### Y 博士が愛する数式たち ### ※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。 ※「博士の愛した数式」のオマージュ作品です。 「君の心をどのように数式変形すべきなのか、自分には良くわからないんだ」 これはどこか常人とはベクトルのずれた一人の博士と、それを温かく見守る心優 しき一人の女性の日常を描いた短編小説である。 Lecture1: Eccentricity (離心率) 「Z 君、ちょっといいかな」 事務仕事をしていた Z はディスプレイの画面から声の先に目をやり、微笑みか ける。 「はい、なんでしょう」 「Eccentricity という単語を聞いて、君はどう考えるかな」 Z はキーボードの指を止め、少し首を傾げながら考え、思いついたことをゆっく りと伝える。 「確か Eccentric の名詞形ですよね。そうすると特異とか奇抜とか、そういっ た意味でしょうか」 それを聞いた Y 博士はコーヒーを啜りながら、満足そうに頷く。 「そうだね。通常はそういう意味で使われる単語だね。でもね、この単語は数学的 には固有の意味を持っているんだ」 そう言うと、Y 博士は研究室一面に張り巡らされたホワイトボードに数式とグラ フを描き始めた。 この研究室の秘書を務める Z は、この毎回突然始まる Y 博士のレクチャーを密 かに心待ちにしていたりする。 Y 博士は描いた 4 つのグラフの下にそれぞれ円、楕円、放物線、双曲線と書いた。 「Z 君、君は神様だとしよう。Eccentricity を与えることで、とある曲線の運命 を決めることが出来る。Eccentricity としてどんな値を与えたいか、好きな数字 を言ってごらん。但し正の実数の範囲内でね。」 「ええと、じゃあ 0.5 でお願いします」 すると Y 博士は胸に手を当て、ややおどけた声色で 「神様、申し上げます。その曲線の運命は楕円に決まりました。」 と曲線の 1 つを指さした。 「神様、次の曲線はどうしますか」 「ええと 1 にします」 「ほほう、良いセンスですな。その曲線の運命は放物線に決まりました。」 とまた別の曲線を指さした。 Y 博士はデモンストレーションを終えると、円、楕円、放物線、双曲線という文字 の下に「e = 0」、「e < 1」、「e=1」、「e > 1」と書き加えた。 「この e という文字、これが数学の世界での Eccentricity、日本語では離心率 と呼ばれているものだ。Z 君、君は神様であり、曲線の e の大きさを決めること が出来るとしよう。そうすると君の宣告によって曲線の運命が変わってしまう。 それが e の本質なのだよ」 Y 博士のそうした説明を聞いているうちに、Z は本当に自分が神様であるかのよ うに不思議と思えてくるのだった。 「Eccentricity は、e = 0 の状態、つまり円からどのくらいずれているかを表す ものとして名付けられたものだ。でも自分はこの根底にある考え方があまり好き ではないんだ」 「でも博士は円は美しいと普段からおっしゃってますよね。なぜ好きではないの ですか」 「そうだね、円は美しいと思うよ。昔の人も完璧で美しいものと考えてきた。だ からこそ完璧な円を絶対の基準にしてどれくらいずれているのか、つまりどれく らい特異で奇抜なものかという尺度で物事を測ってきた。それが Eccentricity の語源なのだろう」 Y 博士はコーヒーを啜ると、傍にあったおやつのバナナを手に取って再び口を開 いた。 「でも『ずれている』とされているものを皆が美しくないと考えるかと言えば、 そんなことはないはずだ。この少々曲がったバナナの方が美味しいことだってあ る。そういう『ずれている』とされているものが共存し、その良さも正当に評価 される世の中の方がずっと面白いと自分は思うのだよ。」 そう言うと、博士はバナナを半分に割ってその一方を Z に渡した。 そして博士は手元のバナナの皮を器用に剥き、「うんうまい」と満足そうに頬張 った。 Z はその無邪気な表情を見てにこりと笑うと、博士の真似をして「うんうまい」 と聞こえないくらいの小声で頷くのだった。 Lecture2: Maclaurin expansion (マクローリン展開) 爽やかで薫り高い風が窓から吹き込む六月下旬の夕方、Z はそろそろ業務を終え ようと PC の電源を落とそうとしていた。 