横綱伝 京都相撲
初代 小野川 才助

 文政13年(1830)の生まれで福岡県久留米市出身。本名は森光(のち川村)幾蔵。 はじめ京都の都藤部屋から江戸追手風の門に入る。嘉永 6年(1853)11月二段目に名を出し、 安政 5年(1858)11月虹ヶ嶽杣右エ門で入幕。万延 2年(1861) 2月久留米藩抱えとなって小野川才助とし、文久元年(1861)10月小結。 翌年11月には関脇となった。慶応 3年(1867)11月を限りに京都に戻ってすぐさま大関に据えられる。 明治 3年 2月には京都五條家から横綱の免許を受けている。 9月まで土俵入りのみ務めて引退、一代頭取となって、 6年 1月13日没。 江戸では関脇止まりであったが、陣幕に一つ、鬼面山に二つ勝っていることからして、横綱まではいかないとしても、大関は充分、関脇にとどまるような器ではない。
2代 兜潟 弥吉

 文政 8年(1823)京都市伏見区生まれ。本名は林弥吉。生家には土俵もあって名門であり、本人も相撲自慢であった。 錣潟がその長身かつ厚い胸に惹かれて入門させたのが嘉永の末頃で、すでに30歳に近かった。 四股名・兜潟は兜形甲潟あるいは甲形とも書いていた。安政 5年(1858)夏入幕、大坂番附では前頭の 9枚目であった。 文久 3年(1863)大関となる。華ノ峰善吉に次ぐものである。大関たること 8年に及ぶ。 宮中に出入りし、勤皇派の拠点たる京都相撲の中でもことさらに志強く、錦の御旗を捧げ持つおりには第一人者として認められていた。 その肥躯のため孝明天皇の面前でも胡座を許された。これらの功績により京都相撲には八坂神社境内に相撲場を下賜され、兜潟には明治 4年 7月に五條家から横綱免許が下りた。 このとき兜潟48歳。免許状一巻が生家にある。 5年 3月助頭取(すけとうどり)を兼ね、以後は土俵入りのみを務め、 6年 3月頭取となる。10年11月東京九段招魂社(現在の靖国神社)における三都立会奉納相撲で京都代表として出場したが、すでに54歳、さすがに芳しい成績は挙がらずこれを限りに引退、頭取専務となり、15年没。
3代 礒風 音治郎

 嘉永元年(1848) 7月20日滋賀県大津市の生まれで、本名は西村音治郎(長兵衛)という。 慶応 4年(1868)に京都初島七藏弟子として力士となって、明治 2年 9月西の六段目に名を出した。 入幕は 9年 9月で10年 9月小結、11年 9月三府合併興行花相撲では西の大関となり、 5日目に東京の関脇梅ヶ谷を倒し大評判を得た。 その後 4年間は大関小柳常吉の下、関脇を務めたが、この頃より京都相撲の衰退著しく、京都単独本場所の開催は不可能、 何とか合併相撲でつないで、成績また振るわなかった。東京では明治 5年 4月二段目附出で、 3場所二段目で取ったことがあり、16年大嶽の門に入って 1月番附外、 5月は三役格客席という扱いで出場したが、 これぎり京都に戻って関脇となるも20年あたりから実兄礒嵐一派(一心組)に参加して自分勝手の免許で綱を張り、しかも 4月には五條家の免許まで得た。 22年 4月の 7日間合併相撲に西大関として京都相撲に戻ったが、全休である。 吉田司家の免許は23年 5月に下っている。大阪の小野川(八陣)が保証人となり、熊本の頭取が副署を出している。 京都大関としては好成績がなく、熊本県下巡業用横綱と解釈されている。五條家免許だけの横綱を締めていたが、 熊本巡業中だけは司家に遠慮して綱を外していた。礒風が司家を訪ねた際、司家側は礒風の遠慮をよしとして、申請を容れて免許を下した、ということのようだ。 それゆえ司家免許があっても公認代数に入れられていない。 一部の好角家と24代吉田追風が頑強に礒風公認横綱追認を主張した(特に「大相撲」昭和39年 1月号)が、 斯くの如き事績から考えると、小錦以下の代数を下げてまで追認すべきものとは思われない、という意見が大勢を占める。 25年 5月の合併相撲は東京が出ないため礒風は京都相撲の一部で作られた東京方小番附で大関横綱として出て、 26年 5月の花相撲 1日興行に出たのを最後に引退した。その後は大津に帰って米屋を営み、35年 6月 7日没。
4代 大碇 紋太郎大関伝・大碇へ

 大碇は明治32年 4月に横綱免許を受けたものの、京都相撲は十数年来相変わらずの衰微、 復興の見込みは全く立たず合併相撲で何とかつないでいた。大碇は言うまでもなく横綱の器ではない。 京都では確かに当時としては最も強かった。しかし東京では一時期大関となったにせよこの頃には幕内もどうかという力しかない。 独自の本場所を打てない京都にあって大碇は頂点に立ってはいたが鬱憤もたまっていたことだろう。 イギリス日英博覧会の話が飛び込んだ43年、大碇は恐らくここぞとばかりに雄飛を目論んで渡英したのだろう。 日英博覧会終了、大碇一行は路頭に迷ってしまった。日本に残された京都相撲の会所は大碇一行帰国の噂を聞いて大喜びで番附を作ったが、 結局大碇らは帰ってこず、主軸不在の京都相撲はとうとう瓦解してしまった。 大碇一行は欧州、米国、カナダを巡業、二派に分裂の後大正 2年のアルゼンチンから南米各地を巡業、その後パラグアイで商いを始めたもののうまくいかず、 最期に関しては定説がない。
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