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横綱曙引退   長大力士の光と翳

 それは、突然にやってきた。入門前から抱えていた右膝の故障、 平成 6年の両膝故障、 7〜 8年の膝内障、 9年の半月板損傷と度重なり、 11年以降本場所でも膝サポーターを常用するようになったこと、 さらに 9年半ばから土俵入りの速度が大幅に上がったこと、 加えて12年11月の表彰式で盛んに膝(特に左)を曲げていたことから見て、 膝痛はかなりのものであろうという想像は容易になされていたが、 よもや優勝後全く土俵に立たず退くことになろうとは、誰もが想像できなかったろう。 いずれにせよ、これ以上ないであろう綺麗な引き際となった曙の土俵を、かいつまんで振り返る。 なお、次のページに写真帖を用意してある。このページは殆ど文章だけであるのでご注意願いたい。
 横綱曙は昭和44年 5月 8日の生まれ、出身地は「ハワイ州オアフ島ワイマナロ、フムニキ通り」というところである。 本名はローウェン=チャド=ジョージ=ハヘオ。後に日本に帰化しようとしたとき、 「ローウェン」を生かして「ろうえん(「ろう」は木へんに「郎(旧字)」、「えん」は園)」という姓にしよう考えたらしいが、 「ろう」の字に難があって叶わなかった。結局日本名は曙太郎である。高校時代はバスケットの選手で、 大学もこの縁で進学したのであるが、本人は勉強もしたいというのに、コーチはバスケットだけやっておれという質で意見が合わずに中退したと聞く。 東関親方(曙とはかなり遠い親戚に当たるという)に会ったのは昭和63年 2月である。本当は弟をスカウトしにやってきたのであるが、 弟が諾わず、代わって立候補して飛び込んだのがチャドだった。初土俵は63年 3月、 多くの人が知るように、同期には貴乃花・若乃花・魁皇・和歌乃山・力櫻らがあり、 曙含め合計95人(この中には元幕内大雄の息子や、小錦・闘牙のつけ人として大いに名を売った伊那乃富士改メ昴もいる)。 四股名として「大海」を与えられ、大物大巨人として初めから注目を浴びていた。 前相撲で北の湖部屋の宮路を吹っ飛ばして快調なスタートを切り、難なく一番出世。 このとき既に「タイカイ」という読みの力士がいたため、大海原から太陽が昇る「曙」に改名をし、番附に載った。 記念すべき序ノ口最初の一番を初日に取り、左喉輪で押し込んで両手突きで突き倒す、これはこれは豪快な勝ち方をやる。 やられた相手は同期の古市で、後の幕下若隆盛、平成13年 1月に十枚目に昇進した小緑の実兄である。 三番相撲で貴花田と初めて対戦し、押し飛ばして勝っている。これが思い出の一番との由。 次の場所、初日に当たったのはまた古市で、同じ戦法で押し出した。非常に長い腕で相手をガンガン突き飛ばし、 貴花田・若花田とほぼ並行して昇進を続ける。平成元年 4月号の「大相撲」には「大木になりそうな貴花田と曙」と書かれた。 三段目時分で早くも将来の中心軸決定という期待の大きさだ。そのままノンストップで関取となり、入幕し、関脇で負け越すまでずっと上昇を続けていったのであった。
 曙の特徴といえば、力士としては特異とも言うべき手足の長さと、上体の極端なまでの発達である。 それはこの写真で充分に窺うことができよう。これらは破壊力の源泉ともなり、また豪快な土俵入りの演出にも大きな効果があった。 反面、長い足はそれに見合うだけの太さを伴わず、のみならず下半身強化のための四股は、その絶対量の不足を否むことができず、 従って短期的には瞬時の大力による大怪我、長期的には常に過大な負荷を受け続けることによる経年変化、 この両方によって痛めつけられ、結局は命取りにまでなった。
 技術面で言えば、まず立ち合い、一般には両手突きと言われるが、実際は突きではなく押し上げであった。 特にこれほどの巨体で、上体にばかり偏った場合、透かされると極めて危ない。 ただでさえ自分では全然踏み込まない上に、自ら上体を引っ張ってしまう恰好になる両手突きは、 当たり前だが外れると脆い(これを12年 3月に雅山にやって大失敗し、 7月にも雅山にやってよろめいた)。 このため、曙は瞬時に力をぶっつける突きではなく、相手を動けなくしておいてそのまま肘までを使って押し上げてしまうのだ。 こうして相手の胸板を丸出しにした後は、その目標に向かって突っ張り、突き切れば会心の相撲ということになるのである。 だから、腰が硬い栃乃和歌などはいい餌食だった。突き落としに脆い傾向があったのは、上体の過重に加えて右足の出が遅いため、自分の右に逃げられた場合によく倒れたためである。 次いで喉輪攻め。右おっつけを併用している場合は、左での喉輪となるが、右一本の場合が多かった。右だけのときは左では外から相手の肩を宛がっていた。 