いつもなら Y 博士は午後の講義を終えて既に研究室に戻って来る頃であったが、 今日はなかなか戻って来ない。 Z には勿論 Y 博士の帰りを待つ義務はないのだが、最近は 4 時に少し遅めのお やつの時間をとり、ちょっとしたお茶会をしてレクチャーを聴くのが定例となっ ていたので、お湯を沸かして Y 博士をもう少し待ってみようと思い立った。 ポットの湯がもう少しで沸きそうという素晴らしいタイミングで Y 博士は研究室 に戻って来た。 「いやあ、熱心な学生に捕まってしまってね。参った参った」 そう言いつつも Y 博士は心底嬉しそうである。 「お疲れ様です。コーヒー淹れますので、もう少し待ってくださいね」 「ああ、有難う。いつもすまんね」 Z がドリップ作業を始めると、Y 博士は学生から受けた質問の解説を始めた。 「今日は楕円関数というものについて講義をしたのだけれど、この関数は実は三 角関数の仲間なんだよ。そのことを説明したのだけれど、その学生はなかなか納得 しなくってね。そこでマクローリン展開を使えば分かるという話をしたら、その学 生はすっきりした顔で帰って行ったよ。いやあ、やはりマクローリン展開は偉大だ なあ」 「まくろーりんてんかい?それって何ですか?」 「ああ、すまんすまん。説明が足りなかったな」 そう言うと、Y 博士は空いているホワイトボードに次のような数式を書いた。 f(x) = f(0) + f'(0) x + f''(0) x^2 / 2! + f'''(0) x^3 / 3! + ...  ※ x^2 は x の二乗、n! = n(n-1)...2*1、' は x で 1 回微分することを表す。 「ある関数 f(x) はいくらでも微分ができる限り、こんな感じで無限個の x の多項 式で表すことができるんだ。これを f(x) のマクローリン展開と呼ぶんだ。Z 君、 微分は高校でやったかな?」 「はい、一応やりました。あまり得意ではなかったですけど」 「じゃあ sin x を 1 回微分するとどうなるかな」 「ええと確か cos x でしたっけ」 「そうそう。じゃあもう 1 回微分するとどうかな」 「ええと、-sin x ですか」 「うん、よくできました。ということで、f(x) = sin x の場合はこうなるわけだね」 f(x) = sin x, f'(x) = cos x, f''(x) = -sin x, f'''(x) = -cos x f(0) = 0, f'(0) = 1, f''(0) = 0, f'''(0) = -1 「この結果をさっきのマクローリン展開の式に当てはめてみると、こんな感じになる」 f(x) = f(0) + f'(0) x + f''(0) x^2 / 2! + f'''(0) x^3 / 3! + ... = x - x^3 / 3! + x^5 / 5! + ... 「これが sin x のマクローリン展開ということになるわけだね。さて、次に楕円関数 なんだけど、これはちょっとややこしい。まあとりあえず定義だけ書くとこんな感じだ」 y = sn(x;k)          y sn^{-1}(y) = ∫ ((1 - y^2)(1 k^2 y^2))^{-1/2} dy,          0 「この sn^{-1} というのは逆関数というやつで、逆関数というのは xy 平面で考える 場合にはちょうど y = x の直線で折り返したときに重なるような関数のことを言う。 たとえば y = 2 x の逆関数は y = x / 2 といった具合にね。とりあえず細かいことは 気にしないことにして、この楕円関数 sn のマクローリン展開を計算するとこんな感じ になる」 と言って、持っていた講義ノートにある数式のひとつを転写し始めた。 sn(x;k) = x - (1 + k^2) x^3 / 3! + (1 + 14 k^2 + k^4) x^5 / 5! + ... 「Z 君、ここで k=0 の場合を考えるとどうなるかな?見た目は難しそうだけど大丈 夫、君ならできるから」 と言ってマーカーを手渡した。Z はまさか社会人になって黒板の前に立たされる日が来 るとは、と思いつつも博士を信じて手を動かしてみた。 「こんな感じでしょうか」 sn(x;k=0) = x - x^3 / 3! + x^5 / 5! + ... 「そう、合ってるよ。よくできました。さてここでさっきの sin x のマクローリン展 開を見てみようか」 博士に誘導されて Z は博士の書いた右上がりの数式を見た。 