### 湖上のわが里 ### ※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。 ※作者は東北出身でないため、作中の方言に違和感があるかもしれませんがご容  赦ください。 §1. 事の始まり その日は朝から晴れていて、入道雲の白さが眩しく、アブラゼミの声がかまびす しい、普段と変わらぬ夏の一日であるはずだった。 2001年8月4日の正午ごろ、僕の祖母工藤五音(いつね)は静かに息を引き取った。 本人の希望により、病院の一室ではなく、僕ら家族の住む東京郊外の家でその時 を迎えることになった。 以前と比べれば衰弱しているとは言え、昨日まではいつもと同じようにご飯を食 べ、テレビを見て、亡き祖父の仏前で手を合わせ、そして本を読んでいた。 だから、祖母が帰らぬ人になったと言われても、僕には実感が湧かなかったし、 どういうわけか涙の一粒も出てこなかった。 葬儀が一通り終わると、僕ら家族と親戚一同は家に戻り、ようやく安息の時間を 得ることが出来た。 出前で頼んだ蕎麦を食べながら、一同の会話は自然祖母との思い出話へと向かった。 「母さんは本当に働き者だったよな。父さんが早くに亡くなってから、昼は工場 の事務仕事、晩は内職をして俺ら息子娘を養ったんだよな。自分の親ながら、立 派な母だったなあ。」 祖母の長男である僕の父がしみじみと語った。 それを聞いて僕の叔父と叔母も頷く。 「もの静かだったけど、辛いとか苦しいとか一言も言わずに働いていたんだよな。 経済的に苦しかったはずなのに、俺が大学行きたいって言った時もさ、ちゃんと 勉強して立派な人になりなさいって。本当に感謝してもしきれないよ。」 そう言って父は少し目を潤ませる。感情家の叔父もそれを見て鼻をすすった。 「それと母さんはきっと親父のことを心から愛していたんだろうな。毎日朝と晩、 父さんの遺影の前で手を合わせてたよね。そして昨日も同じようにお供えの汁物 を作って、手を合わせてた。ようやくまた二人で一緒になれて、きっと良かった んだろうなあ。」 と叔父は袖で涙をぬぐった。そこへ母と義母がお盆に大量のスイカを載せて現れ た。 甘い物に目がない叔父がスイカに即座に手をつけ、「しょっぱいな、今日のスイ カは」と言うと、一同は笑いに包まれた。 それから暫くして、今度は叔母が口を開いた。 「それにしても、あれは何だったのかしらね。ほら、母さんが亡くなる直前、意 識が遠くなり始めてたときよ。」 「ああ、確かに。何だったっけか、『はっとさぺっこけろ』、みたいな感じだっ たか。」 父が確認するような目を皆に向けると、一同が頷いた。 「何かの呪文なのかな、聞き間違えかなと思ったんだけど、皆も同じように聞こ えたのなら間違いなさそうだな。」 それは祖母が意識朦朧とする中で、うわ言のように呟いた言葉だった。 その表情は苦しそうと言うより、無邪気で優しげなものであった。 「何かの方言かしらね。でも母は東京の出身って言っていたし。それともう一つ 不思議な事があるのよね。私たちの祖父・祖母は早いうちに亡くなったって母さ んは言ってたじゃない。仮にそうだったとしても、私たち母さんと父さんの兄弟 に当たる人に一度も会ったことがないのよね。あの世代でお互い一人っ子って言 うのはかなり珍しいというか、ちょっと不自然な気がするのよ」 「それは俺も思ってたんだ。子供の時に皆おじさんやおばさんからお年玉をもら っていると聞いて、母さんに一回聞いたことがあったんだよな。『俺にはおじさ んおばさんって居ないのか』って。そしたら母さんに『ごめんね。寂しいかもし れないけどいないのよ』ってすごく申し訳なさそうに言われてさ。小さいときは 不思議に思わなかったけど、今思うと確かに不自然ではあるよな。兄弟と仲が悪 いとか、母さんにも言えない事情があったのかな」 すると父は、 「いやあの母のことだ、兄弟がいたら仲良くやらないはずがないだろう。物騒な ことは言うもんじゃないぞ」 「まあ兄さんの言う通りなんだけどさ。でもよくよく考えてみると母さんってい ろいろと謎に包まれてさ。何だっけ、時々聞いたことのない歌を歌ってたよな。 『とのさま』の何とかってやつ。すぐに思い出せないけど」 確かに僕にとっても祖母は謎多き人だった。 一つにはとても寡黙な人だったと言うこともあるだろうが、僕の小さいころの祖 母の印象は、家の縁側で優しい眼差しで静かに孫を見守る人、といった感じだっ た。 そしておやつの時間にはいつもわらび入りの焼きみそおにぎりを用意してくれて、 それは他のどんなおやつよりも美味しかった。 祖母とは生前にもっといろんなことをしゃべっておけば良かったな、と今になっ て思うのだった。 叔母や叔父が帰ってから数日後、祖母と長い付き合いのあった近所の老婦人が焼 香しに僕の家を訪れた。 焼香が一通り済んだ後、父母は老婦人に茶菓子を勧め、故人に思いを馳せた。 「五音さんにはいろいろとお世話になりましたのよ。五音さんは仕事柄裁縫が得 意で、まだまだ物資が乏しかった頃は五音さんにお願いしてお洋服を作ってもら ったりしましたわ。その代わりに私は実家の野菜を五音さんにあげたりして。あ の頃はどの家も助け合って暮らしてたのよね。」 確かに祖母は晩年も趣味で編み物や裁縫をしていたが、期せずして知り合いに洋 服を作ったりしていたという祖母の新たな側面にその死後に触れることとなった。 「ところで五音さんのご実家ってこちらの方っておっしゃってましたわよね。ず っと昔だけれど、五音さんと道端で会ったときに『おばんでした』と声を掛けら れたことがありましたの。ご本人は言った後でしまったという表情をされたので すけどね。それ以降はそんなことはありませんでしたけれど、私それを聞いても しかしたら五音さんは東北か北海道に住んだことがあったのかしらなんて思った りしたものだけれど。」 父母はそれを聞いて一瞬顔を見合わせた。 その挿話は祖母が東京で生まれ、ずっと東京で暮らしていたと信じていた僕らに 少なからぬ衝撃を与えた。 事実がまたひとつ増えることで、祖母の謎はますます深まっていくように感じら れた。 