Hiroya Akiba's web site

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日記 (日々の偏見を綴ります)

冒険の歴史に思い耽る
2022/07/25 (月)

もし、自分がもっと昔に生まれていたら、どんな名前を付けられただろうか。
名前というのは、生まれて間もなく決められる。当人は、その名前に込められた意味を背負い、名に恥じぬよう生きていく。 なぜこのような風習が定着したのだろうか。
そもそも、名前とは、その人の特徴を表すものだったはずだ。 例えば、目がいいから、とか、料理が上手いから、とか、まとめるのが上手いから、とかで、名前が決められてたはずだ。 なぜなら、人は物に対して、役割で名付けると思うからだ。
例えば、はさみに対して、のりと、名前を付けることはないだろう。はさみは、物を挟んで切断する道具だからだ。 そこで、元々は、他の人間に対しても、役割で名前を付けていたと、思うのだ。
すると、よく迷子になる人、には何という名前が付けられただろうか。 仮に迷子さん、と名付けると、 きっと、迷子さんは疎まれただろう。 迷子になる度に村の人で探さなければならないからだ。
きっと、迷子さんは1人になりたがっただろう。 村の人に疎まれていたからだ。
そして、きっと、迷子さんは、そのうち、村に戻らなくなるだろう。 すると、行きついた新しい地で子孫を育み、新しい村を築くことになるのかもしれない。
迷子さんは、なぜ、このような性質を持って生まれてきたのだろうか。 その答えとして、人類の生存本能だ、と考える。 迷子さんがいなかったとしたら、人類は滅亡していたかもしれない。 つまり、移動することで、とどまることによる疫病や自然災害のリスクを回避できたと考える。 もしかすると、この迷子さんは、何万年という人類の歴史の下で、生存確率を上げるために、 必要な性質の持ち主だったのかもしれない。
つまり、役割から正確に名付けるなら、迷子さんではなく、冒険さんだったわけだ。
人類は、新しいことを知りたいから冒険する、と唱える人がいるが、果たしてそうなんだろうか。 仕方が無く、冒険せざるを得なかった人は沢山いたと思う。
同時に、1人になりたいという欲求は、決して現代的な病ではなく、 そうした迷子さんの性質を少なからず受け継いだ欲求だと思うのだ...。
逆に、現代では名前が先行することで、その人の性質を最大限活かせなくなっている可能性は考えられる。
では、なぜ世界中の赤ん坊は生まれてすぐに名前が決められるのか、 なぜ、その人の性質を見てから名前を決めないのか、という最初の問いに対して答えるなら、 人がある程度ランダムにその役割を決められることで、生存確率が上がったからだと考えられる。 例えば、大谷翔平が、なぜ大谷・野球大好きマンという名前じゃないのかというと、 大谷翔平が野球で大成するかどうか、周りの人は確実に分かりようが無いからだ。
そして、その確率の振る舞いは、ある人口を超えた時に発生したのかもしれない。 これから先、将来、名前に全く意味を持たせなくなるような流れが来るのだとしたら、 それは、生存確率を上げるための非常に本能的な手段であり、真っ当な流れなのだと思う。 キラキラネームはそうした流れの中で生まれた、ごく自然な名前だとも言えるだろう。


2022/05/27 (金)

茶を買う時、人は何を思い、その種類の茶を選ぶだろうか。
ふと、僕はどんな時にどんな茶を選ぶか考えてみた。
基本はほうじ茶を選びたい。食事時、がぶ飲み時、落ち着き時、どれをとってもバランスが良い。 かほりが圧倒的に良いのと、カフェインが少なめであることから、あらゆる場面に適応すると思う。
二日酔い時は、ジャスミン茶で癒したい。圧倒的なのど越しの滑らかさ、 身体の隅々まで清らかに茶が届いていく感覚で右に出る茶は無い。デトックス効果も高い。
睡眠不足なら、ウーロン茶を頼りたい。味の渋さとカフェインの多さは、眠気を覚ますのにぴったりだ。 小学生のころ、誰かがウーロン茶はうざいロン毛の茶髪の略だと、言っていた。本当だろうか。
食事を楽しむなら、緑茶と共に。おにぎり+唐揚げと来たら、緑茶以外に考える事は不可能だと思う。 緑茶のさわやかな静岡感で、一気に気分は富士山の頂上である。本当に。
麦茶は、スポーツの後にがぶ飲みしたい。何も考えず口に注がれる麦茶ほど気持ちの良い夏はない。
こうして、列挙していくと、ここに書いてある以上の、ものすごい数の茶があるんだなと改めて感じたが、 その一つ一つに対して、何らかの感想を持っていることにも気づいた。 普段意識してなかったが、意外と茶が好きなんだなあと実感した。

ビジネスゲーム演習
2022/05/14 (Sat)

今日、ビジネスゲーム演習という集中講義があった。明日もある。
ビジネスについて、みんなと楽しみながら学ぶことができる、と銘打たれた、なんとも英才教育的なボードゲームをただやるだけで、2単位ももらえるというとってもお買い得な講義である。 授業内では4,5人に分かれグループを作り、ゲームを進めていく。参加者は各々が社長となり、メーカー企業で利益を出していく事を目的とする。 グループには2人インストラクターがつき、なんでも質問できるため、わからないことがあってもすぐに聞くことができる。 ボードゲームをするだけで学べるし、単位ももらえるし・・・。最後に壺でも買わされてしまうんでしょうか。怖いですね。 (院の授業では初回だけ出席すれば単位もらえるものもあったことは伏せておこう。) このビジネスゲームは、あの孫正義も好きなゲームらしい。また、昭和51年に作られたゲームとのことで、かなり歴史もある。
やってみたところ、最初はかなり難しい。まず、ルールを覚えるのが難しい。ジュニアルール(簡単なルール)でも、入札の仕組みや、オプションルールが大量にあり、導入だけで3時間を要した。実際、途中から糖分が足りてこなくなった為、ポカリスエットを持参してよかった。 次に、会計の計算を正確にやることが難しい。 このゲームでは、現実の財務諸表を取り入れており、貸借対照表、損益計算書を実際に書く。その際の計算量が非常に多く、数字が合うまでやり続ける必要があるため、超大変。 だが、まさにこの書く動作が、財務諸表のさまざまな言葉やルールを覚えるのに役立ちそうだと思った。
1日ゲームをやってみて、実際、効率的に利益を生み出す仕組みが出来上がったら、会社ではそれをただただ、回していくだけになり、それは、何年も続けたら、退屈になるんだろうと、感じた。 とはいえ、ビジネスに非常に近い形で、そうした利益を生み出す経験をしたのは初めてだったので、ハマる気持ちもわかった。 もし、機会があったら、会社を立ち上げてみるのも面白いと思った。ギャンブル好きなら圧倒的に向いている気がした。
就活中に頭で理解していたことが、ようやく肌で感じ取れた感覚があり、非常に楽しい。 明日も頑張ります。

朝昼晩3食
2022/05/10(Tue)

最近朝昼晩3食、規則正しく食事したいと、心から思い始めた。
まず、下っ腹が出始めた、という点からダイエットに興味を持ち、その後、夜食が多くなっているので、改善したいと思い、規則正しく3食食べようと思ったのである。 自炊生活を始めるたびに思うことは、とにかくコスパが悪いということだ。1人分を毎日作るのは高くつく一方で、多めに作ってしまうと、同じ食事を短いスパンで食べなくてはなくなる。 そうすると、色々な食事が食べられないのと、食費が思ったより高くなるのとで、モチベーションが下がってしまう。 同じように思っている学生や、若い社会人は意外と多いと思う。 今、1人用の食事のサブスクなどが存在しているが、結局そういうものを利用しても、毎日送られてくる食事は融通が効かず、余らせてしまうのは目に見えている。 自分の思い通りの時間に食事ができて、好きなものが食べれて、食費が安く済むような方法はないものか・・・。

競馬
2022/05/08 (Sun)

今日、初めて競馬をした。NHKマイルカップというG1レースに賭けるためにJRAへ行ってきた。
JRAは競馬のための施設で、賭けるための払い込み機や、マークシート、競馬を見るための大きな画面などが用意されている。 7階建てになっており、多くの人が入場するために、座席はほとんど用意されていない。 座るためには指定席のために500円を支払う必要があり、大抵のおじさんたちは立って観戦していた。
まず行って驚いた事は、椅子を含め意外に何もない空間だったことだ。食べ物等も積極的に売っている訳でもないし、競馬グッズとか、広告とかがある訳でもない。行って賭けずに帰っても良い。 勝手に祭り気分で行ったため、なんだか拍子抜けだった。
賭け自体は大外れだった。3連単は100円が150万円になるほど予想しづらい組み合わせで、最も人気の無い馬が3着を取っていた。
だが、ゴール手前の盛り上がりは鳥肌が立った。 馬たちがゴールに近づくと、会場の人々の一喜一憂が全体に伝染し、ゴール直前、その感情が会場の空気の中で指数関数的に増大する瞬間がある。 僕は時間が止まったように感じた。 その刺々しさは、音楽ライブや受験の合格発表では味わえない、突発的かつ同時刻的な暴力で、他では決して味わえない感覚だった。
そして、900円はゴミと化す。
隣の人は何倍にも膨れ上がる。
なるほど、確かに面白いゲームだ。 じゃんけんとは違って、予想できる要素が含まれている以上、実力が出る。 馬が走り終える1分30秒というわずかな時間で、その予想によって金の分配に雲泥の差が生じる。 となれば、どう予想するかという点で努力するモチベーションが生まれる。 そうしてハマっていく人が後を絶たないのか。
初回に負けて、よかったと思った。もし、勝っていたら、最初よくても今後ズルズルとゲームに搾取される未来しか見えない。 そして何より、初回の競馬で18番人気が勝ったという事実は、競馬の予想がいかに難しいかという感情を植え付けるのに十分すぎた。
競馬は結局じゃんけんに過ぎない。 競馬の予測で稼ぐことが不可能だと知れたことは、今後の人生にきっとプラスに働くだろう。
とはいえ、馬を画面越しでしか見れなかったため、ゴール前の感覚を是非現地で味わってみたい。 札幌でレースがあるときは、絶対に観にいきたいと思った。

近況報告
2022/05/05 (Wed)

・就活終わります。
- IT系3社から働いても良いという許可を頂けたため、就活を終了します。応援していただいた方々、本当にありがとうございました。
3社はまったく異なるお客さんを対象にしていて、どう絞るかを悩み中です。

・5/4で26歳になりました。
- アラサーなんよな。こわ。
本当に最後の学生生活、どんな1年にしたいだろうか。
去年とかは、気の向くままに旅をして、1ヶ月くらい過ごしたいなーと思っていた。それから、水彩画もどんどん描きたい。就活終わってから自分の考えをもう一度まとめておきたいとも思う。やり残したことは全部やっておかなければならない。とはいえ、休学がいざ終わると、以下の問題が生じた。

・学生忙しすぎる
- 4月なってから授業と研究で体力ほぼ持ってかれてることに気づいた。今までよく学生頑張っていたな、と過去の自分を尊敬してしまうレベルに忙しい。
大学生が自分のやりたいことをプラスアルファでやっていく、って本当に難しいことだと思った。

・最近読んでる本
- ストロガッツ非線形ダイナミクスとカオス/Steven H. Strogatz/丸善出版
とある授業の指定参考書だったが、普通に面白い。いわゆる非線形科学に関して、あらゆる例を題材に図を使って説明してくれるのだが、これがめちゃくちゃわかりやすい。駿台の物理の授業に近い感じ。
- パターン認識と機械学習 上/C.M.ビショップ/丸善出版
こちらもとある授業の指定参考書。就活を経て、機械学習はもはやITエンジニアの基礎教養みたいなところありそうだったので、大まかにでもいいから学んでおこうという気持ちで読み始めた。機械学習は化学の最適化計算に似ている部分がたくさんあり、研究で使う計算方法と被る部分もあったりして意外にとっつきやすかった。
- 撤退論/内田樹 編/晶文社
革命的な本だと僕は思う。途中まで読んで、今、日本が非常にまずい状態に陥っていることが、身に染みて理解できる。日本の思想家のトップたちがこぞって、日本やべーと言ってるのだから、そりゃあやばいですわ。ようやく本腰入れて行く末を案じなきゃなと思わせてくれた。