「あれ、もしかして右辺の形が同じですか?」 「そう、その通り。実は sn x は k=0 という特別な場合に sin x と等しくなるんだ。 マクローリン展開はいろいろな使い方があるのだけれど、このように見た目がややこ しい式でも同じものなのか、あるいは赤の他人なのかを見分けるのに使うこともでき るんだ。ついでにもう一個やってみよう。実はグラフを描くと遠目では違いが分から ないほどとっても良く似た関数というのが世の中には存在する。その例が誤差関数 erf(x) と双曲線関数 tanh(x)だ。 グラフを描くと、ともに x = - ∞ で -1、x= 0 で原点を通り、x = ∞ で +1 という 格好をしている。式で書くとこんな感じだね」 そう言うと博士は Z からマーカーを受け取り、今度はノートを見ずに数式をボードに 描いた。           x erf(x) = (2/√π)∫ exp(-t^2) dt 0 tanh(x) = (exp(x) - exp(-x)) / (exp(x) + exp(-x)) ※ πは円周率、exp(*) は指数関数を表す。 「これも見た目がややこしいけど、例によって細かいことは気にしないことにして、 マクローリン展開を計算してみると、こんな感じになる」 erf(x) = (2/√π) (x - x^3/3 + x^5/10 + ...)     ≒ 1.13 (x - x^3/3 + x^5/10 + ...) tanh(x) = x - x^3/3 + (2/15)x^5 + ... 「グラフはとっても良く似ているけど、マクローリン展開で表すと違いがあるのが 直感的に良く分かるね。」 そう言うと Y 博士は思い出したように笑みを浮かべた。 「質問した学生にこれを見せたら、あっという間にマクローリン展開の信者になって しまったよ。Z 君、君も機会があったらマクローリン展開で遊んでみるといい。数式 たちが似ているのか。似ていないのかが手に取るように分かって実に楽しいものだよ」 Z には細かい部分はさっぱり分からなかったが、とりあえず Y 博士がとても楽しそう で何よりなことと、マクローリン展開は素晴らしいものらしいことは理解した。 「博士、もし私と博士をマクローリン展開することができたら、一体どんな感じにな るんでしょうね」 それを聞くと博士は一瞬固まっていたが、その後大いに笑って、 「Z 君、なかなか面白いことを言うね。君も数学的ジョークを言えるようになったの だなあ。実にいいことだ。まあ形式的には何らかの関数だと思えば、...」 愉快そうに話し続ける博士を優しく見つめながら、Z はこの憩いのひとときを貴重で 愛おしく感じるのだった。 Lecture3: Resonance (共振) 「Z 君、今大丈夫かな」 振り向くと着古した裾の長いコートを着た Y 博士がそこに立っていた。 「はい、大丈夫ですよ」 「じゃあたまには外に散歩にでも行かないかね。ちょっと煮詰まってしまってな」 「今日は特に御来客もいらっしゃいませんし、私もお供します」 それを聞くや、博士はすぐさま研究室の外へと出て行った。 Z も業務用 PC をスリープ状態にしたのを確認しつつ、上着を羽織って施錠をし た。 晩秋の夕刻、冷たい北西の軟風が樹々の葉を揺らしている。 Y 博士は横に並ぶ Z の歩調に合わせるように、いつもよりややゆっくりめに歩い ている。 散歩の道すがら、Y 博士は今解いている問題について、Z に説明している。 「非斉次バーガース方程式の非定常特別解は、斉次バーガース方程式の既知の解 から得ることが出来るのだが、逆に言えば解析解としての一般解を得る方法は発 見されていない。これを得る方法がないかを日々考えているのだが、なかなか良 い方法が思いつかなくてね」 時々 Y 博士は難しい用語を使うが、その度に Z が尋ねると、Y 博士はなるべく 平易に説明をしてくれたので、Z は何とか話の内容を理解することができた。 要するに、まだ半分くらいしか解けていない方程式の完全な答えを見つけようと しているということらしい。 説明がほぼ終わった頃、近くにある公園にたどり着いた。 Y 博士はいつ入手したのか、ポケットから缶コーヒーを 2 つ取り出し、 「ちょうどここに温かい飲み物がある。そこのブランコにでも座って休憩しない か」 と提案した。 この公園には座るのにちょうど良いものがブランコ以外に見当たらなかった。 