| 64代 曙 太郎 | 優勝11回 殊勲賞 4回 敢闘賞 2回 |
ハワイでバスケットボールをしていたのでホノルルのパシフィック大学に進んだが、監督と衝突し一年で中退。 自宅にいたところに、二つ年下の弟に入門を勧めにきた東関(高見山)から「身代わりスカウト」されて(弟は平成元年来日するもすぐ廃業)入門した。 初土俵は63年 3月。手足が非常に長く、力士向きの体型ではなかったが、稽古熱心で平成 2年 3月十枚目。 9月には入幕し、 3年 3月には新小結で勝ち越し、序ノ口以来連続勝ち越し18場所という新記録を作った。 5月関脇。 4年 5月の初優勝で大関となった。
7月新大関の場所、巴富士と稽古していて右足小指の骨を折って休場、 9月一時は 3勝 6敗となったが、残りを勝って 9勝でおさめた。 11月からの連覇で横綱となり、 7月からは三連覇を果たし、 6年 3月、史上初めて巴戦を二度制し 7度目の優勝、当分曙時代が続くと思われた。 しかし場所後の巡業で左膝を痛め、 5月 9日目小城錦戦で右膝も痛め、11日目貴闘力戦で悪化。 ロサンゼルスで手術を決行し、 9月の再起を目指して夏巡業に参加したが、無理が祟って完治が遅れ、11月にずれ込んだ。 その11月に10勝し、 7年 3月には14勝で 1年ぶり 8度目の優勝を遂げ大復活を果たし、貴乃花と共に時代を築くものと大いに期待された。
翌場所も貴乃花と相星決戦を戦ったが、11月からまた怪我続き、絶好調の 8年 7月にも14日目に負傷した。 この横綱は、 2人の決定戦( 5年11月、 9年 5月、11年 7月)、 3人の巴戦( 5年 7月、 6年 3月)、 4人( 9年 3月)、 5人( 8年11月)という様々な決定戦に出場、取った番数も10番( 7勝 3敗)に上る(13年 5月に貴乃花が追い越した。戦績は 6勝 5敗。出場回数は曙の 7に対し貴乃花は最多の10)という珍しい記録を持つ。 9年 5月、逃げ切り型だった曙が珍しく本割から連勝して貴乃花を降し 9度目の優勝を遂げた。 この時また貴乃花との並立時代を期待する声が上がったが、この頃には貴乃花は下り坂で曙の内容もこれといって素晴らしいわけではなく、案の定時代は続かない。
9月に左膝を痛め、10年に入り殆ど二桁で精一杯、さらに11月場所前に腰を打ち、ヘルニアになった。 再起不能と思われ、11年 1月には引退届を提出、慰留された。 5月初日から連敗したがよく立ち直って11勝、 7月には優勝争いを引っ張るまでになったと思いきや 9月はまた負傷で途中休場。 この間貴乃花の方も負傷が重なって両者共にガタガタになったが、12年 1月から貴乃花と共に11勝と12勝を 1回ずつ挙げて回復基調に乗せ、 5月には両者とも13勝し、 7月貴乃花がまたまた負傷休場する間に曙は独走、とうとう優勝を10回に乗せ、そればかりか 4回目の力士選士権制覇(本場所ではないから価値を割り引かねばならないが、一応双葉山と並ぶ最多記録)、 7年振りの年間最多勝、そして11月の優勝と、すっかり第一人者の座まで取り返してしまったかに見えたが、 常々痛みを抱えていた両膝の故障は、既に力士たりうる限界点を超えていた。翌13年 1月を全休した曙は12日目に引退を決断、 千秋楽翌日の 1月22日、優勝後一番も取らないというこれ以上ない綺麗さで引退に踏み切った。 最後の優勝にあっては、過去誰も達成し得なかった横綱大関七人斬りという大記録を残した。 これは横綱初中期には二子山部屋に、晩期には武蔵川部屋に一人で立ち向かった曙らしい記録として大いに価値がある。 203cm 236kg。横綱になってから 432勝 122敗 166休。
土俵入りは気合の乗った堂々たるもので、かなりうまい部類に入った。 横綱中期までは割合にゆっくりやっていたが、 9年半ば辺りから早くなり、最もゆったりしていた時期よりは30秒弱短くなった。 四股名は始めは大海、ついで曙(点なし)、新大関から曙(点あり)である。 後進指導の熱心さにかけては右に出る者がなく、巡業先の稽古で曙が土俵に上がれば、必ずなかなかの盛り上がりを示したものであった。
