横綱伝 大阪相撲
初代 八陣 信藏

 兵庫県一宮町に天保 8年(1837)年 7月13日に生まれた。本名は岩井信藏という。 農家の次男坊であったが、体格力量に優れ、力士として名を上げるべく大阪に出て小野川秀五郎に入門した。 安政 6年(1859)白藤信藏と名乗って中相撲三段目に名を出し、翌万延元年 6月玉龍で中相撲二段目、文久元年(1861) 6月には中相撲にまで上がっている。 既にこの頃から人気があり、阿波の蜂須賀侯の耳にも達して抱えられ、江戸加入を命ぜられた。 江戸では玉垣門に入り、文久元年10月玉竜の名で幕下二段目、翌年、蜂須賀侯から賜ったといわれる黒神玉之介の名に改めたが、 2年11月を最後に江戸には出ていない。 大坂では文久 2年 6月から黒神玉之助となって上段中相撲、元治元年(1864) 6月に八陣信藏と改め、遂に慶応 3年(1867) 6月には東中前筆頭に到達した。 陣幕が大阪に戻って改革された明治 2年 3月、西関脇に抜擢を受ける。 8月には大関に昇進。 4年 7月京都五條家から横綱免許を受けた。大阪相撲初代の横綱である。 7年10月の引退まで第一人者として土俵を盛り上げた。現役最後の場所から助頭取(すけとうどり)を兼ね、 8年 6月より小野川を襲名し、その間地方巡業では横綱土俵入りを見せていた。 16年 8月から取締に挙げられ、後には永代取締に推され、32年 6月を限りに弟子の大関八陣政五郎に小野川を譲って隠居するまで大阪相撲の重鎮として力を発揮した。 35年 1月 9日没。弟子に大阪横綱八陣調五郎らがいる。

 八陣一世一代の大一番といえは明治 5年 6月 6日に行われた大阪造幣寮花園内での陣幕戦であろう。誰もが陣幕の勝利を予想していたその時、 奇襲足取りで陣幕を土俵の外に投げ飛ばし、天覧の下で大いに面目を施した。ところがこの後「見苦しい」とかで30年代まで大阪では足取りは禁じ手となってしまったのであった。


2代 高越山 谷五郎

 天保 5年(1834)兵庫県神戸市の生まれと伝わり(天保 9年ともいう)、本名は高芳幸三郎。千田川平吉(吉兵衛)門下となり藤見崎由藏(由松)の名で安政 2年(1855) 6月中相撲三段目に名を出す。 5年 6月中相撲に上がって若駒由藏(芳藏・由五郎)と改名した。最初の四股名は小長龍であると記されたものがあるが、番附での確認は取れないという。 万延元年(1860)10月高越山の名で江戸幕下二段目格力士として出場、翌年 2月幕下二段目に下の名を谷五郎として番附に載り、文久 2年(1862)11月まで 5場所、 幕下二段目25枚目が最高とはいえ強さを見せ、19連勝の記録も残している。着物姿の錦絵まで板行されるほどの人気があった。 文久 2年 6月、大坂でも高越山谷五郎となって上段中相撲となり、明治 2年 3月の革新番附(縦一枚番附)で一躍西小結となった。 8月には関脇、横二枚番附に戻った 4年 7月には大関を占め、 6年 3月の京都大場所までに五條家から横綱免許が下りた。 その翌年、東京大阪合併相撲が京都と大阪で行われたが、高越山は大阪のみ出場、数え41歳で好成績は望むべくもなく、 2敗の成績で終わり、これを限りに廃業した。 紛擾相次ぐ大阪相撲から脱走した力士を率いて興行を打ち、自らは土俵入りを見せていた。13年10月に和解はしたが、自分は大阪相撲に戻らず兵庫相撲の頭取となり、 現役時より副業として風呂屋「高越湯」を経営していた。23年11月 3日にコレラで亡くなった。俳句や川柳を詠む風流人としての一面もあった。
3代 八陣 調五郎

 慶応元年(1865)12月13日に兵庫県西宮市に生まれ、本名を善場萬太郎(のちに元大坂力士・鳴尾潟栄太郎の養子になって吉井姓になる)という。 明治10年に酒造業・辰馬半右衛門の丁稚に出されたが、体格に優れ、相撲も取っていた。主人も相撲好きで、鳴尾潟の口利きで大阪小野川の門に入り、 辰馬の命名によって辰鱗萬太郎と名乗り、明治13年 9月見習二段目に出る。15年 8月に荒玉と改め、20年 9月幕下十枚まで進んだが、 21年に東京に出て滝ノ音調五郎の名で伊勢ノ海門下となり、21年 5月幕下格で出場、23年 5月入幕する。 ところがここで負け越して気を腐らせ、 8月大阪本場所で東京方小結として出たのを最後にまた脱走、大阪へ戻り24年 9月幕内附出、いきなり 8戦全勝の成績を残した。 26年11月新関脇の時八陣を襲名、 7戦全勝で27年 4月には大関となり、翌年10月にも 7戦全勝の星を残して第一人者の名を擅にしていた。 29年 9月の東京大阪合併相撲では 6勝 3敗の不調に終わったが、大阪協会から吉田司家に横綱免許の請願があった。追風は東京と交渉の上で再度申請せよと回答し、 大阪方は東京協会と協議せんとしたものの捗らなかった。30年 8月、強引にも伊勢神宮の末社であるところの福岡神理教へ誓文を入れて横綱を請願、 9月 6日に免許を受けた。誓文、免許状は以下の如くである。
   誓  文
此度御教に加盟し祖神の遺力を与へ給はん事を祈候に付ては一層愛国護教の精神を以て事ある際は提身愛国の念懈怠仕間敷仍而誓文如件

   明治三十年八月三十日
     大阪市大阪角力協会代理
       取 締  藤嶋  和一郎
       同    小野川 信藏
       同    押尾川 佐兵衛
神理教管長
 佐 野  経 彦 殿
     横綱免許の状
       八陣調五郎事 吉井 万太郎
本教々規に基き 祖神に奏上し横綱免許の状如件
   明治三十年九月六日
     大日本力士祖神祀主
 饒速日命七十七代裔
      神理教管長 佐 野  経 彦
 かくて八陣は横綱となったが、30年 9月の合併相撲を 3勝 4敗 2分と負け越してしまい、「横砂」と陰口をたたかれた。 その土俵入りはのちの大木戸とは反対に動作がこまごましているが、これも体操のようであったということである。 引退は34年 5月限り。頭取小野川を襲ぎ、長く勝負検査役を務めた。また八木節の興行師として各地を廻っていたという。大正10年 6月を限りに廃業、13年 9月23日に没した。

4代 若嶋 權四郎横綱伝・若嶋へ

5代 大木戸 森右衛門横綱伝・大木戸へ

6代 大錦 大五郎横綱伝・大錦へ

7代 宮城山 福松横綱伝・宮城山へ

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