Z は御礼を述べつつ、「はい、そうしましょう」と言ってブランコに座った。 それから暫く、二人はコーヒーを飲み、沈黙の時間を過ごした。 風は相変わらず冷たいものの、雲一つない茜色の西の空が明日も晴れることを教 えてくれている。 大の大人が二人でブランコに乗っているというのは傍目から見れば奇妙な光景か もしれないが、Z には博士と共有するこの時間が非常に愛おしく、居心地の良い ものに感じられた。 「Resonance という現象があってね」 と博士が徐に話し始めた。 自分の世界の中にいた Z はちょっと油断していたが、やや暫くして Y 博士のレ クチャーが始まったことを悟った。 「日本語では共振もしくは共鳴と言うんだけど、これは実に面白い現象でね。今 乗っているこのブランコも共振と密接に関係しているんだ」 ブランコのことを数理的な対象として考えたことがなかった Z は、盲点を衝か れた思いがした。 Z が興味深げに博士の方に目を向けると、博士は楽しそうに頷いた。 「そう、自分も大学の講義で共振の話を初めて聴いたとき、こんな身近なものに 数学が潜んでいたとはと驚いたものだよ。子供のときは少しも意識しなかった。 まさに盲点だったと言うか、気付かされたと言うべきかな。」 Z は好奇心溢れる瞳を持った博士の幼少期を想像し、きっと本質は今と変わらな かったのだろうなと思った。 それと同時に、共振が一体何者であるのかについて、気になり始めた。 すると博士は Z が問う前に説明し始めた。 「共振と言うのはね、ばねに結び付けられたおもりが行ったり来たりする運動で 考えると分かりやすい。この運動のことを振動、行ったり来たりするのにかかる 時間のことを周期と言うんだが、まずばねは『T という周期で振動したいです』 とおもりに訴えかけるんだ。このとき人間がおもりを押したり引いたりしなけれ ば、おもりは T という周期で行ったり来たりすることになる。」 とここで Y 博士は一旦話を切り、コーヒーを飲んだ。 Y 博士はこれまでの経験から Z の理解するスピードを計算し、少し時間を置いた のだった。 十数秒後、Z が納得したように眸を上げたの見て、博士は説明を再開した。 「ここで人間、例えば Z 君がおもりを周期的に押したり引いたりする場合を考 えてみよう。このとき、Z 君の力の加え方がおもりの運命を決めることになる。 例えばばねの気持ちを無視して Z 君のやりたいように力を加えたとする。そう すると、おもりは運動が乱されてちょっと複雑に動くようになる。ところがば ねの気持ちになって周期 T で押したり引いたりしてみよう。そうするとおもり は Z 君からエネルギーをもらって、T という周期で今まで以上に大きな振動を するようになる。この大きな振動をするようになる現象のことを共振と呼ぶんだ。 数式で書くとこんな感じかな。まあ数式の細かいことは気にしなくてもいいよ」 と言いつつも、ポケットの中から出した計算用紙に 「振幅 y = A cos (2πt/T) + (t/T) sin(2πt/T) (第二項が共振を表す)」 と書いて Z に渡した。 Z には数式のことは良く分からなかったが、頭の中でおもりとばねを浮かべなが ら、直観的にはそういう現象が起きるのだろうなと思った。 それと同時に、先程ブランコの話をしていたことを思い出した。 今の共振の話とブランコ、どんな関係があるのだろうか。 すると博士は Z が問う前に再び説明し始めた。 「そう、さっきブランコの話をしたね。今の共振の話でばねとおもりをブラン コ、人間を Z 君に置き換えてみようか。ブランコを漕ぐときはどうしていたかな」 「ええとそうですね、後ろに下がったタイミングで姿勢を前に倒しますけど…、 あっ」 「そう、気付いたようだね。そういうことだよ。小さいころだったら後ろからお父 さんやお母さんに押してもらったと思う。そのタイミングもブランコが後ろに下が ったときだったんじゃないかな。うまくブランコを漕ぐためには、ブランコの気持 ちになって共振を利用する必要があるということだよ」 なるほど、と Z は疑問が氷解して心底嬉しくなった。 その一方で、それとは別の疑問がもうひとつ湧いてきた。 「博士、私が質問しようと思った瞬間に、説明をしてくれましたよね。私の表情っ てそんなに分かりやすいですかね」 すると博士はひとしきり笑った後、優しい眼差しで答えた。 「まあそういう言い方もできるかもしれないな。