立ち合いの肘から先全てを使った両手突きで先制しての突き押し、また四つでも上手を取れば寄り投げ捻りもあるが、立ち合いから踏み込まず捕まえにいっては懐に入られ足腰の脆さを突かれることがあった。 逆に言えば、徹底した突きや喉輪を見せているうちは、文句のない箆棒なまでの強さがあり、横綱初期までは突きこそ強烈でありながらも、 腰が引けていて構えが悪かったが、 7年以降は改善が見られ、一時は逆に腰が先行してしまうくせに右足が出ないという状態になってしまったものの、 横綱昇進前から時に用いた張り差しをも巧みに織り交ぜるようになった12年 5月以降の円熟した捌きは実に見事で、 豪腕横綱にしてはよくここまでまとめたものだと思うほどの見事な内容を示し、全身を使い切って燃え尽きた。
| 65代 貴乃花 光司 | 優勝22回 殊勲賞 4回 敢闘賞 2回 技能賞 3回 |
初土俵は63年 3月、父譲りの強靭な足腰、さらに相撲経験もいい効果を齎して上々の快速出世、平成元年 5月には幕下で優勝を遂げ、 9月に関取となって翌年 5月には入幕を果たした。この場所は直前の足の故障で大負けを喫したが、11月に再入幕を果たして翌年 3月には初日から11連勝の離れ業。 均整が取れ、本来は決して柔らかくはない足腰(これは父と異なる)も稽古充分でよく練り上げられ、自在の働きを見せた。 9月、この場所は中盤から大崩れしたが、その初日巴富士の腕捻りに大きく傾きながら、その体勢のまま投げ返した相撲には驚かされたものだった。 4年 1月、体重大幅減で期待は大きくなかったが、大関小錦を右へ掬って打っ棄り、苦手という苦手を悉く倒して堂々初優勝、 9月にまた優勝し、11月は股関節故障を抱え初日から 4連敗ながら10勝にまとめ、翌年 1月は11勝で、内容的にやや物足らなさもあったが、大関への昇進が決まった。 大関としては滑り出しは順調で、 5月に優勝し 7月も同点だったのに、本来問題にしない決定戦を問われ見送られてしまう。 その後、翌場所腰痛、その翌場所肝機能障害に見舞われ、後者による負け越しも出て順風満帆とはいかず、 6年は横綱が懸かる地方場所で崩れ、 7月には序盤に崩れ土俵内に力水を吐き、負けたのに水つけにいってさらに土俵を蹴る有様、 後半持ち直したものの、必要以上に問題視された節があって印象を傷つけ、翌場所全勝達成でもまだ信頼されなかった。
横綱挑戦 7度目の11月、場所前に熱を出したものの、場所に入るや盤石の強味、全勝で文句のない横綱推挙。 果然なおも強くなり続け、土俵の主軸の座にすわった。低く当たって主に右から前褌を取りにいき、一方を取ったら引きつけて他方も取り、 大概相手充分に組んでは差し手を返し、場合によっては両廻しとも引きつけ、相手の上手を切って力を出させず、腰から寄り進むのが持ち味。 腕力強く、足腰なお強く、従って腕に頼らず自在の腰の備えを見せ、外見上は悠然たる相撲振りで、手際の良さが特に目立った。 しかし、必要以上に慎重な相撲を取ることが多く、手際の「鮮やかさ」には欠ける憾みがあり、どころか頭を下げすぎて自らの動きを縛ることが間々あったため、 兎角面白味がないと言われたりして、本人には気の毒であった。けれどもやはり強味は懸絶していて、 8年は年初からもたついていたが、 9月にそのもやもやを振り払う 4回目の全勝優勝、 好角家が期待した通りの基本にかなった鮮やかな取り口で、相撲史上に冠たる大力士への途がいよいよ開かれた…ものと誰もが信じて疑わなかった。