・最近思うこと
- 健康的なメシが毎日3食食いたい。
- 部屋の物を減らしたい。あわよくば引っ越し...
- 自分は鼻毛が長い。
- 教育の本質は責任を体験させることだと思う。
- 年相応の事をしておく事はあらゆることにとって大切。
- 競馬をしてみたい。
以上を今後詳しく書いていきます。

SHANK
2022/02/01 (Wed))

1/28にロックバンドSHANKの新アルバム「Steady」が発売された。 1か月くらい前から聞いてる?と思うほど、ここ1週間でめちゃくちゃヘビロテしている。
youtubeで公式チャンネルがアップロードしているアルバムのピックアップ曲を聞いたとき、 なんかいつものSHANKっぽくないなあ、と感じ、今回は購入を見送るか考えていたが、 そのあとアップロードされたアルバムのトレーラー聞いたときに、 態度が一変した。
以下実際に聞いた感想。
1曲目「Candy Cruise」は、暗い場所に太陽が差し、新しい一日が始まりそうな、 暗い気持ちが明るくなるような曲で、一気にアルバムへの期待が高まる。
6曲目「Karma」は、好きなコード進行 + 語呂の良い歌詞でShankの世界観に没入できる。 「620」が好きな人はこれも好きだろう。
12曲目「Once Again」は、古き良きパンクミュージックのような、シンプルな作りと疾走感が良い。 「もう一度」メロコアが流行る時代に戻る、「もう一度」コロナ前の世界に戻るようなことは、できない。 そんな儚さを感じる曲だ。
13曲目「Steady」は表題曲にもなっていて、最後にふさわしい、誰もが良いと感じる曲だろう。 このバンドは昔から伝えたいメッセージは変わらない。それは、自分のルーツ、故郷に対する、愛だと思う。 この曲は、時代が変わって、SHANK自身も成長して、曲調が変わってきても、伝えたいメッセージの「指針は変えず」に歌って行こうとする愛を感じる一曲だ。 SHANKはアルバムの最後に一番の自信作を持ってくることが多く、今回ももれなくそんな感じがする。 「Honesty」というアルバムでも最後の曲がアルバム名と同じタイトルになっているが、 哀愁を感じるコード進行、メロディーが好きで、実際名曲だと思う。
どんどん流行ってみんなに聞いてほしいなあ、と思う気持ちと、流行らないでほしい思う気持ちが半々ある。 今回のアルバムツアーは全部抽選外れてしまった。クソッ...。
流行るな! いや、流行ってほしいけど!

睡眠に関して
2021/12/17(Fri)

私は睡眠が苦手だ。
寝付くまでにかなり長い時間がかかるし、寝てからもちょっとした刺激ですぐに起きてしまう。
とはいえ、ショートスリーパーというわけでもないため、すぐに睡眠不足にもなる。
小さな頃から家族が寝静まった夜に一人で起きていることが少なくなかった。
なぜ、寝ることが苦手なんだろうか。
遺伝の影響も多いと思う。父親は私と同じように、長年睡眠に悩ませられている。
寝付く、という点に関して、私が一番の原因だと長年睨んでいたのが、「その日の気分」だ。感情によって寝付けるかどうかが大きく変わる、と思っている。
どんな感情か、ということは詳しく伝えることが難しいが、「何かに期待を寄せる感情、ワクワク感」といったものに近いかもしれない。
しかし、最近新しくそれらしき原因を発見した。それは、「起きることが嫌い・苦痛だから寝付けない」というものだ。
つまり、起きたくないから寝たくないと感じているのかもしれない。
ということは今までに起きたいと思えるようなことがある日の前日は、早寝できていたか、と言われると、一概に全ての日がそうだったというわけではない。
これは前日の睡眠時間や周りの環境などの複数の要素と合わせて考える必要がある。
起きたくないから寝たくない、ということが正しいとすると、逆に朝起きることを楽しみの一つとすれば、次の日の予定がどんなものだろうと寝れるようになるかもしれない。
今までは睡眠をどう良くするか、と考えるときに、睡眠時の環境を良くしたり、寝付く前の行動を省みたりしたが、次の日の朝を良くするというところまで至らなかった。
良い朝にするために工夫できることはなんだろうか。
良い朝 工夫 と、ググってみたら、良い夜を過ごすことが良い朝の秘訣とのことだった。

課題解決
2021/12/10(Fri)

研究をしていて、何かに詰まってしまった時、何がいけないのか分からずに、同じようなことばかりして時間を無駄にする場合がある。 そのようなことが起こらないように、自分の課題解決の典型とチェックリストを備忘録として記しておく。
1. こまめで丁寧な記録をしているか。
後から見返したときに、一発で探し当てられるような整理整頓ができているか。
2. 問題の要となる部分とその周りの見える化 (グラフ化) をしているか。
数字を見ているだけでは分からないことがグラフを見てわかるようになることが多数ある。
3. 経験による知識や洞察が足りているか。
ある結果からわかる状況を鮮明に想像できているか。そこから足りていない知識や洞察を人に聞いたりして補充する。
自分自身も研究対象として、振り返ることが大切だと感じた。

近況報告
2021/11/27 (Sat)

そういえば最近の出来事を記載し忘れていたので、書き足しておく。
・基本情報技術者試験に合格してました。
ひろゆきが必要ないと言っていた資格に受かってました。IT初心者だった自分がまあ成長したなと、今から1ヶ月くらい前にしみじみ感じていました。
・公募展は通りませんでした。
水彩画の公募展に出品しましたが、一つも通りませんでした。これからも継続して練習して、次は通るように頑張ります。
・ツイキャスを始めてみました。
ギターをただ練習しているライブ配信をやってみました。人が見てると思うと、緊張感が出ておすすめです。不定期で開催してます。
・車が予想以上に大活躍
車サイコー!駐車場が家から近いからちょっとした移動でめちゃめちゃ使ってしまう。広々荷台でギターをすれば、音を気にせずできるし、何より大きい荷物 (大量の本とか粗大ごみ、売りたい服等。今後はスノボにも期待。) 運ぶのが楽すぎる。本当に買ってよかった。早く旅に行きたいので防寒グッズを揃えます。

トイレットペーパー
2021/11/27 (Sat)

トイレで用を足している時、ふと、トイレットペーパーの包装をみて、1ロール分の長さが100mだということに気づいた。 100mもあるのかあ、ウサイン・ボルトもここに100mが収まっているとは思わないだろうなあ、なんてことを思いながらトイレを出た。
待てよ、12ロール分ってことは1200mで、1.2kmあるってことか。
1km越えちゃってんのかよ!
高尾山余裕で超えてんじゃない!
それがこのスペースに収まってんのスッゲー! っていうみんなが小学生の時に発見する事実に今更驚いていた25歳でしたとさ。
それから、トイレットペーパーって単語を略す人少ないなあと思った。 (いちいちトイレットペーパーって打ち込むのめんどくさいんです。) 略すとしたら、トイペ?になるのかもしれないが、あまり聞かない。 同様にキッチンペーパーもキッペとか聞かないが、ティッシュペーパーだけはティッシュで略している。
生活必需ペーパー界のペーパー達は、これを許すのか。 トイペ、キッペが権利を持つためには、今こそティッシュをティッペと略し、揃えることが必要なのではないだろうか。 そうだ、ティッシュ反対だ。 ティッシュ反対ー!ティッシュに人権を与えるなー!
と、頭ごなしに反対したが、そもそもティッシュで浸透している略称をわざわざ変えなくても、トイペを浸透させる努力のほうが必要だなと思った(日本人は出る杭を叩きたくなるものですな)。
それと、実際よく考えたら、もしティッペやトイペがスタンダードに使われるようになっても、「ティッペ取って」は会話で自然に使うが、「トイペ取って」は会話に出てこない気がしてきた。 うん、使わないわ。 そう考えると、略されるためには、会話の中に頻繁に出てこなければならないんだな。 トイペを作る会社内では、トイペという単語が使われているのでは・・・。 こうなったら意地でもみんなにトイペを認識させていくためにトイペについての会話をたくさんしていくしかないな。
トイレットペーパーの長さを知り、トイペに人権を持たせる活動を始めたくなったという話でした。

研究の復習
2021/11/26 (Fri)

2,3日前から研究内容の復習を始めた。 10ヶ月くらい前から、研究内容について触れておらず、いろんなことを中途半端なままで終わらせてしまっていたので、 どんなことを進めていたのか、忘れてしまっていた。 ということで、まずは思い出すことから始めた。
思い出す作業で大変なのは、昔の自分がどういった順序で研究を進めていたのかを確認することで、 ある事柄1つ思い出しただけでは、何を意図してそのような作業をしていたのか、理解できなかった。
そして3日くらいで、大方どんな内容をやっていたか、どんな内容につまづいて終わっていたか思い出すことができた。 何事も積み上げていくことが基本なんだな、と改めて感じた。
今年度も2/3が終わる。何かを成し得た訳じゃないが、何にも縛られず自由に物事を考えられたことが何より充実した時間だったと思う。 しかし、同時に現実的なことにも目を向けなければならない。 来年度やることを色々と溜めてしまっているので、そろそろ手を着けていこう。

スマホ脳 
2021/11/17 (Wed)

最近流行っているスマホ脳という本を読んだ。
この本は、脳科学の知見や実験をもとにスマホがいかに人間の脳に悪影響を与えているかを説明する本だ。胡散臭くなく、癖も少なく読みやすい文章だった。 要約すると、人間は狩猟時代の脳がそのまま使われているので、 デジタル革命に対して対応しきれていないし、進化できないだろう、というのが筆者の言い分のようだ。 これを読んで、自分は高校に入ってスマホを持ち始め、高校時代にスマホを見過ぎていたことを思い出し、改めて反省した。
しかし、高校時代を思い返すと、自分とは違いガラケーによる慣らしがあった友達は、スマホに支配されず、うまく利用していた印象がある。 スマホ脳によると、 SNSの利用は仮想的なネットの世界と実社会を混同してしまう危険性があるとのことだった。 なるほど。ガラケーはSNSが利用できないので、電話やメールという限られた通信手段で、実社会に対してどのように関わっていくかを学べる。むしろ教育のツールとして優れているのか、と気付いた。
「実生活に対して」という部分が重要だ。 フェイスブックやツイッターというSNSも、電話やメールと同じように、あくまでも実生活を有意義にするために使えばなんら問題はない。 つまり、人と会い、話す、ということをより豊かにするためであれば、むしろ健康的なものなのだ。 しかし、実生活に関わりなく、SNSの世界だけで過ごしていると、理想的な輝かしい世界と自分の悲惨な世界とを比較してしまって、セロトニン量が下がり、鬱傾向になりやすくなるとのことだ。
さらに、SNSの世界に常にいると、画面越しにしか情報を得なくなってくる。スマホ脳によると、画面越しの情報は、「心の理論」と言われるいわゆる共感力の成長に寄与しないことが実験からわかっている。 すると、実生活を有意義に過ごすどころか人間関係に悪影響を与えてしまう可能性が生じてしまうらしい。 実生活に段階的に通信手段を組み込むことで、そのような倒錯は起こりづらくなるだろう 。
自分に子供ができたら、そういった教育はしっかりしたいと思った。

選択
2021/11/02 (Tue)

人間は1日のうちに決断する作業を無意識も含めると何万回も行っているらしい。
そのことを知った時、自分では気づかないうちにそんなにたくさんの回数、決断していたことに驚いた。 いや、本当にそんなにたくさんの決断をしているだろうか。 少なくとも、1日のうちに何度、意識的な選択をしているだろうか、と考えた。
トイレに行くか、先に湯を沸かすか。
スマホで将棋をするか、本を読むか。
確かに、自分は自然に湧いてくる2択を選択し続けていると思った。 しかし、ふと他人の価値観がベースになった選択を自分の意思に依る決断とカウントしていいのか、と疑問に感じた。 自然に湧いてくるもののなかには、誰々が言っていたから右を選ぶ、といったことから、無意識的な他人ベースとした選択も含んでいるだろう。
自分の意思と他人の意思の境界はどこだろうか。 自分を形成している考えは、他者によって少なからず影響を受けていることは言わずもがなだ。 突き詰めたら、自分の考えは周りの人々が作り上げてきたものだといえなくもない。 ある選択は考えを形成してきた周りの人々の意見の(時空を越えた)民主主義的な選択でしかないとも言える。
だからこそ、間違っているものだろうと、正しくないものだろうと、自分の選択だと胸を張って言えるものには、何万回分の1という希少性があって、それには客観的な価値がある、ということだと思う。
1日に何万回とある決断を少しでも楽にするためには、他者の意思に浸って考えるべきだろうが、その日が貴重で何にも変え難い1日だったかどうかを決めるのは、自分の胸を張った選択だ、ということを忘れずに明日も過ごしたいと思った。