その日の夜、僕はベッドの上で思案の海に沈んでいた。 祖母の死は、僕に自身のルーツを考えさせるきっかけを与えることになった。 僕のルーツは今住んでいるこの東京の家だと思い込んでいた。 でもどうやらそうではないかもしれないと思わせる事実が次々と生じてきた。 祖母が今際の際に遺した言葉、不自然に思える祖母の家族像、そして近所の老婦 人と交わした挨拶の話。 いろいろ考えるうちに、僕は一つの仮説にたどりつき、僕は大学の親友に電話を 掛けた。 「お、昇(のぼる)か。生きてるか。」 「ああ、生きてるよ。武尚(たけなお)はどうだ。」 「こっちも生きてる。とりあえず夏休み始まったし暇だな。」 「それは何よりだ。ところでお前山形出身だったよな。」 「んだな。それがどうかしたか。」 「ちょっと聞きたいことがあってな。」 僕は武尚にこれまでの経緯をかいつまんで説明した。その上で祖母が死の直前に 発した言葉について尋ねた。 「僕の仮説だと、祖母が言った『はっとさぺっこけろ』ってのは東北か北海道の 言葉なんじゃないかと思うんだよね。もしかしたら武尚ならなんか分かるかもし れないと思ってな」 「ううーん、正直わがんねえな。でも実家の方だと『けろ』ってのは『ください 』と言う意味で使ってるな。」 「本当か!」 「ああ、違いないな。『けろ』自体は東北で広く使われてるから、もしかしたら 山形以外の東北のどこかの言葉かもしれねえな。」 これは思わぬ大収穫だった。 勿論本当に『はっとさぺっこけろ』が東北の言葉なのかは分からない。 しかし少しでも手がかりが欲しい僕を興奮させるには十分だった。 「なあ武尚。暇だよな。明日からちょっと謎解きに付き合ってくれないか。」 §2. 言の葉を巡る戦い 幸い夏休みに入った大学生の僕らには、有り余る程の時間があった。 僕と武尚は電話の翌日、大学の図書館へと向かった。 まだ Wikipedia も google マップもない時代の話である。 僕らは祖母の遺した言葉の手がかりを掴むため、いろいろな本を調べることにし た。 しかし調査は意外と難航した。 東北六県の旅行雑誌、地図、文化をまとめた本など手当たり次第に調べてみたが、 なかなかそれらしい手がかりは見つからない。 一日目はとりあえず東北に旅行に行ってみたいという気持ちが強まったが、結局 特に進展はなかった。 二日目、僕らは作戦を変更して、祖母の言葉の意味を正確に理解することに焦点 を絞ることにした。 図書館の司書の人に方言を調べる方法はあるか尋ねると、『方言辞典』なるもの が存在することが分かった。 僕らは東北の方言辞典を一通りかき集めて、祖母の遺した言葉の意味について調 べ始めた。 その日の午後、宮城県の方言を調べていた武尚がやや興奮気味に声を上げた。 「昇、あったぞ!」 武尚が見つけたのは『ぺっこ』という単語だった。 「『少し』っていう意味の単語らしい。」 「『ぺっこ』と『けろ』で『少しください』って意味か!だいぶ見えてきたな!」 僕も思わず大きな声を上げたが、図書館にいることを思い出して声量を落とした。 「するとあとは『はっとさ』か。引き続き調べてみよう。」 しかしそこからが長かった。 調査は三日目に突入し、図書館にある方言辞典はほぼ調べ尽くした。 そして僕らは言わば煮詰まり状態に陥りつつあった。 そのうちに僕は東北に旅行に行きたいという気分に駆られ、調査は脱線し始めた。 旅行に行くからには美味しい物が食べたいと思い、僕は東北の郷土料理をまとめ た本を見始めた。 日本は各地域に独特な食文化が存在するが、東北地方もまた例外ではない。 僕はきりたんぽや芋煮の作り方や材料などを調べるべく、ページをめくった。 そのとき僕の目に一瞬「はっと」という文字が見えた気がした。 何事もなければ見落としていた所だが、僕の脳裏には祖母の言葉があったので、 その文字を見逃さなかった。 開いてみるとそこには『はっと汁(宮城県)』と書かれていた。 そしてそこには 「『はっと』とは小麦粉に水を加えて練り、薄くのばした生地のこと」 と記されていた。 「武尚!分かったぞ!」 思わず声を上げると、武尚は人差し指を立てて口に手を当てながら近づいてきた。 ああ、またやってしまった。 気を取り直して武尚にそのページを見せると、やや興奮気味に 「『はっとさ』でなくて『はっと』と『さ』だったんだな。そうなると『さ』も 分かるぞ。『さ』は東北で広く使われている対象を表す格助詞だな。」 「なるほど、『さ』はそういう意味なのか。そうすると、祖母が遺した言葉の意 味は『はっとを少しください』という感じか。どういう文脈か分からないけど、 これで意味は通るな。」 「んだな。そしてもうひとつ分かったのは、昇の御祖母さんが宮城と関わりがあ る可能性があるということだな。」 その日の夜、僕は図書館での調査結果を父母に知らせた。 父は少なくとも「良く調べたな」とその調査結果に深い関心を持ったようだった。 「実は俺は父さんと母さんの戸籍謄本を見たことがないんだよな。戸籍には母さ んの出生地と結婚前の本籍地も載っている筈だ。本籍地自体はどこでも設定でき るものだけど、これで多少なりとも謎が解けるんじゃないかな。母さんの遺品整 理もある程度方が付いたことだし、この際、真面目に戸籍謄本を請求してみるか。」 翌朝、父は僕らの町の市役所に向かい、祖父母の戸籍謄本の取得申請を行なった。 そして帰宅してくるや否や、父はやや頬を紅潮させて興奮気味に語り始めた。 「昇、驚いたぞ。母さんは東京出身なんかじゃなかったんだ。」 そう言うと、鞄から戸籍謄本を取り出した。 「ここを見てみろ。」 父の指さした箇所には以下のように書かれていた。  【出生地】 岩手県K村  【従前戸籍】 岩手県盛岡市... (※婚姻前の本籍地) 「更にだ、父さんも東京出身じゃなかったんだ。出生地は岩手県遠野市と書かれ ている」 確かにこれは衝撃的な事実であった。 言い方は悪いが、祖母は少なくとも自身の出生について、家族に対して嘘をつい ていたことになる。 一体何故祖母は僕ら家族に対して、出生地を隠す必要があったのだろうか。 