しかし貴乃花の横綱人生はここから大きな変転を見せることとなった。発端は場所後の巡業での背筋肉離れ。 必ずしも完治していないのに出場を明言し非難された上に、急性腸炎に襲われて結局11月を休場、この間上体だけが肥えてしまい、 稽古が急減してスタミナ切れが目立ち、体をのしかけて潰す相撲に変わってしまったのである。 さらに腰の備えも踏み込みもないのに右の棒差しが出て、それでも腕力だけでねじ込んで浴びせ倒してしまうその内容の悪さには失望させられた。 10年 1月には場所前に引いた風邪が悪化し途中休場、翌場所も散々で途中休場し、 11月以降の内容は相撲といえるものでなくなり、 11年 1月には体調を壊し 7敗、 3月は肩の骨折で途中休場、 7月には出島の猛進で左手薬指を脱臼してしまう。 本来抱えている足腰の硬さが顕著になり、矢鱈に腕に力を入れるばかり、それも相手に何ら応えず、加えて始終腰高で前にも後ろにも脆くなり、特に尻から落ちることが極端に多くなって目を覆わしめた。 翌場所なぜか出てきて呆気なく休場に追い込まれ、11月初日にも負けて横綱連敗記録 1位に名を連ね(不戦敗を含めば 1位タイ、含まなければ単独 1位)るに及んで「最期」が間近なることを思わせるまでになってしまった。 だがこの頃から稽古量が漸く上向きになり、この場所11勝の星を残して希望を繋ぎ、翌年も概ね再浮上の雰囲気で復活も間近とみられ、 12年 7月に左上腕二頭筋を切る怪我に見舞われたが、13年 1月に 2年半ぶりの優勝を掴み取った。一旦崩れた相撲内容はさらに変貌し、嘗ての自在の内容に代わり、 必ずしも低くはないが完全に腰を固め、充分に捕まえて逡巡せず勝負に出るようになった。 粘り強さだけは失せていて安定感はやや劣るが、力強さは最盛期以上とも思える相撲振りだ。 この強味を引っ提げて 5月の中盤などは向かうところ敵なしの物凄さ、13日目の千代大海戦は剛横綱たるに相応しく見事だった。 だがこの相撲が「新生貴乃花相撲」終焉となった。翌14日目に突然元のような強引攻めをやって叩きつけられ、右膝を亜脱臼。 横綱戦のみを残し、当然休場すべきであったところ、この横綱らしく無理矢理出場し、優勝はもぎ取った。 大多数のファンが感動してしまったが、体調管理が盛んに云々される時期にあっての出場は「敢然」でも何でもなく、大きな禍根を残した。 渡仏して半月板破片の除去手術を受け、完全な状態での再起を目指して暫しの全休、14年 7月まで 7場所となった。年齢の問題と負傷箇所の問題とにより治癒に時間がかかり、 9月に出場して12勝、力が残っていることを示すも貴乃花らしい相撲は少なく、そればかりか場所終盤には膝が利かない状態になって11月を全休、 翌年 1月出場したが散々な内容で 2日目に左肩を強打、途中を休んで 5日目から出たが、 7・ 8日目と惨敗して引退した。 185cm 160kgが最高だが全盛時は 145kg程度。横綱として 429勝99敗 201休。四股名は貴花田から 5年 3月貴ノ花、 6年11月より貴乃花。 年寄貴乃花として16年 2月から二子山部屋を継ぎ、貴乃花部屋に生まれ変わった。千田川(安芸乃島)との確執などに片意地な面が見受けられ、再興の期待ができそうには見えなかったが、 徐々に落ち着いてきているようでもある。早くから改革を謳っていると伝えられ、のちには大鵬と相談するなどしているとも聞く。 現役時代の土俵態度のまずさを思えば心配はかなりあるが、幸いにして定年までは四半世紀もあり、その分期待を持つこともできるといえる。
土俵入りは新横綱以来 4年に亙って酷評を受け続け、 8年 7月には理事長の境川(佐田の山)をも怒らせたことがあった。 手順通りやってはいるが、そそくさとしすぎている上に節度がなかったのである。特に掌の返しに明瞭さがなく、 加えて擦り手がなかったり、前傾が深すぎてみすぼらしかったり、四股の足を引っ張り上げたりで散々だったのだ。 でも10年11月頃から改良に次ぐ改良が見られ、12〜14年のものは堂々としていた。ただ最後を飾るべき引退土俵入りはのろいだけで不出来だった。