Ipadで更新できるようにしました
2021/10/31 (Sun)

Texastic というエディタを使って書いている。 IOS専用?のアプリでサーバーにsshでアクセスし ファイルのダウンロード・アップロードが簡単にできるところが魅力だ。 これからはipad+Texasticという組み合わせを使ってHP更新を行っていこうと思う。

髪のびた
2021/10/30 (Sat)

髪がかなり伸びた。
前髪が目に当たって鬱陶しい。
最近100均で長いクリップみたいなのを使って前髪を上げっぱなしにして過ごしている。
目が軽くなって楽だし、周りがよく見えるようになるし、印象もよくなるしで、いいことづくめなので昼間は上げて過ごすことが増えた。
とはいえ少しみすぼらしい感もあるので、早めに切りに行かないとなあと思っている。
世の中には美容院に行くのが億劫に感じる人と楽しみに感じる人の2パターンが存在するが、僕は圧倒的に前者である。 人と人の物理的距離感 (あるいは精神的にも) が近すぎて全く落ち着かないからかもしれない。 距離が近いが故に何か喋らないと、お互いに不安になってくるし、かといって気の合わない人と喋るのも疲れるしで率先して行きたいと思えないのだ。
座りながらゲームずっとしてたい・・・。
いっそ髪切る練習を徹底的にして、一生自分の髪は自分で切れるようにしたら、すごく経済的だし楽しそうな気がしてきた。 趣味で髪切ってる人、なかなかいないが、やはり敷居が高いんだろうか。 マネキンで練習するのとは訳が違うんだろうか。 失敗した時のリスクが高すぎるのかもしれない。 自分でやるなら坊主一択ですな。

日記の付け方
2021/10/27 (Wed)

最近ブログを付けてなかったので、すごい書きたいことが沢山ある気がする。
この日記は自分の考えをまとめるためにも大切なので頻繁に付けたい。
書こうと思ってもパソコンを開くのが面倒になってしまったので、 なかなか書く気が起こらなかった。
ここ1年くらいパソコンの起動がかなり遅くなったなあと感じる。 取り換えるまで行かないが、もうすこし軽くしたいなあと思う。 日記をホームページに付ける際は起動の速さが継続のコツになりそうだ。
そういった点では、ipad + bluetoothキーボードの組み合わせはかなり優れている気がする。 起動が早く、どこでも書けるからだ。 そのためには、現在の日記の付け方である、
WSL内のファイルに日記を付ける

サーバーにscp
方式を一新すべきだろう。ipadからパソコンにアクセスすることはできないからだ。
要件としては
・バックアップはサーバー上のpublic_htmlの構造をそのまま持っていたい
・バックアップはipadにいらない。パソコンにのみあればいい。
・ipadで日記を更新したい。
・ページの切り替えがないスクロール式のブログにしたい。
以上より、以下のように更新するのがよさそう。
ipadにindex.htmlをコピーして持っておく。

ipadのlinux用のエディタで日記を書く

サーバーへscp

バックアップはパソコンを付けた時にサーバーからscp
そこでまずはipadのエディタを探してみようと思う。

とりとめのない
2021/10/27 (Wed)

自分で自分の嫌いなところがある。
とりとめのない、という点だ。
いろんな知識や感情までもが断片的で未完成で 一つの「幹」を持っていないと感じる。 それゆえに浮足立っていると言われるし、伝えたいことがはっきりしないと言われる。
ところで、「矜持」という言葉がある。曲げられない信念、貫きたい意思、プライドといったような意味だ。
僕の尊敬する内田樹先生は「矜持と執着の違い」に関してこんなことを言っている。(以下 困難な成熟/内田樹 より)

矜持というのは、人間にとって生きる上での自然です。
ここできっちり筋目を通さないと、自分が「生きている」気が しなくなるもの、それが矜持です。
(中略)
何かをしないといけないというときに、自然に身体が動く場合と、 「理屈」をつけないと動かない場合があります。
理屈を付けないと身体が動かないというのは執着のほうです。
身体が厭がっているんです。
だから、「譲れない」ことか「譲ってもいい」ことかを判定するのは、 「身体が自然に動くかどうか」を基準にするのがいちばん確かです。

内田先生の言葉はスッと頭に入ってくる。そして元気を貰える。
幹がないと嘆いていても、矜持を失っては幹はできない。 矜持を保つためには、生きている心地がする、と思える選択をしなければならなかった。 そうした「自然」に関する選択を間違えてしまった時、そして選択から時間が経ってしまった場合、 人はどうすれば矜持を取り戻せるだろうか。
今からでも自分に幹を作り、自分の「とりとめのない」部分を直したいと思う。
今まで通り、誰かと飲みに行って相談するのが正解なのだろうか・・・。
(この文章もとりとめがないことは百も承知だ)

紀伊国屋
2021/10/26 (Tue)

札幌駅の西側には紀伊国屋がある。 紀伊国屋とは、テニスコートが10面くらい入りそうな大きな売り場に、 人が2人通れるか通れないかくらいの隙間を開けた間隔で本棚が大量に置いてある場所だ。 そしてその本棚の前で沢山の人がボーっと突っ立っている。 それもそのはず、紀伊国屋は不思議なパワーがあるパワースポットなので、 ご利益を頂いているのだ。 行った後は必ず元気になって帰ってこれる、特別な場所だ。
ところで、札幌にはコーチャンフォーという本屋がある。 パチンコ屋のような若干のチャラさを感じるデザインをした建物の外見とは裏腹に 中は品揃え抜群の本格的な本屋だ。 紀伊国屋が3つ入りそうな広さの売り場には文房具、CD・DVD、お酒等その他の物も販売しており、 建物の端にはシャンゼリゼ通りの一角にあるような、白を基調にした天井の高いカフェテリアが佇んでいる。 つまり完璧な場所である。売る、という点において総合点が高過ぎる場所である。
しかし、パワースポットではないらしい。
コーチャンフォーに初めて行った後、扉を出て、外の空気を吸って、 息苦しい場所から解放された気分になった。 元気になるどころか、元気を吸われてしまっていたことに気づいた。
本棚が置いてあるという共通点を持ちつつも、こんなに効能が違うものなんだな、と感じた。

最近思ったこと
2021/09/29 (Wed)

マナーについて
企業に行って3年学ぶということに意味を見出せずにいた。 行ってもこき使われるだけなのだろうに、 なぜこんなにも企業で働くことが有意義だという人が多いのか謎だった。 とある本に一流企業ほど、「マナー」を徹底的に叩き込む と書いてあり、なるほどと思った。 確かに自分は足りてないし、叩き込まれることは必要だと思った。 一方で、基本的な部分は自分で身に付けようと思えば それなりに身に付くだろうし、 お金を稼ぐという点だけだったら、一人で稼いだ方が稼げそうだなあと思う。 きっと、3年という数字はそれ以外のメリットを得られる最低限の年数なんだろう。

電池について 2
電池産業は今後大事だと思うと、かなり前から思っている。 日本でも頑張っている企業があったら、そこで働くのもアリかと思っていた。 しかしリチウムイオン電池は現在中国やら韓国やらの独占状態で 日本は入る余地もないっぽい。 だったらもう電池のことは中国韓国に任せようと思うようになった。 今更日本が頑張ったところで資源的にも中国に勝てなさそうだし。 日本が頑張れることは昔から変わらず何かと何かを合体させることだと思うので、 カレーうどんに次ぐ名合体が何か思い付けばいいなと思っている。 腕時計と麻酔銃組み合わせなんてどうだろうか。

絵に関して
水彩画をかなり色々描いてきた。 なんとなく行き詰まり感があるので、 本来やりたかった貼り絵をやっていこうかと思っている。 遠回りしてよかったと思えれば良いが・・・。

認知シャッフル睡眠法
昔から寝つきが悪かったので、色々調べていると 認知シャッフル睡眠法という方法がかなり良く効くらしい事を知った。 論理的に考えてしまうと脳が活性化して寝れなくなるという性質を使って なんの論理の繋がりのない単語を10秒置きに聴くことで、 脳をクールダウンして寝れやすくするという方法らしい。 ある日、試しにやってみた。 確かに寝つきは良くなったが、youtubeの自動再生機能のせいで 深海の音楽(?)が流れ始めて眠りが浅くなり、 次の日は寝不足だった。 ご注意を。

車を購入しました
ホンダ バモスを購入。 ローン15回一回12000円。 格安だが、スタッドレスなし、O2センサーぶっ壊れた。
でもまだまだ走れる! 秋田→山形→新潟→富山→石川→福井→滋賀→京都→兵庫 計9日間合計2000km強を走破してくれた。
どうでもいいけど走破っていう単語使う人 自分の事好きそうですね。 たぶん走破したと思えるほどの距離は、主観でしかなくて、 もっと長い距離・つらい道のりを走破してる人なんか山程いるんだろうに、 勝手に長距離走破したと思いあがってるからなんだろうなと思いました。
え、ひねくれてないですよ。 主観ですよ。

くるり
2021/06/17 (THU)

くるりの曲を聴くと勉強に集中できることに最近気づいた。
普段勉強するとき、音楽を聴くと音楽に集中してしまって、全く集中できない ことが多いのだが、 くるりだけはなぜか集中できる。
昔読んだ東野圭吾の小説の分身? だったかで、 レッドツェッペリンを聴くと数学が捗る、と主人公が語っていた。 特定の音楽だけ集中できるという感覚は、全く分からない感覚だったので、最近分かることができて嬉しい。
分かると少しうれしい日常の些細な変化。
考え方の癖、感じ方の癖というものを意識してみると、 全く違う世界に訪れることができる (気がする) 。 他人がなぜ自分とは異なる考えに至ったのか、全く分からない時、 相手を知る前に、自分の考え方の癖を確認する事から始めてみると良いのかもしれない。

スリッパ_2
2021/05/20 (Thu)

2週間くらい前に、スリッパをまた変えた。案の定2か月くらいたって臭くなってきたため、 今度は藺草を使用した薄い生地の、通気性の良いスリッパにした (以前のものは すでにゴミ収集所で燃えカスとなっているに違いない) 。
前のに比べ、確かにふわふわ度は劣るが、長時間履いていても蒸れず、 快適さが維持される。冬場などは足先が冷えるかもしれないと考えたが、 実際履いてみると、寒い日でもかなり温かく、以前のように通気性が悪い⇒蒸れる⇒湿り気で靴下が濡れ、 ⇒足が冷えるということがなく、逆に靴下が汗で濡れることがないため、長時間温かさが保たれていた。
我こそは足汗王子だという方は藺草にあやかってみてはいかがだろうか。

近況報告2
2021/05/20 (Thu)

最近読んでいる本を列挙する。
「基本情報技術者試験ポケットスタディ/秀和システム 午前・午後・python 3種」
「デザイン、アート、イノベーション 経営学から見たデザイン思考、デザイン・ドリブン・イノベーション、
アート思考、デザイン態度/同文館出版」
「これからのデザイン経営/クロスメディアパブリッシング」
「銀のアンカー/JUMP COMICS DELUXE」
「独学大全/ダイヤモンド社」
「巨匠に教わる 絵画の見方/視覚デザイン研究所」
最近は、デザインとビジネス関連に興味があり、知識を深めている。

近況報告
2021/05/19 (Wed)

