若三杉(下山)が入幕したときまだ幕下だった。 というのもボトル 3本は楽々という酒豪振りが祟って糖尿病に罹り、体重が落ちて闘病生活を余儀なくされたためだ。 それゆえ摂生に努め栄養学を学び食事はカロリー計算通りに実行。漢方薬を愛用し「薬草博士」呼ばれたりした。
入幕は50年 5月。しかし顎上げて吊る陸奥嵐に「あいつは顎を上げて吊るからいかん」と言われ大いに腐る。 右四つの粗い力相撲で、千代の富士とは違った意味で雑な取り口だった。十枚目に下がったりしていたが、52年 3月には小結に昇進した。 しかしまたまた54年 3月十枚目落ち。すぐに戻り、 7月に隆ノ里から隆の里と改める。 9月新関脇。56年には大関候補にのし上がるが、糖尿体質で体調維持が難しかった。 化膿してみたり発熱したりで体が言うことを聞かず、大関昇進に何度も失敗して琴風に追い越されたが、56年 9月から二桁勝利を続け、57年 3月に新大関となった。
特筆されるのは千代の富士に 8連勝したこと。56年 7月から57年 9月まで千代の富士はまったく歯が立たなかった。 右の相四つだったこともあったのだろう、がっぷりになると自信満々の隆の里は動きを封じて完勝していた。 大関としては常に二桁勝ち、57年 9月の初優勝は全勝だった。そして58年 7月には千代の富士との相星決戦。 外掛けから引きつけ充分に寄り倒し、 2度目の優勝で横綱となった。 そして新横綱の 9月、それまで悪評の「マラソン立ち合い」と呼ばれた腰高な立ち合いを改めた隆の里は辛抱で勝ち進み、 全勝で千秋楽同じく全勝の千代の富士と史上 4回目の横綱全勝決戦を戦い、右四つから堂々の吊り出し。 15日制下では初めての新横綱全勝優勝の偉業を成し遂げた。片男波(玉乃海)などほれぼれしてしまい玉錦のさがりを寄贈したという。 これらを含め 4場所連続千代の富士と千秋楽相星決戦を行い、うち 3勝したのは立派だった。
ところが高齢横綱の盛りは短く成績は下降の一途、「綱疲れ」ともいわれ、徐々に辛抱しきれないような相撲振りが現れ始めた。 59年夏頃からは肘や膝に故障が発生し、11月以降は60年 7月を除き休場続きで、結局61年 1月引退。年寄鳴戸となった。 土俵入りは「腰を割らないとサマにならない」という理由から「不知火型」を採った。柏手とせり上がりにはかなりの迫力があったが、 3箇所ある筈のすり手を 1回しかやっていなかった。 182cm 159kg。横綱時95勝42敗75休。本人が「江戸の雷電と闘いたい」と言うほど怪力には自信があった。 優勝は 4回であるが、 2回全勝優勝がある。型を持つ力士は強い。
平成元年に部屋を興し、いったん行ったダイエットをやめて現役当時の体に戻し、殆ど出稽古をさせず、自ら胸を出しながら理詰めの指導を続けた。 若の里・隆乃若と関脇を出し、稀勢の里は大関に挑むまでに育てたが、自らの体調は極めて悪く、23年11月 7日歿。
| 60代 双羽黒 光司 | 殊勲賞 5回 技能賞 2回 |
北尾は突っ張りを持ち、右脇が堅く、怪力ではないが腕力もあり、誤って両差しになられても一方で上手を引いておれば長身を利してぶん回すことが可能で、 その恐るべき懐の深さで相手の計算を狂わせ、素質充分の天才型と大いに期待をされ、11月には一横綱二大関を喰い、60年 5月関脇に上がるという全く順調な出世。 だが些細な怪我を理由に休場しては再出場するなど、土俵態度には疑問符がついていた。 とはいえさらに地力をつけ、61年 1月新大関。 4場所を10・10・12・14勝(優勝同点)で横綱を許された。協会としても将来性を高く買っての推挙だったのだろうが、優勝はなく、その素質から見ていつでもなれそうな雰囲気もあり、焦る必要はなかった。 横綱昇進を好機とし、推挙式前に北尾を双羽黒に改めた。理事長春日野(栃錦)の命名だという。