また、僕の調査結果、つまり祖母が宮城と関わりがあるかもしれないという推定 が戸籍上の事実と微妙に整合しないことも個人的には不思議だった。 核心に近づいたようで、祖母の謎はかえって深まったように思えた。 父が祖父母の戸籍を取得した日の夕刻、期せずして叔父がふらりと訪ねてきた。 「まあ晩飯でも食ってけや。」 「おう、もとよりそのつもりだったよ。」 その日の夕食はいつもより少し賑やかなものとなった。 父は叔父・私と晩酌しながら祖母の戸籍について話を始めた。 話を聞いた叔父は次々と出てきた新しい事実にただただ驚いているようだった。 「いやこれは予想外だったな。まさか母さんが嘘をついていたとはねえ。」 「ああ。最初戸籍を見て目を疑ったよ。本籍はまだしも、出生地が東京じゃない なんてな。不思議なことがいっぱいあって正直良く分からなくなってきたよ。」 父は凍み大根と身欠きにしんの煮物をつまみながら、首を傾げた。 叔父もビールを片手に暫く思案していたようだが、やがて諦めたようだった。 「そうだ兄さん、この前言ってた母さんが歌ってた謎の歌だけどさ、ようやく思 い出したよ」 そう言うと叔父は軽く咳払いをした後、徐に歌い始めた。 『とのさまきずきしはちまんさまの いわにわこみちじぞうがとうげ はんりが さかにしらたきけぶる たにぎわみぎわおでんせわがさと』 それを聞いて父も手を叩き、 「そうそう、そんな感じの歌だったな。昔、縫物したり、洗濯物を干したりして いるときに歌っていたのを聞いた気がするよ。」 「叔父さん、その歌どういう意味なんですか。」 僕の問いに叔父は首を横に振った。 「いやあ、全然分からないな。最初の節は『殿様が作った八幡神社』くらいの意 味だと思うけど、そこから先はさっぱりだな。」 「でも神社って神主さんが作るものじゃないんですか。殿様がと言うのはちょっ と不思議な気がするんですが。」 「そうだよな。ううむ、ますます母さんの謎が深まってしまったな。」 と言うと、叔父は漬け物をかじりながら首を傾げた。 「そうそう、母さんが最期に言い遺した言葉の意味についてだけど、ここ数日昇 がいろいろ調べてくれてな。どうもあれは宮城の方の言葉らしいんだ。」 父が僕の調査結果について叔父に簡単に説明すると、叔父は破顔して、 「昇、すごいじゃないか。戸籍のことも考え合わせると、少なくとも母さんは東 北と少なからぬ縁があるってことなんだな。」 「はい、そう思います。でも戸籍上出生地は岩手ということで、僕の調べた結果 と微妙な食い違いがあるんです。やっぱり御祖母ちゃんに関して、謎がいっぱい あり過ぎます」 すると叔父は思いついたように、 「昇、今は大学の夏休みだよな。何なら宮城と岩手の方に行ってみていろいろ調 べてみてくれないか。俺も兄さんもやっぱり自分のルーツは知りたいが、いかん せん俺たちは社会人でなかなか動けない。俺らの代わりに現地を調べてほしいん だ。軍資金のことは心配するな、俺と兄さんが出すから。なあ、兄さん。」 父は一瞬「聞いてないぞ」という表情を見せたが、 「まあせっかくの機会だ、肩肘張らずに調査がてら美味しい物でも食べてきたら いい。」 と苦笑しつつも頷いた。 僕の東北行きが決定した後、僕はその事前調査を行うことにした。 大学生の夏休みがいかに暇だとは言え、さすがに宮城・岩手全域を歩き回るのは いくら時間があっても足りない。 現地に行く前には、もう少し絞り込みが必要だった。 僕が気になっていたのは、祖母が時々口ずさんでいたという歌だった。 特に『殿様が作った八幡神社』というのが何を意味するのかが僕の関心事だった。 そこで僕は再び武尚を招集し、大学図書館に向かった。 時期はほぼ旧盆で、館内にいる人も疎らだった。 蝉の声とエアコンの音を背景に、僕は『殿様』について、武尚は『八幡神社』に ついてそれぞれ分担して粛々と調べることにした。 岩手と宮城の殿様について調べてみると、江戸時代にはそれぞれ南部家と伊達家 が統治していたらしい。 南部家、伊達家はそれぞれ源氏、藤原家を祖とする由緒正しき名家であった。 文献をいろいろ調べていくと、僕らは一つ興味深い事実にたどり着いた。 それは南部家も伊達家も八幡神を氏神として信仰していたという点である。 氏神というのは、その一族が祀った祖先神のことであり、八幡神は特に武門の家 で武運の神様として尊崇されていた。 そして南部家も伊達家も領内に八幡神社や八幡宮を建立し、保護していたらしい ことも分かった。 例えば南部家は盛岡八幡宮、櫛引八幡宮(八戸市)、中渡八幡宮(十和田市)などを 建立し、これらを手厚く庇護した。 また伊達家も梁川八幡宮(伊達市)、亀岡八幡宮(仙台市)、大崎八幡宮(仙台市)な どを建立・庇護している。 こうした事実は少なくとも祖母のルーツが岩手か宮城に関係している可能性を補 強するものだった。 しかし岩手・宮城には八幡宮や八幡神社はそこかしこに存在しており、祖母のル ーツを絞り込むには至らない。 そこで祖母が口ずさんだ歌 『とのさまきずきしはちまんさまの いわにわこみちじぞうがとうげ はんりが さかにしらたきけぶる たにぎわみぎわおでんせわがさと』 の他の節についても調査・検討してみることにした。 最後の節にある『わがさと』はおそらく『我が里』なのだろう。 そうするとこの歌は祖母の生まれた(もしくは育った)土地のことを歌ったものな のかもしれない。 不幸にも僕も武尚も理系頭なので、古典のことが良く分からない。 そこで文学部所属の自分の友人にこの歌の解釈について、メールで尋ねてみるこ とにした。 メールを送って暫く経つと、携帯電話に返信メールが届いた。 文学部の友人は先ずこの歌に漢字を当てることを試みた。 『殿様築きし八幡様の 岩庭小道地蔵が峠 半里が坂に白滝煙る 谷際汀おでん せ我が里』 その友人も祖母の出生地を歌ったものではないか、と考えたらしい。 また友人の解釈では、岩庭と言うのは石庭、いわゆる枯山水の庭のことではない か、とのことだった。 実際、京都の御香宮(ごこうのみやじんじゃ)神社と言う所には、境内に枯山水の 庭が存在するらしい。 