最近の状況についてですが、今年4月から来年の3月まで休学することとしました。 今までお世話になった方など、全員に早く報告せねばと思っていたのですが、 報告することができず、申し訳ありません。 理由としては昔から好きだった絵画をここできちんと学んでおこう、という 非常に個人的かつ自己中心的な思考からです。 就活を経て、自分のやりたいこと、得意なこと、やらなければならないこと、 すべてを考慮した結果これが現状のベストアンサーだと確信しました。 世の中、それ以上に家族に最大限に還元する手段を模索中です。 行動命をモットーに邁進します。
このブログに関しては、続けていけたらいいなと思います。 心が動いた瞬間を文字に残す作業は、自分にとって ウイダーインゼリーを飲むくらい大事だからです。 ウイダーインゼリーは食べるなのか、飲むなのか、 混乱させてしまったかもしれませんが、よろしくお願いします。

飛行機の音
2021/03/11 (Thu)

部屋で本を読んでいるときに飛行機の音が聞こえた。
飛行機の中に座って本を読んでいる人は、着陸した後のことを頭の片隅において 若干緊張しながら、地上にいる人間に意識など微塵も無く本を読んでいるのだろう。 対して自分は、こうして飛行機の中の人を想像できる余裕があるほど 本に集中せず、リラックスして読んでいる。
飛行機に乗っている人は人々を見下ろしながら、 地上の人は飛んでいる自分たちのことなど誰も考えていないだろう、と思っているに違いない。
飛行機に乗っているからといって、俯瞰されない保証はない。
俯瞰するか、されるか。考え方で立場は変わってくる。
さらに、もし、同じ飛行機の音を聴くのではなく、飛んでいる姿を地上から見た時に、 飛行機と自分の位置関係から自分が俯瞰しているとは思えないだろう。
飛行機、下から見るか、下から聴くか。
考え方は、得る情報によってがらりと変わる。

昔の日記
2021/01/30 (Sat)

日記は読み返すものなのだろうか。 昔の自分の日記を読むことは限りなく恥ずかしい。 しかし、めっちゃ勉強になる。
今日部屋を掃除していると昔の日記を見つけた。 今の自分は大人になったんだろうか、気になって読んでみると、 全ッッッたく大人になってなかったので、なんか複雑な気分になった。 成長したと勝手に思っていたけど、成長してねえんだなあ、自分。
結局「成長」って言葉は自己満足するために使うに過ぎないんだろう。 じゃあ「成長できる環境」ってなんだよ! つまり「自己満足できる環境」ってことじゃん!
めっちゃ恥じいじゃん。
(自分でも分からないが日記を読んでから昔の自分に戻ったかのような 感覚がしている。使ってなかったニューロンが復活した感じ。)
ノートの隅に本気の落書きをしたり、苦しいことがあると感じてることを文章にしたり、 昔から本当に何にも変わってない。 逆に大学で良くこんな素直に育ったと思う。 これからも素直をモットーに生きていこう。

スリッパ
2021/01/25(Mon)

最近スリッパを新しくした。自分の部屋は1階なので、床がかなり冷える。 冬にスリッパは必需品だ。
前まで100均のスリッパを使っていたが、今回は無印の良い品を買った。 履き心地は相変わらず良く、さすが無印だと思う。 割と足に汗をかくほうなので、実家のスリッパは藺草を使った通気性の良いやつだったが、 北海道の1階の底冷えはエグさが桁違いなので、普通に密閉されたスリッパにした。
そのせいで早速汗をかいて臭くなりそうな雰囲気が漂ってる。 たぶん、すぐに変えることになるんだろうな・・・。

働くとは
2021/01/24(Sun)

今週の土日は何も生産性のあることができなかった。
有吉のラジオを馬鹿みたいに聞いて、
ニヤニヤしながら適当に飯食って、
youtubeでお笑い芸人の動画適当に見て、
腹抱えて笑って、
そして疲れたら寝る。
大学生の特権をフルで活用した。 社会人になったらこんな日々が愛おしくなって、 こんなクズみたいな生活も、大切な思い出になってしまうと思うと、 なんだか若さを憎く感じてくる。
去年くらいまで、歳によって感じることが変わってくるから、若さだけがすべてでは無いと、 勝手に歳を取ることに期待していたが、 日々、「社会人たれ」と意識し続けると、 体力・感受性・周囲の人のパワー等すべての点で、若いに越したことはない、と 実感せずに居られない。
しかし、絶望ばかりしていても進展はない。 働くという事はいったいどういうことなのか、 その本質を捕まえて、社会人の楽しさを感じながら生きていきたい・・・! 僕は「下流思考 学ばない子どもたち 働かない若者たち/内田樹」を読んで、僅かながら希望を見出した。 以下、上記書籍より引用。

「雪かき仕事」をする人は朝早く起き出して、近所のみんなが知らないうちに 雪をすくって道ばたに寄せておくだけです。起き出した人々がその道を歩いているときには 雪かきをした人はもう姿を消している。だから、誰がそれをしたか、みんなは知らないし、 当然感謝される機会もない。でも、この人が雪かきをしておかなかったら、雪は 凍り付いて、そこを歩く人の中には転んで足首をくじいた人がいたかもしれない。 そういう仕事をきちんとやる人が社会の要所要所にいないと、世の中は回ってゆかない。

これを読んで、社会人とは、生きるためにお金を稼ぐのではなく、生きるために「感謝」を稼ぐのだと 気づいた。その感謝は目に見えないし、使い物にならない 。 さらに、自分が稼いだと認識しなければ、振り込まれることがないのだ。
この事実に自分は希望を感じた。なぜなら、 若さだけがすべてじゃない、と再び思わせてくれたからだ。 つまり、何を稼いでいるかという目的を「お金」から「感謝」に変えることで、 それがどんなに待遇の悪い対価だとしても、 稼いだ「感謝」の量で若さを圧倒できる、ということだ。
社会人になったわけではないので、はっきりと断言はできないが 「今日も感謝を稼いだな」と勝手に認識することが、 社会人を楽しむ秘訣なのかもしれない。
・・・
そんなこと言っても、それができないから辛いのだ、と将来の自分から声がした。
それが無理なら、ひたすら内向きに、クリエイティブに過ごすしか道はない。 社交の楽しさを捨てて、孤独の楽しさを追求してしまった、若かれし自分への罰則として そうする以外に道はない。
と返答しておこう。

リニューアル
2021/01/23(Sat)

ホームページの外装をリニューアルしました。
主にAbout Meのページ、researchのページのメニューを改造して、画像を増やしたりしました。
あと、⇒のアーカイブも作ってみました。
cssについて色々調べるのはあまり苦じゃなくむしろ楽しかったです。 また気が向いたら今度はコンテンツを増やす予定です。

たまゆら
2021/01/04(Mon)

僕は北のたまゆらをこよなく愛している。 北のたまゆらは桑園駅から徒歩3分程度、自宅から徒歩20分程度の場所にあり、 室内風呂、露天風呂、サウナを完備したスーパー銭湯である。 もちろん食堂も併設していて、テーブル席、茣蓙席どちらも用意している。 それゆえ、風呂から出た後は、寝るも良し、火照った体にビールを流し込むも良し、 テレビを見るも良しと、ダラダラを極めることが可能なのだ。
スーパー銭湯なのに漫画ねえじゃんー!って思う人もいるだろうが、 スーパー銭湯では何も考えない時間こそが大切なのであり、 漫画を読むのなら漫画喫茶にでも行くべきだ(とかく最近の漫画はやたら考えさせられる)。
北のたまゆらの室内風呂は4つあり、そのうちメインの浴槽は42℃程度の高めの温度設定になっている。 実際、氷点下の中歩いてきて冷えきった体が熱い浴槽に肩まで浸かった時の安堵感、、、is プライスレス。
もはや
ハェ・・・
しか言葉は出ない。
完全にハエとなった所で次にたかるのはサウナだ。 しかし、サウナに行くのは少し早い。その前に必ず体を冷やす。 冷やし方として水風呂はナンセンスだ。 せっかく北海道にいるのなら氷点下の外気で冷やすのが趣深い。 北海道の外気はなぜだろう氷点下でも穏やかに感じるのだ。
火照りを冷ませた後は、いよいよサウナだ。 しかし、残念ながらサウナについて語ることはほとんどない。 サウナについては物好きなお笑い芸人がカッコつけて語ればいい。 自分はサウナ5分⇔冷まし1分のインターバルをこなすだけである。 こうして、心頭滅却し体を芯から温めていくのだ。
北のたまゆらには東京では味わえない穏やかさが確かにある。 それは、42度のお湯でも、カンカンのサウナでも、氷点下の外気でもなく、 地元の家族連れ、老夫婦、学生、来ている人からすべからく感じられる、 人の温かさなのかもしれない。 休憩所の「丸い」空気感、勝ちの価値観とは全く無縁の場所。 心からくつろいでいい場所。 一人一人の温かさで空間が満たされることで、真に「芯」から温かくなれるのだろう。
1回の入湯料は450円。 現実に疲れた人、休日を有意義に過ごしたい人など、 これを機に是非北のたまゆらに行ってみてほしい。

電池
2021/01/02(Sat)

新年明けましておめでとうございます。
結局毎日書くといって、書かないまま新年を向かえてしまった。 まあ、日記に関しては目標は決めずぼちぼち続けていけたらいい。
電池、電気の池で電池。由来は電気が水のように溜まってるから、という単純な理由じゃなかった気がする。 電池を使う場面は、日常でも色々ある。 スマホ、リモコン、時計、ひげ剃り・・・。 よく考えてみると、身の回りには電池ありきのものが多すぎる気がする。 つまり「だいたいの悩みがお金で解決できるように、だいたいの面倒臭さは電池で解決できる」 と思われすぎている気がするのだ。
分かりやすい例は、Bluetoothイヤホン。 コード付きイヤホンと異なり、コードが無いため、邪魔にならないというコンセプトなのだろうが、 電池切れの度にいちいち充電しないといけない。 それゆえ、ほとんどの人がめんどくさがって使わなくなると思っている(偏見)。 電池の持ちが無限になったら、誰もが使うようになるだろう。
他にも、Suikaなどの電子マネーなんかは最近はスマホに取り込まれるようになった。 確かにスマホでなんでも完結するなら、カードの管理等、面倒ではない。 しかし、充電が無くなれば使うことはできなくなってしまう。 どれもこれも、充電が無限に使えるなら、心配することなど一つも無くなる。
つまり、色々な面倒臭さの責任を電池に押し付けて、いつか電池が解決できると信じているのだろうが、 その電池は今後の発展性においてどれほど信頼に足るものなのか? と疑問に思ったのだ。
確かにこの10数年で、スマホの充電容量は大幅に増えたし軽量化もされた。 でもそろそろてっぺん見えてきてないか? いくら最先端技術も、「電気の池」という性質、物質の壁を超えることができないんじゃ無いか、 と誰しもがうすうす感じているのではないだろうか? 結局、僕たちが今抱えている面倒臭さは電池の限界を超えることが無い限り 末永く未来にも残るのかもしれない。 200年後、流星のロックマンの世界は本当に実現するのだろうか。
これ以上小型化軽量化が為されないなら、いっそ逆に行って見直すのもアリかもしれない。 2030年には初期の携帯電話の電池くらいバカデカい電池を担ぎながら猫背の人が行列を作っていたら・・・、
ちょっと怖いですね。

くつした
2020/12/26(Sat)

最近靴下を買い換えた。 UNIQLOで2セット790円で売られていたあったかい靴下を4つほど購入し、 古い靴下を一掃した。
僕は靴下のセンスが絶望的に無い。 服や靴などは、色々な人に褒めてもらえることが多いが、 靴下に限っていままで多くの人に馬鹿にされてきた。
実は今回購入した経緯も、ダサい靴下を履いていたためで、 これで馬鹿にされるのは通算4回目となる。
一番ひどかったのは深緑と黒の2cm幅程度のボーダーで、 入口部分がオレンジ色で囲われている靴下を高校で履いていた時で、 けちょんけちょんにけなされ、すごく悲しい思いをしたのを覚えている。 それを境に靴下センスが本当に無いことを思い知らされた。
確かに靴下に気を遣える人は、素敵だと思うし、自分もセンスのよい 靴下をチラみせして、おしゃれをアピールしてみたいが、 そもそも、靴下に気を遣えるほど、外のおしゃれが完了していないのだ。 うどんの味に納得がいっていないのに、ダシや麺の作り方を変えず、 七味をより良いものに変えることは無いだろう。 服や靴で満足できていないのだから、到底靴下でおしゃれしようとはならないのだ。
とはいえ、ここまで人に言われてきたため、最近はさすがに懲りてきた。 替える頻度を上げて、靴下への意識を高めていくために、 次は3月くらいに変えるとしよう。