しかし、この右喉輪は、上からの押しになるため意外と効き目が弱く、さらに自分が反り身になってしまうことさえあったため、 逆に外から払われると自分から土俵を出ていってしまう破目になり、 玉春日や栃乃洋にやられてしまった。それにひきかえ、右のおっつけには力があった。勢いがあった平成 5〜 6年頃は腰が引けていたため、 おっつけの印象があまりなく、数少ない例外として 6年 1月の貴ノ花戦があるくらいであるが、その欠点が矯められてきた 7年以降はだんだん効果を挙げるようになり、 特に 9年 1月の武蔵丸戦での右おっつけは絶品だった。次いで、四つ身。一応右四つなのだが、現実には決まっているわけではなかった。 脇は決して甘くはない。これほどの肥体力士としては堅い方ではあるが、腕の長さ故、上手さえ引けていれば両差しになられても構わなかったため、 非力の琴ノ若相手には自ら誘い込んだことすらあった。また、引きつけは峻烈ではあったものの、廻しを取ってから引きつけるまでがやや遅い嫌いがあった。 投げも捻りもあり、呼び戻しも持っていたが、曙の四つ身は上手を引きつけて上体を浴びせつけ、 相手の腰をへし折るという甚だ強引なものであった。このため見た目には迫力があったけれども、無駄な力を費消しているという印象も免れなかった。 それでも大概相手の廻しの方が曙よりも高くなってしまうのだから、引きつけ力があって体重があってなおかつ大長身であるという特質を生かしたものであったことは確かだった。 右四つになれば腕が返り、低迷期の武蔵丸は相当泣かされた。また左四つになると左肘を張るのが上手く、これには魁皇が泣かされていた。 また曙の特徴としては、大関時代から張り差しを見せ、 9年以降は特によく用いるようになったという点が挙げられる。 この場合は右で張って右を差し、腕を返して左上手を取るという策略であるが、上手が引けないときの突きへの切り替えも意外と巧みであった。 これら様々な手を織り交ぜて殆ど破綻なく強みを示し続けたのが12年の土俵だったのだ。 激しい攻撃力の恐ろしさだけでも充分であるのに、加えて何をしてくるか分からず、挙句の果てには両差しまで狙ってくるようになったため、相手は対戦前に半ば匙を投げた。 ところが、曙はこれほどの策略家でありながら、同じ相手に同じ手を何度も繰り返すことが間々あった。 特に12年 5、 9、11月と千代大海が両差しを許して惨敗するというのには全く驚いてしまった。 それで星を落とす場合も見られたが、この策略家は、負けた次の場所も同じ手に打って出ることが多いという、これまた一風変わった特徴を持っていた。
 横綱としての曙は、多くの休場こそあるが、成績は立派な名横綱級である。 通算優勝11回、三連覇 1回、横綱勝率.780は、山なす怪我を抱えた中、完全総当たりで奮戦を続けた横綱として、精一杯の記録と考えられよう。 史上初の外国人横綱である曙が残した記録としては他に、 といった、風変わりなものが多い。さらに、優勝後取組 0番というのは大錦・栃木山に次ぐことで、引退の突然さを物語る。 引退直前12連勝中というのも驚きだ。 8年以降毎年年頭に「今年一年持つかどうかすら危ない」と言われ続けて 5年横綱を務め、 優勝間隔が開き過ぎたとはいえ、10年を除いて大きな落ち込みもなかったばかりか、 最後に超豪振りを鮮やかに瞼に灼きつけて、サッと引退していった。 これほどの横綱に対し即時引退なる妄言の出現を見たということに対し、曙は自らの存在によって反省を迫ったのであった。 本土俵だけを見れば、貴乃花も武蔵丸もなるほど強い。体調万全でさえあれば、曙の分を充分にカバーできる。 ところが、曙の場合は主に巡業先での若手の育成を一手に引き受けていた感すらあった。 この曙に引退を迫るが如きは全く近視眼的と言わざるを得ず、曙去れる後にこの役目を期待できる横綱大関が全く存在しない以上、 近い未来やってくるであろう貴乃花引退に起因する抜けた後の穴の大きさは、曙引退後のその大きさと比べ、遠く遠く及ばないだろうことが容易に想像される。 横綱らしさの点では、同時代に綱を締めた他の 3人よりずっと上、もういない若乃花は兎も角として、武蔵丸はとらえどころがないし、 貴乃花は13年 2月号の「大相撲」でも名指しで糾弾されている状況から推して全く期待をかけられない(但し非難の内容には貴乃花にばかり向けられるべきではない部分もあるので注意。 とは言え貴乃花の土俵及びその周囲での挙動のまずさは極端で、同様に何度か指摘された雅山でも貴乃花ほどではない)。この点でも曙に代わる力士は出てくるのか、心配でもあり楽しみでないこともない。
坪田 敦緒 / tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp