横綱伝 五條家免許
明治11年 6月場所の後、朝日嶽は地元山形県を巡業した。大関として、弥が上にも人気は盛り上がる。
県令三島道庸(のち警視総監)は無類の相撲好き、せっかくだからと三島は手厚くもてなす。
年齢も年齢で引退も間近だろうと思われる朝日嶽に対して、地元だけでもよかろうから横綱土俵入りをさせるのがこの上ない計らいになろうと考えた。
この時の東村山郡長五條為栄(ためしげ)は、相撲の家元五條家の二十三代目である。早速呼び寄せて朝日嶽の横綱を斡旋、
というよりは県令と郡長の地位の差で命令を下したのであろう。山形県内に限っての横綱を免許してもらった。
行司六代伊之助、太刀持ち朝見洋、露払いには酒田野を従えて、県下各地で土俵入りを披露した。
その後巡業は宮城に入るが、勧進元が喰い下がる。朝日嶽の報告により、改めて「陸羽地方」の横綱も免許してもらって土俵入りを継続している。
吉田司家にも請願が出されたものの、その間に朝日嶽は病気となって引退してしまい、その請願は等閑となってしまったが、
朝日嶽にとっては五條家免許による横綱土俵入りは力士最後の栄光として司家免許以上の意味を持つ。
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