臨死体験
2020/12/26(Sat)

臨死体験による一人称の死生観の変容/岩崎 美香 (トランスパーソナル心理学, 精神医学 vol.13, No.1, Sept, 2013, p93-p113)
上記記事を読んで、備忘録として読んだ感想をまとめておく。
そもそも、この記事を読もうとしたきっかけは、 星野源さんについて書かれた以下の記事を読んだことがきっかけだった。
GQ JAPAN: 星野 源──「うちで踊ろう」悲しみの向こう 歌で手をつなごう.
星野源さんは、2012年にくも膜下出血を発症し、 死にかけたことがある。その際に彼は、死の向こう側が見えた、らしいのだ。 その記事によると、曰く、死の向こう側は無である、らしい。 なんだか、よく分からんが、確かに無っぽいなとは思う。 でも無、のイメージなんて想像もつかない。 僕は普段、そういったスピリチュアルな事を信じようとしないほうだったが、 実際、彼の音楽の雰囲気は臨死体験を経てから変わっていることが確かに分かる。 つまり、臨死体験が彼の感性を変えてしまったのだと思う。 音楽性が変わった、ということはスピリチュアルなものの確証性を確保する訳ではないが、 事実、臨死体験が、多くの人を感動させる感性をもつ星野源という人の音楽性を 変えてしまったことは、認めざるを得ない。
こういった経緯から 臨死体験を経たのちの感性の変化について非常に興味をもった。 臨死体験はどのように人間に影響を与えるのか、また、なぜその体験が感性に大きな影響を与えるのか。 この記事を読んで、より一般化された臨死体験がどういったものなのか理解が深まった。 要は、臨死体験を通して、一度死の向こう側を体験し、 「死の瞬間や死の先の領域を具体的にイメージ化できるようになる」ことで、 「死の向こう側から自分の生を眺める」ことができるようになる、という 「死生観」の変化が為されることが理解できた。 結果的にそうした死生観を持つことで、「人生の有限性を認識して生きる」ことができるようになるため、 臨死体験によって感性の変化が為された訳ではなく、「物事の選択が(より)自覚的になる」という変化が生じるのである。 より自覚的に物事を選択することで、迷いのない生き方に繋がり、 結果的に、今までとは違った感性になったように見えているのかもしれない。 星野源さんの音楽は、臨死体験を経て「死の向こう側は無である」 という究極的なゴールを見て自身の死生観が変化したことで、 内面をより迷いなく表したものへと変化したのだと思う。 現代の日本は無宗教化が進み、多くの人が死の覚悟無しに生きんとする死生観を有しているように思われるが、 誰でも気楽に臨死体験できる訳ではないので、 死生観を養うことは、そうした日本の状況を鑑みると もっと真面目に考えられてもいいことなのかもしれない。

まあいいや
2020/12/25 (Fri)

今年の年末は帰省を控えた。家に祖母と祖父がいるため、 僕がコロナを持っていた場合致命的であるとの判断が母から下された。 祖母、祖父に会いたい気持ちがあったが、今年は仕方ない。 実際帰ってもそんなにやることがないので、今年はゆっくり札幌で過ごしていたい。
とはいえ札幌にいても大してやることがないので、年末年始は日記くらいこまめに付けていきたいと思う。
最近、成長したいという気持ちが前よりも薄れていることに気づいた。 以前だったら、何事も「考えなきゃな」⇒「熟考」⇒「まあいいや」という流れの思考パターンで行動していたが、 最近は「熟考」の前に「まあいいや」、という気持ちが来てしまい、あっさり行動することが増えた。 つまり楽観視、いや諦観する場面が増えた。 すると、会話の取り方にも影響が出てきた。 以前だったら、嫌な事を思われないように立ち振る舞おう、と考えて、自分の思った事をいうことを控えていたが 最近の「まあいいや」という気持ちが、以前のように嫌われないように立ち振る舞うことすら面倒させて、 初対面の人でも緊張せず話せるようになってきた。
以前まで初対面の人との会話では、今まで何か実のある事をしないと、と肩の力が入ってしまっていたが、 「まあいいや」という心を持つことで、冷静に頭を働かせて会話ができるようになった。 これはいい兆候なのかもしれない。
しかし、「まあいいや」は使い方を間違えるといかにも危険そうだ。 自分の斜に構えている部分が強調されて、より人に嫌われるかもしれない。 自分の人生全体が「まあいいや」で埋め尽くされ、何も残らないかもしれない。 本当にこの考え方でいいのだろうか。
だが結局、いままでの「熟考」フェーズがカットされただけで、 本質的には生き方は全く変わっていない。 ただ、「まあいいや」と思う段階が速くなっただけなのだ。 したがって、「まあいいや」で今までずっと生きてきたのだ。 この生き方以外で生きてこなかったため、他に方法を知らない。 これからもこの、斜に構えた「まあいいや」で生きていく以外に方法はないのである。 ならいっそ、「まあいいや」を愛して生きたほうが自分が楽しめるんじゃないだろうか。 他人にどう思われようと、仕方がないのである。
いままでの「熟考」フェーズは要らなかったのだろうか。 と考えてみたが、それはそれで必要だったのかもしれない。 「熟考」は自分の青春だったと思う。 「熟考」が失敗を生んで、失敗から沢山のことを学ばせてもらったと思う。 これから社会人になる時に、熟考したくなる場面も出るかもしれない。 そんなときこそ、まあいいや!と前を向いて頑張ることが、自分自身が大人になるために必要なんだと思う。

yanase_takashi
最近はまった詩集。辛いとき頑張る活力が湧いてくる。(人間なんてさびしいね/やなせたかし)

ま、自分語りがキツい日があってもたまにはまあいいや。

ハロゲンランプ
2020/10/24 (Sat)

ハロゲンランプというランプが家にある。
普通のランプと何が違うかというと、一言で言うと、非常にオレンジ色の強い色を発光するランプである。 また、電気代がかかる一方で、非常に長持ちするという特徴も兼ねている。 なんだ、LEDの下位互換じゃないか、と思われるかもしれないが、実はハロゲンランプの発光色はオレンジとはいえ 少し独特だ。白熱灯の温かみとは異なり、情熱的で、夕日を凝縮したような、少し切なく懐かしみのある色をしている。 今家にあるハロゲンランプはセカストで格安で売られていたもので、でっかい袋を掲げて家まで持ってきた。 買った当初は、なんだこの色は全然落ち着かねえな、と思ったが、使っているうちに、不思議となじんできた。 スマホをいじる時、研究する時、読書するとき、寝る時に付けても落ち着いて良い。 最近断線か何かのせいで付かなくなってしまったが、ランプを変えてまた使おうと思っている。
コロナによって人と人の距離が離れ、世の中全体が冷えてきている。 そんな時代だからこそ、僕は情熱のエッセンスをモノから吸収すべきだと思う。 モノは一見すると便利そうだが、人が使うと不便さが分かってくる。 その不便さ・不自由さが情熱の由来となる。 誰も知らないような古本・絶版になったレコード・ハロゲンランプ・大きなのっぽの古時計... 不自由の中には必ず情熱が含まれている。不自由であることに人は情熱を感じ、生きてこれたとしたら、 一定の不自由は後世にとっておくべきなのかもしれない。 (とにかく、機能的じゃあないならもう要りません、というのは間違っている。)
そういえば、国内でのハロゲンランプの販売がそろそろ中止になるらしい。 それを聞いてこんなようなことを思っているのかもしれない。急いで買っておきたい。

珈琲
2020/10/05 (Mon)

近頃、家でインスタントコーヒーを淹れて飲む機会が増えた。
袋を開いて、凝った造形の容器に入れられたコーヒー粉末を出した瞬間の 香りは、いつでも心が安らぐ。 いつかは自分で炒った豆でコーヒーをいれてみたいものである。 つい去年くらいまでは、コーヒーを馬鹿みたいに飲む人の理解ができなかったが 最近ようやくハマる理由が分かってきた。 いままで食べ物や飲み物は生きるために摂取すべきものだという考え方が強かったが、 むしろ食べる飲むという行為は副次的な意味合いが強い場合が多い。 コーヒーも味ではなく、香り、雰囲気といった点が特徴強い飲み物だと思う。 もちろんコーラも好きだが、コーヒーの"おいしさ"に気づいた時、少しだけ 世界が広く感じるのかもしれない。

風邪
2020/09/28 (Mon)

一昨日あたりに風邪をひいた。
季節の変わり目で寒さにやられてしまったのかもしれない。 タバコを吸いすぎたのか、バイト先のハウスダストか、動物の毛かもしれない。
のどが痛くなってから何もしなかったからか、寒くなったのに布団を変えなかったからかもしれない。 家を掃除せずにカビが蔓延してるのかもしれない。 とりあえず何が原因か分かっていないのでとりあえず安静にして早く治したいと思う。

麻雀
2020/09/22 (Tue)

最近麻雀にハマった。
この連休はずっと麻雀のゲームに費やしたため、何も生産的なことができなかった。
麻雀は次に来る牌が何なのかわからないわくわく感と、論理的な考えでゲームを進めていく バランスが丁度良く、いろんな大学生がハマってしまうのが分かる。 今は1シャンテン形を覚えようとしている。 将棋と異なっていろんな人がやっているのですぐに人が集まるし、 4人で喋りながらできるので、単純に楽しい。
麻雀をやっているとなんとなく頭の血の巡りが悪くなっている感覚が分かる。 ボーっとしながらでもできるので、どんどんバカになっている気がする。
残りの大学生活、麻雀に時間を吸い取られないように気を付けたい。 麻雀

石和温泉
2020/09/14 (Mon)

昨日まで石和温泉に行っていた。 石和温泉は いわさ と読むらしい。 初めて知った。 カニ食べ食べ放題バイキング、卓球、麻雀・・・ 温泉旅館でやりたいことはやりつくしてしまった。 本当に素敵な旅館だったと思う。

神奈川観光
2020/09/11 (Fri)

免許の更新で東京に帰ってきた。
もともと誕生日が5/4なので6/4が更新の期限となっていたが、 コロナの影響もあってうっかり失効扱いで更新することになった。 13時くらいに更新が終わってから、 以前3歳まで住んでいた鵠沼海岸へ行ってみようとふと思い 武蔵小金井から新宿に出て、湘南新宿ラインに乗り、藤沢へ。 その後、小田急江ノ島線に乗り継ぎ、鵠沼海岸駅へ向かう。 前住んでいた家に行くのは3歳のころ引っ越して以来初めてだ。 涼しくて快適な車内から降車すると海特有の潮風と残暑が体にまとわりついた。 駅前の商店街はコクリコ坂で出てくる商店街のように活気があった。 住宅街へ入って家を探す。 家の住所は母親に教えて貰っていたため、Googleマップを使ってスムーズにその住所にたどり着いた。 最後の角を曲がった先の行き止まりに、やけに小ぶりな黄色い建物が建っていた。 しかし、これもまた小ぶりだが、やけに愛着の湧く家の庭と、白の細長い板を縦方向に並べて作られた庭の扉と、 そして家の脇の小さな砂利が確かにあった。 ああ、ここだ、と思って少し感動した。 変わらぬ家がそこにあるという安心感を感じた。 向かいには畑があったはずだが、そこには家が乱立していた。 近くの砂場は駅前の地面のようにきれいにコンクリートで埋められていた。
・・・。
もう見るものは無いと思って帰ろうとしたとき、自転車に乗ったおばちゃんが角から現れた。 ボンタンアメをくれた八木さんのおばあちゃんだった。 顔はもうすっかり忘れていたはずなのになぜか角から現れた瞬間に親近感を覚えた。 思わず声を掛けると、あちらも僕のことを覚えてくれていた。 なんだか、嬉しいような寂しいような、これを幸せというなら正しい気もするような、 不思議な感覚を味わった。 帰りに土産としてなんだか分からんデカい柑橘類を貰った。 その柑橘類を元々7kgだったカバンに詰めるとまあまあ重くなった。 そのカバンを背負って、そのままメインストリートに出て左に曲がり、よく行ってたらしい海岸まで歩いた。 実を言うと海岸での出来事は何一つ覚えていなかった。 ここに来るまでに覚えていた景色は、家の前の畑の木の葉っぱの硬さと、 家の脇の砂利の大きさと、 母親と一緒に行ったスーパーのことだけだったが、 いざ来てみると色々なことを思い出した。 よじ登って八木のおばあちゃんに怒られた塀があったが今はないこと、 初めて自転車が乗れるようになった広場には球場が併設されていたこと、 その広場に行く途中の交差点には湘南セミナーがあること、 家から歩いて左に曲がったときに現れるL字の道には変わらず古びた空き家があること、 そして、海岸に行く途中の道には松ぼっくりが大量に落ちていること (今でも海岸での出来事は何一つ思い出せていない)。 ああ、自分はここで生きていたんだ、と感じた。 もし自分がここで暮らしていたら、どんな人生だっただろうとふと考えてしまった。 結局同じところにたどり着いていただろうか。 ここへ来て感じた安堵感、ホーム感、ルーツである感覚は本当に大きかった。 離れて気づく感覚、というものが一番研ぎ澄まされた日だったかもしれない。 海岸に着いて海を見ると、 果てしなく続く水平線と夕日と積乱雲、そして箱根の山の景色が現れた。 一言でいうと絶景だった。 こんな絶景を逆になぜ覚えていないのか、なぜどうでもいいことばかり覚えているのだろうか。 ・・・。 将来は海岸に住もうと決めた日でした。
相模湾 という文章を箱根で書いている。 明日は石和温泉に行く予定だ。 楽しみだ。