でも大事なことは共振が起きるの はおもりやブランコのようなモノだけじゃないってことだ。人間の心だって共振が 起きる。だから自分は君の心になるべく寄り添って、君にとってちょうどいいタイ ミングで答えただけだよ。」 風は冷たいのに、熱い西日が Z の顔を照らしていた。 然し顔が熱いのはそれだけではないことを Z は知っていたのだった。 それと同時に無意識の罪深さも知ったのだった。 Lecture4: Never-give-up attitude (諦めない心) 「博士、質問してもよろしいですか?」 Z が自分から Y 博士に質問したのはこれが初めてであった。 Y 博士は元来レクチャーすることはむしろ好きな方であったから、嬉しそうに答えた。 「うん、何でも聞いてごらん。答えられる範囲で答えるよ」 「失礼な質問かもしれませんが、博士にこれまで解けなかった問題や解くのがすごく 大変だった問題ってあるんですか」 「いや、全然失礼ではないよ、気にすることはない。解けなかった問題はいくらでも あるよ。解けずにお蔵入りしている問題もあるし、長年解けずに現在進行形で解こう としている問題もある。」 Y 博士はそこで一旦話を切り、おやつのカステラを齧ると、コーヒーを口に含んだ。 「解くのがすごく大変だった問題も数えたらきりがないな。発表の締切直前という 極限状況の中で解いた問題も大変だったけど、数年かけて解いた問題もあったな」 「それは数年間ずっと朝も夜も考え続けていたんですか」 「いやいや、それはさすがに体力的にも精神的にも無理だね。思い出したらその問題 にチャレンジし、何かヒントを得たらそれを試してみたり、という感じだったな。ひ とつ実例を出してみようか」 すると Y 博士はホワイトボードの空いている箇所に次のような数式を描いた。 ∞ F1(k) = ∫ (cos kx)/(a^2 + x^2) dx 0 ∞ F2(k) = ∫ (sin kx)/(a^2 + x^2) dx 0 ※ x^2 は x の二乗を表す 「もう大分昔の話だけど、自分が学部三年のとき、ある方程式を解こうとしたときに、 この二つの積分に出くわした。いろいろな数学の本を調べた結果、この F1 という積 分は複素積分という手法を用いると、紙と鉛筆で計算できることが比較的すぐに分か った。そこで似たような形をしたF2 も同じ手法で計算できるだろうと思い、試して みた。しかし不思議なことにそれはうまくいかなかった。その後も自分はとにかく近 似値でも良いからということで、うまく式変形をして複素積分を使えないか試行錯誤 してみたが、結局駄目だった。それからしばらくこの問題は自分の意識の奥に眠り続 けることになった」 Z が興味深く頷くのを見て、Y 博士は残りのカステラを頬張り、話を続けた。 「その三年後、自分が修士の二年目になったとき、研究の過程でパデ近似という手法 に出会った。そのとき、意識の奥に眠っていた F2 という積分がふと記憶の表側に蘇 ってきた。そしてもしかしたらこの手法を使えば、うまくいくんじゃないかって思っ たんだ。早速自分はこの手法を試してみた。すると、その直感は正しかった。今でも 結果を覚えているよ。」 と言って、次のような式を F2 の式の右辺に書き加えた。 ≒ - 1.5 k ln (a^2 k^2 / 3) / (3 - k^2 a^2) 「振り返ってみると、そんなに難しい問題ではなかったんだけどね。でも自分が学部 三年の時点で F2 のことを完全に意識の中から抹消していたとしたら、パデ近似がこ の問題を解くのに使えるとは気付かなかったはずだ。このとき自分はひとつのことを 学習したんだ。どんなに時間をかけても粘り強く諦めなければ、時間とともに自分の 中で経験が蓄積されることで、答えが得られるようになることもあるとね。実際、そ の後も四年かけて問題が解けたこともあった。数学という孤独な作業においては、何 事も諦めない心が大事だ。といったところで答えになったかな?」 「答えを求める為には、粘り強く諦めないこと、ですね。…貴重なお話、有難うござ いました」 Z が密かな決意とともに行動を起こすのは、遠からぬ日のことであった。 エピローグ 新年度も近付いた初春のとある日、Y 博士はいつものように研究室のホワイトボード で数式たちと格闘していた。 腕を組みながらぐるぐると歩き、何か思いついたらまたホワイトボードの前に立ち、 何かを書きつけ、そのアプローチが間違っていると分かったら×印を書き、再び腕 を組んで歩き回るということを繰り返していた。 