従って、友人の解釈では、『その土地には枯山水のある八幡宮または八幡神社、 峠道、坂、滝、谷、湖または沼がある』ことがうかがえるということだ。 ただ後半に見える『おでんせ』が何物であるのかは分からないとのことだった。 僕らはこれまでの経験から、直感的に『おでんせ』は方言ではないだろうかと思 った。 僕らは手分けして再び宮城・岩手の方言辞典を調べ始めた。 そして僕らの直感は正しかった。 「武尚、あったぞ。岩手の方言で『いらっしゃい』っていう意味みたいだ」 「そうか。宮城の方にはなかったから、岩手だけで使われていると見て間違いな さそうだな。」 「祖父母の本籍は岩手県だったことを考えると、やはり岩手の方が可能性が高そ うだな。祖母が遺した言葉が結局何だったのかは良く分からないままだけど。」 「そうすると岩手に枯山水の庭がある八幡さまがあるかどうかだな。もう一回八 幡神社について調べてみようか。」 そう言うと武尚は枯山水の石庭に関する本や八幡神社に関する本を何冊か持って きた。 文学部の友人の言う通り、石庭を持つ神社は全国にいくつか存在するらしい。 しかし岩手県内には石庭を持つ八幡神社は少なくとも存在しないようだった。 ここで僕らの調査は再び暗礁に乗り上げた。 「昇、これ以上考えても仕方ない。戸籍に書いてあることを信じて、岩手県の遠 野とか盛岡とかK村に行ってみたら良いんじゃないか。現地に行って何か分かる こともあるかもしれないし。」 「そうだな…。なあ武尚も旅に付き合ってくれるか?」 「ん、俺もか?時間はあるけど、ちょっと先立つものがな。」 「ああ、そこは気にするな。旅費は何とかする。僕には強力なパトロンが二人い るんだ。」 その日の夜の食卓で、僕は父に新たな調査結果を報告した。 その上で盛岡、遠野、K村に実地調査の旅に行くこと、その旅には親友の武尚に 協力者として随行してもらうことを伝えた。 更に今回の一連の調査で武尚がいかに重要な役割を果たしてきたかを説明し、彼 の旅費も出してもらってもよろしいかを伺った。 父は案外あっさり認めてくれ、夕食の後叔父に電話を掛けた。 叔父もまた武尚の随行を快諾してくれた。 元々は父と叔父の依頼であったとは言え、僕の願いをこんなに簡単に受け入れて くれるとは、実に良くできた父と叔父だと思う。 §3. みちのくへの旅 8月20日の朝、僕と武尚は新幹線で東京駅を発った。 僕らは先ず遠野を目指すことにした。 栃木南部の辺りまで来るとコンクリートジャングルから解放され、徐々に田地の 割合が増えてきた。 そして福島県に入る頃には高層ビルの姿はほとんど見えなくなった。 福島市、仙台市はさすがに高層ビル群が広がっていたが、町と町の間では田んぼ と青い山々だけの風景が広がる場所も多く見受けられた。 東京を出て約三時間後、新花巻駅で途中下車し、そこで昼食を取った後、在来線 である釜石線に乗り換えた。 東京で生まれ育った僕には単線、2両編成、ディーゼル車での運行というのは新 鮮だった。 山形出身の武尚には「東北では珍しくないよ」と言われたが、僕は釜石線に乗っ ている間、きょろきょろと車内を見渡したり、車窓の外に広がっている緑豊かな 山々や田園風景を楽しんでいた。 結局、遠野に着いた頃には日が少し傾き、ヒグラシが鳴き始めていた。 遠野は東京よりも北にあり、標高もやや高く、また夕方に近いこともあるのだろ う、かなり涼しく感じられた。 僕らはひとまず予約してあった駅前の宿に入ることにした。 和室はやはり良い。僕らは畳の上に寝そべった。 「いやあ、やっぱり遠いなあ岩手は。」 「んだな。昇、これからどうする?街中歩いてみるか?」 「そうさな。調査するとは言っても、どうやって調査したものかな。遠野には遠 野郷八幡宮という神社があるみたいなんだけど、とりあえず行ってみるか。」 「了解。」 とりあえず行ってみると言ったものの、宿から遠野郷八幡宮までは2キロ近くの 距離があった。 しかし僕らは若さに任せて、歩いて行ってみることにした。 涼しいとは言え、2キロ近く歩き、八幡宮の一の鳥居にたどり着く頃にはさすが に汗ばんでいだ。 境内は遠野盆地北辺の山麓にあることもあり、スギ、サクラ、カエデなどの木々 に囲まれた自然豊かな所であった。 木漏れ日の中、三つの鳥居を抜け、拝殿にお参りした。 「なかなか立派な神社だな。」 「そうだね。でも石庭はなかったな。」 「社務所があるみたいだから、遠野にある八幡神社について聞いてみようか。」 社務所には宮司さんらしき白髪混じりの初老の方が控えていた。 僕は遠野市内にある八幡神社について、石庭が存在するものはあるか尋ねてみ た。 宮司さん曰く、そういった神社は存在しないという。 僕は旅の目的や祖母が口ずさんでいた歌などについて簡単に説明すると、宮司 さんは少し驚いたようだった。 「それは大変な旅ですね。貴方の祖父が遠野でお生まれになったということで すが、差し支えなければ祖父と曾祖父母のお名前を教えて頂いてもよろしいで すか」 祖父の名を告げると、宮司さんは 「ううむ、私はちょっと聞いたことがないな。ちょっとお待ちくださいね、近 所の長老に聞いてみますから。」 と言って親切にも奥の部屋に入って、電話を掛け始めた。 暫くして、宮司さんは嬉々として奥から戻って来た。 「近所の長老が貴方の曾祖父のお名前を憶えてました。恥ずかしながら私は存 じなかったのですが、どうやら貴方の曾祖父は一時期私どもの八幡神社の神職 だったようです。」 「そうだったのですか!…一時期ということは、どこかから移り住み、またど こかへ移っていったということでしょうか?」 「そのようですね。しかし長老も貴方の曾祖父がどこからやって来て、どこへ と行ったかまでは覚えていませんでした。しかしこちらで奉職(就職)されてい たことは間違いないようです。そのときに貴方の祖父はお生まれになったよう ですね。その後どこかの八幡神社に異動されたようです。おそらくうちで修行 されて、ご自身がお継ぎになる社に戻られたのかもしれません。神社庁(神社を 管轄する機関)に聞けば分かるかもしれませんが、調べるのにちょっと時間がか かるかもしれません。」 