ところが新横綱の場所、途中から痛い痛いと言い出し途中休場。62年 1月には再び決定戦に出たが、風邪と肋骨骨折の千代の富士に立ち合い負けして吊り出され、またも優勝ができない。 3月は10日目から左膝痛で突如休場。この間ついた病名には虫垂炎や左膝痛のようなまともなものから、日射病・食中毒といったものまで実に様々だった。 その後も振るわず、迎えた11月双羽黒は久々に快調。13連勝して期待を持たせたが、九重部屋の二横綱に敗れ結局は賜盃を手にすることができず、 12月30日師匠とのトラブルから師匠夫人に怪我を負わせ、自身は失跡、廃業に追い込まれた。 199cm 157kg。横綱成績は74勝33敗13休。 優勝は周囲の力士の状況にもよるので、優勝してもおかしくない星も何度か挙げていながら結局ゼロだったのは不運といえなくもないが、 横綱時代は不調の場所が多く、やむを得ないかなと思うしかない部分もある。
土俵入りは「不知火型」だったが、なりが大きい割に迫力がなく、意識して力を込めることもあったが、リズム感が良くないのか、奇妙な印象が残る。 その上、一箇所余計な構えがあり、「交通整理のよう」とか言われた。 「双羽黒」双葉山と羽黒山を合わせた名前だが、あるところにはこう書かれた。「羽黒」は、稽古嫌いの大関若羽黒の「羽黒」で、 「双」は若羽黒よりさらに稽古をしないからだ、と。それが強ち間違ってはいないといえる点、恥ずかしい。 その後、プロレスラーやらスポーツ冒険家やらの肩書きを持ったがうまくいかず、「武輝道場」なる謎の格闘団体の師範を経て、立浪部屋のコーチに収まった。
| 61代 北勝海 信芳 | 優勝 8回 殊勲賞 3回 敢闘賞 3回 技能賞 5回 |
素質はあまりないが不屈の闘志と猛稽古で押しの型を覚え、58年 3月十枚目、 9月新入幕。 どんなに不利な体勢になっても勝負を捨てず好勝負を見せた。61年 1月 8日目の大関北尾戦など好例。 千代の富士との三番稽古が有名になった。59年 1月に早くも小結、 3月には関脇に座っていた。 そのころの評判は「土俵の名脇役」だった。「大関栃光に顔つきも相撲も似ている」と言う人もいた。 師匠も栃光の印象を保志に重ねて指導した。
素質を見せて出世を重ねる北尾を横目に、自らは脇役を決め込んでいた時期もあったが、61年になって大関狙いを言明、 3月に初優勝を飾り、 やや上がつかえたが 9月に大関となって保志から北勝海に改名した。史上稀に見る難解な四股名ではあるが、北は北海道の北、勝は十勝の勝で読みは「十(と)」、海は地元広尾町の海で「ほくとうみ」。 「勝」に「とう」という読みがあることから「ほく・とう・み」であるという説があるが、「ほく・と・うみ」が正しい。 その素質から考えて、大関になるだけでも驚くべきことと言えたが、大関 5場所は61年11月の大崩れを除いて立派すぎる成績、 62年は年初から11・12・13勝と続け、真面目大関の北勝海は62年 7月真面目横綱として登場した。
横綱としても充分に面目を保って迎えた 6場所目、63年 5月14日目対旭富士戦に備えて支度部屋で準備運動中に腰を痛め、 7月から 3場所連続の休場を強いられた。 この間冷凍治療などを試み、当初は11月再起の予定であったところ、回復は決して早くなく、63年中の再起を断念して年明けに備えた。
平成元年 1月再起の土俵に上がる予定だったが、初日前日に高熱を出して大いに焦った。ところが天皇崩御で初日が一日遅れ、熱も下がって出場することができた。 その初日、太寿山を押し出すが「足が出ない」と言う。10日目安芸ノ島を寄り切って「調子のいいときより星が残るんだな」と不思議がっていると、 12日目大関朝潮に押されながら咄嗟の腕捻りで膝を着かせる。体は本人の思う以上に動いた。千秋楽旭富士に敗れ全勝は逃したが、決定戦で旭富士を寄り倒し優勝をもぎ取ったのである。 2年 3月には大関小錦・関脇霧島と壮絶な決定戦を戦い抜き優勝。責任感を前面に押し出して土俵を務めた。 3年 3月14日目横綱大乃国戦で前から悪かった左膝を痛めてからは満足な土俵を務められなくなり、左半身が痺れる状態となって 4年 5月番附に名をとどめながら場所前に引退。 北勝海は膝の柔らかさが武器の一つであっただけに、膝故障は致命傷となった。