全盛期の相撲振りは安定感に秀れ、若くして貫禄も見られた一方で、土俵態度から威厳・貫禄が滲み出ることは終になかった。 土俵下で土俵の一番をまともに見ないで控え力士の義務を果たさず(これを「自分の相撲に集中している証」と褒めるのはどういうことだろう)、 自分の相撲が終わっての控えで土俵の勝負がつくかつかぬかというときには、早く帰りたいという態度をあからさまにし、 控えで水入り相撲を目にした際にも、すぐ脇に廻しの緩んだ琴光喜がいながら、規定されている補助に向かわないなど、不思議であった。
難ばかり書き立ててしまったが、昔は「横綱になっても自分の稽古しかしない」とまでいわれた貴乃花が、特に12年からは胸出しの量を増やしたと伝わり、 横綱に課せられた難題「稽古では下を育てながら、本場所では百年早いというところを示す」に対する答えを、13年に見られるようになった「堅牢」な相撲振りを以て示した。 その期間があまりにも短すぎたことが残念だった。
| 66代 若乃花 勝 | 優勝 5回 殊勲賞 3回 技能賞 6回 |
兄弟ともに予想に違わぬ出世で平成 2年 3月十枚目。 2年 9月には入幕した。この頃は勝負勘と強靭な足腰で凌ぎ凌ぎして何かしら技を繰り出して勝つといった勝ち方。 変化が見られたのは 3年 9月。 2日目横綱旭富士に真っ向から当たり右上手投げで叩きつけた。 4年になると、怪我こそ多かったが、おっつけに磨きがかかった。そして 5年 3月に堂々14勝の初優勝を飾る。 7月優勝同点で大関。 武器の右おっつけで大横綱栃木山を目指せといわれた。こうして 6年 9月までは充分な大関ぶりを見せていた。
ところが11月場所前に右腰を痛めて力が急落、ごまかしごまかしでやっと土俵を務める状態で、貴乃花の奉納土俵入りで太刀持ちを務めた際も、痛みがひどくて冷や汗ものだったらしい。 立ち合いも 5年 5月あたりから汚くなり、「大関が変化しちゃあいけないんですか」などと詭弁を弄したこともあった。 しかし 8年11月の12日目から復調の兆しが見え、 9年 1月初日から14連勝で 3回目の優勝を遂げた。 全勝は逸したが、土俵人生の中で最高の相撲を見せた。
翌 3月も絶好調だったが、 3日目の勝ち相撲で右大腿二頭筋を断裂、全治 3ヶ月余の重傷を負ってしまう。 7月の復帰後、内容が上向かず復活は遠いと思われたが、翌年 3月 3日目から12日目まで完璧な相撲を取り、14勝で優勝、 5月も混迷の中どうにか連覇、12勝ながら横綱審議委員会では反対論も全く出ず、あっさり横綱となった。 関脇以下の力士に 8連敗という経験(対武双山)を持つ大関が横綱に推されたが、これは最悪の記録であった。 さて、横綱として10年 9月と11年 1月は奮戦して素晴らしかったが優勝に届かず、他の場所は疲労やら負傷やらでガタガタで、 11年 5月は前場所の左大腿肉離れに加えて 4日目に左足首を負傷、翌場所も連続休場して迎えた 9月、連敗スタートから星の上では持ち直したが脚の動きが甚だ悪く、 10日目にまた左足の肉離れ、11日目から全敗で負け越した。休場を続けて再起を図ったが捗々しくなく、12年 3月に出場し 2勝 3敗で身を引いた。 負け越しの際に往生際が悪いという批判があったが、半年後の引き際は潔かった。横綱成績は61勝38敗57休。 179cm 128kg。 年寄藤島を襲名したが、真偽のほどは定かならずとはいえ弟子養成には何等の興味も示さぬと巷間に伝わり、 タレント業に強い興味を抱き、故か角界に残ることは難しく12月18日退職していった。
土俵入りは周囲の意見もあって「不知火型」、隆の里が中心となって琴櫻や初代若乃花まで登場、 本命と見られた貴乃花はその中に加われなかった。当時の貴乃花の土俵入りを考えると、実に良いことであった。 若乃花らしい、早間ながら切れのある土俵入りであった。 7年11月には弟の貴乃花との兄弟による決定戦を戦い優勝したが、 両者とも動きが硬く、期待されてきた兄弟決戦だったものの、終わってみて変な後味を残した。
若乃花の相撲はおっつけや筈での押し、左四つになっての寄り、出し投げ、肩透かしが主で、足も利いた。 特におっつけから中に入って攻め込む変転の妙は近来稀に見る名人技だったが、体力がさほどでもないため、 馬力や怪力任せに驀進してくる相手には根底から引っ繰り返されてしまい分が悪く、だからといって差してくっつこうとすると奇怪な形になってしまい、 深い上手からでも振ってくる琴ノ若あたりには苦戦を強いられた。けれども、存分に働けなかった横綱時代は別にしても、 馬力相撲が幅を利かせた時代、従って周囲に取りにくい相手がズラリ居並んだ時代、下手をすれば大敗も避けられないにもかかわらず、 加えて腰と大腿の大怪我を抱えたままでありながら、故障時とその直後を除いて概ね二桁勝ちでまとめ、しかも横綱に到達したのだから、 やはり並の技能派力士ではなく、大関としては強かったのだ。縦令横綱を保つに足る地力は備え得なかったにしても。
| 67代 武蔵丸 光洋 | 優勝12回 殊勲賞 1回 敢闘賞 1回 技能賞 2回 |
アメリカンフットボールをしていたが、ハワイでスカウトされ、武蔵川(三重ノ海)のもとに連絡が廻った。 かつて同じような経緯で外国人力士(武蔵坊)を預かり、あっという間に逃げられた武蔵川は非常に慎重で、半年間の「テスト期間」を設けて適性をチェックし、 これならやっていけそうだという確信が持てた平成元年 9月に新弟子検査に送り込み、初土俵を踏ませた。 この時記録された武蔵丸の背筋力は 225kgである。パワー炸裂で 3年 7月十枚目に上がって優勝をさらう。 11月入幕。蹴手繰りを狙った旭道山を空中遊泳させるなど噂通りの破壊力であった。
4年 5月に小結、 9月より関脇に定着したが、この辺りから相撲に迫力が見られなくなり、大関には足りない成績が続く。 理事長出羽海(佐田の山)も「相撲がおじん臭い」と苦虫を噛み潰したような顔で言う始末。 噴火したのは 5年11月。 8日目横綱曙を張り手の強襲から突き落とし、13勝 2敗で決定戦にも出た。 翌 6年 1月12勝して大関に昇進、 7月は荒々しさを存分に生かして全勝優勝を果たし、綱近しを思わせた。 その後 7年 7月までは12勝以上を挙げたが 9月以降崩れ、 8年前半は全て 9勝となり全く冴えない。 7月から二桁に戻したが、今度は肥り過ぎの傾向が現れた。 突き押しの回転が鈍くつけ込まれ、四つでは相手に密着すれば勝てるが、腰が軽く引きつけが甘いため簡単に転がってしまう始末で、強い大関の名も消え失せた。
結局突き押しの限界を悟り、四つで取れる体でもないため、太い腕を差し込んで出る相撲に切り替え、これに活路を見出だして迎えた11月、 11勝 4敗ながら 5人残った決定戦を制したが、完全復調ではなかった。翌場所も12勝、 9月は両横綱を破って優勝同点だった。 安定感は増したが、今度は大関という地位の楽さを知ったため伸びが止まり、深酒で体調も崩した。 10年 1月12勝で 3回目の優勝をしたが終盤崩れ、 3月は右膝故障で 8勝止まり。 半年で20kg余りまた太ってしまい、11年 1月は連続勝ち越し50場所の大記録に並ぶのがやっとだった。 翌場所10kg絞って優勝したものの、周囲が悪くて救われた印象で、 5月も優勝して横綱になるなど思いもしなかった。 兎も角その 5月は前場所とは比較にならぬほどの右腕の冴えを見せつけたのである。