「あ、いえいえ、それには及びません。曾祖父のことが分かっただけでも僕に とっては大きな収穫でした。親切にどうも有難うございました。」 僕らは宮司さんに深々と一礼し、八幡宮を後にした。 宿への帰り道、僕は宮司さんの話を反芻していた。 そして武尚に、と言うより自分の思考を整理するように話しかけた。 「これで祖父が何故この地で生まれたのかは分かった。そして少なくとも祖父 と祖母はここで出会ったわけではなさそうだということも分かった。いずれに せよ、僕らは盛岡やK村に行ってみる必要がありそうだな。」 「ああ。俺はただの付き添い兼通訳だから、昇の行きたい所について行くまで だよ。」 「済まないな、僕の我儘に付き合ってもらって。…ところで神職って言うのは いわゆる世襲なのかな?」 「どうなんだろう。でも神職の人って試験を受けてなるものなんじゃなかった けか。」 「そうだよな。とは言いつつ、宮司さんが言ったように親の後を継ぐケースも あるわけだよな。父や叔父の話だと、祖父の仕事は神職ではなかったらしいん だ。何故祖父は曾祖父の後を継いで神職にならなかったんだろうか…?」」 「さあねえ。祖父の兄弟の誰かが継いだからかな。何かしら事情があったのか もしれないね。」 話しているうちに僕らは宿に戻って来た。 時刻は既に18時を回っており、宿の女将は食事の準備が既に出来ていると僕ら に告げた。 その日の夕食はワラビとウドの酢味噌和え、ジュンサイの酢の物、キノコのボ イル焼き、ヤマメの塩焼き、桜肉(馬肉)と羊肉のステーキ、ひっつみ汁、りん ごのシャーベットなど遠野産のものをふんだんに取り入れたもので、学生風情 には贅沢過ぎるほどのものであった。 そしてこの夕食で僕は不思議な体験をすることになった。 僕は一度も東北に来たことがなく、東北の料理を本格的に味わうのは今回が初 めてであった。 それらの料理が美味しかったことは間違いのないことだったが、それに加えて その味付けに全く違和感を感じないと言うか、味覚の相性がとても良いと感じ たのだった。 その理由が何であるのか初めは分からなかったが、食べているうちにそれは僕 の家の味付けに極めて近いものがあるからだと分かった。 母は東北の人ではないが、父の為に料理が得意だった祖母に新婚当初いろいろ と教わったと昔聞いたことがある。 そうして我が家の味は誰もが気付かぬうちに、東北的な味付けをベースにした ものになったのだろう。 僕の味覚が、僕のルーツに近い所に居ることを教えてくれている、そんな不思 議な気分を味わったのであった。 翌日、僕らは遠野を発ち、盛岡へ向かった。 帰り際、宿の女将におやつに食べて、とみそパンと呼ばれる岩手の駄菓子と、 リンゴジュースを持たされた。 たった一日の滞在だったが、遠野の人々の優しさに触れることになり、新花巻 に向かう車窓から見える遠野の風景は、まるで第二の故郷のそれであるかのよ うに思えるのだった。 盛岡には新花巻を経由し、ちょうど昼頃に到着した。 この日も良く晴れてやや暑かったが、空には入道雲と鱗雲が同居しており、早 くも秋の兆しが見え始めていた。 僕らは駅前で盛岡冷麺を美味しく頂いた後、盛岡の市役所に向かった。 盛岡での目的は、祖母の従前戸籍を取得することにあった。 遠い親戚の戸籍請求には、直系の一族の者の委任状が必要だが、僕は祖母とそ の父母の直系の子孫に当たるので、委任状なしに請求することが出来る。 僕が知りたかったのは、(1)祖母が言ったように、祖母の父母は早くに亡く なったのか、(2)祖母が言ったように、祖母には兄弟はいなかったのかの二 点であった。 暫く待った後、いよいよ除籍謄本を手渡された。 そこに書かれていたのは―ある程度予想は出来ていたが―祖母が述べてきたこ ととは異なるものであった。 祖母の父母はともに1970年代に亡くなっていた。 祖父母が結婚したのが1949年、父が生まれたのが1951年であるから、祖母の父 母は父が成人する頃までは存命していたことになる。 また、祖母には三人の兄、一人の姉が居り、末っ子だったようだ。 つまり祖母は自身の父母がやや暫く存命していること、そして兄弟そのものの 存在を徹底的に僕らに隠そうとしていたことになる。 この異常な状況を一体どのように理解したら良いのだろうか。 もう一つ不思議な事があった。 祖母もその兄弟もその出生地は皆岩手県K村となっている。 本籍地は基本的にどこであっても良いことにはなっているが、自然に考えると、 本籍地もK村にしておくのが良いように思える。 一体どのような理由があったのだろうか。 役所の方の話によると、転居の履歴を調べるには、住民票や戸籍の附票を参照 すれば良いとのことだが、死亡等により戸籍が除籍されると役所では五年後ま でしか保存されないとのことで、既に祖母の父母に関するそれらの書類を得る ことは不可能となっていた。 ここでも一定の収穫はあったものの、情報が得られれば得られるほどに、ます ます混乱に陥っていくような感覚を覚えた。 その後、僕らは盛岡八幡宮を参詣した。 この八幡宮もまた広大で立派な拝殿など複数の建造物を備えた神社であったが、 枯山水の庭は存在していなかった。 また社務所で盛岡市内の八幡神社に枯山水の庭を有するものがあるかと尋ねて みたが、やはりそういった神社は存在しないということだった。 一通り調査を終える頃、夕立が僕らを襲った。 僕らは急ぎ本日の宿である駅前のビジネスホテルへと向かった。 夜になると、雨はすっかり止んでいた。 僕らは近くの居酒屋で乾杯をしつつ、今後の作戦について考えた。 現時点で僕らの前にはいくつもの疑問があって、それらは解くにはあまりに難 解なものであった。 結局、僕らが出した結論は極めて単純で、とにかくK村に行ってみよう、という ことだった。 早々と結論が出たので、僕らは食事に専念することにした。 相変わらず岩手の料理の味付けは、狡いくらいに僕の味覚のツボを衝いてくる ものだった。 そして地元の料理には地元のお酒が合うということをこのとき初めて体感した。 