羊ケ丘展望台
2020/08/10 (Mon)

今日は友人と焼肉に行った。 もともとはサイクリングをする予定だった。 最近札幌市のキャンペーンで、有名な観光地は入場料無料になるというものがあり、 羊ケ丘展望台へ行こうと言っていたのである。 しかし、雨。 仕方なしに昼めしだけ食って帰ろうとなったのである。 割とぼったくりな焼肉を食べた後外に出ると、じめっとはしていたが、地面が乾いて雨が止んでいた。 これは行けるな、と相談し、急遽サイクリングすることに。 完全にノリで行くことになったため、かばんも何も持たずに行くことになった。 結果から言うと、相当疲れた。 羊ケ丘展望台は意外と高い位置にある。 札幌市が見渡せるのだから当然だと思う人もいるが、完全に気づいていなかった。 自転車で行くには長い坂。 そしてあいにくの向かい風。 やっと到着したころには汗まみれだった。 久しぶりに汗をかいたのか、展望台の景色がきれいだったのか、風が気持ちよかったのか、 分からないが、爽快さをすごく感じて定期的にやりたいなと思った。 クラーク像前はめっさ人混みができていて、密を極めていたので、写真を撮るのはやめておいた。 なんとなく、北海道にいるうちに像の写真を撮ることはなさそうだ、と思った。 その後は帰りの下り坂と追い風を楽しんで、無事札幌に戻った。 あのクラーク像、北大にも一つ置いたらいいのになあ。



2020/08/06 (Thu)

間を大切にする人は居心地が良いと思う。
会話のテンポが良く合う気がする。
間は言葉で伝わらない気持ちを伝えている気がする。
おもしろい。

振り返り2 - 写真
2020/08/04 (Tue)

写真という発明はどれほど人を幸せにしただろうか。 もしくは悲しませただろうか。 古代人のころには壁画、紙ができると絵画として、 写真ができるより前にも人は過去を切り取って写してきた。 それほど過去の描写は本能的な働きなのだろう。 写真を見て、過去を振り返ることで様々な感情が生じる時、 先祖代々と受け継がれてきた 人類の生きる知恵を感じている瞬間なのかもしれない。
とまあ色々思ったが、最終的には最近会ってない友達に 会いたいなあということでした。

振り返り
2020/08/04 (Tue)

ふと、自分がラインやTwitterに打った文章を 別の誰かも分からないような他人が見たとして 客観性に欠いた文章だと思うのだろう。 1年くらい、自分の言いたいor書きたい言葉をつらつら並べていただけで、 自分の発言や文章が誰かを傷付けたとしても、 それは仕方ないことだと割り切っていたが、 近頃直す必要があると思い始めた。 主観的な意見は一見相手の感情に訴えかけ 言いたいことを伝える効果が高いと思っていたのだが、 一番効率的に、真に、自分の伝えたいことを相手に伝えるためには 客観的な発言や文章である必要がある。 と、母とラインをしている時にふと思った。
いつもありがとうございます。

夢を語れ
2020/07/29 (Wed)

昨日夢を語れというラーメン屋に行ってきた。 二郎リスペクト系で、野菜ニンニクマシマシにしたせいで非常にボリュームがあった。 いや、本当に今まで食べたどのラーメンより量が多くてビビった。 写真を取っておけばよかったと後悔している。 その分食べ終わった後の達成感がめっちゃあって、 おいしいというより嬉しいに近い感覚を味わった。 いつか夢を語れで夢を語れるほどの夢を持ちたいものだ。 (後日大量の糞が出たため、なお一層ビビった)

シーチキン
2020/07/28 (Tue)

シーチキンはたまに箸でつまんで食いたくなる。
自分は人間なので、何か料理にすべきなんだろうな、と思いながら開けてもそのまま食う。
開けた時のにおいが完全に猫のエサであり、猫になった気分で食べるのが好きなのかもしれない。
ところでシーチキンという名前だが、コンパクトで馬鹿っぽくて良い名前だと思う。
自分が猫になってしまう理由も分かる。
マグロの缶詰というつまらない名前で売る国に生まれなくて良かったとしみじみ思った。

4連休の2日目
2020/07/24 (Fri)

久しぶりに日記を更新する。このところ更新を怠っていたため、またしっかり書いていこうと思う。
今年の7月は23から26日に掛けて4連休がある。 みんな遊んでどこかへ出かけるのだろうか。 いや、このご時世遊びに行くのは億劫かもしれない。 自分は、全く4連休を味わっていない。 というのも研究室にいると祝日でもゼミや授業があったりするので休みという気にならない。 その分平日が祝日のような日ばかりだが・・・。 世のほとんどの大学院生は同じことを感じているのかもしれない。 だがそれを言うと俺はお前とは違う、と怒る人が割といると思うのであまり大声では言わないことにする。 こんなことを書いていたら、 「〇〇は△だ。だが違うかもしれない。」構文がめちゃくちゃいっぱいあって 自分は他人の評価を凄く気にするんだなあ、と実感した。 ところで以前、読むと書くについて考えたいという旨の日記を書いたと思うが、 最近購入してしまった本にその答えを見つけた (自分で考えろ)。 以下「詩を書くってどんなこと?/若松英輔/平凡社」から引用。

「メモ」するとき、私たちはすでに記す内容を知っています。(略)
でも、「書く」という営みは違います。私たちは、書いてみてはじめて、自分が何を考えていたのかを知るのです。 出せなかった手紙を書いた経験はないでしょうか。
手紙を書くときから出さないつもりで書いたのではなく、書くことで思いを超えた文字がそこに現れたから出せなくなったのです。

つまり、書くことは自分の感情を吐き出すという訳ではなく、自分の深層心理に明かりを照らすことだ、と述べている。 また、読むことに関しては

もう一つ、書けないと感じた時は「読む」ときでもあります。すぐれた詩は、読み手に「書け」と促します。

と述べている。ゆえに読めないと感じた時、「書く」時でもあるということだろう。 以前感じた読み書きの関係性は詩という芸術を通じて理解することができた。 そもそも「書く」がベースにあるべきだということは肝に命じるべきだろう。 私たちは自然に「空気を読む」という行為を行うが、それは感情を「空気に書けない」と感じているからかもしれない。 読みたいと感じる衝動は書きたいという本来の衝動の写しだとしたら、 まずは書いてみたほうが良いんだろう。
溜まっている積読が沢山あるんだよなあ。
でも、先に書く。
それから積読消費です。
いいのが書けたらここにもいつか載せます。

最近のこと
2020/05/29 (Fri)

最近はM1になってからかなり忙しい。 授業, 研究室の仕事, 研究, 就活・・・など休みが全くない。 そのせいでブログを全く更新できていないので、言語化していくことを忘れそうになる。 良く忙しいという字は、心を亡くすと書くというが、まさに今それを実感できるほどに忙しい。 タスクをこなしていく作業においては、感情を生み出すことが難しい。 感情を生み出さなければそのうち溜まった疲労が爆発してしまうだろう。 日々のちょっとした出来事に感動したり、ニュースを見てそれに関する意見を考えたり、 感情を生み出そうと努力することはいくらでもできる。 ブログを書く、ということで、そういった努力をするモチベーションに変えていけたらいいと思う。

本を買った
2020/04/14 (Tue)

最近の自粛ムードからやることが本当にないため、本をもっと読んでおこうと思い、本を買いに行った。 買い物についてはどの程度許されるのだろうか。 本を買う、は不要不急であるのだろうか。 僕の世界に対する認識が正しければ本を読まなければ死んでしまう人は世の中に確実に存在すると思う。 まあ、とにかく新書を2冊、一般書を1冊買った。
一つは「欲望の時代を哲学する/マルクス・ガブリエル著/NHK出版新書」という本だ。 先日なんとなくテレビを付け、なんとなくNHK教育にチャンネルを合わせたところ、哲学、という文字が目に入った。 哲学にこれまたなんとなく興味があったので、ぼんやりとそのチャンネルを見ていた。
…これが面白かったのだ。
マルクス・ガブリエルという思想家は近年流行っているらしい。 なんでも自然科学を厳しく批判する立場の人とのことでより興味が惹かれた。 二冊目は「自己愛と献身/ハビエル・ガラルダ著/講談社現代新書」である。 この本は本棚でふと目に入った本で、適当に開いたページの文章が強烈だったため、購入を決めた。 その文とは

G・マルセルは「愛は、今の気持ちよりも方向性である」という意味のこと書いた。~相手のために自分が何になりたいのか、 相手が自分のために何になって欲しいのか、力を合わせる二人が一体何を作り上げたいのか、というような目的に憧れて、 そこに導くダイナミックな方向性に従っていっしょに進む向上心こそ、フェイス・ツー・フェイスに満ちたサイド・バイ・サイドの旅であり、 愛の最も大事な方針なのではないだろうか。」 (p.93より)
という文である。愛を語るのは無粋だと僕は思っているが、愛とはいったいなんなのか、大人が文章でちゃんと教えてくれたことがあっただろうか。 僕はこれを読んでマイ兜に愛という文字をつけようと思う。
最後は「音楽は何を表現するか/柴田南雄 著/青土社」だ。 音楽と文化の繋がりについてのエッセイ集といった感じの本だ。 ありがちなテーマだと思ったが、実際には生活との繋がり、自然との繋がり、様々な視点から時に面白おかしく書いてあるので、軽い気持ちで購入した。 実際このページに書いてあるような感じに似ていて、僕の文章を書く際の参考になるかもしれない、と思って買った気持ちもすこーしある。
考えながら読む本、感じながら読む本、とタイプの違う本を買ったのでこれで1か月分くらいもってくれるといいと思う。
 

趣味
2020/04/11 (Sat)