土俵入りは師匠三重ノ海の型を継いで、一緒に指導を受けた北の湖の型をも混ぜたもの。 横綱になりたての頃はせり上がりがかなり不安定で、11年 9月12日目など腰を割った途端に後ろによろめいたこともあり、 全体的にもズルズルやっているような印象を受けたが、徐々に落ち着き、節度らしいものも出るようになった。 横綱昇進直後 3場所はずっと12勝、右からの攻めは冴えず、 9月からの連覇も今一つ印象が良くなく、 12年 1月場所前に痛めた左手首の影響で途中休場、連続勝ち越しは55場所で止まった。 3月は皆勤したが 5月を右膝負傷で休むなど、「剛横綱」への道から少しずつ逸れ始めていたが、 9月に優勝を飾り軌道修正、 この場所と13年 1月は14勝を挙げてピークを形づくった。しかし優勝ということになると一年間見放され、 そればかりか 7月場所後に右足首関節炎でダウン、 9月は与金星 5の新記録をつくってしまい 6敗、その場所後は左足首痛風でまたダウンとご難続きで、 11月に優勝して面目を施したのも束の間、この優勝場所で左手首の剥離骨折を起こし、14年 1月途中休場と、相撲も運も安定しない。 3月からの連覇で地力こそは示したが、 7月は首の不調で終盤 4連敗。 9月貴乃花に雪辱して優勝したものの、翌場所にとうとう左手首が限界を超え、 佐賀県の病院に入院して手術を受けた。回復は全く捗々しくなく、稽古も殆どできる状態ではないのに15年 7月強行出場、ボロ負けで途中休場に追い込まれた。 11月に出場するも体がついてこず、 7日目を最後に引退した。横綱成績は 216勝67敗 115休。 191cm 216kg。年寄武蔵丸となり名跡の取得の話が聞こえず、 いずれ帰国するものかと思っていたが、師匠の定年に合わせて武蔵川を取得し襲名、甥っ子のために部屋を持つ意向という。
この人の引退会見ほど衝撃的な内容を持ったものもあるまい。ずば抜けた体力と剛力で鳴った武蔵丸、実は高校時代のアメリカンフットボールで首を痛め、 そもそも入門当初から左肩には力が入っていなかったという。左攻めの強化を期待されながら果たせなかった所以、最後まで思うような相撲は取れなかった由。 なるほど相手に右上手を浅く引かれると左手が逆手になったままもがく形になることが多かったが、ここまでの重傷とは思いもよらなかった。 最後まで隠し通したこともさることながら、最初から致命的な故障を持っての入門で、ほぼ片腕の力で横綱にまでなって昭和三大横綱に次ぐ 4位(のち魁皇が追い越す)の幕内勝数を稼ぎ出したあたりは、恐るべき怪力士だった。
| 68代 朝青龍 明徳 | 優勝25回 殊勲賞 3回 敢闘賞 3回 |
朝青龍の四股名は明徳義塾のそばにある青龍寺に因む。11年 1月初土俵、 9月には幕下に上がっていた。ここで 1年かかったが、12年 9月新十両、 13年 1月に入幕するや 5月には小結となり、初日武蔵丸を右下手投げでぶん投げて注目度を高めた。全身のバネが素晴らしく、特に右の廻しを掴むと投げが強烈。 但しそれに頼るようになってはいけないと、突っ張りを主体として攻めるのを優先した。奇襲として足取りや蹴手繰りも持っていた。 14年 1月に新関脇となってその座を喪わず、 2場所目から11・11・12勝と続け、 7月に千代大海と優勝を争ったことも高い評価を受け、場所後大関となった。 この頃は突きは強いが出足が良くない欠点があった。その代わり当たりが良くなり、左でも右でも廻しを取るか、そうでなくとも両差しになれば間をおかずに動き、 投げや小股掬いで崩しての寄りもあり、勿論投げそのものも強烈で、幅の広い相撲が取れるようになった。新大関の場所は先制攻撃がなく終盤に崩れてしまったが、 翌場所は思う存分に自分の相撲を取って初優勝を飾り、15年 1月は調子が良すぎたか中盤に雑な相撲が出たが、それでも危なげなく連覇を飾り、大関 3場所で横綱栄進を果たした。