ほろ酔い気味でホテルに戻り、幸せな気分で旅の2日目を終えた。 翌日、僕らはK村へ向かうことにした。 事前の調べによると、K村には電車が通っておらず、公共交通としてはバスしか ないとのことだった。 そのバスも一日三便しかないとのことだった。 そこで現地での移動手段も考慮し、レンタカーを利用することにした。 「なあ、武尚。お前運転できるか?」 「出来ないことはないけど、地元に帰ったときに運転するくらいだぞ。」 「いや、ペーパードライバーの僕に比べれば、雲泥の差だ。済まないが、運転 してくれないか。」 「仕方ねえな。旅費を出して貰っている手前、断るわけにはいかないな。」 盛岡から北上すること4時間程度、途中休憩や昼食もはさんだ為、昼過ぎによう やくK村に入った。 岩手は北海道に次いで二番目に広い都道府県であるだけあって、県内を車で移 動するだけでもこれだけの時間がかかるのだな、と改めて感じた。 Kは山間にある自然豊かな小さな村で、役場は村の中心の平坦部に存在していた。 その周りは山に囲まれていて、山地から村の平坦部にK川やその支流が流れ込み、 村の平坦部には田畑が広がっていた。 僕らは先ずK村役場に行き、八幡神社に関するいつもの質問を職員にぶつけてみた。 職員の方は丁寧に調べて下さり、数十分後には村内には少なくとも7つの八幡神社 が存在することが分かった。 然しいずれも枯山水の石庭を持つような大規模なものではないと言う。 僕は職員の方に歌に関する質問もしてみた。 「この村には地蔵が峠や半里が坂といった地名はありますか?あとこの村に湖や 沼はありますか?」 「いやあ、少なくとも私は聞いたことがないですね。峠や湖はいくつかあります けどね。」 更に僕はもう一つの質問をぶつけてみた。 「私の祖母はこの間亡くなったのですが、この村で生まれたそうです。名前は工 藤五音、旧姓は小野寺と言います。どなたか祖母のことをご存知の方はいらっし ゃるでしょうか?少なくとも五十年前にはこの村から転居したようなのですが。」 「工藤も小野寺もこの地域に多い姓ではありますけどね。五十年前となると、う ちの役場に知っている者がいるかどうか…。とりあえず私の母に聞いてみますよ。」 かなり無理な質問だったにも関わらず、その職員の方は自身の母に電話を掛けて くれた。 然し、その職員の母も祖母のことを知らないと言う。 親切な職員に謝意を述べつつ、僕らは役場を後にした。 「昇、どうする?」 「何となくだけど、この村を調べると何か分かる気がするんだ。とりあえず村に ある八幡神社を巡ってみよう。」 僕らは職員の方に教えてもらった7つの八幡神社を順番に回ってみることにした。 1つ目は村の中心にあり、社務所もある立派なものだったが、社務所は無人だった。 地元の方に聞いたところ、人手不足の為、隣町から一週間に一度神職が出張して きているとのことだった。 2つ目の神社は川のほとりにあり、小さな鳥居、祠があるだけの小規模なものであ った。 3つ目から6つ目の神社も小規模なもので、その地区で大事に祀られているという 感じのものであった。 7つ目の神社は山に迫る傾斜地の林の中にあった。 規模はやや大きく、赤い鳥居、拝殿、社務所が存在し、一対の狛犬が並んでいた。 しかし社務所は朽ちていて、人影は確認できなかった。 全ての神社を回り終わって、僕らは次に行くべき道を見失った。 何かしらはあるだろうと期待はしていたのだが、次につながる手がかりを得るこ とは出来なかった。 僕らは失意の中、最後の神社を後にした。 時刻は三時過ぎだろうか、宿に戻るにはやや時間がある。 僕らは停めてあったレンタカーに戻ろうとして、その目線の先に『軽食・売店』 という幟の立つ小ぢんまりとした個人商店を見つけた。 「武尚、少し腹減ったな。宿に行く前にあそこ寄ってくか」 「んだな。時間もあることだしな」 スライド式のガラス扉を開けると、いくつかのテーブルがあり、店の奥には60く らいの元気そうな老婦が座っていた。 「おでんせ、あんれ、あんこだづ、しゃね顔だなす。まんずまんずおあがりあんせ。」 僕は武尚にどういう意味か、と目線を送ったが、首を横に振った。 するとその老婦は笑って、 「普通にしゃべった方が良さそうだね。」 と標準語で話した。 ほっとするとともに、随分とお茶目なご婦人だな、と思った。 食べ物のメニュー表は非常にシンプルで、『握り 汁物付き』、『そばがき』、 『くるみ餅』の三種類のみであった。 僕らは『握り 汁物付き』と、売店にあるアイスクリームを頼むことにした。 今日も日差しは強かったが、窓から入って来る風は心地良い。 僕らは出された冷たい水を味わいながら、暫し蝉しぐれと、時々聞こえる鈴虫 の音に耳を傾けた。 「お待たせさま。握りと汁物、あとサービスでミズ(山菜)の漬け物ね。アイス は後で持ってくるね。」 老婦が配膳を終えた時、僕は強い衝撃を覚えた。 出てきた握りは、祖母が昔作ってくれたわらび入りの焼きみそおにぎりそのも のだった。 更に驚いたのは、出てきた汁物の方であった。 その汁物には、山菜やキノコ、葉脈のような紋様の入ったやや灰色がかった生 地が入っていた。 それは間違いなく祖母が祖父の墓前に毎日供えていた汁物そのものだった。 「あ、あの、すいません、この汁物って、この地方でよく食べられてるんです か?」 「ああ、柳はっとのことかい。そうだね、この村周辺では良く食べるわね」 「え、これ『はっと』なんですか!はっとって小麦粉だけじゃないんですか?」 「ええそうよ。この地域と青森の県境あたりだと、そばのはっとを食べること が多いかしらね」 ここで祖母の言い遺した言葉がようやくこのK村とつながった。 岩手にも『はっと』は存在していたのだ。 実は名前を知らないだけで、はっとの存在そのものを僕は知っていたというの だから、何とも皮肉な話だ。 僕は興奮気味に次の質問をぶつけてみた。 「僕の祖母はこのK村で生まれたらしいのですが、ご存じありませんか?当時 の名前は小野寺五音と言いました」 今度は老婦が驚く番だった。 「あら、五音さんとはまた懐かしい。五音さんには妹のように可愛がってもら ったわ。