遊牧の公僕 〜と或る住所不定公務員の一日〜 ※この物語は完全なるフィクションであり、実在の人物や組織とは一切関係ありません。 ※この物語にオチはありません。 0.プロローグ 「ちょっとそこの君、何か身分を証明する物を提示してもらおうか」 何とも目覚めの悪い朝だった。 頭が次第にはっきりして、その男は警官らしいことが分かった。 「遊牧民だが、何かな」 「ふざけるな、署に来てもらうことになるぞ」 「ああ、新人さんか、それなら仕方ないな。私は遊牧民のAだ。そうB課長に伝えて貰えば  分かる」 「なんだ、B課長のお世話になっているのか、そろそろ更生したらどうだ、さあ署まで同  行願おう」 実に面倒臭い。 仕方なくいつも首から掛けている私の所属するC省のICカードを胸元から徐に出した。 愛馬の嘶きとともに警官の驚愕に満ちた声が響く。 実に目覚めの悪い朝であった。 1.遊牧民の午前 I県T市はT山の麓に広がる自然豊かな街だった。 何故過去形かと言えば、この街にも都心から鉄道が伸び、それとともに開発という津波が 轟然と押し寄せて来たからだ。 私の家系は日本で唯一の遊牧民の家系であった。 T山の麓を馬や羊などとともに移動し、テントを張って仮住まいをしてきた。 しかし急激に進む開発によってT山の周りの森林は容赦なく斬られ、草原はブルドーザー によってさら地となり、いつしか動物たちの姿は容易には見えなくなった。 祖父母も父母も兄弟も、日本という国の遊牧民に対する不理解によって、半ば強制的に遊 牧民を止めることとなった。 キジ狩りに命を賭けてきた祖父が唯一度見せた、あの悔し涙を今も忘れることは出来ない。 それ以来、私は決意した。 私自身が遊牧民を続け、その一方で公僕となり、ある意味で超越な存在として、ダイバーシ ティが認められる、より良い世の中を築くのだと。 今朝の食事は先週の日曜に仕留めたキジの肉と、元は遊牧民だった近所の方にお裾分けして 頂いたH米で作ったチャーハンである。 初任給で買った我が愛馬には地元産の人参とレンコンを与える。 実の所愛馬は初任給で買えるような代物ではなかった。 しかし私の父の親友で元遊牧民の牧場主が、出世払いだと言って、優秀な馬を破格の値段で 譲ってくれた。 私は周囲の人々に恵まれている、そしていつか彼らが遊牧民に戻れる世の中を作りたいと心 から思っている。 おっと、こんな悠長にしてはいられないのだった。 朝の一件で50秒のロスがあった為、今日は遅刻ギリギリだ。 川のほとりにて馬油シャンプーで手早く朝シャンをした後、我が愛馬とともに出勤する。 法律上馬は軽車両なので、急ぎつつも慎重に手綱を操る。 ここで事故を起こして命を落としては、私の志は果たせない。 職場に着く頃、いつもより太陽は僅かに高い位置にあった。 無念にも35秒ほど遅刻をしてしまった。 新人警官くんのことを心の中で少し恨む。 職場の課室に入ると 「おや、君ともあろうものが珍しいね」 とD課長ににこやかに問われる。 「はい、ちょっとした警察沙汰に巻き込まれましてね」 と軽く返しつつ、新人警官くんに書いてもらった念の為書いてもらった遅刻証明書を出勤 簿に挟む。 まあ朝シャンが余計だったという説も無きにしも非ずであるが。 私の職は特命的な係、不本意ながら人々に言わせれば左遷ポジションだ。 席にいてもいなくても誰も困らない、「毎日出張状態」だ。 これも遊牧民に対する国の不理解の為せる業と言わざるを得ない。 私は遊牧民である以上、都心で働くことは出来ない。 それ故、身上書には遊牧可能な地域での勤務を希望すると書き続けてきた。 今の課長は話せば分かる人で救われているが、とにかく上層部は個人的事情を理解しよう という気がつゆほどもない。 毎年のように「住所不定」と「遊牧可能な地域での勤務」について詰問される。 いつか変えてやると思い続けはや十数年、私の周りの世界は一向に変わる気配はない。 T山の麓で度々見られるような、一面の霧の中のようだ。 それでも私は少しずつ当然の権利を獲得してきた。 愛馬の「駐車」にしても、最初は前例がないと言って拒まれたが、「馬は軽車両」の論理 を以てこれを打ち破った。 私は遊牧の公僕として、常に最前線に立ち、当然の権利を求めるべく前例主義と日々戦い、 新たな歴史を築いているのだ。 唯一、私の同期達は私の事情を理解し、時に共に怒り、涙を流してくれる。 彼らは偉くなったら、私を国際的な課に入れ、海外の遊牧民との国際的技術連携を任せる と言ってくれている。 彼らが上に立つとき、きっと私の目指す世界が、開けて来るに違いない。 潜伏期間が長いほど喜びも大きいと言うものだ。 左遷ポジションはとかく暇である。 いつものように GIS ソフトをいじりつつ、遊牧民居留地区(仮)制定後の都市計画と動植 物保護計画とその課題について工学的・生態学的に考察する。 まあ人に言わせればただの妄想なのだろうが。 そしていつものように煮詰まったので、ホーミーの練習をしつつ、駐車場に停めている我 が愛馬のブラッシングをしに行く。 時計の短針と長針が真上の方向でちょうど出会う、今日も平和な午前だった。 2.遊牧民の午後 今日の昼食は持参した鹿の干し肉と、山羊のミルクスープだ。 昔は山羊を沢山飼っていたが、今はそのような余裕はないので、週に一回の贅沢である。 青空の下、大事に大事に味わって食べる。 昼食を終えた後、職員たちが構内のグラウンドでサッカーや野球に勤しむのを横目に、私 はひたすら弓に矢をつがえて、的を射る。 今夜は帰る道すがら狩りをする予定だ。 生活がかかっているから、昼は眠いなどとは言ってられない。 特にデスクワークの日々においては、毎日の鍛錬が不可欠である。 午後もとかく暇である。 いつものように fortran プログラムを書きつつ、温暖化に伴う災害の激甚化が遊牧民居 留地区(仮)に及ぼす影響について数理的・物理的に考察する。 まあ人に言わせればただの妄想なのだろうが。 そしていつものように煮詰まったので、駐車場に停めている我が愛馬におやつをあげつつ、 守衛さんと競馬の予想についての雑談をする。 定時で帰宅、今日も平和な午後だった。 途中、同期の家に寄る。 住所不定故に郵便物だけはどうしても困る。 そこで同期のEとその家族に頼んで、郵便受取を代行してもらっている。 勿論御礼は忘れない。 今日は丹精込めて作った山羊のチーズと、漢方薬として珍重される鹿の角を差し上げた。 恩義を忘れず、礼節を忘れないのが厳しい環境を生き抜く遊牧民として重要な心構えなの だ。 帰りがけに幸運にもウサギを仕留めたので、今夜はウサギ肉の和風リゾット〜Tおろしの 香りと彩りを添えて〜を作る。 今日も上手に出来て個人的に満足である。 暗くなったら寝る、それが遊牧民の定めだ。 今夜は星が美しい。 明日は警官の尋問を受けることもなく、きっといい日になるに違いない。 〜完〜