新横綱の場所は思うように動けず苦闘を強いられたが突っ張りの出足が見られるようになり、 5月はまさに快進撃というべく、攻められても腰の備えが殆ど崩れず、優勝を遂げた。 ところが、 9日目に旭鷲山に這わされた際、自らの手で掃いた蛇の目を指差すのみならず審判長を見つめて抗議の意思を示した上に、 旭鷲山の肩が当たったのに怒って下がりを振り廻し、翌場所 5日目には旭鷲山の髷を掴んで引き落とし反則負けとなり、 土俵外でも騒動となった。上記の奇行のほかにも本人の不手際に起因する騒動が立て続けに起こり、横綱昇進時にも危惧された通りでもあるため、 その鮮やかな土俵振りの割に人気が上がらず、15年に協会が行った調査では横綱大関中最下位だった。 所作にも種々の問題を孕んでいた。13年11月場所中から勝ち名乗りを常に左手で受けるあたりから土俵上の振る舞いにおかしい印象があった(17年 1月初日に「天覧相撲だから」という妙な理由で右で受け、 3月からはほぼ右で受けるようになった)。 横綱となり、土俵入りの指導は曙が中心となり、北勝海が補助をした。昇進後半年経ったあたりから所作に締まりがなくなった時期があったものの、 16年になってから間の取り方と型の決め方とがよくなってきたので、この点では大丈夫だろうと思っていた16年 5月、しかも 2日目からであるが、二字口に戻る歩数を 1歩減らした。 歩数及び踏み出す足は 3歩半ずつで正面側と決まっていて伝承されてきたものであり、自分勝手な改変を加えられる部分ではない。
16〜17年にかけて朝青龍は我が世の春を謳歌し、16年 9月を除いて総て優勝、七連覇、年 6場所全制覇、年間84勝という偉大な記録を樹立し、
一度底を打った人気もかなり上がってきて、まさに塁を摩する者さえない不動の第一人者の座に在った。
立ち合いに突っ込んで突き放すか左から入るのが主で、両差しがうまく、一時は吊り落としに拘ったこともあったものの、
概して緻密且つ変転自在の取り口で他を寄せつけなかった。ところが17年 7月以降は、勝ってはいるが明らかに内容が下がった。
横綱になってから稽古不足の声が掛からないほうが珍しく、足腰はどんどん緩んでいき、動きにも鈍りが見られ、怪我を誘発するまでに落ち込んできた。
焦りからか相撲が荒っぽくなり、気が乗ったら乗ったで雑な相撲になり、凋落の一途を辿った。そして19年 7月、負傷の治療を理由として夏巡業の休場届を出しながら、
モンゴルに帰ってサッカーに興ずる姿が報道されるに至り、とうとう 2場所出場停止等の処分が下された。
さらに処分された理由を解する器を持たぬため、ショックを越えて精神疾患に陥るなど、問題は余計に拡大した。
謹慎明けの記者会見で「相撲が大好き」と語ってはいるが、競技としての相撲については兎も角、様式に彩られた大相撲が大好きだとは到底思えない。
20年 1月の復帰以降はかつての絶対的な強みがなくなり、特に20年後半はまともに相撲が取れなかったが、
21年になって無茶攻めを戒めたかのような落ち着いた取り口を多く示すようになり、じっと息を潜めて機を窺う場面が目立つようになった。
22年 1月までの 7場所は、絶頂期を過ぎて左肘などをだましだまし使う横綱としては十二分の星と相撲振りであり、円熟味を見せたものである。
だが言動には変わりがなく、22年 1月の 6日目深夜に泥酔して人を殴った、という報道をきっかけに引退か解雇かを迫られ、 2月 4日に引退となった。
結局はあれほどの強豪力士でありながら振舞が粗笨で(やれ品格がどうのという話が喧しくなったが、そのような分かりにくい語を用いるまでもなく、単に力士最上位者たる器を持ち合わせていなかったというだけ)、
大横綱として後世に伝わることなどなく、強かっただけの横綱として名が残ることになった。横綱成績は 463勝91敗85休。 186cm 145kg。
引退後、何を目指しているのか今一つ良く分からない。テレビでは時々見かけるが、タレントになっているわけでもない。
24年 5月にモンゴルで酒に酔って警官に暴行、罰金支払い及び警官の制服代負担で済んだが、相変わらずの感を抱かせた。誤報だったようだが同年 8月にも暴行の報道が出るなど、人騒がせである。
| 69代 白鵬 翔 | 優勝24回 殊勲賞 3回 敢闘賞 1回 技能賞 2回 |