こんな所でお孫さんに会うとはねえ。五音さんはお元気かしら?」 「それがおよそ半月前に亡くなりました」 「そうだったの…」 そう言うと、その老婦は暫く天を仰ぎ、目を瞑っていた。 僕はそれを遮るのは悪いと思いつつも、これまでの経緯を簡単に説明した。 「祖母は亡くなる直前に『はっとさぺっこけろ』と言い遺しました。はっとは 柳はっとのことを指していたのですね。」 「ええ、きっとそうだわ。貴方の御祖父さんも五音さんも柳はっとが大好物だ ったもの。」 「えっ!僕の祖父のこともご存じなのですか!」 「ええ、知ってるわ。私は五音さんと同じ集落の出身で、俊賢(としかた※祖父 の名前)さんは同じK村の隣の集落に住んでいたの」 驚きの連続だった。 祖父の一家は遠野を離れた後、このK村に移り住んでいたのだ。 祖父母がどのように出会ったのかという疑問もこれで氷解した。 「もうひとつ聞きたいことがあるのですが、この歌をご存知ですか。祖母が昔 良く口ずさんでいたものらしいです。」 とノートに書きつけた歌をシヅ子さん(老婦の名前)に見せた。 「あらこれも懐かしい。もちろん知ってるわ。」 そう言ってシヅ子さんは年季の入った声で歌い出した。 「あの、これはどういった歌なのでしょうか?」 「俊賢さんの家が神職だったことは知ってたかしら?」 「はい。最近知りました。」 「俊賢さんの家が神職を勤める八幡神社への行き方を示す歌なの。俊賢さんが 五音さんに教えて、私は五音さんに教えてもらったのよ。」 「あのすいません、祖父も神職だったのでしょうか?少なくとも私の父の話で は、祖父は神職に就いていなかったようなのですが。」 するとシヅ子さんはやや表情を曇らせて答えた。 「そうね、神職だったわ。でも神職を辞めざるを得なくなったの。五音さんと 結婚したことでね。」 「えっ、それはどういうことですか?」 「まあもう時効だからいいかしらね。俊賢さんは五音さんとの結婚を認められ ずに、駆け落ち同然に東京へ出て行ったのよ。」 新事実が次々と出てきて、咀嚼しきれなくなってきた。 「ええと、何故結婚は認められなかったのですか?」 「今の人には分からないかもしれないけど、当時はまだ集落の掟とか、身分と かがうるさい時代だったのよ。俊賢さんの家は代々神職を継ぐ家で、周辺の集 落の中では最も格の高い家だった。だから言わば庶民の娘とは結婚なんて出来 なかったの。それに加えて、どういう理由か分からないけど、私たちの集落と 俊賢さんの集落の間では昔から結婚をしてはいけないことになっていたの。変 な話よね。でも当時は集落の掟と身分の格というのが生活の全てだったのよ。」 「祖母は自身の父母や兄弟について、ほとんど語ろうとしないどころか、存在 そのものを僕ら家族に隠そうとしていたみたいなんです。それはそういう事情 によるものだったのですね。」 疑問が次々と解けてきたが、僕の中には依然として二つの疑問が残されていた。 「二つ聞きたいことがあります。祖母の家族の本籍地は盛岡になっていました。 K村を本籍地とするのが自然だと思うのですが、どういった事情によるものなの でしょう?もう一つは、祖母の歌に出てくる八幡神社というのはどこにあるの でしょうか?今日一日村中の神社を探し回ったのですが、それらしきものは見 当たりませんでした。そもそも祖母のルーツの集落とはどこにあるのでしょう か?」 「そうね。…分かったわ。貴方たち明日もこちらにいるのかしら?」 「はい、幸い時間はいくらでもあります。」 「明日の午前9時にここに来てもらえるかしら。ちょっと運動してもらうこと になるけど。」 「分かりました。ではまた明日うかがいます。」 「ええ。…あら、はっとがすっかり冷めちゃっわわね。温め直してくるわ。」 そう言ってシヅ子さんは再び店の奥へと入っていった。 §4. わが里 翌朝、僕らはシヅ子さんの店の前に向かった。 9時の10分前に着くと、既にシヅ子さんは店の前にいた。 「あら10分も前に来て真面目ね。そう言う所は五音さんとそっくりだわね」 と豪快に笑ってみせる。 「車はその辺に停めておいてちょうだい。今から山登りするので、覚悟して おいてね。」 「あの大変失礼ですが、ええと。」 「あら私は大丈夫よ。今年で70になるけど、毎週のように山に登ってるから。」 僕らはシヅ子さんの先導の下、昨日の7つ目の神社の近くの森から山へと入っ て行った。 今日も良く晴れて日差しが強いものの涼しく乾いた風が吹いているため、森の 中に入ると心地よく感じた。 森の山道を登ること約10分、道の脇には巨岩が増えてきた。 そして森と殆ど同化しているものの、非常に古い鳥居が目の前に現れた。 「あの、これって鳥居ですよね。」 「そうよ。実はここに昔神社があったの。ここを移転した先が下にあった八幡 さまなの。」 「もしかして、これがあの歌の八幡様ですか?」 「その通り。室町時代に南部の殿様かこの辺りの豪族によって作られたものら しいわ。」 「『岩庭』というのは、ここの境内のことですか?」 「そうね、見ての通り岩がいっぱい転がっているけど、昔の人はそのことを称 して『岩庭』と言ったようね。」 鬱蒼とした森の中をもう少し歩くと、岩の間に石灯籠や祠が見えてきた。 そうしたものを見てようやくここに神社があったことを確信することが出来た。 旧八幡神社からは更に上の方へ石敷の道が続いていた。 これが歌で言うところの『小道』なのだろう。 『小道』をジグザグと登っていくこと数十分、ようやく山を登り切ったようで、 その先は鞍状の地形、すなわち峠になっていた。 峠に近づくと、道の左右に石像のようなものが整然と並んでいた。 良く見ると、かなり摩耗しているが地蔵様であることが分かった。 「ここが『地蔵が峠』ですか。」 「そうね。地元の人もあまり知らないから、地名としてはどこにも載っていな いけどね。」 シヅ子さんは元気そうだったが、現代っ子の二人はだいぶ息が切れていた。 それを見てシヅ子さんは苦笑して、休憩を宣言した。 するとシヅ子さんは背負っていたリュックから水筒を取り出し、僕らに飲み物 を差し出した。 