土俵入りはテレビでも「決してうまいとはいえませんが」と言っていたことがある通りうまくなかったが、ただ闘志は伝わってきた。 181cm 151kg。横綱成績 250勝76敗 109休。年寄八角として旧九重部屋の建物を八角部屋とした。協会内では理事になっているが、24年から務めている広報部長が適任かどうかには疑問が残る。
| 62代 大乃国 康 | 優勝 2回 殊勲賞 5回 敢闘賞 2回 |
同じく柔道で名を馳せ、そして角界入りした魁傑の目に留まり、53年 3月初土俵を踏む。当時から期待のホープといわれ、57年 3月には十枚目に上がっている。入幕は58年 3月。 156kgの堂々たる体といったって、後に 215kg(最高時)にまでなるのだからまだ痩せている。 9月小結で負け越して11月平幕に下がり、ここで何と史上初の平幕三横綱総なめをやってのけた。 初日千代の富士、 4日目隆の里(昇進後初黒星)、 6日目北の湖となぎ倒した。もう次代のヒーローは大乃国だと誰もが思った。 見事な肉体、それでいて柔らかく、右四つからの寄りは逸品で、加えて土俵際での粘りも相当なものであったからだ。
59年 1月関脇、 3月大ノ国から大乃国となる。ところがここで意外ともたつき大関は60年 9月。 体が急速に大きくなったのに加え、右足踵を骨折して癒えるのに時間を喰ったことが一因であった。 昇進後も踵は思わしくなくて一桁勝利が多く、周囲を散々やきもきさせたが、62年 5月に突如大爆発し、全勝優勝。 腹を生かすようになって11月横綱となった。
その新横綱の場所、極度の緊張からか 8勝止まり。63年 3月も 2日目から連敗し悪い癖を覗かせたが、千秋楽で北勝海に追いつき、決定戦で逆転して優勝した。 また11月千秋楽には千代の富士の連勝記録を止め、存在感を示したが、大乃国の活躍は平成元年 5月で終わってしまった。 太りすぎからくる酸素不足や、それの対策としての減量の失敗により、 195kgまで落としたが力まで落ちてしまい、元年 7月は途中休場、 9月には負け越して引退を申し出、却下された。11月を休場し 2年 1月に懸けたものの、 8勝 3敗から崩れて千秋楽に足首を骨折という悲惨な土俵、 この怪我により 9月まで全休。 185kgまで減らして11月に復帰、 3年 3月には準優勝までいき 5月に期待されたが今度は右膝関節下炎症で休場。 7月初日曙の突っ張りに土俵下に巨体が吹っ飛び、 8日目限りで引退となってしまった。運もない横綱だった。 189cm 215kg。横綱として 155勝79敗 105休。
土俵入りは雄大さを見せていた。肥体ゆえに窮屈に見えたが、落ち着いた土俵入りであった。 相撲振りは結局最後まで右四つの寄り一点張り、落ち着いている時は腰を割ってすり足で出ていく完璧なものだったが、 顔を張られたりして慌てると、途端にバタバタし始めて自滅した。投げは柔道をやっていた割には下手だったが、 打つときは小細工も何もなく思い切って打つため、時に大きく決まり、小錦を振り倒したこともあった。
年寄芝田山となっている。現役のときは見事な肉体が「見事すぎる肉体」となり、「過ぎたるは及ばざるが如し」の典型となってしまった。 親方になってから大幅に減量したが、11年 6月に部屋を持ってからは「体で教えなければ」とて増量に転じた。 それどころか大関時代から自ら作るようにまでなったお菓子好きが高じて「第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業」なる著書を(続篇も)出版した。 ということは、巨体の原料は生クリーム?あんこ?実家ではあんこの原料になる小豆を生産しているそうだが…