僕は暇な時間があると、結構な確率で将棋をする。 将棋に掛ける時間は長いが、実のところあまり上達はしていない。 3年程度やって1級なので、センスはないと思っている。 だが、これでいいんじゃないかと思う。
普段将棋を指す場所はオンラインで、実際に戦う相手と顔が見えるわけではない。 どこの誰がどういう気持ちで指しているかなんて全くわからない。 だからマナーも悪い人が多いし、戦った後の感想戦もできない。 こういった理由から、オンラインの将棋は確かに2人で行うが、1人で楽しむものになっている。
僕は普段将棋が趣味だと公言してはいるが、自分から環境を整えることはしていない。 強くなろうという気はあるが、所詮はその程度の熱量で取り組んでいるのである。 これが、僕の将棋に対するモチベーションである。
1人でしか楽しまないことを趣味と言っていいのだろうか。 結果的にどんな趣味であっても、誰かとの関わり合いがあって初めて楽しいと思うようになるのではないかと思う。 そういった意味では、ずっと一人で趣味を続けていたら、いずれその趣味に飽きてしまい、趣味でなくなってしまうだろう。 共有できる仲間を作ることでしか、自分の趣味を守ることができない。
環境が良ければ、もしかしたら共通の趣味を持つ人が近くにいるかもしれない。 そうして他人と共有するタイミングがどんどん増えていくだろう。 しかし、近くに誰もいないのなら自分で環境を作るしかない。 自分の趣味は自分で守らなければならない。
将棋を一緒に深めていこうという仲間は今のところいない。 だが、浅く続けて、飽きたら他のことをして、またそれも飽きたら将棋をして、というように続ける分には、仲間もいらないのかな、と思う。 そういう志の下で続ける将棋を趣味と呼ぶのは、いささかおこがましいことだと思うが、 なんだかんだ言って、結局自分が楽しんで、何年か続いてるのだったら趣味と呼んでしまって良いのかもしれない。
要は日本語の問題なんだろう。


CoCo壱
2020/04/04 (Sat)

今日は昼くらいに起きてヒルクライムをした。
嘘である。
昼くらいに起きて動画を見ていた。
ゴミである。
ゴミといえば、授業料免除の書類提出をし忘れてしまったムーブもゴミである。 ゴミゴミ言ってるが、ゴミよりもゴミを入れるゴミ箱の方がかわいそうな気がする。 ゴミをまとめるために生まれてきた箱。
ゴミによって生かされているのである。
ゴミが無ければゴミ箱は存在できない。
ゴミも考えようによっては必要な存在なのだろう。
そしてそんな日、必ずと言っていいほど近くのCoCo壱へ来て、ポークカレー2辛を注文する。
どうでもよいが、"近く"とか"辛"とか打ち込む度に地殻やら殻やら出てきてなんだかうれしい。
CoCo壱の店のジャンルは自称「カレーハウス」である。 カレー屋とか、カレーショップとかではなくハウスというところが僕は好きだ。 ハウスであることによって、「私たちはくつろぐ空間を提供していますよ」という意思があることが分かる。 僕はその意思を存分に感じているため、かれこれ2~3時間ずっとCoCo壱の座席でタスクをしている。
今まで盲点だった、カレー屋とカフェの融合。 CoCo壱のターゲットは僕のような大学生にドンピシャで当てハマっている。
悔しいが、ありがたい。


アウトプット
2020/03/20(Fri)

普段作業時間に本を読んでいると、ふと読むのをやめてホームページ作りをする時がよくある。
ずっと本を読んでいると気が滅入ってくる気がしてくる。 かといって生産性のあることをしなくてはな、という思いからホームページ作りをする。 (ホームページ作りが本当に生産的かどうかは一旦おいておこう)
しかし、ホームページ作りも飽きてくると今度は本を読み始める。 こうして読むと書くを何度か繰り返す。
勉強に集中する条件として、「読む」と「書く」がベースにあるなあと感じる。 そこでそれぞれがどういう役割を持っているのか、考えてみた。
…が考えてみてよく分からなくなったので、もう少し時間をおいて考えてみる。


サーモン
2020/03/19(Thu)

刺身の中だったらサーモンが一番おいしいと感じる。
とろけるような脂身と甘い味が相まっていくらでも食べられてしまう気する。(鮭だけに)
サーモンに似たブリもなかなか好きだ。
歳をとると脂の乗ったものが苦手になるというが、サーモンが苦手になるのはいったいいつなんだろうか。 嫌いになったその時、自分は成長したなと感じるのだろうか。 いつまでもサーモンを好きなままで居たいと思う。


登別
2020/03/17(Tue)

昨日まで登別に行っていた。
車で片道3時間、苫小牧を経由して登別の地獄谷に到着した。 地獄谷は自然の力だけでこのようなごつごつした姿になったのだろうか。 人為的にごつごつさせたわけではないのだろうか。 実際に爆発したシーンを見てみたいなあ。 と来るたびに思っている。 ちなみに登別に行くのは3回目で、泉質にすっかり魅了されてからは他の温泉では満足できない体になってしまった。
今回、1泊2日の旅だったので旅館を予約していたのだが、コロナの影響でそのホテルでキャンセルが続出したらしく、格安で泊まることができた。 実際は旅館はカルルス温泉の方で、地獄谷の硫黄泉を愉しむことはできなかったが、景色はとてもよく、においも懐かしいにおいがしたため、かなりくつろいで過ごすことができた。 取り立てて大したこともなかったが、こういう何も考えない旅行というのは定期的にすべきイベントだと思う。 旅行に行ったからにはなにかしなければならない、という人がいるが、あまり行動が合わないことが多い。 いつか一週間くらい何もせずにどこかに泊まるイベントとかやってみたいが、一人だと寂しいと思うので、だれか一緒に行ってくれる人がいたらやってみたい。

かいじ
2020/03/09(Mon)

昨日、Pythonの勉強会があった。 将来的にPythonを使えるようになっておいた方がいいかな、という考えからなんとなく始めたPythonだが、どうやら中目標として掲げている、相関を取る作業はbashで行った方がよさそうだ。 bashはどこ行っても使うだろうし、今からファイル操作の勉強しておくに越したことはないだろうな。
ところでPythonの勉強会の最中、ふと院の書類提出の話になった。 僕は昔からこういった``期限に間に合うように書類を提出するイベント"が本当に苦手で、よく提出期限を過ぎてしまっていた。 今回も例のごとく、3月12日提出期限のところ、3月6日までなにもしなかったせいで、たった今東京駅から高尾駅行きの電車でこれを書いている。 つまり、必要な書類を北海道で用意することができなかったのだ。 コロナの影響もあって、不要不急の外出は避けるべきだったがやむを得ず、東京に帰ってきた。 うーん、めんどくさいし、なんか申し訳ない。
成田空港から東京駅につくと、見慣れない電車が2番線にいた。 よく見ると、この電車はかいじらしい。 あまり帰りたくなかった思いもあったからか、僕はふと乗っていい気分になりたい、と思ったため、急遽乗ることにした。
かいじの中は成田エクスプレスと似た広々スペースのコンセント付きの席であった。 Wi-Fiは成田エクスプレスと変わらずない。 八王子行きなので、止まる駅は新宿、立川、そして八王子だけである。 通勤快速に似ているのかもしれない。 お酒が飲みたかったのでハイボールとプリングルズを買って開封。
うーん、この優越感。
御茶ノ水で電車待ちする若者らを低速で走るかいじが煽っていく。
高架から見下ろす新宿はとても滑稽に見える。
まあ、少しはいい気分になった。
そうこうしているうちに立川から八王子区間に差し掛かった。 ここから先は高校の頃の通学路だ。 かいじは揺れが少ないとはいえ、毎日通った道だけあって、景色と電車の揺れ方のリンクを覚えている。 この揺れはあそこ、この揺れ方はあの橋...。 この区間を通るたびに電車で感じた些細な出来事がよみがえってくる。
たまにはかいじでゆったり過ごしてみるのも悪くないと感じた。

日向坂46
2020/03/06(Fri)

最近、日向坂46にハマってきた。 頑張っている姿を見て元気をもらっています。 自分は松田好花さん推しです。
ところで、おじいちゃんは僕によくメールをくれる。 僕が研究室に配属される前は、気象系がやりたい、と言っていたからか、毎週のように気象系のニュースをメールで送ってきていた。 研究室に配属されてからは、宇宙系だ、と言ったので、はやぶさ関連の記事をよく送ってくる。 そしてメールの最後には決まって、洋哉から元気をもらっている、と書いてある。
少し前まで、元気を誰かからもらう感覚が分からなかったので、どういうことなんだろう、と思っていた。 しかし、最近ようやくその感覚が分かってきた。 それは、松田好花さんを見ていて気付いたのかもしれない。 日向坂の松田好花さんは、自分だったら絶対にやりたくない、できないようなことを平気でやって、笑顔を絶やさずに振る舞っている。 芸能界という上下関係のキツい世界、挨拶を忘れたら怒られたり、時間の厳守も当たり前だし、自分の体調のケアも同時にしなければならない。 自分の弱さをさらけ出して、他人に笑われて、辛いことばっかだろうにそれでも笑顔を絶やさない。 凄いな、と同時に自分も頑張らないと、という気持ちになる。 これが元気をもらうということなんだ、と最近分かったのだ。
アイドルにハマるなんて自分はないだろうな、と思っていたのだが、アイドルにハマる人の気持ちがようやく分かった。 と同時に自分も誰かのアイドルでなければならないことも分かった。 元気を貰っていると言ってくれた祖父にとって、自分は元気を与える義務がある。 松田好花さんが僕にとってのアイドルであるように、僕は祖父にとってのアイドルでなければと思った。 かといって何ができるのかわからないが、とりあえず帰省したら、Wiiでも一緒にやろうかな。
しかしこんな恥ずかしい文章よく書けるな…(ハスり)


還元的な人間
2020/03/03(Tue)

今日は久しぶりに研究室で論文を読む日にした。 僕はそういう集中する日はたいていコーヒーを飲む。 濃さは割と適当です。 コーヒーのカフェインで落ち着いて文章を読めるので、割と頼ってしまう。 新歓で新入生と喋るときに酒を飲んで人見知りをなくすようなトビ方に近いものがある。 ちなみに新歓は歓迎するのが苦手なのであまり好きではない。
酒とかコーヒーとか飲むとたいていトイレが近くなると思うのだが、そうやって体内から水を排出することで、身体は脱水していく。 水はよく知られているように酸化力が割とある物質だ。 ということは、脱水した身体は水が少なく、還元的な環境にあるんじゃないか、とふと思った。 そして、地球における還元的な環境といえば、生命が誕生しやすい、原始的な状態である。 つまり、地球の昔の、幼いころの姿である。 酒やコーヒーを飲んだ人間と生命の誕生の場には実は還元性という点でアナロジーがあったのだ。
ここまで言えば還元的人間の体内ではなにが起こるか、もうわかると思う。

新たな生命が誕生しているのである。

つまり、クリエイティブな状態ともいえる。 還元的な状態な時、何かを生み出すために十分な環境なのである。 これは、酒やコーヒーを飲むことがクリエイティブな行動に適していることを示唆している。 よく酒やコーヒーを飲んでいると作曲や執筆が捗るという人がいるが、これは還元的な環境になっていたからなのだ。
........
論文読むか。
そもそもこんな文章書いている時点で文章の2文目が嘘だし、クリエイティブになることが論文を読むのに必要な状態ではないだろう。
てか逆に事実はどこですか。
明日はもっとましな文章を書こう。
ちなみに中心寄せするときは<center>タブでできる。

卒業旅行
2020/03/02(Mon)

コロナが流行るよりも前に、部活仲間とタイに行こうと決めていたのだが、飛行機が飛ばなくなったとのことで、電話が来て、企画がなくなり、支払いも全額返金となった。 初めての海外旅行になる予定だったので楽しみにしていた分、残念だった。 旅行会社は大ダメージを負ったんだろうと思い、いたたまれない。 しかし、いろんな旅行が取りやめになっているのに、全額返金してくれる余裕あったんだなと感心した。 飛行機が飛ばないという連絡を受けた時、旅行会社側も躍起になって金を絞ってくるだろうな、そん時はこっちも強気で行くしかないな、なんて思っていた。 そして、僕はひねくれているため、全額返金となったときは嬉しさと同時に、ま、当然だろう、なんてことを思っていた。 いざという時、その会社がどんな行動をするかは、そこが信頼できるかを伺うチャンスだと思う。 しかし巡り巡って会社側に返ってくる利益もあるとわかっているのだとしたら、世のため人のためは偽善になりうるのかもしれない。 旅行会社にしてもらった返金(ありがたい)はどこまでが相手を思ってのことなのだろう、そして会社の将来のためではない、とどれほどはっきり言えるだろうか。 会社の行動理念はあくまで会社の利益が根本にある。 本当に人のためを思うなら今の時代農業でもした方がいい。 これは会社に限らず、人でも同じことが言えるだろう。 人の行動はどこまでが計算で、どこまでが本心で決められているのだろう。 少なくともその人が規範を決めるしかないのだろう。 人間はどこまでも自分勝手であるしかないのだろう。 タイに行けなくなった悲しみはどの割合で本心なのか、ふと考えてしまった月曜日だった。
03/06追記


コロナ
2020/03/01(Sun)

昨日コロナビールを飲みました。
コロナウイルス流行ってるけど、負けずに頑張ってほしいなと思います。
コロナに負けるな !