飲んでみるとやさしい甘味のお茶で、清涼感がある。 シヅ子さんによるとこれはアマチャというもので、その名もアマチャという植 物を煎じて作ったものであると言う。 息が整ってきたので、僕らは再び道を進み始めた。 峠を過ぎると相変わらず鬱蒼とした森が広がっていたが、道はやや右手にカー ブし、その後は比較的まっすぐで緩やかな下り坂が続いていた。 坂を下っていくと、右側から左側にいくつか沢が流れていた。 その沢を越えると、その先でサーッという水音が聞こえ、顔に霧吹きを掛けら れたように細かい水しぶきを感じた。 右上の斜面を眺めると、白く細い滝があるのが見えた。 「ここの滝はそのまま渡れないから、少し迂回しないといけないのよ。」 と言って、シヅ子さんは滝の流れに沿って道を下って行った。 暫く降りていくと、古い木の橋が架かっていた。 その橋を渡り、更に渓谷沿いの道を下って行くこと数十分、鬱蒼とした林がよ うやく開けてきた。 森を抜けると、そこには大きなダム湖が広がっていた。 「ここが『汀』ですね。」 「そうね。」 「ということはこのあたりが祖父の住んでいた集落ですか?」 「そうね。厳密に言えば、この湖の下ね。」 「えっ。」 「今から40年数年前かしらね、俊賢さんの住んでいた集落はダム湖の下に沈ん だの。元々自然の湖があったんだけど、それをもっと大きくするという話にな って。」 「そうだったのですか…。シヅ子さんたちの集落はどうなったのですか?」 「私たちの集落もダム湖の下に沈んだわ。仲良く一緒に無くなってしまったの。 五音さんの家族の本籍が盛岡になっていたのは、集落が無くなって、盛岡に引 っ越したからなのよ。」 僕の中での謎はこれで全て解けた。 しかし祖母、そして僕のルーツは水底にあるという空虚な事実に、やるせなさ が僕の心を支配し始めていた。 僕は暫くダム湖の静かな水面を見つめているしかなかった。 「貴方たち、まだ体力は残ってるかしら?」 シヅ子さんの問いかけに意識を取り戻すと、僕は縦に首を振った。 「もう一つ見て欲しいものがあるの。」 そう言うとシヅ子さんは既に歩き出していた。 ダム湖を右手に見ながらススキの野原を少し進んでいくと、左側の斜面に急な 石段が見えてきた。 それを登っていくとシラカバとマツの森に入り、そしてその先には予想外にも 鳥居が現れた。 鳥居の先は平坦になっており、そして草むらの向こうに朽ちて蔓に覆われた拝 殿らしき構造物が見えた。 「ここが俊賢さんの一家が守っていた神社よ。高台にあって唯一水没を免れた 集落の遺構なの。」 「ここが『わが里』ですか…」 「ここは私にとっても五音さんにとっても思い出深い場所ね。私は良く五音さ んとここで遊んでもらってたわ。そして五音さんにとってここは俊賢さんと出 会った場所。今考えると邪魔をして悪かったと思うけど、私、二人に遊んでも らったこともあったわ。二人とも優しいから、嫌な顔ひとつしなかったけどね。 社務所の台所で柳はっとを作って、湖を眺めながら三人で食べたこともあった わ。…たぶん五音さんの最期の言葉は、そういう楽しかった時を思い出して発 したものかもしれないわね。」 集落の人々の反対を受けながらも、祖父母は一緒になるという本懐を遂げた。 但しその本懐を遂げる代償として、祖父は職を、祖父母は家族との縁を失うこ とになった。 知り合いや身寄りも居らず、文化も異なる東京での暮らしは厳しいものであっ ただろう。 しかし二人がしなやかに力強く生きてきた結果、今の僕がここにいる。 祖母の激動の人生を知るに至り、祖母が帰らぬ人になったという事実が厳然た るものとして実感された。 その実感とともに、一筋の涙がいつの間にか僕の頬を伝っていた。 §5. エピローグ 2001年9月下旬の連休、僕と武尚、父母、叔父、叔母、そしてシヅ子さん一家は 『わが里』を訪れていた。 否、厳密に言えば祖父母の遺骨の一部とともにやって来た。 祖父母は生前は故郷に意地でも帰るものかと思っていたかもしれない。 しかしいまや集落は無くなり、掟も身分の問題も消え去った。 だから遺骨を無理矢理に連れてきたことを二人は赦してくれることだろう。 後で知ったことだが、このダム湖へはK川沿いの道を車で進むとたどり着け、ま た車で『わが里』の近くまで来ることが出来る。 8月の訪問時にはシヅ子さんは僕らに歌の意味を知ってもらう為、あえて峠道を 昇り降りするコースを選んでくれたようだ。 あのとき、僕と武尚で草むしりと枝打ちをしたので、元境内は以前よりは綺麗 な状態になり、また湖も樹々の間から望めるようになった。 そこへブルーシートを敷き、シヅ子さんが作ってきた柳はっとを皆で食べるこ とにした。 無論、祖父母の遺骨の前にも柳はっとを供える。 今回、シヅ子さんは夫と娘夫婦と孫娘を伴っていた。 8月の訪問の際には、峠の昇り降りをした後でシヅ子さん一家の皆さんに会って いるので、僕自身はこれで2回目となる。 皆で柳はっとを食べていると、シヅ子さんが孫娘の千世さんに何事かを耳打ちし ているのが見えた。 千世さんは顔を赤らめて何度も首を横に振っていたが、シヅ子さんに背中を押さ れると、おずおずと僕の元へ近づいてくる。 「千世さん?どうかしたの?」 すると恥じらいがちに消え入るような声で答えた。 「は、はっとさぺっこけろ…」 「えっ?」 シヅ子さんの方を振り向くと、ニヤニヤしながら 「じゃじゃ、こどだなす、千世の分のはすと椀こさ見ねな。ほだども、あそごの やさしいあんちゃがかせてけるべな。」 などと白々しく持参した酒を飲みながら言っている。 どうやら僕は孔明の恐るべき罠に嵌ってしまったらしい。 掟も身分も全て消え去ったこの平和な時代に、祖母と同じ言葉をこの小さな娘が 慎ましげに言ったのを聞いた祖母は、きっと草場の陰で微笑んでいるに違いない。 〜完〜 ----- 主な登場人物 僕(工藤 昇) 1980- 祖父(工藤 俊賢) 1919-1958 祖母(工藤 五音) 1926-2001 母 1954- 父 1951- 叔父 1953- 叔母 1955- 武尚 1980- シヅ子 1931- 千世 1986-