| 63代 旭富士 正也 | 優勝 4回 殊勲賞 2回 敢闘賞 2回 技能賞 5回 |
初土俵は56年 1月。旭富士の四股名の旭は師匠の旭、富士は当時旭日昇天の勢いだった千代の富士の富士である。 「相撲の申し子」と言われ出世街道を驀進し、57年 3月十枚目。58年 3月に入幕し、11月には小結となった。 ところが59年 3月には幕尻に下がったり、 9月に再小結となったがまた転落したりで落ち着かない。この年 7月には前場所の全勝以来勝ち続けていた横綱北の湖に勝っているが、 地力そのものはまだまだだったようで小結と平幕を往復し、61年 1月になってようやく関脇の座を掴んだ。だがまたも往復に陥り、62年 3月から漸く関脇に定着できて11月に新大関となった。 この頃、大関朝潮は旭富士を苦手にしていた。ところがその朝潮は若手の頃の大乃国には強く、面白い対照をなしていた。
63年 1月には千代の富士を破って初優勝を決め、一気に横綱かと思われた。力も充分に備わり、成績の点でも申し分なく、 横綱になっていなければおかしいほど。だが数少ない負けが殆ど惨敗だったことが目に障って大きく印象を損ねたようで、 加えて慢性膵炎の再発と腰痛発症で平成元年 7月から 5場所連続一桁勝利に終わった。もう終わりだと誰もが思ったが、旭富士の持ち前のじょっぱり精神が反発。 遂に 2年 5月からの連覇で横綱となった。右四つの寄りに力があり、また出し投げ、肩透かしも鮮やかだった。 全身が柔らかすぎるためか、ガチッとしたところはなかったが、全身を使って激しく煽る寄り身も時には見せた。 横綱になって 5場所目、 3年 5月に小錦を千秋楽の本割・決定戦と連破して逆転で 4回目の優勝をしたが、 7月は稽古不足で 8勝と不振、 9月には場所中に膵炎が再発し、 4年 1月に引退した。土俵入りは琴櫻の指導による「不知火型」だったが、今一つ節度と迫力がなかった。 189cm 143kg。横綱時71勝29敗24休。優勝は全て14勝で、青森県の先輩横綱鏡里と同じである。旭富士の全盛期は二つに分断され、各々が 1年ちょっとで、花の盛りは短かった。 しばらく年寄旭富士として在り、引退相撲が終わってからは安治川部屋に属していたが、 5年 4月に安治川を部屋ごと継承した。実はこの継承は面白いもので、継承日は番附発表日の 4月26日付ということになっているのだが、 既に番附には旭富士改め安治川の記載があるのである。既定路線であったとはいいながら、手続きとしては少し強引といえる。 継承後、部屋の力士の四股名には「安」を冠していたが、大半の読みは「あ」なのでただの当て字としか思えない四股名が多く現れた。 19年11月に伊勢ヶ濱を継いで部屋も伊勢ヶ濱部屋となり、それを機に関取だった安馬(のちの日馬富士)・安美錦・安壮富士を除いて四股名を改めたのは、皮肉というべきだろうか。 その後、立浪・伊勢ヶ濱連合一門がかなりの変転を見せ、19年 1月に立浪一門、24年 5月に春日山・伊勢ヶ濱連合一門と変わり、同年11月に伊勢ヶ濱一門となるに及んで、一門の主となった。 日馬富士を横綱にして自分の土俵入りを継がせ、申し分のない親方人生といえる。
旭富士は柔和な顔つきである。新大関のときまでは時間いっぱいになって気合いが入ってもやっぱりホワーンとした顔をしていた。 それが63年 1月、この場所は座蒲団も新調したのだが、顔も(意図して)厳しい表情をするようになり、 そのお蔭か見事に初優勝した。その後も時間になると厳しい表情を見せたが、取組が終わって花道を戻るときには普通の顔。 その落差があまりにも大きく、対照が面白かったし、似顔絵のネタにもされていた。