その情景はまさにいつも通りであったが、この日はひとつだけ違っていることがあ った。 真面目で一度も遅刻もしたことのない Z が、いつもの時間になっても現れないので ある。 ホワイトボードの数式に没入していた Y 博士は、休憩を取ろうと研究室のソファー に座り、Z と会話をしようとデスクに近づいたときに初めてその「異変」に気付いた。 それと同時に Y 博士は Z のデスクの上にある一枚の紙の存在に気付いた。 そこには少し丸みを帯びた几帳面な文字で以下のように書かれていた。  Y 博士へ  勝手に休んでしまってごめんなさい。  でも Y 博士にひとつどうしても言いたいことがあるのです。  次の問題を今日の 17:15 までに解いてください。  解けたら、公園のブランコまで来てください。  待っています。  問題:  「Z の心」を Z がこの研究室でお勤めを始めてから今日まで時間積分したものを  求めてください。 「良かった、とりあえず Z 君は無事なのだな」 と Y 博士はひとまず胸を撫で下ろした。 しかしその後、その紙を丹念に何度か読み、Y 博士は頭を抱えた。 「これは今までで一番難しい問題だ。だが、最初から諦めるのは自分の信条に反する」 そう呟くと、文字で埋まっていないホワイトボードの前に立ち、腕組みを始めた。 「Z 君の心をまずどのように定式化するかが問題だ。形式的には時間の関数、例えば マクローリン展開やフーリエ級数で表現できないわけではないが、きっとそれは Z 君が知りたい答えではないのだろうな。そうなると展開係数もきちんと決めてあげな ければならないが、この問題で与えられている条件はあまりに少な過ぎる。何か仮定 を置かねばならないだろうな」 とホワイトボードにメモを書きつけた。 そしてそれから数時間、腕を組みながらぐるぐると歩き、ホワイトボードの間を行き 来する時間が続いた。 いつも以上に頭を回転させ、Y 博士は数式の展開を試みようとした。 しかしどうしてもこの問題を解くことが出来なかった。 「難しい。唯一の与えられた条件は『どうしても言いたいことがある』ということだ が、これが一体なんであり、そしてこれをどうやって定式化したものか」 しかし刻限は迫りつつあった。 博士は問題を解けなかったことに強い悔しさを覚えながらも、指定された場所である 公園へとやや早足で向かった。 Y 博士が公園にたどり着き、ブランコを見ると、そこには足をぶらぶらさせながらブ ランコに座っている Z の姿があった。 Y はデスクの上の紙を見た時からただならぬことが起きているのではないかと不安を 覚えていたが、Z のその姿を確認すると、強い安心感とともに、未だかつて知らない 胸の高鳴りにも似た不思議な感覚に陥っていた。 「Z 君、来たよ」 振り向いた Z は優しい微笑みを Y 博士に向けると、ゆっくりと立ち上がった。 「博士、ごめんなさい。勝手なことをしてしまって。お叱りの言葉は後でいくらでも 受けます」 「いや、いいんだ。君が無事ならそれでいいんだ。…それと自分も君に謝らないとい けないことがある」 と Y 博士はとてもばつの悪そうな表情を見せた。 Z はそれを見てきょとんとした表情で、 「博士が謝ることなんて何もないと思いますが、なんでしょう」 「とても言いにくいことだが、…君の出した問題を何とかして解こうと最後まで粘っ てはみたけれど、結局私には解くことが出来なかった。形式的な答えは出せても、き っとそれは君の知りたい答えではない気がしてね。…君の心をどのように数式変形す べきなのか、自分には良くわからないんだ」 すると Z は少しいたずらっぽく笑った。 Y 博士は Z のがっかりした表情を予期していたが、Z のその反応は意外なものであ った。 それと同時に、先程から感じている不思議な感覚はますます強くなった。 「博士、一生懸命問題を解こうとしてくれて有難うございます。とても嬉しいです。 …そしてごめんなさい。きっとそれは数式変形できなくて正解です」 「えっ、変形できない?…どういうことかな?」 Y 博士は疑問符の海に埋もれ、処理が追いつかない状態に陥った。 Z はそれを見て一度深呼吸をすると、Y 博士のもとに限りなく近付いた。 そして次の刹那、Y 博士は口元に桜の花弁の如く、滑らかでしっとりとした感触を覚 えた。 「博士、ご存知ですか。世の中、数式だけでは解けない問題もあるんですよ」 〜完〜