13年 3月の初土俵、番附に出た 5月は意外にも負け越しているが、各段優勝こそないものの出世は早く、16年 1月に十枚目に昇進し、 5月には幕内力士となった。 この当時の白鵬は、柔らかくて強い足腰が目立ち、得意は右四つとなっていたが、相手が攻めるのを手先であしらい、廻り込んで逃げ切る取り口ばかりで、素質の良さは見事だが、相撲内容がその素質を喰っていた。 右四つの形の良さは早くから認められていたものの、16年 7月に追風海を三度も高く吊り上げながら勝負をつけず、サッと出されて土俵を飛び出し、若さを曝露してしまった。 11月に朝青龍を初めて破り12勝、左前褌を狙う立ち合いが徐々に固まり、出足が全然なかったが突っ張りも出てきた。 17年 1月に小結、 3月には関脇となり、大関候補の一角を占めるようになったものの、関脇になった途端に右四つに組んでも全く攻めなくなってしまい、 その前に、自ら右四つに組みにいくのではなく、手を振って相手を誘うような退嬰的な相撲が続き、 7月に左足首を痛めて初の途中休場となったのも当然と思われた。 11月に小結に戻ったがひどい相撲振りで、一応勝ち越しはして18年 1月に関脇に戻り、ここで目が覚めた。 左前褌を取って右四つで引きつける相撲に自信がついた。 3月には攻めも積極的になり、この場所の優勝同点を土産に晴れて大関の栄位を射止めたのである。
新大関で優勝を遂げ、翌場所も13勝を挙げ、やや内容にはもたつきがあったものの横綱に推せるだけの地力は示したにもかかわらず、呆気ないほど簡単に見送られた。 9月には初日に痛めた右膝が徐々に悪化して崩れ、11月は場所前のトレーニング中に左足親指を折ってまさかの全休、道草を喰う結果となったが、徐々に自分の相撲を取り戻し、 19年 3月からの連続優勝で文句なく横綱となった。 5月の終盤はもう無敵の強さで、この場所急激に崩壊してしまった朝青龍を蹴落とさんばかりの勢を示し始めた。
横綱土俵入りは旭富士の指導による「不知火型」で、明治神宮の奉納土俵入りでは宮城野部屋中興の祖である横綱吉葉山の化粧廻しを用い、 太刀は(今の宮城野部屋とは系統を異にするが)宮城野部屋から出た横綱鳳のものを用いた。朝青龍が不始末で出場停止を喰っている間、白鵬はやや不安定ながら土俵の中心として在り、 20年 1月に復帰してきた朝青龍を破って三連覇、そしてさらに強みを増して 7月には全勝を飾り、必死に追い縋った朝青龍が22年 1月限りで土俵を去るに至って独走時代に入った。 五体の柔軟性を十全に活かし、左足の出遅れが解消されて動きは自在で澱みなく、右四つ左上手を引けば抜群の安定感を誇った。 かくして21〜22年の12場所間に33連勝・30連勝・63連勝と大きな連勝記録を 3つもつくり、千代の富士引退後しばらくいなかった大横綱らしい大横綱となった。 問題が頻発する角界とそれを取り巻く劣化した環境との中にあって現役力士として屋台骨を背負う状況になり、 この功績は戦中戦後の横綱羽黒山に匹敵しよう。ただ、それに加えて東日本大震災後の慰問にも現役力士の代表として精力的に動いた関係もあり、 稽古の方が充分とはいかず、力量の伸びが止まってしまったばかりか、明らかに場所終盤に疲れる姿が見られるようになった。 24年に至って古傷の左足首や両肘、左手人差し指など負傷が相次ぎ、相撲振りも土俵上の振る舞いも粗雑で沈滞しているうちに横綱並立時代に入った。 相手を大いに焦らして自分だけの呼吸で立っていながら「後の先」の美名で蔽う姿は情けなくもあった。 25年 3月にいくらか改まり、流れに任せて取ることを目指した白鵬は、まだ不完全ながらその片鱗を示して全勝 9回の新記録を樹立、 自分に残された力を以後どのように示していくかが注目される。 192cm 154kg。横綱成績は 456勝54敗。
| 70代 日馬富士 公平 | 優勝 5回 殊勲賞 4回 敢闘賞 1回 技能賞 5回 |