歩き方
2020/03/01(Sun)

最近、新しく特技を見つけた。
遠くの人を誰よりも早く認知するというものだ。 僕はもともと遠視で、遠くのものほど見えやすい目を持っていたからかもしれないが、友達と一緒に歩いているとき、遠くからやってくる人が誰なのか、割と遠くにいても認知するときがある。 (話に集中していないだけかもしれない。) しかし、顔を把握したわけでもないのに、なぜその人だと予測できたのか、疑問に思った。 そしてすぐに歩き方なんじゃないかと思った。 確かに背格好も重要な要素だが、よくよく人の歩き方を観察してみると、みんな違うし面白いなと感じた。 そこで身近の人達の歩き方を思い出してとその人のパーソナリティを比較してみた。 その人の歩き方がパーソナリティに大きく反映されるとしたらもっと面白いとおもったからだ。
まず気になった点は、歩く時の音の大きさである。 つまり、かかとを擦る歩き方をするか否かという点である。 これはかかとを擦る人ほど、自信家であるような傾向がある気がした。
次に全身への影響である。 これが強い人ほど楽観的である気がする。 横揺れや縦揺れ前後揺れ様々だが、これらの動きが強いほど楽観度も上がりそうだ。
歩く時の視線も大事だ。 これは結果的に姿勢を決めるため、歩きに大きく影響を与える
また、歩く速度は思考の速さに影響を与える気がする。 速いほど浅く広く速く、遅いほど深く狭く遅く思考する人が多い気がする。
人は見かけによらない、と思っているが、その見かけは意図的に変えることができるからだと思う。 歩き方は見かけの一部だが、ほとんどの人が意識するはないので、少なからずその人の心理を反映しているのではないかと思う。 いずれにしても、人の歩き方が違うということに意識して町を歩いてみると、いろんな人がいるんだなと思えて面白い。
明日当たりにそうした論文がないか漁ってみよう。
20200303一部訂正



日記
2020/03/01(Sun)

友達がブログをやっていたので、せっかくだし僕もやってみようと思い、ここに日々思ったことを書いていこうと思います。
ツイッターで書けないほど長い文章を載せたいと思ってます。
というか、感じたことをもう少し深く考えるために書こうと思ってます。
よろしくお願いします。

今日の日記
2017/4/27

(この日記は部屋を掃除していた時に4つ折りのプリントが出てきて その中に書いてあったものである。 これを書いた当初は自分がまだ20歳、大学2年生のことである。 これを読む限り、当初の自分は ヨット部で1年を過ごし、自分は大人になったと感じ、絶望しているようだ(笑)。 晒すのは恥ずかしいが、自分が生きていた証をどこかに書き留めておきたいと思い、 ここに記す。)

今日はいろいろなことがあった。〇〇 (怒られたら怖いので名前は伏せる)と別れて三日目、 寂しさを感じることはないが、どこか物足りなさを感じている。 昨日は入部コンパがあったため三度寝、七時半起きで一日中ボーっとする感じがある。 そしてそのせいもあるのか、ずっと何か大切なことを忘れているような 気がしながら過ごしていた。

一年前の自分の日記を見返して今日日記を書こうと思ったのだが、 実際こうして書き連ねてみると、自分はなんというか、 丸くなったというか、個性がなくなったというか、 前もっていた瑞々しい感受性というものが喪失している気がする。 これが大人になったということなのだろうか。 最近は物事にたいして興味関心を持つことがなくなってきて、 無味乾燥な日々を送っている。 実際、刺激的な出来事は自分の身の回りではおこっていはいる。 しかしそれらがそこまで自分の感情に訴えてくるものがなく、 今は安定した生活ができることが幸せであると感じるようになった。 本当に何か悲しい。寂しいとは感じないが、感受性が削ぎ落されている様子が 悲しい。悲しい。

しかし、こんなことを書いていても明日はくるし、やるべきことは沸いて出てくる。 明日は全休でなにもすることがないとはいえ、そろそろ自己投資をする時期でもある。 将来を考えることは生きることと同じである。 目を背けたい気持ちは山々だが、しっかり向き合っていくべきだ。

そんな中で、やりたいこと、やるべきことが今明確に見定められずにいる。 初心忘るべからずとはよくいったものだ。 自分が今一番達成したい目標は何か、わからずに過ごす毎日である。

思考が内向きである。いわば根暗であるということだ。大学へ来たら 変わるだろうとは思っていたが、結局は変わらないのである。 変わろうとしていないからである。ヨット部に入ったら変われる と思っていたのが間違いであった。こうして懺悔の分を書いたりしてる あたりが証拠であるといえよう。

ここまで書いてきて、何も生産的ことを書き出せていないので最後に 何か生産的な事を書いて終わろうと思う。とりあえず、 自分が興味をもっていること、好きなこと、熱中できることは何か 書き出し、それに consentrate することを心がけよう。 自分は、女の子が好きである。話していて楽しい。 可愛ければだれでもよい。 (補足: ここら辺はかなりぶっちゃけている・・・ハズすぎる。) それから共感することが好きである。 その人と通じ合えた感じがするからである。ギターは、ちょっと めんどくさい。音は大好きだ。ピアノはジャズピアノがイカしてる。 本は風の歌を聴けが好きだ。 横浜や港町に住んでみたくなる。 いつ読んでも胸が高鳴る思いを感じ取れる。 黒いパーカーが好き黒コーチジャケットと組み合わせて 全身黒マンになるのがイカしてる。 友達はT(これも名前は伏せる)が一番心を許せる。やっぱり自分はなんだかんだ 感覚派だ。実家は嫌いだ。圧迫感を常に感じる場所だからだ。 そして特に会いたい人もいない。 しいて言うならM(同様に名前は伏せる)くらいだ。おっといけない、 またネガティブな思考になりつつある。意識していないとそっちの 方向へ向かっていくのは悪い癖だ。はあーもう眠いので終わって風呂入って寝ます。
では、また一年後書けたら書きますか!

秋葉洋哉

補足 :
意外と昔と考えが変わってないんだなあと感じた。 ネガティブは変わらないという考えは今も変わってない。 周りのものを好き、嫌いで仕分ける作業は昔よくやっていた事を思い出した。 自分の感情を的確に言葉にできなかったがゆえに、中途半端な気持ち無しの、好きと嫌いのみで身の回りの物事を 分別することで感情を明らかにしようとしていたのだ。
今となっては、全くそのように仕分ける作業をすることも無くなってしまった。 必死で他者と関わろうと、何かに追われていた感覚を思い出した。
自分は変わらない。昔の自分がプリントした文章を、今の自分が追ってタイピングしてみると なんだろう、その頃の自分の脳になる、というか、 いままで使い方を忘れていたニューロンが、復活したというか、 具体的に言うと、その時に履いていた靴、着ていた服、 ハマってた癖、ルーティン、その他すべての自分の行動を 今そのまま想像でき、復元できると思えてくる。
ものすごく、不思議な感覚だ。
2020/01/30 (Sat) 記す

私の今日の日記
2016/4/23 (Sat)

(上の日記と同じ時に出て来たものだ。こちらは19歳、大学1年生の時のものだ。同様に記しておく。)

今日は朝10時に起きた。目覚めは悪い。おなかに毛玉がたまっているようなけだるさ を抱えながら youtube を見てから11時頃ようやくアジールから抜けだし、カーテンを開けた。 (この頃は藤女子学園の目の前に住んでいたため、毎朝6時の鐘に頭を悩ませていた。)

今日の予定はヨット部の試乗会があったはずだったが、最近の新歓疲れや 音楽系サークルも回りたかったため、欠席の連絡を機能しておいた。 沖津先輩のラインの返信がないことを気にかけながら、昼ご飯を作ろうと 身支度を調えようとした。このすぐ後、僕はとんでもないことをしてしまったと 嘆くこととなる。

昨日の三限の生物の授業で確認できていた財布は四時限には無くなっていた。 この時点で焦るべきだったと後悔している。 しかしその時自分は、鞄の中のどっかに入っていると楽観視して特に気に 留めなかったのだ。

そのツケは明くる日の今日すぐに返ってきた。鞄のどこをまさぐっても黒い 長財布の合皮の質感はなく、ひっくり返しても携帯式充電器が出てくるだけだった。 僕はようやく焦りだした。もちろん財布にはお金が入っていたこともあったが、 保険証が入っていたという事実で、頭の中がいっぱいになっていた。

あとで母親に聞いたところ、保険証が必要になるのはけがをしたとき 病院側に見せる時だけで、しかも後からの提示で十分に適応するらしいのだ。 つまり持ち歩く必要が皆無であったのだ。阿呆なことをしたと、今でも悔しい 気持ちが残っている。

とりあえず家にあった3000円をもって大学へ向かったが、骨を折る結果となり、 仕方なく消費者センターへ向かった。曜日からして気づくべきだったが、そこでも 門前払いをくらうこととなった。

少し昔の話をすると、札幌に来て一週間程度たったある日、 僕は一人札幌駅を歩いていた。 ケータイにつないだイヤホンからはデレマスの曲が流れ 気分はなかなか優れていた。 新しいクラスの人たちやサークルのことを考えながらその日は終わった。

次の日の17時頃、母親に急用で連絡することになっていた。そう、全日持ち歩いていた、 キャッシュカードの入った財布をなくしていたのだ。 右も左もわかんらないような時期に財布をなくすというのは、 予想以上に応えるものである。 僕は直観的に警察へと足を運んだ。

警察では財布の特徴、自分の名前、住所など事細かく尋ねられ、僕の個人情報は 完全にデータベースに保存されたあった。

(補足: 少し昔の話、というのは4月上旬に財布を無くした話で、これからまた4月23日に財布を無くした話に戻る。 つまりコイツは短期間に2回無くしている。)

つまり今日、警察にはどうしても生きたくなかった。

秋葉 洋哉
19際  h8.5.4生まれ
北海道大学 1年
4月前半、財布を紛失。
4月後半、財布を紛失。

嫌すぎる。とんでもない阿呆にしか見えない。浪人しているという事実も含めて嫌すぎる。

しかし現状はどうしようもなく、結局係の人に案内され泣く泣く交番へと入り、 親泣かせのプロフィールを更新することとなった。 実際のところ、保険証以外にクレジットカードや、キャッシュカードなどは入ってなかったため、 不正な使われ方の仕方がほとんどないということで、とりあえずはこの案件は 落着した。

昼下がりにはギターアンサンブルサークルの体験練習会に参加した。 たくさんのギターに囲まれることができ、 午前中に下がったテンションが徐々に回復したのがはっきりとわかった。 四時頃解散し、近くにラウンドワンがあることに気づき、一人で ポップンをして五時頃帰路についた。

しかしこうして書くと暇がなさそうな一日に見えるが、実際はかなり暇で、 刺激の足りない日だと感じていた。(変な意味で刺激はあったといえるが・・・) そう考えるとヨット部も悪く無いんじゃないか、と考えながら、玄関で靴を脱いだ。

割と早くに家に着けたため、今日は自炊でもしようと思って少し遠い イオンへと再びチャリを出した。

ここまで書いて風呂に入ってめんどくなったので後ははしょって書くよ。

晩飯は鮭をメインとした和食。保険証絡みでプリントする物があるのでプリンタの設定 (この日記はそのプリンタの動作確認のために付けた) をして今に至る。

ちなみにデレステで相葉ちゃんがSレアで登場したらしいので今回の イベントだけは頑張ろうと意気込んでいます。

以上
なんか AA を打ってみたい

プリントされた文章を打ち込んでいると、 前の家に実際に帰ったかのような感覚になった。 やはり、日記はつけるだけではなく、自分で読み返すことも大事だ。
(2021/1/30 記す)